展覧会遠征 京都編14
端っから無能であることは折り紙付きだったトランプ大統領だが、どうやら私の想像をも超える無能であったことが早くも露呈しつつある昨今。一人の馬鹿が世界を滅ぼしかねない危険を感じつつも、相変わらずの日常生活は淡々と過ぎていく。
この週末だが、京都でのコンサートに出かけることになった。コンサートの開演は14時半。とりあえずその前に美術館に一カ所立ち寄る。
今回の京都入りは山科から。京阪の一日乗車券を入手したが、やけに萌え仕様なのが気になるところ。最近はどこに行ってもこんなのばかりだ。
やけに萌え仕様の1dayきっぷと駅内に立つ萌えポップ 東山で地下鉄を降りると美術館へ。それにしても今日も寒い。
「茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術」京都国立近代美術館で2/12まで
16世紀後半に始まる樂家の陶芸は、一子相伝によって今日まで伝えられてきている。そのような樂家代々の作品を展示。
一口に樂焼きと言ってもその時の継承者や時代によって変遷もあるし個性もある。初期はかなり渋い焼きものであった樂焼きも、時代と共に華やかさを増したり、その時の継承者によってゴツくなったり柔らかくなったりなどと意外と個性がある。
後半は当代の樂吉左衛門の作品が多数展示されているが、これがかなりアバンギャルドな作品が多く、伝統から一歩踏み出したアートを志向しているのが感じられる。これはこれで面白いのだが、どうも本来の器としての存在感は微妙。
美術館の後は昼食・・・のつもりだったのだが、思ったよりも時間を浪費してしまった。どこかにゆっくりと入っている時間もないし、あまり腹も減っていないしということで、ホールに直行することにする。
京都市交響楽団 第608回定期演奏会
[指揮]下野 竜也(常任客演指揮者)
[Pf]パスカル・ロジェ
モーツァルト:ピアノ協奏曲第25番ハ長調K.503
ブルックナー:交響曲第0番ニ短調 WAB.100(ノヴァーク版)
別名珍曲マニアとも言われる下野らしい曲目選択。モーツァルトのピアノ協奏曲の中では知名度が高いとは言いにくい部分もある25番と、ブルックナーの初期の習作0番という組み合わせ。
モーツァルトについては演奏自体がサラッと流れてしまったように感じられ、特に強い印象は残らなかった。パスカル・ロジェのピアノは技術的には高いのだが、感情的には深入りすることなく終わったような感覚を受けた。
ブルックナーは曲自体に含まれている若さのようなものが現れた演奏。下野のキビキビした指揮は生き生きとしたブルックナー像を描き出した。そういう点では演奏としてはなかなかのもの。もっとも最大の問題は、やはり曲自体がやや面白味に欠けること。よく指摘されているように構成的な欠陥もあるし、若々しさはあるのだがそれは円熟味がないということで曲自体に厚みと深味がない。演奏がなかなか良かっただけに、より明確に曲自体の問題が正面に現れることになった印象である。そう言えば以前に某名盤紹介本で著者が「ヌルテはどう演奏しようが所詮はヌルテ」というような結構厳しい評を書いているのを見た記憶があるのだが、それも何となく納得。
今年春から広島交響楽団の音楽総監督就任が決定するなど、活躍の場を広げつつある下野であるが、その面目躍如たる演奏ではあったと感じられた。京響とのコミュニケーションもキチンと取れているようであるし、今後にさらに期待と言うところか。
そう言えばブルックナーの交響曲については、第0番だけでなく、第00番と呼ばれる曲もあるとか。とにかく迷いや修正が多いことで有名な作曲家だが、おかげでこんな複雑なことになったか。しかしナンバーを見ていると、まるでガンダムかキカイダーみたいである。ブルックナー00(ダブルオー)・・・なんかモビルスーツが出てきそうだ。当人はどこから見てもそういう格好良さとは最も遠いオッサンなんだが。
今回の遠征はこれで終了。本年度初のプロオケコンサートはまあ可もなく不可もなくというところか。この後は京都駅の地下でかなり遅い昼食としてカレーを食べてから、厳寒の京都駅から新快速で家路についたのである。
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