国立国際美術館
美術館規模 大
専用駐車場 無
アクセス方法
地下鉄四つ橋線肥後橋駅より徒歩10分
お勧めアクセス法
隣に駐車場はあるが大抵満車。ここに来るには電車以外考えられない。
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展覧会レポート
「エッセンシャル・ペインティング1990年以降のヨーロッパとアメリカ絵画」 2006.10/3〜12/24
「小川信治展 干渉する世界」 2006.9/30〜12/24
前者は現代の欧米で脚光を浴びている画家の作品を集めた展覧会。しかしそもそもが現代アートに懐疑的な私としては、納得できる作品は全くなかった。正直なところ私の目には、無駄に大きいだけの下手な絵にしか見えない。これなら映画館の看板の方がよほど出来がよい。
それに比べるといくらか面白かったのは後者の方。風景写真をコラージュして全く架空の風景を作り上げていくという手法で、現代の映像加工技術様々という代物である。次々と変化していく人工風景はそれなりに興味を惹く。ただだから何なんだと言われると、それまでのことなのだが。
「ジグマー・ポルケ展 不思議の国のアリス」 2006.4/18〜6/11
ジグマー・ポルケとは1941年生まれのドイツ人の芸術家で、今回が日本で初めての本格的な個展となるという。彼の作品はアメリカンポップアートの影響を受けているとのことであるが、確かにドットを用いた絵画や、既製の生地などを用いてそこに描いた絵画、さらにはキャンバス一面に絵の具をぶちまけたような絵画など、「どこかで見たことがある」ような技法のものが多い。
そういう調子であるから、正直なところ凡百なポップアートの集合体の中に完全に埋没してしまって、どこが彼の個性なのかがさっぱりつかめない。私の見たところでは、最も彼の個性が現れて面白いのは、彼自身の線画にあるように思われたのだが、皮肉なことにほとんどの作品が絵の具でその線画を押しつぶしているので、一番美味しいところを自身でつぶしてしまっているように思われた。
結局のところ、表現手法にのみ溺れすぎているのではないかというのが正直な感想で、作品自体については「平凡」という印象しか残らなかった。私が以前から言っている「作家が個性を強調しようとすればするほど、総体としての現代アートは没個性的になっている」という典型のように思われて仕方ない。
「プーシキン美術館展」 2006.1/11〜4/2
本展はプーシキン美術館の所蔵品の中でも、ロシアの実業家だったシチューキンとモロゾフのコレクションを展示している。19世紀末から第一次大戦に至る時代、両者は共に事業でなした財で当時の最先端であった印象派を中心とする絵画を収集したことで知られている。彼らのコレクションは個人コレクションとしては屈指のレベルの高さが知られているが、ロシア革命後は国家によって接収され、プーシキン美術館に収蔵されている。
展示作はルノワールやドガ、モネなどから始まり、セザンヌにゴッホ、ゴーギャン、さらにはマティスやピカソに至る近代ヨーロッパ絵画の逸品ばかりである。しかも印象派から後期印象派、バルビゾン派にフォービズムに象徴派、さらにはキュビズムに至るまで、ヨーロッパ近代絵画のありとあらゆる流れを代表する画家の作品ばかりが揃っているので、一回りするだけで、ヨーロッパの絵画史の流れを体感できるという教材としてももってこいの内容である。
最大のポイントは、そうそうたる画家の作品が揃っているというだけでなくそのいずれの作品も極めてレベルの高い、まさにその画家を代表する作品と言える逸品が揃っているということである。私は個人的には、多くの画家の作品を網羅的に並べる展覧会よりも、数人の画家の作品を重点的に展示した展覧会の方が好きなのだが(作家の特徴が分かりやすい)、これだけレベルの高い作品を並べられると注文のつけようがない。最初から最後まで、とにかくため息が出るばかりであった。
特に印象に残ったのは、ルノワールの「黒い服の娘たち」。女性達のなんとも言えない柔らかい表現に、一目見るなり魅了されてしまった。実のところ、かつての私はルノワールのことを「ロリコン画家」と揶揄していたのだが、どうも最近になって彼の作品にじかに触れるうちに、だんだんと彼の作品に魅入られてしまったようである。恐るべし。
「ゴッホ展」 2005.5/31〜7/18
ゴッホと言えば、南仏に渡ってからの鮮やかな色彩の絵画を連想するだろうが、彼の画風は実は時代と共にかなりの変遷を遂げている。また彼が浮世絵の影響を受けたと言うことは非常に有名であるが、同様にミレーに感化されたり、印象派の手法の影響を受けたりと実は多彩な影響を受けているのである。本展ではそのようなゴッホの画風の変遷を、同時代の他の画家の作品などと比較することでより鮮明に浮かび上がらせている。
まずパリ時代のゴッホはミレーなどの影響によって、暗い色彩で労働者などの姿を描いている。それがやがて印象派の影響によって色彩が変化してくる。毛糸玉で色彩の研究をしながら彼は印象派の点描技法をマスターし、それと共に後の彼の代表作につながる鮮やかな色彩が現れ始める。そして彼の才能が本格的に開花するのが南仏に移り住んだ後である。そこで彼は色彩を爆発させ、独自の芸術を開花させるのである。
ゴッホの作品と参考資料とも言える絵画がまとめて展示してあるので、ゴッホについて学ぶためには非常に面白い展覧会である。ただゴッホの絵を堪能したいと考える向きには、まずゴッホの絵自体が少な目である印象を受ける(と言っても、ゴッホの作品だけで30点も展示しているそうだが)ことと、さらにもっともゴッホらしいと言える作品(いわゆるバルビゾン以降)の点数となるとさらに減少することが、少々不満ではある。
しかし最大にして致命的な問題点は、異常な観客の多さ。実際に私が行った時(土曜日)も、会場は自分のペースで歩くことが出来ないほどの満員で、絵に近寄ることさえままならないという状態。正直なところ、絵を見に行ったのか人の頭を見に行ったのか分からないという状況であり、美術鑑賞としては最悪の条件である。おかげで食い足りない印象の展覧会に、さらに食い足りなさが増してしまうという結果になった。せめて平日の昼間ならもう少しマシなのかもしれないが、仕事を休んで再訪するほどの魅力も感じなかったのが本音である(それに入館料の1500円はさすがに高い)。
「エミール・ガレ展」 2005.4/12〜5/22
ガレはアール・ヌーヴォーの時代を代表する工芸家であるが、本展はガレの没後100年と数ヶ月を記念して(100年記念の際には世界中でガレの展覧会が計画されたために、作品が集められないので数ヶ月ずらしとのこと)、彼の作品を一堂に集めての大展覧会である。主催者側の声明では「この規模の展覧会は日本国内では今後数十年はないだろう」とのことである。
主催者が大見得を切るだけあって、展示内容は充実している。有名なガレのガラス工芸品を時代を追って展示しているだけでなく、初期の陶芸作品や後に工房で制作された家具なども展示されており、工芸家ガレの作品を堪能できるようになっている。
ガラスを扱った工芸家としてはルネ・ラリックも有名であるが、ガレとラリックの作品は一見して違いが分かるが、本展を見て私は初めて「ガレはガラスを陶器の延長として扱っていたんだ」ということを理解できた。ガレの陶器作品は明らかに後のガラス工芸品とつながるセンスを持っており、ガレはより自由な加工の可能な陶器としてガラスを扱ったのではないかと感じさせる。実際ガラスの透明性を重視した作品の多いラリックに対して、ガレの作品は色ガラスや不透明なガラスを多用しており、ガラス素材の透明性はあまり表に出ておらず、むしろ形態や色彩の表現に力点が置かれている。
大胆なデザインで装飾過剰気味のガレの作品は、人によって好き嫌いはありそうである。だが一時代を風靡した工芸家の作品を一覧することで、アール・ヌーヴォーの時代の背景までが透けて見えてくるように思われる。そういう点で本展は是非ともはずせないところである。
「中国国宝展」 2005.1/18〜3/27
中国3000年などと言われるぐらいだけあって、中国は文化財の宝庫であるが、本展はその中から仏教美術を中心に据えた展示品を集めている。なお最初の1/4ほどは始皇帝陵の兵馬俑とか、玉衣(翡翠などの玉を金糸で縫った死者のための衣)などが展示されている。なおかつて上野の森美術館で出会った記憶のある文官像も展示されていたが、同一人物なのかは定かではない。
中国に仏教が伝わってたのは後漢末と言われているが、それからもその道のりは平坦ではない。中国の王朝が交代するごとに仏教は保護されたり逆に廃仏運動にあったりと非常に浮き沈みの激しい歴史を送っている。そのような歴史の変化があるたびに、仏像の様式が著しく変化しているのが非常に面白い。
またおおざっぱな流れとしては、最初は外来の宗教と言うことでガンダーラ仏などに見られるような肉感的で逞しい仏像(私が俗に表現するところの「男前な仏像」)が登場するが、それが中国で歴史を重ねるにつれて、やがて中国流に換骨奪胎されて、平板で様式的な仏像に変化していく。しかしまたあるところで突然に原点回帰してガンダーラ調に復帰するというような繰り返しを何度も行っているのである。そのような点に注目して見ていくと、特別に仏像彫刻に興味を持っていなくてもなかなかに楽しめる。
「マルセル・デュシャンと20世紀美術展」 2004.11/3〜12/19
20世紀美術の代表のように言われているデュシャンの作品を中心とした展覧会である。デュシャンは当初はキュビズム絵画などを描いていたのだが、さらに新しい表現手段を求めた結果、キュビズムとも別れ独自の道を歩み出す。そして規制の便器を用いた「泉」で物議を醸すのである。
デュシャン自身は芸術の可能性について真剣に考えていたのだろうが、その挙げ句に到達した境地が芸術の否定でしかないというのは、私には理解のしがたいところである。最高の料理を求めた挙げ句に煮詰まって、とても食えたものではない珍味を作り上げてしまった料理人の話を聞いたことがあるが、正直なところ、私にはデュシャンも同様に煮詰まってしまった真面目人間にしか思えないところがある。
ただデュシャンのスタイルは技術の否定でもあったので、安易に模倣がしやすく(何でも「それが芸術だ」と断言してしまうと芸術なのである)、結局は彼が投げかけた問いに真摯に答える者がいないまま、20世紀は自称芸術家がガラクタを量産する時代になってしまった。いろいろな意味で考えさせられる。
ところでとんだアクシデントとして、私が展覧会を訪れていた最中、停電が発生してしまったのである。デュシャンの後継を名乗っている連中の作品の中には、停電になってしまうと作品が正真正銘のガラクタになってしまっているものもあり、皮肉にもここでも「芸術とは何か」に考えさせられることになった。
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