展覧会遠征 福島編

 

 知らない間に梅雨明けを迎えて暑さが厳しくなってきたが、例年のごとくこの三連休は早めの夏休みと洒落込むことにした。もっとも本当はこんなくそ暑い最中に出かけるつもりなどなかったのだが、三ヶ月前に飛行機のチケットを手配した時点ではこんなことは予想できなかったのだから、今となってはどうしようもない。しかもつい先日にサウナのような大阪で会社の人事研修があった直後で心身共に疲労がたまっている(この研修も私の遠征プラン決定後に日程が決まった)。諸々の悪条件が重なってしまったが、しかしもうこうなったら初志貫徹するしかない。

 

 今回の目的地は福島。新潟に飛行機で上陸してから磐越西線で会津若松まで移動、そこから会津鉄道や東武で関東まで下ってくるというプランである。実はこの遠征は去年の秋に実行予定であったのだが、諸般の事情により急遽延期となってしまったのである。それを満を持してこの夏に実行するという次第。当初プランは三連休を利用した二泊三日プランであった。しかし三連休時だと飛行機の料金が高いとか旅館が確保できないなど諸般の事情を鑑みた結果、三連休に有給休暇を1.5日加えた四泊四日プランと相成った。

 

 木曜日の仕事を午前中に終えると、そのまま大阪空港まで移動する。私の使用しているトランクは機内持ち込みサイズのものなので、いつもなら手荷物を預けることはないのだが、今回は登山杖を持参しているので杖とトランクを預ける(登山杖は凶器扱いなので機内には持ち込み不可)。大阪空港で待っていたのはボンバルディアである。私はこの飛行機は非常に嫌いなのであるが、新潟便は大抵この機体なのでどうしようもない。例によってフラフラと揺れるわ、機内は狭いわエンジン音でうるさいわと相変わらず快適とはほど遠いフライトである。早く国産小型飛行機の実用化を願うところである(ボンバルディアよりは信頼性の高いものを作ってくれるはずと期待している)。フラフラとした機体に乗っていると、ふと先日のアシアナ航空の大事故なんかも頭をよぎる。とにかく無事に新潟空港に降り立つことを祈るのみである。

 ボンバルディアのプロペラ機

 着陸時にはまたもや気持ちの悪い揺れ方をしたが、何とか無事に新潟空港に降り立つ。大阪はカンカン照りだったが、新潟は黒い雲が出ていて一雨あるかもしれない空模様である。とりあえず久しぶりの新潟。何やらこの空港はもはや馴染みの気がしてきた。

 新潟空港に到着

 新潟空港からはバスで25分ほどで新潟駅に到着。駅南のビッグカメラで持参を忘れたテーブルタップを調達するとホテルの送迎バスで今日の宿泊ホテルに向かう。今晩の宿泊先はドーミーイン新潟。どうも最近のドーミーインは週末になると価格が跳ね上がったりなどよろしくない傾向が出ていたので足が遠のいていたのだが、今日は平日なのでリーズナブルな価格で宿泊可能である。

 

 ドーミーイン新潟は難波などと同様で、中央が吹き抜けになっている明らかにワンルームマンションの形態。とりあえず部屋に荷物を置くと夕食を摂りに出ることにする。

 

 夕食を摂ることにした店は「大助駅前店」。海鮮居酒屋である。注文したのは「大助膳(1600円)」と「ビンチョウマグロの刺身(600円)」

 驚くのは恐るべき刺身の厚み。とにかくボリュームがすごい。ネタは特別にすごいというほどのものではないが、このCPは圧倒的である。また居酒屋でありながら酒を強制されなかったのもポイントが高い。

 この刺身のボリュームは圧倒的

 夕食を終えてホテルに戻ると最上階の展望浴場へ。展望浴場と銘打つほど風光明媚というわけではないが、それでも露天風呂は気持ち良い。やはりこれあってのドーミーイン。とにかくしっかりと体をほぐす。

 夜のオヤツ

 ホッとしたところで部屋に戻ると駅前で求めたオヤツを頂く。こうしてこの夜はマッタリと暮れていく。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時に自動的に起床。まずは朝風呂を浴びに行くとレストランで朝食である。荷物をまとめて7時半頃にチェックアウトすると送迎バスで駅まで送ってもらう。

 

 今日の新潟は生憎の空模様で、昨晩に雨が降った形跡が町の中に残っている。しかしおかげで蒸すような暑さはない。ただ北部では豪雨の模様で、村上方面行きの特急北越が運休といった案内がされている。みどりの窓口で会津若松までの乗車券を買い求めると、磐越西線が発着する8番ホームへ向かう。8番ホームは行き止まりホームだが、新発田方面から列車がひっきりなしに到着して満員の乗客を降ろしていく。おかげでホームに向かうには人の波をかき分けていく羽目に。中にはスマホをさわりながらまっすぐに突撃してくる乗客も。これが最近問題になっている暴走歩行者という奴らしい。

 後ろからと前からで顔が違う 

 会津若松行きの快速はキハE120とキハ110を三両連ねた混成編成。どことなくにぎにぎしい雰囲気である。これに乗車してしばし発車を待つが車内はガラガラである。

   車内風景

 新潟駅を出るとすぐに沿線は一面田んぼのいかにも新潟らしい光景となる。次の停車駅は新津。ここで乗り込んでくる客が数人。ここからさらにしばしの間は田んぼ列車である。

 最初はひたすら田んぼ

 沿線の風景が変化するのは馬下駅を過ぎてから。ここから沿線は阿賀野川沿いの山間部となり、山と川の風光明媚な風景が続くことになる。驚くのは阿賀野川の水面。川であるのにまるで波がなくて鏡のよう。ところどころダムがあったりするが、大部分はこのひたすら静かな水面である。

鏡のように静かな阿賀野川の水面

 ただ風光明媚な山間風景と言うことは、沿線人口はかなり少ないと言うこと。確かにところどころ集落はあるが、沿線に目立った大きな町はないし、乗降もかなり少ない。

 喜多方駅

 川から離れて再び田んぼが広がるようになるともう喜多方がすぐである。喜多方からは乗り込む乗客が多い。そのままさらにしばし田んぼの中を走り続けると終点の会津若松である。これで磐越西線の視察も終了ということになる。こうして乗車してみると、確かに観光SLが走るのに適した路線であるが、逆に普段の利用状況はというと、何やら絶望的な気分になる。日本のどこのローカル線も大体こんな調子のようだ。

 ようこそ会津へ

 会津若松は今年は大河ドラマ「八重の桜」に合わせて観光PRで盛り上げており、駅でも綾瀬はるかのポスターが数十枚。とにかく気合いの入り方だけはよく分かる。

 

 久しぶりの会津若松である。さてこれからであるが、ここからレンタカーによる移動になる。既にレンタカーはJRの駅レンタカーを手配済み。車はまたもお約束のようにヴィッツである。相変わらず非力な車であるが、エアコンを全開していたらその非力さに拍車がかかる。

 

 さてわざわざ車を借りたのは当然目的があってのこと。最初の訪問先は「向羽黒山城」である。向羽黒山城は向羽黒山こと岩崎山に蘆名盛氏が築いた巨大山城である。当初は隠居所として建造したというが、伊達氏の圧力が強まるにつれて黒川城(現在の鶴ヶ城)の詰の城としての重要性が増して整備が進んだらしい。しかし摺上原の合戦で敗北した蘆名氏はこの城に籠もることもないまま常陸に退却、結局はこの城は伊達政宗の支配するところとなり、その際にさらに整備がされたらしい。さらに政宗が秀吉によって会津を没収された後は、この地に入った蒲生氏郷が整備を進めている。そして最後の整備は蒲生氏郷の死後にこの地に入った上杉景勝によるもので、これは迫り来る徳川軍を食い止めるためのものであった。しかし結局は関が原の合戦の結果、上杉景勝はここで戦うこともないままに米沢に押し込められ、向羽黒山城も一国一城令などによって廃城となるのである。今日ではこの地域を代表する大規模山城ということで国の史跡に指定されている。

 

 会津若松駅から南下すると、西会津駅に立ち寄って明日以降のための切符を入手してから向羽黒山城へと向かう。県道128号を南下すると途中で向羽黒山城を示す案内看板があるのでそこから山に入る。道は整備されているのだが、車一台が一杯の道なのでもし対向車が来たらすれ違いに困ることになりそうだ。私の場合は幸いにして対向車に出くわすこともなく、二の丸と実城(本丸)の間のトイレのある駐車場のところにたどり着く。

 

 天気は良いのだが、そのことはすなわち灼熱地獄であることを意味する。とりあえずライフラインの伊右衛門を手にすると二の丸の側から見学することにする。

 二の丸登り口

 案内に従って登っていくと虎口と思われる入口を抜けて公園として整備された曲輪跡に出る。ここはかなりのスペースがあり見晴らしも良い。遠く鶴ヶ城も目にすることが出来る。ここは二の丸と言うことになっているが、どうやらここが本来は屋敷があった場所で、本丸は詰めの城という性質が強かったようだ。実際、この二の丸だけでも十二分な防御力はありそうである。斜面側には複数の帯曲輪や水の手などの構造もあるようだが、そこを子細に歩くのは体力的なものを考えてやめておく。

左 二の丸虎口  中央 二の丸は公園になっている  右 市街を一望

左 奥に見える山上が本丸  中央・右 下に曲輪等がありそうだが、見学は体力・時間的に断念

 二の丸の見学後は本丸(実城)に登ることにする。登り口は登山道が整備されているが、この石段が結構段差が大きく、一段一段の登りがかなり足に響く。とりあえず杖を使いながらよじ登る感じである。

 本丸登り口

 途中で伊右衛門休憩なども取りながら登ることしばし、実城方向と弁天曲輪方向への分岐に突き当たるので、まずは弁天曲輪から見学する。弁天曲輪は自然石の巨石が転がる高台で、現在は木々が鬱蒼としているせいで視界がないが、往時には物見の役も為していたのだろうと思われる。

山上の分岐を左に進むと、巨石がゴロゴロする高台に達する

 引き返してしばし登ると実城にたどり着く。ここがこの山の頂上である。発掘作業中なのかブルーシートが被せてある。ただやはり面積としてはさほど広くなく、やはり最後の詰めのための城なのだろうということが分かる。

先ほどの分岐を右に進むと本丸に到着する

左 見晴らしはよい  中央・右 何やら発掘作業中か

 ここから尾根伝いに進んでいくと、途中で何本かの大規模な堀切に出くわすことになる。尾根筋には特に曲輪等の防御施設は見あたらないが、敵の侵攻を防ぐための防御はしてあることになる。このルートをしばし進むとようやく車道に降りてくるので、この車道をテクテクと駐車場まで戻ることになる。車道は左手にも曲輪があるということだが、上から見下ろしただけでは木が鬱蒼としているせいでよく分からない。どうもこの城は全山規模の大要塞のようであるので、登山のつもりであちこちを一日がかりでザクザクと進まないと全貌を把握するのは無理なようだが、今回はそれだけの気力・体力・時間がない。とにかくとてつもない城郭だということだけはよく分かった。

  

左 尾根伝いに降りていく     右 途中の堀切はかなり大規模

 車に戻った頃には身体は火照りきっていた。車は木陰に停めておいたので幸いにして灼熱はしていないが、それでも冷房がなかなか効かない。とりあえず狭い山道を再び戻ることになる。

 

 向羽黒山城の見学を終えた後は「鶴ヶ城」に立ち寄る。やはり何度見てもここの天守はなかなかに絵になる。ただ今回の目的地は鶴ヶ城ではない。今回は日新館と飯盛山に立ち寄るつもり。そのためにマップをもらおうと観光案内所に立ち寄ると、GWの時に見かけた美人さんがいたので日新館と飯盛山の場所を尋ねておく。私がもう少し軟派な男なら日新館の場所よりも携帯の電話番号を尋ねたいところだが、残念ながら私はそこまで軟派ではないし、そもそも既に若くもない。

 鶴ヶ城再び

 先ほどの登山で少々ガス欠気味なので、茶店で三色団子を頂いてからまずは飯盛山に向かうことにする。飯盛山はいわずと知れた白虎隊が切腹した地である。新政府軍に追われてここまで撤退してきた十台の若者たちが、燃え上がる鶴ヶ城を見て(実際には鶴ヶ城が燃えていたのではなくて城下が燃えていたのだが)、絶望の中で自刃に及んだのである。悲惨なエピソードの多い戊辰戦争の中で特に悲惨なエピソードとして有名である。

 団子で一服

 飯盛山へは十数分ですぐに到着する。現地に到着すると土産物屋が立ち並ぶ一大観光地となっている。近くの駐車場に車を停めて登りにかかるが、有料エスカレーターまで出来ているのにはさすがに「本当にこれで良いのか?」と疑問も感じる。それどころかイケメンアニメ絵の白虎隊士の絵なんかもある。それを見ていた時に私の頭に浮かんだのは、なぜか白虎隊をモデルにした萌えアニメの企画。白虎隊を美少女に置き換えて、場所は未来の宇宙に設定。故郷の星への侵略を防ぐために苦戦の中で出撃する美少女戦闘部隊。しかし圧倒的な敵の攻撃の中でメンバーは次々と玉砕。最後は一人を残して全員が玉砕してしまう(さすがに自殺というのは良くないので)という悲しい内容。そして最後の生き残りが語り手。最近は萌えホラーなんてジャンルがあるぐらいだから、萌え鬱というジャンルもありかと思ったんだが、もしかしたらもう既にあるかも(私は最近のアニメにはかなり疎くなっているので)。それにしても萌えアニメが嫌いな人間が(これが最近アニメから離れた理由)、なぜこんな企画を思いついたんだろう。

左 飯盛山周辺は一大観光地  中央 白虎隊記念館  右 有料エスカレーター

 階段は長いが山城を攻めることを思うと何ということもない。登りきったところにあるのは白虎隊の鎮魂碑。多くの線香が供えられている。ただ彼らの自刃の地はここではなくてもう少し進んだ先。今では墓地の中になっているそこも訪れる。そこに立つと遠くに鶴ヶ城の天守が見える。しかしここからだと確かに手前の城下が燃えていると天守が燃えているように見えるだろう。白虎隊の像が立っているが、それが今時の小学生ぐらいに見えるのが痛々しい。

左 白虎隊の鎮魂碑  中央 こちらは白虎隊自刃の地  右 遠くに鶴ヶ城天守閣が見える

 飯盛山から降りてくるルートにさざえ堂がある。これは二重らせん構造になっている独特の建物。入場料を払って入ってみたが、やや急な斜面をひたすら登ってから下るだけ。中は展望もないしかなり特殊な建物である。また近くには戸ノ口原で破れた白虎隊士が潜ったという戸ノ口堰洞窟などもある。ここの洞窟は用水路であるので、今はかなりの量の水が流れており、うかつに通ろうとしたら溺れそうである。

左 さざえ堂  中央 細かい細工がある  右 内部は狭くて急
 戸ノ口洞窟

 飯盛山の見学後は日新館に向かう。日新館は会津藩が人材育成のために設置した藩校である。元々は鶴ヶ城の近くに建っていたらしいが、戊辰戦争で焼失したために今はかなり北の方に復元移築されている。残された図面などに基づいた完全復元とのことで、最近の鶴ヶ城の工事といい、会津若松市民の郷土意識の強さというかプライドのようなものを感じさせられる。

左 日新館外観  中央 有名な什の掟  右 内部の戟門

 日新館は藩校と言うことなので、やはりどことなく足利学校や閑谷学校などと雰囲気に似たものを感じる。ただし人工池を使った水練場や武道場、弓道場なども完備されており、文武両道の武の側面にかなり力を入れていることが感じられる。また学問の方も単に儒学ではなくて天文学などのかなり実用的な学問も含んでおり、単なる学問のための学校と言うよりは士官学校の性質が強かったのではないかと感じられる。

左 日新館  中央 こちらが校舎  右 授業中

左 天文学なども習ったらしい  中央 学校につきものの孔子廟  右 この池で水練も習ったとか

左 武道場  中央 弓道場  右 天文台

 日新館の見学を終えたところで会津若松の予定は終了である。まだ若干早いが今日の宿泊ホテルに向かうことにする。ただしその途中で、かなり遅めの昼食として「めん屋河京」に立ち寄り、「チャ玉ラーメン(780円)」を頂く。

 喜多方ラーメンの店だが、確かに煮干しの味が強い典型的な喜多方ラーメン。さっぱりとしたスープに腰のある麺が旨い。車で走っていた時に見かけてたまたま直感で選んだ店だが、やはりこの地域のラーメンは侮れない。それにしても私の旨いものレーダーもいよいよ精度が上がってきたか。

 

 ラーメンで軽く腹を満たしたところで再び宿に向かって車を走らせる。今日は会津若松東部の東山温泉で宿泊する予定。当初プランでは会津若松訪問が週末の予定だったので温泉旅館が確保できなったのだが(温泉旅館は週末は異常に宿泊料金が高くなったり、そもそも一人客は受け入れないところが多い)、その後にプランが拡大した結果、会津若松訪問が金曜日に変更になったために温泉旅館を確保することが出来たのである。

 

 東山温泉はまさに山の中のひなびた温泉街。私の宿泊ホテルはその温泉街を見下ろす高台にある「千代滝」である。お部屋お任せプランだったのだが、平日で客が少ないのか広くて見晴らしも良いなかなかの部屋を用意してくれたようだ。やはり温泉旅館に泊まるのは平日に限る・・・って言っても、宮仕えの身で平日にホイホイと旅行なんか出来ないもんな・・・。

   部屋からの眺望

 このホテルでは湯巡りと称して姉妹館の「新滝」の浴場も利用できるらしい。そこでまだ日が高い内に早速湯巡りをしておくことにする。浴衣に着替えて下駄を借りて東山温泉の温泉街をカランコロンと散策。東山温泉街は昭和風情満載である。ただいささか寂れているというか、部分的には廃墟になりかかっているところがあり、これは全国各地の古い温泉街と共通の空気である。

左・中央 どことなくレトロな町並みの東山温泉  右 姉妹館の新滝

どことなく寂れた空気も否定は出来ない

 新滝は千代滝よりも新しいホテルのようだ。浴場は3カ所有り、いずれも源泉かけ流しという。まずは一番奥の猿の湯、さらに一番古い千年の湯、そしてわたり湯と一渡り野次馬的に回ってくる。カルシウム・ナトリウム硫酸塩泉というお湯はやさしい湯である。浴場を一回りすると会津の郷土牛乳である「べこの乳」を一気飲み。コクのあるなかなかにうまい牛乳。

 

 千代滝まで戻ってくると、せっかくだからと夕食前の明るい内にこちらの展望浴場も入浴。高台なので風もなかなかにキツイ中での露天風呂。これが実に気持ちよい。

 

 風呂を一回りして一息つくと夕食の時間である。夕食はレストランで摂ることになる。メニューは創作会津料理。これがまた旨い。思わず「あー、良いよなぁ」という声が出る。

 夕食を終えると就寝前にまた入浴。そして会津磐梯サイダーで一服。なかなかに落ち着く瞬間である。しばしネットを接続して調べ物をしたりテレビを見たりをしているが、その内に強烈な眠気に襲われるので早めに床につく。

   地サイダーの会津磐梯サイダー

 

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時過ぎに起床するとまずは朝風呂。今日は会津鉄道で南下する予定だが、生憎と雨がぱらつく悪天候のようである。

 

 朝食をレストランで頂くと早めにチェックアウトになる。例によって習慣的にせわしないスケジュールになってしまっているが、本来ならこういう宿ではもっとゆっくりするべきだよなという考えが頭に浮かぶ。

 

 朝にはぱらついていた程度の雨だったが、今は結構な豪雨になっている。とりあえずレンタカーを駅に返すとここからは鉄道の旅になる。会津鉄道はJRの会津線を引き継いだ第三セクターで、西若松駅から会津高原尾瀬口までを結んでいる。ただし実質の運行は北は只見線を経由して会津若松からであり、南は野岩鉄道を経由して東武鬼怒川線と接続しており、会津若松−鬼怒川温泉間で運行しているイメージがある。

会津鉄道のトロッコ車両

 一番奥のホームが只見線と会津鉄道のホームである。ホームに到着するとまもなくトロッコ列車が入線してくる。この豪雨の中のトロッコということで車両は大変なことになっており、必死の拭き掃除がなされていたが、果たして今日のこの天候でトロッコ車両が使えるかは難しいところだろう。なお私が乗るのはこれとは反対側のホームに到着する単両の普通車である。車両はボックス型シートの単両編成。AT−501と型番が書いてあるが、ローカル線で良くあるタイプのディーゼル車である。

私が乗ったのはこちら 内部にはしっかり綾瀬はるかがいます

 会津若松を出た列車は西若松までは只見線と共用の路線を通る。この辺りの沿線は会津若松の市街地の続きである。西若松からが会津鉄道の路線になるが、この辺りから目に見えて沿線人口が減少してくる。しばし田んぼの中の走行であるが、その内に段々と山が近づいてくる。

左 最初は市街地  中央 この山上が向羽黒山城  右 段々と山が深くなる

 芦ノ牧温泉辺りからは完全に山間の渓谷沿いの路線へと変貌する。ここから路線は阿賀川に沿ってトンネルなども潜りながら進んでいくことになる。天候が悪いので沿線の山頂には雲がかかっていたり、山の斜面に沿って雲が湧きあがっていたりと東山魁夷の日本画を思わせるような風景が繰り広げられる。

芦ノ牧温泉で野口英世列車とすれ違い

沿線風景は本格的にすごいことになってくる
  

 ダム湖を抜けて深い渓谷沿いに進むと湯野上温泉。今日の宿泊予定地はここだが、その前にもう一駅先の塔のへつりまで行くことにする。塔のへつりは断崖絶壁に刻まれた昔の街道であり、今ではその一部が観光地となっている。

   

塔のへつり駅のロッカーは奥行きが浅すぎてトランクが入らない

 塔のへつり駅は無人駅だが、一応駅舎内にロッカーがあるのでそこにトランクを放り込む。ただここのロッカーは奥行きがやや短い(私鉄系に多いサイズ)ので、300円のロッカーには入らず、500円を支払う羽目に。

  塔のへつり周辺は完全に観光地

 身軽になったところで塔のへつりに向かう。塔のへつりは完全に観光地で土産物屋などが並んでいる。観光客もそれなりに来ているのだが、今一つ活気があるとは言い難い雰囲気がある。

 

塔のへつり

 塔のへつりへは谷川にかかる吊り橋を渡っていく。この吊り橋は「30人以上は同時に渡らないで下さい」との注意書き付きである。歩いていると少々揺れるが、恐怖を感じるほどではない。高さもそれなりにあるのだが、私は不思議なことになぜか下が水だと高所恐怖症を発症しないようである。下が地面の方が転落してそこに叩きつけられる自分をリアルに想像してしまって恐怖感が強いようだ。

左 吊り橋を渡る  中央 道自体はかなり狭い  右 ここで行き止まり

左 祠のようなものがあります  中央 道が完全に崩れている  右 対岸から見ても崩れている部分が大半

 塔のへつりは確かにとんでもない道。ふと頭に浮かんだのは、蜀の桟道というのもこういうイメージだったのかなということ。ここを街道に使っていたのなら、今までに何人かは転落して亡くなった者もいそうである。今は安全な箇所しか立入させていないが、それでもハイヒールなどで来るべき場所ではない。

 野口英世号がやって来た

 塔のへつりを見学した後は会津鉄道の野口英世ペイントの車両で隣の湯野上温泉駅まで戻る。湯野上温泉駅は茅葺きの風情のある駅舎であるが、とりあえず荷物を駅で預けると、今は駅舎の見学もそこそこに駅前のバス乗り場へ向かう。ここからバスで大内宿に向かう予定である。湯野上温泉駅からはレトロバス「猿游号」が運行している。昨日わざわざ西会津駅に立ち寄り、この猿游号の乗車券と会津鉄道の乗車券がセットになった割引切符を購入しているのである。

風情のある湯野上温泉駅舎

 猿游号はなかなかに味わいのあるバスだが、本当に古いバスなのではなく、新しいバスをレトロ調に改造したようである。内部はかなり綺麗。

猿游号

 バスは山道を大内宿に向かって走る。ただ天候は生憎と雨がぱらつく悪天候である。ただそれが幸いしてか今日は土曜日にかかわらず車はあまり多くなく、バスはスムーズに運行している。ガイドの話では、GWは駅から大内宿までの間が車で埋まってしまい、バスが定時運行どころか全く動かない状況になってしまったとか。私は先のGWの東北遠征の際、会津若松から車で大内宿まで足を伸ばすことも考えていたのだが、それは諦めて正解だったようである。

 

 大内宿に到着した時には雨は結構強くなっていた。とりあえず雨中の茅葺き集落の見学である。GWの時などに比べると全然がら空きとのことだが、それでも雨にもかかわらずそこそこの観光客は訪れている。

 大内宿は日光街道の宿場町で、かつては交通の要衝であった。しかしその後の交通の発達などによってこの一帯は時代の進歩から取り残されたような形になってしまう。しかしそれが幸いして街道沿いに茅葺きの建物が連なる風景が重伝建に指定され、今日では多くの観光客が訪れる一大観光地となっている。

ほとんどの住宅が観光客相手の商売をしている

 ただ正直なところ「観光地化しすぎているな」という印象もある。かつては農村集落だったようだが、今ではほとんどの住宅が観光で生計を立てているようで、表の茅葺き住居はそば屋や土産物屋になっている。また街道沿いには往時の風情を残す茅葺き住居が並んでいるが、その裏手には近代的な住宅が隣接しており、住民はみんなこちらの方に住んでいるようである。そういう点では倉敷美観地区などで感じる「どことなく映画のセットのような」という印象を強めることになる。GWなどは歩くのが困難なぐらいの観光客がここに殺到したと言うから、喩えるなら「茅葺きの竹下通り」である。

左 町並み展示館  中央 土間には民具を展示  右 座敷

左 囲炉裏もある  中央 屋根裏では養蚕をしていた模様  右 二階の窓から向の家並みを
 

 途中に町並み展示館があるのでそこを見学。これは往時の本陣を復元した建物だという。内部は民俗資料館のようなもので、民具などが展示されている。この地が農業の地であったことがよく分かる道具類が展示されている。

民家を使用した浅沼食堂

 町並み展示館を出た時にはいよいよ雨は激しくなり豪雨の体を示し始める。とてもではないが、ゆっくりと町並み散策という状況ではない。そこで昼食もまだ摂っていないことだし、町並みの一番奥にある「浅沼食堂」に雨宿り兼昼食のために入店する。

  外の雨はいよいよ激しくなっている

 茅葺き建物の大広間が食堂となっており、多くの観光客が座っている。またここからは街道を正面に見ることが出来る。さて注文だが「冷やし宿場そば(900円)」「岩魚天丼(800円)」を頼む。

 

 まず出てきたのは天丼。野菜の天ぷらなどと共に岩魚の天ぷらがあるが、これがなんとも旨い。思わず「うめー」という声が出る。丼の味付けも私好みである。

 

 次が具だくさんの宿場そば。冷やし山菜そばといったところだが、さっぱりとしていてなかなか。観光地レストランと言うことであまり期待していなかったのだが、どうしてどうして東京の飲食店なんかよりもはるかにまともである。

 

 雨がまだ強いようなので追加で「山ぶどうジュース(300円)」を頼んでマッタリとする。普段は飲食店は大抵は30分以内で出る私だが、今回は雨が降っているということと、なんとなく落ち着く店内の雰囲気のせいかしばしここで休養することにする。

     

裏手の祠に登る

 雨がピークを過ぎたところで店を出て、奥の展望ポイントになっている神社の方に向かう。宿場を見下ろす高台のここは格好の撮影ポイント。ここに登ってみると、いつも目にする大内宿の写真はここから撮られたものであることがよく分かる。多くの観光客が押しかけて入れ代わり立ち代わりで撮影大会である。

  お約束のショット

 これで一渡りの見学は終わったが、まだ帰りのバスの時間までに40分ほどある。そこで土産物街をプラプラしながら目に付いた「みなとや食堂」に入店、「栃餅」を注文する。

町並みをプラプラと散歩しつつ、目に付いたみやと屋食堂に入店

 茶色つきたての栃餅に青きな粉がかかって出てくる。非常に素朴なのであるがこれが実にうまい。ここでも思わず「うめー」という言葉が出る。日本人で良かったと思うホッとする逸品である。

    栃餅とお手ふき

 栃餅を頂きながら一休み。ようやく雨が小降りになった中をバス停に向かう。帰りのバスの乗客はほぼ往路と同じ顔ぶれ。大体誰でも見学時間は似たり寄ったり(2時間弱)ということらしい。

 

 帰路は往路よりも道路の車は増えていたが、それでもバスは時間通りに湯野上温泉駅に到着する。しかしここで私ははたと困ってしまう。これからの予定が全くなくなってしまったのである。実のところ、当初に予定を組んだときから今日の予定はあまり入っていなかった。そこで大内宿の見学の後にはこの辺りの山でも登ろうかと考えていたのだが、天候を見ているととてもそんな状況ではないということで完全に予定が消失した次第。

 

 と言っても駅でボーッとしていても仕方ないし、とりあえずホテルに荷物だけでも預けようと考える。ただまだチェックインの時間ではない。チェックインの時間が来ていたら電話で送迎でも頼むところだが、仕方ないので町の散策がてらホテルまで歩くことにする。

 

 しかし結果としてはこれは正解とは言い難かった。思っていたよりも距離がある上に、道路が歩道が整備されておらず車道の脇を歩く状態。車が結構とばしているので怖くてたまらないし、路肩を歩いているような形なのでトランクが引っかかって動かしにくい。つまりはこの道路は歩行者が歩くということを全く想定していないのだということが分かる。結局は20分ほどを要してようやく今日の宿泊予定の「湯季の郷 紫泉」に到着する。

 

 とりあえず荷物を預かってもらおうと思ったのだが、部屋に入ってもらっても良いということなのでチェックインしてしまうことにする。しかも源泉掛け流しの大浴場はもう準備が出来ているので入浴も可能ということ。これは非常にありがたい。早速入浴することにする。大浴場は小振りの内風呂と野外風呂という風情の露天風呂がある。泉質は単純泉とのことなので非常にクセのない素直な湯。強烈な入浴感はないが、長時間ゆったりと浸かっていられるという種類のお湯である。とりあえず雨やら汗やらでずぶ濡れになった体をこれでサッパリとする。

 

 ここは扱いは民宿ということになっているが、実際にはミニホテルで部屋はトイレ付きの専用の綺麗な客室が完備されている。しかし部屋に戻るとすることがなくなる。調べたところネット接続が可能なようなのでネットにつないでしばし時間つぶし。その内に雨が小降りになってきたのでせめて辺りの散歩をしようと外出する。しかしそれを狙い撃ちのように再び雨が土砂降りに。しかも国道では通過する車が横滑りしかけたりして危なくて歩けない。結局は身体を濡らしただけで帰ってくる羽目に。ホテルに戻ると冷えた身体を温めるために再び温泉である。

 

 もうこれは「今日は外には出ずに部屋でゆったりと過ごせ」というお告げだと受け取って、この日は骨休めに徹することにした。結局はテレビを見ながらゴロゴロ。その内に夕食の準備が出来たとの電話がかかってきたので食堂へ。

 夕食は地場ものを使った料理だが、一品一品が結構手が込んでいて本格的。しかもかなり旨い。直感で選んだ宿だったが、この宿はなかなか大当たりである。

 

 夕食を終えて部屋に戻ると既に布団の準備がされていた。しばし部屋で再びマッタリ。しかしその内に激しい疲労に襲われるので、そのままかなり早めに床につくことにする。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝も生憎の雨である。それも断続的に雨足が強まる状態。6時半に起床するとまずは朝風呂である。結局は湯野上温泉では温泉には入り倒しただけだったような気もするが、こういうのも良しか。風呂から上がって荷物をまとめていると朝食の準備が出来たという放送があるので食堂へ。朝食はオーソドックスな和食だがこれがうまい。この民宿は食事面で大正解だった。

 

 朝食を摂ってから荷物をまとめると8時過ぎにはチェックアウト。駅まで車で送ってもらう。昨日はかなり時間がかかった駅までの道のりも車だと5分もかからない。

 

 駅で土産物などを買いながらしばし待つと、快速列車が到着する。快速は特に追加料金は必要ないのだがシートなどが良く、一種のプレミア列車になっている。これで会津田島まで移動する。会津田島までの沿線は例によってひたすら深い山の中、それがようやく平地に出たと思えば会津田島である。

快速会津ライナー

 会津田島に到着時には雨はやや小降りになっていた。これからはこの周辺を車で回る予定。既にレンタカーは手配済みである。とりあえずレンタカーを予約した会津レンタカーの事務所を探す。レンタカー事務所は駅から3分ほどのプレハブ。貸し出し車はダイハツのブーンである。

  会津田島駅

 この車は乗るのが初めてだが、さすがにダイハツだけあって走行感覚その他が限りなく軽に近い。ヴィッツも常にパワー不足を感じる車だが、それに増してパワー不足の上に足まわりが貧弱である。だが一人で辺りをウロウロするだけならこれで十分でもある。ただシフトレバーがハンドル脇にある(昔のタクシーを連想する)のだけは違和感全開で、最初はギアがどこに入っているのか分からなかった(Lのまま走っていて、やけにエンジン音がでかいなと思っていた)。

 

 足を確保したところでまずはこれからの予定の確認。これから回るべきは鴫山城、久川城、そして重伝建の前沢集落である。実のところ鴫山城は会津田島の駅至近なので、ここだけなら車の必要はない。当初はここと前沢集落だけを回る予定だったので、鴫山城は徒歩、前沢集落は会津尾瀬口駅からバスで行こうと考えていたのだが、調査の過程で久川城の存在が浮上し、それなら車を借りてしまうかとなった次第。

 

 近くに旧南会津郡役所があり、ここに車を停めることが出来る。なおこの建物は明治期の洋風建築で県の重要文化財に指定されているとか。現在は内部は地域の歴史博物館になっているが、今は工事中のために公開は一部であり、その代わり入館料は無料とのこと。ここを覗いていたら係の女性が現れたので、鴫山城の登り口などのことを聞いておく。それによると山上の愛宕神社までは山道だが登山道はあるが、雨が激しくなると足下がどうなるかは分からないとのこと。まあそれは最初から覚悟の上なのでここに車をおいて鴫山城に向かう。

  旧南会津郡役所

 「鴫山城」は南北朝から室町期に長沼氏が居城として築いたが、その後に蒲生、上杉によってさらに大規模に手を加えられているという。構造としてはまず山上に籠城のための詰めの城、麓には城主居館である内郭、さらに周囲に侍屋敷が外郭として存在する。最終的に大整備したのが上杉氏とのことだが、そのせいか上杉景勝や直江兼続のゆかりの城である坂戸城と構造がよく似ている。

 とりあえず夏の山城攻めで絶対に切らせてはいけない茶を確保してから大門跡に向かう。大門の手前には鳥居があってこの両脇が侍屋敷跡。この辺りからが城域になるようだ。

左 入口の鳥居  中央 城域内部  右 侍屋敷
 

 そこを抜けていくと空堀の奥に巨大な土塁と立派な石造りの門が見える。これが大門。いわゆる大手門である。築城時の中世には石垣は用いられないことから、この門は近世になって手が加わっていると考えられるとのこと。

左 大門  中央・右 土塁と堀で固めてある

ここを抜けて進むと城主居館跡に当たる上千畳、下千畳の脇を抜けることになる。しかしまだ小雨の内に山上に登ってしまいたいので、ここの見学は帰路に回すことにして先を急ぐ。

左 大門を抜けると御平庭  中央 井戸がある  右 今も水があるようだ
 

 井戸の跡を抜けたぐらいからは本格的な登りになる。ただ足下は登山道が整備されており、山城慣れした身には比較的登りやすい方。ただしあくまで山道であるので豪雨となれば足下が保証の限りではない。

大分登ってきたところで最初に出くわすのが御茶屋場という小さい曲輪
 

 息を切らせつつ10分程度登ると御茶屋場にたどり着く。ここは詰めの城の大手口に当たる場所の曲輪で、いわゆる番所跡などとも呼ばれる場所と思われる。ここからがいよいよ詰めの城の城域となる。

さらに登ったところにある主水曲輪
 

 ここからさらに上がると主水曲輪にたどり着く。ここは斜面に数段に分けて作られた曲輪で、詰めの城の主要部と言える。ここから愛宕神社にはさらに登るが、ここからの道は険しさを増し、むき出しの天然石の岩場などを通ることになる。

さらに険しい道を登ることようやく愛宕神社に到着する
 

 雨がやや激しさを増してくる中、ようやく山頂の愛宕神社に到着。ここが一番奥の曲輪となるが、面積としてはそう広くない。ただ周辺は切り立っておりまさに要害。

 

 雨が激しくなってきたのですぐに戻ることにする。足下は既に水が流れ始めていて要注意。転倒しないように慎重に歩くことになるが、それでも何度か足が滑る。幸いにして転倒には至らなかったのは、最近のトレーニングで足腰を鍛えたのと、今回の遠征に備えて新しい登山靴を調達してきた賜物か。

左 上千畳  中央 一段下が下千畳  右 上千畳の西端までやってくる

左 土門跡  中央 その脇には矢倉台跡  右 土塁でしっかり囲ってある
 

 麓に降りてくると上千畳、下千畳の見学。こちらはその名の通りの広大な空間。ここならかなり大きな屋敷を築くことも出来るだろう。ここからさらに西に進むと土門跡、矢倉台跡があるが、この辺りが城域の最西端か。ここからと回って大門跡に戻ってくる。

  バケツをひっくり返したような雨

 なかなかに規模の大きい見応えのある城であった。これは余裕で続100名城クラス。鴫山城を後にすると次は「久川城」を目指すことにする。しかしこの辺りから周囲はバケツをひっくり返したような豪雨、その中を水をかき分けつつ疾走する羽目に。

   

 久川城は伊南川沿いの高地の上にある。裏側は滝倉川が流れる断崖となっていて、まずこの方向からの攻撃は考えられない構造になっている。久川城は蒲生氏が伊達政宗の侵攻に備えて築いた城と言われているが、まさに堅牢なる要塞である。

左 入口脇の城跡碑  中央 馬出跡がすぐ脇にある  右 その奥に登城路が
 

 大手馬出の手前に駐車場があるので、そこに車を置くと傘をさしての見学となる。馬出の背後の七曲がりを登ると南の丸の手前に出るが、ここからが城域ということになる。久川城は山上に曲輪が横並びになっている構造になっている。

左 最初にたどり着くのが南の丸  中央 そこから進むと  右 三の丸

左 三の丸と二の丸の間の堀切  中央 二の丸の奥に本丸も見える  右 二の丸
 

 南の丸の隣は三の丸。ここは結構な規模の削平地であり、となりの二の丸との間には深い堀切で分かたれている。

左 二の丸と本丸の間の堀切  中央 本丸  右 本丸周囲は土塁で守られている

左・中央 本丸北東の土塁と堀を回り込むと  右 広大な北の丸
 

 二の丸はさらに広い。その隣には土塁の囲まれた本丸がある。さすがに堅固に守られているという印象。本丸の奥には北の丸と呼ばれる広大な削平地があるが、本丸とは堀によって分けられている。

各曲輪の背後にはこの巨大な土塁が端まで続いている

 この城の縄張りの最大の特徴は、これらの曲輪の背後にそびえる巨大な土塁。これはそもそもは本来の山の地形を削り残したものだろう。これが背後からの攻撃を防ぐ巨大な壁となると共に見張り台や連絡通路の役割も果たしている。

 

 かなり見応えのある大要塞であった。並郭型の縄張りは単純に思えたが、むしろ全軍で敵を撃破するための鶴翼陣形のように思われて、戦闘意欲むき出しの城という印象であった。

 

 これで目的としていた山城の方は押さえた。後はもう一つの目的であるところの前沢集落を目指す。前沢集落は曲屋と呼ばれる形式の住宅が集まった山村であり、重伝建に指定されている。

 

 前沢集落に向かって国道352号線を走行。それにしてもかなり深い山の中の道である。途中でやや道幅が狭くなる部分などもあったが特に問題もなく前沢集落に到着する。

 

 観光用の駐車場に車を停めると見学の前にやや遅めの昼食を摂ることにする。ちょうど駐車場の脇に曲屋を使用した「そば処曲屋」があるのでそこで天ざるの定食を頂く。

 

 山菜の天ぷらやしっかりとした豆腐が旨い。また添えられている餅ははっとうと言って、そば粉と餅粉を混ぜた餅にじゅうねん(荏胡麻のことらしい)をまぶしたものであるが、これがさらに旨い。そばを堪能したところでデザートに期間限定のそばあられアイスを頂いて昼食は終了である。

   

 昼食を終えると入場料を支払って集落の見学に向かう。この集落は未だに住民がいるらしくほとんどの家は外から見学することになる。しかしそれが「生きている集落」という感じで実に良い。やはり町並みは住民がいてこそである。住民のいなくなった映画のセットみたいな町並みほど空しいものはない。

大内宿と違って普通の民家である

 良いところだな・・・という言葉が自然と出てくる。初めて来たのにどことなく懐かしさを感じさせるようなまさに日本の原風景である。何やらわざとらしく観光地化してしまっている大内宿よりは私的にはこちらの方が心が和む。

 

 前沢集落の見学を終えた頃にはそろそろ夕方になっていたので会津田島駅に戻ることにする。ただ途中で見かけた「駒寄城跡」という表示が気になったのでそちらに立ち寄ってみるが、登り路は鬱蒼としている上に、途中で道もない杉林にたどり着いてしまい、それ以上進むと帰路を見失いそうになったので途中で断念して撤退することに。

左 登り口からして未整備  中・右 一面の杉林で完全に方向を見失う
 

 レンタカーを返却して会津田島駅に到着したのは、生憎と鬼怒川温泉行きの列車が出た直後だった。仕方ないので駅内のレストランで時間でもつぶそうかと思えば、なんと4時には閉店(お役所かっちゅうねん!)。駅前に出たもののそば屋しかない(さすがにもうそばはいらない)。やむなく土産物などを購入しつつ時間をつぶすことに。

  

かつてこの辺りを走っていたらしきSLにマンホール

 よくやく1時間近く待ってから列車の発車時間。ホームには東武のものらしいと思われる二両編成の電車が待っている。そこそこの乗客を乗せて列車は定時に出発する。

    久しぶりに電車だ

 会津田島周辺は沿線は盆地の風景だが、直に山岳に変化する。しばらく進んだ会津高原尾瀬口駅は尾瀬観光の拠点らしく、トレッキングスタイルの乗客が大量に乗車してきて、車内の混雑度が一気にあがる。ここからは野岩鉄道のエリアになるが、かなり本格的に深い山の中で、駅を出た列車はすぐにかなり長いトンネルをくぐることになる。また野岩鉄道の車掌が検札に回ってくる。

最初は盆地だが、段々と山深くなってくる
 

 川治湯本温泉からは大量乗車。この辺りではダム湖の脇などを通りながら沿線の温泉地の乗客を拾い集める印象。野岩鉄道は国鉄において工事が凍結された後、第3セクターで開通した路線だが、少なくとも川治湯本温泉や湯野上温泉などにはこの鉄道が開通したことは非常に大きい。おかげで首都圏からのアクセスは格段に改善している。

左・中央 ダム湖を回りつつ山間の温泉地を結ぶ  右 湯西川温泉駅は地下駅
 

 新藤原で前に二両増結。ここからは東武のエリアになる。隣の鬼怒川公園駅辺りから鬼怒川温泉街が始まるが、沿線から見ても廃墟になっている巨大ホテルなどが目立つ。

  鬼怒川公園辺りから廃墟も目立つようになる

 ようやく到着した鬼怒川温泉はどことなく寂れている雰囲気を隠せないところがあった。かつては大リゾート地として繁栄したのだろうが、レジャーの多様化で没落したというムードである。駅から降り立った途端に直感的に感じたのは「あっ、熱海と雰囲気が似ている」ということ。日本の大温泉地でよくある共通の空気である。草津、別府、登別にはこの空気はなかったが、浅虫温泉には若干感じられ、熱海が最も強烈に感じられる。

 

 今日の宿泊ホテルだが伊東園ホテルのニューさくらである。正直なところ伊東園ホテルのレベルは知っているので避けたかったのが本音だが、鬼怒川温泉で宿泊しようとホテルを探したところ、旧態依然の「お二人様から」ホテルか、もしくは非常識なボッタクリ価格のホテルしかなく、消去法でエブリデーロープライスの伊東園ホテルになってしまった次第。何となくこの辺りにも鬼怒川温泉が衰退に向かいつつある原因が潜んでいるような気もする。

 

 ニューさくらは例によって大型ホテルを伊東園グループが買い取ったもの。ロビーなどはなかなか綺麗である。しかし部屋に入った途端に胸が悪くなるぐらいのタバコの臭い。コスト削減のために禁煙ルームは作りたくないのだろうが、それでも消臭対応ぐらいはあっても良いように思うが、伊東園の省力化経営の下ではそれさえも不要なサービスなのだろうか。いきなり伊東園クオリティに直面する羽目になってしまった。

 

 とりあえず部屋にいても胸が悪いだけなので入浴することにする。大浴場はなかなかに立派であるが、鬼怒川温泉の単純アルカリ泉の泉質はインパクトがなく、新湯とあまり変わらないような印象。この辺りが温泉にも本格志向が強くなってきている近年の流行にはそぐわないか。

 

 風呂からあがって一休みすると夕食の時間になるのでレストランに向かう。レストラン前で既に夕食の開始を待つ人だかりが出来ている。これが伊東園名物の「殺伐とした夕食バイキング」である。例によって料理はファミレスレベル。正直なところ外に食べに出ようかとも思ったのだが、もうその元気もないので適当に済ませて部屋に戻る。なお多くの宿泊客は飲み放題のビールにたかっていたが、伊東園ホテルではあえてビールサーバを一台しか設置せず、事実上それを改札制限にしている。コスト削減をいろいろと「合理的に」考えていることが見ていて分かるが、あまりに明からさますぎて嫌になることも多々ある。

  給食のような夕食バイキング

 部屋に戻るとすることがなくなる。伊東園ホテルのもう一つの特徴は、とにかく部屋に備品が全くないということである。と言うのも中国人観光客などは部屋に備品があると悉くそれを持ち去ってしまうから。持ち去られぬように最初から何も置かないというのが伊東園クオリティである。やはり万事が大陸的。

 

 しばしテレビを見ていたが疲れているし、今日も早めに就寝することにする。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 朝は6時半に起床。部屋の遮音が悪いせいで何度かドアの音や足音で夜中に目を覚まされたので若干の眠気が残っている。そこを無理矢理に目を覚ますとすぐに朝食を摂りに行く。朝食は夕食のように全員が殺到しないので殺伐度合いは和らぐが、料理自体はうまくない。朝食を済ませると朝風呂を浴びてからすぐにチェックアウトする。

 

 まあ大体予想はしていたが、やはり伊東園ホテルでの宿泊は快適とは言い難いものだった。設備は巨大ホテルのものを引き継いでいるのだが、根本的にメンテナンスを完全放棄しているというのが伺え、あらゆる設備が悉く埃っぽいという印象。キチンとしたホテルなどでは設備は古くても日常的に磨き上げているような印象があるが、伊東園ホテルに根本的に欠けているのは、そういう「手をかけている」という雰囲気。まあ手をかけない分料金を下げるという経営方針なのだから仕方ないが。次回の時はもっとまともなホテルにと思うが、多分鬼怒川温泉にはもう来ることはないだろう。

 

 鬼怒川温泉駅に到着すると新宿行きの特急スペーシアの乗車券を確保する。まだ8時台のせいか指定席はガラガラである。

特急スペーシアで移動する
 

 鬼怒川温泉駅を出た列車はしばしは山深い中を走っているが、すぐに平地に出てくる。下今市まで10分ちょっとである。ここは日光線との乗り換え拠点、乗り込んでくる乗客もそこそこいる。なお私は以前に東武鉄道で日光まで行っているので、これで東武線は完乗ということになる。

 

 さて今日の私の目的地であるが、まずは栃木を訪問する予定。栃木は蔵の町だが嘉右衛門町周辺が重伝建に指定されている。実は栃木は以前に訪問済みなのだが、その際に私が回ったのは嘉右衛門町よりやや南の観光中心の地域である。そこで今回は嘉右衛門町を見学する予定。

  栃木駅

 栃木でスペーシアを降り立つとロッカーに荷物を預けて市街に出る。栃木市内はコミュニティバスが走行しているのでそれで万町まで行くことにする。ここからは嘉右衛門町はすぐである。

レトロ調のコミュニティバス
 

 嘉右衛門町は旧街道沿いに商家が軒を連ねた町並みで、今でも往時の面影をとどめていることで重伝建に指定されている。町内にはこの地を新田開墾して町を開いた岡田嘉右衛門の屋敷が岡田記念館として残っているので見学する。

嘉右衛門町の町並み

 ここから少し離れたところに、大正時代に建てられた翁島別邸もあるので合わせて見学する。とにかく財力にあかせて各地の銘木を集めて贅を尽くして建てられた建物。今時の成金が金に物を言わせて真似をしようとしても残念ながらもうこれだけの木材の入手自体が不可能である。

岡田記念館内の代官所

こちらは翁島別邸
 

 岡田記念館の見学後はしばし町並みを散策。確かにレトロな建物がいくつか残っているのだが、大抵は普通の住宅になってしまっているという印象も受ける。栃木の町並み自体が、どこかに昔の建物が固まっていると言うわけではなく、普通の住宅地の合間に昔の建物が入り交じっているという形態の町になっているので、この地域も同様である。つまりは栃木の見所は嘉右衛門町だけではなく、栃木の町全体であるとも言える(どことなく喜多方なんかと似たような雰囲気がある)。

 

さらに町並みを散策

 嘉右衛門町の見学を終えると再びコミュニティバスで栃木駅まで戻ることにする。栃木駅に戻ってくると次の目的地は小山。しかし両毛線のダイヤを見ると次の列車までに40分以上時間がある。そこで駅前で昼食をと思ったのだが栃木駅前は想像以上に飲食店が少ない。ようやく見つけたラーメン屋「さえぐさ本店」冷やし中華を頂く。

 

 灼熱地獄の中だけにサッパリした冷やし中華がなかなかうまい。よく冷やし中華を頼むと冷麺ともラーメンともつかないさえないものが出てくることが多いのだが、ここの冷やし中華は料理として確立している。間に合わせで選んだ店だったがなかなか上々である。

   

 昼食を終えると両毛線で小山に移動する。小山に来た目的は小山城を訪問すること。小山自体は今まで何度か通過しているのだが、時間的な関係で小山城は未だに訪問できずにいた。これも長年の宿題である。

 

 両毛線のホームは小山駅のはずれにありとにかく遠い。ようやく改札を通過してトランクをロッカーにと思ったのだが、生憎とロッカーの空きがない。そこでやむなくトランクを引きずったまま小山城を訪問する羽目に。まあ山城ではなく、今は公園整備されているらしいからこれでも動けなくはないだろうとの判断である。

  小山御殿広場・・・全く何もない

 小山城までは徒歩で10分程度だが灼熱地獄が体力を奪う。小山城の手前に小山御殿広場との看板が立っている場所があったが、その名の通りただの広場があるだけだった。さらに歩いてようやく到着した小山城は完全に公園整備されているが、意外と往時の面影は残っている。

 

 小山城(祇園城)は正確な築城年代は不明で、一説では藤原秀郷が築いたとの説もあるとのことだが、記録上に現れるのは14世紀後半だとのこと。15世紀になって小山氏の本拠となったが、小山氏は上杉や北条と言った有力大名に攻められることになり、北条氏照の攻撃で落城、小山氏は追放されて小山城は氏照の手によって拡張整備されたとのこと。その後、北条氏の滅亡後は本多正純が城主となってこの城を完成させたが、彼がその後に転封となったことで廃城となったとのこと。

一番手前にある本丸は完全に公園化されている

左 本丸の土塁  中央 隣の曲輪に渡る橋  右 隣の曲輪の間には深い堀
 

 一番手前が本丸で、そこから堀切を経て奥に複数の曲輪が連なっている構造。各曲輪の間の堀切はかなり深い。川のすぐそばである立地を考えると、この堀切はかつては川とつながった水堀であった可能性がある。

隣の曲輪に渡るといきなり深い堀に区切られた馬出が目に入る

左 奥の曲輪  中央 さらに奥にも曲輪がある  右 橋を渡る

左 ここにも堀が  中央・右 この曲輪は起伏がある
 

 構造としては単純な城であるが、背後が思川で守られている上に、手前には何重かの堀を巡らせていたろうから十分な防御力は有している。ただ堅固かと言えばどうであろうか。

 

 予想外にしっかりした城であった。計算違いはトランクを引きずっていたために十分に歩き回れなかったこと。何しろ下が土や砂利なのでキャスターがめり込んだりひっかかったりで、トランクをほとんどぶら下げて歩き回る羽目になってしまって大幅に体力を消耗した。

 

 小山駅まで戻ってくると東京に移動である。東北本線で上野までだが、もう疲れがかなり来ていることからグリーン車を使用することにする。今はSuicaとICOCAが相互乗り入れしているのだが、なぜかこのグリーン券だけはSuicaでないと駄目らしい(ICOCAではグリーン券情報の部分に別の情報が書き込んであるとか)。そんなこんなで私は未だにSuicaとICOCAの両用使いになっているのだが。

 

 シートにもたれて半ばウトウトしているうちに気が付けば上野に到着である。とりあえず上野駅のロッカーにトランクを放り込むと東京での活動を開始することにする。まずは上野の国立科学博物館へ立ち寄って「深海展」を見学・・・と思ったのだが、なぜか博物館の前には大行列で2時間待ちとの看板が出ている。これはダイオウイカ効果か。NHKスペシャルがかなり評判になっていると聞いてはいたが、ここまでとは・・・。2時間もとても待っていられないので諦めて次の予定に向かうことにする。

 


「川合玉堂−日本のふるさと・日本のこころ−」山種美術館で8/4まで

 

 玉堂の生涯を通じての作品を展示。初期のかなり端正で硬質な印象の絵画から、独自の画風を確立した円熟期、そして晩年のかなり自由な筆致の作品まで玉堂の変遷を一望しつつ、彼が描いた日本の原風景を楽しむという展覧会。

 装飾性と写実性が入り交じっているのが玉堂の絵画であるが、その融合が自然になっているのが中年期以降か。この時期の作品は叙情性がかなり強く感じられるものなっていて味わい深い。晩年には技法的にはむしろ後退したような印象もあるのだが、それでも絵画として魅せるものがあるというのはさすが。やはり並の画家ではない。


 

 バスで渋谷まで戻ってくると別のバスで六本木に移動。本来ならこの辺りは私は近づきたくないエリアなのだが、今回は目的があるから仕方ない。それにしてもヒルズやミッドタウンは何度来ても好きになれない。

 


「谷文晁」サントリー美術館で8/25まで

 

 江戸時代後期の南画家で関東南画を確立したと言われている大家の展覧会。

 しかしこの人物、南画家と言いながら四条派、土佐派、さらには洋画の影響さえ受けており、非常につかみ所のない画家である。その作品も変幻自在、縦横無尽というか、同じ画家の作品と思えないぐらいに画風の異なる作品も入り交じっており、とにかくつかみ所がない。本展のキャッチが「この絵師、何者?」というものだが、実際に彼の作品を見ると一番に出てくる感想がまさにそれ。狩野派的な装飾的絵画を描いていると思えば、どう見ても洋画な作品もあったりして幅の広さは尋常ではない。

 また彼が残している作品の中には名山図譜などもあるのだが、これがまた四条派的な写実と南画的な誇張が入り交じったなかなかに独特の作品になっている。とにかく懐の深さというのが半端ではないということを感じさせる画家で、怪しげであるが面白い。


 

 これで本遠征の全予定が終了である。とりあえず夕食は地下の平田牧場でトンカツの定食を食べたが、トンカツはうまいがご飯と味噌汁がまずかったのはいかにも東京。夕食を終えると地下鉄で上野に移動、トランクを回収してから帰途についたのである。

 

 結局は磐越西線と鬼怒川線の乗りつぶしが目的のような遠征になってしまった。本遠征を通して記憶に残ったのは、南会津の見応えのあった山城、東山温泉と湯野上温泉での飯のうまさであった(笑)。ただ南会津には良い温泉が多々あることが印象に残り、やはりこの地域の観光ポテンシャルはかなり高いということを感じた。がんばろう東北である。

 

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