展覧会遠征 天草・長崎編
秋の行楽シーズンの三連休到来である。ここはどこかに出かけないと嘘というものであろう。そこで今回は九州に出かけることにした。九州各地で残している宿題を解決するというのが目的である。
出発は金曜日の夜。一日を最大限有効に活用するため博多で前泊である。博多まで新幹線さくらで移動する。
博多には8時過ぎに到着する。博多駅は大勢の人でごった返している。宿泊ホテルはルートイン博多駅前。以前にも一度利用したことがあるホテルである。駅から見えるところにある立地は非常に便利。
ホテルにチェックインするととりあえず夕食である。この辺りで飲食店が多いところと言えば博多駅だという。博多駅をプラプラしながら目に付いた「石蔵」に入店する。注文したのは「季節の鯛飯膳(1580円)」。
鯛飯と言えば愛媛の名物という認識で、博多の名物という認識は私にはなかった。ここの鯛飯だが、鯛飯に海苔や青海苔などがトッピングしてある。しかし個人的にはこれが疑問。と言うのは特に青海苔は風味が強すぎ、折角の鯛の風味を殺してしまっているように思われたからである。私としてはシンプルな愛媛の鯛飯に軍配を揚げる。
夕食を終えるとホテルに戻って入浴。ルートインは例によっての大浴場完備である。マッタリと疲れを癒す。
風呂に入ってユッタリとしたが、どうも気分が中途半端。なぜかやや鬱が入っている。私は往々にして都会の夜には鬱を感じやすいのであるが、どうも今日は夕食が中途半端だったことも影響しているような気がする。と言っても今から外に出る気もしないし、ホテル地下のはなの舞に行くことにする。
注文したのは「温泉卵と生ハムのサラダ」「カキフライ」、そして愛国者の私としてははずせない「クジラのタタキ」(くたばれシーシェパード!)、さらにデザートとして「イタリアプリンとバニラ」を注文。以上で支払いは2000円ちょっとなんだからCPがなかなか良い。味の方も決して悪くはなかったし。これは最初から夕食はここで済ませておけば良かったか。
腹が膨れると気分も回復してきた。とりあえず明日の予定の確認をすると疲れているので早めに就寝する。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時に起床・・・出来なかった。爆睡していて気がついたら8時過ぎ。目覚ましをセットしてあったはずなのだが鳴った記憶がない。鳴らなかったのか、鳴ったのに全く気がつかなかったのか。何にせよ予定ではもう新幹線に乗っている時間である。とりあえず慌てて荷物をまとめると、それを持ってレストランへ。とりあえず朝食をさっさと腹に叩き込むとすぐにチェックアウトして駅に急ぐ。
博多駅からは久留米まで新幹線で移動、久留米でレンタカーを借りる予定になっている。当初予定では9時に久留米に到着するつもりだったのが、もう既に9時前である。こうなってしまうと博多から久留米まで新幹線のチケットを自由席にしていたのが正解だったと感じられる。当然ながら、このような事態を予感していたわけではなく、ただ単に博多から久留米ぐらいなら最悪の場合は立って行っても大した距離じゃないと考えて金をケチっただけなのだが、結果オーライである。ちなみにさくらの自由席車内には空席が十分あり着席出来た。たださくらの自由席は2+3で目一杯乗客を積んでいるのでやや狭い。
結局は久留米に停車するさくらは9時過ぎ発車で久留米に到着したのは9時半頃になる。慌てて駅レンタへ。貸出し車は例によって例のごとくヴィッツ。今回は車種指定をしていないのだが、何かと縁のある車種である。
久留米からは九州自動車道と大分道を乗り継いで東進する。目指すは玖珠IC。以前の九州遠征で降雪のために見学を断念した「角牟礼城」を見学するつもり。これが今回の宿題その一である。
三連休のためか道路は結構混んでいる。ただ大分道はなかなかに良い道なので走りやすい。ただしこういう道になるとヴィッツのパワー不足を感じる。気合を入れて走らないと追い越し車線で前の車についていけない。また走行車線から追い越し車線に移ってアクセルを踏み込んだ途端にキックダウンしてしまうのが鬱陶しい。私のノートならもっと快適に走行できるだろうにという考えが頭をよぎる。
角牟礼城はこの山上
玖珠ICを降りたら角牟礼城までは遠くない。以前に駐車場まで行っているのでおおよその道は覚えている。玖珠の町並みを抜けると前方に角牟礼山が見えてくる。角牟礼城はその上である。山道は狭いが整備はキチンとされている。
角牟礼城は平安時代からこの地を支配していた玖珠郡衆の城であったが、戦国時代に大内氏と大友氏の争いの中で堅固さを増し、島津義弘の豊後侵攻の際には大友方として玖珠郡衆がここに籠もり島津の攻撃にも落城しなかったという。大友氏の改易の後は毛利高政がこの地に入って角牟礼城の整備も行ったが、関ヶ原後に転封となり、その後にこの地に入った来島氏は城主の格式を有していなかったために麓に陣屋を構え、角牟礼城は廃城となったという。
左・中央 三の丸石垣 右 城内へと進む 前回の訪問時は角牟礼城の石垣が解体整備中で、駐車場に石垣の石がとっ散らかっていたのだが、今回はしっかりと積み上げてある。駐車場があるのはかつての三の丸だが、もうこの時点でワクワクするような石垣。
複数の畝状竪堀 ここから登城路に沿って上っていくと最初に目にするのは畝状竪掘。なかなかの規模である。
穴太積み石垣 ここから水の手曲輪の下辺りまで上がってくると、発掘されたという穴太積みの大石垣。見上げるようなその規模に思わず「すげー」という声が出る。ザワザワと血が騒ぎ、この時点でこのためだけでも今回の遠征は価値があったと実感する。
水の手曲輪
左 右手が水の手曲輪 中央 井戸跡だろうか 右 水の手曲輪 結構大規模な水の手曲輪を抜けてさらに上がると、左手に二の丸、右手に本丸、そして正面に大手口が現れる。ただここが大手口というのは少々疑問。こんなところに大手口を置いたのでは二の丸、三の丸の戦略的価値が落ちてしまうように思われる。かなり立派な石組みがされて大規模な枡形も有しているので確かに大手の風格はあるのだが、縄張りから考えると大手は三の丸を経由するルートで、こちらは搦め手のように思われるのだが・・・。
左 二の丸方向に登る 中央 二の丸櫓門跡 右 二の丸 二の丸の石垣
左・中央 大手門跡 右 本丸へと進む ここから竪掘の脇を登ると本丸に直登できるようだが、そちらよりも先に城域の東端にある展望台のほうに向かう。途中には土塁に囲まれた削平地があり、そこは現在は神社になっている。
左 この竪堀を直登すると本丸 中央 神社 右 展望台 展望台からは辺りを一望できる。この風景を見るだけでこの城が要衝であることがよく分かる。
展望台から風景を楽しんだ後は、ここから尾根筋に沿って本丸まで登る。この尾根筋は城の背後を守る土塁のようになっている。
展望台の背後の尾根筋を登って本丸にたどり着く 最高所の本丸は結構な広さがあり、北西に櫓台も有している。まさに堂々たる物である。再び「来て良かった」という声が出る。
左・中央 本丸風景 右 北西隅の櫓台 本丸を見学した後は直登ルートで降りてくる。このルートは上部に虎口のような構造がある。
左・中央 本丸虎口 右 本丸を下から振り返って それにしても非常に見応えのある城郭であった。これは私の続100名城の中でもかなり上位に入るべき城郭である。個人的にはそもそもの100名城自体、私が選定していたら府内城よりはこちらを入選させる。
角牟礼城の見学の後は玖珠の町の見学。しかし駐車場が分からないので道の駅で情報収集する。その際に抹茶ソフトでクールダウン。今日はかなり暑い。
玖珠の町に戻ると駐車場に車を置いて町並みの見学。町並みの北には「久留島陣屋跡」の三島公園がある。城主の格式を有していなかったために角牟礼城を居城に出来なかった来島(久留島)氏が築いた陣屋である。もっともそもそも江戸時代になってから角牟礼城のような堅固な要塞が必要だったかも疑問である。城下町の発展を考えると陣屋の位置のほうが便利だろう。それにこの陣屋も現在末広神社になっている辺りを見てみると、かなり堅固な作りになっていて要塞としての機能は有している。また居城にはしなかったものの、角牟礼城もそのまま保存してあったらしく、万一の際には利用することも考えていたようである。おかげで角牟礼城は現在も良好な状態を保って残っているわけである。
左 三島公園のある山 中央 久留島氏庭園 右 庭園奥に登り口がある 左 背後の山上の末廣神社 中央 末廣神社 右 末廣神社の一段下にある栖鳳楼 陣屋跡の見学後は町並みを一回り。玖珠の町はかつての城下町の風情を残すどことなく懐かしい町並み。なお玖珠は「童話の里」としてPRしているようで、各地に桃太郎や金太郎などの像が立っている。
玖珠の町並み
金太郎や桃太郎などの像があちこちに立っている 町並みを一渡り見学したところで昼食にする。入店したのは「金太郎」。古い住宅を利用したレストランである。注文したのはここの名物らしき「トロトロオムライス(1000円)」。
半熟のトロトロした玉子焼きに包まれた大きなオムライスが登場である。これにサラダが添えられるのはともかくとして、なぜか豆腐の味噌汁がついてくる。さてオムライスなのだが、見た目はかなりしつこそうに見えるのだが、食べてみると意外にしつこさを感じずにサッパリといただける。半熟卵の風味が良くてなかなかのもの。
玖珠の町の見学後には向かいに見える伐株山に登ることにする。伐株山は侵食によって出来たテーブルマウンテンで、遠くから見ても平らな山頂がよく分かる。私がこの山を初めて見たのは久大本線で九州を横断した時だが、その時からこの特徴的な山容が目に焼きついて、いつかはここを訪れたいと考えていたのである。これが今回の宿題その二。
角牟礼城から見た伐株山山頂
伐株山へは背後までグルリと回りこむような形で車が通行可能な登山道が通っている。ただしこの道路はところによっては車のすれ違いが困難な隘路であるから要注意。しかしそれにも関わらず意外と車が通っている。
山上はパラグライダーの基地になっている 左 山頂の端の方 中央 振り返る 右 遠くに石垣らしきものも 山頂には駐車場が整備され、なだらかな地形を活かした公園になっている。芝生公園のようになっていて遊具も設置されているので、子供を遊ばせるには最適だろう。こういう広々とした場所で思う存分に走り回って育った子供は心身共に健康に成長するんじゃないかと思われる。狭苦しい東京で身体を十分に動かすこともままならずネットや携帯に振り回される環境下では、徐々に心身をストレスに蝕まれ、挙げ句はネットなどで弱者や外国人を攻撃して鬱憤を晴らすような外道に成長してしまうのである。そういう意味では今の都会の環境はニートを生み出す揺り籠になっているように感じられて仕方ない。なおこの山頂はハンググライダーの基地としても利用されており、私の訪問時もパラグライダーが一機上空を旋回していた。
またこの地形を利用して、かつては南朝方の拠点として「玖珠城」が築かれていたという。周囲が断崖で山頂には十二分なスペースがある地形なので、確かに城郭を築くには最適である。南北朝時代に築かれた玖珠城は戦国期まで使用され、玖珠衆が侵入した島津軍をここで迎え撃ったりしていたらしい。しかしこの戦いで内通者による放火で落城し、それによって玖珠城は廃城になったという。今でも玖珠城の遺構が部分的に残っているというとのことだが、現在は土塁が一部残っているぐらいで、明確な城の遺構は特に見られない。
公園になっている側と反対の方向には尾根筋が細長く伸びていて、先端には電波送信用のアンテナが設置されている。この尾根筋には曲輪のような構造は見られるもののあまり明確でもない。
曲輪らしきものはあるがハッキリしない
伐株山の見学の次は重伝建に指定されている新川田篭地区を目指す。ここの訪問も以前の九州訪問の際に立ち寄り損ねた場所で、これは宿題その三ある。ただその前に日田の「星隈城」に立ち寄る。日隈城、月隈城と共に三隈城と呼ばれる城である。
左 星隈城のある山 右 隣には三隈川 星隈城は日田の市街地の西のはずれ、三隈川が支流の花月川と合流する辺りの小山の上に築かれている。
左 本丸へと登る 中央 この看板が 右 本丸 左 本丸奥の櫓台? 中央 尾根筋が下まで続いている 右 ここは明らかに堀切 左 堀切 中央 この石垣は往時のものか? 右 下から見ると階段状に見える 山上には小さな削平地があり、現在は神社となっている。その先に一部小高いところがあり、櫓台と言ったところであろうか。そこから先は南方向に向けてなだらかな尾根筋が続いていてこれがいわゆる大手筋に当たると思われる。この筋には今でも堀切と土橋の跡と思われる構造が一部残っており、また往時のものかは不明ではあるが門跡のような石垣も見られる。
明らかに城としての構造を有しているが、月隈城などに比べると規模が小さく、多くの兵が籠もれた城ではなく、せいぜい砦レベルである。実際、ここは小川氏が月隈城の築城の際に仮城を置いた場所と言われている。
星隈城の見学を終えたところで新川田篭地区に向かうことにする。新川田篭はうきは市南部の山岳地帯に広がる山間集落で、重伝建地区に指定されている。うきは市では筑後吉井も重伝建指定されているが、北部平地の宿場町である筑後吉井と新川田篭は地形的に好対照をなしている。
新川田篭の町並み 国道210号を西進、うきは市手前で左折して県道106号を南下していくと、合所ダムのダム湖を過ぎた辺りから山間の棚田の集落が見えてくる。新川田篭はこの県道に沿って続いているようだ。ただこの地区は以前の豪雨で被害を受けたのか、あちこちで道路が工事中であり、車のすれ違いがギリギリの狭い県道をトラックが頻繁に行き来しているので運転がしんどい。
途中には重要文化財の平川家住宅などもある。この住宅は「くど造り」というこの地域の独自の民家の形式を残す住宅とのこと。複数の母屋が連なっている形式で、東北地区の曲屋を横に並べたと言うべきか、金ケ崎の三つ屋を接続したと言うべきか。現在も住民が居住しているとのことなので、外から見学するだけにする。
さらに南下すると大分県との県境に達し、新川田篭地区はここまで。引き返す途中に「長岩城」の表示を見かけたので立ち寄ることにする。
左 長岩城登り口 中央・右 本丸 長岩城は耶馬渓の地形を利用して建造された山上要塞だったらしい。現在は神社になっているところが本丸だったようだが、城自体は山の奥にさらに広がっていたようだ。自然の奇岩をそのまま利用した物見岩などがあり、現在は展望台となっている。
物見岩と上からの風景 規模としてはそう巨大な城でもないが、ただこの堅固な地形を活かしてゲリラ戦を行われると攻めるのは容易ではなかろう。恐らく往時にはこの辺りの山岳地帯にいくつも間道を張り巡らしていたのではないかと推測する。
これで今日の予定は終了、宿泊ホテルに向かうことにする。今日宿泊するのは甘木の「ホテルグランスパアベニュー」。西鉄甘木駅にまさに隣接して立地しているホテルである。こんな立地でありながら温泉を有しているというのが特徴のホテル。
ホテルにチェックインするとまずは入浴である。泉質はアルカリ単純泉。こんな駅前ホテルで本格的な温泉に入れるとは意外な感がする。
入浴を済ませると夕食のために町に繰り出す。今日の気分としてはガッツリと肉を食べたい気持ち。そういうわけで立ち寄る店は実は既に目星をつけている。立ち寄ったのはホテルから10分ほど歩いたところにある「レストランあら玉」。昔懐かしい印象の町の洋食屋である。注文したのは「あら玉ステーキ(1780円)」。
夫婦で運営しているのか、かなりマイペースの店という印象。実際、入店してからメニューを聞きに来るまでにかなり待たされる(忘れられているのかと思ったぐらい)。こういうところはなんだかなという印象だが、料理に関しては悪くない。ガッツリと肉を食いたい時には使える店というところ。
ホテルに戻ってくるとテレビを見ながらマッタリ。とにかく今日は疲れた。就寝前にもう一度入浴してから早めに就寝する。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時頃に起床。昨日が結構ハードだったので体に疲労は若干残っている。しかし今日は天草方面に回るだけで予定には結構余裕がある。昨日に比べると休暇日のような認識である。
朝風呂を浴びてから朝食を摂ると、8時頃にはチェックアウトする。まずは久留米まで走って駅前で車を返すと新幹線つばめで熊本に移動する。つばめは自由席でも2+2シートなのでさくらよりも余裕がある。ただシートに関しては明らかにさくらよりも硬め。こういうところで差を付けているのか。
九州新幹線つばめとJR九州のお茶
熊本にはさほど時間もかからずに到着する。ここからは観光特急「A列車で行こう」で三角を目指す予定。三角から「天草宝島ライン」の船に乗り継いで天草を目指す考えである。まだ列車の発車時間まで1時間弱の余裕があるので新装なった熊本駅前でしばし時間を潰す。さすがにくまモンの本拠だけあって、あちこちくまモン。土産物コーナーにはくまモンハロウィン仕様の人形などが立っている。熊本のキャラから九州代表のキャラに、そしてついには日本を代表するキャラクターと着実に出世してきたくまモンであるが、来るべき東京オリンピックでは彼が旗手として日本選手代表団を率いるのではと期待している(笑)。それとも聖火リレー最終ランナーか。なおもし大阪オリンピックが実現していたら、くいだおれ太郎がそれを務めるはずだったろう。
熊本駅とハロウィンくまモン 発車20分前ぐらいに4番ホームに入ると、もう既に列車は到着している。向かいのホームに停車しているのはあそぼーいでこちらにも観光客が殺到している。阿蘇ボーイの車両は独特の形状がインパクトのある展望車仕様のキハ183系1000番台気動車。私もこの車両が特急ゆふDXとして使用されていた時に目にしたことがある。あの時は黄色いペイントをされていたが、今は白ベースのカラーに塗り替えられている。キャラクターのくろがあちこちにペイントされており、かなりお子様テイストの車両である。
こちらはあそぼーい 一方のA列車の方はジャズの流れるアダルトテイストの車両。二両編成の車内にはバーカウンターなどもあり、アダルト仕様であることを強調している。もっともお子様用シートもキチンと用意されている。
A列車と内部の風景 A列車はあそぼーいが出発した後に出発する。三角線は以前にも乗車しているが、途中から雲仙普賢岳を背景にした海が沿線に広がる風光明媚な路線。ただしトータルでの乗車時間が40分ちょっとなのでいささか短いという感は否定出来ない。
普賢岳が見える
三角駅は南国ムード一杯の駅。天草宝島ラインが出るのはこの駅の正面にある港からである。巻き貝をイメージしたと思われる建物があるが、チケットの販売はこの建物の中でなくて港の船着き場。
三角駅とクルーザー乗り場
桟橋ではクルーザーのマリソル号が待っている。A列車に合わせてデザインをリニューアルしたという船体で、A列車のエンブレムも描かれている。ここに団体客も含めて大量の乗客がドカドカと乗り込んでくる。なお向かいには小型クルーザーのオリビア号が停泊しているが、こちらは松島止まりらしい。
左 マリソル号 中央 内部のシート 右 こちらはオリビア号 船は天草五橋などを見つつ松島港を目指す。天候が良いので風光明媚で波静か。デッキに上がると潮風が気持ちよい。しばし風景を楽しむ。
松島は天草観光の拠点の一つのようで、イルカウォッチのクルーズなども出ているようだ。ここで団体客が大量に降りて船内は人数が大幅に減る。残った乗客はそのまま本渡港を目指すことになる。
本渡港までは島原湾を走行することになる。まだ湾内で外海というわけでもないのだが、先ほどまでに比べると波が高くなり船が揺れるようになる。また先ほどまでの多島の風景と異なり広々とした海になり、向かいには雲仙普賢岳が見えるようになる。しかし揺れが激しくなってきたので二階デッキに登るのが危なっかしくなってきたのと、若干気分が悪くなってきたので座席でおとなしくしていることに。
本渡港に到着 船は30分ほどでようやく本渡港に到着する。私はここから路線バスで富岡まで移動するつもり。とりあえずバスターミナルの位置を確認すると、バスの時間まで1時間ほどあるので昼食を摂ることにする。立ち寄ったのは「茶寮やまと家」。注文したのは「やまと家定食(1400円)」。
刺身にフライ類といった若干奇妙な取り合わせの定食だが味は良い。どことなく落ち着いた風情のある店構えに惹かれて入店した店だが、いかにも観光地レストランという店ではなくて普通の店であるところが良い。この店は正解だったようだ。
昼食を終えるとバスの発車時刻までの30分ほどの間に、ここから10分ほどの距離にある重要文化財の祇園橋を見学に行く。この橋は日本最大級の石造桁橋とのことである。なお島原の乱ではこの辺りで一揆勢と唐津軍が激突した激戦地であり、多くの犠牲者を出したという。
祇園橋の見学を終えるとバスターミナルにとんぼ返り、富岡行きの路線バスに飛び乗る。ここから富岡まで1時間ほどのバスの旅である。バスは山岳地帯にある天草空港の脇を抜けて北上する。やがて海が見えてくると集落内の細い路をウネウネと抜けて西進、やがて富岡のある半島が見えてくる。富岡は明らかに独立した島が砂洲でつながったと思われる地形。その山上には富岡城がある。
とりあえず終点の富岡港でバスを降りると今日宿泊予定の「あまくさ温泉ホテル四季咲館」へ。プラプラ歩いている最中に富岡城の大手門跡の石垣を見つける。城の本体は山上であるが、手前にも館等の施設があったのだろうか。
左 富岡城大手門 右 ホテル四季咲館 ホテルにチェックインを済ませて荷物を部屋に置くとすぐに外出する。目指すは山上の富岡城。
富岡城
「富岡城」は関ヶ原の戦い後にこの地を治めることになった寺沢広高が築いた城郭である。肥前唐津が本領である寺沢氏はこの地に城代を置いたが、藩による重税がきっかけで領民が蜂起、同じく島原で蜂起していた一揆勢と呼応し、島原の乱へとつながる。この際に富岡城代の三宅藤兵衛は本渡で一揆勢と戦闘するが、先の祇園橋の激戦地で討ち死に。富岡城は一揆勢の攻撃を受けることになった。しかし堅城の富岡城は落城せず、一揆軍は海を渡って原城に篭もることになったという。そのことから現地の解説には「この城が落ちなかったことが乱の早期終結につながった」との記述がある。乱の鎮圧後は寺坂堅高(広高の息子)は天草領を没収され、天草は山崎家治に与えられる。彼は富岡城を整備するが、その後移封になって天草は天領となる。この時に代官として派遣されたのが鈴木重成で、彼は天草の石高が過分に見積もられていることが過重な年貢につながり、それが乱の原因になったとして年貢の半減を訴えて抗議の切腹をする。彼の命がけの抗議は幕府に届き、天草の年貢が半減されたことから、現地では今でも彼のことを天草の恩人として奉っている。
鈴木重成の像
つまりは島原城と非常に似た立場の城である。堅城であって落城を免れたことが乱の鎮圧につながったが、そもそもこのような城郭を築くために領民から搾取したことが乱の原因であったということである。大土木工事が領民にどれだけの負担をかけるかということを示す例である。ちなみに現政権も国民に消費税増税を強いて、その金を利権のための無駄な工事にばらまこうと目論んでいる。残念ながら、時代は変わっても権力の本質はあまり変わっていない。
富岡城は富岡港の背後にある小高い山上にある。下から見る分にはかなり絵になる城である。車で登る場合にはかなり回り込む形になるが、徒歩の場合には稲荷神社を経由する直登ルートがある。
稲荷神社を抜けて登ると石垣が見えてくる 山上は最近になって整備の手が入っており、建物の類が復元されて富岡城ビジターセンターとして公開されている。富岡城は1670年に「城の維持管理が領民への負担を強いている」として藩主の戸田忠昌によって破却されたとのことだが(良策として評価されている)、現代になって今度は地元の観光振興のために再び整備されたことになる。いろいろな点で数奇な運命を辿った城郭である。
左 登り口の石垣 中央 本丸 右 二の丸下の腰曲輪 稲荷神社ルートは直登ルートなので10分もかからず山頂に到着する。山頂には積み直したと思われる新しい石垣も見える。あまりに綺麗に整備されすぎているせいで、私のような者には「どこまでが本物?」というのが気になる部分がある。
左 本丸手前の櫓 中央 本丸の門 右 ビジターセンター 本丸からの眺め 山上にあるのは本丸と二の丸、それに一段下になっている出丸である。本丸には建物が復元されていて、これがビジターセンター。中は郷土歴史博物館と言ったところ。
左 二の丸には4人の像 中央 勝海舟に頼山陽 右 鈴木重成と鈴木正三 二の丸には四人の偉人の像が立っている。二人は天草の恩人で先の鈴木重成とその兄の鈴木正三、残りの二人は日本の恩人で勝海舟と頼山陽。この四人が山の上から天草の地を見下ろしている。
左 出丸は二の丸の一段下 中央 出丸 右 出丸から振り返って 左 二の丸石垣を東側から 中央 本丸を見上げる 右 門 出丸を見学してから、グルリと表側の門跡などを回ると、二の丸の裏側から降りていく。二の丸裏手の石垣がなぜか三重になっていて奇妙だと感じていたら、これは石垣の修復の模様が分かるようにあえてそうしてあるらしい。一番下の石垣が寺沢氏が築いたもので、一揆軍との戦いでの傷みが残っている。その上はこの傷んだ石垣を隠すために急造したものだが、途中で壊れたとみられるとのこと。そして三番目が山崎氏による修復の際の石垣だという。確かにそう言われて見てみると、一番奥の石垣はかなり傷みが目立つ。
左 二の丸の西側に回り込む 中央 石垣が三重になっている 右 奥の石垣は傷みが目立つ 石垣の見学後は二の丸駐車場に降りていくが、ここはちょうど当初の登城路の裏側であり、結局は城山をグルリと半周して戻ってくる羽目に。今日は富岡城だけだからほとんど歩くこともなかろうと考えていたのだが、結果としては1万5千歩越え。とんだ伏兵だった。
富岡城を見学して帰ってくると展望大浴場で汗を流すことにする。海のすぐそばのホテルだけにどうせ怪しげなナトリウム塩化物泉だろうと舐めてかかっていたのだが、何と本格的なアルカリ泉。体がヌルヌルとするなかなか良い湯である。これは完全に予想外。とにかく足がもう張ってしまっているので汗を流すと共に疲れを癒すことにする。
入浴を終えると夕日でも見ながらしばしマッタリ。夕食は7時からにしているが、もう少し早くしても良かったか。少々腹が減った。
7時になったのでレストランに出向く。夕食は海産物中心の会席料理。さすがと言うか魚がうまい。刺身では滅多に驚くことのない私が驚かされるような代物。鮑の踊り焼がまたうまい。鮑の肝がこんなにうまいとは初めて知った。ちなみに鮑は焼くのに10分ぐらいかかるので、その間は鮑の断末魔を見ながら飯を食うことになる。動物愛護協会なんかに文句をつけられなかったら良いが(笑)。
夕食をタップリと堪能。そもそもここのホテルを選んだ理由は、ここならおいしいものが食べられそうだと直感したからであったが、それは大正解であった。
夕食後は一服してから再び入浴。しっかりと体の張りをとってから就寝する。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時前に自動的に起床。荷物をまとめると朝風呂を浴びてからレストランで朝食である。典型的な和定食だがうまい。朝からご飯が進む。
8時前にチェックアウトすると長崎への高速船の乗り場へ。この航路もかつてはフェリーが運航されていたらしいが、今では旅客船のみとなっている。いずこも海運の衰退が著しい。
富岡港から運行されるのは高速船のプローバー5。80人乗りの小型高速船である。これが45分で富岡港と長崎の茂木港を結んでいる。小船で外海を行くことになるが、エンジン音はうるさいものの意外と揺れない。茂木港にはあっという間に着く。
プローバー5 富岡港を後にすると、大海原を渡って茂木港に到着 茂木港は何となく寂れた空気もある港。かつて使用されていたフェリー埠頭が朽ちているのが悲しい。ここからは高速船の到着時間に合わせて長崎行きの路線バスが出ているのでそれに乗車する。長崎市街までは30分弱だが、その間にバスは山越えをするので、長崎の市街というのがかなり高低差のあるということが非常によく分かる。
長崎の繁華街で下車すると、とりあえず宿泊ホテルに荷物を預けに行く。今日の宿泊ホテルはドーミーイン長崎。私の長崎での定宿である。まだ昼前でチェックインまでかなり時間があるので、キャリーを預けるとすぐに外出する。
さて今日の予定だが、軍艦島クルーズ予約を入れている。軍艦島クルーズはいろいろな船会社が手がけているようだが、私が予約したのはやまさ海運のもの。これが一番船が大きいらしく予約が取りやすかったからというのが理由。ここも以前から訪問したいと想いながらも延び延びになってしまっていた場所である。それと今晩は長崎の夜景を鑑賞したいと思っている。これが今回の宿題その四。長崎の夜景と言えばロープウェイで稲佐山からというのが定番だが、このロープウェイの駅が交通の便が悪いところにあるのが今まで何だかんだで夜景鑑賞が実現していなかった最大の理由。今回は調査の結果、ロープウェイの駅までの無料循環バスが運行されているという情報をつかんだので、とりあえずそのバスの予約を入れておく必要がある。そのためにバスが発車するホテルベルビュー長崎出島に向かう。フロントでバスの予約を申し出たところ、予約の受付は14時からなので、今からだと事前予約ということになって予約が取れるかは保証出来ないとのこと。とりあえず予約の可否を電話で連絡してもらうことにして事前予約を入れておく。
長崎港 バスの予約を入れた後は長崎港ターミナルに立ち寄って軍艦島クルーズの乗船券を購入すると共に集合場所の確認をしておく。まさに細心の事前準備である。この周到さが仕事に生かされていたら私も今頃は・・・。
クルーズの出航時間は13時。まだ11時前である。まだまだ時間に余裕がある。この間に美術館の見学をすることにする。
京都 清水寺 成就院奉納襖絵 風の画家 中島 潔が描く「生命の無常と輝き」展 長崎県美術館で11/17まで
NHKでたびたび見かけた独特の叙情性豊かなイメージ画で有名な中島潔の展覧会。京都清水寺成就院に奉納した襖絵を初めとして、その他の作品を展示する。
彼の作品に関してはほのぼのした雰囲気を感じると共に、その奥にとてつもない悲しみが垣間見える気がしたのだが、彼が母の死後にすぐに再婚した父に反発する形で故郷を棄てたという経歴で何となく納得した。どことなく愛憎入り交じる望郷の念のようなものを感じるのである。
また金子みすゞをモチーフにした作品も展示されていたのだが、両者には感性的に相通じるものを感じるので、作者が金子みすゞに共感したのは必然的なもののように思われる。作品世界にもかなり高いシンクロ性が伺えた。
美術館の見学を終えるとお昼時。ベイエリアで朝食を摂ることにする。適当に目に付いた「西洋亭」に入店する。長崎のランチと言えばトルコライスが定番の一つのようだが、私はライスにデミグラスソースをかけるのを好まない(だからハヤシライスは嫌い)ので、無難に「とんかつ定食(700円)」にする。可もなく不可もなくというところ。
昼食を終えるとまだ時間があることから、ついでに喫茶になだれ込むことにする。アイスココアとミルクレープを注文。このケーキが結構ボリュームがありCP的には値打ち。長崎とんかつを名乗っている店だが、喫茶の方が私向き。
そろそろ時間が来たので長崎港ターミナルに向かう。もう既に軍艦島クルーズの船は入港しており、時間に合わせて埠頭にやってきたグループが2,3ほど。クルーズの船舶は結構大きい船である。先着のグループは船の前で記念撮影中。
まもなく改札が始まるので船内に乗り込む。1階と2階のどちらに行くか迷ったが、船旅が結構長いということも考えて、1階の屋内の窓際に席を取る。
その内に出航時間が近づくと共に乗客が大挙してやってくる。この船は200人ぐらいは乗れそうだが今日は満員とのこと。見る見る船室が一杯になってくる。出航時刻ギリギリになって駆け込んでくる乗客なんかもいて、数分程度遅れて船は港を出て行く。最初は長崎港内を航行。やはりこの沿岸は造船施設などが非常に多く、海自の艦艇なども停泊している。まあこの造船拠点であったことが先の大戦で原爆を投下された最大の理由であるのだが。
左 長崎港を出る 中央 ドッグ入りの海自の船舶 右 ヴィーナスウィングをくぐる 長崎港を抜けて外洋に出る時に最初に出くわすのがリゾートアイランドとなっている伊王島。遠くに聖ミカエル天主堂の建築が見えている。
伊王島と聖ミカエル天主堂 ここを抜けると本格的な外海で波も若干荒くなる。ただ今日は概ね波静かで格好の航行日和である。船の大きさの違いもあるのか、先日の天草宝島ラインの後半の方がよほど揺れたような印象もある。
有人島の高島の脇を抜ける 有人島の高島を過ぎるとその先に軍艦島こと端島が見えてくる。実際に目にすると思いのほか小さい島というように思える。ここに最盛期には5000人を超える人口が居住していたというから、かなりの高密度である。実際に遠くから見ても高層建築が多いのがよく分かる。かなりの人口密度だったろう。
左 中ノ島の向こうに軍艦島(端島)が見えてくる 中央 軍艦島 右 ドルフィン桟橋に向かう クルーズ船は軍艦島唯一の桟橋であるドルフィン桟橋に横付けするが、この桟橋がコンクリートを海底に打ち込んだだけの固定桟橋。それだけに波が高くなると接岸が不可能になる。そのために波高が0.5メートルを超える場合などには接岸禁止と条例で定められているらしい。だから天候が悪ければ軍艦島上陸コースは中止ということになる。今回は天候も良好(若干暑すぎるが)で波静かということで問題なく上陸可能。これは運が良かった。なお固定桟橋への上陸は足下が揺れるので、ハイヒールやサンダルなどのかかとを固定出来ない履き物は禁止されている。また軍艦島内では定められた見学ルートから逸脱することは禁止されており、さらに上陸者は「もし事故などが発生して怪我や死亡してもそれは自己責任で長崎市などは責任を負いません」という旨の誓約書の提出を義務づけられている。
左 ドルフィン桟橋から上陸 中央 コースに沿って進む 右 見学エリアは限られている とりあえず荷物は船内に置いたまま身軽な状態で上陸する。島内にはコンクリート製の区切られた道路があってこれが見学ルートになる。上陸人数が多いので3斑に分かれての見学になる。
圧倒的な存在感を感じる 何というか、私はことさらに廃墟マニアではないのだが、それでも圧倒されるような存在感である。軍艦島の炭坑が閉山になって無人島化したのが1974年。それから40年が経つことになるが、外洋の荒海にさられされていることもあり、瓦礫化の進行はかなり早いようである。現在軍艦島は世界遺産の暫定リストに登録されることになったが、ガイドによると、早く世界遺産登録されて予算を確保した上で保存工事などをしないと、遠からず完全に朽ちてしまうのではないかとことだったが、確かに同意である。
廃墟の見学中に私の携帯が鳴る。ホテルベルビュー長崎出島からの電話で、今晩の夜景ツアーのバスの予約が取れたとのこと。これで今晩の予定には困らない。それにしてもつながらないことでは定評のあるau携帯が通じるとは、軍艦島はなかなかに便利な廃墟だ(笑)。
30分ちょっとの見学時間を終えると再乗船。沿岸には次の上陸を待っている船が待機している。上陸コースが限られていることから、桟橋は一つで時間交代の模様。恐らく私が利用した海運会社のツアーが最大規模のものと思われる。また上陸ツアー以外にも周囲を周回するツアーなどもある模様。漁船に近いような船舶で周囲をウロウロしている場合もあった。かなりの観光地になっているようだ。
左 これは病院だったとか 中央 屋上にある神社 右 この瓦礫はお寺の跡とか このシルエットが戦艦土佐に似ていたのが軍艦島の愛称の由来 軍艦島クルーズを終えて長崎港に戻ってくるとそのままホテルにチェックインする。炎天下の移動でとにかく汗をかいたので、着替えるとそのまま洗濯、その間に入浴することにする。ドーミーイン長崎は超軟水風呂の大浴場を持っている。この湯は肌当たりの優しい極めておとなしい湯。とりあえずこれでさっぱりと汗を流す。
入浴後はしばし一休み。今回の遠征は天候に恵まれたのはよいが、その代わりにカンカン照りの下での行動が多く、それによって徐々に体力を削られたような気がする。
洗濯が終わって衣類を回収した頃には夕方。夜は夜景鑑賞ツアーに出るつもりだが、その前に夕食を摂っておく必要がある。夕食は例によっての中華街。いつものように京華園でちゃんぽんと炒飯と杏仁豆腐である。これをしっかりと堪能する。これあってこその長崎。
夕食を終えるとそのまま外出、長崎の町をプラプラしながら夜景バスの出るホテルベルビュー長崎出島を目指す。地図を見ると県庁の前を横切っていくのが最短ルートのようなのでその道を通るが、実際に歩いてみると県庁を中心として結構高台になっている。路の傾斜も強く、長崎の路面電車がここを通らずに出島を経由している理由が納得出来る。昔からどんな低湿地の町でも地主や庄屋の屋敷は水が出ても浸からない場所に建っているというのはお約束だが、長崎でも同様のようだ。こういう地形的なことは実際に自分の足で歩いてみないと分からない。
県庁をピークにここから再び結構な傾斜を下っていくと大波止。ホテルベルビュー長崎出島はここにある。ホテルのフロントでバスの整理券を受け取ると、ついでにロープウェイの往復割引券も購入しておく。なお現地に到着したのはバスの発車の30分ぐらい前だったので、しばし街角でボンヤリと待ちぼうけである。ちなみに今日のバスは全便予約で満席との案内が出ている。
ようやくバスが到着。その頃にはバス停には7人程度の乗客が来ている。バスはその後、長崎市内のホテル前を5軒ほど経由してからロープウェイの淵神社駅を目指す。しかし長崎市内は結構車が混雑している上に、長崎駅でロータリーのど真ん中でタクシーを止めて、すぐに降りるでもなく延々と運転手と話をしている超マイペースジジイがいたせいで交通が停滞、ロープウェイの駅にバスが到着したのは予定よりも遅れた時間。帰りのバスの時間も決まっているので慌ててロープウェイに走ることになる。ここで私はロープウェイのチケットを持っていたのでそのまま改札に飛びこんだが、チケット購入の連中はここで行列。彼らは15分後の次の便ということになる。
ロープウェイは牛詰めの満員。ゴンドラは世界的工業デザイナーが設計した斬新なものとのことだが、如何せん40人乗りというゴンドラは、函館ロープウェイの125人乗りは元より、札幌ロープウェイの66人乗りに比べてもあまりに小さい。
ロープウェイは満員
山上までは5分程度で到着する。展望台までは山上駅から徒歩で数分。この展望台へは車でも来ることが出来るらしく、辺りには多くの車が停まっている。ロープウェイの淵神社駅のアクセスの悪さを考えると、そこまで車で来るぐらいなら上まで車で上がってしまうのが正解ということになってしまうだろう。長崎駅から淵神社駅までは路線バスもあるようだが、「ロープウェイ前」バス停からの徒歩2分の中身は急な登り坂である。
展望台まで移動
長崎の夜景は神戸、函館、札幌の夜景とは完全に趣が違う。神戸の夜景はとにかく市街の広がりと物量が凄い。函館の夜景は狭い範囲に凝縮している印象。札幌はとにかくだだっ広い。しかしいずれにも共通しているのは風景が平面的であること。これに対して長崎の夜景は立体的である。山の合間に発展した都市なので、住宅が山の斜面のかなりの上の方まで続いており、非常に行程のある夜景になっている。また港が入江の形で町の中央に入り込んでいるので非常に変化の大きいメリハリのある夜景である。そういう点で一番見飽きない夜景という感もある。
夜景を堪能すると帰りのバスも気になるので若干早めに稲佐山から下りてくる。淵神社駅は待ち客でごった返していて、ロープウェイは現在ビストン運転状態になっているようだが、それでも乗客をさばき切れていない。駐車場の警備員の話によると、今日は8時から花火の打ち上げがあるのでそれを上から見ようという乗客が多いらしい。それで展望台に並んでいた大型三脚の群に合点がいった。夜景撮影にしては撮影している様子がなく、何やら場所取りの雰囲気がしていたので何があるのだろうと思っていたのだが、花火の撮影の場所取りだったのか。
花火が始まる 帰りのバスが出る頃に花火の打ち上げが始まる。花火は湾岸地域で打ち上げられているようだが、この辺りまでまるで高射砲のような大きな音が伝わってくる。バスの運転手も気を使って途中で一端車を停めての花火見学なども。ホテルベルビュー長崎出島のバス停に到着した時もまだ花火が続いていたので、とりあえず私は花火目指してベイエリアまで走る。
走った甲斐あってか、花火の最後のクライマックスの部分を堪能。しかし正直なところかなり疲れた。ここからホテルまでトボトボと歩いて帰ると、大浴場まで入浴に行く気力もなく、部屋のシャワーで軽く汗を流しただけで、そのままダウンしてしまう。
☆☆☆☆☆
翌朝は7時前に目覚ましに叩き起こされた。正直なところかなり全身に疲労が残っている。しかし今日が遠征最終日、気合いを入れていく必要がある。
とは言うものの正直なところ今日はかなり問題ありだ。今日はレンタカーで雲仙、島原方面を回ることになっていてそのことに問題はないが、一番の問題はその後の帰宅ルートである。ここに来て秋の台風が接近してきていて、帰りの長崎空港から神戸空港へのスカイマークがどうなるかが一番の問題。何しろ格安スカイマークは運行中止になった場合には「運休ですので料金はお返ししますので後は御勝手に帰宅下さい」である。ホテルの手配や代わりの便の手配などという手厚いサービスを期待するなら、クソ高い料金を払って大手航空会社にどうぞということである。もしスカイマークが運休ということになれば、急遽鉄道経由に帰宅ルート変更の必要があり、最悪は新幹線も運休という状態になれば、博多か長崎での一泊も検討する必要に迫られる。どうなるかは今後の台風の進路次第である。
目下のところ長崎は台風接近を微塵も感じさせない好天である。とりあえずホテルで朝食を済ませるとチェックアウト。トヨタレンタカーに予約した車を取りに行く。その際に、こういう天候なのでもしかすると返却先が予定している長崎空港店ではなく諫早店に変更になるかもしれないという旨を伝えると、事前に電話連絡すればOKとの回答を得る。
貸出車は当然のようにヴィッツ。長崎出島道路から長崎自動車道に乗り継ぐと諫早ICへ。ここからは一般道を経由して島原へ向かう。諫早市内はかなり車が混雑しているが、それを抜けると今度は雲仙の山中を走ることになる。
最初の目的地は「日野江城」。有馬氏が居城としていた城郭である。しかしキリシタン大名であった有馬晴信の切腹後にこの地に入った松倉重政が島原城を築いたことで廃城となった。なおこの際に島原城建設で領民に過重な負担を強いたことが島原の乱の一因となっている。
出典 余湖くんのホームページ 南島原市役所北有馬庁舎を目標に走行していると、途中で日野江城の案内が目に入る。それに従って進んでいくと集落内の狭い道を山の方に向かって進んでいくことになり、そのうちに道の脇に車3台程度分の駐車場があるところにたどり着くので、車をそこに置いて見学することになる。日野江城は今日では国の史跡認定されて整備が進んでいるようだが、廃城後は恐らく畑になっていたのではないかと思われる。雰囲気としては山の中の段々畑のような印象がある。
狭い道を進む
駐車場に向かう道の左手が三の丸だったようで、樹木の伐採などはされているようだが歩きやすいという状況ではない。その北側に北の丸があるようだが、こちらはいかにも畑の印象。とりあえずは最高所の本丸を目指す。
左 駐車場の先は車通行止め 中央 本丸下の曲輪 右 本丸へ向かう 一番最高所には面積のそう大きくない曲輪がある。ここは見張り台というところか。ここの南に役小角を祀った小さな祠がある。
左・中央 本丸最高所の曲輪 右 役小角の祠 この一段下にやや広い曲輪があるが、そこが本丸らしい。確かにここなら建物を建てるに十分なだけの面積がある。さらにこの下に小さな曲輪ともう一段下にかなり広い曲輪がある。
一段下に本丸がある さらに一段下に広い曲輪が ここからは東側の尾根沿いに数段の曲輪が連なっているのだが、これらが二の丸とのことらしい。二の丸の曲輪群は麓までつながっており面積も非常に広い。この辺りは平時の館という印象。なお私の訪問時にはこの二の丸で発掘作業中であった。何やら石垣の遺構が発掘されていた模様。
左 さらに下に降りる 中央 二の丸が見えてくる 右 二の丸 左 発掘作業中 中央 二の丸には石垣がある 右 奥の方の曲輪 再び本丸へ戻ると三の丸も見学してみる。しかしここは樹木を刈ってあるといっても本当に刈っているだけで、足下にはこれらが転がって非常に歩きにくい。数段の曲輪のような構造と土塁のような構造が見られたが、特に印象に残るような特殊な構造もあるようには思われなかった。ただこの三の丸は本丸とは直接の接続もなく、今は車道となっている堀切で完全に分かたれていることから、非常に独立性の高い出城のような印象を受ける。日野江城自体は東を正面にして斜面に段々状に築かれた城郭で、背後になる西の尾根を独立城郭の三の丸、北の尾根をこれも独立城郭である北の丸で固めた城郭群ということが言えるだろう。そういう点では縄張り自体は中世的で、近世の洗練された城郭とは異なる。この辺りが城の縄張りに長け、虚栄心が強い人物(だったと私は推測する)である松倉重政には気に入らず、島原城の建設に向かわせたのか。
三の丸はお世辞にも歩きやすいとは言えない状態 これで長年の島原での宿題も解決である。次の目的地に向かうことにするが、この頃から先ほどまではどんよりとしながらも何とかギリギリで保っていた天候が怪しくなり始め、ポツリポツリと雨が降り始める。小雨の中を向かったのは雲仙。やはり島原に来たからには雲仙温泉には立ち寄っておきたいという考え。
雲仙へはかなり急な山道を登っていくことになり、こういう時にはヴィッツの非力さがよく分かる。この非力な車を運転する時のポイントは一点。とにかくアクセルを踏み込む時は徹底して踏み込むということである。急坂などにかかった時には、それこそ床まで踏み抜くぐらいのつもりでアクセルを踏み込まないと加速しない。エンジンはかなり悲鳴のような音を上げるが、それにもかまわずにアクセルをドンガンと容赦なく踏み込めばそれなりに走る車でもある(当然燃費は落ちるが)。この辺りの感覚は私の以前の愛車のカローラ2とかなり近い。当然ながらこういう車に乗り続けていたら、繊細なアクセルワークなど到底身に付かないだろう。実際、未だに私のアクセルの踏み方は基本的にオンとオフだけで、せいぜい3段階ぐらいしか踏み分けていない。どこかの走り屋さん漫画で言っていた「10段階ぐらいのアクセルワーク」なんてものとはほど遠い。
山道を走行することしばし、途中でナビのせいでとんでもない山道に誘導されて慌てて引き返すなんてトラブルもあったが、何とか無事に雲仙に到着する。有料駐車場に車を置くと、小雨の中を雲仙地獄巡りと洒落込むことにする。
三連休が昨日で終わったことと、やはり台風が近づいていることもあるのか、雲仙はガラガラと言って良い状態。地獄めぐりも当初はほとんど誰もいない状態である。
雲仙地獄巡りはいくつもの地獄があるものの、基本的には岩場から硫黄臭い白煙が噴き上がっているだけ。正直なところ別府地獄巡りほどのバリエーションがない。また地獄の合間に結構パイプが張り巡らされているのが目に付き、ここがそのまま近くのホテルの源泉になっているということも伺える。
途中で真知子岩なるものがあったが、渡辺真知子であるわけもなく、「まさか「君の名は」?」と思ったら、まさにその通りだった。各地にある映画ロケ地の走りのようなものであるらしい。ちなみにここで言う「君の名は」は当然ながら鈴木京香と倉田てつをのではなく、岸恵子と佐田啓二のものである。
真知子岩
雨はあまり激しくないが、段々と風が強くなってくる。やはり台風の気配は近づいている。ただウェブで調べたところでは目下のところはスカイマークは通常運航中の模様である。そこでとりあえず昼食を摂ることにする。適当に近くの食堂でカツ丼。まあ可もなく不可もなく。観光地レストランであることを考えるとそう高くなかっただけで上々か。
さてやはり雲仙に来たからには入浴はしたい。最初は共同浴場にでも入っていくかと考えていたのだが、どうせだからどこかのホテルの大浴場に入っていこうと考える。ザッと見渡すと九州ホテルなる大きなホテルがあるのでフロントで日帰り入浴の可否を聞くと可能とのこと。そこでここで入浴していくことにする。
雲仙温泉は白濁した酸性硫化水素泉。かなり硫黄の匂いが強いことと強い酸性であることが特徴である。これも美肌の湯であるが、先日まで入浴したアルカリ泉とは対極のタイプ。草津温泉と同様の殺菌力の強い湯である。ただその割には肌に刺激は強くはなく入りやすい。とにかくこれでゆったりとくつろぐ。今回の遠征は美肌系の温泉に入りまくりであり、これで私も美しさに磨きがかけられるというものである(笑)。
もうこれで当初の予定は完全にこなしたので、雲仙の見学の後はかなり時間があるが長崎空港に向かうことにする。今日の帰りの便は6時だが、今となっては遅い便にしたのが失敗であった。とりあえず空港近くで様子を見ながら今後の策を練ることにする。
ただ長崎空港への道のりの途中で「山田城」址公園の近くを通ったのでここに立ち寄る。しかし駐車場がかなり路地の奥で、これを見つけるまでに辺りをウロウロすることに。
山田城は南北朝時代に田原氏能が築いた城郭である。後に在地の山田一族の居城となる。山田氏は有馬氏の重臣として仕えたが、有馬氏が転封と共に延岡に移ったことから廃城となったという。
山田城遠景
城跡は完全に公園化されているが、曲輪跡などはハッキリと残っている。二の丸の上には本丸も残っており、一番奥には稲荷神社の祠が建っていた。
本丸の奥には稲荷神社がある また二の丸の先端には展望台が建設されており、ここから辺りを見渡すことが出来る。こじんまりとしてはいるが、この辺りを押さえるには最適な立地にあることが分かる。地方領主の城としては最適の城であろう。
左 二の丸 中央 展望台 右 物見台 展望台からの風景 山田城の見学の後は長崎空港に移動。大村に到着したのは4時前頃。大村は天気が良く、とても台風が接近しているとは思えない。問題になるとしたら神戸の天気の方である。とりあえずこの時点でスカイマークの羽田行きの便は欠航が決定されていたが、神戸行きの便はまだ特にアナウンスは出ていなかった。まだ車を返却せずに近くでしばし時間を潰しつつ様子を見ていると、神戸便の搭乗手続きが始まった旨のアナウンスが出る。どうやら神戸便は飛ぶらしいのでここでレンタカーを返却して空港に入る。
長崎空港
空港に入ると土産の福砂屋カステラを買い求め、空港内の「五島うどんつばき」で夕食に天ぷらうどんを食べる。五島うどんは氷見うどんや稲庭うどんと同じ乾麺系の細うどんである。しっこりした腰が特徴。食感としてはうどんと中華そばの中間。
スカイマークの神戸便は到着機体が遅れた上に、空路の混雑とかでしばし離陸が遅らされたので結果としては20分程度遅れて離陸することになる。なおこの便は本来は神戸到着後に羽田まで行くはずだったのだが、神戸止まりとなったために搭乗率は4割程度しかない。
こうして無事に神戸に帰り着いたのだが、実際はこの帰りの便が大変だった。何しろ上下左右に揺られまくる羽目になり、結局はベルトは付けっぱなしで機内販売もないような状態。今回の遠征ではかなり船に乗ったが、そのどの船よりも帰りの飛行機の方が遙かに揺れたのである。気分が悪くなりかけた頃にようやく神戸に到着したが、空港に降りるために高度を下げても、窓の外を見たら町の灯りが上下に揺れまくるぐらい機体がふらついている。果たしてこんな状態で着陸が可能なのかと心配したのだが、機長のイワン何某はためらうこともなくドッカン着陸。さすがにエアロフロートを飛ばしているロシア人は操縦の感覚が違うらしい。正直なところ無事に到着してヤレヤレであった。
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