展覧会遠征 南丹編
GWは車による東北一周の大遠征を実行したのだが、それから帰宅した先週末、疲労が溜まったわけでもないと思うのだがタチの悪い風邪で寝込んでしまった。とにかく高熱が出て異常に消耗するという風邪で、今週に入ると熱も下がってとりあえず治ったと思ったのだが一向に体力が回復せずに週の前半はヘロヘロの状態で、ようやく体力も回復してきたのは週の終盤になってから。そこでこの週末、体力の回復度合いを測る意味合いも兼ねて以前より気になっていた丹波地域の城郭を訪問することにした。
目的地は八木城。先日に訪問した黒井城、八上城に次ぐ丹波三大山城の最後である。ただその前に通り道である篠山市福住の重伝建地区に立ち寄ることにする。
福住は旧西京街道沿いに伸びる市街地で、旧宿場町と農村集落の町並みということで重伝建登録されている。結構東西に長い地域であり、地域によって特色が異なるようだ。
まずは篠山市役所多紀支所の駐車場に車を停めて福住地区を一回りする。この辺りはまさに宿場町だったようで、町家形式の民家が多い。
いかにも宿場町風の福住地区の町並み 次は少し東に走って川原地区を見学する。こちらは福住よりも住宅間隔がまばらで、農村集落の様相が強くなってくる。一軒一軒が結構規模が大きく、豊かな農村というイメージである。背後の山なども含めて風景が非常に美しい。
川原地区は福住地区よりもやや農村の雰囲気 さらに東に走ると安口地区になる。ここになるとさらに農村色が強まる。ただし家が非常に立派なのは同じ。なおこの北部に安口城なる城跡があるとのことが現地案内資料に記載されていたのだが、実際に現地を訪問するとその山上へのアクセスルートが判然としなかったことから諦めて現地を後にすることにした。後の調査によるとどうやら山の西側に登り口があったようだ。私は東側に回り込んだので逆だった。
安口城はこの山上とのことだが・・・
さらに農村度の高まる安口地区 福住の見学を終えたところで南丹市を目指して東進する。この辺りは県境が複雑なところで、篠山も南丹も旧丹波の国に属するのだが、現在では前者は兵庫県、後者は京都府に分割されている。だから丹波三大山城も黒井城と八上城は兵庫県だが、八木城は京都府の所属になる。
八木城に直行する前についでなので「園部城」に立ち寄る。園部城は由来については謎の部分も多いようだが、ハッキリしているのは近世に城郭が築かれて江戸時代にも園部陣屋として存続したということ。もっともその城域のほとんどは今では高校の敷地になってしまっているとのこと。
高校のグランドと小麦山
現地に到着すると確かにいかにも城跡だろうと思わせる高校がある。そこをさらに進むと怪しい天守風建物があるのだが、これは国際交流会館なる建物。園部城には天守はなかったということなので典型的なインチキ天守である。なお内部に入ってみたが、あまり有効に利用されている雰囲気はなかった。
園部城のインチキ天守
この建物の隣にあるのが南丹市立文化博物館。私の訪問時には地元の考古的展示に合わせて、企画展として京都を描いた日本画の展示が行われていた。絵画としてはどちらか言えば芸術的に云々よりも、京都の風景を単純に楽しむような作品が多かったような。
南丹市立文化博物館
なお城の裏手の小麦山にも登ってみたが、山上には忠魂碑とフェンスで閉鎖されたエリア(植物相の保存でもしているのだろうか)があっただけで特に何もなかった。
園部城を後にするといよいよ「八木城」に向かう。八木城はキリシタン大名であった内藤ジョアンゆかりの城として知られている。三好氏の陣営に属していた内藤氏の家督を若年で引き継いだのがジョアン(如安)だが、足利義昭について織田信長に反抗したことから明智光秀の攻撃で八木城は落城している。その後のジョアンは小西行長に仕えるが、キリシタン追放令が出た後に高山右近らと共にマニラに追放されている。その間に八木城自体は歴史の狭間で埋もれてしまい、廃城時期なども明らかではないとのこと。
何やらジョアンの碑が立っていました
JR八木駅と京都縦貫自動車道の間の路地を車でウロウロしていると、自動車道を潜るトンネルに「なんちゃって城門」細工のあるところがあるので、その手前で車を置いて徒歩でそのトンネルを潜った先が八木城の登山口である。
インチキ城門を抜けて進むと登山口に到着する 登山道は整備されており、地元の学生によると思われる本丸までの案内看板も出ているので登山には特別な困難はない。ただ登りに入ってすぐに私は失敗に気づく。もう既に三時前になっているにも関わらず、未だに昼食を摂っていなかったことから身体がガス欠になりかかってきたのである。しかもこんな時のためのお守りがわりのブラックサンダーも今日に限って持参していなかった。結局は登りの途中でかなり身体がヘロヘロになってしまった。それでも今更引き返す気もしないので、最大限足下に注意しながら(まかり間違って転落したら洒落にならない箇所は数カ所あった)先に進む。
登山道を登っていくと対面所跡の分岐へ 最初にたどり着くのは対面所跡と表示されている削平地。対面所の意味がよく分からないのだが、病院の対面とは意味が同じわけではないので、城に入る者を監視する番所のようなものがあったというところだろうか。実際、登城筋を押さえる要地にある。
対面所跡 この対面所がちょうど本丸までの中間地点ぐらい。ここからも登りはかなりつらい。ようやく本丸にたどり着いた時には息も絶え絶えだったが、なんとか20分強程度で無事にたどり着くことが出来た。
かなり危ない部分もあったが、何とか山上にたどり着く 左 本丸はこの上 中央 本丸風景 右 土塁もある 左 本丸からの眺め 中央 本丸一段下の曲輪 右 この下は金の間 本丸からはなかなかの絶景であるので、それを楽しみながら一息つく。ただお茶は当然のように持参しているが、食料がないのは失敗。空腹が限度を過ぎて目眩がしないうちに城の見学を済ませておこうと考える。
しかしこの城郭、本丸にたどり着くまでは親切な看板が立っていたのだが、いざ本丸に登ってみると城全体の構造がよく分からない。曲輪跡らしき削平地は多々あるのだが、それが案内図にあったのどの曲輪と対応するのかが今一つ明確でない。最初に二の丸方向を目指して直進したつもりだったのだが、どうやらその時にたどり着いたのは二の丸ではなくて北の丸の方向だったようだ。
北の丸方向 北の丸手前の堀切のところと思われる場所で引き返し、二の丸方向らしきところを進む。こちらも二の丸手前の堀切ははっきりと分かったのだが、そこから先はダラダラと曲輪が続く状態でどこが二の丸かは判然とせず。どうやら八木玄蕃の館跡の先まで行ったと思われた場所で引き返し、下山に移ることにする。
二の丸方向は堀切から先、ひたすらダラダラした曲輪が続く 時間的にも体力的にもあまりに余裕がなかったために下山を急いだことから、結局は八木城の全体構造は今一つハッキリとつかむには至らなかった。ただとにかく規模の大きい山城であることだけは確認できた。私のような素人のために出来ればもっと山上の案内看板を充実して欲しいところである。
八木城を後にすると、とりあえずジュースで当面のエネルギーを補給してから帰途についた。しかし京都縦貫道経由で選んだ帰りルートは大失敗。名神が吹田JCTの手前で緊急工事とのことで大渋滞。ここで時間と体力の大幅な浪費を余儀なくされたのである。結局は西宮SAでようやく昼食にありついた時には、昼食ではなくて夕食の時間になってしまったのである・・・。
大渋滞に遭遇
これで丹波地区の三大山城制覇である。八木城も黒井城や八上城に劣らぬ大規模で堅固な山城であったが、それでも結局は明智光秀の攻撃により落城しており、城を守るのは単純に城の堅固さだけではないことを物語っている。なお八木城の来歴について不明な点が多い理由は、内藤ジョアンがキリシタンだったことからキリシタン追放令に絡んで多くの史料が廃棄されたためだという。古代ローマ皇帝に対して記録抹消刑というものがあったというが、まるでそれを連想させるエピソードである。なかったこと、いなかったことにされるのが一番悪辣な処罰か。近年ではWindowsVISTAがそれに当たろうか。もう少し古いところでは宇野総理というのがいた。
ところで今回の遠征は体力の回復度合いを測るという目的もあったのだが、無事に本丸までたどり着けたことで体力はそれなりには回復していることは確認された。しかしこの翌日、今まで体験したことのないような強烈な両足のだるさに襲われ、まだまだ本調子からはほど遠いことも同時に確認されることにもなってしまったのである。
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