信州編

 

☆プロローグ 決戦、七夕作戦


 この週末、ついに私は長年の懸案だった長野遠征を実行することとなった。長野はそもそも私のように美術館回りを生業としている(?)者にとっては無視することは出来ない美術館王国である。個性豊かな大小多くの美術館が存在している長野は、私にとってはアルカディアなのである。

 しかし問題は多い。まず関西からは交通の便が至って悪いこと(ハイパーダイヤで検索すると、何と東京経由で長野新幹線を使用するルートが表示されたりする)。また現地の美術館はまさに「点在」しているので、車を使用しないとそれらを回ることが不可能であることなどである。

 状況を考えると、結論としては「車で行く」しか方法がないことになる。しかし実は私は、今まで連続して車を運転した最長距離は100キロ以下という典型的な「町乗りドライバー(買い物ドライバーとも言う)」であり、遠距離運転の経験が皆無だったのである。しかも馬鹿高い高速料金を少しでも節約しようとすると、ETC深夜割引を使用するしかない。つまり経験値ゼロのドライバーが眠たい目をこすりながら長距離運転をするという無謀極まりない状態を余儀なくされてしまうのである。

 しかし現状に甘んじているだけでは進化はない。私が最終的に長野行きを決断したのは今年の初めだった。そして2006年度の各美術館の展示予定が決定する3月頃に、決行日を7月7日と決定した。これは7月後半になると夏休みで道路が混雑する危険が高いことも見越しての冷徹な計算結果である。私はこれを「七夕作戦」と命名、作戦実行日に向けて着々と準備を整えた。

 まず慣れない未知の土地を走るためにカーナビを導入した。今まで使用していたPCナビだと、大事な時にハングして自分の所在を見失う危険性が高かったからである。また当然ながらETCの装置も導入した。そして今年に入ってから、広島日帰りツアーや名古屋日帰りツアーなどを実行、着実に遠距離ドライブの経験値を積み重ねたのである(距離的には広島や名古屋の往復を片道にすれば長野に届く計算)。後は深夜運転に対する不安だが、これは「根性で補う」しか手はないという結論に至った。

 私の愛車カローラ2は、この半年ほどで電子装備系が強化され、長距離運転に備えてバッテリーからタイヤまで交換がなされた。今までほとんど予算を投入したことのない車関係の出費は私の財布を直撃し、この半年は私の金欠が加速されることとなった。実はそれだけの投資をするのなら、車で行かないでも電車で行って現地でレンタカーを借りてもおつりが来るのではないかという指摘もあったのだが、自分自身でもそのことに気づいたのは作戦実行直前であった。まあいい、人間というものはとにかく前進しようという意志が重要なのである・・・ホントに良いのか、それで?

 


☆1日目 諏訪湖、直撃


 こうしていよいよ作戦当日を迎えた。出発は金曜日、そのために金曜日に有給休暇を取得するという昨年の東京遠征と同じパターンである。しかしここに来て大問題が発生、なんと台風3号が日本に向かって来るという。幸い直撃は免れそうだが、台風で活発化した梅雨前線の影響で大雨の危険性があるという。慣れない深夜長距離運転に大雨となればそれだけ危険性は高まる。しかし今更計画変更はあり得ない。そう、男の強い意志はその程度の逆境で挫けるものではない(と言うよりも、実は今更宿泊予約をキャンセルできない・・・)。

 前日は今日に備えて9時から床についたが、突然にいつもよりも3時間以上早く眠れるわけもなく、結局は寝たような寝なかったような状態で深夜の3時に起き出した。そのまま前日にまとめていた荷物を持つと、直ちに車のエンジンをかける。ETC深夜割引を使用するためには4時までに高速道路に乗っておく必要があるのである。

 結局、高速道路に乗ったのは午前3時40分頃だった。今日の予定ではここから諏訪までノンストップで突っ走ることになる。幸いにして心配していた雨は降ってこなかった。空は曇っているものの、結局諏訪に着くまで雨にはあわなかったのである。やはりこれは私の日頃の行いの良さというものであろう。

 私の予想に反して、諏訪までのドライブは予想以上の順調さで展開した。深夜の高速を大型トラックをぶち抜きながら突っ走り、7時過ぎには中央道に突入。駒ヶ根のサービスエリアで朝食のソースカツ丼を食べて一息、8時過ぎには諏訪湖に到着した。車窓から諏訪湖が見えた途端、寝不足でハイになっている私の口から「スワスワコッコ」と怪しげな諏訪湖の歌(自作)が突然に出てくる。

 こうして無事に諏訪湖に到着、第一目的地の原田泰治美術館に着いたのは、9時の開館の20分ほど前であった。


原田泰治美術館

湖のまさにほとりに建っている

 

 原田泰治は朝日新聞にも連載された独特の風景画で有名な画家である。アクリル絵の具で描かれた切り絵のようにも見えるその絵画は、なんとも言えない情緒をたたえている。彼は日本の各地を回ってスケッチをしており、そこには失われつつある昭和の情緒が満ちている。

 元々は画家よりもデザインの仕事を行っていた人物であるだけに、事物の形態を直感的にとらえるのがうまいようであり、彼の作品にその特徴が現れている。特別にうまい絵でもないのだが、私はこの春に京阪百貨店で彼の作品の展覧会を見た時から彼の絵に惹かれており、それが今回の諏訪行きの理由の一つともなったのが実のところである。

 なお本館では企画展として「福田繁雄デザイン展」が開催されていた。福田繁雄とは原田泰治が師とも仰いだグラフィックデザイナーとのことで、彼のポスターや立体造形が展示されている。ポスター自体は特に珍しいものとは感じられなかったし、立体造形は見る方向で違った形に見えるという一発ネタばかりだった。個人的にはかつてNHKの「クイズ面白ゼミナール」のトロフィーが展示されていたのが懐かしかった。そうかあれをデザインした人物か・・・。


 原田泰治美術館を攻略した後は、諏訪湖周回ルートである。まず一番南のSUWAガラスの里(北澤美術館別館)を攻略、次に反転して諏訪市美術館、サンリツ服部美術館、北澤美術館本館と小規模美術館を順番に攻略していく。


北澤美術館

 

北沢美術館別館と本館

 

 北澤美術館と言えばなんと言ってもエミール・ガレやルネ・ラリックなどのガラス製品の展示で有名である。これらの展示は本館でもなされているが、別館にも多数展示されており、別館には売店とガラス工房も併設されている。

 

いかにもガレらしい一夜茸のランプにカエルのモチーフの花瓶

こちらは典型的ラリックのランプ(香水瓶と同じデザイン)

 

 ここ数年でガレ展の類がやたらに開催されたせいで(その中でも「北澤美出館所蔵」と入っている展覧会が実に多い)、正直ガレの作品に食傷気味だった私だが、それでもやはりここの作品は楽しめた。ただ最近はあくの強すぎるガレよりも、精緻でおとなしめのドーム兄弟の作品の方が性に合い始めている自分を感じている。

 なお北澤美術館本館にはガラス以外にも絵画が所蔵されている。私が訪問した際にも収蔵されている日本画の展示があり、東山魁夷の作品などなかなかレベルの高い作品が展示されており楽しめた。


諏訪市美術館

わびさびと言うか、単にボロいと言うか

 

 古色蒼然と言うかわびさびの世界を感じさせる美術館(早い話が古くてぼろい)。私の訪問時には収蔵品の地元の作家の作品を展示していた。収蔵品は日本画に洋画、さらには彫刻などと幅広いものであったが、今一つ面白い作品はなかった。その中で一品だけ東郷青児の絵画が展示してあったのが妙に印象に残った。


サンリツ服部美術館

北澤美術館本館の隣にある

 

 茶道具や古書画などの日本美術品と、西洋絵画をあわせて収蔵しているという私立美術館。私が訪問した時には花や風景を題材にした西洋絵画と屏風が展示されていた。西洋絵画の方については20世紀のフランス絵画及び日本人の作品。残念ながら取り立てて印象に残る作品はなかった。

 面白かったのは屏風の方。展示されていたのは館蔵品の江戸時代の作品だとのことである。屏風というのはジグザクに折りたたんだ形で立てるようになっているが、そのことによって画面が平面ではなく立体になる。屏風画はこの特徴を利用して画面に奥行きが現れるように巧みに計算がなされているということを、今回初めてまざまざと感じることが出来たのである。一枚の紙に描くと何の変哲もなくなってしまう絵が、屏風の面に描かれることで立体感を伴った奥行きのある世界として展開するのである。

 以前から知識としては聞いてはいたが、今まで実感することは出来なかったのだが、館が空いていた(観客は私一人)おかげで、ある程度距離をおいてゆっくりと鑑賞できたこと、また本館では屏風を引き延ばしてしまわずに、自然に屈曲した形(つまり実際に使う時の形)で展示していたことが影響しているのかもしれない。また当然ながら、作品の出来が良いからということも忘れてはいけないだろう。今回、屏風の正しい鑑賞法を初めて体得できた心境である。


 これらの3館を見学した頃には正午を回っていた。そろそろ昼食をとるべきだと感じたが、回りに適当な店が見あたらなかった。そこで次の目的地に向かうために諏訪湖岸を車で走って下諏訪の方へ移動する。いかにも観光地的雰囲気が漂っていた上諏訪に対し、下諏訪は古い市街地というイメージ。どことなく郷愁をかき立てる町並みである。とりあえず、下諏訪地域の目的地を周回する。


ハーモ美術館

 

中にはダリのオブジェなども

 

 この美術館はアンリ・ルソーやグランマ・モーゼスなどのいわゆる「素朴派」の作品を集めた美術館である。素朴派とはその名の通り、技巧を感じさせない素直で自由な絵画を描く画家達である。もっとも単なる下手な絵との違いも分かりにくいが。

 個人的にはルソーの絵は嫌いではないのだが、さすがに展示点数は多くはなかった(そもそもルソーは現存している絵画自体が多くない)。また他の絵画については正直微妙なところ。雰囲気は嫌いではないが、やはり単なる下手な絵に見える。

 なおこの美術館については、吹き抜けなどを多用した洒落た作りであるのだが、その作りが災いして、段差がやたらに多いというバリアフリーのご時世の対極を行く建物になってしまっていた。またやたらに隙間の多い手すりや柵の低い吹き抜けは、高所恐怖症の私には恐怖感を抱かせるものだった。足下の怪しい老人や子供などの場合は、具体的な危険につながるのではなかろうか。美術館の作りから何から、すべてが雰囲気を最優先しているのではないかと思われたところ。


諏訪湖時の科学館 儀象堂

 

水運儀象台 毎正時には設計者自ら(の人形)が解説をしてくれる

 

 諏訪湖周辺と言えば昔から精密工業が盛んで、日本のスイスなどと言われていたこともあり、かつてはセイコーを始めとする時計メーカーが多数あったことで知られている。本館はそのような時計の原理や歴史などについて展示した博物館である。また中庭には中国の北宋時代、皇帝の命によって建設されたという大型水力時計である水運儀象台を復元してあり、本館の最大に目玉となっている。

 時計のメカニズムの展示は子供などにはなかなか勉強になるだろう。また時計作りの工房などもあり、事前に申し込むと体験できるようである。これ以外でも立体映像など子供の喜びそうな仕掛けが多い。また水運儀象台はまさしく巨大カラクリ時計であり、毎正時には1日分の動きを数分で回すというデモンストレーションが行われるので、なかなかに楽しめる。ひねたオッサンが一人で行くよりも、子供連れのパパさんの方が似合いそうな施設である。

 なお館内にはアンティーク時計が壁一面に展示されていたので、その音がカチカチと頭が痛かったのが一番強烈に記憶に残っている。そういえばこういう現代アート作品に、かつて広島現代美術館で出会った記憶があるような・・・。


オルゴール博物館 奏鳴館

 東西のアンティークオルゴールを展示した博物館、実際のオルゴール演奏を聴くことが出来るコーナーなどがある。メルヘンな雰囲気があるのでカップルや女性などには良いだろうが、残念ながらオッサンが一人で行くところではない。


 ここまで回ったところで既に夕方近くなっていた。宿泊予約を入れていた民宿は上諏訪の側にあるので、また車で湖岸を引き返す。途中、下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館など立ち寄ってからさらに車を飛ばす。宿が近づいてきた時、湖岸の遊覧船乗り場という表示が目に留まった。また若干の時間があるし(午後4時頃)、やはりここは一応記念として遊覧船で諏訪湖を一周することにする。

 私は海はあまり好きな人間ではないが、湖を吹き抜ける風は海の風のように潮気でべたついていないので心地よい。なか天候が良ければ富士が見えることがあるらしいが、残念ながら今日は曇っているのでそれはかなわなかった。

もう少し天気が良ければ・・・

 

 遊覧船を降りるとそのまま宿に入った。荷物を部屋に置いて一息ついたところで、よく考えてみると昼食をとっていなかったことに気づく。そこで隣のそば屋で昼食兼夕食にざるそばをかき込む。腹が膨れて一息ついたところで、明日の朝食を調達しておく必要があるのに気づく。いつものことだが、私の遠征ではすぐに食事が後回しになってしまい、昼食抜きなどはざらである。私は自分が食欲の強い人間だと思っているが、好奇心はその食欲を上回るようである。

 どうしようか悩んだが、下諏訪を通りかかった時にジャスコがあったのを思い出し、結局また下諏訪まで車を飛ばすことになる。宿に戻って温泉を堪能した頃には今朝からの疲れがどっと襲ってきて眠気が増してくる。結局この日は夜の10時頃には床に就いたのだった。

 


☆2日目 松本−小布施−長野、炎天下の死の行軍


 翌朝は7時に起床。外は清々しい快晴である。身体の方にはだるさが少々残っているが、それよりも気になるのは足の痛み。昨日は車にばかり乗っていたような気がしたが、万歩計を見てみると1万2千歩を超えている。やはりあちこち走り回って意外と歩いていたようである。しかしこの程度の疲れなら、戦闘モードに突入している私にはなんということはない。直ちに朝食をかき込むと手早く身繕いをすませ、8時には宿を後にする。

 一泊したことで不思議なほどに諏訪に愛着の湧いた私は、後ろ髪を引かれるような妙な気持ちを抱いたが、人間常に前を向いていないと未来に進めない。直ちに移動することにする。今日の目的地は、松本、小布施、そして長野である。

 岡谷ICで高速に乗ると、まずは松本まで突っ走る。道は幅も広くて車も少なく、初めての道だが、ドライビングは流れるように滑らかである(どこかのカーナビのCMのようになってしまった)。1時間もかからずに松本に到着する。ここからカーナビを頼りに最初の目的地を目指す。松本駅前の光景は、神戸生まれの私にとっては「三宮駅前か?」と錯覚を起こしそうになる雰囲気だが、街の背後にある山並みが標高1000メートル以下の六甲山ではなく、3000メートル級の山であるというのが風景に対して決定的な違いを作っている。私には山が迫ってくるような妙な圧迫感を受ける。


松本市美術館

 この美術館は4年前に建設されたばかりとのことで、まだ建物も非常に新しく綺麗である。吹き抜けに中庭という最近の建築にはよくある構成であるが、吹き抜けが高所恐怖症の私にも恐怖感を抱かせないようになっているところには、設計の良さを感じさせられる。また建物内に自然に外光を取り込んでいるので、イメージが明るい。

 私が訪問した時には、あいにくと企画展の準備中期間であり、常設展のごく一部を見ることが出来たのみだ。本館の常設展は現代芸術系の草間彌生、田村一男の山岳絵画、上條信山の書などがあるのだが、今回見学できたのは前の2つだけである。

 草間彌生の作品については特別な面白みは感じないのだが、鏡を使った大規模な展示などは遊園地のパビリオン的で楽しめた。なお彼女の作品はこの美術館の看板となっており、美術館前に彼女による巨大な花のオブジェが展示されているのみならず、館内のジュースの自動販売機までが彼女の象徴である水玉模様になっていたのには絶句させられた。もっとも私はどうても彼女の水玉模様は生理的に合わない(気色悪いのである)のは如何ともしがたいのだが・・・。

 

美術館前には巨大なオブジェが      自動販売機まで草間彌生の水玉

 

 田村一男の作品については、最初は普通の油絵だったのが、山岳を描き始めてからだんだん抽象絵画のようになっていくのが妙な感覚を受けた。一体、彼は山を通して何を描きたかったのだろうか。


 この美術館については、諏訪湖と同様、なぜか波長の合うものを感じたので、またいずれいつか再訪したいと思った。その時には、やはり一人ではなくて彼女を連れてだろうなとふと思ったところで、自分には前提条件が全く整っていないことに気づいた。これだと永久に再訪できそうにない・・・・困った。一緒に松本を再訪してくれる女性は現在募集中である(笑)。しかしよくよく考えると、私の強行軍の貧乏旅行に同伴するような物好きな女性など、そうそういるものではないと思わずにはいられない・・・・。

 松本市美術館の後は来た道をとって返して次の目的地に向かう。高速の入り口を通り過ぎると目的地に近づくのだが、だんだんと周囲が何もない地域になってきて、本当に道があっているかと不安になる。到着した目的地は、何もない荒野の中に建物が忽然と建っていた。


日本浮世絵博物館

 

  回りは本当に何もない         中は結構ガランとしている

 

 多くの浮世絵収蔵品の中から、一部をテーマに沿って展示してある。私の訪問時には文様に注目した展示を行っていた。

 どうも展示施設と言うよりも収集・研究施設という性格のほうが強いようで、展示室自体はあまり大きくない。なお入館者に合わせてスライド説明を行っていたのは親切で、おかげで内容を理解はしやすかった。だが、浮世絵マニアでも研究者でもない私としては、学術的にはともかく作品的にはさほど面白みを感じなかったのが残念である。


 そろそろ昼前である。昼食は松本でとろうと考えていたのだが、回りを見回しても適当な店が見当たらない。そこで早々と高速に乗ってしまい、途中のSAでラーメンをかきこんでから次の目的地に向かう。なお当初のプランでは、実は松本市美術館の後は、松本城に寄るつもりでいたのだが、それをすっ飛ばして次に行ってしまっていたことに気づいたのは、帰宅した翌日であった。どうも私は、寄るべき美術館は忘れないのだが、途中に織り込んでいたはずの観光名所は忘れてしまう傾向があるようだ。

 須坂長野ICで降りてから、一般道を20分ぐらい走ってようやく小布施に着く、カーナビのおかげで道には迷わなかったが、かなり遠いなと感じた。実はETCを持っていたら今は小布施PAから降りられた(いわゆる社会実験というやつ)のだということを知ったのは、現地に到着してからだった。かなり近くで降りられるようなので、今から行くならそのルートを取ることを迷わずお勧めする。

 

 小布施は観光客が多いらしく、北斎館周辺は土産物屋なども多く並んでいて完全に観光地モード。風情も何もないので少々興ざめしたが、とりあえず車を町営駐車場に放り込んで周辺を散策することにする。


北斎館

写真には写っていないが、回りは土産物屋だらけ

 

 葛飾北斎は日本よりもむしろ海外で評価が上がった画家といっても良い(本人はそんなことになるとは思いもしなかっただろうが)。その北斎が晩年に滞在したのがこの小布施ということで、ここには北斎による貴重な肉筆画と共に、北斎が手がけた祭り屋台が展示されている。本館の最大の目玉がこの祭り屋台。そもそも建物自体がこの祭り屋台を囲い込む形で作られている。この屋台の天井画が北斎の手になると言われているが、実は天井画にとどまらず、屋台全体に北斎による指示が行われているという。

 祭り屋台については今までテレビで何度か見たことはあったが、さすがに実物は圧巻である。天井画については何となくすっとぼけた印象の竜の絵には北斎的なユーモアを、大胆に図案化している波の絵については、これまた北斎らしい表現のダイナミクスを感じずにはいられない。

 あわせて展示されている肉筆画もかなりのものである。表現のリアリティを追及したという北斎らしい大胆なタッチが魅せてくれる。驚いたのは晩年の花の絵。明らかに西洋画的遠近法が入っているのである。日本画の平面的な表現とは一線を画しており、非常に興味深かった。


 北斎館の後は高井鴻山記念館とおぶせミュージアムを回る。高井鴻山はこの地の豪商であり、自身も絵を描いた文化人であって北斎と親交があったという。北斎が晩年に小布施を訪れたのは彼を頼ってのことだったとか。高井鴻山自身の手になる絵画や、彼の屋敷が展示されていた。幕末に勤皇の志士たちを支援したという彼の屋敷には、いざというときのための抜け穴が装備されていたのが印象的。

 小布施ミュージアムは祭り屋台5つと日本画家・中島千波の作品を展示してある。ただ中島千波の作品については特別に何も感じなかったのが本音。

 小布施はカンカン照りの状態で、歩き回っているだけで汗だく、まるでサウナの中を散策しているようである。しかも小布施ミュージアムが少し離れていた(北斎館から徒歩10分ほど)ので行き帰りで脱水状態になりそうになった。現地の土産物屋のおばさんの話によると「信州は涼しいというのは他所の人の最大の勘違い」だそうな。どうやら信州で涼しいのは○○高原とかだけで、平地はむしろ昼間には蒸すらしい。

 車に戻ってクーラーボックスの中に買い込んでいた伊衛門をがぶ飲みして水分補給。夏場の車での外出にはクーラーボックスは必需だとつくづく思い知った。なお今回の遠征期間全体を通じて、私は散々伊衛門のお世話になることになるのである(サントリーのCMではない。薄茶好きの私には「おーいお茶」は濃すぎるのである。)。

 伊衛門で生き返った私は、ただちに今日の宿泊予定地の長野市に取って返すことにする。目的地は北野カルチャラルセンター。ここは明日回る予定にしている北野美術館の別館である(といっても本館とはかなりの距離があるのだが)。実は明日(7/9)にはイベントのために展示が見られないとのことなので、どうしても今日中に訪問する必要が出てしまったのである。小布施から長野市内に向けて一般道を30分ほどドライブする。


北野カルチャラルセンター

異様なまでに四角い建物

 

 北野美術館は西洋絵画及び日本画のコレクションを誇るが、ここでは「水辺のある風景展」と銘打って、西洋画及び日本画の水に関係した風景画を展示していた。西洋画ではヴラマンク、ギョーマンなど、日本画では横山大観、速水御舟など。

 やはり一番面白かったのはヴラマンクの絵画である。私は個人的には荒っぽいフォーブはあまり好きではないのだが、ヴラマンクの絵画についてはその独特の動きと光に魅力を感じるのである。実はこの効果は図録やテレビなどでは分からないもので、私もヴラマンクの作品の現物を直接見るようになって初めて感じたものである。本展展示作でも荒々しい筆遣いの奥から、水面のさざ波やきらめきが透けて見えてくるような気がして、非常に楽しめた。絵画はやはり現物にふれないといけないと言われるが、改めてそのことを痛感させられた次第。


 この後は善光寺を参拝(カルチャラルセンターは善光寺の参詣筋にある)した。善光寺には祭壇の下を回るルートがあり、真っ暗闇の中を手探りで歩くことになる(まさに自分の手も見えないという真の暗闇である)。この暗闇の中に極楽への鍵があり、それを見つけるとお釈迦様と結びついたことになるそうである。この暗闇は死後の世界を現しているとのことだが、真っ暗闇の中を手探りで歩いていると、死後の世界というよりはむしろ人生自体がこのような状態なのではないかという気がしてくる。

 もしたった一人でこの暗闇の中(いつ果てるとも知れない印象である)を歩いていれば、もっと感覚が研ぎ澄まされ、もしかすると俗世の煩悩にまみれた私も悟りの道に至ったかもしれない。しかし実際のところは、どこかの遊園地のアトラクション状態である。観光客が続々と入っていて、少し前に行くと人の背中に当たったり、少し立ち止まると後ろから衝突されるというような常に前後に人の気配を強烈に感じている状態では、一人で沈思黙考に至るという心境にはならない。

 なお私は途中で何やら音を発するものは見つけたが(私が見つけたというよりも、既に前の人がそこのところでガチャガチャいわせていた)、あれが鍵だったのだろうか? どうも鍵というイメージとは違ったのだが(鍵というか、閂というイメージ)。

善光寺は観光客で一杯

 

 この後は善光寺前で夕食代わりに天ザルをかきこんでから、宿泊予約を入れていたホテルに入る。いつもは宿泊費を極限までケチる私だが、今日はだいぶ疲れがたまっているだろうことを予想して、ツインルームをシングルで使用するという贅沢プランにしている(と言っても、宿泊料は6000円程度なのだが)。おかげで部屋は広々で心も落ち着く。元々全体的にゆったり設計のホテルなので、風呂などもユニットバスにしては広い。ただそれでも、やはり私は大浴場のほうが性にあっているなと痛感した。次の遠征の時にはこれを考慮しておこう。

 その夜は、翌日の訪問先の情報をネットでチェックしてから、長野遠征記の執筆をしようと机に向かったが、戦闘モードに突入してしまっている私では、さっぱり文章が進まない。やはり通常モードに切り替わらないと執筆は無理だと諦めて、夜の11時ごろに床に就く。(私は旅行などの時は心身が「戦闘モード」に切り替わる。一種の躁状態であり、体力・行動力などは増すが、思考力などは低下する。なおこれがさらに発展した「バーサーカーモード」も存在する。)。

 


3日目 長野、雨中の進撃


 翌朝は7時前に起床。昨日は1万8000歩も歩いていたようで、身体に確実に疲れが残っているようだが(実は睡眠中に足がつりかけた)、とりあえず戦闘モードフルバーストで心身を建て直し、展望レストランに朝食を摂りに行く。レストランは和食のバイキング形式でなかなかの美味。レストランの眺望は良いし、久しぶりにしっかりと朝食を摂り、心身ともにリッチな気分になる。

 部屋に帰った後はテレビで「所さんの目が点(略称ところてん)」を見ながら、出発の準備、8時半ごろにホテルをチェックアウト、そのまま第1目的地へと車を飛ばす。目的地は善光寺近くの小高い山の上、実はここを訪問することが今回の遠征の主要目的の1つであった。


長野県信濃美術館・東山魁夷館

 

東山魁夷館と長野県信濃美術館

 

 両館は隣接して建設されているが、実際は中でつながっており一つの建物である。

 国民画家とも呼ばれる東山魁夷の人気を反映して、なぜか全国各地に東山魁夷ゆかりの地が存在するが、長野もその中の一つである。しかしここは本人からスケッチや習作なども含めて900点もの作品寄贈を受けたとのことで、日本国内でも有数の同氏のコレクションを誇っている。私の訪問時には季節に合わせて「夏に入る(習作)」などを中心に、本画も含めた数十点を展示していた。

 東山魁夷の習作は、習作と言っても本画に劣らない完成度の高さであるのが特徴だが、本展でも並々ならぬ彼の技術を痛感させられた。習作どころかサクッと描いたと思われるスケッチでも、絵心皆無の私などには想像のつかないレベルである。東山魁夷ファンなら堪能できること請け合いである。

 ただ辛かったのは、作品保護のために本画作品については1年で公開は2ヶ月に限っているとのことで、大半の本画作品がエプソンのピエゾグラフによる複製画展示であること。作品保護の重要性はよく分かるが、それなら恒温恒湿のガラスケースに収蔵した状態でも良いので、実物を展示することは出来ないのだろうか。正直なところ、長野くんだりまで出かけて行って、複製を見せられるのでは興ざめである。いかによく出来た複製とはいえ、やはり本物を目にするのとは根本的に印象が違うことは、今まで私は散々体験している。

 なお信濃美術館のほうではヘアースタイル展というのが行われていた。明治以降の女性のヘアースタイル(いわゆるモガ)を示す写真や、理容学校の生徒による未来のヘアースタイルの展示から、果てはなぜかプリキュアのコスプレコーナー(そう言われて見てみると、確かにすごいヘアースタイルである)まである。夏休みの子供づれ向き企画ではあるが、趣旨の不明な内容であった。これなら所蔵品を展示してくれる方が私にはありがたいのだが、それは言っても詮無きことではある。


 なおこの美術館では休憩のために入った喫茶室での抹茶ミルクが異様にうまかった。地元産の低音殺菌牛乳を使用しているようだが、この牛乳が良いのだろう。都会で売られている野菜が偽物であることは以前に痛感していたが、もしかしたら牛乳も偽物なのではということを考えずにはいられなかった。

 カンカン照りだった昨日と一変して、今日は小雨が滴る天候である。鬱陶しい天気と、一番のメイン目的地にやや食い足りない印象を受けたせいで、やや気分が鬱モードになりかける。しかし、再び気分を戦闘モードに切り替えて次の目的地を目指すことにする。


水野美術館

 この美術館は、ホクト株式会社社長が収集した日本画を元にして、2002年に開館したとのこと。収蔵品は明治以降の近代日本画であり、横山大観、菱田春草などの作品が目玉となる。私が訪問した時には、美校四天王展として先の両者に西郷孤月、下村観山の作品を加えて展示していた。

 彼ら4人は東京美術学校草創期の入学生であり、後に日本美術学院などで活躍した人物である。新しい日本画を模索した彼らは、描線に頼らない新手法などを模索したが、それらの絵画は朦朧体と揶揄されて酷評を浴びた。彼らはそのような状況からさらなる模索を続けるが、春草、孤月については若くして夭折してしまう。その後、大観及び観山は日本画壇の重鎮となるが、そこに至る試行錯誤が見られる。

 彼らの若き時代の試行については、当時評価されなかったというのは私にも分かるような気もしないではない。と言うのは、新しいものを作ろうという意志は感じられるが、作品自体は私の目から見ても今一つパッとしない印象を受けるからだ。それに比べると、やはり大観や観山の晩年の作品は、形式的には昔に回帰したような印象を受けなくもないが、作品としての力は遙かに強い。本展は大家達の苦悩の跡をたどるというような面白さがある。


 この美術館では団体客と出くわした。以前にある美術館マニアのHPで「観光地化した美術館で、おばはんの団体と出くわしたら最悪」と書いてあるのを見たことがあるが、全くその通りと痛感せざるを得なかった。なんでおばはんはどこでも傍若無人に大声で話が出来るのかと驚いた次第。多分ほとんど絵に興味がないのだろう。絵はそっちのけで大声での話に興じていた模様。うるさすぎてとても絵を見れる状況ではないので、私は途中の椅子で腰掛けて嵐が過ぎ去るのを待つことになった。この美術館は比較的スペースの広いところなのだが、それでもこの有様なのだから、もし北澤美術館のような狭い美術館でこんな連中と出くわしていたら最悪だったろう。

 美術館を出る時には雨は小雨から豪雨に変化していた。その中を車を飛ばして次の目的地に向かう。途中のスーパーで伊衛門を補充し、堤防沿いの道の水溜りを跳ね飛ばしながら30分ほど走行したところが次の目的地である。


北野美術館

 日本画から西洋絵画、さらには書などとコレクションの幅が広いのが本美術館の特徴である。私の訪問時も「涼風への誘い展」と称して、一階では上村松園、鏑木清方、菱田春草らの日本画を、二階ではヴラマンクやシャガール、ユトリロ、さらにはピカソなどの西洋画を展示していた。

 美術館の規模としては特別に大きいというわけではないが、展示品の多彩さで楽しませてくれる。日本画も楽しめたが、やはり私の趣味としては西洋絵画の方に興味が行ってしまう。特に面白かったのは、やはりシャガールとヴラマンクであった。


 この後、美術館の隣の食堂で昼食をとり(もしここをもう一度訪れることがあっても、この食堂は二度と来ることはないだろう)、今後の戦略を練る。実は当初の計画ではこの辺りで3時頃になるだろうから、後は帰るだけのつもりだったのだが、予定よりも移動がスムーズに行ったせいか、まだ昼過ぎである。帰りは料金を安く上げるために深夜の12時以降に高速を降りる必要があることを考えると、今から帰路についたのでは明らかに早すぎ、高速道路内で時間をつぶす必要に迫られる。

 結局、帰路の長野ICの近くにある松代に立ち寄ることにした。松代は江戸時代に真田家の領国だったとのことで(真田家は上田を本拠にしていたので有名だが、江戸時代に国替えがあったとのこと)、真田宝物館など真田家由来の施設が多数あるようである。

 真田宝物館の展示は文書、ゆかりの絵画(なかには藩主自らの手になるものもある)、武具といったこの手の博物館に多い内容であった。私は真田家には興味を持っている人間だが、残念ながらそれは幸隆から幸村に至る時代の方であるので、やはりそっちの場合は上田に行くしかないようだ。なお付近には真田邸(現在修繕工事中)や文武学校などもあり、松代城の復元工事も計画されているとか。この辺り一帯を真田関連の観光施設にするつもりなのであろうことがうかがえた。

真田宝物館 六文銭が真田の紋章

 

 松代に行ったついでに、この近くにある池田満寿夫美術館ものぞいておく。池田満寿夫美術館は、建物はなかなか洒落た良い建築であったが、残念ながら作品の方が私には全く面白くなかった。美術館よりも印象に残ったのは、隣の菓子屋で食べた栗あんみつが絶品だったこと。思わずその店で栗かのこを土産に買い求め、ついでに通販のカタログももらって帰った。

 この時点で時間は4時頃、まだ予定より若干早かったが、もう行くべきところは行ったように思うし、天気が悪かったこともあったので早めに帰路につくこととした。天気予報で東海地方は豪雨と聞いていたが、途中のトンネルを抜けた途端に前が見えないほどの豪雨に出くわしたり、飯田付近でバンが壁に突き刺さっているのを目撃したりなどのトラブルはあったが、ドライブは概ね順調に進んだ。途中多賀SAで入浴及び仮眠で時間調整し、自宅最寄りのICを降りたのはちょうど深夜12時10分頃であった。

 なお帰宅当日の月曜日は疲労を予想して休暇を取得していたのだが、案の定私は丸一日寝たきりの状態になってしまった。戦闘モード全開で3日間突っ走ったツケはかなり大きく、私も既に若くはないことを痛感させられたのであった。

 結局2泊3日で5都市、十数施設を回るというかなりの強行軍になったが、これで信州地域の主立ったところは攻略できた。こうなると後は日本で残っている地域は箱根ぐらいであろうか。これは来年以降の課題であるが、一番問題となるのはリゾート地である箱根は宿泊施設の料金が異常に高いことか。いっそのこと保養を兼ねてリッチに温泉リゾートと洒落込みたいところだが、私の収入ではそれはかなわぬ夢というところである。

 

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