展覧会遠征 北陸編2
いよいよGWである。今年の計画だが、あまり遠くまで出かけていく体力も財力もないことから、比較的近場の北陸地域を回ることにした。今まで行き漏らしている山城の攻略をしながら、加賀温泉辺りでゆったりしたいというプランである。
出発は日曜日。北陸に向かう前に29日に関西フィルの定期演奏会が大阪であるので、それに行ってからそのまま北陸方面に向かうことにしている。昼前に車で家を出ると阪神高速で大阪に向かうが、今日は随所で長い渋滞が見られる。これは先が心配である。当初の予定では途中で美術館に1カ所立ち寄るつもりで早めに出たのだが、渋滞のせいで到着が大幅に遅れそうな気配になってきたので、直接にホールに向かうことにする。
ホールへは開演の2時間近く前に到着する。車をホールの駐車場に放り込むと昼食のために辺りをウロウロする。
結局この日の昼食を摂ったのは「サバ6製麺」。ラーメンと半炒飯のセット(950円)を注文。ラーメンはさば節がかなり効いている海産系味付け。最近多いタイプで、大阪の「紋次郎」のつけ麺と同系統ではあるが、こちらの方がよりサッパリ系。
昼食を終えるとホールへ。ホール周辺でKindleを見ながら開場時刻を待つ。ホールに入場すると喫茶でサンドイッチとアイスコーヒーでマッタリ。今日はデュメイのバイオリンがあるためか結構の入り。
関西フィルハーモニー管弦楽団 第291回定期演奏会
[指揮]アドリアン・プラバーヴァ
[ヴァイオリン]オーギュスタン・デュメイ
ミクロス・ローザ:映画『深夜の告白』組曲
コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.35
バルトーク:管弦楽のための協奏曲 Sz.116
一曲目はそもそも映画音楽らしいが、確かにそういう印象の劇的構成の曲。ただいささかまとまりに欠ける感を受ける。
二曲目のコルンゴルトは最近になって演奏が増えてきた曲。私も今までに数回聴いたことがあるが、今回はデュメイのバイオリンの見事な音色のおかげで、今までにないほどこの曲が魅力的に聞こえる。一楽章の美しさなどは驚いたし、二楽章の叙情性もなかなか。ただし第三楽章はいささか曲自体のまとまりがないような印象。またデュメイと指揮者のタイミングにも若干のズレがあったのが気にはなったところ。ちなみに指揮台に乗ったプラバーヴァと普通に立ったデュメイがほとんど同じ高さだったのには驚き。
最後のバルトークは私にとっては決して得意とは言い難い曲。しかしなかなか明瞭な演奏で分かりやすく、今までになく楽しめた。
コンサートを終えると今日の宿泊ホテルに直行することにする。今日宿泊するのは高島の丸茂旅館。途中での渋滞が怖かったが、幸いにして湖西道路は何度かつかえたものの(対向車線の方はずっと渋滞だった)、とりあえずチェックイン予定の6時までにはなんとか旅館に到着する。到着した丸茂旅館は昔懐かしい昭和の旅館。木造の建物は歩く度に揺れるし、六畳一間の部屋には鍵がないという構造。さすがに部屋に鍵は欲しいところ。また旅館内の随所にオーナーの趣味をうかがわせる展示が。
いかにも昭和レトロな外観の旅館内には、何やらオーナーの趣味を覗わせるディスプレイが とりあえず夕食は7時からとのことなので、それまでに入浴をする。風呂は3人程度が入れる風呂。小さいが綺麗にはしてある。
7時になると宴会場で夕食。一族郎党という面持ちの団体さんと合宿のような高校生?グループと小グループが複数。料理は結構シンプルである。味は良いがボリュームは若干不足か。病気の関係で食事量を減らしている今の私ならこれでも十分だが、昔の私なら間違いなくこの後でどこかに食べに出るべく車を走らせるところだろう。いかにも食べそうなガタイの兄ちゃん達は、やはり足りないのか飯ばかりをやたらに大盛りで食べていた。そのせいか途中で用意してあったジャーが空っぽに。
鯉の刺身以外は結構普通の料理という印象です。 夕食を終えると疲れが出てきたのか眠気が増してくる。部屋に戻ってゴロゴロ過ごしているといつもよりかなり早めに就寝することに。
☆☆☆☆☆
翌朝は5時過ぎぐらいから周囲がドタバタとやかましくなってくるが、意地で7時起床。どうにも体がだるい。朝食は8時からでオーソドックスな和食。朝からしっかりと腹に入れて体にエンジンをかける。
9時前ぐらいに旅館をチェックアウトすると、まずは最初の目的地である「清水山城」を目指す。清水山城は鎌倉時代から戦国時代にこの地域で活躍した佐々木氏の居城だったという。この地域を代表する山城の一つで、ここの訪問は以前から懸案となっており、今回の遠征のルート選定においてもこの城の存在が大きな理由の一つとなっている。実は昨年の秋にここを訪問する予定を立てたのだが、その頃にこの近辺で熊の目撃情報が多発して警戒警報が出ていたために見送った次第。宿の主人の話でも、去年は旅館の近くでの目撃情報もあったのだとか。ここのところの温暖な天候で熊が冬眠から起き出している可能性はかなりあるので、今回はそれを警戒しての装備も一応用意してある。Amazonで購入した熊撃退用の唐辛子スプレーである。
麓の運動公園の駐車場に車を置くと事務所で地図をもらって、唐辛子スプレーなどの装備を整えた上で山を目指す。しかしここで道に迷って予定のルートよりかなり外れることに。結局たどり着いたのは鉄塔メンテ用と思われる直線の舗装道路。標高の大して高い山ではないので、ここをしばらく登ると西館の西側に到着するので西館の見学をする。
左 私がたどり着いたのはここ 中央 こんな道 右 こちらの大手口の方から登ることをお勧めします 西館はかなり広い。屋敷を構えるには十二分の広さである。主郭はこの奥をさらに登ったところ。ここから山道になるが、恐らくノートは無理でも軽トラなら登れる道。この道を登ってしばらく進んだ先に主郭へ直登する急階段がある。主郭の周辺はかなり切り立った地形になっている。
左 西館の大手 中央 内部に土塁もある 右 いろいろと構造がある 左 奥の本丸方向に登る 中央 途中で目にした堀切 右 奥に見えてきた山上が本丸 この階段を登ると主郭。主郭は結構広く手前には鉄塔が立っているが、この場所はそもそも櫓があったと考えられている場所とか。主郭はL字型になっており、建物の礎石跡も発見されている。ここからは広くびわ湖までを見渡すことが出来、この地域を押さえる要衝と言えるだろう。
左 急斜面に急階段 中央 この斜面には畝状竪堀が数本ある 右 本丸上には鉄塔が 左 遠く琵琶湖までを見晴らせる 中央 本丸はL字型になっており 右 奥には建物の礎石もある 主郭から二郭に降りる道があるが、ここを進んでみると二郭との間はかなり深い堀切(5m以上はあるだろう)で区切られており、ロープが垂らしてある。これをつかんで降りていくということになるのだが、ロープをつかんだところで現在の私は左肘の腱鞘炎のせいで握力がほとんどなくなっていることを思い出す。20代ぐらいまでの頃ならロープを頼りに谷底に軽快に降りていくことも可能だったろうが、今となっては増大した体重を軟弱化した腕力ではとても支えきれない状態になっている。無理は止めて引き返すことにする。
尾根伝いで二郭に降りられるのだが、かなりの急斜面の上に最終的には堀底へロープで降りることに 一旦主郭から降りて下から二郭に回り込む。こちらも崖の中腹にわずかに道を切っているだけで足下はやや不安だが、上から回り込むよりは安全性が高い。
左 下から回り込むことにする 中央 先ほど降りることを断念した堀切 右 こちらの道も結構ひどい ようやくたどり着いた二郭は主郭よりは狭いがそれでもそれなりの面積はある。また周囲は土塁や切り立った崖に囲まれていてかなり守備の固い曲輪である。土塁の欠け目からロープが下がっているのだが、どうやらこれで下の三郭に降りろということのようだが、高さは先程の主郭の時の倍以上はありそうだし、険しさもかなりのもの。これはとても無理と言うことで引き返す。
左 二郭に到着 中央 この小高い奥が本丸 右 本丸へのルートは険しすぎ 左 反対側にも土塁があり 中央 遥か下に三郭が見える 右 このロープで降りろと言うことか・・・無理 引き返すと北曲輪群の見学へ。この手の山城は尾根筋伝いが防御の弱点となるので、その方向に尾根筋を断ち切るために設置された曲輪である。ここも主郭との間にはかなり深い堀切があり、もしこの曲輪を落としたところでやはりここから主郭を攻めるのはかなり困難だろうが、念には念を入れた防御の構えというところか。。
左 北曲輪群の登り口 中央 本丸との間はこの堀切 右 登るとこのような小曲輪が 下から見た時には標高もそう高くないと感じたのだが、主郭周辺の険しさはかなりのもので、かなり堅固な城郭という印象を受けた。全体的に見所も多く、これは私撰100名城Aクラス相当と判断できる。
左 西館を下から 中央 井戸もある 右 これが大門らしい 帰りは西館から大門を経由して大手道を降りてきた。そのまま降りてくるとテニスコート脇に出てきた。どうやら私は最初に球場の方向に向かったのだがそれが間違いで、正解はテニスコートの南の道を真っ直ぐ進み、農業用フェンスに沿って直進するコースだったようだ。どうももらった地図の記述の仕方が紛らわしかった。
久しぶりに本格山城訪問でかなり汗をかいた。やはり次の目的地へ行く前にどこかで汗を流しておきたい。そこで敦賀のリラ・ポートに立ち寄ることにする。ここは北陸トンネル掘削時に湧き出した温泉をそのまま温泉施設にしたという施設。リラ・ポートは北陸自動車道の敦賀ICの近くの山沿いにある。ちょうど北陸自動車道を目の前に見下ろす形になる。
入浴券を購入すると早速入浴。ここは高温槽と中温槽があるが、それぞれ湯が違う。高温槽は北陸自動車道掘削時に湧き出したアルカリ単純泉。ヌルヌル感が結構ある湯である。中温槽の方は1500mの地下からくみ上げたというナトリウム炭酸水素塩泉。こちらはヌルヌル感にややネットリした感触が加わる。施設としてはこれらの内風呂にプラスしてサウナと露天風呂がある。
施設の雰囲気はスーパー銭湯そのものなのだが、湯は意外なほどに本格的である。入浴料金1000円というのがいささか高めだが、その気になれば一日くつろぐことも可能ということを考えればマズマズか。立地については便利なのか不便なのか微妙なところ。
入浴を終えると昼食もここのレストランで摂っておくことにする。注文したのはとんかつの膳。福井名物ソースカツ丼を意識してか熱々の鉄板に乗ったとんかつにソースをしっかりかけるタイプ。なかなかにうまい。またとんかつに敷いてあるキャベツが意外にうまい。CP的には今ひとつだが観光地であることを考えるとマズマズであろう。
汗も流して昼食も終えたところで次の目的地を目指す。次の目的地は福井県立美術館。ここで開催されている「ターナーからモネへ」展の見学が本遠征での美術館方面での主目的の一つ。今まで各地で巡回していたが、ことごとく予定が合わなくて行けなかった展覧会。それに北陸でご対面である。
北陸道をしばし北上して美術館へ。結構観客が来ているようで美術館の駐車場は車で一杯の状態。私はたまたま幸いにして近くの駐車場に駐車できたが、もっと遠いところに回された者もいた模様。
「ウェールズ国立美術館所蔵 ターナーからモネへ」福井県立美術館で5/27まで
18世紀西洋の風景画からはじまり、その影響を受けつつ独自の風景画世界を確立したイギリスのターナー、その後に開花した写実主義絵画、そして前衛絵画であった印象派、一方で当時の主流だったアカデミズム絵画にラファエロ前派など、さらにはポスト印象派といった西洋絵画史の流れに沿った作品を展示。目玉はターナーの作品数点とモネの代表作の一つ「サン・ジョルジョ・マッジョーレ」。
なかなかに有名どころの作品を押さえてあり、それなりに見応えがある。個人的には印象に残ったのはミレーの「突風」。ありえない劇画的な突風の描き方が面白い。また意外にアカデミズム系絵画に良品あり。
以前にターナー展を見た時に、ターナーの晩年の作品がモネの晩年のようだと感じたことから、「ターナーからモネへ」と題していたのはその辺りの関わりを解説するのだと思っていたが、単にターナー時代からモネ時代という意味で、実質的には「英国ウェールズ国立美術館展」だった。なお今回はたまたま学芸員による作品解説があったので非常に分かりやすくて参考になった。この手のイベントは作品に対する理解を深めるのに役に立つのだが、時間がかかるのが難点。結局はこの日もここで1時間以上を費やすこととなった。なお学芸員によってはかなり見解が偏っている場合もあるのでそれは要注意。
展覧会の鑑賞を終えるともうそれなりの時間。今日の宿泊先へ移動することにする。今日は加賀温泉郷の粟津温泉で宿泊する予定にしている。福井から加賀温泉までは1時間以上かかる。意外に距離があるもんだ。粟津温泉に到着した頃には夕方頃になる。
宿泊ホテルは法師。歴史と格式のある由緒正しいホテルらしいが、今となってはやや老朽化が随所に見え、安ホテルにもなれず、かと言って高級ホテルで押し通すのもしんどいという微妙なところになっている雰囲気。で、私がここを選んだのも微妙に割安なプランがあったから。
チェックインの前に中庭を鑑賞しながらの呈茶サービス。この辺りには格式を感じる。通された部屋は中庭に面したなかなか良い部屋。ホテルは複数の建物がこの中庭を環状に取り囲むという独特の構造をなしている。
左 ロビーから望む中庭 中央・右 通されたのは中庭に面したまずまずの部屋 部屋に荷物を置いてホッとしたところで大浴場へ入浴に行く。大浴場は巨大な内風呂とやや小ぶりの露天風呂が併設された、この手の大型ホテルでは一般的な構成。泉質はナトリウム−硫酸塩・塩化物泉とのこと。ややベッタリした感触の湯だが、特別に強い浴感はない。湯としては先程のリラ・ポートの方がインパクトはあったか。
入浴を終えた後は買い物も兼ねて町中に散策に出る。粟津温泉自体は歴史もある温泉地のようなのだが、古来からの温泉地の常でやや寂れムードも漂っている。廃墟になったホテルなどがあったりするのがまた印象が悪い。恋人達の聖地があったり、新しく交流広場を作ろうとしていたり盛り上げの手を打っているのは分かるが、果たしてそれが功を奏するか。そもそも加賀温泉郷は山中温泉、山代温泉などもあり最初から過当競争気味だし、昨今は大阪を中心とした近畿地域が経済的にも今ひとつ低調なので、それも影響しているだろう。やはり抜本対策としては日本全体での地域振興が必要なのであるが、トップがお友達に便宜を図って偉そうにすることしか頭にない無能では・・・。
左 粟津温泉総湯 中央 粟津演舞場 右 恋人達の聖地・水の広場 左 さらにはこんな顔出し看板まで 中央 しかし背後はこれ 右 いずれはこんな広場になるそうです 温泉街を一回り散策して戻ってきたらそろそろ夕食である。夕食は4階の宴会場で会席料理。品数もあり、それなりに美味いのではあるが、特別な驚きはないというのが本音。どうしても可もなく不可もなしの普通の会席である。また全体的にサービスがドタバタギクシャクしてるのが気になるところ。格式を守り切るか、サービスを切って価格を下げるかという二者択一にいずれ迫られそうな気がする。それを失敗したら、いずれは大江戸温泉か伊東園なんかに買収されてしまう恐れも・・・。
夕食を終えて部屋に戻った頃から下半身の強烈な怠さに襲われる。今日は既に1万4千歩を超えている上に山城込みであるから相当にダメージがあるはずである。明日動けなくなると困るので、大浴場に繰り出して足を良くほぐしておくことにする。
夜になると疲れがどっと押し寄せてくるので、この日もやや早めに就寝する。
☆☆☆☆☆
昨日は10時に寝てしまったので、朝の4時になると一旦目が覚めてしまった。8時間ほど爆睡したくてもそれができないのは老化の兆候。仕方ないので後は寝たり起きたりを繰り返しながら7時に起床。
目が覚めるとすぐに大浴場へ。湯が体に染みいる感覚で快適。目下のところは下半身に少々の怠さはあるが、幸いにして足腰が立たないという状況ではない。
朝食は8時から和食。これで腹を満たしてからすぐにチェックアウトする。今日は山城巡りの予定。
最初の目的地は「二曲城」。鳥越城の向かいの山上にある出城で、鳥越城と共に一向一揆勢が立て籠もって最後まで織田信長の攻勢に抵抗したのだという。この二曲城は最近になって鳥越城と併せて整備されているとのこと。そもそも今回の遠征を思いついたのはこの城の話を聞いたからでもある。
二曲城の近くに「一向一揆の里」なる道の駅に付随した資料館もあるようなのだが、残念ながら今日は資料館は休みのようなので、そのまま二曲城に向かう。この一向一揆の里の奥に二曲城の登り口があり、そこに向かう橋の手前に車を置けるスペースもある。
登り口
案内看板によると登城路は本丸まで尾根筋を直登するルートと、谷筋を進んでいくルートがあるようである。私は尾根筋を直登するルートを選択。なかなかに険しいルートであるが、途中で三の郭、二の郭を経由して見学していくことが出来る。
まず最初に三の郭に出くわし、その背後の堀切を越えて虎口を抜けた奥にあるのが二の郭、この郭は土塁で囲われている上に、掘立柱建物跡がある。一の郭を守備する上で重要な曲輪であったろうと思われる。
左 分岐を尾根筋の方に登る 中央 尾根筋の直登になる 右 三の郭 左 二の郭との間には堀切がある 中央 二の郭虎口 右 二の郭には建物の跡も ここから険しい山道をさらに登った先が一の郭。砂利を引いた山道がスニーカーだと滑ったりして結構難儀したが、数分で登り切る。一の郭には建物跡に炉跡、また驚いたことにこんな山頂に井戸がある(今は埋まっているが)。こんな山頂の郭で水が確保できるのなら、確かにこの城はかなり堅固である。
左 二の郭の背後をさらに登る 中央 一の郭に到着 右 井戸跡に櫓跡 左 炉の跡まである 中央・右 向こうの山頂には鳥越城が見える 山頂からの眺望はかなり良い。向かいの山頂に鳥越城が見えており、両城の間では狼煙などを使うまでもなく、旗で通信することも十分可能であろう。
一の郭の裏手に九十九折りの山道が続いており、谷間の四の郭に降りてくることが出来る。四の郭の手前には石垣と空堀があったようである。なおここから五の郭につながっているように地図には表記があるのだが、鬱蒼として道が分からなかったので五の郭の見学は断念した。
左 九十九折りの山道を降りると 中央 倉跡と表記のある四の郭へ 右 四の郭の手前には石垣と空堀 四の郭からは谷間の道を歩いて行けば入口に戻る。この谷筋は水が湧いていて、途中から川が流れている。地元水道用の取水施設?と思われるものもある。
そう複雑な構造の城ではなかったが、見所もそれなりにあって登って気持ちの良い城であった。これも私撰100名城Bクラスと言ったところか。
二曲城の見学を終えた後は白山比盗_社まで車を走らせる。白山比盗_社は全国の白山神社の総本社である。白山神社の駐車場に車を置くと神社の参拝。願うは世界人類の幸福。
ここまで来たのは実のところは神社が主目的ではない。目的は神社の隣の山上にある「舟岡山城」。築城年代は定かではないが、平安時代から城郭としての機能は有していたらしい。ただ一般的には鳥越城などと同様に一向一揆関連の城郭と分類するのが妥当なところなのだろう。鳥越城と同様に織田信長の北陸攻めで落城とのこと。登口は事前にGoogleストリートビューで目星をつけたとおり、山の東南側にある。ここ
左 舟岡山城はこの山上 中央 東南にある入口 右 鬱蒼とした中を登る しばし九十九折りの山道を登ることになるが、10分もかからずに登ることが出来る。途中で前方で巨大な影が動くのが見えてゾッとしたがカモシカだった。確かに山道に何やら足跡らしきものがあったので何かがいるとは思っていたが、あんなデカイのがいるのは考えてなかった。カモシカはこちらの姿を認めると勝手に去って行ったが、あの巨体が本気でケンカを売ってきたらただじゃ済まない。やはり自然の中では人間というのは最も弱い生き物ではということを感じる。
山道を登り切ったところが主郭で、ここに大きな石碑が立っているが、城跡碑ではなくて白山比盗_社に関するもの。「白山比盗_社創祀の地」と刻まれており、どうやらそもそもの白山比盗_社はここに建てられていたようだ。その後に手取川河畔に移され、大火で焼失などがあって現在の位置に築かれたようだ。神社用に最初に整備されたところを土台にして城が築かれたということか。
左 本丸にある「白山比盗_社創祀の地」の碑 中央 奥に土塁らしきものが見える 右 土塁の手前には堀切もある この主郭の隣に二の郭らしき曲輪があるが、その間には結構大規模な堀切があり、土橋がつながっている。二の郭の先も曲輪らしき構造があるのだが、鬱蒼として詳細は明らかでない。
左 土塁の先が二の郭 右 この辺りが二の郭の先端か 馬出門の方向に向かうと、詳細は明らかではないが虎口的な構造が見られ、主郭などの曲輪とはかなり高度差があり、これらの曲輪が切岸になっていることも分かる。
左 馬出門の方向に進む 中央 二の郭の切岸 右 構造が不明確だが堀などがあるようだ 大手門方向から下に降りようかと思ったのだが道が判然としないので、北の方向に抜けることにする。主要曲輪以外の山の全域が完全には整地されていない緩斜面であるものの城内のような構造になっている。この部分も城内に含めればかなり広大な城郭となる。ここには屋敷でも置いて、いざという時には背後の曲輪に立て籠もったのだろうか。この平地の北の端の方には搦め手口と言っても良いような構造があり、そこの西側の高所にこれを守るかのような四の丸と表示された曲輪がある。これは全山が要塞であったということであろうか。
左 北口近くを登ったところに 右 四の郭がある 北口から降りると何やら民家のようなところに出てきて、その先には県立青年の家がある。そこのグランドの端には舟岡山遺跡なる縄文時代の住居跡があり、竪穴式住居が復元されている。
復元された竪穴式住居
実のところ、二曲城に来るついでに近くに何か城郭がないかと調べて行き当たった城だったのだが、全く予想外に充実した城だった。こちらも私撰100名城Bクラス相当。全くうれしい誤算であった。
さてここまで予定をこなしたところで昼過ぎ頃。ここで今日想定していたスケジュールはすべて終了してしまった。と言うのも昨日の清水山城のダメージがかなり深刻になるだろうと推測されたことから、今日は宿泊地の富山に移動するのがメインで、それに山城2つと神社1つぐらい絡めたら時間的にも体力的にも一杯ぐらいだろうと考えていたからである。しかし当初の想定に反して、私が貧乏性から来る想定外の行動力で山城をかけずり回ったことで、予定外にスケジュール消化が早くなってしまったという次第。ここは予定変更して、明日の富山からの復路に予定していた城郭巡りを今日に繰り上げることにする。天気予報によると明日は雨とのことなので予定を前倒しにしておく方が無難でありそうだ。
最初に立ち寄ったのは「木舟城」。北陸自動車道を砺波JCTで能越自動車道に乗り換え、福岡出口で降りたすぐ南の田んぼの中にある城跡である。1184年に石黒太郎光弘が築城し、戦国期には織田氏と上杉氏、佐々氏と前田氏となどの争乱の渦中で戦闘の拠点となったという。秀吉の越中平定後は前田利家の弟の秀継が入城するが、その年の11月に生じた大地震の際に軟弱な地盤が祟って城が倒壊し、城主夫妻は命を落としたとのこと。その後は秀継の子の利秀が継いで復興を試みたものの、結局は翌年に石動城に居城を移して廃城となったという。
木舟城
現在は史跡公園として整備され専用の駐車場まで設置されているものの、遺構として残っているのは本丸の一部と東にあった神社の部分だけ。往時には沼地に浮かぶ城だったらしいが、現在は大部分が水田になっており遺構はほとんど残っていない。
左 木舟城の案内図 中央 土塁跡の回りは田んぼ 右 向こうの神社も城の一部 次に立ち寄ったのは富山市にある「安田城」。井田川左岸に築かれた戦国時代の平城で、秀吉が佐々成政を攻めた際に本陣である白鳥城の支城として築いたものだという。井田川から水を引き入れた堀を巡らせて防御している。その後は田んぼの中に埋もれていたのだが、非常に良好な状態で遺構が発掘されたことから、戦国時代の平城の構造を伝える貴重な遺跡として史跡指定されて復元も行われて今日に至っている。
左 資料館 右 安田城の構造 現地に到着すると隣には資料館なども置かれていて史跡公園としての万全の整備が行われている。城といえば一般には石垣に天守閣などというイメージがあるが、この城は土塁の上に柵を巡らした簡便な構造であり、戦国期の大抵の城はこうであったということである。まあこの辺りは城巡りの中級者以上には常識ではあるが、初心者などには実際にこういうのを見てみないと実感できないかもしれない。
安田城 本郭、二の丸、右郭が堀の中に浮いているような構造で、これらが土橋でつながれている。これらの橋は現在はかなりしっかりしたものになっているが、当時はすぐに落とせる簡単な木橋や吊り橋だったかもしれない。各曲輪の周囲は土塁で囲まれており、特に本郭周囲の土塁は高さも幅もあり、この土塁の上自体が攻撃のためのスペースであったことが覗える。
本丸土塁上から本丸を 本丸土塁上から二の丸方向を ちなみに往時の土塁の一部が保存展示されている施設もあるようである。単純に土塁と言っても、数種の土砂が複雑に重なり合っている模様。
左 この中に土塁が展示されている 右 往時の土塁 そう大規模な城郭ではないが非常に整備されていてよく分かりやすい。また平城の遺構は大抵は市街地や田んぼに埋もれて完全消失してしまうことが多い(先ほどの木舟城などが典型的)ことを考えると実に貴重な遺跡である。というわけでこの城郭も私撰100名城Bクラス。
安田城の次は先ほど名前の出た白鳥城を見学に行くことにする。秀吉が本陣を置いた城郭でこちらは山城である。安田城の北方2キロ程度先の山上にあり、こちらも一応城址公園となっているようだ。
白鳥城への移動の途中で「番やのすし」を見かけたので昼食のために入店する。考えてみたらもうとっくに昼を過ぎているのに昼食がまだだった。私の城巡りは気をつけないと昼食を忘れることがある。しかし昼食抜きだと途中でガス欠になる。
回転寿司だが実質的には注文して握ってもらうというタイプ。私の大好きなホッキ貝など適当に8皿ほど握ってもらう。ネタも良くなかなかうまい。これで2000円程度だからCPも悪くない。さすがに富山の寿司は侮れない。
燃料補給をしたところで「白鳥城」に向かう。登城口は山道の途中に看板が立っており、山道をもう少し進んだところに車を置けるスペースもある(ここの眺望が良い)。
左 白鷺城登城口 右 駐車場からの眺望 北二の丸、本丸外郭を抜けて本丸に登るのには10分かからない。本丸は一番の高所だが、残念ながら鬱蒼としていて眺望はあまり良くない。
左 北二の丸を抜け 中央 奥の空堀を橋で渡り 右 さらに登ると 左 本丸外郭 中央 その奥をさらに上がると 右 本丸に到着 本丸から東に降りたところにある曲輪が二の丸。そう大きな曲輪ではなく、隅に井戸跡がある。
左 本丸から降りると 中央 二の丸 右 井戸跡は鬱蒼としてわけが分からない 本丸の西には西一の丸があるが、この辺りは鬱蒼としていて構造が今ひとつよく分からない。
左 本丸から反対側に降りると 中央・右 西一の丸 全体的に鬱蒼としすぎていて構造が良くつかめなかったが、それでもそれなりの規模を持った山城であると言うことは理解できた。多分樹木を取っ払えば富山城を見下ろせるはずであり、秀吉がここに本陣を置いたのは当然であろう。結局は秀吉の大軍に迫られた佐々成政は降伏するより他に手はなかったのであるが。
一日で山城を三つということになりかなり疲れたが、最後にもう1カ所回っておくべき場所がある。それは最近オープンした富山県立美術館。富山には以前に町外れに県立近代美術館があったが、場所も良くない上に施設の老朽化も進んでいた。そこで駅北の運河地域の再開発と共に、ここに県立美術館を移転したようである。
美術館は混雑しているらしく、駐車場には満車の看板が出ていて回りをグルグルと回らされることになる。ようやく車を止めると入館。一階は天井が低めで圧迫感のある建物。これが展示室のある2階に上がると一転して天井が高い開放感のあるフロアになる。展示室は3階にもあるが、この辺りは吹き抜けも多く、開放感があるとも言えるが高所恐怖症にとっては悪夢のような構造。最近多いタイプの建物であり、設計には大分県立美術館と似通ったセンスを感じる。
「デザインあ展 in TOYAMA」富山県美術館で5/20まで
NHKの番組で有名なデザイン「あ」の作品を展示。この番組を私はほとんど見たことがないのだが、一風変わった芸術番組?である。
展示は番組などにも出てきた様々なパターンのものを。なかなかに神出鬼没なアイディアで子供だけでなく大人も十分に楽しめる。アーとする心なんてものは、こんな面白さの中で育成されるということであろうか。私は「現代アートは遊園地のパビリオンのようなもの」と言っているが、まさにそういう雰囲気。
展覧会の見学を終えると館内を一回り。収蔵品に関しては以前に見たことがある作品であるが、展示室が凝った感じになっているので印象が変わる。屋上はオノマトペ広場とのことだが、これは端的に言って子供用の遊園地である。「グルグル」とか「プヨプヨ」といった類いのオノマトペにちなんだ作品というよりも遊具が多数設置してある。多分、美術館に子供連れで来てもらおうという発想なんだろう。そう言えば館内にもキッズスペースがあった。
美術館を回った後は喫茶で一服。今日は暑いから非常に疲れている。美術館の喫茶にはあまり寄らないのだが、今日はもう限界。
喫茶で一服
一服して落ち着いてからホテルに移動することにする。今日の宿泊ホテルはドーミーイン富山。ドーミーは高級ホテルだが、今回は社内の福利厚生割引が適用できたのでここに宿泊。駐車場は満杯らしく、隣の提携駐車場に止めることになる。さすがにホテルも一杯の模様。ホテル内で見かける顔は皆アジア系なのだが、言葉を聞くと多国語が飛び交っている。
チェックインを済ませるとすぐに大浴場に入浴に行く。ここのホテルは天然温泉の大浴場付きである。ナトリウム硫酸塩泉という湯はやや褐色を帯びたネットリした肌触りの湯。とりあえずこの湯で疲れ切った体をほぐすことにする。
入浴を済ませると夕食のために町に繰り出す。この辺りは富山の繁華街だが、今ひとつピンとくる店がない。昼に食べたのが寿司でなければ寿司栄にでも行くところだが、さすがに寿司を連チャンする気にもならない。結局は適当なそば屋に入って天ぷらそばを注文。手打ちそばを名乗っているが、当たりともハズレとも言えない微妙なそば。そしてそばはともかくとして天ぷらの方はハズレだ。
ハズレそば
いまいちパッとしない夕食を摂って帰ってくると、しばしホテルのベッドに横になったまま動けなくなってしまう。今日は既に1万7千歩。昨日に引き続いての強行軍で限界を超えている。
結局はベッドの上で1時間近くグロッキー状態の後にようやく活動再開。とりあえず大浴場へ繰り出してもう一回入浴してから、ドーミーイン名物の夜鳴きそばで小腹を満たす。
ドーミー名物夜鳴きそば
後は部屋に戻ってBDを見ていたのだが急激に眠気が。結局はこの日も早めに就寝する。
☆☆☆☆☆
翌朝はやはり4時頃に一旦目が覚めてしまうが、そのまま二度寝。朝方にどこかから子供の絶叫のような声が2回聞こえてきたが、「やかましいな」と思いながらも寝続け、7時半にセットしていた目覚ましで目覚めることに。睡眠力自体は落ちてきているのだが、とにかく疲労が強いようである。
地元食も交えたドーミーの朝食
さて今日の予定だが、困ったものだ。天気予報によると今日は午後辺りからかなりの雨が降るとのこと。となると山城は難しいところだが、そもそも今日回る予定だった城郭はほとんどが昨日に回り終えている。そこで今日は昨日回る時間がなかった富山市南方の城生城に午前の内に立ち寄って、近くの温泉で汗でも流そうかというのが最初の予定。
ホテルをチェックアウトすると富山を南下する。空模様は極めて怪しいが、まだすぐに雨が降るという雰囲気ではない。とりあえず雨が降り出す前に目的を達成すべく車を走らせる。
神通川の上流、かなり山が迫ってきている辺り、八尾カントリークラブの西の川沿いの山上にあるのが「城生城」。南北朝時代ぐらいにこの地域を治めていた斎藤氏の居城であったという。戦国時代にはその位置的重要性から諸勢力の争いにさらされたようだ。
城生城遠景
現地に到着すると本丸の西に当たる辺りに入口の案内看板はあるが駐車場はない。とりあえず駐車禁止の標識はないようなので、道路の邪魔にならなそうなところで左ギリギリにつけて止めておく。
入口
入口から足下が鬱蒼としているので大丈夫かと不安になるが、一応案内看板などは立っているので、念のための唐辛子スプレーを腰から下げて進む。すぐに腰曲輪方向との分岐の看板があるが本丸方向へ直進、さらに登ると堀切方向との分岐があってやはり本丸方向に進む。ちなみに腰曲輪方向の道は、川沿いの斜面の細道で足を滑らせたら谷底に真っ逆さまになりそうな道にも関わらず、道上にかなり樹木の枝などが張りだしてきている状態だったので結局は見学を断念している。
左 鬱蒼としている 中央 この分岐は直進 右 この分岐を本丸方向へ 登り切ると思いの外広い曲輪に出る。これが二郭のようだ。本丸はここの右手(南側)にあり、堀切がある上に高低差もあるところを土橋で登るようになっている。
左 この曲輪に出る 中央 土橋で隣の曲輪へ 右 一段上の曲輪 左 この曲輪からさらに登ると 中央 主郭に到着 右 主郭 本丸には城跡碑と案内看板が立っている。決して広いスペースではないが、周囲を見下ろす高所に位置し、下に見える大堀切との高低差はかなりのものである。
二郭に戻ると北に向かうが、すぐにかなり広い堀切に行き当たる。これを超えるとこの先はかなり広大な曲輪。ただし鬱蒼としているのでその全貌は把握しにくい。ところどころに土塁があることは分かる。途中で←井戸跡という看板があったので鬱蒼とした中をそちらに進む。途中で藪がガサッと音を立てたのでドキッとしながら思わず手が腰に伸びるが、幸いにして動物の類いではなかったようだ。なお井戸跡はそれらしい窪みがあるだけ。
左 最初の曲輪の北端には土塁と櫓跡が 中央 その隣はかなり広い堀切 右 井戸跡 この曲輪はかなり北まで広がっているようだが、先は鬱蒼としているので引き返すことにする。
先かなり鬱蒼としている
二郭から降りて分岐点を今度は大堀切方向に向かう。こちらは大堀切の下から本丸を見上げることになるが、これが壮観。急斜面というよりも断崖絶壁で高さは10mはありそうなので、これをよじ登ることはまず不可能。ただ気になったのは土が大分えぐれてきているのか、本丸の端の方などは木の根で辛うじてもっているようなところがあったので、大雨でも来たら大崩落しないかということ。
左 本丸の下に出てくる 中央・右 とにかく大規模な堀切である この大堀切の南側にも曲輪がある。こちらが大手方向になるらしいが、それを守るらしい曲輪が数段になっている。
東西北の三方を川に囲まれて切り立っており、南からの攻撃には大堀切などの防御機構を万全に構えたかなり堅固な城である。また山上のスペースは結構広く、館などを建てるにも十分と言うことで城を構えるのには格好の地形と言えよう。
そう知名度が高い城というわけでもないので正直なところ侮っていたのだが、来てみると思いの外に見所の多い城であった。まだこんなところに私撰100名城Bクラスが潜んでいたとは・・・。
1時間ほどの山城散策で汗をかいた後は、近くの春日温泉に立ち寄ることにする。大沢野ウェルネスリゾートウィンディというスポーツジムなどと複合した巨大施設があるので、そこの浴場へ。ナトリウム塩化物泉とのことでややネッチョリした印象だが、特別強い浴感はない。かけ流し浴槽などもあり意外と本格的。なお源泉温度がかなり高いので加水はしているようだ。
この時点で昼頃だが、山城の予定をこなして温泉で汗を流すといよいよこれからすることがなくなってしまった。完全ノープランである。こうなったら金沢にでも行くしかないかと思いつく。お昼もまだだし、久しぶりに自由軒にでも行くか。
北陸自動車道を経由して金沢までは1時間ほど。到着した金沢は大勢の観光客でごった返している。北陸新幹線開通以来、とにかく金沢は観光客が増えているが、今日はもうGWなのか異常に観光客が多い。自由軒に立ち寄るべくひがし茶屋街の方面に車を向けたが、駐車場に空きが全くない。結局は駐車場を探して兼六園付近まで移動することに。
ひがし茶屋街は人だらけ 兼六園近くにようやく車を置くと、ひがし茶屋街の自由軒までトボトボと歩く。しかし到着した自由軒の前には大行列が。思わずため息。しかしここまで来た以上引き返す気もない。結局は40分ほど待たされることに。
自由軒の前には大行列
ようやく入店、注文したのはオムライスとビーフカツ。ジューシーなビーフカツは相変わらず美味いが、少し首をかしげたのはオムライス。ここのオムライスはケチャップでなくて醤油ベースなのが特徴なのだが、以前に食べた時のような鮮烈な印象がない。端的に言えば味が落ちたような気がする。私の体調のせいなのか、それとも本当に味が変わったのか。客が以前に比べてかなり増えているようなので、手が回らなくなって味が落ちているんでなければ良いが・・・。実際に観光ガイドの類いに取り上げられたことで駄目になってしまう店は少なくないだけに少々心配。
自由軒を出た時にはとうとう雨が降り出した。傘を持ってきていなかったので慌ててループバスで駐車場に戻る。当初は車から傘を回収してここからバスで移動しようと考えていたのだが、雨が本降りになってきたのでその気が失せる。とりあえず次の目的地の近くまで車で移動することにする。
金沢に立ち寄ったのは自由軒で昼食を摂ることだけが目的でなく、長町の武家屋敷を見学したいというプランも考えていたから。金沢は今まで何度か来ているが、立ち寄り忘れていたのが長町の武家屋敷街である。そこで長町の近くまで車で走ると観光用の駐車場があったのでそこに車を置いて徒歩で見学に向かう。
長町の武家屋敷街は水路沿いに往時のイメージの塀が連なっている。家自体は必ずしも往時のものが残っていると言うわけではないが、塀の雰囲気をそろえているので町並みとしては風情がある。
商売をしている家も少なくない 中には九谷焼を販売している店やら和菓子屋やら観光客対象の商売を行っているところが多い。私も九谷焼の見学をしたり、みやげの和菓子を購入しておく。土産に九谷焼を・・・とも思ったが、こちらは私の財力では全く手が出ない。
それにしてもここもひがし茶屋街ほどではないが観光客が多すぎて閉口。GWということもあるだろうが、やはり北陸新幹線開通以降、金沢の観光客が異常に増えているのを感じる。おかげで京都同様に風情が全くなくなってきた。景気の刺激のためにインバウンドの拡大も結構だが、副作用としては観光地がいろいろと荒れてくる。これは困ったことだ。特に喧しい中国人の団体客はどうにかならないものか。
30分ほどプラプラと散策を行って長町の見学を終えたところで、雨の中を今日の宿泊ホテルまで移動することにする。今日宿泊するのは山代温泉の大江戸温泉山下家。山代温泉までは北陸道経由で1時間程度で到着する。山下家は古総湯や総湯のある山代温泉の中心地。そこにある城郭風の超巨大建築が山下家である。元々は山代温泉を代表する巨大ホテルだったんだが、昨今のレジャーの変化と不景気に耐えられずに大江戸温泉の軍門に降ったというところか。山下家と言えば私の子供時代には関西でも良くCMが流れていた。あの時代によくCMを見た旅館と言えば山下家以外ではびわこ温泉ホテル紅葉、有馬温泉兵衛向陽閣、伊東温泉はとやホテルなどである。この中でホテル紅葉は業績不振と老朽化で閉館して取り壊されてしまった。兵衛向陽閣はまだ健在のよう。はとやホテルは行ったことがないのだが、あまり良い噂は聞いていない。この辺りは時代の変化というものを感じさせられる。
大江戸温泉山下家
今日は予約が一杯のようで、やや遠目の駐車場に案内される。チェックインを済ませて私が通されたシングルルームは客室と言うには極端に狭い部屋。いわゆる典型的な「添乗員部屋」という奴である。まあシングルプランがあるだけで良しと考えていたのでここまでは予想の範疇だが、禁煙部屋にも関わらずドアを開けた途端にむせかえるようなたばこの臭いがするのには閉口。長年散々たばこの臭いをしみつけた部屋に、ファブリーズをシュッシュッして灰皿を撤去したらそれで禁煙部屋のできあがりというものでもあるまいに。さすがにこれにはテンションが下がる。
ちなみにかつては喫煙天国とさえ言われていた日本(「男のくせにたばこも吸えないのか」なんて言う馬鹿なおっさんが普通にいた)も、昨今では世界的潮流を受けて非喫煙者の方が多数派となり、今や喫煙者は少数派。そう言うわけでビジネス的にも喫煙部屋を設けずに全部屋禁煙にする方が効率的になっている。ただ喫煙部屋を禁煙部屋に切り替えた場合に問題になるのは、それまで染みついた臭い。長年に渡るたばこの臭いはファブリーズ程度で消えるものではない。これを確実に脱臭できる技術を開発したら、ホテル業界や中古車業界などにビジネスチャンスがありそうだ。
部屋に荷物を置くとすぐに外出する。とりあえず総湯は以前に行ったことがあるので、今回は古総湯に入浴したい。古総湯はシンプル極まりない設備で、4m四方程度の浴槽が一つあるだけ。洗い場が全くない構造である。明治時代の昔の共同風呂を再現したのだとか。かけ湯をすると入浴するが、とにかく熱い。最初はビックリする。足をつけた途端にヒリヒリして、いきなりは体をつけることが不可能。雪国の温泉は往々にして湯温の高いところが多いが、どうやらここもそのようだ。
古総湯
山代温泉の泉質はナトリウム・カルシウム−硫酸塩・塩化物泉とのことであるからようは食塩系。寒い地域に多い「温まる湯」。ここの湯もとにかく汗がやたらに出てくるのが特徴。肌当たりはややネットリしている。温度が高いこともあって、とにかくサッパリと目が覚めるタイプの湯。
浴場の上には休憩室があるのだが、これがまた奇妙なスペース。色ガラスが何か落ち着かないし、開放感がないので圧迫されたような気持ちになる。少し休んだだけですぐに出てくる。やはり休憩室なら道後温泉本館が風情があって良いかな。
何となく圧迫感のある休憩室
古総湯の入浴を終えると隣の総湯の売店で温泉卵を頂く。これが意外に美味い。これは確かに古代ローマの温泉技師でなくても驚くところだ。
左 こちらは総湯 右 温泉玉子はなかなか美味 ホテルに戻ると屋上の展望大浴場へ。山代温泉を見下ろす格好の浴場であるが、やはり湯自体は先程の古総湯よりは劣る(消毒臭がする)。また湯温は観光客を意識して若干低めの模様。壺風呂に湯が張ってなかったのは、大江戸温泉のコスト低減戦略の一環だろうか。
入浴を終えたところで夕食バイキングへ。大江戸温泉らしいバイキングで、内容的には普通に美味い。また伊東園の配給飯とは比較するまでもない。ただ特に驚きや感動はない。同じ大江戸温泉でも鬼怒川温泉のものよりは劣る印象。バイキングと言えば最近では作並温泉の一の坊のが非常に良すぎただけに、あれの記憶が残る現時点ではかなり不利だろう。
私のプランにはアルコール飲み放題が付いている模様。しかしこれは完全に無駄。アルコール飲み放題抜きで安くなっているプランがあれば良かったのだが・・・。まあ勿体ないのでノンアルコールカクテルを一杯だけ頼む。
夕食を終えると部屋でプラプラ。とにかくしんどい。今日はあまり歩いた記憶がないのだが、かなり広い城生城内を散策したことと、兼六園からひがし茶屋街や長町内など結構歩いていたのか今日も1万2千歩を超えている。ここのところ連日1万歩超えである。単に1万歩だけならそれほどでもないが、ことごとく山道を含んでいるので中身が濃い。やはりダメージは大分蓄積しているようだ。しばらくベッドで横になって過ごすが、1時間程度休んでから大浴場へ入浴に行く。
大浴場はかなり広い空間で、かつての地域を代表する大ホテルの面目を一番感じる設備である。湯は露天風呂よりは良い印象。とにかくゆったりと体を浸し、特に足の疲れを取っておく。
この日は夜の11時頃までBDを見て過ごし眠くなったところで就寝する。
☆☆☆☆☆
翌日は7時に起床。体の調子は悪くはないがやや重い。雨は降っていないようだが、どんよりと曇っているのが気になるところ。
朝風呂を浴びると8時から朝食バイキング。まあまあだがとにかく混雑しているのがまいる。
10時過ぎにチェックアウトするが、困ったのは今日どうするか。とにかく今日は彦根まで走って彦根で宿泊することになっているが途中の予定がない。元々は山城に立ち寄るつもりであったが、今日のこの天候では難しそう。とりあえず天候を見ながら予定を考えることにして彦根に向かって走る。
今日からGWの後半のせいか北陸道は車がかなり多い。渋滞こそしていないが走るのに神経を使わないといけない状態。結局は疲労で休憩のためにSAに入るが、車を置くところがないくらいの大混雑。しかもレストランは席が一杯というような状態。
途中から雨が激しくなってくるし、結局は今日は山城を諦めて彦根に直行することに。
彦根に到着したのは1時過ぎ。ホテルのチェックイン時刻が3時からなのでまだ時間がある。一応こういう時のプランは考えてある。最近に重伝建に指定された河原町芹町地区。江戸時代の商家町の面影が残っているという。
事前調査で地区の北端のところに駐車場があることが分かっているのでそこに車を置く。ここから徒歩で町並みを散策。確かにところどころ江戸時代の卯建がある建物が断片的に残っているが、全般的には昭和レトロな雰囲気の方が強い。商売をしている家も数軒あるが、空き家らしき家もあるのが気になるところ。
町並みを一往復して帰ってくると入口のところにある魚屋「魚浩」で昼食にする。魚屋だけあってお勧めは海鮮丼。さすがにネタは十分に入っている。また添えられていたあら汁がうまい。
昼食を終えた頃には3時近くになっていたのでホテルに移動することにする。今日の宿泊ホテルは彦根キャッスルリゾート&スパ。彦根城正面のやや高めのホテルなのだが、会社の福利厚生割引で朝食のみプランがビジネスホテルレベルの価格になったことから選択。このホテルは若干変わったホテルで、形式としてはビジネスホテル形式なんだが、高めのレストランがついていたり(なので私は朝食のみプランにしている)などと観光ホテルと折衷になっている。立地が良いので客は多いようである。
ホテルにチェックインするとまずは大浴場で汗を流す。そんなに広い浴場ではないが、全面ガラス張りの正面窓からは彦根城が真正面に見える。この人工温泉の展望大浴場でじっくりと汗を流してくつろぐ。
汗を流してサッパリした後はしばし部屋でくつろいでから買い物と夕食を兼ねて外出する。夕食を摂る店は全く何も考えていなかったが、遠出する気力も体力もないので、割引券をもらっていた隣の「献上伊吹そば つるかめ庵」で天ぷらそばを注文。なかなかにしっかりと腰のあるそばで美味。
そばを食べた後はこれも割引券をもらっていた「どら焼き虎てつ」でひこにゃんのどら焼きをおやつに購入。後はコロッケを食べながら彦根城方面を散策。
彦根城は5時で門が閉まるようなのでその手前までプラプラと散策。改めて見てみるとなかなかに立派な城である。特に登り石垣などが見事。あちこちの城を回っている内に段々と城に対する観察の仕方がマニアックになってきていて、以前に来たことのある城でもまた違った見え方がすることを感じている今日この頃。今回は彦根城に立ち寄るつもりはないが、またいずれ改めてじっくりと見学しても良いかもという考えが頭をよぎる。
左 ここはかつての外堀の一部だとのこと 中央 門をくぐって 右 見事な登り石垣だ とにかく疲れがかなり溜まっている。この日は日が沈む頃にはホテルに戻ってきて、もう一度入浴したりやなんやかんやで結局は部屋でボンヤリと過ごしたのである。
夜にはライトアップされる彦根城 ☆☆☆☆☆
昨日も早めに就寝したのだが、今朝は完全に7時過ぎまで爆睡していて目覚ましで初めて気がついた。相当に疲労が溜まっているようで、起き上がった時にあからさまに体が重い。
とりあえずシャワーを浴びて目を覚ますと、朝食バイキングのためにホテルのレストランに出向く。朝食バイキングは品数としてはそう多いものではないが、味はまずまずであった。和洋両様でガッツリ食えるのは良い。朝食後はとにかく体が重いので、ホテルのチェックアウト時刻の10時ギリギリまでベッドでゴロゴロしながら過ごす。
ホテルをチェックアウトすれば今日は帰るだけ・・・なのだが、実のところはその前にもう一カ所だけ立ち寄るところがある。彦根と言えば井伊直政・・・でなくて、その影に追いやられている石田三成である。この彦根にはその三成ゆかりの城である佐和山城がある。やはりここに立ち寄っておかないといけないだろう。
「佐和山城」への登山道は龍潭寺の奥にあり、龍潭寺の前には駐車場もあり、佐和山城ボランティアガイドの詰め所なんかもあるようである。龍潭寺の奥の墓地の方に進んでいくと佐和山城登山口の案内があり、「野猿の群れが出没するので注意」との看板が。ハイキングコースになっているような山だからと唐辛子スプレーは持ってこなかったのだが、持参した方が良かったか?
左 佐和山城遠景 中央 警告看板が立っている 右 山道を行く 山道に入るが、ハイキングコースとして整備されているので道は悪くない。これは楽勝・・・と言いたいところなのだが、足が全く前に出ない。私自身が感じていた以上に足腰がヘロヘロになっていた。太ももは上がらないし、ふくらはぎは痙攣しそうな状態。山道にさしかかった途端にいきなりリタイヤという情けない状態になりかけたが、さすがにここまで来てそんな情けないことにはなりたくない。必死で気合いを入れて途中で普段の3倍は休憩を取りながらヨタヨタと登っていくことに。
大洞弁財天との分岐を過ぎて少し登ると大穴のある曲輪に出る。ここが西の丸の端で、この曲輪は煙硝櫓跡(なぜか表記は塩硝櫓となっている)とのこと。どこの城でもとにかく煙硝倉は万一の爆発に備えて、城から外れたところに半地下にするか土塁で囲うかして設置するものである。現地の看板には「この土抗の用途は不明」とあるのだが、普通に考えると火薬を蓄えていたのでは?
左 分岐を過ぎてさらに登ると 中央 塩硝櫓跡 右 この辺りが西の丸らしい この辺りの周辺は鬱蒼としているが平坦地であり、西の丸の曲輪であることが分かる。ここを奥まで進むと掘りきりらしき跡があってそこから険しい登りになる。これを登り切ると本丸。足はもうガタガタだが、ここまで来ると好奇心が体を支える状態。
左 西の丸の端 中央 堀切がある 右 本丸へと登る 左 本丸に到着 中央 見晴らしは良い 右 彦根城が見える ようやく本丸に登ると視界が開ける。本丸跡はなかなか広いスペースがあり、西の丸から登ってきたところには虎口構造らしきものが見られるように思われるが、佐和山城は大規模に破城されているために往時の構造はほとんど残っていないとのこと。
ここで一息ついてようやく生き返ると、本丸奥の南の方に降りてみる。こちらは元々大手口の方向のはずである。随所にかつての構造の片鱗のようなものが覗える。また二段の巨石が残っているが、これがかつての隅石垣だとか。佐和山城の石材はほとんどが彦根城に持って行かれたとのことなので、かつてはこの山上に立派な石垣が存在したのだろう。それはさぞかし壮観だったろうと思われる。何しろ佐和山城は「三成に過ぎたるものが二つあり」と言われた内の一つなのだから。なお西軍の中心だった三成の居城だけにさぞかし溜め込んであるだろうと勇んで佐和山城に乗り込んだ東軍の諸将は、財宝の類いが一切なかったことに唖然としたらしいが。関ヶ原での準備のために資金を費やしたということも考えられるが、元々三成は個人的に蓄財をする類いの人物ではなかったのだろう(実際にかなり潔癖な人物だったようだ)。今時の政治家とえらい違いだ。
左 本丸を奥に進み 中央 下に降りると 右 この石がかつての隅石垣だとか 南側に降りたところには千貫井戸があり、ここは今でも水が湧いている。水の手の確保もしっかりなされていたということで、この辺りは全く抜かりがない。
千貫井戸には今でも水が湧いている 佐和山城を一回りしたところでヨタヨタと山を下りてくる。なかなかに見応えのある山城であった。徳川によって徹底的に破壊されているが、それでも地形などは残っており、往時の姿を垣間見ることは可能である。これもやはり私撰100名城Bクラスだろう。
麓の龍潭寺にはこの城の主の像がある もう限界まで疲れ切っているが家まで帰る必要がある。高速に乗るとすぐに多賀SAに入るが、車を停めるところに困るぐらい大勢でごった返している。そんな中「近江多賀牛」で昼食。これもしばし待たされてからの入店となる。
注文したのは近江牛ハンバーグとサイコロステーキの膳。味はまずまずだが、やはり場所柄CPは激烈に悪いのは仕方ないところ。
昼食を終えた後は、途切れそうになる意識を無理矢理つなぎながら、何とか無事に家まで帰り着いたのである。それにしても新名神の高槻−神戸間が開通したのはかなり大きい。今までは西宮辺りで慢性的な渋滞で苦労させられたのだが、それをバイパス出来るようなったことは非常に助かる。
結局、GWを北陸の温泉でゆったり・・・のはずが、北陸の山城を駆けずり回ってグッタリといういつものパターンになってしまったのである。全くもって学習能力がないというか、懲りないというか、業が深いというべきか・・・。
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