展覧会遠征 鹿児島編

 

 さてこの週末は飛び石休暇である。こういう場合は「赤と赤に挟まれると赤になる」というオセロの法則によって月曜日は休みにするのが定石。幸いにも私の勤務先からも「年有休暇消化率向上のためにも、この月曜日は休むように」とのお達しが。休日さえ休ませないようなブラック企業も横行する中で、何ともありがたい健常企業宣言。元よりそのつもりであった私は気兼ねなく休暇を取得して遠征に繰り出すことと相成った。

 

 さてこの時期の遠征先だが実は結構難儀である。というのは北方及び山陰は積雪のために車が使えない(軟弱な瀬戸内ドライバーの私には、冬タイヤで積雪地帯を走るという選択肢は端からない)ため、自ずと遠征地は南方に限定されてしまうのである。そこでまず積雪があり得ないような南方というところで浮上したのは鹿児島。鹿児島地区は今まで何度か通過はしているが、志布志城を初めとしてまだまだ訪問するべき城郭が多数宿題として残っている。また本題である美術館の方も、未訪問の美術館が数カ所ある。これらを中心に据えることで計画の骨格は定まった。

 

 金曜日の仕事を終えると大阪に移動する。土曜の朝一番の飛行機で鹿児島に飛ぶので、例によっての新大阪前泊である。宿泊ホテルは大阪空港前泊の際のお約束のホテルクライトン新大阪。大阪空港へのアクセスが容易な立地に安価な宿泊料金、さらに大浴場完備という私好みのホテルである。

 

 大阪駅で可もなく不可もなくの夕食を摂ると、ホテルにチェックイン。何はともあれ大浴場で体を温める。露天風呂に行ったと思ったら雪が降っているのには驚いた。ニュースによると今日から明日にかけて太平洋岸で豪雪の可能性があるということ。いささか不安である。

 

 入浴をすませてゆったりすると、明日に備えて早めに就寝することにする。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時に起床する。NHKのニュースをつけると各地で大雪とのこと。東京でも積雪があったらしく、テレビが半ばパニックになりながら東京の状況を中継している(地方での数十人が死亡するような事故よりも、東京であった数人が犠牲になったような事故の方を大々的に放送するような東京マスコミの常ではあるが)。交通に乱れが予想されるという。何やらいきなり正真正銘雲行きがおかしくなってきた。

 

 急いでチェックアウトすると地下鉄で新大阪。新大阪からはバスで空港に移動する。どうやら鹿児島行きは問題なく出発する模様であるが、羽田便などは引き返す場合もあるとの条件便になっている模様。ひとまずは安心だが、参ったのは手荷物カウンターと搭乗ゲートが大混雑していたこと。空港に到着したのは出発1時間前ぐらいだったのに、手荷物カウンターで30分待ち、搭乗ゲートで30分待ちという状況で、搭乗ゲートをくぐった時にはもう乗客の搭乗が始まっていた。朝食を摂っていなかったので空港でと思っていたのだが、そんな余裕は微塵もなかった。

 

 鹿児島行きの便は満席らしい。なお機体はあのいろいろと話題になった787。思わず焦げ臭い異臭がしないかと確認してしまう(笑)。ずんぐりした機体という印象だが、中に入ると天井が高いように感じられた。また各座席にモニターが付いているので、私はそれで「ガイアの夜明け」を見ているうちに鹿児島に到着してしまった。さすがに最新鋭の機体だけあって、事故さえなければ快適な機体である。

 

 鹿児島は雲は出ているものの概ね晴天。少なくとも雪が降りそうな気配は全くない。ここからはレンタカーでの移動になる。私は事前にオリックスレンタカーを手配している。送迎のバンで近くのオリックスの事務所に移動。貸し出されたのはホンダのフィット。ヴィッツやノートに比べると車体が若干大きめである。

 

 鹿児島空港に到着した頃には曇っていたが、この頃になると既に晴天。すると気温が上がってくる。さすが南国鹿児島と言うべきか、そうなると暑くなってくる。結局は車の中は暖房どころか冷房を入れる始末。関西との気温差が激しすぎてそれで体を壊しそうである。ダウンジャケットを着てきたのだが、これだと一番薄手のジャンパー一枚で十分だった。飛行機一っ飛びで雪国から南国に飛んできたという印象である。やはり日本は南北に長い。

 

 さて鹿児島での最初の目的地であるが、未訪問の美術館に立ち寄るつもり。それは松下美術館。福山病院の院長であった松下兼知氏が蒐集したコレクションを展示した美術館である。彼はそもそもは画家志望だったのだが、その夢を諦めて医師の道へと進んだとのこと。しかしそれでも絵画への思いは断ち切れず、病院経営の傍らで絵画などの蒐集を行っていたらしい。

 これが1号館

 現地は山の斜面で、病院などがある中に1号館から6号館までの複数の建物が建っている。1号館は黒田清輝や和田英作などの日本洋画とコロー、モネなどの西洋画。小規模ながらも意外と有名どころの名品がある。地元ゆかりの和田英作の作品などが印象に残るが、若干変わったところでは東郷青児の作品などもあり。2号館は地下室(核シェルターになっているとのこと)。私の訪問時には日本画や薩摩切子などを展示しており、ここにも秀作が多い。なおこれらの絵画の前に一緒に土器類まで展示されているのが何となく雑然としている。

左 3号館  中央 4号館  右 5号館

 やや離れたところにある3号館はエジプト美術やオリエント美術を展示で、4号館は掛け軸、屏風類。病棟か寮を転用したと思われる5号館は民俗資料館とのことで多数の面を展示してあった。

 6号館

 一番はずれにある6号館は貸ギャラリーとのことで、私の訪問時には松下氏自身による作品や薩摩焼を展示してあった。

 

 個人コレクションの小規模の美術館なのだが、その割にはコレクションは多岐に渡っている上に水準も高く、松下氏がかなり情熱と財力を注ぎ込んだのだということが伺える。私の予想以上に見応えのあるものであった。

 

 美術館の見学を終えると海沿いをひたすら南下する。途中で桜島の脇までやってくるが、ここで左折。とりあえず桜島の訪問は後日である。今日の目的地は鹿屋。ここにある鹿屋城を見学するが目的。

 

 この行程は長いかなりしんどいもの。しかも途中で制限速度50キロの道を40キロ以下でフラフラと走るジジイの軽が道を塞いで大渋滞。頼むから制限速度で走れないドライバーは公道に出てこないでくれと言いたい。実際に後ろから見ていても、常に車がフラフラとしていていつ事故を起こすか分からない状態。もしかしたら昼間から一杯引っかけているアル中だろうか?

 

 もう昼時を過ぎている上にかなり疲れたので、鹿屋城に立ち寄る前に途中で道路脇のそば屋に飛びこんで昼食。店内からははずれオーラがプンプンと漂っており、これは失敗したと感じたのだが、出てきた蕎麦は存外まともであった。

 「鹿屋城(亀鶴城)」は鎌倉時代に歴史に登場するとされているが、その由来はハッキリとはしていないらしい。後に鹿屋氏の居城となり、鹿屋氏没落後の1580年からは伊集院忠棟が15年間居城とし、彼が都城に転封後には島津久信が一時的に居城にした後に廃城となったとのこと。

 

 鹿屋城があるのは鹿屋市街の真ん中であり、城跡公園となっている。鹿屋市はこの辺りでは結構大きな町だが、どうやらこれがかつての城下町の名残らしい。城跡公園の駐車場に車を置くと散策をするが、当初は城への登り口が分からずにウロウロする羽目になってしまう。谷筋に休憩施設があるのでそこが登城道かと思えば通行止めになっている。そこでその北の台地に登ってみたものの、ここからは深い谷に阻まれて本丸にはたどり着けず。

左 この部分の右手は行き止まり  中央 北側の台地に登ってみたが  右 鬱蒼として訳が分からない

 惨々ウロウロした挙げ句にようやく先ほどの谷筋より一本南側の谷筋が入口であることに気づく。ここを進んでいくと正面が本丸、南側に小高い台地があるがこれが今城ということになる。今城は二段になった小さなスペースで出城と言ったところか。

左 入口の正解はここ  中央 二段の曲輪を登っていくと  右 どうやらここが新城らしい

 奥の本丸は数段に分かれており、一番南に展望台が設置されていてここからは鹿屋市街を一望出来る。なおここに野口雨情の詩碑も建っている。なお本丸の格段は石垣で分けられているが、これは明らかに後世の改変。

左 向こうに見えるのが本丸  中央 本丸入口に回り込む  右 城跡碑はここにある

左 先端には展望台  中央 反対側は数段になっている  右 最上段

展望台から望む市街

 本丸の最上段からは西の堀切の土橋部分を通って中城に上がれる。しかしここは鬱蒼とした台地の中央にフェンスで囲われた配水池があるだけ。なおここの西側に北側に向かって下りていく道があるが、ここは先ほど通行止めにされていた道路だろう。多分、配水池の点検用の登り口なんだろう。

左 本丸横手の堀切に降りる  中央 隣に中城への登り口がある  右 何やら施設がある

左 配水池らしい  中央 奥は鬱蒼としている  右 一番奥まで行くと遙か下に道路が見える(かなり高い)

 後世による地形の改変がなされているのでどの程度原型をとどめているのかが判然としないが、鹿児島のシラス台地を堀切で分断して複数の曲輪を横に並べた形式の城郭であることは確認出来る。またその堀切の深さが半端でなく、周囲はかなり切り立っているので転落したら洒落にならない状態である。そのためか現地にも「雨天などの悪天候時には通行止めにすることもある」との表示があった。どちらにしても見学はあくまで自己責任でということだ。勝手に入り込んで勝手に転落した挙げ句に市に治療費を請求するような見苦しい真似をするなということである。

 

 鹿屋城の見学を終えるとここからさらに南下、次は高山城を目指す。

 高山城へ向かう途上の風景・・・ここは一体どこの国だ?

 「高山城」は肝付氏の居城で、築城時期は明らかではないが不落の名城として知られていたとのこと。肝付兼久の時に島津忠昌の攻撃を受けたがそれを凌ぎきったことが記録に残されているとのこと。なお一時は島津氏を圧倒して大隅半島をほぼ制圧するところまでいった肝付氏だが、後に島津氏の伸張によって衰退、家臣の離反などもあって19代当主の肝付兼護の代で島津氏に臣従、そのまま薩摩藩士として存続したとのこと。なお高山城は現在、国の史跡に指定されている。

 高山城の南に案内看板と駐車場があるのでそこに車を停めて見学をする。高山城も堀切で区切った曲輪を横に並べたシラス台地用標準仕様の形式の城郭である。

 案内看板と高山城

 一番手前に大手口があり、そこから登っていくと左手に三の丸と現在は大来目神社になっている球磨屋敷の曲輪がある。この辺りは軽い登りになっているのだが、足下が先日の雨で濡れてズルズルであるために歩きにくい。杖を突くとそれが沈んでしまう状態。乾くとボロボロ、濡れるとズルズルのシラスはそれだけで防御力が高い。だからシラスの鹿児島の城郭と関東ロームの北条氏の城郭は構造が類似するのだろう。

左 大手口  中央 大来目神社になっている球磨屋敷  右 通路はこんな感じ

 そこからさらに進むと大手門を経て左手に山伏城、右手に二の丸。ここの見学は後にしてさらに進むと左手に枡形と記された曲輪があり、右手の道で本丸にたどり着く。なおここで曲輪のことを枡形と記されているが、これはどう考えても構造的におかしい。枡形の機能から考えるとそもそも谷筋の広場が枡形であって、この曲輪は枡形ではなくて番所か何かであろう。

左 この辺りが大手門跡  中央 空堀  右 二の丸への分岐

左 枡形入口  中央 この上が枡形  右 枡形・・・となっているが構造的に変

 本丸はかなり大きな曲輪。いくつかの曲輪に分かれていて、本丸に入る道は左右の曲輪からの攻撃にさらされる構造になっている。

左 本丸に向かう  中央 両側がそそり立つ  右 かなり高い

左 通路横の曲輪  中央 本丸奥の土塁  右 土塁上から見下ろした本丸

本丸風景

 本丸の奥には幅広い谷があるが、ここは馬乗り馬場と書かれている。確かに馬に乗れるだけの広さはある。なおこの方向からは本丸が直接見えるためか、本丸にはこちらに面した側に土塁があって防御を固めている。

馬乗り馬場は確かに馬に乗れそうなぐらいの広大なスペース

奥曲輪はもう鬱蒼として何が何やら

 馬乗り馬場の奥には奥曲輪という何段かに区画された複数の曲輪が連なるらしいが、実際に現地はかなり薮化しておりここには踏み込めなかった。多分ここは家臣の屋敷などではなかったかと思われる。

左 搦手門の辺りに二の丸の入口が  中央 登っていくと  右 二の丸は二段構成になっている

左 さらに奥の段に上る  中央 結構広い二の丸  右 下から見上げるとこの高さ

 帰路で二の丸や山伏城などに立ち寄る。二の丸の入口は大手路の反対側にあってかなり回り込む構造になっている。ここは面積も広く、本丸に準ずる曲輪であったことが推測される。なおここから無理矢理に大手路に降りたのだが、途中で足を滑らせて転倒した挙げ句に登山杖を折ってしまうことになってしまった。やはりシラス台地は侮れない。

山伏城に登る

 山伏城もごく普通の曲輪。ここには山伏が居住していたとのこと。城の中に山伏が居住しているというのも妙な印象を受けるが、当時の山伏が情報部員のような役割を担っていたことを考えると、ここは服部半蔵控え所のようなものか。そういえば北陸の森寺城にもカンジャ屋敷(間者屋敷?)なる曲輪があった。

 

 かなり広大で見応えのある城跡であった上に保存状態も良い。これは国の史跡認定も当然と言ったところ。先ほどの鹿屋城と違って回りに市街地がないことが保存には幸いしたか。

 

 高山城を後にすると次は志布志城に向かう。志布志城は南北朝以前の時代に既に存在していたと言われ、築城年代は不明。戦乱の中で徐々に拡張されつつ城主も入れ替わり、最終的には島津氏の直轄地となって本土防衛の拠点となっていたが、後に一国一城令によって廃城となっている。志布志城は城郭マニアの間で結構知られている城郭であり、そもそも本遠征を企画したのはこの城郭を見学するためというのが大きい。以前に鹿児島を回った時にもルートの関係でここに立ち寄れなかったのが非常に心残りになっており、その後も志布志にフェリーで上陸する計画等種々の計画を比較検討した結果、本遠征計画が採用された次第。

 

 以前に日南本線で訪れた時には何もない田舎に感じていた志布志だが、こうして車で走ってくると結構な都会に見える。やはりここまで惨々何もない中を走ってきたことによる相対論効果というものだろう。なお私の言う相対論効果とはアインシュタインのものではない。周辺があまりに田舎だと相対的に大都会に見えるという比較相対性のことであり、アイドルの中に少し普通の頭の者がいれば賢く見えたり、芸人の中に少し普通の顔の奴がいたらイケメンに見えるという現象である。最近では、政界やネットに普通の常識人がいれば聖人君子に見えてしまう。

 

 「志布志城」は志布志市街の北の山手にある。そもそもは内城、松尾城、高城、新城の4つの城の集合体のようだが、今は高城と新城は宅地開発などで原形をとどめていないというので志布志小学校の北にある内城を訪問することにする。なお先人達の訪問記では車を停める場所がないので路駐したというような内容が多いのだが、現在は志布志小学校西のところに観光用の無料駐車場が整備されている(グーグルマップのストリートビューを見ると、ちょうど工事中の状況になっている)。この方が訪問するこちらも気兼ねしないで良いし、近所の住民も迷惑を被らなくてすむ。

 

 駐車場のすぐ北が国指定文化財の平山氏庭園。これは元々は石峯寺の遺跡だったらしいが、明治の廃仏毀釈の後に代々平山氏の住宅となっているとのこと。なお廃仏毀釈とは明治期に神道原理主義者によってなされた文化破壊テロで、バーミヤンの石仏を爆破したタリバーン並みの馬鹿げた暴挙を数々成し遂げて大いに日本の文化的価値を貶めた(この時に破壊された貴重な文化財は数知れない)。しかしそもそも伊勢神宮までが本地垂迹で神仏習合しているような状況で神仏分離など土台不可能な話であったのである。宗教的色彩を帯びた勢力が権力に絡むとろくなことにならないという歴史の教訓となっている。

平山氏邸とその庭園

 なお平山氏庭園はあくまで個人所有の庭園であり、今でも家人の並々ならぬ努力によって維持されているので、見学に際しては家人に迷惑をかけないこと。その旨は現地にも看板で記されている。なお庭園自体は巨石を配したかなり荒々しいものである。

 

 平山氏庭園をさらに北上したところに内城の登城口がある。ここに案内看板があり、ポケットガイドまで置いてあるのでありがたく受け取っておく。また雨天時などには崩落などの危険があるので足下に注意して見学は自己責任でとの記載もある。要は「例によって君もしくは君の仲間が崖から転落し、負傷もしくは死亡するようなことがあっても、当局は一切関知しないからそのつもりで」というミッションインポシブル状態である。なおこの看板は自動的に消滅はしない。

左 志布志城入口  右 案内看板より
 

 ここまでの城郭はさほど険しくないところに平らに曲輪を並べた印象だったが、志布志城は結構高さがあり明らかに山城である。それだけに今日一日で酷使している足腰に堪える。つまりはそれだけ防御力も高いということを意味する。実際に登城路の脇には複数の曲輪があり、攻城時には狙い撃ちされることが容易に推察がつく。

左 登城口  中央 この手の道を登っていく  右 かなり険しい

 かなり登ったところでたどり着くのが曲輪3下段と記された曲輪。曲輪3と言うのが本丸と推察されている曲輪で、要はここは本丸の下の曲輪。ここから奥を上がったところが本丸。本丸は結構な広さを有している。

左 本丸手前の深い堀切  中央 本丸に登る  右 これが本丸下の曲輪

左 さらに奥に本丸への登り口  中央 本丸に出る  右 本丸虎口

 本丸

 

 本丸虎口からかなり降りていったところで搦手口方向の通路と中野久尾方向への通路に分かれている。中野久尾(曲輪4)は二段に分かれた曲輪。本丸との間は通路を兼ねた深い堀切で分かたれており、北側からの攻撃を防ぐと共に、住居や倉庫などに使用されていたのではないかと考えられる。

左 本丸からかなり降りる  中央 本丸と中野久尾の間の空堀  右 中野久尾に登る

左 中野久尾の下の段  中央 奥にもう一段  右 中野久尾上段
 

 この中野久尾の西側に大空堀と看板が立っている場所がある。総じて志布志城の堀切は広大で深いが、ここの堀切は特別に幅も広い。ある程度は自然の地形を使用したのではないかと思われるが、かなりの人力による加工が加わっているだろうことは切岸の鋭さから推測される。ここを這い登ることはまず不可能である。ここにたどり着いた攻城軍は、周囲の曲輪からの雨あられの矢玉にされされて壊滅必死であろう。なお乾くとポロポロで濡れるとズルズルのシラスであることから、南国の豪雨にさらされているといずれは城跡自体が消滅してしまうのではとの心配も抱いてしまう。

大空堀はとにかく幅広くて深い

 この隣にもう一つの中野久尾(曲輪5)がある。ここも二段に分かれていて隣の曲輪よりは広い。なおここについては近年まで畑になっていたのではないかという跡が見られる。上の曲輪を見学してから、土塁上を下って下の曲輪に達したのだが、後でその通った後を見ると、土塁の下がかなりえぐられている状態でゾッとした。いずれ自然崩落の危険がありそうだ。

左中央 こちらの中野久尾の登り口は明らかに後世の改変  右 中野久尾上段

左 中野久尾の下の段  中央 ここを通って降りたのだが・・・  右 後で下から見ると足下が崩壊寸前

 この奥にさらに大野久尾があるらしいが、構造的には同じような繰り返しになるだろうし、もうそろそろ体力も限界に近い上に時間も気になりだしたので引き返すことにする。帰路は各曲輪の東側の堀底路を直帰。最後に矢倉場をのぞいてから降りる。矢倉場は南側防衛の最前線の小曲輪。建物跡が発掘されているようである。

一番手前の矢倉場には新納時久の墓がある

 志布志城は島津の防衛拠点としてふさわしい大要塞であった。内城だけでこの規模であるから、これが4城に分かれていたとなると一体どれだけの兵力を収容出来たのか。ただ大要塞であるが故に、果たして島津氏にそれだけの兵員動員能力があったかが疑問でもある。東で伊東氏や大友氏と激戦を繰り広げていた時にはかなりの兵員を置いていただろうが、勢力がほぼ定まった後は実際には内城だけを運用していたのではと推測する。

 

 これで本遠征の最大の目的は達成と言うことになる。志布志城は確かにこの南国までわざわざやってくるだけの価値のある城郭であった。これぞ城郭巡りの醍醐味というもの。全身に満足感が充ち満ちてくることを感じる。ただ今日一日で1万5千歩を越えている上に、このトドメのような山歩きである。もう体力的にも限界の上に既に日は西に傾いている。このまま宿泊ホテルに向かうことにする。

 

 志布志城から宿泊ホテルまでは車ですぐ。今日の宿泊ホテルはダグリ岬にある国民宿舎ボルベリアダグリ。ホテルは遊園地などもあるダグリ岬の先端にある。

 

 私が予約したプランはバリアフリー客室のプラン。別に私は車椅子を使っているわけではないが、要はこのプランしか空きがなかったから(別に障害者に限定されているプランではない)。バリアフリー室なので入口ドアがやたらに大きく、トイレが車椅子が入れるサイズになっている。しかし部屋自体は海に面した良い部屋。

ドアとトイレが普通と違うが、部屋自体は良い部屋である
 

 部屋で一息つくと大浴場へと繰り出す。ここの大浴場は日帰り入浴も受け付けているらしく、浴場内はかなりの混雑である。炭酸水素塩泉という湯はヌルヌルした肌触りの美人の湯。消毒の塩素の臭いが若干するのが難点だが、それは仕方ないか。

 

 入浴を終えるとランドリーで洗濯をする。鹿児島が想定外に暑かったせいで汗をかいたのだが、服やズボンの着替えを持ってくるのを忘れていたのである。アンダーシャツを取り替えても、その上から汗くさいシャツを着るという事態は避けたい。また先ほどの高山城で転倒した際にズボンに土汚れもついている。最近のホテルはランドリーを設置している例が増えているのはありがたい。

 

 夕食は7時から食堂で。メニューは会席料理。特に不満がある内容ではないが、特別な驚きもないというのが本当のところ。まあ「普通にうまい」というやつである。

 夕食を終えるともう一度入浴してから部屋でマッタリ。しかしすることがない。テレビはオリンピックと東京の雪ばかりで見るものがないし。結局はやや早めに就寝してしまう。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時に起床。目覚めるとまずは朝風呂。ヌルヌルしたアルカリ泉が心地よい。

 

 7時には食堂で朝食。バイキングだがこれはなかなか豪華でいささか驚きがある。朝から豚しゃぶというのはいかにも鹿児島か。

    朝から豚しゃぶと焼きたてのオムレツ

 なおレストランには同宿の韓国の大学の野球部の面々も来ていたが、彼らが帰るたびに監督・コーチと思われる面々に深々と一礼してから帰っていたのが印象的。体育会系と言うだけでなく、儒教思想で長幼の序が厳しい韓国文化の反映か。

 

 8時過ぎにはチェックアウト。さて今日の予定であるが、霧島方面に向かうつもり。最初に立ち寄るのは「松山城」。松山城はそのゆかりは古く、平清盛の弟・頼盛の孫の隠岐守重頼が1188年に築いたという記録が残っているという。しかしその後は島津氏や肝付氏の勢力争いの中で何度も戦乱に巻き込まれて落城したが、最終的には島津氏の直轄地となったとのこと。本来は本丸、二の丸、五兵衛城、八万城の4つに分かれているが、現在残っているのは二の丸だけらしい。

松山城二の丸には展望台が建っている

 志布志からしばし北上すると松山。ただしこの辺りも今では志布志市に属しているようだ。松山城跡は城山公園となっているが、今では体育施設などが整備されており、この工事で二の丸以外は全部削平されてしまったのだろう。

左 反対側の曲輪は神社  中央 神社  右 神社の奥の曲輪
 

 二の丸は公園を見下ろす高台になっており、頂上は複数の曲輪に分かれ、展望台や神社などがある。この展望台に登って市街を見下ろしてみたが、どうも足下が不安で高所恐怖症を久しぶりに発症した(私の高所恐怖症発症条件は純粋な高さだけでなく、足場に対する信頼性が大きく影響する)ので早々に降りてくる。

  二の丸奥の堀切はかなり深くはあるが

 今となっては二の丸しか残っていないので城全体の構造を推測出来ないが、二の丸を見る限りでは切岸も鋭いそれなりの防御力を有する城郭と思われた。しかし単に地形だけでは城は守りきれるものではないのだろう。

 

 松山城の見学を終えるとさらに北上して都城に向かう。ここでは都城市立美術館に立ち寄るのが目的。この美術館には因縁がある。以前に都城を訪問した際、延々歩いてこの美術館の前まで来たのだが、正月休みで休館していたということがあったのだ。ここの訪問も長年の宿題であった。

 

 都城市立美術館に到着すると、向かいのコミュニティセンターの駐車場に車を止めるが、ここの駐車場が異常な混雑でしばし空きを探してウロウロすることになる。ようやく空きを見つけて車を止めると美術館へ。

 

 美術館では「美意識過剰」と称した所蔵品展を開催中。展示作は地元ゆかりの画家の作品から現代アートまで様々。地元ゆかりの作家(山田新一、山内多門)の作品には面白いものもあったが、現代アート関係に関してはどうでも良いようなものが多数。

 

 これでとりあえず長年の宿題をまた一つ解決。サクッと美術館の見学を済ませるとすぐに次の目的地へと向かうことにする。今日の目的地は霧島温泉であるが、その前に栗野城に立ち寄るつもり。都城からは宮崎自動車道と九州自動車道を乗り継いで栗野を目指すことにする。この道は以前にも走行したことがあるが、高原地帯の山間を抜ける道路で沿線には全く何もないところである。

 

 栗野ICで高速を降りると「栗野城」はすぐ近くである。ただ、いざ現地に到着すると正確な場所が分からないのでネット検索。要は栗野城は心光寺の裏手の山にあるが、アクセス道路が一方通行なのが要注意である。辺りをウロウロ走ったところ、ようやく登り口を見つける。

 

 狭い道を登っていくと、やがて弓道場手前の駐車場にたどり着く。なおこの先さらに登ったところに老人施設があってそこも曲輪であったようだが、そこには今では城らしい痕跡はまるでない。

 

 栗野城(松尾城)は島津氏が整備した城郭で、飯野城から移った島津義弘が1590年から5年間居城にしていたという。本丸には石垣が用いられており、案内看板には「南九州唯一の山城跡」と記されている。

  模擬冠木門

 本丸周辺は城跡公園として整備されており、模擬冠木門が建てられているが、管理状況があまり良くないのか朽ちかけている。手前の曲輪には遊具が設置されていたりなど公園整備されている割には人の気配が全くなく、どことなく開発に失敗した残念な公園という空気が漂っている。

左・中央 本丸の石垣  右 本丸の城跡碑と島津義弘手植えの木

左 本丸風景  中央 向こうに二の丸が見える  右 本丸下の石垣
 

 本丸の土台と虎口には石垣が残っており、確かに南九州で石垣を見るのはかなり珍しい。本丸には島津義弘が手植えしたと言われる木が残っている。本丸は標高はそれなりにあるのだが、木のせいで見晴らしは良くない。本丸の向こうにはほぼ同じ高さの二の丸が見えている。この間には元々は板橋があったらしい。

左 二の丸登り口  中央 二の丸  右 二の丸からの風景

 二の丸は整備されており、本丸よりも面積的には広い。まわりはかなり切り立っており堅固である。

 

 久しぶりに石垣を見たという気分で、石垣フェチとしては生き返ったような気がする。ただし城としては石垣は用いていても縄張り自体はそれまでの曲輪を並列に並べる形式から脱しておらず、近世城郭とは異なるものであった。例えば佐敷城などと比較するとその違いは明確である。

 

 栗野城見学の次は霧島方向に向かって車を走らせる。次の目的地は霧島アートの森。野外立体彫刻などを配した屋外型彫刻美術館で、ちょうど箱根彫刻の森や札幌芸術の森などと同タイプの美術館になる。ここも今回初訪問の美術館。

  

 霧島の山岳地帯を走ることしばし、いきなり駐車場の入口に草間彌生の作品が置いてあるからすぐにそれと分かる。展示は屋内と屋外の両方にあるが、いずれもいかにもの作品である。庭園内を散歩しながら作品を見て回ることになるので、かなり運動量を伴う美術館である。そういう意味ではこの手の美術館は「現代美術とは遊園地のアトラクションである」という私の言葉通りの施設のように思われる。

 

 庭園を一回りしたらかなり腹が減ったので、レストランでとりあえずの昼食を摂る。注文したのはビーフシチュー。レトルトを温めた?と思われるシチューに厚切りのトーストと小さなサラダが付いて900円。まあ美術館のレストランなんてこんなものだろう。

 

 アートの森を後にすると今日の宿泊予定の霧島温泉を一端通過して、霧島神宮に立ち寄ることにする。霧島神宮は坂本龍馬が新婚旅行で訪問したことでも知られる神社で、境内に龍馬とおりょうの看板も立っている。

左・中央 霧島神宮  右 霧島神宮を新婚旅行したこの方々
 

 観光名所として人気があるのか大型バスもやってきているし、本殿の前は参拝者が行列を作っている。私も手早く参拝を済ませるとおみくじを引く。「末吉」待ち人は来るとのことで「驚きがある」との記述が。驚くような相手と言うことか? と言うか、今私が突然に結婚でもしたら確実に回りはそれだけで驚くが。

 

 参拝後には境内にある土産物屋でぜんざいを頂いて一服。長時間の運転で疲れているから甘物が旨い。

 

 さてこれで今日予定していたスケジュールはすべて終了なのだが、まだ3時前であり霧島温泉に向かうにはやや早すぎる。どこか立ち寄るところはないかと考えた時、ここに来る途中に通りかかった霧島神話の里公園というのを思い出したので、そこに立ち寄ることにする。

 

 神話の里公園の駐車場に車を置いて風景を眺める。かなり壮観。なおここからさらに上にクラブハウスがあるのだが、そこまでは長い階段をひたすら登るか、200円を払ってロードトレインに乗るか。もう既に身体がヘロヘロになっている私は迷わずロードトレインに乗ることにする。

左 ロードトレイン  中央 クラブハウスに到着  右 この先はリフト
 

 クラブハウスまではロードトレインで10分ほど。ここにはいろいろな遊具などが置いてある。ここからでも先ほどの駐車場よりも高度がかなり増したことを感じられるが、ここからさらに上にリフトで上がることが出来る。ここまで来たのだからついでにさらにリフトで上に上がることにする。

左 リフトで上がる  中央 霧島連山が見える  右 リフトで上がった先の展望台

 リフトで上がった先には展望台がしつらえてある。ここまで来ると霧島連山なども望むことが出来て圧巻の風景である。しばし風景見物にいそしむ。

 

 ここにはまさに展望台しかないので、一渡り風景を楽しむと下に降りることにする。下りもリフトというのも芸がないので、下りはスーパースライダーを使用。専用のソリでコンクリートの溝の中を滑り降りるという遊具である。ブレーキ完備なので危険なく降りることが出来る。

左 展望台から  中央 帰りはスーパースライダーで降りる  右 コンクリートの溝の中を走る
 

 ビジターセンターまで降りてくると、麓の駐車場までは今度は歩いて降りることにする。下りでも結構段数が多いために相応の足へのダメージはある。これは登りにロードトレインを使ったのは正解だった。

 

 神話の里公園の見学を終えると4時頃。そろそろ霧島温泉に向かうことにする。ただ途中で丸尾の滝の前を通るのでここで寄り道。丸尾の滝は本当に道路のすぐ脇にある。おかけでこの辺りは車が混雑して事故の危険もある危ない箇所。現在道路の整備工事が行われているようなので、新道でも開通すると少しはマシになるか。

   

 丸尾の滝は案内によると高さ23メートル、幅16メートルとのこと。滝としては特別に巨大なものではないのだが、この滝の一番の特徴は、流れ落ちるのが水でなくて温泉水の湯の滝だということ。だから辺りに立ち上っているのは水しぶきではなくて湯煙である。また温泉成分のせいで水が青白色をしており、独特の雰囲気をなしている。なお私の見学中にも観光タクシーやマイカーがひっきりなしに訪れては記念写真撮影にいそしんでいた。

 

 丸尾の滝の見学後には霧島温泉に向かう。この間、ほんの数分。霧島温泉はあちこちから湯煙が立ち上るいかにも古い温泉地の風情。また町中に硫黄の匂いが漂っている。

 

 今回宿泊するのは霧島国際ホテル。霧島温泉を代表する大ホテルの一つである。今回、宿泊が日曜の夜と言うことで比較的リーズナブルな価格のプラン(とは言っても、私が普段使用するビジネスホテルの倍ぐらいの価格だ)が予約できたことがここを選んだ理由。こういうことが出来るのが飛び石連休の魅力。三連休だと休日割増料金(これが温泉ホテルでは概してかなり高い)を取られるところである。

 

 部屋は旅館の和室と違ってツインの洋室(ここのホテルは和室が中心のようなのだが)。ビジネスホテルのツインルームのような仕様である。ホテルとしては洋室の方が和室のように従業員が布団を敷く必要がないので省力化のメリットはありそうだ。また山側を向いた眺望のない部屋というのも低価格だった最大の理由。しかし私は部屋の眺望にはあまりこだわらない(部屋はたいてい寝るだけだから)。ただ裏手の山でテントウムシが大発生したとかで窓が開放禁止になっていたのはちょっと。部屋が暖房で若干蒸していたから少しだけ窓に隙間を空けると、それだけでテントウムシが2匹ほど入ってきたので、ティッシュで捕まえて立ち退いて頂くことになった。確かにこれではとても窓など開けられない。せめて網戸があれば良いのだが、ここの窓は網戸がないようだ。

 

 とりあえず部屋で浴衣に着替えを済ますとまずは大浴場へ。浴場からは硫黄の匂いが漂っており、霧島温泉の泉質は硫黄泉のようだ。ただし成分表を見ると炭酸水素塩も結構多い。源泉の違いによってにごり湯と透明湯の二種がある。しかしいずれも湯の花などの析出物が非常に多く、露天の岩風呂などにはそれがこびりついていて壮観である。浴感としては肌にまとわりついてくるようなネットリとした感触がある。いかにも「効きそう」に感じる湯。

 

 大浴場で入浴後は、そのまま別館の露天風呂へハシゴする。別館へは長い渡り廊下を歩く必要がある。別館は明らかに建物が古く、どうやら旧館の模様。今では従業員の宿舎などとして使用しているようだ。別館の露天風呂は濁り湯が並々と注がれている。何と言っても迫力なのは、浴場にそのまま温泉が自噴していること。これだからわざわざ旧館の露天風呂を残したのだろう。肌当たりが優しいので、少々温度が高くても皮膚がチリチリすることがない。そして後で体が温まってくる。

 

 温泉のハシゴをして部屋に戻ってきたらまもなく夕食の時間になる。夕食は会席のコース。しかし一品一品が非常にうまく、感動がある。和食が世界遺産になったが、確かに繊細な和食は文化の極みのように感じる。たとえばフランス料理などもうまいが、あれはソースなどでかなり味を作るという印象があるのに対し、和食はシンプルに素材の味をベースに勝負するのだが、そこに非常に繊細なバランスがあるのである。これは相当高度な文化の所産。

 

 夕食を終えて部屋に戻ってくるとしばしマッタリ。原稿でも打とうかと思ったが、かなりの疲労がたまっているせいで考えが全くまとまらない。かと言って、テレビをつけてもオリンピックばかりで退屈で仕方ない(私は基本的にスポーツ中継は嫌いだ)。仕方ないのでベッドでボンヤリしていたがそうすると眠気が出てくる。そこで就寝前にもう一度大浴場に入浴に向かう。

 

 入浴して血の巡りが良くなると眠気が若干遠のいたので、しばしネットで明日以降の計画のための調査などをしてから就寝することにする。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は4時頃に一端目が覚めてしまう。どうも年のせいか睡眠力が落ちており、遠征などで環境が変わると中途覚醒が起こってしまうことが増えた。1時間ほどしてからもう一度眠るが、すぐに6時の目覚ましで起こされることになる。どうもタイミングが悪すぎて朝から眠気がある。

 

 そこでとりあえず朝風呂に入ることにする。すると案の定、目がさえる。どうも霧島温泉には覚醒効果があるようだ。

 

 目が覚めたところでレストランで朝食である。朝食はバイキングだが、温泉ホテルらしく充実したもの。揚げたての薩摩揚げなんてのがいかにも鹿児島。ちなみにこの薩摩揚げ、余所で食べるとたいていろくなものはないのだが、やはり鹿児島で食べるとうまい。朝から和食でしっかり頂くことにする。

 

 昨日はかなりの晴天だったのだが、今日は生憎と朝から雨である。ただ今日は元々あまり予定を入れていないので、朝はゆっくり目で8時過ぎぐらいにチェックアウトする。

 

 さて今日の予定だが、桜島に渡るつもりである。今まで鹿児島は数回訪れているものの、桜島には行ったことがなかったので火山見学をしておこうとの考え。

 

 桜島までは2時間近くの長駆のドライブとなる。途中からは一昨日と全く同じ海沿いのルートを通ることになる。垂水のところで一昨日は鹿屋方面に向けて左折したが、今回は桜島方面に直進である。

 

 桜島内の道は道路自体は整備されていて悪くないのだが、結構起伏があるので走るのはそれなりにしんどい道。慣れない道に四苦八苦していると、「手作り豆腐」と書かれたバンがぶっちぎっていく。古今東西、お豆腐屋さんは峠道をぶっ飛ばすと相場が決まっているんだろうか? しかし豆腐屋さんのハチロクならともかく、豆腐屋さんのバンにぶっちぎられる私もかなり情けない(例の大事故以来、どうも雨の峠道がトラウマになっている)。

 

 途中で山道をかなり登って湯乃平展望所に立ち寄る。しかし残念ながらの雨天で雲が山頂にかかっており、桜島火山の姿を明確に見ることが出来ない。しかも外は死ぬほど寒い。

生憎の天候で山がハッキリとは見えない
 

 しばし展望所で待ったが雲が晴れる気配もないので諦めてフェリー港のところに降りてくる。まずは定番どころのビジターセンターに立ち寄る。ここは桜島に関する博物館のようなもの。桜島の火山のみならず自然などについても解説しており、映像上映などもなされている。さすが場所柄か、上映映像にはハングルの字幕付。

  ビジターセンター

 ビジターセンターを見学した後は昼食にする。近くに国民宿舎レインボー桜島があるのでそこのレストランでランチを頂くことにする。注文したのは桜島大根使用というブリ大根のお膳。桜島大根はその見た目に反して繊細な大根で、なかなか旨い。

 

 昼食を終えてから火山を眺めたがまだまだ雲が晴れる気配はない。天気予報を見ているとこれは今日一日絶望的なようだ。諦めて鹿児島に渡ってしまっても良いのだが、それもあまりにせわしないような気もする。とか言っても立ち寄るべき場所もない。自然恐竜高遠なる場所をのぞいてみたら、単に恐竜型の遊具を置いてあるだけの普通の児童公園だし、月読神社を訪れてみたがこれも普通の小さい神社。桜島は火山以外は意外に見所がない。

左 恐竜公園    右 月読神社

 結局はもう桜島でするべきことはなくなってしまった。いくら待っても雨は一向にあがる気配を見せず、桜島火山はいよいよ全く見えなくなってしまっている。この期に及んで、もうこれ以上ここに滞在する意味はないと判断してフェリーで鹿児島に渡ることにする。

  道の駅で食べた小みかんソフト

 フェリー乗り場は道路から直結していてまさに国道の延長。ここのフェリーは利用もかなり多いので本数も多い。フェリーの乗船時間は10分程度。これだけ利便性が高ければあえて橋などを架ける必要もないか。鹿児島湾は内海なので大荒れすることもまずないし、また橋などを架けたら万一の桜島の噴火の際に被害が予想される。結局はここはこれから先もフェリー航路が維持されることになろう。

フェリーで鹿児島に渡る
 

 鹿児島港でフェリーを降りると次の目的地へと向かう。次の目的地は未訪問の美術館である長島美術館。その存在は以前から知っていたが、とにかくアクセスの悪い立地であることからまだ立ち寄ったことがなかったのである。

 

 長島美術館は鹿児島を見下ろす墓地などもある高台に立地している。途中の道なんか、本当にここを車が登れるの?と感じるほどの急斜面である。

 展示品は地元ゆかり画家・和田英作の作品などがあったが、洋画などでもミレーやヴラマンク、キスリング等メジャーどころもあって見応え有り。しかし圧倒的に充実していたのが薩摩焼関連の展示。これが質量共に圧巻。これに加えて、なぜかアンデスの土器や装飾品など(これがまた力強い)。とにかく展示が多岐に渡っていてその点に一番驚く。

 

 美術館見学後は別棟のレストランでお茶にする。ここからは桜島が正面に見れて絶景。デザートセットはCPはともかくとして洒落ていて味も良い。ちょっとお洒落なカフェというところか。

   

 お茶を終えて長島美術館を後にすると城山に登ることにする。城山は鹿児島城背後の山で、鹿児島城でいざ戦いという時にはここに篭もることも想定されていたとか。しかし今ではそのような面影もなく、鹿児島市街を見下ろす城山展望台を中心とした観光地になっている。鹿児島市街自体はコンパクトであるが、背景に桜島があるのが風景に変化を添えている。

城山に登る
 

 なおこの城山にはかつて西郷隆盛が潜伏したという洞窟の跡もある。この横を車で通り抜けながら次に向かったのは仙厳園。島津氏の別邸の庭園である。国の名勝にも指定されている。

  西郷が潜伏した洞窟

 ちなみにこの施設、入場が有料なのだが、その上に駐車場も別途有料である。さらに屋敷内部を見学したければ追加料金。二重三重に課金するシステムになっていて、そのあまりの商売っ気の強さにいささか興醒めする。庭園自体は桜島を借景にした広大なもので、やや殺風景にも思われる。

左 鉄製150ポンド砲  中央 園内風景  右 桜島名物小みかん

左 発電所跡の記念碑  中央 元々の門  右 仙巌園
 

仙巌園

いろいろと変化のある庭園である

 反射炉跡 このように産業施設も共存している

 なおこの敷地内には島津斉彬が欧米を意識した近代工場として設立した集成館もある。反射炉の跡なども残っており、欧米の軍事力に対抗するために大砲などの鋳造が行われていたようである。

左 集成館  右 別館

 これで鹿児島での予定はほぼ終了だが、レンタカーを返却する前に一カ所だけ立ち寄る。それは「東福寺城」。築城は古く1053年に藤原純友の4代目の末裔である長谷場永純によるとされている。南北朝時代には東福寺城を守る南朝方の矢上氏に対して、北朝方の島津氏が攻撃を仕掛け、激戦の末に1341年に東福寺城は島津貞久の手に落ちる。その後、島津忠恒が居城を鹿児島城に移すまで長年島津氏の拠点として使用されてきたという。

左 この山上が東福寺城  中央 曲輪跡だと思うが改変されすぎ  右 本丸跡
 

 現在は現地は公園となっており、駐車場も整備されているのでそこに車を置いて徒歩で散策する。東福寺城跡は駐車場から北東の山頂になるが、後世に大分手が加わったと見られ、東福寺城跡を示す石碑や看板等はあるものの、城の遺構らしきものは明らかではない。あえて言うなら、小さな削平地がいくつか見られるのが山城っぽいという気もするが、どこまで本来の地形であるのかは定かではない。

 

 これで時間切れである。鹿児島中央駅前のオリックスにレンタカーを返却すると、ホテルにチェックインすることにする。宿泊ホテルはシルクホテル。鹿児島駅前の天然温泉完備という私のニーズに非常に合致したビジネスホテルである。駅からは徒歩数分というところ。昨年改装したという建物内は結構綺麗。

 

 夕食は疲れているのと面倒なのとでホテル内にある飲食店「悠庵」で摂ることにする。まず注文したのはホテル宿泊者限定メニューという「黒豚しゃぶしゃぶ定食(2500円)」。刺身と小鉢に豚しゃぶがついたお得なセット。しかし正直なところ今日はかなりガッツリと食べたい気分。腹が若干不足なので、これに「鰹の刺身(850円)」「とんこつ(650円)」を追加する。鰹は新鮮で身に甘みがあって実に美味。とんこつはトロリとした軟骨の風味が格別。今日は夕食を堪能したのである。

 

 夕食を終えると大浴場で入浴。このホテルの大浴場は天然温泉で、地下から汲み上げた湯を源泉掛け流しで使用しているというかなり本格的なもの。実際、浴槽からは常に湯がオーバーフローしている。泉質はナトリウム−塩化物泉とのことだが、炭酸水素塩も多く、アルカリ性の湯。浴感としてはヌルヌルしている。なかなかに良好な湯である。

 

 夕食と入浴を終えると後はリラックスタイム。テレビはオリンピックばかりで見るものが全くないので、ベッドで転がりながらこの原稿などを入力。その内に強烈な眠気が襲ってくるので9時過ぎには就寝してしまう。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は7時まで爆睡しており、目覚ましでいきなり叩き起こされる。昨日は雨で泣かされたが今朝は晴天のようだ。起き出すとまずは眠気覚ましの朝風呂。スッキリした気分になると8時頃に朝食に繰り出す。朝食はバイキングだが比較的内容が充実している。このホテルは当たりだったようだ。

 

 チェックアウトしたのは9時頃。今日は特急「指宿の玉手箱」で指宿を目指す予定だが、その列車の発車が10時前なのでかなりゆったりした予定になっている。

 

 鹿児島中央駅に到着するとトランクをロッカーに放り込んでから、みどりの窓口でネット予約していた乗車券を受け取る。ホームに入るとすぐに「いぶ玉」(どうやら公式略称自体がこのようだ)の車両が入線してくる。左右が白黒に塗り分けられたツートンカラーが印象的。私の年代はこのタイプのツートンカラーを見ると、反射的に頭の中で「人造人間キカイダー」という歌が流れるようにプログラムされている(カラーリング的にはどちらかというとハカイダーのイメージだが)。

 

 いぶ玉の内装はJR九州らしく木材を多用しており、海幸山幸、A列車などと同じパターンだ。海が見える東側には窓に面した形のカウンターテーブルの座席があり、西側には2列のクロスシート。一部は4人用のボックスシートになっている。

 

 記念写真撮影などがあってから列車は定時に出発。それにしても指宿線は路盤が悪いのかよく揺れる。火山灰ベースの土壌が沈下しやすいのか、単純に保線の予算をケチっているのか(JR北海道などはこれで事故を起こした)。

 

 しばらく走ると左手に桜島が見えてくる。昨日は死ぬほど寒かったがそれもそのはずで、桜島の山頂には雪が積もっている。なお桜島に雪が積もることは比較的珍しいという。今日は晴天だが桜島には雲がかかってややボンヤリと見える。絵葉書や観光案内にあるようなシャープな桜島の姿というのはなかなか見られないのか。そう言えば今までの鹿児島訪問時も悉く桜島はボンヤリとしか見えなかった。

 

 しばらくすると車内販売が回ってくるので、いぶ玉限定の黒ごまプリンを購入。いぶ玉らしいツートンカラーのプリンは、上層は玉子の風味でマッタリ、下層は黒ごまの風味でシャープな印象。なかなかである。

 海沿いをしばし走ると列車は喜入に到着。ここからは知覧行きのバスが出ているらしい。喜入を過ぎてさらに海沿いをしばし走行すると終点の指宿まではまもなくである。

 

 ようやく指宿に到着。これでいぶ玉の旅も終了。JR九州の観光列車は特急A列車、特急ゆふいんの風、特急はやとの風、特急海幸山幸にSL人吉は以前に乗車しているし、さらにいさぶろ・しんぺいも乗車しているので、後は残るのは特急あそぼーい!ぐらいである。以前に阿蘇を訪問した時には火口に近づくことが出来なかったし、いずれ日を改めてこれらのリターンマッチも実行したいところである。

指宿駅に到着
 

 駅のホームには到着待ちの乗客があふれかえっていて大撮影大会になっている。玉手箱をイメージした煙ならぬ霧が出てくるなど、演出にも凝った列車でありホームが盛り上がっている。その間をくぐり抜けて駅から出る。久しぶりの指宿は南国ムード。ただ駅前商店街の寂れっぷりは相変わらず。さてこれからの予定だが、指宿に来たからにはやはり砂風呂ぐらいは体験しておかないと嘘だろう。バスでいわさきホテルまで移動する。砂風呂と言えば砂むし会館というのもあって観光客はこちらの方が定番なんだが、こちらは結構混むと聞いているので、あえていわさきホテルまで足を延ばした次第。

 砂むし会館

 いわさきホテルは以前にここの美術館を訪れたことがある巨大ホテル。いわゆるすべてをホテル内で調達できるというタイプの古き良き大鑑巨砲主義的超巨大ホテルである。ただ今は昼頃のためか内部は閑散としている。従業員に砂風呂の場所を訪ねると延々と館内を移動。

 いわさきホテル 

 砂風呂では風呂用の浴衣に着替えることになる。これに着替えて砂に横たわると係員が砂をかけてくれる。何となく埋葬されているような気になるが、体に数センチぐらい砂をかけられただけでも結構重い。よく土砂崩れで生き埋めになって亡くなった例があるが、確かにたった数センチの砂でこの状態なら、土砂に埋もれてしまったら身動きもできないまま窒息、さらに深ければ圧死してしまうわけだと妙な事に納得してしまう。

 

 標準的な入浴時間は10〜15分とのこと。数分で体がポカポカしてきて自然と汗がにじんでくる。15分経ったところで自分で砂から起きあがると、隣にある露天風呂で浴衣のまま砂落とし。しかしたかが浴衣一枚でも、着衣のまま風呂にはいると意外と体の動きが制限される。なるほど、着衣のまま水中に落ちると少々泳げるぐらいなら溺れてしまうわけであると、またも妙なことに納得。

 

 露天風呂の後は浴衣を脱いでシャワーで体を洗うのだが、この間の濡れた浴衣を着ての数メートルの移動が死ぬほど寒い。なるほど、冬に雨などで着衣が濡れると凍死する危険があるというわけであると、さらに妙なことに納得。

 

 シャワーで体を洗った後は新しい浴衣に着替えて、4階の展望浴場へ。ここはナトリウム−塩化物泉の内風呂。お湯自体には取り立てての特徴はないが、海を見ながらの入浴は快適である。

 

 砂風呂は初体験であったが、何やら身体の中から老廃物が排出されたような印象で、心なしか肌もスベスベした感じになった。これで私も男前が上がったというものである(笑)。

 

 入浴の後はホテルで昼食を摂ることにする。フロントで聞いたところ、昼食を摂れるレストランは中華料理屋だけとのことなのでそこに向かう。注文したのは海鮮炒飯

 

 山盛りの炒飯が出てくる。場所柄CPには期待していなかったが、正直なところ量を1/2にして価格を2/3ぐらいにして欲しかったところ。

 

 昼食を終えるとバスで指宿駅まで戻る。途中で指宿の市街を通るが、やはり以前来た時と同様にあまり活気を感じないし、駅前商店街なども壊滅的状況。祝鹿児島新幹線開通の横断幕があるものの、その新幹線開通の御利益があまり現地にはないようであるのが気になるところ。先ほどのいわさきホテルにしても、超巨大ホテルにしては今一つ活気が感じられなかった。どうも指宿自体がどことなく衰退ムードがある。宮崎といい、鹿児島といい、やはりもっと国内に観光客の目をむかせる必要がありそうだ。

  沿線は菜の花が多い

 指宿駅から鹿児島中央までは普通列車で移動する。海を眺めながらボンヤリしている内に鹿児島に到着。桜島の山頂にはやや雲がかかっているが、昨日とは違って山容はハッキリと見えている。時間があれば桜島に渡りたいところだが、さすがに今日は時間がない。あるかどうかは分からないが、これはまた次の機会ということにしておこう。

 

 鹿児島中央駅に到着すると、路面電車で鹿児島市立美術館に移動する。久しぶりにのる鹿児島市電だが乗客はかなり多い。やはり都市の交通機関としては路面電車が最強と改めて認識する。市街地が大きすぎないコンパクトシティーに路面電車を中心とした公共交通システム。これが私が描く未来のあるべき日本の姿のグランドデザインである。

 鹿児島市立美術館では和田英作の小企画展を開催中。彼のカッチリとした絵画は結構私の好みでもあるのだが、本展では彼がデザインに携わった明星、スバルの表紙や舞台背景の下絵といった多様な資料を展示。これが油絵などとは違った感覚で実に新鮮。表紙デザインなどを見ていると、アールヌーヴォー全盛期の影響なんかも垣間見える。

 

 なお鹿児島市立美術館はこれ以外にもレベルの高い所蔵品を有しており、小なれどピリリと冴える美術館でもある。結局は鹿児島周辺の美術館はすべてそういうタイプだった。

  牛乳の販促にも活躍する地元のヒーロー

 美術館の見学を済ませると後は鹿児島空港から帰るだけである。しかしその前にまだかなり早いが軽めの夕食を摂っておきたい。しばし適当な店を探して天文館の商店街をプラプラ。商店街を散策しているとやたらに目立つのがご当地ヒーローの「薩摩剣士隼人」。聞くところによると地元では大人気だとか。最近は秋田のネイガー、沖縄のマブヤーなどご当地ヒーローが大活躍である。確かに隼人も完成度ではネイガーやマブヤーに劣らないようである。

 

 何を食べるか悩んだのだが、さすがに豚しゃぶでは重いので選んだのはそば屋。私が鹿児島でよく行くいちにいさん天文館店の階下にある「吹上庵」に入店。注文したのは「黒豚そば(700円)」「きびなごの刺身(390円)」

 ソバの方は柚子胡椒と思われる薬味の風味が効いていてこれがなかなかにうまい。酢みそで頂くきびなごも絶品。なかなかに堪能してこれで支払いが1000円ちょっととはなかなかのCPの高さ。鹿児島の食恐るべし。

 

 軽く腹を満たすと市電で鹿児島中央まで戻り、トランクを回収した後に高速バスで鹿児島空港まで移動、そこで土産物を買い求めてから帰宅したのであった。

  鹿児島土産

 本遠征は城回りをメインに未訪問の美術館を絡めて、さらには温泉にご当地グルメも加わった盛り沢山の内容となった。しかし毎度のことながら遠征の充実度がそのまま体力に対する負担に比例する。遠征前は骨休めのつもりだったのが、終わってみると鹿児島中を駆けずり回って疲れ切る羽目に・・・。さらに恐るべきは鹿児島グルメ。なんと3泊4日で1キロも体重が増えてしまったのである。鹿児島食は黒豚に薩摩揚げ、さらには黒砂糖などカロリーが高めのものが多いせいか。しかもこれがまた旨いのだからタチが悪い。これは鹿児島に1ヶ月ほど滞在したらすぐに身体が西郷どんになってしまいそうである。

 

 

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