展覧会遠征 大阪編20
明日の計画を練るためにネットで調査をしていたところ、突然にロジェストヴェンスキーの訃報が飛び込んできた。ここのところ巨匠の訃報が相次いでいるが、とうとうロジェストヴェンスキーもか・・・。読響を指揮して、昨年はブルックナーの一昨年はショスタコの圧倒的な名演を聴かせてくれたのが記憶に残っているところである。一昨年は最後まで立ったまま指揮していたのに、昨年は椅子に座っていたのが気になったが、まだまだ近いうちにまた名演を聴かせてくれると期待していたのだが・・・。後もう一回ぐらいは彼の演奏を聴きたかった。今となって思えば、昨年に無理をしてでも東京まで出向いたのは大正解だったということか。この世界もどんどんと寂しくなっていく。
さてこの週末はスロヴァキア国立放送交響楽団のコンサートのために大阪に出向くと共に、東洋陶磁美術館で開催中のセーヴル展を見に行くことにした。正直なところソリストがフジコ・ヘミングというのが気になったが、スロヴァキア国立放送交響楽団を聴いてみたかったのでチケットを確保した次第。
昼頃に大阪に到着するとまずは昼食。特に食べる物が思いつかなかったので、駅前第二ビル地下の「祭太鼓」で「特ロースシングルカツ丼+豆腐定食(800円)」を頂く。
以前に食べた並ロースに比べると明らかにカツがジューシーでボリュームがあるのが分かる。ただその分、ややしつこさも出てしまうので、今日のように胃腸の調子が今ひとつの時にはややもたれる感がある。
昼食を終えると地下鉄で淀屋橋まで移動し、ここから徒歩で東洋陶磁美術館に移動する。カンカン照りでやや暑いが、日陰には心地よさがある。
「フランス宮廷の磁器 セーヴル、創造の300年」大阪市立東洋陶磁美術館で7/16まで
フランス宮廷に育まれ、その後もヨーロッパを代表する磁器として発展し続けたセーヴルについて紹介。
当初は王宮の要請を受けての作品なので、とにかく華やかで高級感が溢れているのが特徴。陶磁器は人が作り出した宝石などとも言われるが、まさに宝石のような雅やかさである。絵入りの作品が多いがこれらの絵は当時の有名画家なども手がけたものであるという。
初期はかなり雅でエレガントな印象である その後は時代の要請などを受けてデザインなどの変化が見られるのだが、一貫してメタリックな光沢を秘めた華やかさは変化していないようである。さらに近年では現代アートの影響などもあり、よりけばけばしさを増しているような印象。
それ以降の時代になると、かなり派手でゴージャスな印象に メタリックな印象のものからだまし絵的なものまで多彩 で、現在となると、現代アートの影響を受けてやや迷走気味 とにかく見るからに豪華で圧倒されるような存在感はある。ただし言えるのは日本の陶磁器のような深味はないこと。日本の茶器などは時間の経過や置かれた場所などによって風景が変わるという特徴があるが、セーヴルのような西洋陶磁はそれ自体が圧倒的な自己主張をするために、周りの風景から隔絶してしまう。この辺りは文化の違いを表していてなかなかに面白い。
美術館の見学を終えたが、とにかく暑いし疲れた。まだコンサートの開演までに時間があるので、この美術館の喫茶室に入ってアイスコーヒーとケーキで一服することにする。抹茶きな粉のケーキの甘さが体に染みいる。
喫茶で一息ついた後は、京阪でフェスティバルホールまで移動する。フェスティバルホールは一階席は見渡す限りほぼ満席。かなりの盛況である。
フジコ・ヘミング&スロヴァキア国立放送交響楽団
指揮:マリオ・コシック
スメタナ「モルダウ」
ショパン ピアノ協奏曲第1番
ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」
スロヴァキア国立放送交響楽団は11−9−7−6−4というやや小編成のオケ。そのためにそもそも物理的に音圧が不足しているところがあるのだが、その上にアンサンブルにもやや甘さがあるので、どうしても弦が前に出てこないという傾向がある。そこでバランスを取るために管をやや抑えめにしているように感じられる。
「モルダウ」ではそのようなオケの特性の上に、コシックが流れを意識したような指揮をしていたので、モルダウが湧き水の流れから小川になっていく辺りまではまずまずだったのだが、どうしても最後に大河になりきれなかったというような印象である。
フジコ・ヘミングのピアノは昨年にモスクワフィルで聴いた時と同じショパンのピアノ協奏曲なのだが、彼女が演奏後に「一昨日に名古屋で転倒したせいで腕が痛い」と言っていたのが影響したのかどうかは定かではないが、昨年以上にヨタヨタとした演奏という印象を受けた。そのためにオケは彼女の揺れるテンポに合わせるのでいっぱいいっぱいという様子であった。曲の後半にかけて徐々に演奏自体はまとまりだしたが、それでも所々つっかえた感じの演奏であり、音楽に滑らかさがない。スローテンポで演奏時間が長いのと、元々の曲自体が構造に難があることも相まって緊張感のない退屈な演奏となってしまった。
最後の新世界は例によってのご当地補正でアンサンブル力がレベル2つぐらい向上して、一番まとまりの良い演奏となっていた。ただコシックが時々独自のリズムを仕掛けていたのがあまり効果的のようには感じられなかった。ともすれば勝手に走りそうになるオケをコシックが無理矢理抑えている印象。第四楽章などでは今までやや欲求不満気味だった金管が、ここぞとばかりバリバリと鳴らしていたのが妙に笑えた。
ややテンポの遅めのショパンのピアノ協奏曲に続いて、アンコールがラフマニノフの前奏曲と、毎度お馴染みの超スローテンポの「ラ・カンパネラ」ということで、ここまで終わった時点で1時間20分経過という状況。最終的には2時間半の長時間コンサートになってしまった。しかも驚いたのは、新世界の各楽章ごとに場内で大拍手が起こったこと。第二楽章終了後に再び拍手が起こった時には場内から失笑も漏れ聞こえてきたのであるが、さらに第三楽章終了後にまで拍手が起こったのには唖然。第三楽章から第四楽章はアタッカでいく指揮者も多いぐらいなのに、こんなところで音楽をぶった切られてはたまらないと感じたのか、コシックは「うるさい」と言わんばかりに拍手を無視して第四楽章を開始していた。正直なところこんな恥ずかしいのは辻井や龍の時でさえ経験したことはない(せいぜいがチャイコのピアノ協奏曲の第一楽章終了後の拍手や、「悲愴」の第三楽章終了後の拍手ぐらい)。やはり客層がかなり特殊であることが痛感させられた。で、私の結論としては、今後はやはりフジコ・ヘミングの時は聴きに行かないということにした。
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