展覧会遠征 石見編
三連休となるとやはり遠征というのが筋。目的地であるが、以前から行きたいと思っていた石見銀山。これに山陰地区で残っている宿題を組み合わせるというところでプランを練った。いろいろなケースを考えたが、結局は金曜日に休暇を取った上での四泊四日プラント相成った。
木曜日の仕事を終えると直ちに車で移動。それにしても日が暮れるのが早くなったものだ。真っ暗になった岡山自動車道を北進する。山間を抜ける岡山道は夜になると本当に真っ暗。目を凝らした運転になるので非常に疲れる。
宿泊ホテルは真庭リバーサイドホテル。落合IC近くの温泉付きビジネスホテルである。会社の福利厚生の関係で安く泊まれるのが選択理由。
チェックインするとまずはすぐに夕食。夕食は和定食だがなかなかうまい。
腹が膨れると入浴。隣の日帰り温泉施設へは渡り廊下でつながっている。温泉はアルカリ単純泉。無色無味無臭だが若干ヌルヌル感がある湯でなかなか快適。
入浴を済ませると少々腹が寂しくなってきた。何か買いに行くかとも思ったが、現在は減量中。とりあえずテレビを見て気を晴らすかと思えば、楽天と巨人が激闘中。9回に追いつかれた時にはもうダメかと思ったが、延長で楽天が加点、その裏は則本の気合いのピッチング。オオッと盛り上がったらさらに腹が減った。しかしここは我慢して寝てしまうことにする。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時過ぎに起床すると朝風呂。サッパリしたところで朝食へ出向く。腹が減っていたので朝から飯がうまい。
ホテルをチェックアウトしたのは8時過ぎ。これから長駆目指すのは石見銀山である。今日は朝から霧が出ていて視界が悪い。しかしそれをものともせずに米子道を突っ走る。米子道を快調に疾走することしばし、ようやく日本海が見えてきた頃には青空が見えて気温が上がってくる。
山陰道はまだまだ部分的にしか開通していない上に、大抵は対面二車線なので流れはスムーズとは言いがたい。こういう道路では渋滞同好会が大活躍して長蛇の列を作ることになる。それにしても意味不明だったのは、追い越し可能区間でわざわざ追い越し車線に出てから走行車線よりもゆっくり走る馬鹿車。そこまでして渋滞を作りたいのか?
出雲から先は長い区間を一般道で走行することになる。信号がそう多くはないのが救いだが、やはり結構疲れる。
ようやく石見銀山に到着すると、とりあえずは山吹城を目指すことにする。山吹城の最寄に駐車場があるようだが、観光客の車はそこまでは入っていけず、手前の大森で停められることになる。なお山吹城について調べた時、手前の銀山センターで停められてそこから歩く羽目になったという記述も見かけたのだが、多分大森の駐車場はそんなに大きくはないので、観光客が多い場合には銀山センターに誘導するのだろうと思われる。しかし銀山センターから大森まではバスで移動しないといけないような距離である。今日が平日の金曜日であることが幸いしたようだ。
観光車両は通行止め
山吹城登山口は竜源寺間歩(間歩は坑道の意味)までの途中にある。その間は遊歩道などでつながっているが、結構遠い。石見銀山の観光ではとにかく移動距離が長いのが特徴である。このため、観光客にはレンタサイクルを使用する者も多い。
左 遊歩道を進む 中央 途中にある妙正寺 右 遊歩道 ようやく山吹城の登山口に到着したが、いきなり「ハチ、マムシに注意」「熊に注意」と警告看板が立ちまくっている。先ほど観光案内所で山吹城までの道を尋ねた時も「一人で登るのですか?」と言われたし、どうも嫌な雰囲気が全開である。
山吹城登山口
山吹城は石見銀山を押さえる城として戦国時代に大内氏が築いたが、その後の激しい銀山争奪戦の中で毛利氏の所有となり、江戸時代には銀山奉行の大久保長安が改修を行って精錬所を設置したが、翌年に大森代官所に移動したために廃城になったとか。
左 途中にある休役所跡 右 登山道 登山道は少々荒れてはいるが、警戒したほどには怪しい道ではなく、疲れはしたが途中の吉迫口の分岐点まではそう時間もかからずに到着する。この道を直進すれば銀山街道経由で鞆ヶ浦に到着し、左折すると山吹城の本丸らしい。地図で見ると距離出来にはこれで中間点。これは思っていたよりも楽勝かも・・・と感じたのだが、それが甘かった。
まもなく吉迫口の分岐にさしかかる 登城路はここからは尾根筋直登でひたすら石段を登り続けることになる。これがキツイ。石段に200ぐらいの数字を書いたプレートが貼ってあったので「200段程度なら大したことはない」と考えていたのだが、いくら進んでも一向に数字が減らない。どうやら石段の段数ではなかったようである。ヨレヨレのヘロヘロになって大分上がったと思ったところで見かけた標識には「←山吹城跡(425段)」の表示が。これを目にした途端に腰が抜けそうになる。
左 かなり上がってきた 中央 ここからは尾根筋の直登コース 右 Oh my God!! 何度も息を切らせて休憩をしつつ、ようやく曲輪らしきものに到着した時にはもう完全に足はグラグラになっていた。
左 ようやく曲輪に到着 中央 何段かになっている 右 上の曲輪 山上には曲輪の構造は分かるが、残念ながらかなり薮化が進行しているので詳細な構造が分からない。ただしそれなりの規模の城郭であることは明らかだし、周囲も切り立っているので防御力は高い。
左 本丸に登る 中央 本丸 右 城跡碑がある 主郭風景 主郭奥からの風景 主郭を中心に二本の登山口に対して左右対称に曲輪が連なっているような縄張りである。主郭の奥にも三段の曲輪があり、主郭と最初の曲輪の間にはかなりの規模の空堀がある。
主郭と奥の曲輪の間の空堀 一番下の曲輪の周囲には竪堀があるはずなのだが、残念ながら辺りが鬱蒼としすぎているせいで確認が出来ない。せっかくの城郭なんだから、もう少し下草ぐらい刈っておいて欲しいように思われる。石見銀山は世界遺産になったが、こちらまでは整備の手が回っていないのだろうか。
何段か曲輪があるのだが、鬱蒼としすぎて形態をつかめない 左 一番下の曲輪 中央 竪堀があるはずだが分からない 右 下から見てみたが今一つ判然としない 山吹城の見学後は龍源寺間歩側の通路から降りてくる。城としてはこちら側の方がいろいろと仕掛けがあり、どうやら大手はこちらのようである。
山から下りると近くに龍源寺間歩の入口がある。そこで見学することにする。龍源寺間歩はかなり規模の大きな坑道だが、それでも気を付けないと頭をぶつける高さである。ここから支洞がいくつも鉱脈に沿って伸びている。この坑道をかすかな炎を頼りに鑿で掘ったと考えたら、その労力や凄まじいものである。ただ観光用としては、やはり人工のトンネルは自然の鍾乳洞のような面白さはない。
左 龍源寺間歩 中央 いかにも坑道らしい入口 右 天井が低く頭を打ちそう 左 このての支洞がいくつもある 中央 圧迫感が半端ない 右 一番奥 左 こういう構造らしい 中央・右 新洞を通って地上に出る 龍源寺間歩を見学すると、次は大森集落を見学する予定。山の中をしばし散策。とにかく石見銀山を見学するには歩く必要がある。歩くのが嫌な者はレンタサイクルを使うか、ベロタクシーなる自転車タクシーを使うぐらいしか手がない。ただどちらにしても雨天なら大変である。今日は晴天で助かったが、その代わりにやたらに暑い。
左 のどかな道 中央・右 どうやら河童が出るらしい 左 佐毘売山神社 中央 福神山間歩 右 豊栄神社 風情のあるところである 大森の駐車場にたどり着くまでに20分弱を要した。当初の予定では銀山センターから大久保間歩を見学に行くツアーに参加することも考えていたのだが、山吹城見学に思いのほか時間を要したことから集合時間に間に合わなくなったので諦めることにした。とりあえずは銀山資料館となっている大森代官所を目指して町並みを散策する。
大森集落は重伝建指定もされているが、かつての銀山の町並みをとどめる趣のある通りとなっている。古い民家を利用した店なども多数あり、重伝建指定や世界遺産指定を観光ビジネスに結びつけている。しばらく行ったところで「Roomin'」なる喫茶店を見つけたので昼食にすることにする。
注文したのは「オムライス」。これにデザートとしてケーキとジュースを追加した。以上で1550円というのは観光地価格と考えるとこんなところか。ややボリューム不足だが、味は悪くなかったので良しとする。
昼食後は途中でカレーパンを購入したりしながら町並みをプラプラ。そのうちに大森代官所に到着するので見学。ここは銀山の歴史を伝える史料などが展示されている。
大森代官所 大森代官所の見学の後は熊谷家住宅を見学する。熊谷家は17世紀に銀山経営に携わっていたという豪商で、やはり屋敷も規模が大きく立派である。居間の床下に地下蔵まであるというのには驚き。貴重品を収納した耐火金庫であったらしい。
熊谷家住宅には地下蔵完備 熊谷家見学の後は町並みの中程にある観世音寺から町並みを眺めたり、町並み交流センターになっている旧裁判所で銀山労働者の生活について学習。どうも鉱山労働というと過酷な労働ということから、犯罪者や捕虜などが強制労働させられるというイメージを持っていたのだが、実際には専門技術者として結構待遇面では優遇されていたらしい。最近はエジプトのピラミッド建設に携わっていた労働者も奴隷ではなくて今のサラリーマンのようなものだったらしいということが分かってきているし、こういう重労働のイメージが変わってきたようだ。もっともそれでも過酷で危険な労働ということには変わりないが。
左・中央 観世音寺 右 上から見た大森集落の風景 左 大森集落の風景 中央 町並み交流センターになっている旧裁判所 右 内部 代官所地役人であった河島家住宅なども公開されている。こちらは先ほどの熊谷家住宅とは違って武家屋敷であるためにもっと質素である。
武家屋敷の河島家住宅 大森集落の見学を終えると銀山公園の駐車場まで戻って車で銀山センターに移動する。こちらは大きな駐車場と土産物屋などのある施設。また銀山に関する展示などもあるので見学。坑道の様子などを立体模型で見ることが出来る。
銀山センターでサツマイモソフトを頂く 石見銀山の見学を終えた頃には夕方近くになっていた。結局は昼前に到着してかれこれ5時間近くを見学に要していたことになる。とにかくやたらに歩かされたというのが印象。確かにそれだけ見応えのある内容であったがとにかく疲れた。実際にこの日は2万歩近くを歩くことになっていたのである。なお最初期の計画では足立美術館や島根県立美術館に立ち寄ってから石見銀山を見学することを考えていたが、それだと見学時間が不足するのではと思って先々週にこれらの施設は先に見学したのだが、結果としてはそれは明らかに正解であった。
石見銀山の見学後は今日の宿に向かうことにする。宿泊するのは温泉津温泉。ここは石見銀山の銀山の積出港であったと同時に温泉地としても繁栄している。往時の町並みをとどめる市街は重伝建にも指定されている。
石見銀山から温泉津温泉はほど近い。私の宿泊する輝雲荘は温泉街の中心に位置する。温泉街は狭い道沿いにつながる風情のある趣ある町並み。ただその分、車で走るのはなかなかしんどい。輝雲荘は歴史のある古い旅館をリニューアルしたらしい建物であり、外からはなかなか渋い印象だが、内部は非常に綺麗。
私の宿泊するのは旧館らしく、風呂・トイレはないが8畳程度の広い和室。いかにも昔の旅館といった部屋だが、冷蔵庫完備でWifiでインターネットまで可能というのはなかなか現代のニーズにマッチしている。これはなかなか良い宿である。
宿に荷物を置くとまだ日の高い内に町並み見学と外湯に入浴することにする。
外湯は薬師湯と元湯の二カ所があるようだが、まずは薬師湯に入ることにする。薬師湯は洒落た銭湯といった佇まい。一見洋風な建物が鄙びた温泉街と妙な親和をしている。浴場は小さな内風呂が一つあるだけの極めてシンプルなもの。ここにナトリウム、カルシウム−塩化物泉の源泉がかけ流しで投入されている。日本温泉協会からオール5の評価を受けたとのことだが、そんな能書きを聞かなくても湯船にタップリとこびりついた温泉析出物を見ただけで並の温泉ではないのはすぐに分かる。入浴してみると明らかに分かるぐらいの力のある湯。確かにこれだけ力を感じる湯は全国でも少ない。しかも力に満ちているにもかかわらず決して肌当たりはきつくない。しばらく入浴していると身体が芯から温まってくる印象。これは寒い山陰の冬を乗り切るには最適の温泉であろう。
薬師湯と内部 入浴の後は屋上から温泉街の見学。「あぁー、良いところだな・・・」という言葉が自然に出る。今まであちこちの温泉街も訪問したが、これだけ落ち着く温泉街は初めてである。
屋上からの風景 入浴を終えて宿に戻ってからしばらくマッタリしているとようやく夕食の時間になる。夕食は地場ものの海産物を中心としたメニュー。基本的に和食の懐石なのだが、なぜか鍋がキムチ鍋だったり、ヒラメのムニエルらしきものが登場したりと妙に和洋折衷。まさに温泉津温泉の町並みそのものか。これがまた非常に旨くて堪能した。
夕食を堪能して一息つくと、今度は元湯の方に入浴に出かける。こちらはもろに銭湯の風情で地元民らしき人々が大勢やって来ている。しかしここで驚いたのは湯の熱さ。温泉津温泉は熱めとは聞いていたのだが、とにかくヒリヒリするぐらい熱い。これだけ熱い湯は鳥取の銭湯以来。冬の寒さを乗り切るために山陰の人々は熱い湯を好むのだろうか。ちなみにこの湯でも地元では「ぬるい方」とか。目が覚めるような湯である。
元湯と夜の温泉街 宿に帰ってくると部屋には布団が敷いてあった。まだ寝るのも早いのでとりあえず今度は宿の風呂で入浴する。ここの風呂は基本的に薬師湯と同じ湯であるが、源泉量や温度によっては加温・加水しているという。内風呂がかけ流しで露天が循環になっている。内風呂の湯のほうが明らかにヌルリとした肌触り。また湯温は明らかに観光客に合わせて低めなので寝る前にはこの方が良い(先ほどの元湯では完全に目が覚めてしまった)。
風呂から上がると部屋でマッタリ。しかしまだ9時前なので寝るには早いし、買い物に行くにもコンビニもない。風情のある鄙びた温泉街というのは夜になると暇をもてあます。なるほど、温泉街に歓楽街が出来る理由が何となく納得できる(笑)。ただ「歩く道徳教科書」とか「品行方正を絵に描いたような」という私には無関係である(笑)。それにこの温泉地には歓楽街というほどの施設もなさそうだ(スナックらしき店は何軒か見かけたような気がするが)。結局はテレビを見ながらしばし時間を潰し、眠気が出てきたところで早めに就寝することにする。
☆☆☆☆☆
石見銀山で疲れたのか爆睡したような気がする。朝6時半過ぎ頃に起床するとまずは朝風呂。これがなかなか快適である。7時半過ぎぐらいに朝食が運ばれてくる。いわゆる普通の和食だがこれが旨くてありがたい。日本人って良いよなぁと感じる瞬間である。
あまりに快適すぎていささか名残惜しさも感じるが、8時過ぎ頃にはチェックアウトする。今日は萩まで長駆する必要があり時間に余裕がない。
温泉津の町並み(港方面) 山陰をひたすら海沿いに南下する。とにかくこの辺りは一般道しかないのがしんどい。最初の立ち寄り先は益田。ここで「益田城(七尾城)」の見学をする予定。益田城は中世に地元武士団の益田氏が本拠とした城郭である。南北朝初期には既に築城されており、関ヶ原後に廃城となったとのこと。なお当初は大内氏の家臣であった益田氏は、陶晴賢の謀反後には陶氏に仕えるが、厳島の戦い後に吉川元春に攻められて降伏、以降は毛利氏に仕えることになったという。しかし関ヶ原の合戦で敗北した毛利氏は大幅に減封され、その際に益田氏も益田を離れることになり、益田城は廃城となったらしい。なお益田氏はその後、長州藩の家老を務めて幕末に至っている。
益田城遠景
益田城は市街の東にそびえる山上にある。住吉神社が中腹にあり、そこから登山道があるとのことなので、住吉神社の駐車場に車を置くとまずは住吉神社の参道の石段を登る。いかにも都会の裏山という風情なのだが、それでも「クマ出没注意」の看板が立っている。
住吉神社の参道を登る 普通の石段なのだが、昨日の石見銀山ウォークのダメージが足に残っていてなかなか足が前に進まない。ようやくヘロヘロになって住吉神社の山門にたどり着く。
左 住吉神社の山門 中央 住吉神社 右 ここから登山道を登る 登山道はここから折り返すような形で伸びている。斜面に無理矢理付けたような細い道で、これは後付けのものだろう。これを登り切ると太鼓の段にたどり着く。
左 細い路を登る 中央 尾根上にたどり着く 右 太鼓の段 益田城は南北に延びる二本の尾根上に曲輪を並べ、その根本の奥に本丸が、そして二本の尾根の間の谷筋が大手路という構造になっている。この太鼓の段のある尾根上も先まで曲輪があるようだが、まずは本丸方面を目指すことにする。
厩の段と呼ばれる広い曲輪に出ると、ちょうど尾根に挟まれたところが馬釣井、そして奥の尾根筋の向かって右手が本丸になる。この辺りはかなり広く、確かに馬ぐらい置いても良さそうだ。
厩の段から本丸方面を見上げる
左 厩の段 中央 この谷筋に屋敷などがあったらしい 右 井戸の跡もある ここから奥の尾根に向かって登ると広い二の段に出る。その奥に一段高くなっている部分があってここが本丸らしい。本丸は奥に長い構造で、建物跡もいくつか見つかっているとか。一番奥からは眺望が開け、益田市街を一望出来る。
左 正面を登ると二の段 中央 二の段 右 振り返って奥の一段高いところが本丸 主郭風景
左・中央 主郭の奥に進む 右 周囲はかなり切り立っている 展望が開ける 二の段の先端まで戻るが、急斜面で下に降りられる様子はない。地図によると馬釣井の辺りから先に進む道があるようであるが、確かに道らしき痕跡はあるが鬱蒼としていてとても先に進める雰囲気がないのでこの先の見学は諦めることにする。
回り込もうとしたが薮に行く手を阻まれる
太鼓の段のところまで戻ってくると、道を先に進む。この道は千畳敷の横を通っているようなので斜面を無理矢理登ってみるが、千畳敷は鬱蒼としていて何が何やら分からない。またその先にも曲輪があるようだが崖になっていて降りるのに危険を感じたので回り込むことにするが、これもやはり確かな道がない。ようやく回り込んで下に降りてみたものの、先は倒木などで塞がれていて進める雰囲気ではないし、実際に誰かが踏み込んだという様子もない。体調が万全とは言い難いし(完全に足は死んでいる)城の主要部は見学したので無理は止めて下山することにする。
左 道路右手の崖を登ってみる 中央 千畳敷は鬱蒼としていて訳が分からない 右 一番先端は崖 左 崖の下にも曲輪があるようだ 中央・右 何とか回り込んでみたが倒木に行く手を阻まれる なかなか大規模な見応えのある城郭であった。地方の豪族クラスの居城としては十二分すぎるぐらいの規模の城郭である。益田氏というのはそれなりの勢力を誇っていたようである。とりあえずこの城郭も続100名城クラス。
益田城の見学後は近くの石見美術館を訪ねることにする。石見美術館はグラントワと呼ばれる大型複合施設に入っているが、ここでは何やら神楽のイベントがなされている模様。益田城を見学していた時から何やら下の方から太鼓の音が聞こえていたのだが、どうやらこれが原因らしい。
グラントワでは神楽の実演中 石見美術館では「一木一草に神をみる」と題して、自然をテーマにした展覧会を開催中。展示作は日本画から現代アート、さらには博物図絵など実に様々。その中でも日本画には優品が数点あった。
益田での予定を終了するとひたすら萩まで長駆することになる。萩は以前にも訪問したことがあるが、かつての城下町をそのままとどめた風情のある町である。なお萩市街では堀内地区、平安古地区、浜崎の三カ所が重伝建指定になっている(萩市内という意味なら、さらに佐々並市のある)。前回の訪問時には城下町地域を中心に廻ったので堀内地区は見学済みだが、後の2地区を回っていないのでそれを見学するのが今回の目的。
まず立ち寄ったのは浜崎。浜崎は萩の港町である。かつては北前船の寄港地として栄え、朝鮮半島との交易なども行われていたという。フェリー乗り場の駐車場に車を置くと徒歩でエリア内を見学する。
エリア内には萩藩御船倉も残っている。かつてはこの辺りが海岸線で、ここに毛利家が有する御座船や軍船などが格納されていたという。近くの町並みセンターに言えば鍵を開けてもらって内部を見学することが出来る。石造りのかなり立派な建物である。
左 御船蔵 中央 内部 右 このような船が収納されていたらしい 浜崎エリア内には旧家がいくつか残っている。これらは町家造りでいわゆる「ウナギの寝床」。旧山村家、旧山中家などが町並み交流館として公開されている。
浜崎の見学を終えると平安古地区の見学に向かうことにする。ただしその途中で萩美術館に立ち寄る。
「フランス印象派の陶磁器 ジャポニズムの成熟」山口県立萩美術館で11/24まで
19世紀後半の印象派が勃興した時代は、古典主義から脱却した新しい芸術が花開いた時代でもある。そんな中、陶芸の世界でも同様の新しい潮流が現れていた。またその潮流にはジャポニズムも大きな影響を与えている。そんな時代の陶磁器を展示する。
展示作品でいきなり目を惹くのは、ジャポニズムもそのものの北斎漫画からのモチーフを用いた陶芸作品。北斎がヨーロッパに与えた影響は我々がイメージするよりも遙かに大きかったようである。
さらにはそのものズバリの印象派絵画を焼き付けたような作品も登場する。こうして見てみると、光の煌めきを表現する印象派は、キャンバスよりも煌めく陶器の肌にこそふさわしいような気さえするから不思議である。
当初は中国の真似から始まった欧米の陶磁器だが、ここに来てかなりのオリジナリティを発揮しているのが感じられている。またジャポニズムの素材を使用しつつ旨い工合にヨーロッパ流に消化している巧みさも感心する。この地域の文化も意外と懐が深いことを感じさせる。
よくよく考えてみるとまだ昼食を摂っていなかった。しかしゆっくり昼食を摂っている暇がないので、美術館内の喫茶でチーズケーキとレモンスカッシュでとりあえずの燃料補給。ちょっと今回の遠征はハードに過ぎるような気もする。
美術館見学後は平安古地区に向かう。平安古地区は武家屋敷街の周囲に位置する地域で、防御のために道路を折り曲げた鍵曲と呼ばれる独特の土塀構成で知られている。地域交流館があったのでそこの駐車場に車を置かせてもらって徒歩で見学する。この場所はかつては水軍の長の屋敷があったとのことで、庭にある池は外の川とつながっていて船で直接に入れるようになっていたという。
この池が川とつながっている
本来は堀内地域が武家屋敷エリアであったのだが、時代が進むに連れて親族衆などの人数が増えてきて、堀内の外のこの地域にも武家屋敷が進出してきたのだという。中には藩の要人であった坪井九右衛門の旧宅などの古い建物が残っている。未だに住人がいるようである。
平安古地区の鍵曲の町並み 土塀の連なる趣のあるエリアの一番南のはずれにあるのが第26代内閣総理大臣だった田中義一の別邸。かなり大きな屋敷で建て増しを繰り返したらしく明治から昭和の形式が入り乱れた雑多なお屋敷である。とは言うものの、さすがに要人の別邸らしくとにかく材料は屋久杉などの良品を使用しておりそれが目を惹く。なお庭には夏みかんの木が多いのだが、これは萩に夏みかん栽培を広げた小幡高政によるもので、ここはかつては毛利家下屋敷であったのを田中が入手したものらしい。
左 田中義一別邸 中央 川のすぐそばに立っている 右 川から直接に引き込んでいたらしい 左 良い材料を使っている 中央 造りも凝っている 右 この地域は夏みかんの木が多い 平安古地区の見学を終えると市街のはずれにある萩反射炉を見学する。これは幕末に軍事力強化に鉄製の洋式大砲を製作するために建造されたものであるという。当時としては最新式の高炉であったらしいが、これは実用炉ではなくて試験炉であったと考えられるとのこと。
萩反射炉 これで萩での予定は終了。もう夕方になってきているしホテルに向かうことにする。今日宿泊するのは萩本陣。萩東部の山の中腹にある温泉ホテルである。いわゆる典型的な巨大観光旅館。私の場合はシングルプランなので本館から離れた別館の部屋。やや本館から距離があって不便。
何はともあれ入浴である。ここのホテルは14種類の湯めぐりの宿と名乗っているが、要は寝湯や座湯などの様々な湯船があるということ。ただ湯船は変わるが湯は単一源泉でナトリウム、カルシウム−塩化物泉。悪くはないのだが加温・循環濾過の湯なので、あの源泉かけ流しの温泉津温泉を経験してきた翌日とあれば、どうしても湯の力の差を痛感させられずにはいられない。
入浴後はしばし休憩。しかし部屋にはインターネットがないし、さらにテレビの映りも良くないので正直なところ暇を持て余す。そのうちに夕食の時間が来たのでレストランまで夕食に繰り出す。
夕食は地場ものを中心とした会席料理。十分に満足出来るだけの内容ではあった。
部屋に戻ると布団が敷いてあるのでしばしその上でゴロゴロ。しかし激しい疲れが押し寄せてきて知らない間に意識を失っていた。結局はこの日はかなり早い内から就寝することになる。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時頃に目覚ましで目覚めるとまずは朝風呂である。今日は生憎と朝から小雨がぱらつくが、やはり朝風呂は気持ちよい。さっぱりしたところで朝食のためにレストランへ。朝食は和洋のバイキング。内容はまずまずだが、人が多くてかなり混雑しており、そのために品切れになる料理も。
ホテルを8時頃にチェックアウトすると萩を後にする前に松陰神社に立ち寄ることにする。ここには吉田松陰の松下村塾なども残っている。実際に建物を眼にすると思いのほか小さな建物であることに驚く。これでも塾生が増設したのだとか。松蔭が幽閉されていたという建物もあるが、とにかくいずれも狭い。吉田松陰という人物はとにかく狭い建物内で生涯を送った人物のようだ。
左 松陰神社 中央 松下村塾 右 かなり狭い 松蔭が幽閉されていたという住居 松蔭はこの部屋に押し込められていたらしい
松陰神社は観光コースになっているらしく、団体観光客がゾロゾロと多い。とりあえず吉田松陰に関する資料を展示した至誠館をのぞくと松陰神社を後にする。
萩を後にすると広島に向かう。今日は広島で一泊してこれが遠征の最終日になるはずだった・・・のだが、今回の遠征はここで唐突に終わってしまうのである。萩から広島に向かって山間の国道を走っていた時、途中から急激に雨が激しくなってきたのでまずいと思ってアクセルを緩めた瞬間、緩い右カーブで後輪が外に滑って車がスピン。そのまま反対車線のガードレールまで車が飛び出して大破してしまったのである。
幸いにして私には全く怪我がなかったのであるが、車は前部と後部を激しくガードレールにぶつけて自走不能。その後は警察を呼んだりレッカーを手配したりのてんやわんやとなり、結果としては私の愛車のノートはその短い生涯を終えることとなってしまい、私は新幹線で急遽帰宅することと相成ったのである。すべては私の油断と運転技術の未熟さから起こった事態。天寿を全うさせられなかったノートに申し訳ないと共に、あらゆる人々に多大な迷惑をかけてしまったことは反省である。特に雨の中で交通整理を行ってくれた方々には頭が上がらない。思わぬところで人の情を感じることになると同時に、気が動転してしまっていてろくに礼も出来なかった自分自身にも反省である。
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