展覧会遠征 鳥取編5

 

 さて無事に2017年を迎えることとなった。今年は良い年であって欲しいところだが、新年早々これから世界最大の問題となるであろうと思われるアメリカの馬鹿大統領がトヨタを恫喝するなんていうろくでもないニュースが飛び込んできている。それにしても予想以上にトランプは無能なようだ。アメリカのアホな有権者に媚びを売る方法と、大統領としての政策の区別がついていない。やはり財界出身とは言ってもまともな手法で商売をしてきていないというのが現れている。以前よりアメリカの根本原理はジャイアニズムだと言われているが、これからはより露骨にジャイアニズムをむき出しにしてくることが予想される。しかしこの難局に日本の指導者がアメポチしか知らない無能の安倍とは・・・。

 

 何やら波乱含みの2017年開始だが、世界情勢はともかくとして、私としては淡々と日常を送っていくしか目下のところは仕方ない。と言うわけで本年最初の遠征としたい。

 

 今年最初の遠征先は鳥取。かなり唐突な目的地選定であるが、ここで鳥取が浮上した最大の理由は、鳥取地震復興絡みで三朝温泉の宿泊補助券が発行されることになったから。三朝温泉は去年訪問しているが、なかなかに名湯であることは確認している。そこで新年開始の骨休めとして三朝温泉の訪問を計画した次第。

 

 鳥取への移動は土曜の朝。新快速から上郡で特急いなばに乗り継ぐ。いなばの車両は気動車のキハ187だが、スーパーはくとに比べると車両にはくたびれ感が漂う。私の席なんか前のテーブルが歪んでいる。走りはスーパーはくとに比べると鈍重感がある上に車両の細かい揺れが多い。

    微妙に傾いているテーブル

 智頭急行線のトンネルの連続を抜けると30分強で智頭に到着。ここで乗員の交替があるようだ。数分の停車後再び走り出すが、それにしてもよく揺れる車両だ。トイレに行くだけでも一苦労。車内で原稿書きをしていたら酔いそうになる。

 

 毎年、冬の山陰は雪を警戒して鉄道で来るのだが、今年も見事に沿線には雪の気配さえ全くない。これは車でも来れたな・・・。次回は車を考えるか。

 

 1時間強でようやく鳥取駅に到着。山陰は寒かろうとやや厚着で来たのだが、案に反してあまり寒くない。降り立った鳥取駅ではしゃんしゃん傘踊りの歓迎。

    

左 駅ではしゃんしゃん傘踊りでのお出迎え  右 マンホールの蓋のデザインにもなっている

 鳥取での移動はレンタカーを借りることにしている。送迎車が来るはずだったのだが空港方面に出払っているようで、タクシーでオリックスレンタカーまで移動。今回貸し出されたのはマーチ。私にとってはあまり好きな車ではない。実際に走ってみるとパワー不足が際だつ車である。

 

 さてこれからどうするかだが、もう昼前だし何はともあれ昼食を摂る必要がある。とりあえず鳥取漁港を目指し、市場の中の「賀露幸」海鮮丼を頂くことにする。

   

 うーん、漁港飯と言うよりは明らかに観光地飯。具のボリュームが不足である。これだと鳥取砂丘の「鯛喜」にでも行った方が良かった。

   

 昼食を終えたところで近くのかにっこ館を覗く。ミニ水族館と名乗っているが、内部には水槽をいくつか並べて地元の魚を展示。まあ無料の施設にしては楽しめる方か。

 

 漁港を後にすると山城巡りの方に繰り出すことにする。今回の目的地は太閤ヶ平。秀吉による鳥取城の兵糧攻めは有名だが、この時に秀吉は鳥取城を見渡せる山上に陣を置いている。この陣の跡が太閤ヶ平である。今でも往時の跡が残っているというので一度見学したいと前々から思っていたのだがなかなかその機会がなかったのである。

 

 太閤ヶ平は本陣山と呼ばれる山上にあり、そこへは樗谿神社から遊歩道が通っていると聞いている。そこで樗谿神社に向かうと手前の駐車場に車を置く。

 

 さて登山かと思えばその前にやまびこ館なる建物があり、そこがいわゆる郷土歴史博物館のようである。そこで予習の意味も兼ねて見学していくことにする。

   

 特別展は伊勢型紙の展示。伊勢型紙とは着物の生地を柄染めする際の型紙のこと。和紙を貼り合わせたものを彫刻で彫っている。驚くほどの細工の細かさに圧倒される。

 

 常設展の方は歴史展示。予想通り、秀吉の鳥取城攻めの件に結構スペースを割いている。これ以外では古代関係の展示など。そもそも鳥取も出雲などと共に古代神話の類いは多い土地であり、太古から人が住んでいることが確認されている。

 

 やまびこ館の見学を終えるとプラプラと樗谿神社へ。「太閤ヶ平」へはここから舗装された遊歩道を登っていくだけ。山上には放送アンテナなどの施設があるようなので、明らかに車で登れるように通した道だが、一般車は立ち入り禁止になっている。山上に駐車場がないからだろう。

   

左 ここから進むのだが  右 お約束のこの看板も立っている

 遊歩道は全長4キロほど。険しくはないがやたらに長い道。なかなか退屈な行程だが、格好の散歩コースとなっているのか歩いている人が多い。もっとも大半が私よりも年輩の方々で、かなり年期の入った山ガールなど。残念ながら妙齢の女性とのロマンチックでドラマチックな出会いなどは期待できそうにない。なおこんなゆるやかな道を登ったのでは城攻めの感覚がないという上級者の方や、自分の体を極限まで痛めつけないと快感が得られないというM気質の方のためには、より短いがかなり険しい山道などもあるようである。

    道はこんな感じで歩きやすい

 歩き始めてから5分で早くも息が上がってしまうという相変わらずの情けない体力だが、それでも山上までは40分強。結構ハイペースで登ってしまった。

   

左 途中のみはらし峠  右 ようやく山頂が見えてくる

 所詮は合戦のための陣地だし、どうせ山上にも大した遺構はなかろうと考えていたのだが、いざ現地に着くと想像以上に本格的な築城をしているのに驚かされる。大規模な土塁で周囲を囲い空堀も巡らせてある。土橋を通って土塁内に入ると結構広いスペースがある。陣地と言うよりは難攻不落の山城に感じられる。実際にここよりも規模の小さい山城はいくつでもある。後に北条攻めでは小田原城を見下ろす山上に石垣山城という本格的な城郭を築いてしまう秀吉だが、どうもこの頃からその片鱗は現れていたようだ。秀吉は長期戦にも備えると共に、これだけの城を構えることで城兵に対して与えるプレッシャーも考えていたのだろう。これだけの備えをされた上に城内に兵糧がないとなれば、さすがに最後まで家臣から脱落者を出さなかったというカリスマ・吉川経家と言えども降伏しか道はなかったか。なお彼の器量に惚れ込んでいた人たらしの秀吉は、彼の切腹を惜しんだとのこと。譜代の家臣を持たない成り上がりの秀吉としては、臣下に欲しかった人材だろう。確かに吉川経家は、今日でもどこかの支店長を任せることが出来るタイプの人材である。

回り込むと土塁と堀で囲ってある

土塁で囲われた内部はかなり広い

土塁も結構堅固

 立ち木のせいで見通しが悪いが、その向こうには鳥取城がまともに見えている。また鳥取城がある久松山までは尾根筋伝いで移動できそうなことも分かる。そのためか鳥取城側はさらに強固に防御を固めているように思える。

    向こうに見える山頂が鳥取城

 とにかく秀吉は万全の構えで鳥取城を囲んだということのようである。序盤の経済戦、諜報戦で大勢を決め、あくまで武力行使は最後の詰めの段階という、戦強者ではなくて戦巧者である秀吉らしい戦い方である。

    縄張りを見ても本格的な築城

 太閤ヶ平の見学を終えると再び4キロの道のりを下山。同じ遊歩道を歩くのも芸がないから途中から山道の方を歩いてみたりもしたが、結果としてこれは間違い。確かに距離は短いがその分険しいので、下りでも足を踏みしめる必要があって足へのダメージが大きい。無理はせずに遊歩道を歩いてくれば良かった。

 

 久々のハイキングになってしまいかなり疲れたが、まだ若干の時間があるので、もう一カ所ぐらいは山城を回っておきたい。調べたところ湖山池の東岸に天神山城なる城郭があるとのことなのでそこに立ち寄ることにする。

 

 「天神山城」は室町時代に因幡守護だった山名氏の居城だった城郭である。1573年に山名豊国が鳥取城に本拠を移すまでの100年間、山名氏の居城として繁栄したという。往時には内堀・外堀なども築かれ、城下町を抱き込んだ大規模なものだったとか。

   

左 天神山城遠景  右 その縄張りは結構シンプル

 現在の天神山は県立緑風高校の敷地の一角となっている。見学のための遊歩道はついているが、車の立ち入りは禁止されているので車は向かいの湖岸公園の駐車場に置いての見学となる。

 

 天神山自体は高さも大してない小規模な山。その山上を削平して複数の曲輪を設けてある。もっとも大きな曲輪には現在でも井戸の跡が残っている。ただ曲輪の周辺は確かに険しくなっているが、これだけで防御できるというほどではない。恐らくは湖山池とつないだ水路などが防御の主体だったのだろうと思われる。なおこの地は太古から水運を利用した勢力が繁栄していたようで、古墳の類いも多数見つかっているらしい。

左 入口は高校の敷地内  中央 ここを登っていくと  右 主郭らしき削平地へたどり着く

左 主郭には井戸跡もある  中央 ここは周囲よりかなり高い  右 主郭南にある二郭らしき削平地

 天神山城は中世の防御力をもった館というレベルには十二分であるが、本格的な戦国時代を生き抜くにはやや心許なく感じられる。山名豊国が難攻不落の鳥取城に本拠を移したのも当然というところだろう。

    二郭からは湖山池を望むことができる

 天神山城の見学を終えたところでいよいよ本格的に足が終わってしまった。日も西に傾いてきたし、山城見学はここまでとしてこの後は温泉にでも立ち寄ることにする。まずはこの近くにあり古湯として知られる吉岡温泉を訪ねることにする。

 

 吉岡温泉はひっそりとした温泉街で、温泉を示すゲートがなかったら普通の住宅街と勘違いして通り過ぎてしまいそうである。そんな中に地元の共同浴場である吉岡温泉館があるのでそこに立ち寄ることにする。

鄙びた風情の吉岡温泉街

左 足湯もある  中央・右 吉岡温泉館

 小さな内風呂が一つだけだが、入浴料が200円というのはさすがに共同浴場。浴室内は地元客らしき年配者で一杯。そのためかどことなく余所者は立ち入りにくい空気がある。湯は単純泉のようだが、鳥取らしくかなりの熱湯。ここまで熱いと泉質云々なんて話ではない。徐々に体を慣らさないととてもではないが入ることが出来ないが、それでも一分も浸かってはいられないし、足を低温やけどしそう。

 

 少々からだがヒリヒリする状態で早々に浴場を後にする。シャッキリと目を覚ますには良いが、ゆったりとくつろげる湯ではない。今まで各地の温泉を回っているが、鳥取や温泉津温泉などなぜか山陰の温泉はやたらに熱湯のところが多い。

 

 今ひとつ温泉でくつろぐという雰囲気でもなかったので、もう一カ所別の温泉を訪ねることにする。ここからさらに西に走った鹿野にも温泉があったはずである。夕闇が迫りつつある中を鹿野まで車を走らせる。

 

 鹿野の町から少し離れたところに鹿野温泉館ホットピア鹿野がある。すぐに入浴と行きたいところだが、その前に腹がかなり減っているので敷地内のそば屋で地鶏そばを頂く。これがなかなかうまい。

  

ホットピア鹿野で地鶏そばを頂く

 腹が膨れたところで入浴することにする。鹿野温泉は弱アルカリ性の単純泉とのこと。こちらは観光客を意識しているのか吉岡温泉と違って適温である。施設自体は内風呂と小さな露天風呂にサウナも完備というオーソドックなスパ泉タイプ。ただ露天風呂は浅い上に湯温もぬるかったために冬場には明らかに寒い。内風呂でゆっくりとくつろぐことにする。湯自体はあまり特徴はないがやさしい湯。既に両足には軽いだるさが現れている。

 

 風呂からあがるとフルーツ牛乳を頂いて一服。ようやく生き返った気分である。

 

 ホッとしたところだが、そろそろ車の返却時間も気になってきた。いつまでもゆっくりしているわけにもいかない。鹿野温泉を後にすると夜の暗闇の中を突っ走って鳥取駅前まで戻ってくる。どこかの店で夕食でも摂ろうとの考え。しかしいざ駅前まで戻ってくると車を置く場所がない。駅前商店街というのは往々にして車は邪魔になることの方が多いが、この地方都市・鳥取でも状況は同じようだ。そこでさっさと車を返却してしまうことにする。

 

 車を返却するとホテルまで送ってもらう。今回の宿泊ホテルはグリーンホテルモーリス鳥取。私が山陰地区でよく使うホテルチェーンである。とりあえず部屋に荷物を置くとまずは夕食に繰り出す。

 

 しかし鳥取の駅前は8時を回るとほとんどの店が閉まっていて人通りもない状態。田舎によくある「やたらに閉店時刻が早い商店街」のようである。プラプラしているうちにうなぎ屋を見つけたのでそこに入店。

 

 しかしこの選択はハズレだった。入店した途端に「ハズレだな」という空気を感じたのだが、出てきたウナギはその予想通りであった。見ていたらそもそもウナギを一から焼かずに、下焼きしていたウナギをあぶって温めているだけ。おかげで香ばしいというのではなく妙にコゲっぽい味。これに「本当に肝吸いか?」というような謎の澄まし汁がついて3000円。これはまいった。地方で時々ある典型的な失敗パターンを踏んでしまった。

    失敗うなぎ丼

 夕食を失敗してテンションが下がった状態でホテルに戻ってくる。しかも困ったことに鳥取駅周辺にはコンビニがない。何とも不便な町である。仕方ないので鳥取駅内の売店で茶などを仕入れてからホテルに入ると、大浴場で入浴して早めに就寝する。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は7時に起床。体にやや重さはあるが、予想していたほどには足に痛みがない。しかし昨日2万2千歩も歩いたダメージがないはずはないし、それがダメージにならないほどの体力もない。これは今日の午後あたりから遅れて痛みが出るのではないかと嫌な予感がする。

 

 簡単に身支度をすると朝食へ。ホテルモーリスの特長は大浴場と充実した朝食バイキング。メニューの品数が多いバイキングで朝からガッツリと和洋両用で頂く。

    ホテルモーリスの朝食バイキングは多彩

 朝食を終えるとチェックアウト時刻の10時まで、風呂に入ったりテレビを見たりでマッタリ過ごす。今日は特に予定もないのでゆっくりした出発である。

 

 さあチェックアウトの前に着替えだというところで大ポカをしていたことに気づく。なんとアンダーシャツの着替えを持ってくるのを忘れていた。今回は年始でボーッとしていたせいか、どうも準備に忘れ物が多い。しかしそれにしてもシャツを忘れるとは。少しボケてきたか? 仕方ないのでチェックアウト後に隣の鳥取大丸で仕入れるが、価格の高さにぶったまげることになる。こんなところにもデパートが低迷する理由が伺える。昨日の時点で気づいていれば車を飛ばしてイオンに行ったのだが・・・。

 

 さて今日の予定だが、三朝温泉への移動という以外には何も決めていない。漠然とあるイメージは、三朝温泉に行く前に倉吉の白壁土蔵地区でも回ろうかと言うもの。鳥取でどこか立ち寄るところがあればよいのだが、全く思いつくところがない。そこでさっさと鳥取ライナーで倉吉に移動してしまうことにする。この区間は距離はそれほどでもないのだが、単線なので列車のすれ違いのための停車時間が長く、それが所要時間の長さにつながっている。

 

 1時間ほどを要して倉吉に到着。駅に降り立つといきなり萌え看板のお出迎え。もしかしてまた何かの聖地巡礼になってしまったか? 私にはそんな意図は微塵もないのだが、どうも最近は各地でこの手の聖地に出くわすことが多くなった。別にどうでもいいことなんだが一番嫌なのは、私がその手の地域をうろついていると、その風体などから聖地巡礼の一員だと判断されること。

    いきなり萌え看板のお出迎え

 ただこの看板の作品には心当たりがない。新手の萌えアニメだろうか? 私個人としてはこれよりも隣にあったダサイ看板のセンスの方が好きなんだが。

    しかし個人的にはこっちのセンスの方が好き

 横道に逸れたがとりあえず市内見学である。まずはキャリーをコインロッカーに放り込んでからバスで赤瓦・白壁地区まで移動する。倉吉の中心地は駅から結構距離がある。

    倉吉は生憎の雨

 実のところ、ここに来るのは初めてではない。しかしかれこれ8年前になり、その時は山陰地域鉄道旅行のついで短時間立ち寄っただけ。そこで今回、改めてじっくりと町並みを見学しようと考えた次第。

 

 赤瓦・白壁地区まではバスで10分程度。この辺りはかつての城下町の名残だそうで、背後に控える打吹山にはかつては打吹山城が存在したという。しかしその打吹山城も江戸時代には廃城となり、その後は倉吉の町は城下町から宿場町へと変遷を遂げたらしい。打吹山は現在は公園となっているようだが、城の遺構はほとんど残っていないようだし、既に昨日のダメージで足が斜面に対応するのはきつい状態になっているので、今回はそちらを訪問する気はない。

 

 倉吉には造り酒屋なども残っており、白壁の風情ある街並みが残っている。その中には観光客を対象にした商店なども結構あり、多くの観光客で賑わっている。各地の重伝建地区の中では観光開発が比較的軌道に乗っている方のように感じられる。ただあちこちに立っている萌え看板が少々気になる。

白壁土蔵、赤瓦の町並みが実に風情があるのだが・・・

なぜか町のあちこちに

萌え看板が・・・

 街並みを一回りしたところでお昼時。ちょうど「清水庵」なる飲食店があったのでここで昼食を摂ることにする。町屋を利用した風情ある建物で、私は二階に通される。

   

 ハンバーグ定食やエビフライ定食などのメニューもあるようだが、倉吉まで来てそんなものを食ったのでは面白くない。もっとご当地色のあるメニューをと思って調べたら、この店は薄く切った餅を鍋で頂く「餅しゃぶ」が名物らしい。そこで餅しゃぶにえびやほたてにうどんなどを加えた「餅しゃぶスペシャル(1620円)」を注文する。

 

 鍋のセットと12種類の薄い餅が出てくる。まずは普通に鍋として頂く。その後、餅を入れてしゃぶしゃぶ。餅は出汁に入れて数秒で柔らかくなるので、そこを頂く。微妙に味が違うのだが、そう大きな差はなくいずれも普通に餅(笑)。餅を頂いた後は最後はうどんで締めて終了。なかなかに美味であった。うどんを加えたことでボリューム的にも十二分。これは観光地飯にしては上々である。

 

 食事を終えた後は、白壁地区の東端に当たる大岳院を見学。表にかなりトップヘビーな門があるのだが、その構造のせいで地震でダメージでも受けたのか補強がかましてある状態。なおこの寺院は南総里見八犬伝で有名な里見氏ゆかりの寺院とのことである。元々は房総地区の大名だった里見氏だが、里見忠義が幕府から倉吉に国替えを命じられて、そのまま不遇の内にここで短い生涯を終えたとのことである。忠義の死に際しては8名の家臣が殉死しており、彼らは八賢士と呼ばれてこの寺院に葬られている。このエピソードが南総里見八犬伝の元ネタとなったらしい。八犬伝ゆかりなのか、現在の大岳院は犬関係の像が多いのが特徴。

左 大岳院山門  中央 大岳院本堂  右 里見家墓所

左・中央 寺院内のあちこちに犬の像が  右 いかにもトップヘビーな門が地震のダメージを受けた模様

 なお里見忠義は大久保忠隣の謀反に協力したとの咎で国替えを命じられたらしいが、これは江戸の近くに外様大名が存在することを嫌った幕府による言いがかりの可能性が高いだろう。実際に里見氏の安房は東京湾を封鎖できる位置にあり、幕府としては見過ごすわけにはいかない戦略的要衝である。江戸幕府は関東周辺は譜代で固める政策をとっており、常陸にいた佐竹氏なども秋田に国替えされている。

 

 大岳院の見学後は白壁地区を西に移動して、倉吉淀屋を見学。この建物は江戸時代の大阪の豪商・淀屋の番頭だった牧田仁右衛門が開いた倉吉淀屋の跡らしい。大阪の淀屋が幕府に睨まれてつぶされることを予見した淀屋四代目当主の重当が、取りつぶし後に淀屋復活のための足場とするべく密かに牧田をこの地に送り込んだのだとのこと。淀屋の五代目当主・広当は父の言いつけ通りに淀屋の鐘を湯水のごとくばらまき、ぜいたくの罪で淀屋は取りつぶしになって広当は大阪追放となり、淀屋の資産(今の金で100兆円以上とのこと)は没収となったという。その後、倉吉に送られていた牧田は淀屋の看板を掲げ(それまではあえて看板には屋号を入れずに商売を行っていたらしい)、後に倉吉淀屋の五代目の四男が淀屋清兵衛を名乗ることで大阪淀屋の再興もなった・・・とのことらしいのだが、どうもよく分からないところのある話である。またこの両淀屋も、徳川幕府が滅ぶ8年前の1859年に資金を朝廷に献上して突如閉鎖したというのだから、どうもまだまだ裏がありそうな気もする。

    倉吉淀屋

左 内部はかなり広い  中央 屋根の木組みの模型  右 実際に屋根はかなり立派な造り

 明治以降は普通の住宅として使用されており、近年までは3軒の貸家として使用されていたらしいのだが、最近になっての調査でこの建物に関するゆかりや江戸時代からの旧家であることなどが判明、市の指定文化財となって保存整備がされることになったとのこと。現在も旧状に復元するための工事が行われている。なおこの建物は釘を用いずにすべて木組みで建てられていることが特徴とか。やはり古い名家らしく良い木材を使用しているが、これも後に貸家にする際に低い位置に新たに張った天井を、整備に当たってはがしてから分かったことらしい。実際に全国各地には、この手の実は文化財級のぼろ屋というのがまだあるような気がする。

 

 この建物のいきさつは観光ガイドの方から伺ったのだが、この時に先ほどからずっと気になっていた萌え看板の正体も判明した。コナミが音楽のネット配信で打ち出したバーチャルアイドルらしい。彼女たちの活躍する舞台が倉野川市という架空の都市らしいのだが、それが白壁土蔵の町でどう考えても倉吉がモデルだとのこと。そこで市長がこれは町おこしのチャンスと、その架空の倉野川市と倉吉市の姉妹都市提携を決め、彼女たちは倉吉の観光大使キャラになったということらしい。しかしこの効果が侮れないとのことで、遙か関東から聖地巡礼に来るオタまで現れたとか。昨年春に企画した桜祭りイベントでは、人口5万人の町に6千人の観光客(つまりオタ)が押し掛け、倉吉周辺のホテルはすべて満室という大盛況になったらしい。萌えパワーも侮れない。こりゃ毎年恒例の某テレビ局のやらせチャリティー番組も、「愛は地球を救う」から「萌えは地方を救う」にキャッチコピーを変えた方がいいんと違うか。安倍内閣も建前としては地方創生を唱えてるんだから、安倍内閣の広報機関を自認している某局は率先してその政策に協力すべきだろう。

 

 倉吉淀屋の次はここの南にある豊田家住宅を見学。こちらは旧豪商の商家で、国登録有形文化財に指定されているとのこと。こちらもかなり良い材料を使用した豪邸である。そのためか、老朽建築なのに先の地震でもビクともしなかったらしく、庭の石塔までが先端の石が少し回っただけで全く崩れもしなかったとのこと。やはり先人の技術力は侮れないとのこと。ただいずこも同じで現在も保存整備のための費用には苦労しているらしい。所有者にしたら、ぶっ潰して駐車場にでもした方が収益があるというのが本音だろう。実際にそれでぶっ潰されてしまう文化財級の建築もこれまた少なくはない。国は文化財に指定するのは良いが、十分な保存費用は出さないというところに問題がある。概して日本の文化行政はお粗末である。

左 豊田家住宅  中央 中庭と塔  右 とにかく細工が細かい

左・中央 座敷などもいちいち細かい細工    右 中庭を上から 石塔の先端の石が回っているのが分かる

 これで重伝建地区の見学は終えたので、バスで倉吉駅に戻ると、ホテルからの送迎バスを待つ。駅からホテルまでは十数分。宿泊ホテルは以前にも泊まったことがある清流荘

    清流荘は一部工事中

 ホテルにチェックインを済ませると夕方に貸切浴場の予約を入れ、市街地を軽く散歩に出る。河原には露天風呂もあるが、これに入浴するのはかなり度胸がいる。三朝温泉の温泉街は以前に見学しているので改めて見て回るところもないが、相変わらずレトロな風情のある温泉街である。今時射的場なんて、ここ以外では福島の東山温泉でしか見た記憶がない。

    この露天風呂に入浴するのは度胸が必要

 温泉街を一回りして帰ってくると貸切浴場で入浴。相変わらずしっとりとした良い湯である。まさに体が癒やされる気分。昨日は山道で二万二千歩、今日も市街地をかなり歩き回ったのでとにかく体にダメージがある。ここは良くほぐしておくことにする。

  

貸切風呂で入浴後は、地サイダーで一服

 風呂からあがってきて一息ついた頃に部屋で夕食。夕食はお約束のカニ尽くし。とりあえずカニを堪能である。

 

 腹が膨れると眠くなってくる。疲れもあるしこの日は早めに就寝する。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は7時に起床・・・なのだが、体が重くて起きあがらない。どうやら太閤平ハイキングのダメージが二日遅れでやってきたようだ。どうにかこうにか体を起こすととりあえず朝風呂。温かい湯のおかげでようやく体が目を覚ます。

 

 朝食は食堂で和定食。朝からとろろ飯がありがたい。とりあえず燃料補給。

   

 しばし部屋で休息してから荷物をまとめると、駅まで送迎してもらう。外は生憎の雨だが、送迎のおかげで濡れずに移動できる。駅までは20分弱、今日はスーパーはくとで帰るだけだ。乗車の前に売店で土産物を仕入れると、ホームで待ちかまえているスーパーはくとに乗車。

   

土産品の数々 饅頭に萌えだんごに親父の水

 スーパーはくとの車内は木をベースにした和のテイスト。どことなくJR九州の車両の雰囲気だ。やはり往路の特急いなばよりも内装に高級感がある。

 

 山陰線、因美線、智頭急線のいずれも単線なので停車待ち合わせが多い。その中で智頭急線の恋山形駅はピンクの駅舎の恥ずかしい駅。駅名に恋が付く駅は日本で4つとのことで、これらの駅が連携してPRしてるそうな。なんか日本中が萌えに席巻されている模様。やはり日本の情緒と言えば「わび、さび、萌え」なんだろうか。最近の「クールジャパン」も専ら「萌えジャパン」になってきているようだし。もっともこの駅などはいわゆる恋人たちの聖地につきものの鐘なんかも置いてあって、あらゆる聖地要素がごった煮になったカオス状態になっている。このカオス状態なら、千客万来の招き猫やビリケンさんまでいても不思議でないかも・・・ってことはないか。

   

恋山形駅は何やら萌え駅になっていた

 間もなく列車は上郡に到着。ここからは山陽本線に乗り換えて家路にとついたのである。

 

 新年から鳥取で温泉浸かってカニ食ってというのが目的だったのだが、結果としてはいきなりハイキングをして温泉でダメージをほぐすという形になってしまった。ただ太閤ヶ平は完全に私の予想以上でこれは大きな収穫だった。また再訪した倉吉の町は、私の記憶に残っているよりは遥かに見所の多い町だったが、これは私の街並み鑑賞のポイントが変わってきていることも大きく影響しているだろう。そういうことを加味すると、初期に訪問した土地には再訪価値のあるところがまだ含まれているようにも思われる。とは言うものの、既にそのための軍資金はほぼ尽きているが。

 

 なお今回の鳥取遠征では全く雪に遭遇することもなく、これだと車で行けば良かったと思ったのだが、その翌週末には鳥取地域は記録的豪雪に襲われ、鳥取周辺の道路で一日以上に渡って大量の車が立ち往生するという大事件が発生。私はたまたま幸運だっただけであり、やはり冬の日本海をあまく見てはいけないということを再認識させられたのである。

 

 

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