展覧会遠征 北部九州・広島編

 

 さて今年のGWだが、九州北部方面に遠征することとなった。ただ私の体力及び財力を考えると恐らくGWの大遠征は今年が最後ではないかと思っている。そしてこの遠征の目的は例によって「宿題を片づける」。九州北部地区に残る未訪問城郭の訪問及び、去年台風のせいで流れた未訪問重伝建の的山大島の視察、さらに最近オープンした大分県立美術館の訪問などである。これらを核にプランニングは半年以上前から開始され、二転三転した挙げ句にまとまった次第。

 

 出発は火曜の夜。火曜の仕事を終えるとそのまま車で出かける。目指すは東広島。さすがに一日で一気に九州まで行くのは体力が持たないので、広島で中継しようという考え。宿泊するのは東広島グリーンホテルモーリス。山陰地域を中心とするローカルホテルチェーンのホテルで、安価な宿泊料金に大浴場付きでおいしい朝食、さらに明るい部屋に風呂場には無料のマッサージチェアまであるという、悉く私のツボを押さえたホテルであり、私の全国ホテルランキングでもトップに輝くホテルである。

 

 高速の渋滞が怖かったのだが、幸いにして渋滞もなく順調に東広島に到着。ただ仕事後に2時間以上の運転というのはかなりキツく、到着した頃にはヘロヘロである。とりあえずホテルに入る前に夕食を済ませておきたい。

 

 行こうと考えていた店は残念ながらお休み。そこで仕方ないのでホテルの向かいにあるラーメン屋「博多ラーメン一龍」を訪問、ラーメンと焼きめしにチキンカツのセットをガッツリと頂く。ここの焼きめしは結構私の好みの味付け。ラーメンは博多ラーメンにしては意外とあっさり目である。

 夕食を終えるとホテルにチェックイン。大浴場とマッサージチェアでしっかり疲れを抜いてからこの日は就寝する。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 爆睡してから、翌朝は6時半に起床。まずは朝食。朝食は和洋両用の充実したバイキングである。タップリと腹に叩き込むと朝風呂で目を覚ます。

 バイキング朝食

 さて今日の予定だが、九州まで一気に走って福岡の長野城に立ち寄るつもり。ここが九州での城郭の宿題として残っていたのである。ただ天気予報を見ると、福岡では午後から天候が崩れて雷雨のおそれがあるという気になる予報が。これは行動を早めた方が良さそうだ。8時過ぎにはさっとチェックアウトすることにする。

 

 九州まではかなりの長距離ドライブとなる。幸いにして懸念された渋滞もなく快調なドライビング。九州に渡って九州自動車道を小倉東ICで降りた頃には昼前になる。

 

 さて「長野城」だが、中世にこの辺りを治めた長野氏の居城であったという。その後、長野氏は大内氏に属したり毛利氏に属したり、さらには大友氏に属したりと九州北部の勢力争いに巻き込まれて所属を転々とするのだが、最終的には秀吉の九州征伐後に筑前に入った小早川隆景の配下となって当地を去ったことで長野城は廃城となったらしい。

 

 このように今一つ来歴のハッキリしない城である。しかし私の訪問が今まで延び延びになってしまっていた理由は、アクセスが悪いために訪れる機会がなかったということもあるが、どうもネットで調べているとあまり良い情報が出てこないので気が進まなかったということもある。曰く「山道に車が入れないので、長距離を延々歩く必要がある」曰く「山道が途中で崩落しており、アクセスができない」曰く「山にはマムシやイノシシなどが出るらしい」などなど。果ては「北九州は工藤会が仕切っている修羅の国なので、ケンシロウかラオウでないと生き延びられない」という話まで。私はケンシロウやラオウどころか、せいぜい放送開始5分でモヒカンに殺される村人Aといったところなので、これでは訪問は不可能・・・とこれは冗談。神戸の長田で生まれて大阪で暮らしたことのある者が、ヤクザを恐れていたら家から一歩も出られない。それに小倉を歩いている者が全員ヤクザなんてことはないのは以前に訪問した時に分かっている(実は小倉の町はおいしいものも食べられるなかなか良いところである)。それはともかくとして、前の二つの話は非常に気になるところ。山道を歩くのは体力がキツいし、その挙げ句に登城不可なら目も当てられない。

 このさらに奥の山上らしい

 と言っても現地を見てみないと分からない。とりあえず現地に着くと、手前のところに「ここから先は生活道路で道幅が狭いから車は入らないでくれ」の看板が。そこでその手前の駐車場に車を置いて徒歩で進むことにする。

 

 しばらく進むと確かに進入禁止になっていて監視カメラまである。あまりの物々しさにひるむが、どうもこの車止めと監視カメラは産業廃棄物の不法投棄などを防ぐためのものらしい。やはり場所柄か怪しい産廃処分業者などが山林に不法投棄をする例があるようだ。車は通れないようになっているが、よく見ると人が通るための扉はある。ただ「イノシシ注意」「ハブ注意」の看板があって、進行意欲をそがれそうになる。

左 監視カメラに  中央 車止めゲート  右 さらに注意喚起の看板  かなり厳重である

 ここから山道を歩いていくことになる。山道はしばしは舗装もされており道幅も意外と広い。どうもこれが災いして怪しい産廃業者がトラックで入り込むことになったようである。この道をしばし進むと道路は未舗装になるが道幅はやはりあまり狭くはない。いかにも放置されている風なので倒木や土砂で路面は荒れているが、実際は車止めさえなければ私のノートなどでも入り込めそうだし、途中で転回できるスペースもある。

荒れてはいるものの概ね良好な道路を歩いて行くと、唐突に通行止めの表示が

 大分進んだところで工事用の車止めフェンスが置いてあり、通行止めの表示が出ている。それを抜けてさらにしばし進むと2つめの表示があり、その先の路面が大幅にえぐれている。どうやら路面の崩落場所のようだ。見たところ、ちょうど山からの水が出てくる沢筋で、崩落というよりも陥没と言った方がよい崩れ方をしている。これでは車は通れないが、人の場合は少し回り込めば普通に進める。そしてちょうどのこの陥没場所の脇に「→長野城二の丸」という標識が出ている。ここまで緩い登り坂で特に厳しい行程はなかったが、大体20分ちょっとかかっていた。確かに「思ったよりも長い道」ではある。

その先に二つ目の通行止め表示があり、路面の陥没部分、そのすぐ先が登り口である

 ここからトラロープを手がかりにしての斜面(と崖の中間ぐらい)の直登である。と言っても私が登れるぐらいだから、ベテラン山城マニアなら鼻歌歌いながら登れるぐらいなのだろう。今日は雨の予報どころかカンカン照りで暑くて仕方ないのだが、鬱蒼としているのが幸いして直射日光にさらされることはない。この登りは幸いにしてそう長くはない。5分も登れば二の丸の脇に出る。二の丸は最高所に小さな削平地があるだけ。その一方は削り残しを土塁にしてある。ただかなり狭いスペースなので、せいぜいが最前線の駐屯所程度のイメージ。

左 息を切らせながら登り切る  中央 二の丸の土塁  右 二の丸はかなり狭い

 ここから尾根づたいに進むと本丸にたどり着く・・・のだが、私はここで道を誤って挙げ句が崖から滑落しそうになるトラブルに。しかもこの時に危うく片足の靴を落とすところだった。これは焦った。こんなところで靴を失ったら進退窮まる。本格的登山靴が脱げにくいように足首までの編み上げになっている理由に今更納得である。ちなみに私が今履いているのはくるぶしまでの簡易ハイキングシューズ。結局は山中で完全に方向を見失って思っていた方向と逆に進もうとしていたことが判明、途中からやっと本コースに戻る。ここからは尾根筋を本丸に向かって登っていくことになるが、ここの脇の何重もの畝状竪堀がこの城の最大の特徴のようだ。

周囲には畝状竪堀がいくつもあるところを越えて、本丸方面に向かう

 何段かの小曲輪を経てしばし尾根筋を登っていくと鬱蒼とした削平地に出る。ここで初めて「本丸」の表示を見かける。しかし本丸と言っても一面の笹林。眺望もないし構造も今一つつかめない。せめて下草だけでも刈っていてくれたら・・・。

左 本丸までにはいくつかの曲輪が  中央 ひたすら登る  右 途中には巨石がゴロゴロ

左 本丸手前の曲輪と土塁  中央 本丸らしき削平地に到着したが鬱蒼としている  右 かろうじて本丸表示発見

 ここから出丸の方に降りていこうと考えていたのだが、その降り口が分からない。一カ所ロープを張ってあるところがあったのでそこを降りていったのだが、途中で正体不明の行き止まりの山道に出て、辺りには不法投棄されたらしき荒ゴミ類が。これは完全に道を間違ったと判断して再び本丸に戻るが、結局は出丸の見学はあきらめて二の丸から戻ることにする。一人山歩きの基本原則「道に迷ったらとにかく来た道を戻れ」に従うことにする。

ロープに従って進んだが、最終的には意味不明の場所に出てしまう

 下の山道まで降りてきて、しばし戻ったところで「→出丸、本丸」の看板を見かけたこうしてみるとすぐ隣だったようである。ただもうここを再び登る気力も体力もないので長野城の見学はこれで終えることにした。

 復路、陥没地帯のすぐ手前に出丸への入口らしき箇所を発見、しかし登る元気はなし

 とにかく整備状況が良くないし、城自体の規模も小さく、見所としては特徴的な畝状竪堀ぐらいか。ただ曲輪自体の面積から考えるとそう大きな兵力を置けたとも思えず、いくら畝状竪堀で周囲を固めても大軍に攻められたらひとたまりもなかったろう。もっとも地方豪族の長野氏が秀吉の侵攻に対抗できるだけの兵力をそもそも動員できるわけもないが。なおこの長野城については私の続100名城Bクラスというところであろう。もう少し整備して見学しやすくなっていればAクラスの可能性もあったが。

 

 トボトボと山道を下ってようやく車のところまで戻ってきた時には2時間半ほどかかっていた。山城の規模の割には散策に時間を費やしてしまった。次の目的地へと移動することにする。

 

 さて次の目的地をどうするかだが、ザクッと調べたところによると福岡市美術館で面白い催しが行われているようだ。そこでそれを見学することにする。福岡めがけて長距離ドライブ。疲れたし昼時になったので、途中の古賀SAで昼食を摂ってからソフトクリームでクールダウン。それにしても今日は暑い。目的の福岡市美術館に到着した頃には3時前になっていた。


「アンコールワットへのみち 神々の彫像」福岡市美術館で6/14まで

  

 現在のカンボジア地域で9〜15世紀にかけて勢力を誇ったアンコール王朝は、世界遺産に指定されたアンコールワットに代表される多くの石造遺跡を建造している。ヒンドゥーや仏教の神々を刻んだこれらの石像は、年代によってそれぞれの特徴を有し、その高い文化水準をも示している。このような神像彫刻を展示する。

 彫刻の非常な精緻さが目を惹くのであるが、やはり年代が下るにつれてその彫刻の技術が上がってきて段々と凝ったものになっていくのが興味深い。またヒンドゥーの神々は動物と融合したような異形の神も多く、それらの造形はなかなかに面白いものがある。この辺りは純粋に彫刻として楽しめる。

 それにしてもつくづく感じるのはヒンドゥーのおおらかさである。自然に仏教を取り込んでしまっているのには驚かされる。この辺りは偏狭な一神教であるキリスト教やイスラム教と根本的に異なるところである。多神教であって基本的には自然崇拝であるヒンドゥー教は同様の性質を持つ古代ローマの信仰や日本の原始神道に近いようである。


 神々がゾロゾロと出てくるが、ガネーシャ、ラクシュミ、シヴァ、ヴィシュヌなどと聞いていると、「女神転生」を思い出す。実際にあの辺りで聞き覚えのある名前が続出するのが楽しかったりする。

 

 なかなかに面白い展示であった。ただ見学時間が1時間足らずだったにも関わらず、駐車料金を400円も取られたのはビックリした。これはかなりのボッタクリである。

 

 今日の宿泊予定地は太宰府。ルートイングランティア太宰府を予約している。ただホテルに入る前に九州国立博物館を見学するつもり。閉館時刻が5時なので急ぐ。


「戦国大名−九州の群雄とアジアの波涛−」九州国立博物館で5/31まで

  

 戦国時代に九州に群雄割拠して勢力争いを繰り広げた戦国大名にまつわる品々を展示。

 九州で覇を競った戦国大名と言えば、大友氏、島津氏、龍造寺氏などあるが、この中でも特に大友氏関連の展示にかなりスペースを割いていた。大友氏と言えば大友宗麟がキリシタン大名として知られ、以前から諸外国との貿易で富を蓄積していたために、そういう外国にまつわる品々も非常に多く、展示品には事欠かないという印象である。大友宗麟と言えば、戦国マニアの間では「変態」「オタク」などとどうもあまり良くないイメージが固定化されているが(またそのイメージを補強するような資料ばかりが残っているのも事実だが・・・)、華麗な品々は一時は九州の覇者に近づいていた宗麟の面目躍如ではある。

 またテーマ的に茶器などの展示もあり、これがまたなかなかに良かったのである。


 特別展を見学すると、常設展の方は10分ちょっとで駆け足で一回りである。前回訪問時もここの常設展をゆっくりと見学することはできなかったのだが、今回も駆け足になってしまった。なかなかに見応えのありそうな内容なのだが・・・。なおここの駐車場も1時間泊めただけで500円もボッタクられた。これが福岡の相場なのか? こりゃ工藤会よりも公共施設の方がよほどヤクザだ。

 

 これで今日の予定は終了したので、宿泊ホテルに向かう。ホテルはこの近くに確保している。連休期間でホテルが取りにくかったこともあり「困った時のルートイン」というわけでルートイングランティア太宰府を予約している。ホテルは太宰府奥の山上にあり、日帰り銭湯に隣接してホテル棟を建てたとていう構造。下とはかなり距離があるので、これは夕食に行くのは難儀だなと思っていたのだが、どうやら私は夕食付きプランにしていたようだ(完全に忘れていた)。そこで大浴場でザッと入浴してから夕食のためにレストランへ。

 夕食はまあ可もなく不可もなくというところ。夕食を終えるとさっきは汗を流すためだけに簡単に入浴したので、今度は疲れを抜くために再びゆったりと入浴する。なおこここの大浴場はアルカリ単純泉とのこと。ややネットリした感触の湯である。グランティアなので露天風呂付きでやや豪華。

 入浴してからしばしマッタリすると、疲れたので早めに就寝する。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時半に起床する。昨日のダメージが足に少々残っており、ふくらはぎがダルい。広島からの中距離運転の挙げ句の登山、さらに博物館内を歩き回ったのも地味に効いている。実際に昨日一日で1万6千歩を越えている。

 

 とりあえず朝風呂に行くと、それから朝食。朝食はバイキングだが、通常のルートインとは少し品目が違う。グランティアはルートインよりも地味に豪華である。しっかり燃料補給。

 通常のルートインよりは豪華

 さて今日の予定だが、今日はこれも宿題だった的山大島の重伝建である神浦を訪問する予定。そのためのフェリーは平戸から13時に出るので、それまでに平戸に到着しないといけない。

 

 グーグル先生にお伺いを立てたところ、所要時間は2時間ちょっと。私のカーナビに尋ねると3時間とのこと。例によってグーグル先生は健脚である。とりあえずホテルをチェックアウトしたのは8時過ぎ。九州自動車道と長崎自動車道、さらに西九州自動車道を乗り継いで佐世保方面を目指す。

 

 佐世保からは松浦鉄道に沿って走ることになる。途中で直谷城に立ち寄ることも考えていたが、いざ現地に到着すると駐車場が空いていなかったことや、時間が予定よりも遅れ気味になっていることから、直谷城は明日に回すことにして平戸に直行する。

 

 平戸に到着したのは11時半頃。フェリー港に車を置くとまずは昼食を摂ることにする。近くに旬鮮館なる漁港直売の店があったので、そこで昼食を摂る。「天然ひらめ刺身定食(1500円)」に小鉢の「小イカの煮物(200円)」をつける。

 さすがに刺身の鮮度がよい。それがひらめの歯ごたえに現れている。またイカの煮物がうまい。古かったら内臓が臭くなってしまうが、当然ながらそんな気配は微塵もない。

平戸港に平戸城

 昼食を終えるとフェリーのチケット購入。的山大島までのフェリーは車を輸送する場合は完全予約制なので、私も事前に電話予約してある。車の積み込みは出航時刻の30分前からぐらいとのこと。まだ時間的余裕があるので、その間に町並み見学に出る。

平戸の町並み

 平戸の町並みは決して古いものではないが、観光を意識して外観を統一してあるようで見栄えがよい。プラプラと町並みを散策するとそのはずれにあるオランダ商館に入館する。これはオランダ貿易が出島に限られる前にこの地にあったオランダ商館の倉庫を復元建築したものだという。内部にオランダとの交易に関する資料などを展示してある。

海沿いにあるオランダ商館には貿易にまつわる品を展示

周囲には当時の商館の遺跡や井戸などが残っている

 サクッと見て回ったところでそろそろ12時半。フェリー港で待機することにする。的山大島との間は一隻の小型フェリーがピストン運航されている。フェリー自体は瀬戸内海の離島便などでもよく見かけるタイプ。フェリーとしては小型だが、離島便フェリーの中では中型に属するだろう。トラックなど結構多くの車が乗っており、これが完全予約制だった理由が頷ける。

 フェリー内部

 フェリーの旅は45分程度。外海に出ると湾内よりは揺れるが、今日はそんなに海は荒れていない。時間通りに的山港に到着する。

的山大島が見えてきた

 的山大島はそう大きな島ではないが、その割りには中央部の山が高く、非常に険しい島という印象である。そのために棚田が非常に多い。また道路は内陸に回り込んでいるために起伏が多いので、電動アシスト自転車程度では歯が立たないだろう。またフェリーの時刻に合わせてコミュニティバスの運行もあるようだが、これは本数が限られるので行動が制約される。やはり車を持参したのは正解だったようだ。

棚田の風景

 神浦には車で10分程度で到着する。神浦はかつての漁港の町並みが重伝建となっている。車一台が通行するのがやっとの狭い路地に面して住宅が軒を並べている。ただ気になるのは空き家が多いこと。かつては6000人いた島の人口も、今では1000人ほどに減少しているとのことで、高齢化も進んでいるらしい。いずこでも同じ構造である。

狭い通り沿いの住宅には空き家も多い

居住しているものもあるが、老朽化で倒壊寸前の空き家も

 町の背後の高台には神社がある。これは室津や牛窓などこの手の港町ではお約束の構造である。津波の危険がある時などはこの神社が避難場所になるのだろう。ここからは町並みを見下ろすことが出来る。

高台の神社に登って町並みを見下ろす

 同じく高台にかつて医師の住宅だった家屋が一般公開されているが、これは普通のちょっと大きな住宅というところで何らかの特徴があるというものでない。町の中にも見学施設のようなものはなかったし、やはり商家町などと違って観光的には今ひとつ見所がないというのが正直な印象だ。離島で交通の便が悪いこともあるし、こんなところまでわざわざ観光に来るのは私のような物好きぐらいか。

公開中の住宅

 神浦の見学を終えたがまだフェリーの出航時間までかなりある。そこで島内を車でグルグル。近くのふるさと資料館ではこの地域の歴史を展示してある。やはり産業は農業と漁業が主体だったようだ。かつては捕鯨も行われていたようである。

ふるさと資料館には地元の祭や民具を展示

 高台に漁火館なる施設があるが、ここはどうやら宿泊施設の模様。しかし全く人の気配がない。

高台の漁火館は見晴らしは良いが人の気配がない

 的山港に戻ってきたものの、まだフェリー出航時間まで1時間ちょっとある。的山の市街にも時間をつぶせそうなところはないし、どこか見学するところはないかとウロウロしていたら農業公園という表示を見つけたのでその案内に従って進むことにする。しかし道はウネウネとした山道につながり、ドンドンと標高が上がっていく。結局、到着したのは島の中央の山頂。ここがなぜ農業公園なんだと疑問を感じたが、ここの展望台から見下ろすと、目の前に棚田が広がっている。これが「農業公園」という意味なんだろうか?

的山の集落を抜けて農業公園に向かうが、道が段々ととんでもないことに

農業公園からの風景

 的山大島を回って感じたことは、基本的に観光地としての整備はほとんどされていないということだ。観光客相手の商店などもほとんどない。実際こっちに来てから、早めに平戸に着いて昼食を済ましてきたのが正解だったと痛感した。元々観光客が少ないから観光客をターゲットにしても経営が成り立たないのだろう。観光開発がことごとく中途半端な気がするが、そもそもこの島まで観光客を吸引すべき目玉がない。この島の産業の中心に観光を据えるのはかなり難しそうだ。やはりこういう地域は農林水産業で自立できるのが正しいあり方なのだが、そのためには社会全体のあり方自体を変更する必要があるから困難である。なかなかこの島の将来に良いビジョンが描けない。

 フェリーが到着した

 フェリーで平戸港に戻ってくると、コンビニで夜食を買い込んでからホテルにチェックインする。今日の宿泊ホテルは平戸海上ホテル。やや古びた感のある巨大ホテルだが、内部は綺麗にしてある。例によって楽天トラベルで探した「高級ホテルの廉価プラン」である。

 

 部屋はツインでなかなか広く、前面オーシャンビューという豪華なもの。向こうに平戸城も見えている。とりあえず着替えると夕食前に露天風呂に入浴にいく。

なかなか良い部屋で、窓からは海や平戸城も見える

 泉質はナトリウム−炭酸水素塩泉のアルカリ泉である。特別にヌルヌル感があるわけではないが、肌にネットリと来るタイプのお湯である。露天風呂は海が見える風呂だが、残念ながら浴槽に入ると防波堤しか見えない。

 

 風呂から上がると夕食の時間なので、宴会場に夕食を摂りに向かう。

 

 なおここのホテルでの話ではないのだが、どこのホテルでも夕食時にドリンクオーダーを聞いてくるが、基本的にアルコールが全く駄目な私はドリンクを取らないのが普通である。するとホテルによっては露骨に嫌な顔をすることがある。ホテルとしてはドリンクは利幅が大きいので、ビールなどをガバガバ飲んで欲しいのが本音だろう。しかしそれはそれで「それならお茶をお持ちしましょうか」と来るのがまともなサービスのホテルである。しかしホテルによってはその後完全に放っておかれて、茶も水も何も持ってこずに無視されたというところもある。

 

 こういう時に私が使う小道具にカメラがある。私は料理の写真を撮る場合は店側にプレッシャーをかけるのが嫌なので、店員のいない時にさりげなく撮ることが多いのだが、こういう場合には逆にあからさまに「写真を撮っていますよ」という撮り方をするのである。こうすることで「なめたマネをしていると、楽天トラベルで最低点の口コミを投稿するぞ。ブログでボロクソに書くぞ。」という「ややこしい客」の雰囲気を演出するわけである(実際には私はそういうことはせずに、単にその後そのホテルを完全無視するだけだが)。なお幸いにして今までホテルでここまでひどい対応をされたことはほとんどない。なお飲食店の場合は実質的にワンオーダーがルールになっているようなところもあるので(私はアルコールは駄目なんですがと言った時の反応で大体分かる)、その場合にはウーロン茶を頼んでおくことが多い。ちなみにそこで「それならお茶で良いですね」と向こうから言い出す店は私的には高評価となる(よほど料理がまずければ別だが)。

 さて完全に話がわき道にそれたが、ここの料理は予想通りに海産物を中心とした会席料理。これに焼き肉がついてくるという比較的オーソドックスな内容。たださすがに刺身の鮮度は良いし、料理自体の味も良い。なかなかに堪能できたのである。

 

 夕食後は大浴場で入浴する。大浴場は「水族館風呂」ということになっているが、これはどういう意味かは風呂に入るとすぐに分かる。風呂の周りに窓があってその向こうを魚が泳いでいる。男湯と女湯の周りをドーナツ状の水槽が囲んでいるようである。伊東温泉のハトヤホテルに「魚が泳ぐ水中風呂」というのがあったが、こちらは「魚が泳ぐ生け簀風呂」である。よく見るとタイや鰯など美味しそうな魚が泳いでいる中にウミガメが一匹だけ泳いでいる。なお水流でもあるのか、大抵の魚が同じ方向に泳いでいる中、たまに逆方向に向かう魚がいる。あえて時流に逆らう私のようなひねくれ者が魚にもいるらしい。さらによく見ていると、最初は一匹だけが逆向きに泳いでいるのだが、その内にそれに刺激されて同じ方向に向かう魚が数匹出てくる。なんか人生の縮図だよな・・・。

 

 なかなかに快適なホテルだが、場所柄難点なのがネット環境が皆無なこと。LANなどがないのは温泉ホテルでは普通だが、ここは場所がはずれであるせいか携帯さえも満足につながらない。私のauではLTEはおろか3Gさえも不可で、音声通話がギリギリという状況。これだとメールを読むのが限界である。テレビはろくな番組がないし、これはなかなかツライ。結局この日は疲れていることもあって早めに就寝する。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時半に起床。今朝は海に濃霧が発生していて視界が悪い。東山魁夷とかがそのまま絵画にしそうな状況。名付けて「海霧日照」。

 とりあえず朝風呂を浴びてからバイキング朝食を摂る。今日は昨日立ち寄れなかった直谷城に立ち寄るつもりであるので、早めに行動を開始することにする。8時にはホテルをチェックアウトする。

 ただ平戸を離れる前にフランシスコ・ザビエル教会には立ち寄っておこうと考える。そこでカーナビを頼りに進むが、この周辺がとんでもない路地地獄。ようやく現地に到着すれば観光用の駐車場まで備えた完全な観光地なのだが、そこまでのルートがまるで迷路である。結局はたどり着くまでに何度も辺りをクルクル回る羽目になってかなり時間を浪費する。

路地地獄を通り抜けてようやくザビエル教会に到着する

 ようやくフランシスコ・ザビエル教会の見学を終えると直谷城まで長躯ドライブとなる。

 

 「直谷城」は吉井北小学校の裏山にある。大手口の前に車を置くと、案内に従って直谷城の見学に向かう。

案内に従って森の中に分け入っていく

 直谷城は松浦党のに属する在地領主・志佐氏の居城だった城郭である。志佐氏は15世紀には朝鮮や琉球と活発に海上貿易を行っており、戦国時代にこの地に本拠地を移動したと考えられるとのこと。戦国時代の争乱を経て、最終的にはこの地は松浦隆信の治めるところとなるが、一国一城令によって廃城となったとのことである。

 大手道は左右両側の尾根筋の間を通る形になっており、完全に狙い撃ちである。また途中には土塁や空堀で進行が妨げられるようになっている。

左 大手道は鬱蒼としている  中央 土塁や堀がある  右 何段かになっている

左 一の空堀  中央 一の土塁と背後の武者溜まり  右 井戸もある

 木戸跡を抜けると一の郭に登る。一の郭は結構な広さがあり、ここには建造物の跡なども見つかったという。また一の郭の一部には天守台があって、今はお約束のようにそこは神社となっている。

左 この辺りに木戸が  中央 二の木戸跡  右 本丸と搦め手口への分岐

左 本丸に出た  中央 城跡碑の背後に天守台  右 本丸は結構広い

左 姫落としの岩は崩落で立ち入り禁止  中央 南の櫓台  右 櫓台の先の物見台に出る

物見台からの風景

 一の郭の北方には二の郭があり、ここもそれなりの広さがある。

左 天守台の裏手が二の丸  中央 二の丸  右 ここも結構な面積がある

 木戸のところから一の郭と反対側に進むと搦手口がある。ここはずっと裏手に通じているようだ。またこの道を尾根から狙い撃ちされる構造になっている。なおこの尾根の上に登れるようにロープが垂らしてあるが、尾根筋の上はかなり狭いようで、万一よろけて落ちたら命に関わりそうなので登るのはやめておく。

左 搦め手口に向かう  中央 搦め手道  右 岩が迫り出している

左 ここが搦め手の木戸跡  中央 竪堀もある  右 尾根上に登るロープもあるが・・・

 なかなかに見応えのある城郭だった。ところどころロープを吊してあるようなワイルドな城郭なので、付近の小学生なんかにとっては格好の秘密基地なのではないかという気がする。こういうところで野山を走り回って遊んでいたら元気な子供になりそうだ。もっとも無茶をしすぎて転落したらただでは済まないが。

 

 直谷城の見学の後はさらに南下して、やはり松浦党の城郭であった「武辺城」のある山までやってくる。しかし付近に車を置いて徒歩で回ってみたが、どうもこの山には登り口がなさそうである。墓地のところから道らしきものもあったのだが、山頂には通じておらず山の途中で道が消失している。竪堀と思えるような構造は各地にあるし、そう大きな山ではないので斜面を直登する手もないこともないが、そもそもあまり整備がされていないようなので、頂上にたどり着いても城の遺構が私に分かるかは疑問である。また単独行の原則は「道のないところには行くな」である。やはり私のような素人の単独行では、案内看板も設置されていないような城郭はかなりキツい。ここは無理をせずに撤退することにする。

左 武辺城遠景  中央 山道を進むと  右 竪堀と思われる構造は各地にあるが・・・

 これで山城の予定は終了。この次は鍾乳洞である。ここから南下した先に七ツ釜鍾乳洞なる鍾乳洞があるという情報を得ている。西九州自動車道と有料道路を経由して南方までまた長躯ドライブをすることに。

 七ツ釜鍾乳洞は観光洞として整備されている鍾乳洞である。総延長は1500メートル以上あるとのことだが、観光用に見学できるのは300メートル程度である。内部は鍾乳石はそれほど発達はしておらず、あちこちで水が噴き出していたりなど水気の多い洞窟であることが印象に残る。また通路の各地でかなり狭いところがあるので、小錦などなら通行不可能である。

いざ入洞

内部はとにかく狭くて登りが多くて湿っぽい

 洞窟を抜けると出発地点からかなり高い位置に出てくる。辺りは石灰岩がゴロゴロの地形である。この中を出発地点まで降りてくることになる。

 外はこんな感じ

 鍾乳洞の見学を終えたところで13時頃。朝早くからサクサクと行動を開始した結果、想定よりも遙かに早く今日の予定を終えてしまった。今日の宿泊地は嬉野温泉の予定だが、ホテルのチェックインは3時からなので、今から向かったのではあまりに早すぎる。そこでこの周辺で訪問するべきところと考えた時に、浮上したのは鹿島の浜庄津町浜金屋町と浜中町八本木宿。これらは隣接した地域であり、庄津町浜金屋町は河川輸送の港町、浜中町八本木宿は醸造町である。以前に訪問した時には駐車場が見つからなかったのと先を急いでいたことから、車で通過しただけでまともに見学をしていない。その後の調査で観光用の駐車場のあることは判明しており、何かの機会があれば再訪したいと思っていたので、本遠征でも状況次第でオプショナルツアーにと考えていたのである。

 

 一旦嬉野を通過してから鹿島まで車を走らせる。観光駐車場は川縁にあることは調べがついているそこに車をおくと徒歩で散策する。

 

 まずは庄津町浜金屋町の見学。こちらは狭い路地に面して茅葺き土壁の住宅が建っている。茅葺きは今では維持するのが大変なので大抵の家がトタンを被してあるが、数軒の住宅は茅葺きの状態で復元してあり、内部を見学できる住宅が数軒ある。またまだ居住者がいる住宅もあるようである。

エリア内には数軒の茅葺き住宅がある

 浜中町八本木宿は数軒の醸造所を中心とした町並み。酒蔵見学が出来るところもあるようである。こちらは観光客を相手にした店などもあり、住民もかなりいるようである。聞いたところによると最近になって越してきて商売を始めるところもあるらしい。また祭の時には多くの観光客でかなり賑わうとか。町並み保存を観光と結びつけて比較的成功している例に思われる。やはり重伝建でも商家町が一番成功しやすいようである。

 まだ昼食を摂っていなかったことから途中の茶店で「酒蔵カレー(1200円)」を頂く。かなりコクのあるカレーという印象。煮込んだカレーではアルコール分は飛んでいるので私が食べても問題ない。

 鹿島の見学を終えるとホテルに向かうことにする。今日の宿泊ホテルは和多屋別荘。以前に嬉野温泉を訪問した際に宿泊したことがある高級ホテルである。今回利用したのは例によっての高級ホテルの廉価プラン。夕食なしの朝食のみプランである(それでも宿泊料は昨日のホテルより高い)。

 

 以前の宿泊時は洋室であったが、今回は同じ棟の和室。例によって建物は古めであるが、部屋は綺麗だし、そもそもはかなり豪華な部屋だったことを伺わせる。

 部屋に入って一息つくとまずは入浴を。アルカリ含食塩重曹泉の湯は肌にしっとりとなじんで心地よい。何しろここの湯は無加水の掛け流しである。高温の源泉を冷ますための設備まで持っている。以前に訪問した際もこの湯に魅せられたのだ。

 何やら別館の方には鬼灯様の喜びそうなディスプレイが

 温泉をたっぷりと堪能すると外出する。夕食を摂る必要があるからだが、もう一つ用事もある。というのも、そろそろ着替えが乏しくなってきたので洗濯の必要があるということ。長期遠征では全日程分の着替えを持参すると荷物量がとんでもないことになるので、途中で洗濯が必須である。しかも今回は夏並に暑かったので下着は毎日替えることが不可欠。私の遠征は大抵はビジネスホテルなのでコインランドリーには事欠かないのだが、今回の遠征では温泉ホテルが続いたために洗濯の機会がなかったのである。特に一昨日のルートインがコインランドリーを装備していなかったのが計算外。そこで慌ててコインランドリーを探す必要に迫られた次第。

 

 幸いにしてネットで調べるとすぐに近くのコインランドリーが見つかった。そこで洗濯物を持参してコインランドリーに放り込むと、待ち時間の間に夕食を摂る店を探す。

 

 しかしこちらの方が困る。適当な店がない。やむなく最終手段を取ることにした。近くのスーパーに入って持ち帰りすしを物色、結局はこれがこの日の夕食になる。旅情もくそも一気に吹っ飛ぶ貧乏人最終手段。「高級ホテルに泊まって一体何を食ってるんだ」パターンである。

 高級ホテルで何を食ってるんだの夕食

 その後は何度かさらに入浴、腹が寂しくなったところでホテル内のラーメン屋で博多ラーメンをいただき、この日は早めに就寝する。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 そろそろ疲労がたまってきており、この夜は爆睡している。翌朝は6時頃に目が覚めたのでとりあえず朝風呂。これは極楽気分である。朝食はバイキング。これはさすがに高級ホテルバイキングらしくかなり豊富な内容。

 高級バイキング

 さて今日の予定だが、熊本まで移動してその周辺の城郭を攻略するつもりである。それにしても今日も暑い。これは野外を歩き回るのは結構キツそうだ。

 

 まず最初に向かったのは古代城郭である「基肄城」。白村江の戦いで惨敗した大和朝廷が、唐・新羅連合の襲来に備えて建造した一連の城郭の一つである。

進むにつれて道は段々と山道になっていく

 鳥栖ICで高速を降りると、基肄城は近くの山上にある。山上までは一応車で登れるようである。途中から道は段々と狭くなっていくが、今までの一連の山城攻略で通った山道のことを思えば何と言うことはない。まもなく山上の駐車場に到着する。

左 山上の駐車場に車を置く  右 この斜面は草スキー場らしい

 山上は草スキー場になっているようで結構多くの観光客が来ている。案内看板などで確認すると、どうやらこの山上付近に基肄城の遺構があるようだ。ただそれを一周するには2時間程度かかるらしい。

 

 ただここに来て水の用意を忘れていたことに気づいた。水なしでは2時間もの山歩きは完全に自殺行為だ。しかも案内看板を見てもどうもどっちに進めば良いのかが今ひとつよく分からない。また山を下りて水を確保してきたとして、方向も曖昧なままこの炎天下に山の中を2時間以上もウロウロする気にはどうもなれない。そこでとりあえず今日は基肄城は断念して、次の予定を繰り上げることにする。

 

 今日は熊本県の山鹿市で宿泊する予定にしており、その周辺の城郭をいくつか見学予定に入れている。鳥栖ICから九州自動車道で南下する。

 

 菊水出口で高速を降りると山鹿市とは反対側の玉名市を目指す。最初の見学地はこの地にあった「高道城跡」。鎌倉時代の初めに大野別符の地頭に任ぜられた紀国隆の一族は、三男秀隆の時に大野氏を名乗ることになり、国隆の次男築地次郎国親の曽孫高路諸太郎幸隆がこの辺りを分領して居館及び戦時の城として高道城を建造したという。大野一族は南朝方として戦ったが、北朝方の今川軍の侵略を受けて落城。さらに戦国末期には肥後に進出した龍造寺氏の麾下の小代氏に敗退して落城し、一族はこの地を退散したとのこと。

 今では完全に住宅街の中に埋もれてしまっているが、台地の東北端を区切った形の城郭である。東側は今では平地で田んぼであるが、かつては沼地か湿地であったかも知れない。現在神社がある小高い部分が本丸跡だと言われており、確かにこの辺りはいかにもそれっぽい雰囲気がある。またこの神社の東から北にかけては恐らくかつての堀跡だと思われる水路がある。

左・中央 本丸跡の神社  右 周囲に堀の跡が残る

 西側には住宅地の合間に土塁の一部らしきものが見られる。埋まってしまっているがその手前には堀があったのだろう。

左 西側に向かう 中央・右 土塁及び堀の痕跡が残る

 南側は弁財天古墳があって小高くなっているが、ここも往時には城域内に含まれていて、南方の守りを固めるのに使用されていただろうと想像される。なおかつての南大手口の先は民家になっているが表札には「城内」とあり、まさにそのまんまの名前である。多分ここが廃城後にかつての城内に居住した一族が、そのまま城内を名乗ったのではないかと想像する。

左 南の弁財天古墳  中央 大手門跡  右 今住んでいるのはそのものズバリの城内氏

 小規模で単純な構造であり、いかにも中世城郭らしく城郭と言うよりも防御を固めた館というレベルである。地方領主間の小競り合いならともかく、戦国期の本格的な合戦の中では防御力にやや心許なさを感じるところである。

 

 高道城見学後は菊池市を目指すことになる。ただその途中に江田船山古墳があるのでここに立ち寄る。ついでにこの古墳の隣にあった道の駅で昼食を摂ることにする。しかしGWで大混雑している上に厨房の手際の悪さで客が捌けず、入店までに30分以上、さらに注文してから出てくるまでに30分以上と異常に待たされることになって無駄な時間を浪費することになってしまう。料理自体はまずくはなかったことだけが救い。

 江田船山古墳の一帯は遺跡公園になっており、虚空蔵塚古墳など複数の古墳が存在する。江田船山古墳は古墳時代にこの地に勢力を誇った筑紫磐井の一族に連なる者の墓と見られているが、内部からは貴重な副葬品が多数出土しており、これらは国宝として東京国立博物館に収蔵されており、古墳自体も国の史跡に指定されている。

左 江田船山古墳  中央 石室  右 こちらは虚空蔵塚古墳

 公園内には肥後民家村なる古民家を移築復元した観光目当てのテーマパークもあるが、その一角に歴史資料館があり、内部には出土品のレプリカが展示されているが、ここは閑散としていて人の気配がない。なおここに展示されていた石人などには福岡の岩戸山古墳や石人山古墳などのものとの類似性を感じ、確かに筑後磐井とゆかりのある人物の墓であることは素人でも分かる。

 副葬品のレプリカ

 江田船山古墳の見学を終えると菊池まで車を走らせる。菊池自体は温泉地として知られており、以前の九州遠征で一度宿泊している。その際に菊池城の見学はしているが、今回はそれ以外の城郭を訪問する予定。

 

 まず目指したのは「鞠智城」。菊池城とは文字違いの同音の城郭だが、こちらは大和朝廷が唐・新羅の侵攻に備えてこの地に建造した古代城郭である。今は歴史公園として一帯が整備されている。

 私の訪問時には普段は登れない登楼上に登れるというイベントが開催中で、私もこれに参加する。登楼は三階構成だが、そもそも人が上がることを想定していないようで、一階内部は柱があるだけで登り階段はない。そこで外から二階部分に階段を架け、二階からハシゴで三階に登るようになっている。ただこのハシゴが意外に怖い。

左 登楼に階段を外付けしてある  中央 登楼  右 一階内部は柱だけ

見晴らしは良い

 広いエリア内に複数の復元建築が建てられているが、それがなければただのだだっ広い草原にしか思えない。丘陵の先端部分がやや小高くなっていて、そこは今は一部が墓地となっており、その隣に展望施設がある。ここからは菊池の市街を一望できる。

左 米倉  中央 板倉  右 兵舎

左 建物跡もある  中央 この谷筋も城内の一部  右 何やらクイズが置いてある

左 墓になっている丘  中央 その向こうに展望施設  右 菊池の市街が望める

 古代城郭らしくかなり大規模なものであるが、やはり城郭と言うには何もないというのが事実。やはり城郭も古代のものとなると遺跡の性質が強くなるところである。

 

 鞠智城の見学を終えた頃にはもう既に日は西に傾いていたが、日没までにもう一カ所だけ立ち寄りたい。目指したのは「隈部氏館跡」。中世肥後国人であった隈部氏の城館で、1587年の肥後国衆一揆の中心的人物であった隈部親永が隈府城(菊池城)に移るまで本拠としていたところであり、現在は国の史跡に認定されている。

 

 周囲を土塁や堀で囲って防御しているが、所詮は城館であるのでその防御力は限られており、先に訪問した高道城と同レベル程度。ただこちらの方がかなりの山岳地帯にあり、地形による防御効果は期待できる。

左 構造図  中央 入口  右 馬屋跡

左 空堀  中央・右 枡形虎口を抜けて内部へ

 内部には建物跡と庭園遺構が残されており、城館の一角は隈部神社となっている。中世の地方豪族の城館のイメージを知るためには格好の遺跡である。

 これで今日の予定は終了。後は山鹿の宿泊ホテルまで車を飛ばす。今日の宿泊ホテルは湯宿湶。山鹿の市街にある温泉付きビジネスホテルである。山鹿も温泉地帯なので小さな旅館はいくつかあるのだが、なぜかじゃらんや楽天から予約できるところは少なく、ようやく見つけたホテルである。ホテル自体は今時の言い方をすれば、強烈に「昭和臭」を感じさせるホテルである。高校剣道部の合宿らしきバスが乗り付けている。

 

 ホテルに入るとまずは大浴場で入浴するが、36度のアルカリ泉の源泉をそのまま注いだという浴槽は、泉質はともかくとして今の時期でも湯温が低すぎる。小浴槽が電気加熱した浴槽だと言うが、そちらもそう温度は高くない。じっくり長湯するには良いのだが、私のような烏の行水タイプの場合はどうも体が冷える。

  

 入浴して汗を流すと夕食のために市街に繰り出す。この日は結局はうどん屋に入ったのだが、機械打ちよりも腰がない手打ちうどんという非常に珍しいものを体験することになってしまった。

 

 夕食を終えると部屋に帰ってボンヤリ。テレビをつけたもののやはり見るべき番組はほとんどない。結局はネットで調べ物をしたりしてから早めに就寝することに。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は生憎の雨。それも結構降っている。これは今日の予定は少し考える必要があるだろう。当初の予定は基肄城に立ち寄るというものだったが、昨日訪れたところではかなり長時間の山歩きになりそうであるのに、今日のこの天候では山歩きという状況ではなさそうだ。しかも度重なる強行軍のせいで既に体力が底をついている。それに昨日に鞠智城を見学した印象として、もう古代城郭は良いかなという気がしている。古代城郭は中世城郭と違って、とにかく広い上に遺構もはっきりしない場合が多いので、城見学と言うよりはハイキングか遺跡見学に近くなる。これは私のような素人向きではない。

 

 今日は大分県まで一気に移動することになるが、移動行程で立ち寄るようなところはと考えても、久留米の石橋美術館は笠間日動美術館所蔵のパレット展で、これは日動美術館を含めて既に何度か見ている。熊本まで出向いたとしても、ノルマンディー展と庵野の特撮展なのでこれも見学済み。美術館関係はこの周辺にはネタがない。観光地と言えば有名なのは日田あたりだが、ここも今までの度重なる遠征で何度も訪問しており、今更改めて見学しようというネタはない。

 

 結局は昨日見学をしなかった田中城に向かい、その後は宿まで一気に長距離移動して、後は出たとこ勝負で行こうということになった。

 

 とりあえず今日は急がないし、体に疲れが相当に溜まっているしということで、朝食を食べた後はぬる湯に浸かって、その後は9時頃まで部屋でテレビを見てゴロゴロしてからチェックアウトする(それにしても「ニンニンジャー」って・・・ハットリくんかっちゅうねん!それにあのロボットの異常なダサさには目眩がした。)。

 

 雨の中を「田中城」目指して北上。田中城は山岳地帯の孤立丘陵上にある単郭に近い城郭である。上まで車で登れるが、この道が狭い上にかなり急。もし雨が激しくなってスリップでもしたら危ないなということが頭を過ぎる。

 田中城遠景

 田中城は肥後の国人である和仁氏が本拠にしていた城郭で、1587年に秀吉に国主に命じられた佐々成政に対して起こった肥後国人一揆で徹底抗戦したことで知られる。この一揆は肥後の広範囲に及び、佐々成政は自力で鎮圧することはできず、最終的には秀吉が西国大名に出兵を命じたことで鎮圧されている。和仁氏は十倍の兵に囲まれながら奮戦したが、38日に及ぶ籠城戦の果てについには落城して和仁氏は滅亡している。

 

 どうも一揆という言葉を用いると百姓が筵旗を押し立ててというイメージがあるようだが、国人一揆とはつまり現地の豪族が中央の一方的な意向で送り込まれた国主に反抗して立ち上がったもので、秀吉の全国統一の課程で各地で生じた軋轢である。当時の大名と地方豪族の間には明確な主従関係があったわけではないので、大名が秀吉に下ったところで地方豪族が必ずしもその意向に従うとは限らない。この手の反抗には秀吉は徹底した弾圧を行っており、ここでも和仁氏は攻め滅ぼされている。

 

 田中城は孤立した険しい丘陵上に存在しているが、その丘陵上は意外に広い。地方豪族の居城としては十二分な防御力を有していると考えられるが、十倍の兵に包囲されてしまうと完全に孤立してしまい逃げ場がなく、剛勇を誇ったと言われる和仁氏でも援軍がなければ落城は時間の問題である。和仁氏としては各地で反秀吉の反乱が起こることだけが望みであろうし、だからこそ秀吉もそれを恐れたから徹底して殲滅を行ったのだろう。

左 山上は広い  中央 門をくぐって本丸へ  右 本丸は意外と広い

左 建物跡などもある  中・右 本丸を取り巻く曲輪

 かつての激戦の地も、今は国の史跡として整備されて遺跡公園となっている。本丸跡には建物跡なども残っている。本丸周囲はさらに曲輪が取り囲んでいて、全体でそれなりのスペースがある。

 

 西の下方には独立した出城のようなものがある。ただここは本丸とは空堀で完全に分離されているので、合戦時には玉砕する可能性がかなり高い部分になる。

 西の下方にある出城

 ところでこの城では和仁氏が壮絶な討ち死にを遂げているのだから、岸岳城などよりも歴史的にはかなり明確な怨念がありそうだ。オカルトマニアなどなら心霊スポットにしても良いようなものだが、これだけ綺麗に明るく整備されていたら彼らの出る幕はないらしい。そう言えば淀殿や秀頼などの怨念がいかにもありそうな大阪城も心霊スポット認定されたという話は聞いたことがない。歴史的に根拠皆無の馬鹿げた話を流す輩にはどうも感心しない。

 

 田中城の見学を終えた後は今日の宿泊先に向かう。今日の宿泊先は大分の龍門の滝の近くにある旅館・龍門滝乃湯。しかし九州自動車道に乗ってまもなく渋滞に引っかかってトロトロ運転になってしまう。

 

 結局渋滞を抜けたの久留米を過ぎてからだった。とりあえず早めに宿の近くまで移動してしまおうと考えたのはこの事態があることが予想できたため。とにかくGWの期間は突発的に渋滞が発生することがあるから要注意だ。

 

 鳥栖で大分自動車道に乗り換えてからは渋滞もなく順調な走行になる。しかし昼食を摂ろうと山田SAに入ったと思ったら、そこが大渋滞。しかも中の食堂も券売機の前で大渋滞。本当にどこで渋滞が発生するやら分かったものでない。

 

 それでも龍門の滝には1時には到着する。とりあえずは滝見学。ここは滝滑りで有名なところで、夏場はキャンプなどに来たついで滝を滑る観光客なんかが多いようだが、今日はさすがにまだ水泳シーズンではないし、何よりも天気が良くないしということで滝滑りをしている者はいない。ちなみに滝壺には飛び込み禁止になっているが、それにも関わらずここに飛び込む者もいて、つい最近にもここに飛び込んだきり浮かんでこなかった者がいたという。とにかく遊ぶのはよいがあくまで自己責任である。

 龍門の滝

 さて旅館のチェックイン時刻まで2時間ある。ここにいても仕方ないのでとりあえず玖珠の市街まで引き返し、道の駅で情報を集めて戦略を練る。玖珠の観光地と言えばまずは角牟礼城とその城下町。しかしこれは既に訪問済み。その次の観光地と言えば伐株山だがこれも訪問済み。もうネタはないのかとガイドに聞いたところ、まず近くにある国鉄時代の転車場跡と東にある慈恩の滝及びその上流の名水(その近くで名水を使用した豆腐も販売されているという)を勧められる。

 

 まずは転車場跡へ。うーん、これは鉄道遺産というべきか、廃墟というべきか・・・。鉄オタではない私としてはどうすれば良いのか・・・。せめてSLの一台でも展示してあれば良いのだが。

 次は慈恩の滝まで車を走らせる。慈恩の滝は国道のすぐ脇にあり、観光客もそれなりに来ている。特別に巨大な滝でもないが、そこそこの規模で何より水量が多い。なおガンオタはこの滝に来ると「ジーク、ジオン!」と叫ぶんだろうか? 「坊やだからさ・・・」

 この滝は裏側に回れるようになっている。案内によると時計回りに回ると縁起が良いらしいのでそれに従うことにする。これで私にも素晴らしい出会いが・・・あれば良いんだが。

 慈恩の滝の見学の後は、さらに山道を走行して上流に向かう。この道路、最初の部分がかなり道幅の狭い急な坂だったのでどんな道かと警戒したが、すぐにそれなりの普通の道になる(と言っても曲がりくねった山道だが)。なおこの道路沿いの川にいくつかの滝があるらしいが、かなり降りていく必要がありそうな上にそれほど大きな滝でもなさそうなのですべてパスする。山道を走行すること10分程度で名水100選に選ばれたという下園妙見様湧水に到着する。口にしたところ冷たくてサッパリした日本らしい軟水。なかなかにうまい水なのでお茶のペットボトルに入れて持ち帰る。

 この湧水からさらに少し歩くと、名水を使用した豆腐を販売している。冷や奴でいただけるそうなので一つ頂く。豆の味のする昔ながらの懐かしいうまい豆腐。ここはおからも売っていたが、多分こういう豆腐を作ったおからならうまいだろう。最近はこういう豆腐が全くなくなった。凝固剤の技術が進んで同じ豆の量から作れる豆腐の数が飛躍的に増えたと言われているが、それはつまりは今の豆腐はそれだけ薄いということである。実際にスーパーなどで販売されている豆腐は全く豆の味がしない。

  

左 豆腐屋がある  中央 冷や奴と  右 豆腐プリン
 

 豆腐を食べ終わった頃にそろそろ3時前。今晩の宿に向かうことにする。旅館に到着したのは3時半頃。農家風の建物である。部屋に入るとまずは着替えて温泉へ。

  

部屋は農家風

 温泉は大勢の日帰り入浴客でごった返していた。泉質は弱アルカリ泉とのことでややヌルヌル感がある。湯温はやや高めであるが、私には比較的合っている温度。

 

 入浴を済ませてから部屋に戻ると、そのまま布団を広げてしばしそこでダウンしてしまう。この辺りで疲れが出るだろうことはある程度は想定内で、だからこそ今日は予定をほとんど空けていたのだが、それにしてもかなりキツい。

 

 結局は夕食時刻の6時半まで半分寝ているような起きているようなこの調子でグダグダと過ごす。夕食は旅館内の食事どころで焼き肉中心のメニュー。ここの主人が肉に対してかなりのこだわりがあるらしく、用意されたのは上質の和牛。焼き方の講釈付きである。炭火の遠火でゆっくりと時間をかけて焼く和牛は、柔らかくてサッパリしている。これを塩で頂くのもこだわりのようだ。

主人こだわりの和牛をじっくりと焼いた焼き肉で頂く

 なるほど、和牛というのはそこらの輸入牛とは根本的に異なることはよく分かった。結局1時間以上かけてゆったりと夕食を終えると、もう一度入浴。今度は完全に貸し切り状態である。後は部屋に戻ってゆったりと過ごすと早めに就寝する。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 今朝は午前7時過ぎまで爆睡していた。どうも疲れが半端でないようだ。とりあえず朝風呂で目を覚ますと、8時から朝食。朝食メニューは素朴な和食だが、これが実にうまい。

 都会の喧噪を離れてのんびり過ごすには良い宿であったが、いつまでものんびりし続けているわけにもいかない。次の予定が待っている。朝食後にしばしマッタリとしてからのチェックアウトは9時。今日の予定は大分の美術館に立ち寄るだけなのでまだ結構ゆったりとしている。今回の遠征は無理をせずにスケジュールをかなり緩めに組んである。

 

 龍門の滝から山道を東進する。この辺りはかなり険しい山が続くところ。

途中で休憩がてらに風景を

 山道を抜けると九重ICから大分自動車道に乗る。大分自動車道も車は比較的多い。今日は湯布院なんかは大混雑だろうなということが頭を過ぎる。連休の湯布院の宿はじゃらんなんかで確保するのはほとんど無理であり、GWなんかはそもそも最初から予約不可になっている場合が多い。もっともGWの湯布院なんて価格相場が高すぎてとても泊まれるものではないが。由布院と黒川温泉はもう私のような貧民には遠い地になっている。

 

 大分には1時間程度で到着する。まずは最近オープンした大分県立美術館を訪問する。大分駅前まで来ると案内看板が出ているので、それに従って美術館向かいの総合文化センターの地下駐車場に車を置く。

 

 ところでこの建物、私は初めて訪れたはずなのだが、なぜか以前に来たことがあるような気がする。なぜかと考えていたら、愛知県芸術センターにそっくりなことに気づく。地下に駐車場があってホールなども備えた複合文化施設。しかも吹き抜け構造などのデザインもよく似ている。いわゆる典型的な今時のハコモノ建物のようだ。

 向かいの建物から窓越しに美術館を

 県立美術館へはここの二階から陸橋で道路を超えた向かい。吹き抜けとガラス張りを多用したいかにも「今時」の建物。さてチケットを購入と思ったらチケット売場には長蛇の列。まさかこんなところまで混雑とは・・・。まあオープンしたてだし、物珍しさというのが大半なんだろう。


「モダン百花繚乱「大分世界美術館」−大分が世界に出会う、世界が大分に驚く「傑作名品200選」」大分県立美術館で7/20

  

 いわゆる開館記念展。各地の美術館のコレクションなどから「モダン」をキーワードにした作品を集めている。

 テーマがテーマだけに冒頭から登場するのはモンドリアンやカンディンスキーのモダンな抽象絵画。これにさらにピカソの作品やウォーホルのポップアートなどが続く。

 中盤以降は一転して河合寛次郎やバーナード・リーチなどの民芸派にウィリアム・モリスの室内装飾などが登場、これも当時としては「モダン」ということか。この辺りの展示になると私にも非常に興味の持てるものになる。

 終盤は唐突に若冲や等伯の作品、さらには大観の日本画なども登場する。これと同じような感性という意味でか現代の作品も合わせて展示されているのだが、こうして並べると感性が同じと言うよりは大幅に見劣りし、しかも具合が悪いことにそのことが若冲や大観の名品の足まで引っ張っている。この部分は私的には展示の失敗に見えた。


 うーん、今来ている客は野次馬客が大半だと思うのだが、そういう客にあえてモダンアートをぶつけるか? これだと「やっぱりアートはよく分からん」と次回から来なくなるのがオチでは。私ならオープン記念は「エジプト、浮世絵、印象派」といった定番どころを持ってくるところだが。とにかくお祭りブームの間に普段は美術館なんかには来ない客に「美術館って意外と面白いじゃん」と思わせることが大事だと思うのだが、今回の展示を面白いと思う者がどれだけいるか。いきなりわけの分からん現代アートばかり並べた冒頭で、完全につかみに失敗しているように思われた。意味不明の独善的アート作品の羅列に、冷笑を浮かべている観客が少なからず見受けられた。私の見たところでは「高い金だけ取られて絵の具を叩きつけているのを見せられた」となってしまうような気がしてならない。もっとも子供の中には「こんな作品を作って芸術家になれるなら自分もなれる」と思う者もいるかもしれないが、それは芸術家育成と言うよりは、単なるニート予備軍育成にしかならない気がするし。

 特別展よりはむしろ田能村竹田などの作品が中心の所蔵品展の方が面白かったというのが本音。現代的感性によって作られた竹細工作品などなかなかに興味深かった。また具象を極めた挙げ句に抽象画のようになってしまった福田平八郎なども面白い。そもそも特別展は各地の美術館の収蔵品の寄せ集めなので、見たことのある作品もかなり多かったし。

 

 県立美術館の次は市立美術館を訪問。ここは先ほどの美術館と違って車でないと行きにくい場所にある。


「大分発アヴァンギャルド 芸術都市の水脈〜田能村竹田からネオ・ダダまで〜」大分市立美術館で7/5まで

  

 大分市立美術館の所蔵品の中から代表的な物を集めて展示している。絵画では田能村竹田や高山辰雄など地域にゆかりのある画家の作品など。田能村竹田の明瞭で精細な絵画が目を惹くが、高山辰雄の初期の「らしくない」作品なども意外に面白い。

 後半はネオ・ダダなどのいわゆるアバンギャルドになるので、こうなると私にはどうでも良くなってくるのは致し方ない。展示の仕方に変化を加えるなど工夫しているのは覗えたが、肝心の作品自体が私には魅力がない。


 ちなみにダダイズムは社会には一定の影響を与えており、それが反映された怪獣がウルトラセブンにも登場している。今となってはダダイズムよりもむしろそちらの方が有名であるかも知れない。

 

 大分での美術館の見学を終えると大分での予定は終了。今日の宿泊地である別府に移動する。しかし別府への移動の途中で国道で車が大渋滞。どうやら水族館のところを先頭にして渋滞になっている模様。全くGWはどこで渋滞が起こるか全く分からない。

 

 途中でつかえたりしたが、12時半頃にようやく別府に到着する。腹も減っているし早速昼食にしたい。どこに立ち寄るかは当然のように決まっている。ここは「馬家溝」の一択。幸いにして駐車場は空いており店内にもスムーズに入店できる。注文したのは「ボルシチ」「タンサンド」

  

 このボルシチの味については今更説明するまでもない。ああ、またこれにありついたというところ。何しろ私は「別府の名物は?」と聞かれると「ボルシチ」と答える人間である。また自家製スモークタンのタンサンドも絶品。

 

 満足したところでデザートに「プリン」を頼む。ああ、これのためだけでも別府に立ち寄った価値があった・・・というか、実際に別府に立ち寄ったのは半分以上はこれのためだったというのも実は本音。

  

 昼食を堪能し終わったところで1時頃。今日の宿泊ホテルは以前にも止まったことのある西鉄リゾートインだが、チェックイン時刻は3時なのでどこかで少々時間をつぶす必要がある。別府と言えば温泉というわけで、前回は鉄輪温泉に立ち寄ったので、今回は明礬温泉に立ち寄ることにする。目指すは露天風呂のある日帰り入浴施設・明礬湯の里。

 

 しかしここでもまた大渋滞である。国道500号がどうやら海地獄の入口を先頭にして渋滞している模様。GWの観光客恐るべし。さすがに別府観光の定番の地獄巡りは強いか。ただこれを見学しようとした観光客は、地獄巡りの前に最凶最悪の渋滞地獄という地獄をさらに体験することになるようである。そういえば鬼灯さん見ていても「現世の方が地獄かも」という台詞がよく出てくるな・・・。

 

 大分時間を浪費してようやく明礬湯の里に到着する。しかしここも観光客でごった返していて駐車場に車を置くのも一苦労である。

 ここは絶景露天風呂とのことだが、絶景というのはいささか言い過ぎだろう。山が見えるだけである。ただ酸性の含硫黄泉は青白い濁り湯であり、海地獄に浸かっているような印象。この温泉はかなりキャラクターが立っている。ここ数日アルカリ泉ばかりに浸かっていたので、かなり浴感が違う。ただ肌には少々キツめ。長時間浸かっていたら手先がガサガサしてくる感じがある。

 

 湯上がりに温泉蒸し玉子を頂く。いわゆる温泉玉子と違って玉子の薫製というイメージの代物。硫黄の作用か卵白が茶色くなって独特の風味がある。殻が黒いだけで中身は普通のゆで卵の箱根の黒玉子ともまた違う。

 明礬温泉を堪能したところでホテルに向かうことにする。この道もやはり海地獄を先頭にして渋滞地獄。左側車線は海地獄行きの車で全く動かないので右側車線を通り抜ける。それにしてもこの車列、一体何時間渋滞地獄に耐えたら地獄巡りできるんだろうか? 地獄大人気である。「地獄、地獄、楽しい地獄、地獄、ジゴジゴ地獄だよ〜」思わず鼻歌がでる。

 地獄巡りバス

 渋滞地獄に部分的に捕まったせいで、ホテルに到着したのはちょうど3時。ホテル駐車場に車を置くとチェックインを済ませて、しばし部屋のベッドでダウン。どうも一昨日辺りからこのパターンばかりである。おかしい、今回の遠征はかなり日程に余裕を持たせた温泉保養ツアーのはずなんだが・・・。私の体力がそれだけ落ちているということだろうか。

 

 一休みした後は温泉大浴場で一風呂浴びる。ここのホテルはこれがあるのが非常に良い。お湯自体は食塩泉であまり特徴はないが、それでも大浴場は快適である。

 

 一風呂浴びてサッパリするとそれからまた一休みして、6時過ぎになってから夕食のために外出する。夕食を摂る店はもう決めてある。ホテルの隣にある「とよ常」。以前の別府訪問時にも夕食を摂った店である。しかし店の前に行くと驚く。何やら店の入口に大行列ができている。いつからこんな超人気店に? 仕方ないので町をプラリと一回りしてくる。30分後ぐらいに訪問すると、まだ待ち客はいるようだが表まで行列という状態ではないのでしばし待つことにする。

 待ち時間は10分ほど。店内に案内されると注文したのはマテガイのバター焼き豊後アジ御膳

 

 マテガイが先に来た。異様な形の貝であるが、これがバター焼きすると絶妙の旨みがある。やはり貝類はうまい。全身がタンパク質なので旨味が強いのだろう。

  

 アジ御膳はアジの刺身に鳥天の組み合わせ。相変わらずうまいが、店内の客が多すぎて厨房がドタバタしているせいか、以前に比べて微妙なところがやっつけ仕事になっている感がなくもない。

 ここで夕食を終えるつもりだったのだが、メニューを見ていると「城下カレイの刺身(2000円)」があるのが気になる。迷ったが私の人生訓「買わずに後悔するなら買って後悔しろ」に従って注文。

 薄切り刺身が皿に盛られて登場。一切れ200円かなんて貧乏人の計算が頭に浮かぶが、そんなものは一切れ口に放り込むと吹っ飛ぶ。ああ、白身魚の刺身は偉大だ。城下カレイは特に身がしまっていることで知られるが絶妙の風味。テッサやカワハギに匹敵するうまさ。

 

 夕食を堪能したが、以上で支払いは5000円以上。やってしまった・・・夕食に予算を使いすぎだ。しかも今日は昼食もかなり贅沢をしている。どうも私は長期遠征終盤になって疲れてきたらこれをやってしまう。宇宙兄弟の心に残る名台詞の一つに「食卓の隙間は心の隙間(伊東家の食卓)」というのがあるが、私の場合は往々にして「心の隙間は胃袋の隙間」になるのである。

 

 夕食を終えてホテルに戻るとどっと疲れが押し寄せる。そのままボーッとテレビを見て(やくみつる学習王制覇というやつ)、もう一度風呂に入る気力も出ないのでそのまま就寝する。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時に起床。今日は竹田津港を9時40分に出るスオーナダフェリーに乗船するのでそれまでに港に到着する必要がある。所要時間をGoogle先生にお伺いを立てたところ1時間40分。しかしGoogle先生は大抵は健脚で飛ばし屋なのであまり当てにできないし、GW中は何が起こるか分からない。7時過ぎにはチェックアウトするつもりで早々にシャワーと朝食を済ませる。

 チェックアウトしたのは7時20分ぐらい。私のカーナビに目的地を入力すると、到着時間は9時40分と言っている。これだとギリギリだが、まあ私のカーナビは最初はかなり遅めの時間を提示してくるので、実際の到着はもっと早くなるだろう。

 

 幸いにして別府を抜けると道路はスムーズである。しかしカーナビの案内に従って車を進めると国東半島を縦断する山道に案内される。Google先生は普通に高速か国道を通るルートを示してきたのだが、私のカーナビはどうもこういう山道が好きなようだ。山城見学で山道を走りすぎたか? 到着時刻は割と安全運転タイムを提示してくるのに、道路はチャレンジングなルートが好きとはよく分からないナビだ。高速を猛スピードで爆走するGoogle先生は発想がアメリカンで分かりやすいが。

 

 結局はうねりまくった山道を疾走することに。幸いだったのは山道の割には道路は比較的整備されていること。しかし豆腐屋さんでない私は、これだけカーブが続くと右足がしんどくなってくる。ましてや今のノートはかつての愛車カローラ2に比べると、コーナーリングで重心の高さから来る不安定さが強い。さらに言えば以前に起こした大クラッシュが未だに潜在意識下で恐怖として焼き付いており、こういうワインディングロードの運転ではストレスが強い。救いは晴天で路面はしっかりしていること。

 

 山道を走ること1時間ほど。かなり疲れた頃にフェリー港に到着する。結局到着時間はフェリー出航の1時間前。山道を経由してGoogle先生の指摘時間とほぼ同じ時刻に到着した計算になる。国道経由とどっちが早かっただろうか?

 竹田津フェリー港に到着

 ようやく乗船時刻。やはりGWの影響か乗客はかなり多く、車はキャンセル待ちなどもある模様。順番にゾロゾロと乗り込む。スオーナダフェリーには以前に徳山港から乗ったことがあるが、あの時と比べると船室の混雑がひどい。徳山港へは2時間ほどの船旅で到着する。その間は寝ている乗客が多いが、私もベンチでゴロリと横になって爆睡している内に到着。

 

 徳山港で船を下りるとここから一気に広島まで・・・のつもりだったが、ちょうど周南市美術博物館の近くを通ったのでついで立ち寄る。生憎特別展の端境期で常設展のみの見学。

  

 常設展は地元ゆかりの宮崎進の絵画作品、写真家・林忠彦の作品や撮影機材に地元歴史ゆかりの博物館展示など。林忠彦の写真はいわゆるドキュメンタリー写真系で、私でも共感しやすいタイプの写真。博物館展示は場所柄大内氏から陶氏、さらには毛利氏につながる歴史的流れに関する辺りが中心で、これはこれで面白い。

 美術博物館を後にすると広島まで一気に突っ走る。懸念された渋滞もなく順調に広島まで到着。今日は広島の美術館を回る予定。最初はひろしま美術館をのぞくが、毎度のことながら駐車場に空きがない。ここは駐車場があるとは言ってもたった数台分なのでないのと同じ。空いていたらラッキーぐらいのものだ。かと言って、近くの駐車場に止めたらこれが料金が馬鹿にならない。一番賢明なのはホテルの駐車場などに車を置いてから路面か歩いて訪問するというもの。しかしホテルのチェックイン時刻は3時からなのでまだ1時間以上ある。そこで駐車場のある美術館に先に回ることにする。

 

 美術館裏手のショッピングセンターにの駐車場に車を置くと、ついでにここの専門店で昼食にうどんを食べた(それにしてもここの飲食店はなぜうどん屋ばかりなんだ?)ので駐車場は2時間無料。今回は美術館もポイントカードが貯まっていたので無料。


「赤瀬川原平の芸術原論展 1960年代から現在まで」広島現代美術館で5/31まで

  

 前衛芸術家で漫画家で小説まで書いたというマルチ芸術家でもある赤瀬川原平氏の作品展。

 展示作品には「現代芸術とは」という論争まで引き起こした曰く付きの「千円札」のシリーズなども含まれる。まあ感性的にはいかにも尖っているという印象だが、芸術的表現云々よりも、とにかく何かを攻撃して目立とうという意識のようなものの方が強烈に垣間見える感がある。

 晩年になってくるとそれまでの攻撃性が影を潜めて、むしろ斜に構えた批評的精神の方が前面に出てくるようだが、この辺りから活動が著述中心になっていったようである。なかでも「超芸術トマソン」なんてものは、今でも皮肉的意味を込めてかなり生き残っている。

 作品に感銘を受けるかどうかはともかく、赤瀬川原平なる人物の人となりのようなものが見えてくる展覧会であり、その辺りは興味を引くところではある。


 今回の展覧会は来館スタンプが7つ集まったとのことで無料で見学している。まあそれでちょうど良いぐらいの内容だったか。それにしても私は現代アートに関してはかなり批判的であるにもかかわらず、この美術館には結構訪れているようだ。やはり私はかなりひねくれ者か。

 

 ようやく3時になったのでホテルにチェックインすることにする。今回の宿泊ホテルはアーバイン広島セントラル。今回は広島でのホテル確保に苦労したので、ようやく確保したホテルである。それにしても最近は広島のホテルの相場が上がっていて困る。しかもいわゆるアベノミクス効果(意味なく無理矢理に物価を吊り上げて、それを好景気だと言い張る)のせいでさらに価格高騰に拍車がかかっている。物価が上がれば好景気なんだというなら、日本中の商店をボッタクリにしたら好景気になるのか?

 

 車はホテルの契約駐車場において徒歩でひろしま美術館へ向かう。


「毛利家の国宝・至宝」ひろしま美術館で5/31まで

  

 毛利博物館が所蔵する毛利家にまつわる至宝を展示。大名の生活を伝える工芸品などもあるが、興味深いのは雪舟の「四季山水図」と、その写本などである。

 会場には雪舟の四季山水図の正本の全編と、雲谷派の雲谷等顔作と言われる副本が並べて展示されている。雪舟の正本はさすがに雪舟らしい豪放で力強い筆使いが迫ってくる作品。一方、雲谷等顔の副本も雪舟の直系を自認する雲谷派の画家の作品らしく、雪舟の筆遣いによく習っている。しかし所々で雪舟よりも繊細のタッチが見えるのは、この雲谷等顔個人の本来の画風なんだろう。ちなみにさらに狩野派の画家による作品の模写も展示されていたが、これはタッチを完全に似せるよりはより狩野派らしさを出す作品となっていた。こういった個人の個性が非常に面白い。

 雪舟以外にも円山応挙の鯉の作品や、長沢芦雪によるいかにも円山派らしい猫っぽい虎図など、なかなかに堪能できる作品が目白押しであった。さすがに毛利家侮れない。


 なお現在、ひろしま美術館所蔵品の中のかなりの部分が新潟県立近代美術館で開催中の展覧会など(一部は先の大分県立美術館にも行っている)に貸し出し中らしく、今回は所蔵品展の方がセレクション展ということで、通常のフランス近代絵画だけでなく日本画作品など普段なかなか目に出来ない作品が展示されていた。村上華岳や竹内栖鳳などの作品が展示されており、これがなかなかに面白かった。今回は特別に留守を狙ったわけではなくてたまたまだったのだが、こういう「裏メニューでのひろしま美術館」も侮れないところである。

 

 もう一カ所立ち寄りたい美術館はあるが、もう今日はタイムアップである。やや早めだが夕食を摂ることにする。繁華街をフラフラしてたまたま見つけた「魚菜屋」に入店。

 単品メニューをみたがどうも価格が高めなので、何も考えずに注文したら昨日の夕食を越えてしまいそうだ。そこでコース(3000円)を注文する。

 刺身にしても煮付けにしても魚はうまい。料理のレベルは高そうだ。広島はそもそも価格設定の高めの店が多いので、ここが飛び抜けて高いというわけではないのだが。CPで考えたらまあ妥当という線か。個人的にはもう少し安い店の方がありがたい。

 

 夕食を終えるとホテルに戻ってシャワーを浴びて一息。早めに就寝する。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は7時に起床。簡素な無料朝食がある。朝食とシャワーを終えるとチェックアウトの11時までに一つ用事を済ませておきたい。9時前に外出する。


「スペイン・ リアリズム絵画の異才 磯江毅 −広島への遺言−展」広島県立美術館で5/24まで

  

 19才でスペインに渡り、現地で徹底的な写実によるリアリズム絵画を極めて注目を浴び、2005年からは広島市立大学芸術学部教授として後進の指導に当たるが、53才という若さで他界した画家の作品展である。

 圧倒されるのはその写真と見まごうというよりも、写真よりもさらにリアルで、そこに事物がそのままあるとしか見えない超絶的な写実の技である。彼は徹底的に写実にこだわり、モデルにしていた果物が腐ってしまった場合などには似たようなものを買ってきて描き続けたという。

 彼の作品は単にそこにある事物を写し取るだけでなく、それらの事物を通して「生や死」について問いかけてくるところがある。画に殊更の意味を持たせようとするのではなく、描いている物に語らせるという手法をとったという。作品自体が独特の静謐さを秘めているのが印象的である。


 チェックアウト後に美術館を訪問したら車をここの駐車場に入れて駐車場代を取られることになるので、それまでに訪問した次第。

 

 再びホテルに戻ると荷物をまとめてさっさとチェックアウト。今日は遠征最終日、最後の予定が複数残っている。

 

 車で広島市街を駆け抜けると高速で北上する。今日は三好に立ち寄るつもりだが、その前に付近の山城探索が予定されている。中国自動車道を高田ICで降りると、近くの道の駅で昼食にラーメンを摂ってから東に向かって走る。目指すは五龍城。

  

 「五龍城」は川の合流地点に三角形に突き出した丘陵の先端にある城郭。南北朝期以降、毛利氏の移封までの250年間、宍戸氏の本拠として用いられた城郭だという。足利尊氏と共に六波羅攻略で功を上げた宍戸朝家が、安岐守として甲立を領した際にここに築城したという。水がなかったので五龍王に祈願したら井戸が湧いたということから山名を五龍山に変更したとか。毛利氏が何度か攻めたものの落城させられなかった堅城で、結局は八代城主隆家と毛利元就の娘との婚姻で和睦した。その後九代元続の時に毛利氏の防長への移封があり、元続はそれに従ってこの城を出ている。

 

 城は狭いかなり急な丘陵上であり、先端部には登るためのかなり急な石段がある。そこを登ると神社に出るが、それが尾崎丸。城の先端を守るための出城である。

左 急な石段を登る  中央 この神社が尾崎丸  右 神社の裏手が城に続く

 尾崎丸の背後は土橋状になっていて城の本体につながっている。ここはかなり険しい上に幅も狭いので、現在は土砂崩れ防止のためにモルタルで固められている。

裏手はかなり狭くて急なので、崖はモルタルで固めてある

 ここを抜けるといくつかの段を経由して登っていくことになる。矢倉の段、三の丸、二の丸などがあるが、いずれも結構な面積を有する。また横手に釣井の段があり、ここには井戸が残っている。

左 最初に出る曲輪  中央・右 さらに奥にも何段もの曲輪がある

左・中央 釣井の段に回り込むと  右 井戸がある

左 矢倉の段から  中央 広い三の丸  右 さらに広い二の丸

 本丸の直前に桜の段があり、その後が本丸。本丸自体はそう広い曲輪ではないが、周辺の曲輪を含めると、山上にかなり広い巣ベースが確保されている。本丸の背後は削り残しのかなり高い土塁になっており、その背後はかなり深い堀切で分かたれている。

左 本丸直下の桜の段  中央 本丸  右 奥に土塁がある

左 土塁上に登る  中央 裏手はかなり切り立っている  右 本丸北側にも曲輪らしき物が

 なお帰宅後に調べたところによると、その堀切の先にさらに複数の曲輪があったらしいが、その時は疲労もあって本丸に到達したところで引き返してきた。

 

 間口は狭いが、実は奥に深い結構な規模の城郭であり、山容の険しさから考えても毛利氏が攻めあぐねたのも納得がいく。そこで無理押しをせずに婚姻政策で丸め込んだのは、さすがに策士・元就というところか。

 

 知名度は低いが意外にして見所のある城郭であった。整備も良くされているし見学もしやすい。まだまだこの辺りには良い城郭が埋もれているようである。

 

 五龍城の見学を終えると三好まで長駆する。目的地は奥田元宋小由女美術館。しかし美術館の手前で大渋滞。どうやらワイナリーに観光客が押しかけているようである。以前に私がこの美術館を訪問した際にはワイナリーは閑古鳥が鳴いていたというのに。恐るべしGW。

 ワイナリーは観光客で一杯

 


「川合玉堂展」奥田元宋小由女美術館で6/7まで

  

 近代日本画の大家・川合玉堂の作品について展示。玉堂美術館と二階堂美術館の所蔵品が中心である。

 若い頃のかなり緻密で精緻な絵画から、晩年のかなり自由な境地で伸び伸びとした描線で描いた作品まで、玉堂の画風の変遷をもうかがうことが出来る。また玉堂が絵画に描いた風景は、まさに失われた日本の日本らしい風景であり、そこには言いようのない郷愁のような情も喚起させる。

 出展数も多く、なかなかに見応えのある展覧会であり、久々に玉堂の絵画を堪能することが出来た。


 特別展の玉堂展も良かったが、常設展示の奥田元宋の大作も久しぶりに改めて見るとかなり唸らせる絵画であった。「赤の元宋」などとも言われるが、その赤が自然の美を伴ってこちらに迫ってくる感じであった。特に赤と補色の緑を自然に組み合わせる配色が、巧妙でありわざとらしくなく心にすっと入ってきた。これはかなりの収穫。

 玉堂展の鑑賞を終えると、向かいの直売施設でジェラートを購入。サッパリとしたジェラートが心地よく体に染みいる。

 それにしても周囲は馬鹿混みである。なぜと思ったのだが、GWということだけでなく、尾道からの自動車道が開通したことも大きいようだ。つまりは交通の便が良くなったと言うことらしい。こうなると高速道路の効果は侮れない。

 

 美術館を後にすると次は市内の城郭見学。最初に向かったのは「尾関山城」。1570年代に三吉氏の重臣・上里越後守が居城とし、1601年に福島正則の重臣・尾関石見守正勝がここに二万石を領して入城して以来、尾関山と呼ばれるようになったという。1632年に浅野因幡守長治が入封してからは下屋敷が置かれ、頂上には天文台も設けられたという。現在は公園整備されて紅葉の名所として知られているとのこと。

左 尾関山城公園  中央・右 随所に城っぽい構造はあるが旧状が分からない

左 これは多分曲輪跡  中央・右 ここがかつての天文台跡ぐらいだろうか

 今では尾関山公園となっていて、頂上までの車道も整備されている(一般車は立ち入り禁止)が、そのことが城としての遺構をぶち壊すことになってしまっている。山上には天文台ならぬ展望台があり、三次市街を一望できる。

山頂には野外ステージのようなものまである

 随所にかつての城郭としての構造を垣間見ることは出来るが、構造がかなり変更されてしまっているので、往時の姿を思い浮かべることは容易ではない。ここは単純に「お城っぽい公園」として楽しむのが正解のよう。

三次市街を一望

 尾関山城の見学後は、この裏手の高山上にあった「比熊山城」を見学しようと考える。ただ下から登って見学するには時間と体力の余裕がない。そこで調べたところ、北側から林道が通じているとの情報があったのでそこを利用してみることにする。

 比熊山城はこの山上らしい

 林道は最初は整備されている道路で、道幅も広い上に車が通っている跡があって容易に通行できる。しかし途中まで来たところで、明らかにそれ以上進むのはまずいという雰囲気が漂う。そこで手前で車を置いて徒歩で調査したところ、予想通りというか途中で斜面の崩落があってそれ以上先は車で通行することが出来なくなっている。

左 ここから先は何やらヤバそう  中央・右 案の定、二カ所に渡っての土砂崩れ跡が

 ここに来た時点で今回は断念を決断する。ここまでで大して標高が上がっていないことから、ここから道路沿いで歩いてもかなり登る必要に迫られることが予想され、それなら最初から表側を登った方が賢いというものである。しかし現時点ではそれに十分な時間も体力も残っていない。後日機会があれば捲土重来ということにする。

 

 これで今回の遠征は終了ということにして、中国道経由で帰宅することとした。各地で渋滞が報告されてい山陽道と異なり、中国道は幸いにして渋滞は全くなくスムーズに走行できたのである。途中、山崎ICで降りてしそうよい温泉で汗を流すと共に夕食に「鹿喰丼(1500円)」を頂いてからの帰宅と相成った。

  

 

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