展覧会遠征 高知・愛媛編
さて三連休である。となれば遠征。と言うわけでこの週末は四国方面へと繰り出すことと相成った。主目的は高知県立美術館で開催中のミレー展。これに四国方面での宿題を絡めて、今回の遠征で四国方面の課題を一挙に解決してしまおうというプラン。今年の年頭方針である「宿題の解決」に沿った計画である。出発は木曜の昼。諸々の予定を考え合わせたところ、木曜日の午後に休暇を取って昼から出発するプランと相成った。
木曜日の午前の仕事を終えると仕事場からそのまま車で直行、瀬戸大橋を越えて疾走する。当初は雨がぱらつくあいにくの天候であったが、四国に渡った頃にはどんよりとしてはいるが、雨はほとんど降っていない状態になった。
途中のSAで昼食を摂りつつ、3時間程度のドライブでようやく高知に到着する。やはり高知は南国、どことなくポカポカしている。まずは最初に本遠征の主目的である美術館に立ち寄る。
「ボストン美術館 ミレー展」高知県立美術館で4/6まで
ボストン美術館が所蔵するミレー作品を中心に、バルビゾン派の画家たちの作品などを集めた展覧会。
「種をまく人」などの有名作品を直に見られるのが値打ちものだが、実際のところはミレーの作品だけでなく、その周辺の作品にも良作多数。例によって「牛のトロワイヨン」なども楽しませてくれる。またバルビゾン周辺の画家の中でも作風は様々。アカデミズム的な手法に近い画家もいれば、明らかに印象派の方向に向かっている者もいる。ミレーも技法的にはそんなに尖ったところはないが、明らかに後の印象派につながると思われる光の煌めきなどは垣間見えることがある。その辺りの後の美術の潮流とのつながりを考えながら鑑賞するとかなり考えさせられる。
結構見応えのある展覧会で久々に堪能した。これで本遠征の主目的は終了である。もう既に夕方になっているし、仕事後の長距離のドライブで疲れた。ホテルに直行するために高知市街を目指すが、ここで高知名物の大渋滞に引っかかってしばし時間を浪費。疲れ果ててようやくホテルに到着する。
宿泊ホテルは三翠園。山内家の下家屋敷跡に建っている大ホテル。また高知市内では珍しい天然温泉を有するホテルでもある。私は夕食なしで朝食付きのシングルビジネスプラン(別名貧民プラン)での宿泊。ビジネスプラン用のシングルルームは別館にあるが、何やらかなり舞台裏感の強い立地。もしかして元は従業員宿舎とかか。ただし部屋は綺麗し、通常のビジネスホテル装備をしているので(LAN完備)、私には一番使いやすいタイプの部屋である。
とりあえず車を置いてからチェックインすると、部屋に荷物を置いてから一端外出。と言ってもホテルの前にある武家屋敷を見学するだけ。
現存している重要文化財の山内家下屋敷長屋とのことだが、その名の通りに長屋形式になっていて階下には小さな部屋が横並びになっており、二階というか屋根裏物置のようなところに展示がしてある。屋敷というよりはかなり質素であるので、土佐藩従業員寮という趣である。
武家屋敷見学を終えて部屋に戻ると、とりあえず浴衣に着替えて大浴場へ。ここの温泉はナトリウム塩化物泉のいわゆる温まる湯。海が比較的近いところなので、要は地下で暖められた化石海水だろう。ナトリウム塩化物泉はベタベタした肌触りが嫌なことが多いのだが、ここのは意外とサラッとしていて悪くない。
入浴を終えると再び着替えて夕方の高知の町に散策に出る。と言っても目的は散策ではない。夕食を摂る店を探すため。こんな高級ホテルの夕食付きプランなんて私の甲斐性では完全に予算外なので夕食は外で摂るしかない。夕方の高知の町をプラプラと散策しながら、今までの経験則に基づいて直感的に選んだ店が「きとうせ(季十瀬)」。
ドリンクはゆずスカッシュを注文。お通しをいただきながら、まず「半熟卵のシーザーサラダ」に「カツヲの塩たたき」と「土佐次郎のたたき」を注文。カツヲの豪快な切り身がボリュームタップリ。しっかりした土佐次郎もなかなかにうまい。
続けて注文は「まて貝の醤油焼き」、「タラの白子の天ぷら」。まて貝が香ばしくて味わい深くかなりの美味。白子は濃厚な風味。最後に「アサリの雑炊」で締め。最初はやや味が淡泊かと思ったが、食べ進めているとこの味付けで正解なんだということが分かってくる。
以上で支払いは5730円。やや食い過ぎた。予算的にも完全にオーバーだが、量的にも明らかにオーバーである。特に最後のアサリの雑炊が予想以上にボリュームがあった。食べたものが胃から上がってきそうである。ただ久しぶりに腹一杯食べたことで気分は良い。もっとも、後で体重がどうなるかはかなり怖い。
食後の腹ごなしも兼ねて夜の高知の町をホテルまでブラブラと散策。雨が上がってから冬型の気圧配置になったらしく、さすがの高知も若干の肌寒さを感じさせる。
やや体が冷えた状態でホテルにたどり着いたのでとりあえずは入浴で体を温めると、しばしマッタリしてから早めに床につく。
☆☆☆☆☆
花粉を吸い過ぎたのか、PM2.5の影響かは分からないが、この夜は鼻が詰まって息苦しくて熟睡は出来ず、目覚ましが鳴る前に6時過ぎに起き出す。とりあえず目覚ましのために朝風呂。サッパリとしたナトリウム塩化物泉がなかなかに快適であり、ようやく目が覚める。
目が覚めたところで7時から朝食。バイキング形式の朝食で高級ホテルの割には内容的にはやや簡素であるが、和洋両対応なのでしっかりと腹に入れておく。
8時過ぎには早々とチェックアウトする。今日は最終的に宇和島まで長駆する必要がある。当初予定では土佐中村の中村城に直行するつもりだったが、その後の調査の結果、途中に久礼城なる城郭があることが判明したのでそこに立ち寄ることにした。
「久礼城」は佐竹氏の城郭である。佐竹と言えば茨城の大名であるが、その一族が鎌倉時代にここの領主としてやってきていたらしい。ただし後に長宗我部の軍門に下ることになっている。
久礼城があるのは久礼湾に面した中土佐町。高知自動車道を中土佐で降り、国道256号を川のところではずれてから、かなり狭い道を登って久礼中学校に到着。この学校の裏山が久礼城になるらしい。学校の門前に車を置くと、職員室を訪ねて駐車の許可を得ると共に登り口についても教えてもらう。中学校の先生と以前にこの山に登ったことがあるという野球部の選手が親切にも登り口に案内してくれる。この中学校に行く途中に水道施設への道路があるが(車両通行止めになっている)、その道路を進んだ途中に山に上がる階段があるとのこと。
水道施設に登る道路の途中に久礼城への登り口がある 階段はすぐに見つかる。そこを登っていくと山道が続いている。先ほどの学生は「獣道のような山道」と表現していたが、実際には道はキチンと整備されていて登りやすい。途中で放送アンテナが建っている場所があるが、ここは樹木が伐採されているので遙か海まで見渡すことが出来る。
比較的整備されている道を進んでいくと、アンテナのところに出る ここからは広く海の方まで見渡せる 尾根筋の先の七曲がりを登り切ると二の丸らしき曲輪にたどり着く。そこそこの広さがあると共に土塁なども見られる。ただこの辺りは結構藪化している。
左 道が七曲がりになってくる 中央 後ろを振り返って 右 二の丸に出る 左 二の丸に出たものの鬱蒼としすぎ 中央 これは堀切のようだ 右 主郭に登っていく 二の丸のさらに奥の一段上に主郭がある。主郭は土塁に囲まれて厳重に守られているが、奥の今はほこらが建っている裏手はもう一段高くなっており、その背後は石垣でさらに高くなっている。
左 主郭に出る 中央 これは井戸跡だろうか? 右 よく見ると周囲は石垣である 左 奥に祠がある 中央 祠裏には高い土塁が 右 よく見るとここも石垣である 主郭の裏手には三の丸があるらしいので道なき道を渡ってそこまでたどり着くが、三の丸内部は鬱蒼としていて踏み込めず。ただ三の丸にも土塁があることと、主郭との間は堀切でしっかりと分かたれていることは確認した。この堀切を渡った奥に畝状竪堀なども見られるとの情報もあったのだが、倒木が行く手を塞いでおり、これを除けるだけの腕力もないので諦める。
左 本丸裏手の三の丸との間の堀切 中央 この状態でとても進めない 右 三の丸も鬱蒼として立ち入れない 知名度のかなり低い城郭であるが、それに反して結構見所のある城郭であった。贅沢を言うなら、本丸周辺をもっと整備してくれたらありがたいところ。ランクとしては続100名城Bクラスレベルはある。
久礼城の見学を終えると土佐中村まで長いドライブ。実は中土佐町には中土佐町立美術館という施設があるのを知ったのは、遠征を終えて帰宅してからであった。この旅行記執筆のためにグーグルマップを調べていて気づいた次第。ここに立ち寄らなかったのは事前調査の甘さによるミスである。
中土佐から土佐中村までは60キロ。しかし高速道路と違って一般道の60キロというのは結構キツイ道のりである。ようやく中村に到着した時には昼前になっていた。
「中村城」は町のはずれの小高い山上に立っている。町のはずれの山上に天守閣のような建物が建っているのでよく目立つ。中村城は元々は一条氏の城郭であり、一条氏配下の為松氏が最初にこの地に築城したと言われている。その後一条氏は長宗我部元親に攻め滅ぼされ、関ヶ原の合戦後にはこの地は山内一豊の治めるところとなって一豊の弟・康豊がこの城に入るが、一国一城令によって廃城となったという。
中村城遠景
山上に車を置くと辺りの散策。車を置いたすぐ脇に石垣と案内看板がある。そこを上がると城域になるが、完全に公園整備されているので城としての遺構はあまり残っていない。東に進んでいくとかつての二の丸だっただろう辺りに下からも見えたなんちゃって天守が建っている。
左 登り口 中央 駐車場近くの石垣 右 為松公園になっている 左 幸徳秋水の詩碑 中央 なんちゃって天守 右 一応周囲に土塁があるようだ なんちゃって天守は郷土資料館である。以前の情報ではこの建物は老朽化のために入れないと聞いていたのだが、私の訪問時には普通に入場することが出来た。最上階からは辺りを見渡すことが出来、この地域を治めるにはこの地が最適であることが分かる。
風景については見事なものがある 中村城と呼んではいるが、元をたどれば尾根筋に並ぶ複数の城が組み合わさったものであるという。昔からここの尾根筋にはいくつかの曲輪がずらりと並んでいたということである。今日ではそれを全部つなげて大きな公園にしてしまっている。数段構成なっている公園の構造がかつての面影を残していると言えなくもないが、基本的には遺構と言えるようなものはほとんど残っていない。
曲輪跡は公園化していて遺構は皆無 この辺りでもう昼時なので中村で昼食を摂ろうかと思ったのだが、どうも適当な店がない。市街地を歩けば飲食店はあるようなのだが、車を置いておくべき場所がない。そこで昼食は成り行きに任せるとして(つまりは場合によっては抜きになることもあるということ)先を急ぐことにする。
中村を後にすると宇和島方面に向かう。カーナビの案内に従って国道441号を北上したのだが、これがまさに「酷道」そのもの。やはり300番台以降の国道は侮れない。途中ですれ違い不可の狭隘区間が延々と続いており、しかもそれにも関わらず対向車は結構多く、時には大型トラックがやってくることもある。すれ違いはまさに対向車との阿吽の呼吸。まかり間違ってこんなところに車幅感覚ゼロのオバハンドライバーなんかが紛れ込んだら一発で破綻である。とにかく神経のすり減るような運転を続けることになる。なおこの国道441号と並んで北上する道路に国道439号もあるが、こちらも「三大酷道」の1つで通称ヨサクと呼ばれるかなり有名な悪路らしい。この地域にはまともな道はないのか?
酷道の神経を使う長時間運転の上に昼食を摂っていないからだんだんと意識がボンヤリしてきた。これはまずいと江川崎までやってきたところで、ふるさと市なる施設を見つけたので、そこで桜餅を購入。それを腹に入れて一息付く。
ようやく桜餅で一息
江川崎を過ぎると国道381号線に乗り継いで西進。ようやく道が良くなったと思っていたら、愛媛県に入った途端にまた1.0車線が。しばし再びしんどい運転をすることに。ようやくそれを抜けた辺りが松丸。ちょうど道路脇に「虹の森公園」なる道の駅が見えるので昼食のために立ち寄ることにする。
昼食に頼んだのは親子丼。特に印象に残るものではないが普通に旨い。これを食べながら今後の予定の再チェック及び調査。すると今回の遠征で立ち寄る予定にしていた河後森城がすぐこの近くであることが判明する。私はこれから大森城を訪問するつもりでいたのだが、なぜか通り道にあるはずの河後森城が明日の予定のところに入れられていた。明らかにスケジューリングのミスである。危うく通り過ぎるところであった。実はここに立ち寄ったのは腹が減ったせいだけでなく、何となく町並みから城の気配のようなものを感じて強烈に引き寄せられたことがあったのだが、もろにその気配を感じた山自体が河後森城だったようである。私の勘もかなり鋭くなってきたか。
向かいのこの山上に河後森城があるようだ
昼食を済ませると直ちに「河後森城」に向かうことにする。まずは松丸駅前の観光案内所に立ち寄って情報の収集。どうやら見学用の駐車場も完備している模様。早速貰った地図に従って駐車場を目指す。
河後森城はその築城年代は明らかではないが、1500年代後半頃には機能しており、当時の城主としては河原渕教忠の名が残っているという。その後の長宗我部氏による侵攻、秀吉による四国平定を経て、城主も戸田氏、藤堂氏、冨田氏と変遷、1614年には宇和島藩の伊達秀宗の所有に帰するが、一国一城令によって廃城となったとのこと。
風呂ヶ谷の入口は狭いが内部は広い 河後森城は風呂ヶ谷と呼ばれる谷戸を取り囲む山上に曲輪を配した構造になっており、その風呂ヶ谷のところに見学者用駐車場がある。案内板の前に車を置いて風呂ヶ谷に入っていくと、その内部に登城路が複数伸びている。なおこの風呂ヶ谷は恐らくかつては屋敷などを置いていたのではないかと推測できるが、その入口部はかなり狭隘であるので、ここを木戸などで物理的に塞ぐことは容易であり、そうなるとかなりの空間を内部に擁した巨大城郭と考えられる。
左 西第10曲輪を目指す 中央 途中にある井戸 右 復元門 左 西第10曲輪 中央 復元建造物 右 向こうに見えるのが新城 左 本郭が遠くに見える 中央 回りを取り囲む堀切 右 本城方向へ連なる曲輪群と復元土塁 河後森城は西から北にかけての本城、東の古城、新城の3つからなるが、まずは本城に登る。案内に従って登っていくと本城の南端の西第10曲輪に到着する。ここには城門や建物、土塁などが復元されている。周辺はかなり切り立っており、ここは最前線で風呂ヶ谷の入口を守る位置にもなっている。拠点を意識してか曲輪の規模も大きい。
左 曲輪群の横を上がっていく 中央 手前が西第5曲輪で奥が第6曲輪 右 西第4曲輪 左 さらに進むと 中央 西第3曲輪と第2曲輪の間には深い堀切 右 西第3曲輪から第2曲輪を見上げる ここから数段に分かれた曲輪の横を通りながら主郭に向かって登っていくことになる。第10曲輪から第4曲輪までは比較的小規模な曲輪が高度に応じて順番に連なっている構造。西第3曲輪と第2曲輪の間にはっきりした堀切があり、ここに比較的高度差があることなどを見ると、ここから先が主郭部という考え方も出来よう。
左 さらに登る 中央 西第2曲輪 右 反対側の奥が虎口を経て本郭 左 虎口部分に門跡がある 中央 本郭にある建物跡 右 西第10曲輪が遠くに見える 本郭からの眺め 第2曲輪の奥の一段高くなっている部分が本郭でこの城の中心部分である。回りは木を伐採して整備されているのでかなり見晴らしがよい。曲輪の面積も広いのでここにはいくつか建物が建っていたろうと推測される。
左 東曲輪に降りる 中央 東第2曲輪 右 東第3曲輪 左 東第4曲輪がダラダラと続く 中央 先端には堀切がある 右 堀切は結構深い 左 堀切の向こうが古城 中央 古城は工事中 右 柱跡の保存工事だとか 主郭の東側にも数段の曲輪がダラダラとつづいている。その先に深い堀切があり、そこからが古城になるようである。私の訪問時にはちょうど古城で発掘作業中であり、発掘で見つかった柱跡などの保存作業が行われていて立ち入り禁止であり、その先には進むことが出来なかった。
新城を目指す 左 新城 中央・右 左手の斜面には複数の曲輪が 左 中央の曲輪を帯曲輪が取り囲む 中央 何かの発掘跡か 右 向こうの西第10曲輪と共に風呂ヶ谷の入口を固める 古城からは新城に向かう。新城は小高い曲輪を中心に複数の帯曲輪らしき構造を目にすることが出来る。ここは西第10曲輪とともに風呂ヶ谷の入口を固める要衝であるが、この辺りの地形は比較的なだらかであることから曲輪群で防御を固めているように思われる。
新城を見学したところで風呂ヶ谷に降りてこれで河後森城の見学は終了。かなりの規模で要塞と呼んでも良いレベルの城郭であった。また国の史跡指定を受けているためか整備状況も非常に良く、城郭を十二分に堪能することが出来て城廻の醍醐味を感じさせるものである。四国にまだこんなすごい城郭があったとは。私もまだまだ勉強不足であった。
松丸の町並み 見応えのある城郭を堪能して汗をかいた後は、松丸駅の駅舎内にある森の国ぽっぽ温泉に立ち寄ることにする。そんなに大きな施設でもないのだが、人気があるのか地元の客で賑わっていて駐車場も車で一杯である。泉質はアルカリ単純泉でヌルっとした感触のお湯であり、なかなかに心地よい。風呂上がりには高知メロンサイダーで一杯。ただこのサイダーはメロンの味が少々わざとらしくてイマイチ。
さっぱりと汗を流し終わった頃には夕方近くになっていた。この後は大森城に立ち寄る予定だが、元より大森城には登るつもりはない。と言うのも、事前の調査によると周辺に車を停める場所もないし、今は登る者がほとんどいない山は荒廃し、登山道さえキチンと整備されていないと聞いている。単独行の私には道なき道を進むのはあまりにリスクが大きいし、そもそももう尾根筋を直登するだけの体力も時間も残っていない。
「大森城」は土居氏の居城であり、戦国期に城主であった土居清良がここで長宗我部軍を迎え撃って見事に撃退している。この土居清良という人物、どうも歴史的な資料よりも伝説的なエピソードの方が多い人物のようだが、とにかく戦に滅法強かったのは事実らしい。鉄砲装備率の高い高機動力部隊で毛利の援軍などとして大活躍したとのことだから、雑賀衆のようなものか。また長宗我部軍に対峙した時にはその知略で大損害を与えたとのことだから、真田昌幸のような策士でもあったのかもしれない。調べれば調べるほど興味をそそられる人物ではある。
大森城遠景 予土線の二名駅の北西方向にいかにもそれっぽい風情の山容が見える。結構な高度のある山であるが、登山道さえキチンとあれば登ることは不可能ではないと感じるのだが・・・。西側からアクセスしてみたが確かに車を止める場所がない。何にしろもう既に日は西に傾いているのでもうタイムアップである。宿泊予定地の宇和島に急ぐことにする。今後に三間地域の地元の観光資産としてもう少し整備してくれたらありがたいところである。地元のヒーロー・土居清良の関連史跡として盛り上げる手はいくらでもあるように感じるのだが・・・。
三間から宇和島までは車でそう時間はかからない。宇和島は駅前に椰子の並木がある南国ムード(椰子の並木はここ以外では宮崎ぐらいしか記憶にない)。宿泊するのは宇和島国際ホテル。宇和島に到着してからホテルの位置がわからなくてしばしウロウロすることになるが、気がつけば目の前がホテルだった。
部屋は和室でホテルと言うよりは旅館っぽい部屋。とりあえずチェックインすると町に散策に出るが、近くの商店街は立派なアーケードに反して内部は人通りもほとんどなくシャッター率が3割近い瀕死の状態。衰退する地方の状況を象徴しているかのうような光景である。また宇和島の町でまいったのはコンビニがないこと。これはホテルに宿泊する場合には非常に不便。
瀕死状態の宇和島の商店街
宇和島城がそこに見えるが、今から登る時間も気力もないし、そもそももう門が閉じられているようである。町中には高野長英の隠れ家なる建物もあったが、確かにここに高野長英が住んでいたことはあるらしいが、今の建物は明治になって建て替えられたものを再整備したものだとか。どうもビルに囲まれて狭っ苦しく、史跡としてはイマイチである。
左 宇和島城 右 高野長英隠れ家 町を一回りして戻ってきた頃に夕食。夕食はいわゆる会席メニューだが、なぜかエビフライが含まれているのが意味不明。お約束通り宇和島風鯛飯も。宇和島風鯛飯は鯛を炊き込むのではなくづけにした刺身をご飯にのせるタイプ。これはこれでうまい。
夕食を終えると大浴場で入浴。これがあるのがこのホテルを選んだ理由。温泉でも何でもない普通の風呂だが、手足を伸ばせて入れる風呂が一番。入浴を終えて体を温めてから布団の上でゴロゴロしていると、今日一日の疲れが一気に押し寄せる。やはり今日は山城3カ所(そのうちの2カ所は本格的に山登りしている)に酷道を長距離ドライブ。思いの外に疲労が溜まっている。集中力皆無なので文章書きなんてとんでもないし、テレビを見るのもしんどい状況の上にそもそも見るべき番組もないしで、もう早めに就寝してしまうことにする。
☆☆☆☆☆
昨晩は結構爆睡していたような気がするが、それでも夜中に何度か中途覚醒している。どうも最近は眠りが浅くていけない。起床したのは6時過ぎ。
このホテルは大浴場はあるのだが朝風呂がないのが難点。とりあえずシャワーで目を覚ますと朝食に向かう。朝食は普通の和定食。やはりいろいろな点でホテルと言うよりは旅館という呼び名の方がしっくりくる施設である。
朝食で腹を満たすと荷物をまとめてチェックアウトする。今日の予定は重伝建である卯之町の見学。さらに併せてこの周辺の城郭を調査する予定。これが四国に残された大きな宿題の一つであり、本遠征の第二の目的。
卯之町は松山自動車道の西予宇和ICからすぐ。現在はちょうど松山自動車道の西予宇和−宇和島北間が無料開放されている。対面二車線のハーフサイズなんちゃって高速道路であるが、散々四国の酷道で苦しめられた身には超快適道路に映る。
西予宇和ICにすぐに到着する。しかしまだ早朝であるので卯之町見学は後にしてまずは城郭調査の方から開始することにする。訪問するのは黒瀬城。戦国期にこの地を支配していた西園寺氏の居城であり、元々ちょうど向かい側にある松葉城を本拠にしていた西園寺氏が、戦国末期になってここに本拠地を移動している。本拠地移転の理由については定かではないが、西園寺氏を取り巻く脅威がそれまでの北方の河野氏などから南方の長宗我部氏に変化したためではないかなどと推測されている。
「黒瀬城」へのアクセスについては、南方に位置する運動公園から登山するのが一般的であるが、ネットでの調査によると北西方から林道によるアクセスも可能との情報があったのでそれに従って林道からのアタックを試みる・・・がこれが結果としては大失敗だった。この林道が幅が狭いのはともかくとして悪路の上に傾斜がきつい。また結構分岐が多いので道に迷ってしまって散々な目に。落ちたらひとたまりもない崖にたどり着いたり、挙げ句はノートの登坂能力を超えてしまってタイヤから白煙が立ち上ったりと、かなり怖い目に遭って這々の体で撤退する羽目に陥ったという始末。結局はかれこれ1時間弱を浪費した挙げ句に諦めてセオリー通りの運動公園からのアタックからに切り替えた。
この看板を見て矢印通りに舗装道路を西に進んだら大間違い
この看板がこうだったら間違わなかったのに・・・ しかし運動公園ルートを選んでからも散々な目は続いた。登城口の看板を探して放浪しているうちに再び林道に入り込みそうになったり、ようやく登城口の看板を見つけたものの、その案内に従ったつもりで西方の墓地の奥の登山道らしきところに入り込んだら、途中で道が消失してしまって進退窮まったりなど。結局、案内看板があるところの山道にそのまま入り込んだら良かったのだと気づくまでにさらにかなりの時間を浪費してしまった(なんで看板の矢印が西方を指してるんだ?)。
左 最初は道はしっかりしている 中央 途中から沢筋を登る 右 尾根筋が見えてくる 出展 余湖くんのホームページ 一端登山道を発見すると、後は道に沿って登っていくだけで10分程度で城内にたどり着く。思わず「この程度なら横着せずに最初からこちらを目指すべきだった」と後悔するが後の祭り。私の人生訓の一つは「人間、横着のための手間は惜しむな」であるが、ちょっとした横着がとんでもない手間につながってしまうことがあるのは人生の現実ではある。
左 尾根筋にたどり着く 中央 最初に出会う堀切と土橋 右 曲輪の先端が見えてきた 到着したのはどうやら黒瀬城と隣の岡城の間の平地らしい。まずは黒瀬城の方に向かう。黒瀬城に向かって登り始めると、すぐに土橋状の構造に当たる。そこを過ぎると堀切の先の一段高い位置に曲輪がある。
左・中央 一の郭はかなり広い 右 脇には堀切と土塁が この曲輪は奥に鉄塔も建っている広い曲輪で、これが主郭である一の郭。かなりの広さがあり、複数の建物を建てられそうである。また北側は堀切と土塁で囲ってあり、防御を高めてある。
左 一の郭の一段下の付郭 中央 さらに降りていく 右 二の郭 左 二の郭にある井戸跡 中央 さらに先に進むと 右 三の郭 ここから東に向かって斜面に沿って下りながら、二の郭、三の郭と複数の曲輪が連なっている。この辺りは特別に凝った作りというわけではないが、防御をしっかり固めている印象がある。ただ規模としては一の郭に比べると小規模の曲輪ばかりである。なお二の郭の井戸跡には今日でも水が溜まっていた。ここが水場だったようだ。
左 三の郭の先の曲輪 中央 展望台になっている 右 振り返るとかなりの高度差 町並みを見下ろす 向かいの山上に松葉城がある 最東端は展望台のようになっていて、ベンチなども置いてある。ここからは卯之町方面を見渡せる。向かいに見える山が西園寺氏のかつての居城であった松葉城である。
黒瀬城の見学を終えると今度は反対側の「岡城」の見学に向かう。岡城は黒瀬城と反対側にひたすら尾根筋を登っていった先。先ほどの黒瀬城に比べると登りはきついし、通路などもあまり整備されていないようである。
左 先ほどの尾根筋を反対側に進む 中央 曲輪手前の堀切 右 広い曲輪だが全貌が見えない 岡城は広い曲輪を高い土塁で囲ってあり、黒瀬城以上に防御に力を入れている印象。
左 奥にさらに一段高い曲輪が 中央 主郭内部もやはり鬱蒼としている 右 周囲には土塁がある その奥のさらに一段高いところに主郭と思われる曲輪がある。この曲輪も周囲をしっかりと土塁で囲まれているので内部に入るのは一苦労である。面積はそこそこあるが黒瀬城の主郭ほどの規模はない。
岡城は全体的に黒瀬城よりも防御に徹しているようであるが、裏はかなり切り立っていてどん詰まりの印象。黒瀬城の北側を守るための出城か、もしくは黒瀬城までが落ちた時に最後に立てこもって徹底抗戦するための詰め城ではないかと思われる。もっともここに籠もるような事態になれば、援軍が来ない限りは絶望的であるが。
岡城の見学を終えたところで山を下りる。なかなかに見応えのある城郭だった。黒瀬城は続100名城Aクラス、岡城は続100名城Bクラスレベルはあろう。まだまだ四国には隠し球があったという印象。
城郭見学を終えると卯之町の散策に入る。卯之町は江戸時代から宿場町として栄えた町で、往時の面影をとどめる町並みが重伝建に指定されている。ここが四国で最後に残った未訪問重伝建であり、本遠征の主目的の一つにもなっている。
先哲記念館
重伝建地区は細かい路地が入り交じったような地域。とりあえず車を宇和先哲記念館の駐車場に置くと、ここで宇和民具館、開明学校、宇和米博物館などとの4館共通券を購入する。
先哲記念館は地元ゆかりの偉人に関する展示館。シーボルトの娘で医学を学んで産科医として活躍した楠本イネに関する展示が中心であった。
往時の面影をとどめる町並みは風情がある。ただ町並み内には普通の家が多いようで、あまり観光地的商売をしているところはないようである。商売っ気があったのは造り酒屋ぐらいか。ここでは地酒の通販もしているようだが、残念ながら私はアルコールには全く興味がない。
左 民具館 中央・右 開明学校
開明学校内部に教室と立たされている生徒が 民具館はいわゆる古道具類がてんこ盛りだが、質屋の倉庫を公開しているような雰囲気がある。開明学校は明治時代に建築された小学校。木造で洋風な当時のモダン建築である。中には教室などもあるが、そこには一人バケツを持って立たされている学生がいる。
ここにも高野長英の隠れ家・・・あちこちに隠れてたんだな 町並みの見学を終えると町並みを見下ろす高台の宇和米博物館へ。ここは旧宇和町小学校を移築した建物らしいが、長い廊下が特徴。ここでは雑巾がけレースである「Z−1グランプリ」が開催されて多くの参加者が訪れているそうな。教室は展示室になっており、内部にはこの地域の米作りに関する資料などが展示されている。昔の農機具から、最新型のハイテク米倉庫まで紹介されており、さながらJA記念館。なおコシヒカリは倒れやすいイネだと聞いていたが、実際にコシヒカリの現物を見て納得。勉強にはなる。
旧宇和島小学校を移築した宇和米博物館 卯之町の見学を終えた頃には既に昼過ぎ。卯之町内には適当な店がなかったので、車で付近に適当な店を探したところ見つけたのが「和風レストラン野福」。いわゆる定食ものなどが中心の模様。注文したのは「ひゅうが飯(1480円)」。
四国地域にはいろいろなタイプの鯛飯があるが、このひゅうが飯もいわばその亜流。鯛の刺身付き卵かけご飯という趣。これはこれでうまい。全般的に料理もうまく、お得感まではないまでもはずれ感は皆無。観光地でこれなら上々であろう。
昼食を終えると近くの愛媛県歴史文化博物館に立ち寄る。ここは山の中腹にある巨大施設で、内部は古代から近代に至るまでのこの地域の歴史や風俗にまつわるもの。城関係の展示なども意外と多く見応えあり。またかつての松山の町並みを復元したコーナーなど、なかなかに泣かせる。
左 歴史文化博物館 中央 古代山城永納山 右 松山城 左 大洲城 中央 宇和島城 右 かつての松山の町 最後に「松葉城」に立ち寄ることにする。松葉城は西園寺氏が黒瀬城に居城を移す前の本拠である。松葉城登り口は宇和中学校の裏手を少し北上したところにあり、案内看板も立っているのですぐに見つけることが出来るが、周辺には駐車場がないので注意。先人達の登城記の中にはこの山道を車で進んだという記述も見られるが、確かに軽クラスなら入っていくことも可能だが(実際に途中で軽トラが降りてくるのに出くわした)、特に入口部が狭い上に奥にも狭隘箇所があるので、普通車以上はどこかに車を置いて徒歩で登る方が賢明である。また山城慣れしている者なら、徒歩で登ったところで20分もかからずに山城に到着できる。
左 松葉城登城口 中央 上から軽トラが降りてくる 右 しかしこの道幅 左 途中から道は階段に 中央 かなり急な階段を上った先が 右 松葉城に到着 山上は公園整備されており、西方への視界が広く開いている。こういう点では西側からの脅威に対応するにはこの城の方が黒瀬城よりも適しているだろう。やはり西園寺氏が本拠を黒瀬城に移したのは、脅威が西側の大友氏から東側の長宗我部氏に変化したことが一因なのではないかと推測される。
町並みを一望 主郭部分で驚くのは山上に巨石がゴロゴロしていること。どうやらここは岩山のようである。高所恐怖症の私には怖くてとても近づけないが、どうやらここの末端は巨岩がむき出しの断崖絶壁のようである。
巨石むき出しの本丸からダラダラと数段の曲輪が続き、先端部には土塁らしきものも 主郭部は黒瀬城の主郭よりは狭いが、それでも十分な面積はある。この主郭から北西方向に向かって地形に合わせて数段の曲輪に分かれているが、その高低差は黒瀬城の曲輪ほどにはない。一番先端部に本来の登城口があったと思われるが、この辺りも周囲は切り立っている。
こうして見てみると松葉城は周囲を断崖に囲われており、かなり防御力が高い天険の要塞であることが分かる。今日では主郭の奥に階段が設置されているのでここから容易に登ることが出来るが、本来はここは断崖であり、尾根筋からの攻略もほぼ不可能である。地形から来る防御力は黒瀬城よりもむしろ高い。ただそれ故に城自体の拡張性は皆無である。城の防御を主に地形に頼る中世の城と言えるだろう。
これで宇和町での予定は終了。もう既に夕方近くになってきた。結局は今日一日のこの周辺で過ごしたことになる。そろそろ今日の宿泊地に向かって移動することにする。今日は松山の道後温泉で宿泊するつもり。松山自動車道を経由しての長距離ドライブになる。ただ高速道路のドライブは特に問題なし。それよりも問題は高速を降りてから。松山市街の手前で大渋滞に出くわすことになり、ここで思わぬ時間ロス。もっとも今日の予定は既に終了しているのでそんなに焦ることもないが。それにしても高知といい、松山といい、四国の大都市はどうも交通事情があまり良くないようだ。
松山市街に入ってからかなり時間をロスしたが、ようやく道後温泉に到着する。今日の宿泊ホテルはにぎたつ会館。道後温泉にある公立学校共済組合のホテルである。と言っても別に教師でなくても宿泊できる。道後温泉にリーズナブルな価格で泊まれる宿と言うことで選択した次第。
チェックインするとまずは大浴場へ。私の宿泊した部屋は何と大浴場の隣。便利は便利だが、うるさくないかどうかが少々気になる。
道後温泉はアルカリ単純泉である。しっとりと肌になじむなかなかに良好な湯。本遠征は長距離ドライブが多くて地味に体にダメージが蓄積しているので、それをしっかりと抜いておくことにする。
風呂からあがってしばらくマッタリするとすぐに夕食。私の予約プランは簡易会席のプランなので、品数は少な目である。
夕食を終えると散歩に出ることにする。久しぶりの道後温泉。やはりここは何度来てもしっくりくる。何かやはり私は松山と前世の因縁でもあるんだろうか。久しぶりの道後温泉本館。この周辺はいつ来ても「いいなあ」という言葉が出るところ。なぜか懐かしいところに帰ってきたような気がするのである。これは非常に不思議だ。
左 道後温泉駅 中央 道後温泉本館 右 謎のキャラクター 夕食が軽めだったので久し振りに「味倉」にでも寄るかと思ったのだが、なぜか店の前に大行列。いつの間にこんな人気店になったんだ? おかげで味倉に立ち寄るのは諦めざるを得なくなる。
味倉の前には大行列
せっかくここまで来たのだから「椿の湯」に立ち寄ることにする。道後温泉は本館が観光客メインなのに対し、こちらは地元民がよく利用するという温泉銭湯。料金も銭湯料金で安い。内部は山中温泉や湯村温泉などで立ち寄った共同浴場と雰囲気が非常に類似している。いずれも古かった共同浴場を、その雰囲気を残しつつ最近になってリニューアルした施設である。
内風呂が一つのシンプルな施設。しかしそのシンプルさが共同浴場らしい。風呂上がりにいただくフルーツ牛乳が日本の正しい銭湯のあり方。
道後温泉街の散策を済ませると夜のお供のタニタデザートを仕入れてからホテルに戻る。しばしマッタリと過ごした後、早めに就寝したのである。
☆☆☆☆☆
翌朝は起床するとまずは朝風呂。目が覚めたところで朝食へと繰り出す。今朝は最初に立ち寄る予定の場所が10時半オープンなので、急いでも仕方ないからのんびりとした朝となっている。思いの外体にダメージが残っているので、朝食後もしばしベッドでゴロゴロしてからチェックアウトしたのは9時半頃である。
朝からしっかり頂きました 松山市内で給油をしてから北上する。今日最初に立ち寄るのはエリエール美術館。大王製紙が所蔵する美術品を展示した美術館である。大王製紙と言えば、創業一族の馬鹿息子社長が関連会社に恐怖の大王よろしく降臨し、金を貢がせてはカジノにつぎ込んでいたというので有名になった親族経営会社であるが、どうやらカジノだけではなく美術品にもつぎ込む金があったようだ。
美術館があるのはエリエールゴルフクラブ松山の一角で、この一帯が大王製紙のリゾート施設になっている模様。エリエール美術館自体は宿泊施設に隣接している美術館で、宿泊者は自由に見学できるというタイプだが、外来者も見学可能という施設。ちょうど直島のベネッセハウスに類似しているが、こちらは太っ腹にも見学無料である。
展示品はビュッフェやデュフィなどが中心。これ以外にもメジャーなところではキスリング、ヴラマンク、シャガール、ローランサンなどの作品もあり。これ以外にも日本人画家で藤田や梅原の作品なんかも展示してある。正直なところあまり私の好みの作品ではないのだが、いずれも色鮮やかな絵画ばかりで、とにかくコレクターの趣味が一貫しているのだけは一見して分かる。間違ってもミレーやコローなんかは収集しそうにない(笑)。
美術館の見学を終えると今治に向かって国道317号をひた走るのだが、それだけではおもしろくないので途中で鈍川温泉に立ち寄って、鈍川温泉ホテルで日帰り入浴することにする。
鈍川温泉は数軒の旅館が建ち並ぶ鄙びた温泉街。鈍川温泉ホテルは駐車場から見た時には小さなホテルのように感じたのだが、内部は結構大きい建物だった。入浴料金を払って川沿いの大浴場へ。鈍川温泉の泉質はラドンを含む単純アルカリ泉とのこと。肌触りはヌルヌルとした典型的なアルカリ泉のもの。道後温泉もアルカリ泉だが、この辺りはアルカリ泉が多いのだろうか。湯はなかなかに良くて快適。
温泉でさっぱりと汗を流すとそのまま一気にしまなみ海道を渡る。時間があれば今治に寄っても良かったのだが、そんな時間はない。
しまなみ海道は景色は良いのだがとにかく長い。また対面二車線のなんちゃって高速なので、一台遅い車がいればつかえてしまう。とは言うものの車自体はそう多くなく、むしろ橋を徒歩や自転車で渡っている者の方が多いぐらい。しまなみ海道は自動車橋としては明らかに無駄な建設であったが、サイクルロードとしては需要が多いようだ。
帰宅前に最後に立ち寄るのは対岸の尾道。尾道市立美術館を訪問するのは久しぶりである。
「平木コレクション 美しき日本の風景−川瀬巴水、吉田博を中心に」尾道市立美術館で5/11まで
明治以降の版画には従来の浮世絵の技術を継承して、摺師と絵師の分業体制で制作する「新版画」と作家自らが自刷りする「創作版画」の二つの潮流が現れる。風景をテーマにしたこれらを代表する作品を平木コレクションから展示する。
創作版画に関しては作家自らが刷りまで手がけていることから、作家の芸術的意図は浸透しやすいが、どうしても技術的には稚拙で素人臭さが感じられる。そこをどのようにくみ取るかが難しいところ。どうしても私の目には「凝った小学生の木版画」レベルに見えてしまう作品が多かったのは事実。
新版画はいかにも商業ベースにも乗るグレードの高い作品が多い。このような作品を代表するのが川瀬巴水であるが、やはり作品レベルとしては傑出しているし、また単なる芸術性のない絵はがき的作品ではないことは作品からも覗える。そこに流れている叙情性は広く共感を得やすいところでもある。
今回私が個人的に興味を持ったのは吉田博の作品。川瀬巴水とはまた傾向の微妙に異なる精緻な絵画的表現の作品が多く、これはこれでなかなかに面白かった。これが今回の一番の収穫。
まだ桜のシーズンは若干早いようだが、辺りには観光客が多い。ここまで来たついでなので少しあたりを観光してみるとことにする。
しかしまずは腹が減った。面倒くさいので展望台内にある「グリル展望」で昼食を済ませることにする。注文したのは「尾道丼(1260円)」。
展望台と尾道丼 タコと牡蠣のフライが入った丼である。これがなかなかうまい。意外だったのはタコのうまさ。CPは微妙なところだが、尾道水道を見下ろしながら頂くこの丼はなかなか乙なもの。
尾道水道の風景 ほぼ廃墟となっている尾道城のインチキ天守
展望台からしばし尾道水道の眺めを楽しむ。遠くに見えるはインチキ天守の尾道城。そもそも歴史的背景も何も全くないところにいきなり観光用天守を建ててしまったという乱暴極まりない建物であるが、1990年に閉鎖されてからは放置状態とか。遠くから見ても廃墟化しているのは明らかである。余計なものを作ってしまったが、つぶすにも金がかかるしというところなんだろう。
断崖上の千光寺のすぐ近くをロープウェイが通る 千光寺から眺める尾道の町並み 尾道水道の眺めをしばし楽しんだ後、ついでだから久しぶりに千光寺を訪れてみることにする。以前に訪問した際、かなり断崖の寺院であるという印象が残っていたのだが、改めて訪れてみると記憶以上に断崖だった。千光寺の御利益のほどはよく知らないが、確かにこの寺院に参拝すると確実に足腰は強くなりそうである。
何だかんだで尾道で結構時間をつぶしてしまった。しかし実は予定はもう一カ所ある。今からまだ岡山までドライブする必要がある。
岡山までのドライブは順調だったのだが、例によっての岡山ダンジョンは健在。高速を降りたとたんに大渋滞に引っかかって全く車が進まない。結局は目的地には閉館間際に飛び込む羽目に。
「藤田嗣治渡仏100周年記念 レオナール・フジタとパリ1913-1931 展」岡山権利津美術館で4/6まで
藤田嗣治の初期作品からフランスで活発に活躍する時期までの作品を広く集めた展覧会。
個人的には藤田のクセ絵はあまり好きでないので、どうしてもその点で展覧会への興味が減退してしまうのは否定できないのだが、面白かったのは藤田と同時期に活躍していた他の画家の作品の展示があったこと。藤田が活躍していた時期の画壇がまさに百家争鳴だった様子が覗える。
また藤田が有名な画家たちのタッチを真似したパロディ小品の展示があったのは笑えた。やはりこの時代の画家たちは、お互いにかなりそれぞれがクセ絵を描いていたことは自覚していたのか。
これで本遠征の全予定が完全終了。帰宅することと相成ったのである。
かなりの長距離ドライブで思いの外疲れ切ってしまった今回の遠征だが、その代わりに得たものは大きかった。まず今回の遠征で四国地域の宿題はほぼ終了することが出来た。しかもその内容たるやかなり充実したものであり、今回訪問した久礼城、河後森城、黒瀬城、岡城、松葉城などは悉く続100名城クラスの城郭であった。もしかしたら四国にはまだまだ知られぬ名城が潜んでいるのかもしれないという気もしてくる。
また四国最後の重伝建・卯之町もなかなかに情緒のあるところであった。四国のこの地域には大洲、内子とやはり風情のある町が存在している。なかなか良いところである。ただその割にはかなり町自体が寂れてきている(特に宇和島)のが気になるところではある。やはり私が以前から唱えている地方再生プラン、東京解体プランを進める必要があるのであるが、現在の政権はその逆でTPPによって地方を再起不能な状態にしてしまおうとしている。これこそまったく亡国政権である。
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