展覧会遠征 山口編2
さてこの週末だが、今週は山口を訪問することとした。目的は山口県立美術館で開催中の展覧会。さらに数年前から宿題として残っているのがSLやまぐち号の乗車である。今まで何度もトライしながらもことごとくチケットの確保に失敗していたのだが、今回はなぜかスムーズにチケットを確保できたことから長年の懸案事項の解決となった次第。さらにもう一つの宿題として、山口の高嶺城の訪問がある。これは昨年の九州遠征の帰りに立ち寄ったものの、既に九州一周と秋吉台散策の疲労から足が上がらない状態になっており、駐車場周辺の見学で終わってしまって城の本体が未訪問になっていた次第。仕事上の課題は先に持ち越しても、プライベートの課題は早急に解決するというのが私の信条(笑)。この際に一泊二日で山口方面の課題をまとめて解決しようと重い至った次第。
交通手段は新幹線を用いることにした。現地での移動を考えると車が欲しいところだが、SLに乗車するという目的がある以上その発車時間に遅滞なく現地に到着する必要がある。そうなると車での移動となると距離がかなり長大になることから時間が全く読めない。ここは安全策を取った次第。
土曜日の早朝に出発。さくらとのぞみを乗り継いで新山口を目指す。さくらはJR九州の新造車両らしく木目調の和のテイスト。シートの背面が高いのでかなり区切られているという印象が強い。また2+2シートなのでシート幅が広くて快適である。
さくらの車内は和のテイストです これに比べるとのぞみの2+3シートは狭苦しくて不快。東京移動の度に常々感じているが、やはりのぞみは長時間の移動に向いているとは言い難い。
岡山で乗り換えてから新山口には1時間ほどで到着する。トランクをコインロッカーに収納すると在来線ホームに移動。SLやまぐちは1番線に到着するので新幹線とは真反対側のホームになる。
やまぐち号がバックで入線 ホームに到着した時にはちょうどSLやまぐちが入線してくるところ。ホームには乗客がごった返していて独特の熱気がある。そこに煙を吐きながらSLがバックで到着。ホームの興奮が一挙に最高潮に達し、一斉にシャッター音が鳴り響く、またSLの撮影のために前方に走る者も多数。私も撮影に赴くが、SLの周辺は観客の熱気だけでなく、SL自体が発する熱気もかなりあり暑苦しい。
SLやまぐちは客車ごとに昭和風、明治風、大正風、欧風、展望車風と趣が違う。往路で私が乗車するのは2号車欧風客車。シートの背が非常に高いので、4席単位の個室のようなイメージのある車両である。ただその分見通しが悪いので、風景のパノラマというわけにはいかない。
左 大正風客車 中央 明治風客車 右 昭和風客車 左 欧風客車 中央 展望車風客車 右 展望室とデッキ 欧風客車車内 時間が来るとSLは重々しく出発。最初の内は沿線はただの都会なので風景的にも見るところはない。朝食を食べてから大分経っているので腹が減っているので、とりあえずさっき新山口で弁当を購入しているのでそれを頂く。
SLは結構だが、やはり客車は「引かれている」感が強く、ゴトゴトといった揺れは決して快適とは言い難い。沿線にはカメラを構えた撮り鉄と手を振る子供が多いのはよくある風景。山口までは平地の走行だが、山口を抜けた辺りから山岳地帯にさしかかる。すると覿面に走行速度が落ちると共に煙の量が増えてくる。外の撮影隊の動きも活発になる。
左 新山口駅の転車台 右 沿線風景
仁保駅での撮影タイム 地福駅での撮影タイム 途中で何度か撮影タイムともなる長時間停車を経て、津和野に到着したのは1時頃。2時間強の列車旅である。SLの旅は風情はあるのだが、乗ってしまえばただの鈍い列車というのも事実だったりする。津和野に到着した頃には結構疲れていた。
左 津和野に到着 中央 津和野駅の転車台 右 津和野駅 左 津和野駅前 中央 SLは一端移動 右 津和野駅前のD51 久しぶりの津和野である。特に何があるというところではないが、やはりこの町はどことなく落ち着く。なお最近になって津和野の城下町が重伝建地区に推薦されたとのこと。遠くない将来に重伝建指定になるだろう。
久しぶりの津和野市街 昨日は関西一円が台風に刺激された梅雨前線による豪雨でJRのダイヤが軒並み壊滅していたのだが、今日は一転して好天。SLも時間通りに運行している。やはり日頃の行いの良い者はこういうところで現れる(笑)。青い空に津和野の町並みが映える。ただいささか日差しが暑くはある。
落ち着く町並みの散策と洒落込むところだが、その前にとりあえず昼食にしたい。津和野と言えばコイの町。これは恋の町ではなくて鯉の町である。やはり鯉を食べたいところ。と言うわけで最早馴染みの感がある「遊亀」に直行する。注文するのは迷うことなく「鯉定食(2300円)」。
まさに鯉尽くし 鯉の洗いに鯉コク、鯉の唐揚げに椀ちりに甘露煮と鯉のフルコースである。鯉は臭くて食えたものでないなどとしたり顔で言う輩もいるが、それはまともな鯉を食べたことがないと白状しているようなもの。適切に育てて適切に調理した鯉は、そこらの海の魚が太刀打ちできないぐらいうまい。とにかく味が強くて旨みが濃厚なのである。その濃厚な鯉を酢味噌でさっぱりと頂くあらい。また濃い味付けでじっくりと煮込んだ甘露煮。いずれも絶品である。鯉は小骨があったりするのだが、それさえもバリバリと楽しめる。
趣のある町並み 昼食を堪能し終わると「さあ、これで今回の遠征の目的も終えた」という気になってしまう。しかし実際は何もわざわざ津和野に鯉を食べに来ただけではない(笑)。ようやく津和野市街の散策に移る。よくよく考えてみると、今まで津和野は数回訪問しているが、美術館回りがメインだったり、津和野城訪問がメインだったりなどで町並みをじっくりと回った記憶はない。改めて町並みを回るのは今回が初めてである。鯉が泳ぐ水路に武家屋敷が並ぶ町並みはかなりの風情がある。ちなみに泳いでいる鯉がややメタボ気味なのだが、これは観光客が与える餌と運動不足のせいとか。
教会などもある武家屋敷通 水路の鯉が少々メタボなのはご愛敬 津和野は山陰の小京都を名乗り、観光にかなり力を入れている。だから飲食店や土産物屋も多い。ちなみに津和野名物と言えば餡巻きである源氏巻。ただ今回は源氏巻ではなく抹茶蒸しドラをぱくつきながらの散策である。
抹茶蒸しドラうめー
民俗博物館を覗いたりなどしながら町のはずれまで来ると、そこに妙な被りものをした像が立っている。「鷺舞」の像とか。この地域の神事として伝わっている舞踊らしい。なるほど私はやけに津和野と相性がよいと思っていたが、道理でもしかしてご先祖の因縁でもあったのか。
鷺舞の像
町並みを一回りして駅まで戻ってきたら、ちょうどSLが転車台で反転して戻ってくるところだった。
転車台から戻ってくるSL しかしまだ帰りのSL出発までには40分程度の時間がある。結構疲れたしお茶にでもしたいと思って引き返す。しかし生憎と喫茶店は休業中。そこで見つけた「ちしゃの木」に入店。ここはそもそもそば屋のようであるが、そば関係のスイーツも扱っている模様。注文したのは「そばがきぜんざい(630円)」。
どこの小豆を使っているのか分からないが、小豆の味が良くてうまい。そばがきは伸びない餅というイメージ。悪くはないがやはり私は餅の方が好き(身体にはそばがきの方が良いとは思うが)。甘物を堪能して駅に戻ると直後に改札が開始されたのでホームに入る。
帰りは1号車の展望車である。車内の雰囲気は往路の欧風客車と似ている。ただ今回は機関車のもろに隣なので汽笛の音などがよく聞こえる。やはりSLの旅はこの方が抜群に風情がある。
復路は展望車側にSLが連結されるのでデッキは閉鎖されている 津和野駅を出るとすぐに車窓から山上の津和野城の石垣が見える。こうして下から見上げているとまた登りたくなる。津和野は特に何があるというところではないのだが、なぜか来る度に心惹かれ、去る時には何か名残惜しくなる。
津和野城 ただ何だかんだ言っても帰りの行程は消化試合であることは否めない。またやまぐち号自体そういう構成になっており、往路では数回の撮影タイムがあったが、復路はその手の時間がほとんどない。まあ実際にその手の時間があっても車外に出るつもりはないが。遅い列車に揺られている内にウトウトとしてくる。
新山口駅でSLとお別れ
定刻通りに新山口に到着するとここでレンタカーに乗り換えである。駅レタンカーを24時間借りているのでこれで今日の宿泊ホテルまで移動することにする。借りたのは例によってヴィッツ。大分ノートに慣れた今となっては、ハンドルの感覚がかなり鈍く感じられるのといかにもパワー不足が目立つ。
今日は湯田温泉で宿泊の予定。しかし湯田温泉に到着した時にはまだ日が高い。そこでホテルにチェックインする前に一つ予定を消化しておこうと考える。
湯田温泉を通過すると瑠璃光寺まで走る。瑠璃光寺には国宝に指定されている五重の塔があるのでそれを見学する。瑠璃光寺は大型駐車場が完備されていて、観光拠点のようになっている。入場は無料である。
瑠璃光寺五重塔 瑠璃光寺の五重の塔は庭園の中に建っている。地味な建物だが、それが背景の緑と組み合わされると非常に映える。今まで見た五重の塔の中でも最も美しいのではないかと感じられ、思わず見ほれてしまう。久々に建造物に圧倒された。
毛利家墓所 五重塔を見学した後は軽く本堂を参拝してから、隣の毛利家の墓所を訪ねる。ここの参道には「うぐいす張りの石畳」と呼ばれる石畳があるのだが、それはそこで足音などを建てると周囲からの反響などでエコーが聞こえるというもの。試しに手を叩いてみたが、どこからともなくビンビンという感じの音が響く。ただこれはどう考えてもうぐいす張りとは違うだろうと一人ツッコミを入れてしまう。
瑠璃光寺の見学を終えた頃には日も西に傾いてくる。ホテルにチェックインすることにする。今日の宿泊ホテルは梅乃屋。現地に到着してみると私が予想していたよりも大きなホテルなので驚く。
ホテルにチェックインするとすぐに夕食に出かけることにする。ホテルで夕食付きプランにしていなかったのというのは、今晩は和食の気分ではないだろうと予想してのことだが、確かにガッツリ肉を食べたい気分である。調べたところホテルのすぐ近くにおあつらい向きの店があるのでそこを訪問する。
入店したのは「炉舎」。炭火焼ハンバーグの店とあり、ハンバーグやステーキなどの店である。
注文したのは「国産牛のサーロインステーキ(200g)」。これにサラダとライスを付けた。肉はどうやら宮崎牛の模様。一口放り込むなり「うめー」という言葉が出る。まさに今日はこういうものを食べたかったところ。牛肉を堪能して帰ったのである。
ホテルに戻ると入浴。ここの大浴場は湯田温泉の源泉に自家源泉をまぜた掛け流しだという。湯田温泉は湧出温度が高く70℃ほどあるので、それに29℃の自家源泉を混ぜて温度管理しているらしい。なんとなく温泉を井戸水で割っているのと同じような気もするが・・・。ちなみに同じく源泉温度の高い嬉野温泉などでは、わざわざ冷却塔で温度を下げていた。
湯田温泉と言えば白狐
湯田温泉の泉質はアルカリ単純泉。肌にしっとりと来るやさしい湯である。このホテルでも美肌の湯を名乗っているが、確かになかなかの湯ではある。今日はあまり歩いたつもりもなかったのに、気がつけば1万4千歩を越えていて体がクタクタである。その体を湯でほぐしておく。
風呂から上がって部屋に戻ると布団の上に寝ころびながらぼんやりとテレビを見る。しかし疲労が半端ではないので「美の巨人たち」が始まった頃には意識が遠のきかける。そこでさっさと就寝することにする。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時過ぎまで爆睡したが、目覚ましをセットした6時半前には自動的に目が覚める。目が覚めるとまずは朝風呂である。朝寝・朝酒・朝湯で身上をつぶすというが、朝酒はともかく、確かに朝寝と朝湯は快適である。
朝風呂を終えて戻ってくると朝食。朝食は一般的な和定食であるが、品数も多いしうまい。やっぱり日本人だよなと思う瞬間である。
昨日はかなり天気が良かったのだが、今日はどんよりとしていて雨が降り出しそうな気配があり、天候次第では今日の予定に響きそうである。とりあえず行動開始は早いに越したことがなさそうだ。8時にチェックアウトするとまず最初の目的地を目指す。
今日最初の目的地は「高嶺城」。以前からの宿題である。前回訪問した時には国道からの入口が分からずに困ったが、今度はスムーズにたどり着く。ただもし対向車がやってくると万事休すの1.0車線は相変わらず。とにかく対向車が来ないことを祈るのみ。
前回訪問時には人を見かけることがなかったのだが、今回は徒歩で登っている人を多数見かける。どうやら地元では格好の朝のウォーキングコースになっている模様である。確かに下で車を置いて歩いて登れば運動量十分であろう。しかし運動目的でない私は軟弱にNHKのアンテナのところまで車で登る。
アンテナの前に車を置いて登り始めるとすぐに休憩所に到着した アンテナの前に車を置いたらいよいよリターンマッチである。前回は途中で足が上に上がらなくなる事態になったが、今回は昨日の疲労はいくらかあるものの足取りが軽い。前回挫折して引き返した地点まですぐにたどり着く。そしてさらに進んだら分かったことは、前回の挫折地点から10メートルも進めば休憩所にたどり着いていたということ。
市街地を一望
さらに本丸まではそこから二登りぐらいで10分程度であった。この程度だと分かっていたなら、前回の時にも少々無理をしていたら登れたかもしれないという考えが頭をよぎる。ただあの時は足腰が本格的にヘロヘロだったことから、無理をしていたら予想外の不覚をとった可能性も考えられる。やはりあそこで撤退の判断はやや慎重ではあったが、間違ったものではなかろう。まあ「石橋を叩きまくって渡らない」と言われている私である。そんなもんだろう。
高嶺城は大内氏の詰めの城として建造された山城で、普段は麓の館で居住し、一朝事があった時には山上の城に籠もるということになっていたようだ。築城したのは大内義長で、大内氏の実権を握っていた陶晴賢が厳島の戦いで破れて大内氏の勢力が大きく減退したことから、毛利元就らの侵攻に備えるために築いたものであるという。しかし毛利元就の侵攻は高嶺城の完成よりも早く、大内義長はこの城を捨てて勝山城に逃亡することになり、最後はその地で果てたとのことである。その後、高嶺城は毛利氏によって完成され、毛利氏による山口支配の拠点となったという。毛利軍が九州の大友攻めに出た隙をついて、大友氏の支援を受けた大内輝弘がこの地に侵攻した際には、不在の城主に代わってその妻が配下を率いてこの城を守り通し、結果として大内輝弘は反転してきた毛利軍に敗北して自害している。このような激しい戦をくぐり抜けた高嶺城だが、その後に例によって一国一城令で廃城となっている。
左 さらに登る 中央・右 山上の曲輪はかなり奥深い 左 この上が本丸 中央 本丸虎口 右 本丸に到着 本丸風景 山上の曲輪は結構広く、その奥にさらに一段高い本丸がある。本丸自体はそう極端に大きいというほどではないが、本丸周辺には石垣も残っている。本丸の裏手にも曲輪があり、そこからは本丸のかなり大規模な石垣を見ることが出来る。
左 本丸横を回り込む 中央 井戸と石垣 右 ポンプが付いているということは今も水が湧くのか 左 本丸横の曲輪 中央・右 本丸の石垣 大内氏が必死になって築こうとしていた城だけあって、なかなかの規模の堅固な城郭であった。この城が完成していれば大内義長ももう少しは抵抗できたであろうか。
高嶺城を見学した次は本遠征の主目的でもあった山口市立美術館を訪問する。
「ナント美術館名品展−フランス近代美術の輝き−」山口県立美術館で7/7までフランス西部の古都・ナント。そのナント美術館の所蔵品の中から19世紀から20世紀にかけての絵画を展示。
年代的にはロマン主義辺りから印象派などを経て、近代絵画に至る年代に当たる。日本では知名度的には印象派が抜群で、モネやルノワールなどのネームバリューの高いところの画家の作品も含んでいるが、どちらかと言えばそちらよりもやや古い年代、ジェロームの作品が展覧会の看板になっているが、この辺りの年代の作品に優品が多い。残念ながら浅学の私には聞いたことのない名前が大半であったのだが、肖像画・風景画などに心惹かれる作品が多数。こういう作品を見ていると、印象派が登場当初「未完成の絵画」と叩かれた理由も納得できたりするから不思議である。
新しいところではデュフィにレジェにレンピッカなんてところまで含んでいて多種多彩。そう言う点では確かにフランス近代絵画を概観するという主旨にも沿ってはおり、そういう面からの興味も持てる。
なかなかに見応えのある展覧会であった。山口まで来た価値があったというものである。満足して美術館を後にすると次の目的地を目指す。次は萩往還の近くにある錦鶏の滝。山口の三名滝に挙げられる滝である。
萩往還
県道62号線を北上すると、途中で案内標識があるのでそこから脇道にはいる。すぐに看板と駐車場があるのでそこに車を停めて歩く。もっと近くにも車を停めるスペースはあるのであるが、スペースが小さい上に途中の道も狭いのでここから歩いた方が無難である。10分も歩くと雌滝と雄滝の分岐に到着。まずは遠い方の雌滝を目指すことにする。
看板に従って雌滝を目指したのだが、道なき道を進む羽目になる しかしこれが失敗。ここから先は道なき道になり、川沿いの足を滑らしたらまず無事には済まないようなところを歩くことになる。道は悪いし(というか、そもそも道なのかという疑問さえ湧く)、足下が濡れているので危ないことこの上ない。私は山城攻めの続きで簡易ハイキングシューズに登山杖という装備なので問題ないが、まかり間違って普通の観光客が入り込んだらとんでもないことになるのではないかと思われる。
雌滝 ようやく雌滝に到着。まずまずの滝だが驚くほどの滝ではない。以前にネットでこの滝について調べた時、散々な目にあって到着したのにがっかりしたという記述を見かけたことがあるが、どうやらこの滝のことのようだ。私は別にがっかりまでしなかったが。
雄滝 再び危ない道を引き返すと、今度は雄滝の方に向かう。こちらは山道ではあるが整備されていて足下に問題はない。しばらく進むとかなりの高さの滝に出くわす。こちらの方はなかなかの見応えである。高さは60メートルとか。
滝を堪能すると引き返す。すると先ほど雄滝の方に私の先客として来ていたかわいい女の子四人組(大学生というところか)が看板のところで雌滝の方をどうするか迷っていたので、その靴だと絶対無理だから止めておくようにと言っておく。とてもではないがパンプスで歩けるような道ではない。
錦鶏滝の次は今は龍福寺となっている大内氏館跡を訪問。発掘によって発見された庭園や土塁の一部などが復元されている。先ほどの高嶺城はこの館の詰めの城だったのである。
左・中央 大内氏庭園 右 井戸 左 竃跡 中央 建物跡 右 石組み水路跡 次もさらに大内氏関連史跡で凌雲寺跡を訪問する。ここは今では小さな祠を残して全体が完全に畑になってしまっているが、南端の惣門の遺構と言われる石垣が残っている。かなりの部分が崩れてしまっていると言っても相当に大規模な石垣であり、ここが寺院と言いつつも実質的には城砦の役を為していたということが伺える。
左 凌雲寺跡遠景 中央 片隅に残る碑 右 ほとんどは畑となっている 忽然と現れる巨大な石垣 凌雲寺の次は近くの龍蔵寺にある鼓の滝を見学。これも山口の三名滝の一つである。龍蔵寺はペット供養があったりかなり手広くやっている印象の寺院で、しっかりと拝観料を徴収される。鼓の滝は本堂の横にあり、これもなかなかのもの。奥の院に上がる道があったのでそこを登って見学。なお奥の院の見学は道がかなり悪い上に足下が滑るので断念。そもそも私は信心は持ち合わせていないし。
左 龍蔵寺山門 中央 本堂 右 鼓の滝の前の巨石は人為的に据えたものとか
上から見下ろした光景 鼓の滝 上流部 山口の三名滝の二つを見学したなら、後の一つも見学したいところなんだが、どうも調べても三つ目が何なのかがハッキリしない。よくある日本三大○○の類で「言ったもの勝ち」という口か。とりあえずこの辺りではないかと目を付けた鳴滝を訪問することにする。
凄まじい山容と鳴滝公園 国道262号線を南下、中国自動車道の山口ICを過ぎた先の左手に案内があり、鳴滝公園として整備されており駐車場もある。目の前には岩肌むき出しの凄まじい山容が迫るが、そこから流れ出しているのが鳴滝。
中原中也の石碑と鳴滝 この滝は三つあり、公園の近くにあるのは一番下の滝だとか。しかし上に上がる道が分からなかったのでこれだけを見て終わりにする。高さはそれほどに感じなかったが、なかなかに水量の多い滝である。
この近くに鳴滝温泉なる施設があると聞いたので立ち寄ろうと考えていたのだが、どうやら閉鎖されている様子。やはり名湯湯田温泉が近いだけに苦しかったか。仕方ないので先を急ぐことにする。最後の目的地は徳山の「若山城」。
しかし防府市にたどり着いた頃から天候が怪しくなってくる。かなり低い雲がたれ込めてきて、山の頂には雲がかぶっている状態。これはいつ雨が降り出すか分かったものではない。天候に追われるようにして国道2号線を東に急ぐ。
案内に従って山道に折れるとそこは真っ暗な道。しかも道幅が狭いので対向車が来たら万事休すになりそうである。地元有志が管理しているのか、山道には俳句とも短歌とも付かない札がたくさんぶら下がっているのだが、正直なところこの天候にこの道では不気味さを増しているだけである。
左 駐車場になっているのが二の丸 中央 奥が三の丸らしい 右 やや戻ったところに本丸登り口 しばし山道を走行、幸いにして対向車に出くわすこともなく山上に到着する。山上には駐車場があるが、ここが二の丸及び三の丸になるらしい。本丸はやや戻ったところから登り口がある。
若山城は陶氏の城であるが、大内義隆と対立して謀反を決意した陶晴賢が大規模に整備したという。しかし陶晴賢が厳島の戦いで毛利元就に敗れて自刃、その後の毛利の侵攻でこの城も落城、毛利氏が廃城にしたとのこと。
左 本丸へ登る 中央 登り口脇には細かい段差が 右 鳥居をくぐる 左 本丸に到着 中央 あちこちにこの手の札がかかっている 右 生憎の天候だが眺めはなかなか 本丸に登るのにはそう時間はかからない。本丸はそう大きくはない建物が建つ程度のスペース。またここからの見晴らしはよい。
本丸北側にある畝状竪堀群 この城の一番の見所とも言えるのが、本丸の北側に連なる畝城竪堀。大小26本あるとのことだが、北側斜面が凸凹になるぐらい掘られてある。
左 本丸西側の急斜面を下る 中央 分岐を西に進む 右 陶の道の表示が 左 西の丸の石垣 中央・右 西の丸 西の丸の先に蔵屋敷跡があるが、鬱蒼としていて踏み込めず ここを抜けて西側に降りていくと西の丸跡。ここには石垣も見られる。さらに進むと蔵屋敷跡だが、ここは鬱蒼としていて踏み込めず。
そう大規模というような城郭ではなかったが、結構見所のある城郭だった。陶晴賢がここを拠点にして目指していたものは何だったのだろうか。安芸の支配、それとも天下を窺うつもりだったのか。下克上の野心家のように言われることも多い彼であるが、私の印象ではどうも彼自身が大きな野望を抱いていたと言うよりも、主君の大内義隆が駄目すぎたので自衛のためには排除せざるを得なかったというだけのような気がする。大内家は重臣同士の内紛も多すぎるようであるし、到底天下を窺うような余裕もなかったろう。もし天下を窺うとしたら彼の息子の代ぐらいのような気がするが、何にせよ陶晴賢は厳島で散り、大内氏自体もそれから滅亡へと向かうのである。
これで計画していたスケジュールはすべて完了である。まだレンタカーの返却予定時間まで1時間以上あるが、いよいよ雨がぱらつき始めたし、さっさと帰宅することにする。徳山駅前に車を返却すると帰途についたのである。よくよく考えてみるともう夕方近くになっているのだが、今日は昼食を摂っていない。結局は新幹線内で購入した弁当がこの日のかなり遅れた昼食と相成った次第。
山口地域における宿題を片づけた遠征。どうも今年の遠征はこの「宿題を片づける」ということが課題になっている遠征が多い。それは相次ぐ遠征で国内的には既に未踏の地はほぼなくなっているという現状がある。これからはどうするか。豊臣秀吉よろしく海外に討って出るなんて手もあるが、それこそ収拾がつかなくなるのでそれはするつもりはない。のんびりとどこかの温泉で「老後」でも送るというのが良いのであるが、正直なところまだそこまで枯れてもいないし・・・。
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