滋賀県立近代美術館
美術館規模 大
専用駐車場 有(公園の無料駐車場)
アクセス方法
JR瀬田駅よりバス
お勧めアクセス法
私はいつもJRとバスですが、駐車場が無料なので車のほうが便利な人もいるでしょう。
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展覧会レポート
「イサム・ノグチ展−世界とつながる彫刻−」 2006.7/8〜9/18
日本人の父とアメリカ人の母の間に生まれたイサム・ノグチは、国際的に活躍している現代彫刻家である。彼の用いる素材は金属や大理石など様々であるが、本展ではそれらの作品を展示してある。
作品にはいろいろなタイトルが付いているが、そのタイトル通りに具象しているというものではないので、作品タイトルがあまり意味があるように思えない場合が多い。どちらかと言えば単純に形を楽しむという色彩が私の場合は強くなってしまう。
そうして見た場合、個人的には金属素材の作品はあまり面白いとは感じなかった。やはり大理石作品の方が、私が大理石の質感が好きだという理由もあって、形態の妙を楽しむことが出来るよう思われた。私としては、単に大理石で円形を作っているだけの「真夏の太陽」が一番好きな作品だったりする。やっぱり私は現代彫刻の鑑賞の仕方を分かっていないような・・・。
「生誕120年 川端龍子展」 2006.4/11〜5/21
川端龍子は明治18年に生まれ、当初は洋画を学んだものの、途中から日本画に転向したという画家である。彼は初期には活動の場を院展に求めたが、後に院展の作風に不満を感じ、展覧会を通じて観客にアピールする「会場芸術」を志向した異端の画家であるという。
本展では龍子の初期の作品から順にたどれるが、最初はかなりおとなしめの絵を描いていた龍子が徐々に突き抜けていく過程がよく分かる。彼の作品は会場芸術を名乗っているだけあって大作が多く、観客をあっと言わせるけれん味に満ちている。確かに単に品が良いだけの日本画とは一線を画しているので、彼が異端扱いされたのは理解できる。
しかしながら彼の作品をよく見ると、単に奇をてらっているわけではないのはよく分かる。ある種のハッタリがあるのは事実だが、キチンとした技術に基づいた上での演出と言える。そのことが初心者にはむしろ楽しみやすさにつながるのである。
「近代日本洋画への道」 2005.10/1〜11/13
日本における洋画の発祥はキリスト教伝来の頃に遡るという。当時は日本布教のための絵図の需要などから日本の画家に洋画的技法を伝えたが、後のキリシタン弾圧によって一端途絶える。洋画的手法がキリスト教と切り離されて、純粋に表現の可能性として再度注目されるのは江戸時代中期以降になり、この頃に司馬江漢などのいわゆる洋画的日本画が登場する。明治以降は脱亜入欧の風潮の中、紆余曲折もありながらも、系統的な洋画教育が実施され今日に至っている。
本展はヤンマーディーゼル株式会社を創立した山岡孫吉氏による江戸から明治時代に至る日本洋画のコレクションを展示し、日本の洋画の流れを体感しようという展覧会である。展示作には先の司馬江漢を始めとし、高橋由一など多くの画家の作品が網羅されている。
個人的にはもっとも興味を惹かれたのは江戸時代の洋画的日本画である。明らかに日本画であるにもかかわらず、遠近法や質感表現などに西洋画の技法が取り入れられており、和洋折衷の面白さがある。本展の全体を通じて作品から感じられる印象は、西洋画から真摯に学ぼうとしている姿勢である。その辺りの真面目さが妙に心地よかったりする。特に最近のいい加減な現代アートに飽き飽きし始めている向きには。
「黒田重太郎展」 2005.8/20〜9/25
黒田重太郎は日本の洋画界で活躍した画家であり、後進の教育や美術関係書籍の執筆などの分野でも数々の功績を残して、関西洋画壇の重鎮とも言われた人物であるという。本展は彼の没後35年を記念する回顧展とのこと。
回顧展であるだけに、修業時代から晩年に至るまでの彼の画業を一望できる展覧会である。年代順に作品が展示されているので、彼の画風の変遷を体感することができる。うまくはあるが取り立てた個性の薄い初期の作品から、二回の渡欧によって印象派やキュビズムの影響が顕著になる一時期を経て、最終的には日本的西洋画という原点に回帰するというのが彼の作風の大きな流れになっている。
私の個人的解釈で恐縮だが、彼の画風の確立についてはキュビズムにかぶれながら、完全に染まってしまわなかったことが幸いしているという印象を受けた。もし彼がキュビズムに肩まで浸かってしまっていたら、似たような絵ばかりの量産というキュビズムの作品に多い罠に落ち込んで、結局は凡百の画家で終わってしまっていただろう。しかし彼はキュビズム的視点を経験した後に、日本画的写実に戻ってきたことで、写実における対象の形態把握に個性的な観点を発揮できるようになったように見える。晩年の彼の作品には単なる写生を超えた立体感覚のようなものが感じられるのだが、先の経験が幸いしているように感じられてならなかった。
「美術の20世紀 豊かなる表現」 2005.6/4〜7/10
本展は静岡県立美術館との共催企画で、両館の収蔵品(静岡県立美術館は江戸期の日本画が多く、滋賀県立近代美術館は明治以降の作品が多い)から20世紀美術というテーマに沿って、8つの小企画を連ねたオムニバス形式の展覧会である。最初は江戸期から明治期にかけての日本の洋画及び日本画の流れといった構成であるが、中盤以降は現代芸術的なテーマになり、終盤には女流画家(滋賀県立近代美術館がお得意の小倉遊亀である)の作品というような構成になっており、実のところは全体を貫くテーマは強固には存在していない。
序盤は司馬江漢の日本流油絵に始まり、それが日本画に与えていく影響などが流れとして見えるのでなかなか楽しめる。しかしながらやはり滋賀県立近代美術館のコレクションが主となる中盤以降は、テーマが散漫でこじつけっぽい、作品自身に見たことのあるものが多い(私は既にこの美術館は5回目の訪問だ)などのせいで、面白味が欠けてくるのが否定できない。
かなり限られた両館のコレクション内で、相当に苦労してテーマを引き出しているのは分かるのだが、やはりこうも内容に脈絡がないと少々ツライというのが本音。両館の地理的距離を考えると、単なる交換展でも良かったのではないかと思えたりするのだが。
「高田敬輔と小泉斐」 2005.4/23〜5/29
高田敬輔は京狩野家の流れを汲む、近江出身の江戸時代中期の画家である。多くの弟子を育成しているが、門人の中にはあの曾我簫白もいたという。一方の小泉斐は下野の出身であるが、いわゆる近江商人のネットワークで高田敬輔の画法を伝えられており、彼の孫弟子に当たるという。
高田敬輔の作品は過剰な装飾のない素朴な印象の絵で、小泉斐の方は端正で上品な印象の絵であり、共に良い絵であるのは間違いないだろうと思われるのだが、先週にあの強烈すぎる曾我簫白の作品を見た直後では、どうしても平凡で印象の薄い作品に思えてしまって少々ツライ。
「江戸絵画への熱いまなざし インディアナポリス美術館名品展」 2005.2/26〜4/3
アメリカには日本の美術品を収蔵した美術館は多数あるが、その中でインディアナポリス美術館は特に充実したコレクションを誇る美術館の一つである。本展はそのインディアナポリス美術館の日本美術コレクションの中から、江戸時代の絵画の名品を紹介するものである。展示されている作品は、曾我簫白の手になる掛け軸など、狩野派・土佐派・円山派などの画家による障壁画や屏風絵などがほとんどである。
日本の美術品の多くは、戦後のドサクサなどにアメリカに持ち出されているのだが、そのような事情を反映しているのか、落款のない屏風絵などについては「作者不詳」という作品が多かったのがこの手の展覧会としては珍しい印象を受けた。また保存・修復状態などが必ずしも良好と思えない作品も見受けられたのが個人的には気になったところ。
いずれも一級の作品ばかりということだが、残念ながら日本画について造詣がほとんどない私には、そのような目利きは全く出来ない。確かに数点目を惹くような作品はあったのだが、全体的には地味な印象であった。江戸期の作品は私にはあまりにパターン的にすぎるのだろうか。
「滋賀の現代作家展 小林敬生 -木口木版画」 2005.1/5〜2/13
木口木版画とは年輪の緻密な堅い木を輪切りにし、それを削って版画にする手法である。まるで銅版画のような精密な表現が可能であるが、銅版画と異なり、線が黒く現れるのが特徴である。かつては本の挿絵技術として全盛を極めたが、写真製版の発達によって実用方面での利用はほとんどなくなった。
小林敬生氏はその木口木版画に着目し、独自の芸術作品を展開してきた。彼の作品の特徴は、木口木版画の特性を生かした精密描写と複数の木版を組み合わせて壮大なスケールの作品を構成したことである。題材としては、摩天楼を背景にした原始魚や昆虫などが重なる独特の世界を描いており、イメージは「人類滅亡後に再生した自然」というところである。背景に現代文明批判的な思想が流れているようであることは容易に推察がつく。
とにかくその作品の緻密さには圧倒されるが、素人として気になるのは作品のバリエーションのなさで、正直なところ全作品が同じに見える。特に魚や虫、鳥などの個々のパーツは常に同じパターンを踏襲しているように見られ、面白くはあるのだが、その一方で退屈さも感じずにはいられなかったのである。おかげで作品を1つ2つ見れば「もう結構」という気がしたのが本音。
「コピーの時代」 2004.6/5〜9/5
従来、オリジナリティを重視してきた芸術の世界において、近年はデュシャンを始めとする引用による表現を用いた「シミュレーショニズム」という流れが存在する。本展覧会はそのような流れに乗った作品を集めている。
さて引用といっても、ただ単に便器を横倒しにしているだけのデュシャンの作品や、スープ缶の絵を並べただけのウォーホルの作品が芸術であるかというのは判断の難しいところだ。この手の作品は、大量生産大量消費の現代社会に対する一つのテーマ提示であるのかもしれないが、芸術と呼ぶには決定的なものが欠けているように思えてならない。それは他ならぬ作家自体の存在だ。
彼らの作品はハッキリ言えば、誰でも思いつき誰でも作れるそこらに転がっているものであり、作家自体の関与は極限まで矮小化されている。作家の存在がそこにない以上、それは芸術作品とは呼びにくい。文字を消したコンビニの看板を並べただけの退屈なオブジェが芸術だというのなら、世の中の事物はすべてが芸術だといって良いだろう。
またコピー作品というのは、そこに作者が作品に対する独自の解釈を加えているというが、それはあくまでオリジナル作品に載っかっての上であって、要はすでにオリジナリティを出せないことに対する体の良い言い訳のようにしか残念ながら私には感じられない。
美術に限らず、情報過多の今日ではあらゆる創作の世界がオリジナリティの欠如といった状態に陥っており、開き直ってオリジナリティを捨てるか、オリジナリティにこだわった挙げ句に、自分でしか理解できない自己満足の世界に墜ちていくかの二者択一になる場合が多い。はからずしも、そのような現在の芸術界の行き詰まりを個人的には感じずにはいられなかった。
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