展覧会遠征 新潟編2

 

 9月の連休シーズンに突入である。私もこの連休には遠征を計画している。まずは9月の最初の連休の目的地は新潟。未だに訪問したことのない佐渡島を中心としてこの地域に残った宿題を解決するのが今回の遠征の目的である。

 

 まずは新潟空港まで飛行機で飛ぶことにする。ただ三連休だとANAの割引航空券がないので出発は金曜の朝にする。木曜の仕事を終えると毎度のように大阪の定宿のホテルクライトン新大阪へ。

 

 大浴場でくつろぎ、マッサージチェアで体をほぐすと明日の早朝出発に備えて就寝する。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は5時に起床。まだ大浴場は開いていないので部屋風呂で汗を流すと手早く支度をして6時前にチェックアウト。新大阪駅から始発の空港バスで大阪空港に移動する。始発のバスは満員で補助席まで使用されている状態。

 

 空港に到着するとこちらも手荷物カウンターが異常な混雑。保安検査場に出発時刻の30分前まで来るようにとのことだが、荷物を預け終わった時点で出発時刻の30分前である。幸いにして保安検査場は空いていたので助かったが、かなり焦った。

 

 今まで新潟行きの早朝便と言えばANAのボンバルディアだったのだが、ダイヤの変更で今はIBEXの小型ジェット機。空港のかなり端の方までバスで移動させられる。数十人乗りの小型機で、内部はかなり狭いというのが正直なところ。シートもやや狭く、今回は隣が大柄な男性だったためにかなり窮屈なことに。なお機体が小さい分、加減速や旋回などがかなりキビキビした印象。しかしその分、内部にGが来るので特に旋回の時が少々不快。

 IBEXの小型ジェットで新潟へ

 新潟空港にはほぼ定時に到着。荷物を回収するとバスで新潟駅へ。さてこれからの予定だが、村上を訪問するつもりである。村上までの移動は特急いなほを使用することも考えていたが、村上行きの普通列車に間に合ったのでキャリーをロッカーに預けてから普通列車で移動する。

 

 新潟周辺は晴天だったのだが、北上するにつれて黒い雲が漂い始める。いかにも一雨来そうな嫌な雲である。そして村上が近づいた時に異常に気づく。「竜巻!?」 海の方に上空の黒雲から一筋の黒い筋が地面まで続いているのが見える。後で確認したところによるとやはり竜巻だったようだ。竜巻は「天に昇る」という意味で瑞兆という解釈もあるが、どちらにしても自分が巻き込まれない限りにおいてである。こちらに来ないことを祈るのみ。

村上手前で見えた竜巻

 村上に到着。村上は以前に訪問したことがあるが、その時は村上城を見学しただけで、市街の見学はしていない。村上には町家や武家屋敷などがあるというので、それを見学するのが今回の目的。ただ町並みを見学するのに必要なのは体力。今日は早朝出発なので朝食抜きでかなり空腹が身にしみている。腹が減っては何とやらなので、まずは昼食を先に済ませることにする。昼食を摂る店には最初からあてがある。入店したのは駅前の石田屋。旅館も経営している料理屋である。実は本遠征の計画を練っていた時、当初プランでは村上一泊を想定していた。その時に宿泊先候補として上がっていたのがこの旅館である。それが後にプランの変更で村上宿泊はなくなったが、昼食を摂る店としては残っていた次第。

 最近にリニューアルされたという店内は落ち着いた雰囲気。注文したのは「海鮮はらこ丼(2050円)」。海鮮丼と言えば寿司飯を使う店が多いのだが、この店のは普通の白飯である。さすがに米所の新潟はご飯がうまいが、大粒のいくらが異常にうまい。サケはこの地域の名物と聞いていたが、はらこも名物らしい。

 腹が膨れたところで町並みの見学に出向く。まずはこの地域の町家の見学。村上の市街は町家部分と、かつての武家屋敷部分に分かれているらしい。

左 村上の名物は鮭  中央 マンホールも鮭  右 そしてなぜか赤旗まで鮭

 町屋地区は今でも商店街となっている。酒屋やお茶屋など、往時の面影をとどめている建物がいくつかある。お茶屋を一軒見学させてもらって、ついでに茶羊羹を土産に購入する。

 ちょうど町家の見学を終えて武家屋敷街に向かうところで空模様が急激に怪しくなってきたと思ったら、ポツリポツリと大粒の雨が体に当たるようになる。慌てて折りたたみ傘を出してきたものの、雨はさらに激しくなりそうな気配だったので、近くの民家の軒先に避難する。するとその直後、バケツをひっくり返したような豪雨。避難がわずかに遅れていたら、傘をさしていても確実にずぶ濡れになるところであった。

突然の豪雨

 道路があっという間に川になるようなとんでもない豪雨だったが、5分程度で降り止む。こんな雨が1時間も続けば洪水必至であるが、ただの通り雨だったようだ。雨が通り過ぎると再び青空が見えて温度が上がり始める。どうも今年はこういう極端な天気が多い。

 

 雨が上がったところで武家屋敷の見学に向かう。武家屋敷は市役所の向こう側ぐらいに数軒あるらしい。まず最初にあるのが旧成田家住宅。茅葺きの住居である。これを外から見学する。

 ここをさらに進んだまいづる公園内に武家屋敷が三軒あるという。まず最初に見学したのは旧藤井家住宅。ここは中級武士の重野氏の屋敷だったとのこと。その後所有者が変わり、建て増しされて産院になっていたとか。しかし主もいなくなり、市が旧状に復元したのだという。なおモダンな洋風建築だった産院の建物の方は、移築されて歴史文化館になっているとか。

 まいづる公園内にはさらに旧嵩岡家住宅旧岩間家住宅の二軒が移築されている。旧嵩岡家住宅は中級武士だった嵩岡家の屋敷だが、ここが皇太子妃の雅子さんの実家である小和田家と縁戚関係とのことで、内部はそれ絡みの展示ばかり。また隣の旧岩間家は旧嵩岡家住宅よりも大きな屋敷である。

 武家屋敷の見学を終えると市役所周辺までプラプラ戻ってくる間に村上歴史文化館を見学。ここは昔の学校教育に関する資料が展示されており、当時の教科書などが展示されているのだが、漢字が多いので今の子供や高校生ぐらいでも馬鹿なら読めないだろう。

 隣にはこれまた武家屋敷の若林家住宅がある。ここは国指定の重要文化財とのことで、家老の屋敷だったらしい。庭園などもついていて結構立派である。

 このさらに隣が郷土資料館であるおしゃぎり会館。おしゃぎりとは村上大祭で使用される山車のことで、これを展示している施設である。地方ではこの手の施設をいくつも見た気がする。つい最近でも高山で同様の施設を見学している。

おしゃぎり会館には山車が展示されている

 ここからは村上城も望むことが出来る。こうして見てみると、村上城がある山はまさに城を作るには格好の山である。

左 村上城模型  右 窓から見える村上城

 武家屋敷街の見学を終えたところで市内循環バスで村上駅に戻る。村上は市街としてはそう大きくない町である。昔は各地にこのぐらいの規模の町が点在し、それぞれが独自の文化を誇っていた。それに比べると今の日本の地方の惨状と言えば・・・。やはり諸悪の根元は東京一局集中である。

 バスで駅に戻る

 村上駅で土産物を買い求めると、新潟まで1時間ほどかけて普通列車で戻る。帰路は概ね快晴なのだが、新潟手前で突然に豪雨、新潟に到着した時には雨は上がっていたが、どうも新潟でもかなりの雨があったようだ。

 

 ようやく新潟に到着したところで今日の宿泊ホテルに向かう。今回の宿泊ホテルはドーミーイン新潟。私がよく利用するビジネスホテルの中では高級ホテルにランクするホテルである。今回はここに二泊する予定。

 

 ホテルにチェックインすると何はともあれまず入浴。含硫黄−ナトリウム−カルシウム−塩化物泉という温泉が実に快適である。やはりこれあってこそのドーミーイン。村上をさんざん歩き回って今日一日で一万六千歩越えのダメージを温泉でじっくりと癒す。今回は特に四十肩が来ている右肩の具合と数日前から鈍い痛みがある腰の具合が良くない。

 

 夕食は遠くに行くのもしんどいので近くの「鳥忠」を訪問する。鳥料理の店だが、魚類も置いているようである。注文したのは「もも串+ネギ間」「厚焼き卵」「若鶏半身唐揚げ」

 焼き鳥は焼き加減が絶妙で実にうまい。失敗したのは厚焼き卵。これは料理が悪いのではなく文化の違い。関西人の私としては厚焼き卵と言えば出汁巻き卵のことを意味するのだが、ここの卵は砂糖の入った卵焼き。関東では卵焼きに砂糖を入れることを忘れていた。残念ながらこれは私の好みと違う。

 驚いたのは半身の唐揚げのボリューム。表面はカリカリで中はジューシーという逸品だが、とにかくボリュームがすごい。これを見た途端に一品注文が多すぎたことを痛感した。

  

 最初は締めにお茶漬けでもと考えていたのだが、とてもそんな余裕のない状態で食事終了。油断したらさっき食べたものが出てきそう。以上にお通しの手羽元のやわらか煮を加えて支払いは2600円。かなりCPは高い。

 

 ホテルに戻った頃にはかなりの疲労が押し寄せてくる。やはり疲労が半端ないのでベッドでゴロゴロとテレビを見ながら過ごす。そのうちにNHKでドクターGが始まったので鑑賞。今回の患者は目眩を訴える女性。最初は症状は目眩だったのだが、経過観察をしている間に症状は頻尿、手足の脱力とエスカレート、原因はまさかの頸椎椎間板ヘルニアだったというオチ。患者は足の脱力から来る歩行の不安定さを目眩と認識していたという話である。ちなみにヘルニアは私も持っており、私の場合は頸椎、腰椎共にあるので、状況によって手がしびれたり足がしびれたりする。現在は腰の状態が今一つなので、時々左足にしびれが出ている。

 

 テレビを見終わった頃には本格的に睡魔が押し寄せてくるのでそのまま就寝する。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時にセットした目覚ましが鳴る15分前に目が覚める。目覚めるとまずは朝風呂に直行、その後はレストランでバイキング朝食。やはりドーミーインは朝食に関してはルートインなんかよりもグレードが高い。現地メニューを含む和食にデザートとワッフルなどを追加してたっぷりと燃料補給。

 

 前日にホテルに頼んで7時20分にタクシーを手配していたので、これでフェリーターミナルに向かう。今日はいよいよ佐渡島に渡る予定である。既に佐渡汽船のジェットフォイルの往復チケットはネットで事前手配済みである。

 

 ジェットフォイルの乗り場は早朝から佐渡に渡る乗客でかなり混雑している。私が確保したのは二階の席。ジェットフォイルは港を出るとすぐに水中翼を出して船体は海上1.5メートルまで浮上するらしい。おかげで時速80キロという自動車並の速度で快速航行可能。ただし乗客は非常停止などに備えてシートベルトの着用が義務づけられている。乗ってしまえば周りは水平線だけで風景も大したものがなく、シートベルトを着用しているので船内をウロウロすることもできず、そういう点では非常にビジネス的な船旅である。二次元バーコードを用いた改札ゲートといい、どことなく飛行機に似た印象もある。

左 フェリー乗り場  中央 ジェットフォイルの搭乗ゲート  右 ジェットフォイル

 ジェットフォイルは1時間ちょっとで佐渡の両津港に到着する。港ではいきなりトキの壁画とゆるキャラが乗客を待ち受けている。港には多くのツアーガイドが待ち受けており、どうやら団体旅行客が多数の模様。なお私は事前にレンタカーを手配している。

左 謎のキャラクターと  右 トキの壁画

 レンタカーの手続きを済ませて車の説明を受けていると、突然に激しい雨が降り始めるので、車の説明もそこそこに車内に避難。まあ格安レンタカーではないので、後で傷がどうこうとかいう悪質なこともしないだろう(格安レンタカーの中で悪質なところは、後で傷がどうこうと因縁をつけてせしめるNOCが収入のメインになっているようなところもあるとか)。

 

 貸し出された車はパッソ。小回りは利くがあからさまに非力な車である。またシフトレバーがサイドでなくて手元なのが独特。初めてこれを借りたときはシフトレバーが分からなくて四苦八苦したものだ。なお装着されているカーナビがやけに画面が小さくて見にくいもの。これは不便だ。

 

 最初の目的地は宿根木。新潟県唯一の重伝健であり、実はこれを訪問するのが今回の遠征の主要目的の一つであり、わざわざ佐渡に渡った主目的である。

 

 宿根木に向かって佐渡を横断する。しかし実際に走ってみて分かったことは、佐渡島は私が思っているよりも遙かに広いということ。田圃の中を延々と走ることになる。その間に先ほどの雨は嘘のように上がってカンカン照りに。昨日と同様、ごく狭い範囲(積乱雲の直下)のみだけバケツをひっくり返したような豪雨が降るというパターンのようだ。空を見ると怪しげな雲が多数ある。とりあえず昨日の今日なので、それらの雲が竜巻にならないかだけは注意しておく(竜巻でも発生しようものなら、何はともあれ逃げる必要がある)。

 何やら嫌な雲が出ている

 佐渡を横断すると今度は南に向かって山越え。またここで驚くのは、思っていた以上に山が高いこと。佐渡島は東西に長い二つの島の間が埋まった構造になっているが、その二つの島は意外に起伏があり、そして間の平地は意外に広い。この感覚は今回車で実際に走ってみて初めて実感した。と言うことは、この地は金山云々を抜きにしても結構豊かな地であると言うことである。だからこそ上杉景勝はこの地に侵攻したのであろう。なお先の大河ドラマでは愛の兜を被った主人公が「上杉は私欲のための戦はしない」と格好付けていたが、実際はもろに「私欲のための戦」をしている。

 人面岩

 ようやく海に出て海沿いをしばし走行すると宿根木に到着である。現地は観光地として売り込んでいるのか、結構ツアーの団体客が押し掛けている。

 宿根木の町並みは杉板張りの民家が密集した独特のもの。これらの杉板は船材などに使うものらしい。迷路のように路地が張り巡らされており、敷地にあわせて三角形をした住宅などもある。ここは吉永小百合のJR観光ポスターが撮影された有名な場所。また今までに映画やドラマのロケもよく行われているという。

 広告に出ている三角家

 公開民家になっている清九郎を見学する。ここは佐渡でも富裕な家だったらしく、建物自体が大きい上に調度も立派である。なお鴨居には立派な釘隠しなどもあるのだが、かつてここが民宿を営んでいた時に、この釘隠しがいくつか盗難に遭ったらしい。どこにも手癖の悪い輩がいるようである。そしてこの類いの手癖の悪さは大抵は一生治らないからたちが悪い。

 宿根木見学の次は羽茂城の見学に向かうが、その前に町の手前で見た千石船展示館に立ち寄る。ここはかつて交易に使用された千石船を復元展示している。巨大な船であるが、外洋を航行する船としてはやや小ぶりという印象。

 千石船展示館の隣は旧校舎を利用した民俗史料館。古い校舎は趣があるが、展示自体はいずこも同じような民具の雑多な展示で、展示館と言うよりも巨大な倉庫である。

 宿根木を後にして「羽茂城」に向かう。羽茂城は羽茂本間氏の居城で室町時代中期に築城されたという。しかし上杉景勝による佐渡攻めの際に落城、その後は上杉氏の家臣が在番していたが、関ヶ原の合戦後に上杉氏が移封になってからは佐渡が幕府直轄領になったことで廃城となったとのこと。

 羽茂城は史跡公園となっているが、城域のかなりの部分が果樹園や竹林となっており、あまり公園として機能しているような雰囲気はない。またお約束のように小高い櫓部分には祠が。なお城域の一部に本間家住宅が建っているのだが、城主の末裔だろうか。

左 羽茂城入口  中央 東門跡  右 殿屋敷跡との表示がある

左 殿屋敷跡  中央 先に腰曲輪が見える  右 腰曲輪からの風景

 山の斜面を削平して複数の曲輪を作った城郭で、その規模は結構大きい。ただ山自体がそう険しいものでもないので、堅固な要塞という印象はなく、防御力は限られているように感じられた。私は入口から入ってグルリと三ノ城、二ノ城辺りを回ったのだが、途中で道に迷って気がつけば本間家の隣の庵原家のところに出てきた。

左 この上が五社ノ城跡  中央 五社ノ城跡  右 その脇にある大門跡

左 溜め池がある  中央 二ノ城方向に降りる  右 三ノ城と二ノ城の間にある標識

左 二ノ城は畑になっている  中央 不開門  右 ここを抜けた畑が奥方屋敷らしい

左 この竹藪のところが忍門  中央 庵原家に出てきた  右 この道を登ると入口に戻る

 羽茂城を一回りすると北に向かって長駆する。途中で真野を通ったが、どうもこの辺りも結構趣がある町並みのようである。ただ今回は時間がないので残念ながら車で通過するだけにする。

真野の町並み

 目指すは相川。この地域には佐渡奉行所や佐渡金山などの観光名所がある。それにしても佐渡島は大きい。到着までに1時間ほどのドライブとなる。

 

 ようやく佐渡奉行所に到着。佐渡奉行所は最近になって復元された模様。かなり立派な建物が建っている。また隣には当時の金の精錬場を復元した施設も。

佐渡奉行所

左・中央 内部  右 お白州

左 内部  中央 隣の建物  右 復元した金の精錬場

 佐渡奉行所を見学すると、ここからさらに山の方に数分走って佐渡金山の見学に向かう。佐渡金山は昭和まで採掘が続けられていたようだが、ついには資源が枯渇して閉山、今日では観光施設になっている。その江戸時代の坑道と明治以降の坑道が見学施設として公開されている。

 佐渡金山

 まずは明治の坑道から。こちらは機械も導入された近代鉱山となっている。なお佐渡金山については、私は江戸時代に既にほぼ枯渇していたと認識していたのだが、実際は確かに産出する鉱石の質自体は落ちていたが、産出量自体は近代技術の導入で明治以降再び増加したのだという。そして昭和期に国策おける大増産で資源を枯渇させてしまったのだとか。

明治の坑道はトロッコ用のレールが敷いてある

 こちらの坑道は近代鉱山らしく坑内鉄道などが引かれているのが特徴。また坑道を出た先には当時の機械類の展示などもある。

機械類やトロッコなどが展示されている

 ここから少し山を登ったところにはかつての露天掘りの跡である「道遊の割戸」がある。山自体を人の手で割った大規模な採掘跡である。

   

道遊の割戸はとんでもない規模の露天掘り跡

 一端入口まで戻ってくると、今度は江戸時代の坑道へ。こちらは鉱夫の人形で当時の作業の風景を再現した展示が行われている。生野銀山などでは普通のマネキンを使用していたので、八頭身のイケメン鉱夫ばかりで笑えたが、こちらの人形は当時の鉱夫の雰囲気をリアルに再現している。とにかく当時の作業は人海戦術であったことが覗える。鉱山内の水の排出なども人力なので、これはかなり大変そうである。

江戸時代の鉱夫の方々

 佐渡金山の見学を終えると金山ソフトでクールダウン。普通のソフトクリームに金箔をふったものだが、金箔には意味はない。金が体に良いとか言って好む成金もいるようだが、金は体に吸収されないのでせいぜいが食物繊維などのような便の増量効果ぐらいしかない。そもそももし金が体に吸収されたら、鉛並みの毒になってしまうのがオチ。そういう点では金箔を食べるというのは、金の使い方の中でももっとも残念な部類。

 金山ソフト

 佐渡金山の見学を終えた頃には3時過ぎである。最後にやはり佐渡と言えばトキというわけで、トキ保護センターに立ち寄りたい。今からだと時間的にギリギリぐらいである。途中で新穂城跡なる標識を見かけたので気になったが、これはもし時間が余れば戻ってくることにして先を急ぐ。

左 トキふれあいプラザ  中央 キンの慰霊碑  右 キンは今では剥製になっている

左 謎のキャラクター  中央 こんなところまでトキ  右 トキと言うよりはムンクなのがあるが・・・

 何とかトキ保護センターには見学終了の4時半までに到着することが出来た。観光客が多数訪れているが、ここはそもそもトキの飼育施設であるので、トキを驚かせないように20メートル以上離れての見学となっている。トキの写真を撮ろうと思うと望遠レンズは不可欠である。

 トキ保護センターを見学後は「新穂城跡」に舞い戻る。新穂城は中世にこの地を治めていた新穂殿と呼ばれていた村殿の城館跡であるという。上杉景勝の佐渡侵攻で廃城となったとのこと。かつては土塁もあったらしいが、今残っているのは外周の水堀の跡である。現在は内部は民家になっているようである。

新穂城跡は堀の一部が残るのみ

 ようやく佐渡での全予定を終了すると両津港まで戻る。しかしこの途中で前が見えなくなるぐらいの豪雨に遭遇する。何しろ前方の道路を見ていたら雨の境目がはっきり見える。向こうから雨のカーテンが近づいてきたと思った途端にほとんど前が見えない状態に。私を含めて周辺の車が一斉にスローダウン、中には走行を諦めて路肩で停車する車も。路面に見る見る水が溜まっていくので、道路を知らない私としては不安で仕方ない(もし深い水溜まりに突入してエンジンがプスンということにでもなれば一大事)が、帰りの船の出航時刻のこともあるし、とりあえず地元車らしい前方の軽トラについていくと数分でなんとか豪雨地帯を脱する。

 突然のとんでもない雨

 レンタカーを返却するとフェリー乗り場へ。よくよく考えるとこの日は昼食を摂っていなかったのでフェリーの出航前に乗り場のレストランでかけそばを腹に入れておく。

 再びジェットフォイルで新潟港に戻ってきた時にはとうに日が暮れていた。ホテルに戻る前に夕食を摂ることにする。立ち寄ったのは以前にも訪れたことがある「大助」「大助膳1650円」を注文する。

 刺身や焼き魚などのついた定食である。相変わらず豪快に厚切りの刺身だ。魚はなかなかうまい。例によってCPの高さを感じる。

  

 店を出た時には雨が激しくなっていた。傘をさしても体が濡れる状態なので、ホテルに戻るとまずは入浴してから就寝することとした。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝はホテルで朝食を終えると7時半頃にはチェックアウト。駅まで送迎してもらう。今日は新幹線で長岡まで移動して、そこでレンタカーを調達することになっている。

新潟駅から新幹線で移動

 二階建て新幹線が長岡までひたすら田圃の中を突っ走る。新潟のこの辺りは豪快なまでに田圃しかない。ただトンネルの中を走るよりは田圃の中を走る方が気持ちがよい。

 恐竜のような雲

 長岡には30分ほどで到着、早速予約してたレンタカーに乗り換える。貸し出されたのはまたもパッソ。どうも今回はこの車と縁がある。

 

 今日の最初の目的地は栃尾である。ここには栃尾城という上杉謙信ゆかりの城郭があるのでそれを見学するのが目的。栃尾城は南北朝時代に築かれた山城で、室町時代には本庄氏の居城となる。上杉謙信はここで少年時代を過ごした後に越後の領主となっている。しかし上杉謙信没後の御館の乱で本庄秀綱は景虎を支持して景勝と対立、栃尾城は落城して上杉氏の番城となる。上杉氏の会津国替え後は堀秀治の配下の城となるが、1610年に堀氏が改易されたことで廃城となったとのこと。

 

 長岡から東進すること30分程度で栃尾に到着する。栃尾の町並みは独特な結構風情のあるものであり、これは後で町並みの見学もした方が良さそうである。

 

 町のはずれに「栃尾城」の案内が出ており、それに従って狭い林道を進むと行き止まりに登城者用の駐車場がある。ここから登っていくと10分程度で本丸にたどり着ける。本丸はそう大きなものではないが、見晴らしはかなり良い。周りはかなり切り立っているので、間違って転落すると命に関わる。

出展:余湖くんのホームページ

左 栃尾城縄張り図  右 案内に従って進むと駐車場にたどり着く

左 ひたすら登る  中央 本丸はこの上  右 本丸へ

左 本丸に到着  中央 本丸  右 かなり急である

本丸からの風景

 本丸から一端トイレのある下の郭に降り、そこから奥に進むと堀切を経て松の丸にたどり着く。ここはあまり大きくない曲輪だが、本丸の尾根沿いの北側を守る位置になる。

左・中央 トイレの奥に進んで本丸の横を回り込む  右 かなり切り立った切岸だ

左 松の丸に出る  中央 奥が一段高い  右 松の丸

 ここから堀切を隔てたさらに先が三の丸。その先にさらに五島丸があり、城域は大体この辺りまで。

左 松の丸から一端降りる  中央 松の丸と三の丸の間の堀切  右 三の丸に登る

左・中央 三の丸  右 三の丸奥の堀切

左 五島丸  中央 五島丸奥の堀切は浅い  右 この辺りで城域の端

 再び戻ると本丸の反対側の二の丸へ。ここも非常に眺望が良い。また周辺にいくつかの曲輪があるようである。

左 二の丸に上がる  中央 二の丸  右 奥が一段高い

左 その奥には深い堀切が  中央 振り返って  右 本丸方向を振り返って

 二の丸から西に延びる尾根筋上に曲輪が連なっているようである。ここはこれらの曲輪の横を抜ける道を通って見学するが、とにかく堀切が深くて急峻であることに驚かされる。

左 二の丸の西の曲輪群へ  中央 中の丸と琵琶丸の間の堀切  右 上が琵琶丸

 さらに狭い尾根筋状を歩いて行くと、いくつかの堀切や小曲輪があり、その先の頂上部に狼煙台と看板のある小曲輪がある。確かにここは曲輪にするには小さすぎ、せいぜいが見張り台程度の面積である。

左・中央 琵琶丸奥の堀切  右 さらに進む

左 狼煙台詰郭  中央 奥には土塁(というか削り残しのようだ)  右 その奥には堀切と土橋

左 尾根筋を進む  中央 最後は結構登って  右 狼煙台に到着

 かなり見応えのある城郭なのでかなり歩き回る羽目になった。なお石垣などのない土の城であるにもかかわらず、未だに堀切などがかなりシャープな状態で残っているのには驚いた。ここの山の土質によるのだろうか。

 

 栃尾城の見学を終えると市内の散策に移るが、その前に栃尾市立美術館に立ち寄ることにする。美術館は市街を見下ろす小高い山上にある。なおここには上杉謙信と彼の師匠である門察和尚を祀る祠があり、ちょうどその背後に見えるのが先ほどの栃尾城である。

栃尾市立美術館

左 上杉謙信像  右 栃尾城をバックに謙信と門察和尚を祀る祠

 美術館では木村定男氏の鉄道絵画の展覧会を開催中。木村定男氏についてはよく知らないのだが、彼の鉄道絵画は子供の頃に絵本などで目にした記憶がある。ネタがネタだけに美術ファンよりも鉄道ファンらしき観客が訪れてなかなか盛況であった。

 

 美術館を後にすると市街の散策に移る。観光用の駐車場に車を置くと歩いて散策する。栃尾の市街地は雁木の町として知られている。雁木は家々の軒先を迫り出させたもので、積雪期にはこれがそのまま通路となる。雪国の知恵のようなものである。ただ現在は空き家などが増えて雁木が連続せずに所々途絶えているのが悲しい。最近は新潟大学の学生が住民と協力して新しい雁木を建設するなどの取り組みも行われているらしい。

 町並み見学後は秋葉公園に立ち寄る。ここには上杉謙信の銅像などがある。また秋葉神社奥の院は日本のミケランジェロこと石川雲蝶によるもので市指定の有形文化財となっているが、残念ながらネットのせいでよく見えない。

左 秋葉公園  中央 上杉謙信像  右 秋葉神社

石川雲蝶が彫刻を施した奥の院は、残念ながらネットのせいでよく見えない

 これで栃尾での予定は終了。次の目的地へと移動する。次の目的地は与板。こちらは直江氏ゆかりの地である。場所的にはちょうど長岡の向こう側になるので長躯のドライブとなる。

 

 与板もやはり雁木の町である。今日は祭でもあるのか神社から神輿が出てきているようである。その中を与板城に向かって走る。与板城は直江家の居城で、直江景綱が本与板城からここに本拠を移している。なお景綱の婿養子の信綱は御館の乱で景勝につき、景虎派の本城秀綱の栃尾城を攻めている。なおこの信綱が後に暗殺され、名門直江家の断絶を惜しんで景勝が樋口兼続を未亡人のお船の方と結婚させて家名を継がせたことで直江兼続の誕生となる。与板城は直江兼続の居城であったわけだが、上杉家の会津転封で廃城となっている。

与板の町並みを抜けて与板城へ向かう

 「与板城」は法立寺の奥の山上にある。しかし寺には駐車場はなく、やや離れたところに登山者用の駐車場があるのでそこに車を停めに行く。いささか不便ではあるが、そこらに路駐して迷惑をかけるようなことはしてはいけない。

 登山道は整備されていて非常に登りやすい。複数の曲輪の横を抜けつつ、途中でおせん清水を通過して、本丸へはそう苦労せずに到着することが出来る。本丸は例の如く神社になっている。

左 このお堂の裏に登山道がある  中央 登山道  右 整備されていて歩きやすい

左 いくつか堀切がある  中央 おせん清水  右 本丸下の曲輪

本丸風景

本丸から眺めた市街

 本丸と堀切で隔てられた奥が二の丸である。ここはかなり広大な曲輪。さらにここから堀切を経た先にさらに三の丸がある。合わせるとかなり兵力を入れることが出来そうである。

左 本丸と二の丸の間の堀切  中央 登って進んでいくと  右 二の丸

左 二の丸奥の堀切  中央 その先が三の丸  右 三の丸からさらに奥に進める

 三の丸からさらに先に進むことが出来る。この先はいくつかの堀切があって結構起伏のある道。しかしここで参ったのは足下がややぬかるんでいてやたらに滑ること。さらに私の靴がかなり磨り減っているようで、気をつけないと簡単に足下を持って行かれる。かなり気をつけて進む必要がある。

左 三の丸奥を降りる  中央 三の丸裏の堀切  右 竪堀もある

 大堀切を越えると数段の登りがあってその先が千人溜まり。ここはかなり広いスペースであり、確かに千人の兵士を揃えることも可能に思われる。ただ実際にはここは何に使われていたのだろうか? 屋敷にしては奥過ぎるように思えるし、馬出などにしてはその先に通路がない。独立曲輪として運用したのだろうか。

左・中央 大空堀  右 大空堀の後をかなり登ることになる

左 何段かの曲輪がある  中央・右 千人溜まり

 なかなかに大規模な城郭でありかなり見応えがあった。直江兼続の居城と言うことで「天地人」放送時にはかなり盛り上がったのだろうと推測されるが、今でもその頃の名残かあちこちに直江兼続関連の看板などを見かけるし、城域もかなり整備はされている。

 

 与板城の次は「本与板城」の見学に向かう。直江氏が与板城に本拠を移す前の居城である。しかし本与板城に向かう道へ祭の周辺道路交通規制のせいでたどり着くことが出来ない。結局周囲をグルグルと回ってやむなく諦めようかと思ったところでようやく一部区域が規制解除になってなんとか登城路にたどり着くことが出来る。ただこの間にかなりの時間をロスすることになってしまう。全くの計算外だ。

 本与板城は複数の曲輪を水平に並べた並郭構造の城郭である。駐車場から登城路を登っていくとすぐに本丸である実城にたどり着くことが出来る。実城はかなり広いスペースであるが、特に凝った防御の仕掛けは見られない。

左 本与板城登城口  中央 登城路を進む  右 一の郭と二の郭の間の大堀切

左 本丸に登る  中央 本丸  右 城跡碑

 この西側に堀切を隔てて二の丸、三の丸と続くようだが、こちらに進む道は完全に藪化してしまっていて道が消失してしまっている。全体的に与板城よりもこちらの方が整備状況が悪い。恐らく天地人放送時にはもっと整備されていたのだろうが、その後放置されたのだろう。藪を払って進むのもしんどいし、単独行動で藪に分け入るのはリスクもあるので、こちらの見学は断念する。

 二の郭への道(?)はこの有様

 実城の南側にある南郭を覗くが、こちらも鬱蒼としている上に特に何があるわけでもない。これで本与板城の見学を終えることにする。

 南郭

 本与板城は各曲輪は広いのだが、それだけに構造は極めて単純である。また山自体もさして急峻という印象はなく、より防御力の高い与板城を築いて本拠を移転したのは当然のように感じられた。

 

 与板を後にすると長岡駅に戻る前に一ヶ所だけ立ち寄る。それは摂田屋。醸造の町として知られた地である。実は先ほど乗車した新幹線内に設置されていたJRの情報誌でここの町並みが紹介されており、それが少し気になった次第。

 

 摂田屋はJR宮内駅の南東の地域。確かに多くの醸造メーカーがひしめいており、老舗と思われる工場などもある。また有名なのは漆喰で描いたコテ絵で有名な機那サフラン酒の倉。美しくも派手派手な倉である。ちなみに私が目にしたJRの情報誌の表を飾っていたのもこの倉の写真だった。

摂田屋の町並み 下が機那サフラン酒の倉

 摂田屋の見学を終えて長岡駅に車を返すと鉄道での移動に移る。実は当初の予定ではこの後は東京に立ち寄るつもりだったのだが、現在デングフィーバーまっ最中の東京に立ち入る気が起こらず、急遽帰宅ルートを変更した次第。どうしようか考えたところ、どうせならこの際に上越新幹線視察にあわせて長野新幹線視察も併せて終了させてしまおうと、長野経由のルートを取ることにした。それにしても新潟から長野に移動するのに高崎を経由するのが最短ルートとはいかなることか。すべてを東京中心に設計してしまっている日本の交通システムの不合理さがあからさまである。こと交通網に限らず、この手の大馬鹿がこの国には満ちあふれている。

 

 長岡駅に到着したのは二階建て新幹線。ただ長岡を出た列車はまもなくトンネルに突入し、後はひたすら地下鉄である。以前の只見遠征で立ち寄った浦佐を過ぎてこれで上越新幹線も全線視察終了。高崎まですることもないのでかなり遅めの昼食に購入した駅弁を頂く。

  

今日の昼飯

 トンネル続きの新幹線がようやく地上に出たと思えばまもなく高崎である。私はここで長野新幹線に乗り換え。到着した車両はE7系でどうやらこれが北陸新幹線を走ることになる車両のようだ。

E7系新幹線

 高崎を出るとまもなく上越新幹線と分かれて西進するが、沿線はまもなく深い山になる。すると驚いたことにこんなところに駅がある。安中榛名駅。まさに山の中で駅前にも何もない。こんなところで降りてどうなるんだと思ったが、案の定降車客は0。それにしても驚いた「なぜこんなところに新幹線駅が?日本代表選手権」の最有力候補の登場だ。さすがの相生駅でさえ、ここに比べるとまだ都会に見えてしまう。ちなみにこの安中榛名駅は当初は道路もまともに通っていない状況だったとかで、新幹線駅でありながら秘境駅にあげられてしまったそうな。何でこんなところにというのは大いに疑問だが、ここもやはり相生駅と同様に政治力が働いて出来た駅らしい。

左 遠くに妙義山が見える  右 安中榛名周辺

 安中榛名を過ぎると新幹線はトンネルで碓氷峠を突き抜けて軽井沢に到着する。この後は小諸を避けて佐久平に南下、次は上田である。上田はつい最近までひたすらサマーウォーズで盛り上がっていたが、そろそろ再来年の大河に切り替えてきそうである。この町も一度一泊してゆっくり散策したいのだが、それは未だかなっていない。

 夕闇迫る上田の町

 上田を抜けると軌道は北上に転じる。そして途中から篠ノ井線に沿うようになって長野に到着である。これで暫定的(JR東の路線の一部の不通区間を除くことになる)ではあるが全鉄道完乗ということになる。とは言うもののあまり特別に感慨がない。この辺りはやはり私が鉄道マニアとは少し感性が違うところだろう。どうせこれからも北陸新幹線や北海道新幹線、仙台地下鉄など新線の開通もあるだろうし。正直な感想は「あーあ、とうとうやっちまったよ」というところ。何か一抹の虚しささえ感じてしまう。

 長野に到着

 とりあえず久しぶりの長野である。この地の空気は嫌いではない。とりあえずは今日の宿泊ホテルに向かう。宿泊するのは長野第一ホテル。駅前にある大浴場完備で安価なホテルである。ホテルにチェックインするとまずは夕食のために出かける。本来なら鉄道全線視察終了を祝して派手に祝杯を・・・なんてところなんだが、正直なところ疲労感があるのみで気分の盛り上がりは全くない。

 

 長野駅前を夕食を摂る店を求めてプラプラする。しかし残念ながらピンとくる店が全くない。私にとって長野は嫌いな町ではないのだが、一番の難点はしっくりくる飲食店がないことである。駅前にこれという店を見つけられず、一旦ホテルにもどろうかと引き返した時にたまたま「小紋」なる店を見つける。ここでようやくビビッと来るものを感じたので入店。

 注文したのはかにコロッケの定食ホッキ貝、また地物として馬刺し

  

 かにコロッケはカニクリームコロッケではなく、コロッケの中にカニ肉の塊が突っ込んであるような少々変わったもの。またホッキ貝は刺身ではなくて炙ってある。少々変わっているがいずれも悪くない。また馬刺は私の好みの赤身。以上で支払いは2860円。まずまず悪くないところである。

 

 夕食を終えてホテルに戻ると最上階の大浴場で入浴。ここは屋上に露天風呂がしつらえてあり、開放感は抜群である。また大浴場からは長野駅を見下ろせるので、いわゆる鉄オタはそちらも興味ありそう。

 

 入浴後はやはり疲労がかなり押し寄せてくる。原稿入力の元気もないのでそのまま就寝するのだった。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は起床後まずは朝風呂。朝食だがこのホテルの朝食は簡易朝食でかけそばにいなり寿司である。ただこれが意外にうまい。

 

 ややゆっくり目にホテルをチェックアウトすると行動を開始する。今日は基本的には「帰るだけ」なのだが、それではあまりに芸がないので、午前中に松代方面に立ち寄るつもりである。松代は以前に何度か訪問しているのだが、最初の訪問では池田満寿夫美術館に立ち寄っただけ、二回目の訪問では松代城に立ち寄っただけというわけで、松代の市街を見学していないのである。そこで今回はそれが目的。

 

 松代まではバスで移動できる。ただし松代に直行するのではなく、途中で通る川中島古戦場で下車する。

 川中島古戦場は今では歴史公園として整備されている。広大な芝生公園である。ただし川中島の合戦は城攻めではなくて野戦なので、古戦場と言っても何があるわけではない。そこで観光用に当時の陣形を描いた看板を立て、武田信玄と上杉謙信の一騎打ちの像を建ててある。とは言っても、実態は合戦云々関係ないただの緑地公園という所。なおこの公園内に長野市立博物館があるのでここにも入館。ここは歴史博物館と民俗史料館を合併させたような施設。八幡原が生成した地質学的経緯から、石器時代の遺跡、さらには善光寺を中心とした門前町としての歴史などが紹介されている。なかなか展示内容には見応えあり。また私の訪問時には特別展でこの辺りの地域に関わる震災被害に関する展示も行われていた。その中には先の栄村大震災の例も。東日本大震災とは完全に独立した震災だったのにもかかわらず、時期が近かったために余震の一環扱いされ、また村の人口密度の低さと村民の防災意識の高さが幸いして人的被害0だったことが、かえって悲惨な絵を好むマスコミにスルーされる原因になってしまって一般にはほとんど知られていないという震災である。おかげで救援募金などもほとんどなかったそうだが、実はあれは現地ではかなりの被害が出ており、その復旧にはかなりの日時を要している。防災とはどうあるべきかを考えさせる事例でもある。例えば現在の東京で直下型の地震でも起これば、どれだけの対策を打っていたとしても大混乱は避けられず、人的被害は想像できない。災害を深刻化させる根本原因である異常な人口過密をなんとかする必要があるのだが、その根本原因には全く手を打っていない。

川中島古戦場

 公園を一回りしてから古戦場を後にすると、バスで松代まで移動する。以前に松代を訪問したときには長野電鉄で来たのだが、ここを通っていた長野電鉄屋代線は最近になって廃線になり、今では松代の駅舎だけが残っている。確かに長野鉄道屋代線に乗車した時、長野との間の移動についてはとにかく時間がかかって不便だという印象を持ったのだが、やはりこの路線を存続させるよりは、長野との間にバスを通した方がよいという結論になったようである。鉄道好きとしては寂しい限りだが、経営判断としては妥当と言わざるを得ない気がする。ただこれも過疎化が進行する地方の問題である。

松代駅は線路のなくなったホームが悲しい

 松代に到着して市街の見学に移る前に早めの昼食にしておく。立ち寄ったのは池田満寿夫美術館の隣にある竹風堂栗おこわ山家定食を栗ご飯大盛りで頂く。栗ご飯がうまいし、にじますの甘露煮が非常に良い。やはり長野に来ればこれははずせない。

  

 腹がふくれたところで松代市街の観光に移る。松代は一部のマニアには恐妻家のドゲザムライとして有名な真田信之(昌幸の長男で幸村の兄)を祖とする松代藩の城下町であり、当時の面影を伝える史跡が数々残っている。まず最初に立ち寄ったのは松代藩文武学校。九代藩主の真田幸教が先代の意志を継いで建設した松代藩の藩校である。なお本来は各施設ごとに入場料が必要なのだが、今日は特別に全施設が無料のようである。ツイてる。

 

 藩校と言えば私は今まで岡山藩の閑谷学校、会津藩の日新館、また類似の施設として室町時代に設立された足利学校なども訪問したことがある。松代藩文武学校もこれらの施設と類似しているが、異なるのは他の施設ではあった孔子廟がないこと。開校したのが1855年と幕末になることから、儒教を排してより実学を重視したのではないかと思われる。なお私の訪問時には文学所が工事中で見学できず。施設はこれ以外に剣術所や柔術所、さらに弓道所などがあり、まさに文武両道の教育が行われていたのが覗える。

弓道所に剣術所や柔術所などがあり、剣術所では稽古中

 藩校を出ると休憩所になっている旧白井家表門などを見てから南下、象山神社に。この周辺も門に往時の面影をとどめていたりなど趣のある住宅が多い。ちなみに象山神社はその名から分かるように佐久間象山を祀った神社。佐久間象山は幕末に活躍した人物で、大砲や電信機の制作を行ったりなど西洋の学問にも通じた傑人である。ただ非常に合理主義的な考えをしていた人物のようで、時代の激動の中で軋轢を起こして投獄などにもあっており、最後は京都で尊王攘夷派に暗殺されている。才能はあるものの非常に傲慢な性格だったのが欠点で、これが敵を増やす理由になったとか。ただし多くの門弟が幕末に活躍している。良くも悪くもあくの強い人物だったようだ。

趣のある通りを抜けて象山神社へ

 象山神社の近くには象山記念館もあるのでこれも見学。彼が実験した電信機やその他諸々が展示されている。これらの展示物を見ていると、実に優秀な科学者もしくは技術者という印象である。

 象山記念館

 象山記念館の次は旧横田家住宅旧樋口家住宅という武家屋敷を見学。旧横田家住宅は禄高150石の中級武士の館で旧樋口家住宅は目付役などを務めた上級武士の館らしい。

旧横田家住宅

旧樋口家住宅

 武家屋敷の次は真田邸の見学。藩主の住居であるが、私邸と公的役所の両方の性格があり、表が公的場所、裏が私邸となっており、襖の模様などを変えて違いを付けている。表はいかにもお役所的な堂々とした門構えの建物。奥の私邸部分は庭園なども備えていて藩主がくつろぐ場所であったことが覗える。なお日本では昔からこのように領主の私邸で公的な政治が行われる伝統があったため、明治新政府発足後も議事堂などが建設されるまではしばらくは政府高官の私邸で持ち回りで会合などが行われていたとか。

真田邸は表(パブリックスペース)と奥(プライベートスペース)で襖の模様が違っている

 最後は真田宝物館を見学するが、ここは以前に松代を訪問した際も見学しているのでサクッと流す。私が今回見学した施設は本来はほとんどが有料施設なのだが、今回は全無料ということでこれはついていた。

 真田宝物館   献血のためにがんばる方々

 これで松代での予定は終了。後はバスで帰るのだが、その前に汗もかいたし再び竹風堂に立ち寄り「クリーム栗みぞれ」を頂く。やはりここに来たからにはこれを食べないと。

 栗鹿の子とかき氷を堪能したところでバス停まで移動。ただ最後にその前に駆け足で松代城を一回り。改めて訪問すると結構詳細を忘れていたことに気づく。この城はこんなに立派な石垣だったんだ・・・。

 そのままバス停に駆け込むとまもなくバスが到着、これで長野駅まで移動する。このバス路線、松代周辺はガラガラだが長野に近づくにつれて車内が混雑する。確かに長野電鉄屋代線よりは採算性がありそうだ。ただ結構混雑する道路だけに定時性にはやや難がありそう。

 

 長野駅からは14時発のワイドビューしなので名古屋方面に向かう。指定席を取る段階で既に窓側の席は出尽くしていると聞いていたのでかなりの混雑を想像していたが、指定席は全席売り切れらしい。相変わらず混雑する列車である。ただ長野を出る段階では指定席はガラガラである。

 

 列車は山岳地帯を抜けて松本に向かう。長野県は広いというか何というか、長野から松本まで1時間近くかかる。松本からは大量の乗車、乗客が多すぎて発車が遅れる。さらに数分で到着する次の塩尻でも大量の乗車があって車内はほぼ満員になる。

 

 満員のワイドビューしなのは中央本線を突っ走るが、気になるのは予定よりも時間が遅れていること。名古屋からの移動にはエクスプレス予約で新幹線を確保しているが、乗り換え時間に余裕がない。今の遅れの程度だと通常では乗り換えが間に合わないということはないが、問題なのは切符を発券しないといけないこと。たまに券売機が無駄に混雑することがある(使い方の分からない輩がオロオロしていたり)。もしそういうようなことがあれば万事休すである。とりあえず数分後の列車に予約を切り替えておく。なお中央本線はトンネルが多い上に山の中なので、ケータイがよく「圏外」になってしまうため、エクスプレス予約の切り替えも一苦労である。

 

 若干遅れで名古屋に到着。新幹線乗り換え口に急ぐが、幸いにして券売機の混雑もなくスムーズに新幹線に乗り換えられる。それにしても先ほどまでの電動振り子のワイドビューしなのに比べると新幹線はほとんど揺れない。これでようやく帰途についたのである。

 

 先にも述べたように、とうとう国内全線視察終了(暫定)となったのが本遠征。しかしながら気分が盛り上がるよりも「何やってるんだか・・・」という気持ちの方が強いのが正直な感想で、何やらまるで一段落感がない。今までの中では100名城制覇の瞬間が一番充実感と一段落感があったような気がする。しかもそれはともかくとして、いよいよ私の遠征も主旨が極めて曖昧になって迷走に入ってきている。今回のテーマをあえて挙げれば重伝建と城郭か。既に国内はあちこちと行き尽くした感があり、最近では新鮮な刺激がなくなってきているのも事実。そろそろそもそもの生活スタイル自体を見直す必要があるのかもしれない。最近は遠征の目的だけでなく、人生の目的も見失ってきているような気もしてきて、一体私は何のために生きているのかと疑問を感じることも多々。

 

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