展覧会遠征 東北大型遠征編
さてGWである。本来は混雑するGWなんかに出かけたくないのだが、しがない宮仕えの身では長期休暇を取れるのはこんな時ぐらいしかない。となれば問題はいかにして混雑を避けるかということになる。
今年の私の行動目標であるが「東北・関東強化年間」ということになっている。となれば必然的に訪問先は東北となる。特にあの震災がらみで訪問を延期していた三陸地域は完全に空白地域になっている。もうそろそろ現地視察が必要な頃である。では交通手段なのだが、実のところ既に数回の東北訪問で鉄道で行けるような所は訪問しており、後は車がないと行きにくいようなところばかり。しかし今回のような10日レベルの日程となれば、レンタカーだとコストがかかりすぎる。必然的に「車を持っていく」しか選択肢がないわけである。
なんだかんだで計画は二転三転したが、結局は金曜日に休みを取って木曜の夕方から行動を開始するというプランに落ち着いた。ルートは北陸回りで、GWが始まる前に新潟まで乗り込んでしまおうという意欲的(無謀とも言う)なプランである。
木曜の仕事を定時に終えると勤め先から車で直行する。既にそのために旅行道具一式は車に積み込んである。今日の目的地は長浜。仕事が終わってから行ける範囲で最も遠くと考えた時の限界ギリギリぐらいである。
夕方の山陽道は混雑している。特に西宮以東の混雑はひどい。中国道、山陽道、阪神高速などあらゆる道路が一本に集約されてしまうこの区間は、西日本の道路網の根本的欠陥である。この区間に関しては早期の新道の建設が望まれる。
混雑する高速はとにかく運転が疲れる。前が混雑しているから仕方ないのに、車間距離0で詰めてくる馬鹿は何を考えているのだか。そうやっていたら前が空いていくとでも思ってるんだろうか? とにかく日本も巷に馬鹿が増えすぎたせいでとかく生きにくい。
長浜に到着したのはとっぷりと日が暮れてから。今日の宿泊ホテルはルートイン長浜インター。その名のとおり長浜ICのすぐそばにあるホテルである。とりあえずホテルにチェックインを済ませると、近くのイオンに夕食を買出しに行く。この日の夕食はイオン寿司。例によって旅情もくそもない実用本位の食事である。
旅情が微塵もない夕食 食事を済ませるとホテルの大浴場で入浴。長時間ドライブの疲れを抜く。風呂から上がるとしばしマッタリしてから翌朝に備えて早めに床に就くことにする。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時に起床すると朝シャワー。今日ははるばる新潟まで車で走ることになるので、それに備えて朝食をガッツリと食べておく。朝食を終えると直ちにチェックアウトする。
今日の目的地は新潟であるが、そこまで車で走るだけだとあまりに芸がないし、精神的にしんどすぎる。そこで寄り道する計画を立てている。一つは黒部市美術館。北陸は今まで何度か行っているが、この美術館は駅から遠いことなどもあって今まで未訪問であった。そこで今回北陸道経由するついでに立ち寄ろうという考え。さらに黒部市美術館について調べている最中に黒部市吉田科学館なる施設があることが判明。プラネタリウムがあるらしい。出し物を調べたところ「宇宙兄弟」。私が現在見ている唯一のアニメ作品である。何やらプラネタリウム用のオリジナルストーリーを上映する模様。
ただ問題は上映時間が10時からということ。次の回が13時半なのでとてもそこまでは待てない。とりあえず10時を目標に北陸道を突っ走る。途中でかなりの雨に降られたりなど天候は良くなかったが、幸いにして道路はかなり空いており黒部ICまで問題なく到着する。この時点で9時50分。科学館に到着したのは10時ちょうどだった。ギリギリアウトかと思ったのだが、まだ最初の説明をしているところで入場可とのことなので入場。今日は小学校の団体が来ているらしいのでその脇に便乗である。
黒部市吉田科学館
前半は普通にプラネタリウムらしく春の星空の紹介。後半が「宇宙兄弟」である。六太と日々人の過去のエピソードということになっていて、原作と不整合を起こさないように無難なストーリーになっている。また有りものを最大限に使用して、製作に手間もかからないようになっており(笑)、しかも作品の宣伝にもなるという優れもの(笑)。
「宇宙兄弟」の上映が終わって小学生が会場から出て行って一人きりになったところで、さらに続いて立体映像なるものの投影が始まる。これは偏向めがねを使用するタイプ。テーマは黒部の水風景。しかし映像がぶれていて目にきつい。それに遠近感が極めて不自然。やはり立体映像はコンテンツに問題がある。
結局は科学館で2時間近くをつぶしてから黒部市美術館へ。黒部市美術館は郊外の田んぼばかりの地域の中に体育館などと共に公園内にある。私の訪問時の展覧会は地元ゆかりの画家の富山芳男の展覧会。何やら絵の具をやたらに厚塗りした絵画で、抽象画かと思ったら実際は具象画の模様。しかし何を描いているんやらサッパリ。一番インパクトがあった展示は絵画に使用した絵の具をかごに入れて置いてあったもの。とにかく重さが半端ではなくて驚いた。芸術的才能はよく分からんが、とりあえず体力はあるアーティストなんだろう。
黒部市美術館
黒部ICから再び北陸道に乗ると、途中のサービスエリアで昼食にラーメンを摂ってから新潟の巻潟東ICまで突っ走る。とにかく長時間ドライブで耐久テストのような運転である。幸いだったのは道路が空いていたから自分のペースで走れること。かなり疲れたところで目的にしていた新津市美術館に到着する。
新津市美術館
新津市美術館では秋山庄太郎の写真展を開催中。彼は多くの女優の写真を撮影しているらしく、第1会場は美女展のような雰囲気。古くは原節子から新しくは常盤貴子などまで。ただ中には故人もいれば(夏目雅子や本田美奈子など)、あの人は今のような人まで。しかしこうして見てみると、やはり昔の女優は好き嫌いはともかくとして明らかに美人揃いなのが今時の即席アイドルなどと違うところ(吉永小百合の美しさなどはほとんど伝説もの)。第2会場は文化人の肖像と秋山氏の花などをモチーフにした晩年の作品。これらはほとんど写真というよりも絵画のようだった。
左 弥生の丘展示館と古津八幡山遺跡 中央 展示館内部 右 古津八幡山遺跡入口 美術館の見学後は、隣にある弥生の丘展示館をザッと見学。ここの裏にある丘が古津八幡山遺跡という弥生時代の住居跡で国の史跡になっているという。ここまで来たのだからついでに見学しておいてやろうと山城用登山杖を持ち出すと丘を登る。
左 丘の上はかなり広い 中央 土塁と堀のようなもので区分けされている 右 竪穴式住居は丘の上 左 竪穴式住居の集落 中央 復元された竪穴式住居 右 ここにも土塁がある 丘の上には竪穴住居が復元されている。丘の上はかなり広い平坦地になっており、集落を作るには最適であると言える。なお周囲を空堀や土塁で防備すれば、そのまま城郭にもなりそうである。高地を選んでいるのは防御という観点も考えられるが、それよりも低地だと洪水などの際に危険ということの方が大きいような気もする。
これで今日の予定は終了。後は今日の宿泊地まで移動するだけ。今日宿泊するのは月岡温泉。したしみの宿東栄館の予約を取ってある。当初予定では新潟市内に宿泊するつもりだったが、よくよく考えると車で行くのなら何もわざわざ駅前に泊まる必要なんかない。そこでどうせならと新潟近郊で温泉地を調べたところ月岡温泉が見つかった次第。
月岡温泉の町並み 左 宿泊先の東栄館 中央 月岡温泉では各所にこの暖簾が 右 月岡饅頭 東栄館は昔ながらの温泉旅館という風情。まだGWが始まる前ということで予約客が多くないのか、私が通されたのは8畳+αに風呂・トイレ付の大きな部屋。荷物を置くととりあえず温泉街を散策するが、特に見るべきような場所もなかったので饅頭を買っただけで帰ってくる。
宿の部屋
宿に戻ってくるとまずは入浴である。月岡温泉は硫化水素含有の低張性アルカリ泉とのことだが、大浴場に入った途端に強烈な硫黄のにおい。入浴すると肌にしっとりとまつわりついてくる極めて上質の湯。美人の湯として知られているとのことだが、確かに肌に良さそうである。これで私も美しさに磨きがかかるというものだ(笑)。
夕食は会席膳 入浴を終えた頃には食事の時間。食事は部屋食でいわゆる会席膳。これがうまい。腹が膨れたところで再度入浴。そのままその晩は先ほど購入した饅頭をつまみながらマッタリと過ごす。
月岡饅頭を頂く テレビをつけても見るべき番組もなく、疲労が濃いので原稿(つまりこの文章だ)の執筆も進まず、結局は眠気が訪れたところで床につく。
月岡温泉の月
☆☆☆☆☆
翌朝は7時に起床。昨晩は夜中にひどい雷の音(どこかで爆発でも起こったのかと思った)で一度目が覚めているので若干眠い。まずは目覚ましのために朝風呂。朝食は8時から座敷で。どうやら宿泊客は全部で8人ぐらいしかいなかった模様。道理で風呂で誰にも出会わなかったはずだ。朝食はオーソドックスな和定食だが、これもうまい。
朝食が済むとチェックアウト。今日は福島まで磐越道を走ることになる。昨晩の激しい雷雨の余波がまだ残っているのか、空はかなり不穏な雰囲気。磐越道は深い山の中を抜ける道だから途中で天候がコロコロ変わる。ひどい時には前が見えないような豪雨も。対面二車線の道路なんで遅い車の後ろにすぐに大名行列ができる。それを追い越し可能区間でやりすごしながら会津若松を目指す。最初は屋根瓦の吹き替えの終わった若松城(鶴ヶ城)に立ち寄る予定。しかし会津若松ICに近づいた頃にはかなり激しい雨になってきて、この中を鶴ヶ城訪問するのはあまり賢明とは感じられない。そこで急遽予定を変更して、猪苗代城の訪問を先にすることにする。
会津若松ICをスルーすると磐越道をさらに東進する。道幅は広くなって走行しやすくなるが、小遣い稼ぎを狙ったパトカーがうろついていたりするので要注意。ようやく猪苗代ICを降りた時には幸いにしてて雨は小降りになっていた。猪苗代城は市街をやや北上したところにある。大手前の駐車場に車を停めると見学に向かう。
「猪苗代城」は中世より代々この地を治めてきた猪苗代氏の居城である。猪苗代氏は会津の葦名氏の同族であるが、その間では何度も争いが繰り返されており、猪苗代盛国が伊達政宗に内応したことで摺上原の戦いが起こっている。摺上原の戦いでの葦名方は一部の家臣の奮闘などはあったが、佐竹氏から送り込まれた当主の葦名義広が家臣団を掌握していなかったために全体としての戦意が低く、結果として惨敗して葦名氏の消滅につながっている。しかしこの戦いが秀吉の奥州惣無事令への違反として政宗は会津を召し上げられ、猪苗代氏は伊達家の家臣としてこの地を去り、その後は蒲生氏郷や上杉景勝など領主は転々としている。江戸時代の一国一城令後も会津防衛のための重要拠点としての例外措置として城は存続し、戊辰戦争においても会津軍がここに籠もるなど実戦に使用されている。なお城の建物は会津軍撤退の際に焼き払われているとのこと。
城の最外郭部分は市街に埋もれてしまっているが、今でも主要部分の石垣や土塁などが残存している。それもかなり立派な石垣であって石垣好きの私としては自ずとテンションが上がってくる。
いきなりかなり立派な石垣に遭遇する 本丸の手前まで登ると市街を見渡せる。またここに見たことのあるような人物の像が立っているが、これは野口英世。彼は幼少期にこの城跡でよく遊んでいたのだそうな。なお彼の血筋は猪苗代氏の末裔に当たるとか。
左 本丸に向かう 中央 本丸南の曲輪(土蔵) 右 土塁に囲まれている 左 結構な高度がある 中央 野口英世像 右 振り返ると本丸 土塁に囲まれた本丸はそれなりの広さがある。またここから見下ろす風景は最高で北には磐梯山が見える。そしてこの本丸を取り巻くかたちで配置されている曲輪を取り囲む土塁の高さがまた半端ではない。私は以前から果たして土塁程度でどの程度軍勢を防げるのかという疑問を持っていたのだが、確かにこの規模の土塁ならば軍勢にとってはかなりの足止めになる。
左 本丸 中央 本丸下の二の郭の土塁 右 かなり複雑な造り 左 本丸下の隅櫓のあった曲輪 中央 生憎の天候で磐梯山は見えない 右 振り返って本丸 本丸の回りをグルリと回って降りてくるが、とにかく防御の堅い城だという印象で、やはり歴戦の中で防御を高めてきたのであろうと思われる。歴戦の名城という風格がある。
左 本丸南部の二の郭(帯曲輪) 中央 土塁を乗り越えて見下ろす 右 土塁が複数連なる 左 振り返って本丸 中央 本丸西部の帯曲輪から 右 本丸西の帯曲輪 磐梯の
雪真白うに 八重桜
左 帯曲輪の北部に移動 中央 見上げる本丸の手前に句碑が それにしても猪苗代城がこんなに立派な城だとは思っていなかった。レベルとしては100名城に十二分に匹敵すると感じられた。いろいろと異論もある100名城だが、やはりその選定基準にはかなり疑問がつきまとう。
猪苗代城の見学の後は諸橋近代美術館を訪問するために裏磐梯を目指して車で移動する。猪苗代城見学の際にはそう強くなかった雨がまた強くなってきて吹き降りの状態。前が非常に見にくい中を山中の道路を走る。ようやく美術館に到着した時には傘を差すのも難儀なぐらいの強風になっている。今回の遠征では以前に北陸で入手した傘を修理して持ってきていたのだが、それでようやく耐えられるぐらいの強風。関西で売っているようなひ弱な傘ならひとたまりもないだろう。
諸熊現代美術館
美術館では岡本太郎展を開催中。相変わらず芸術が爆発していたが、個人的にはさして目新しい作品はなかった。なおこの美術館はダリのコレクションで知られている。所詮リゾート地美術館と甘く見ていたところがあったのだが、実際に入館してみるとそのコレクション規模には唖然。ダリの立体作品がズラリと並んでいてこれには圧倒された。ダリのお得意の流れた時計があちこちに。ダリワールドが全開である。エロ・グロ・ナンセンスはあまり好きではない私なのだが、なぜか昔からダリとは決して相性は悪くないのである。
ダリワールドが全開 美術館見学の後は裏磐梯から有料道路を抜けて会津若松を目指すつもりだったのだが、道路に積雪があるのでノーマルタイヤでは無理とのことなので会津若松を目指すのを諦め、とりあえず喜多方に向かって国道459号を直進することにする。目下のところ天候は雨だが、この辺りもいつそれが雪に変わるか分からない不安はある。しばらく走った後、途中の道の駅裏磐梯で昼食に八重ラーメンを頂く。「八重の桜」にちなんだ季節限定の桜ラーメンとのこと。ベースは喜多方ラーメンのようだが、そこに桜の塩漬けが入っており、どことなく桜餅のような風味。ちなみに土産物コーナーも覗いたが「八重の桜」一色だった。なおこの道の駅からは晴天時には磐梯山などが望めるはずなのだが、現在は目の前も見えないような霧の中。
左 道の駅裏磐梯 中央 辺りは雪景色 右 土産物コーナーは八重の桜一色 八重ラーメン 昼食を終えると霧で視界が塞がれた山道を走り抜けることしばし。しかも道路の傾斜が強いのでエンジンブレーキを効果的に使わないと危ない。こんな時にシフトレバーはDに入れっぱなしというようなサンデードライバーが迂闊に出て来ると事故の元である(走行を諦めたのか道路脇で停車している車もいた)。幸いにも馬鹿な車に巻き込まれることもなくようやく平地に出てくると、間もなく霧も晴れてくる。すると前方に田んぼが中心ののどかな光景が広がり始め、その中にある町が喜多方である。
喜多方はどことなく懐かしさの漂うような町並み。しばらく市街を抜け、文化センターの駐車場に車を置いて観光に繰り出す。まずは向かいに見える喜多方市美術館。
喜多方市美術館
喜多方市美術館では飯野和好絵本原画展を開催中。飯野氏の名前も特に知らないし、絵本原画も私には興味のあるところではないが、ねぎぼうずのシリーズなどはなかなかにユーモラスで意外に面白い。
左 喜多方蔵 中央 その名の通り蔵が多数 右 内部は博物館 左 この蔵の中には 中央 何やら偉い方の像が 右 喜多方蔵 左・中央 古民家・旧外島家住宅 右 農業機具が展示されている 左 座敷 中央 座敷と土間 右 馬屋も建物内にある 美術館見学の後は隣の喜多方蔵の里をのぞく。喜多方は蔵の街として知られているが、街道の要衝で交易が盛んだったことなどが蔵が増えた理由のようだ。蔵の里は民俗資料館兼歴史博物館と言ったところ。蔵の内部に喜多方の文化や偉人に纏わる資料などが展示されている。またエリア内には古民家も保存されている。
右 駐車場隣の蔵の中は 中央 郷土資料に関する展示 右 曲屋も保存されている 左 座敷 中央 座敷から土間方向を望む 右 建物内に馬屋がある 大体一回りしてこの時点でまだ2時前。この後喜多方をプラプラする手もあるが、今ひとつどこという決定的な見所がないというのが本音。どうしようかと考えたところ、完全に順序が入れ替わってしまったが、やはり初志貫徹で会津若松に行くしかないかという結論に至る。
目的は会津若松鶴ヶ城。しかしその前に一箇所立ち寄るべきところがある。それは「神指城」。鶴ヶ城の防衛に不十分さを感じた上杉景勝が、来たるべき徳川との決戦に備えて直江兼続に築かせた要塞である。しかし予想よりも早く関ヶ原が始まってしまい、神指城は未完成のまま破却されることとなってしまった。もしこの城が完成していたら、戊辰戦争の会津の戦場は鶴ヶ城ではなくてここになっていただろう。
喜多方を一端東進すると私のカーナビにはない広い道に出る。サブのカーナビとして使用しているipadのなびすけによると会津縦貫北道路とのこと。これで笈川駅の近くまで出る。ここから米沢街道に合流したのだが、ここから全く車が動かなくなる。どうやら磐越道の会津若松ICを目指す渋滞に巻き込まれたようだ。しばしそこで待っていたが、一向に埒が開ける気配がない。途中で諦めて裏道を探すことにする。そもそもこの辺りの会津盆地は一面田んぼで、あちこちに舗装されたあぜ道レベルの道が縦横に張り巡らされている。そういう意味では裏道には事欠かないだろうとの判断。実際に裏道をスムーズに抜けてさほど困難もなく神指城の近くまで到着する。
高瀬の大木は桜でなくてケヤキの方なんだが、こう撮るとどうしても桜が目立つ 高瀬の大木 神指城の場所を探していたらやたらに立派な樹が目に付く。これは高瀬の大木といって国指定の天然記念物だとか。ちなみに件の大木はケヤキの方なのだが、この時期は周囲の桜の方が目立っている。なおこの場所は駐車場がないため、次々とやってくる観光客が車を停めるところがなくて右往左往していた。なお神指城の位置を記した看板をここで発見。今の場所は神指城の二の丸北東櫓に当たるらしい。
神指城の本丸の大体の位置は分かったが、またそこから現地の到着は困難だった。車を停める場所が見つからずに本丸跡と思われる場所の回りをグルグル回ることに。ようやく小さな案内看板を見つけ、その奥に車を進めると「神指城臨時駐車場」と記載されたスペースに到着。どうも地元雄志によって管理されている模様である。
左・中央 神指城跡・・・と言っても何もない 右 この石が石垣の石だとか 左 この辺りに本丸南高石垣があったと言うが・・・ 中央 本丸西御門濠跡 右 本丸天守予定地とのこと・・・ もっとも築城途中で破棄された城郭だけに、城跡自体は遺構と呼べるレベルのものはほとんど残っていない。何となくどんな城を造ろうとしていたかというイメージがつかめる程度。しかしもしこの城が完成していたら鶴ヶ城よりも二回り程規模の大きい城郭だったらしいし、周辺も広大な平地であることから、戊辰戦争で会津軍が籠もったのがこの城だったら薩摩軍もかなり手を焼いたのではないかと感じられた。平面規模が大きくて回りに高台のない城というのは、図らずしも砲撃戦が主流となった幕末以降に有効な城郭の形態である。鶴ヶ城は高台からの砲撃でハチの巣にされたが、神指城の周辺には砲撃陣地に適した高台が皆無。また当時の大砲の射程を考えると平地からの砲撃では到達距離が限られるから、広く深い要塞というのが一番の防御である。歴史のもしもであるが、神指城は関ヶ原ではなく戊辰戦争で真価を発揮することになっていたかも・・・なんて考えが頭をよぎる。
神指城の見学後は「鶴ヶ城」を目指すことにする。以前に訪問した時には天守閣が工事中だったので、新装なった天守を見るというのも今回の遠征の目的の一つである。会津若松市街に近づくにつれて道路は混雑してくる上に、会津若松の道路はそもそも決して自動車向きというわけではないことから覿面に走りにくくなってくる。散々苦労してようやく観光用の臨時駐車場に到着する。
お城周辺は桜が満開 鶴ヶ城の周辺は観光客で一杯である。ちょうど会津は桜が満開を若干過ぎた頃で、花見客で盛り上がっているようである。それに加えて今年は大河ドラマの「八重の桜」の影響もあるのか地元も観光に力を入れている模様。NHKは今年は東北に力を入れているようで、大河ドラマと朝のテレビ小説がその陣頭になっているようだ。これもいわゆるごり押しと言えなくもないが、AKBのごり押しのような醜いものでなく、東北の復興に役立つなら歓迎である。
お城前の売店で焼団子を頂く
観光用の臨時駐車場に車を停めると鶴ヶ城まで徒歩で移動する。やがてあの立派な石垣と堀が目に飛び込んでくる。それを見た途端に「ああ、来てよかった」という気持ちが心の奥底から湧き上がってくる。何度見てもこの城は立派である。郷土の人が地元の誇りと感じる気持ちも分からないではない。
とにかく絵になる 城内は桜が咲き乱れて美しい。その中を進んでいくと赤瓦に葺き替えられた天守閣が目の前に聳え立つ。「いいなぁ・・・」自然に言葉が口から出る。鶴ヶ城の天守は鉄筋コンクリート製のなんちゃって天守であるが、それでもやはりあるべきところにあるべきものがあるのは絵になる。非常に存在感のある美しい天守である。
以前の訪問時に天守の中は見学しているのだが、ここまで来るとやはりもう一度入ってみることにした。入場者が多いので内部は人でごった返している。しかし最上階から見る会津の風景は格別。鶴ヶ城を堪能した。以前に来た時には工事中で天守閣を直接見ることができなかっただけに、桜の中に立つ天守の姿を見られたのは何よりもの収穫だった。
天守からの風景 満足して鶴ヶ城を後にしようとした時にさらに衝撃。観光案内所で超美人を発見。驚いたのは明らかに私の心拍があがってしまったこと。考えてみると女性を見て心拍があがるなんて経験は十数年以上なかったような気がする。ただだからと言って何があるというわけではない。これがご都合主義のトレンディードラマやキモオタ御用達の妄想萌えアニメなら、偶然のハプニングが二人を結びつけるなんて展開があるのだが、そんなことは全く起こらないのが動かしがたい現実というもの。そして動かしがたい現実をはねつけるだけの行動力と勇気の持ち合わせは私にはない。だからこそ私は未だに独身なのだが・・・。
会津魂を伝える碑が立っている
後ろ髪引かれるような思いで会津若松を後にすると、再び喜多方へと車を走らせる。今日の宿泊は喜多方で行う予定(だから当初想定ルートは会津若松→裏磐梯→喜多方だったのである)。車が多いので渋滞を避けて裏道を通る。田んぼばかりの会津盆地では裏道となるルートは無数にある。それにしてもだだっ広い。こういう風景を見ていると会津が非常に豊かな土地であり、伊達政宗があれだけ会津の奪取に固執した理由がよく理解できる。
ようやく喜多方に到着すると今日の宿泊予定の笹屋旅館に直行する。笹屋旅館は家族経営らしい小さな旅館。やはりGWのためか今日は満室らしい。私が通されたのは奥の和室。そう広くもないが一人なら十分である。とりあえず荷物を置くと夕食のために町に出ることにする。
喜多方といえばラーメン。とは言うものの本来はラーメンは私にはNGメニューである。しかし飲食店を探してもラーメン屋ぐらいしかない。そこで適当に目に付いたラーメン屋「坂内食堂」に入店する。注文したのは「ネギチャーシュー(1000円)」。
スープは澄んだあっさり目のもので、ネギは辛目の味付けがしてある。そこに大量のチャーシューが泳いでいる。麺はやや太めのものでこれが喜多方タイプか。しっかり目の麺はサッパリしたスープと絡んでなかなか良い味わい。特に強烈な特徴があるというわけではないが、普通にうまいラーメン。多分普段食べるならこういうラーメンが一番リピートしやすくなると感じた。
なお私は町を散策中にこの店を見つけて何となく入店したのだが、この店がかなり有名な喜多方ラーメンの店だと知ったのは遠征から帰宅してからであった。私の訪問時はちょうど夕食には早すぎる時間帯だったせいか特に混雑しているという印象ではなかったのだが、私の入店後に次々と客が来てすぐに店内は一杯になっていた。時間帯によっては行列ができることさえあるようである。個人的な感想としては、そこまでしてまで食べないといけないほどのラーメンとは感じられなかったが、ただこれが喜多方ラーメンのスタンダードなのだとしたら、喜多方市民が朝からラーメンを食べるという習慣も理解はできると思った。博多の豚骨ラーメンを朝から食べる気はしないが、このラーメンなら朝からでも食べられる。ただ逆に夕食としてはどうも弱かったというのが本音である。
喜多方侵略を狙う宇宙人発見!
夕食を終えて旅館に戻ると風呂に直行する。風呂は大きめの家庭風呂と言った程度のものだが、それでもユニットバスとは違って快適である。風呂から上がると先ほどの町歩きの際に仕入れてきた和菓子を摘んでマッタリ。テレビはろくな番組がないので、ipadに落としてきたビデオを見ながら一休みしてから床についたのであった。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時に起床すると朝風呂。7時半に予定していた朝食を7時に繰り上げてもらい、8時頃にはチェックアウトする。天候は大分良くなってきているが、まだ時々雨がぱらつく状態。今日の目的地は山形。国道121号・大峠道路を北上する。この道路は一般道であるが、高速道路に準じた仕様になっている。ただ一般道だけに起伏はかなり激しい。
米沢からは米沢南陽道路に乗り継ぐ。GW中ということで渋滞を懸念していたが、車はそれなりには多いものの、問題なくスムーズに流れている。南陽でバイパスを降りるとさらに上山まで北上する。上山と言えば温泉だが、今回は残念ながら温泉に立ち寄っている暇はない。
最初の目的地は「長谷堂城」。最上の支城の一つであるが、関ヶ原の合戦と同時期に上杉軍が最上領に進行した際に激戦が繰り広げられたことで有名である。直江兼続率いる上杉軍が最上の山形城攻略のための足がかりとして狙ったのがこの城。しかし結局は上杉軍はこの城を落とせないまま関ヶ原での西軍敗退の報を受け、かなりの被害を出しながらの撤退戦を余儀なくされることになる。
最初は東側からの接近を図ったのだが、路地に迷い込んで失敗。散々迷った挙句に国道348号線で西から回り込んだら、駐車場や案内看板もすべて完備してあった。そこに車を停めて登城にかかる。
左 駐車場近くにある堀 中央 八幡崎口 右 八幡社のある出丸 最初に出るのは八幡神社のある出丸。ここから尾根伝いに登っていくと本丸のある山頂に行ける。本丸の周りには無数に帯曲輪が作ってあり、とにかく防備が堅固である。どこから攻めても矢玉にさらされることになり、上杉軍が攻めあぐねたのも分からないでもない。
左 出丸から尾根筋を進む 中央 風景が綺麗だ 右 こちらの山上に本丸が 左 最初に出くわす曲輪 中央 振り返って本丸 右 本丸登り口はもろに横矢を食らう造り 左 帯曲輪もある 中央 本丸虎口は稲荷神社になっている 右 本丸 山頂がそのまま本丸になっていて、ここからは直江兼続が本陣を置いた山なども見える。またまっすぐに山形市街が見渡せ、その間には障害物らしきものが全くない。最上としてはこの城を落とされてしまえば山形城は風前の灯となってしまうから、まさに存亡をかけた戦いであったろう。地元的には「侵略者上杉と戦った勇敢な戦い」ということになるようである。
本丸からの風景 左 上杉軍が陣をおいた山上 右 山形市街(山形城周辺) 本丸見学後は山腹をグルリと一周する形で、観音堂のある曲輪、二重横堀、帯曲輪などを見学してから下山する。とにかく見応えのある城郭で、これもやはり100名城クラスの城郭である。
左 本丸風景 中央・右 本丸南方帯曲輪群 左 春日神社 中央 長谷堂観音のある曲輪 右 長谷堂観音 左 二重横堀は薮化して不明瞭 中央 南西斜面は今はヒガンバナ育成地 右 本丸北側の帯曲輪 左 帯曲輪から本丸を見上げて 中央 大手路脇の阿弥陀堂 右 大手口 長谷堂城の見学の後は「畑谷城」の見学に向かう。畑谷城も最上の支城の一つであるが、長谷堂城とは違って直江兼続の攻撃で落城した方の城である。とは言うものの、2万もの上杉の大軍を2日間足止めしており、そのことによって結果として上杉軍の侵攻は時間切れになってしまったとも言える。
現地看板より 畑谷城は長谷堂城よりもさらに深い山の中にある。最初はアクセスルートが分からずに回りを車でグルグルする羽目になってしまったが、ようやく県道17号と49号の交点付近に案内看板を見つけ、お寺の近くの駐車場にたどり着く。
畑山城入口の表示を通過して直進すると、すぐに大規模な東部大空堀に行き当たる 左 かなりの規模の東部大空堀 中央 こちらは竪堀 右 堀に囲まれた方形空間は街道の関所だったようだ 畑谷城で一番驚かされるのは空掘の規模の大きさ。上り口のそばにまず巨大な空堀が築かれている。
左 登城口から山上へと進む 中央・右 虎口 左 主郭空堀曲輪 中央 畑谷城主郭 右 搦手口側の小曲輪 本丸は山頂部にあり、周囲には帯曲輪らしきものもある。それなりの規模はあるが、そう巨大な城というほどではない。また構成的にもあまり凝ったものではなく、長谷堂城ほどの鉄壁の守りとは感じられない。
左 本丸の西の曲輪に進む 中央 堀切がある 右 二重構造の堀切だ 左 なだらかな地形の曲輪で面積が広い 中央 その西の端が三重空堀 右 呆れた規模の空堀である 西に下りたところに屋敷や倉庫でも置いたのだろうと思われる広い曲輪があるが、その手前にも空堀が掘ってある。しかし驚くのはこの大きな曲輪の先にある三重の空堀。重機のない時代によくもこれほどの規模のものを掘ったもんだと感心するぐらいの規模である。尾根筋伝いでの攻撃を防ぐためのものであると考えられる。
城自体の縄張りに比べると、とにかく空堀だけが不釣り合いに大規模であるという印象を受ける。後で調べたところによると、どうやら空堀は上杉との戦いに備えて突貫作業で付け足されたものだとか。となると所詮は付け焼き刃では落城は防げなかったと言うことか。しかしこの空堀がなければ瞬時に落城していたかもしれない。
畑谷城の見学を終えた頃には正午過ぎになっていた。さてこれからどうするか。今日の宿泊予定は寒河江であるが、今から寒河江に直行したのでは明らかに早すぎる。そこでどこか訪問先をと考えた時に頭に浮かんだのは、以前に見た山寺の風景。正直なところ既に足腰にかなりの負担をかけているのでどうかと思ったのだが、他に手頃なスポットが思いつかなかったので山寺に向かうことにする。
山形道を山形北ICで降りて山寺立石寺に向かうが、手前からかなり車が多いのが気になる。立石寺手前の一番大きな駐車場に車を入れるが、とにかくもう駐車場が満杯に近い。また参道筋を進んでいてもとにかく人が多い。昼食を摂ろうと思ってもどの店も満員。何が起こったんだと思っていたら、参道手前には大行列ができている。何の行列か警備員に聞いたところ、御開帳があるとのことでそれを参拝するための行列だとか。ただ私のようにそっちには興味のない人間は山に登るだけなら待つ必要はないらしい。
それを聞いて一安心。ただし登る前にやはり腹ごしらは必要。とりあえず近くの蕎麦屋に入る。ほぼ満員状態だったが、なんとか席は見つかる。しかしそれからが大変。たかだかざるそば一杯が出てくるまでに30分以上待たされる羽目に。料金先払いシステムになっているから奇妙だと思っていたが、これが理由か。確かに大阪なんかだったらこんなに客を待たせたらぶち切れた客が帰ってしまう。
昼食のそば
ようやくそばを食べると登山に挑戦である。こっちは最初から山城装備なので登山杖持参である。やはり山を登る時はこれがあるのとないのとで疲れ方に雲泥の差が出る。しかし回りを見渡しても杖を使用している者はほとんどいない。お遍路さんなんかだったら杖は標準装備なんだが、やはりここは普通の観光客が大半か。
左 根本中堂 中央 清和天皇の御宝塔 右 日根神社 左 芭蕉と曽良の像 中央 念佛寺 右 山門を潜っていよいよ登りにかかる 一番奥のお堂まで上がると1000段あるという。往復で標準的な所要時間は2時間とか。思わずひるみそうになるが、とりあえず麓で名物のこんにゃくを食べてから、入山料を払って登山にかかる。
左 石段をひたすら登る 中央 すごい地形だ 右 弥陀洞が見えてくる 左 弥陀洞 中央 仁王門が見えてきた 右 中間地点仁王門 登山路は観光客でごった返していた。確かに登りはキツイが、足下は完璧に整備されていて不安は全くない。すぐに息は上がるのだが、それでも回りの観光客よりは明らかに数段ハイペースで階段を登っていく自分に驚き。長年の山城攻略と今年に入ってから本格的に取り組んでいるトレーニングが確実に効を奏して足腰が格段に強化されたようである。それと杖一本とはいえ装備の差も侮れない模様。まあ中にはヒールの女性なんかもいて、それは装備以前の問題なのであるが。正直なところ、靴はともかくとして杖ぐらいは貸し出すぐらいの親切心はあっても良いように思う。もっともここは元々は修行の山らしいから、そんな余計な親切心など無用なのかもしれないが。
さらに進むことしばし、ようやく奥の院に到着する 中間地点の仁王門を抜けて奥の院までは30分もかからずに到着する。奥の院ではとりあえず並んで参拝。私が祈るのは世界の恒久平和と日本の繁栄・・・なんていうご大層なものではなく、我が家の平和と繁栄、さらに私の良縁である。ちなみに私の引いたお神籤は「吉」。「待ち人おそく来る」もう十二分に遅すぎる気が・・・。
おいおい、何年待てばいいねん
下りは観光モードであちこちに立ち寄りながら風景を見学。それにしてもすごい風景である。ここはそもそも修験道の修行場だったようだが、修験道は極限まで体を鍛えるマッチョな信仰なので、どうしても内容が体育会系になる。ここの寺院などは修行以前に建築時に死者が数人出ていてもおかしくないような気もする。
重要文化財の三重小塔
左 華蔵院 中央 すごい断崖 右 開山堂に向かう 左 五大堂 中央 開山堂と納経堂(重要文化財) 右 性相院 五大堂からの笑っちゃう絶景 山寺を降りてきた時には足はかなりガタが来ていた。さすがに山城の連チャンの上ではかなりきつすぎたようだ。それにしても蕎麦とこんにゃくを食べて1000段の石段の上り下りとは、立石寺のご利益のほどは知らないが、確実にダイエットのご利益はありそうである。
結局は標準見学時間の2時間よりも早めに山を下りてきてしまった。まだ時間に余裕があるので宿泊予定の寒河江に直行せずに天童に立ち寄ることにする。目的は以前にも来たことのある天童市美術館。
「画家とパレット 近代の巨匠たち」天童市美術館で5/19まで
笠間日動美術館が所蔵する画家のパレットコレクションから展示した展覧会。ピカソ、マティスなどのものもあるが、日本の近代絵画の巨匠が大半。
パレットと合わせて作品も展示してあるので、それぞれの作風が観察できて興味深い。なおパレットについてはマティスのいかにも科学的に色彩を分割していたパレットは興味深かったが、その他についてはパレット自体が作品として過剰演出されているものが多く、画家の本音を探るという意味ではあまり興味なし。厚塗り系の画家のパレットはやはり絵具の付着も厚いという当たり前と言えば当たり前のことを確認した程度。
美術館の見学を終えると寒河江に向かう。しかし地図を見ると途中に西沼田遺跡があるようなので立ち寄ることにする。
資料館
遺跡は公園になっており、近くに資料館があるので立ち寄る。この遺跡は昭和60年に田圃の整備中に発見されたとのことで、古墳時代後期の6世紀頃の農村集落遺跡と見られるとのこと。この辺りは現在でも見渡す限りの田圃だが、吉野ヶ里遺跡などのようにこのような場所には昔から人が住んでいたのは常識である。
左 遺跡遠景 中央 溝が掘ってある 右 木柵で囲まれていたらしい 左 復元住居 中央 茅葺きである 右 高床倉庫 公園内には復元住居が建てられており、中ではボランティアが囲炉裏を炊いていた。このタイプの茅葺き屋根は定期的に煙で燻すことが虫除けになり、耐久性が全く変わってくるのである。復元建造物も良好な状態を保とうと思うと定期的な管理が重要なのである。この手の施設の中には、竹下内閣での選挙対策バラマキ1億円で建ったものも少なくないのだが、その中にはその後の管理が放置状態だったせいで劣化が進んでいるものも多々ある。日本の公共事業は往々にして建設費用は考慮するが、保守費用を考慮しないという欠陥がある。おかげで老朽化した社会インフラが各地で問題となっている。そろそろ建設する公共事業から保守する公共事業への転換が必要である。もっとも土建利権的には、作っては朽ちさせて再建築する方が儲かるという考えなのだろうが。アメリカは軍需利権を守るために各地で戦争しては墓標を建てる。日本では土建利権を守るために各地で自然破壊してはコンクリートの墓標を建てる。これはかなり病んでいる。
後はホテルを目指すのみ。今日の宿泊予定地は寒河江。宿泊ホテルは以前に山形方面に遠征した際に利用したサンチェリー。CPの優れたなかなか良いホテルだったので再宿泊である。
ホテルにチェックインして荷物を置くとすぐに外出する。日没までに立ち寄っておきたい場所がある。以前に「寒河江城」の跡をたどったことがあるが、その際に澄江寺に移築された三の郭辰巳門を見ていない。そこで今回は澄江寺を訪問しようという考え。
寒河江城の三の郭辰巳門が移築された澄江寺山門 澄江寺は路地の奥まったところにあった。件の辰巳門はかなり立派な門。今では寒河江城の往時の偉容を偲ばせるのはこの門だけになってしまっているようだ。
セブン−イレブンとガソリンスタンドに立ち寄ってからホテルに戻ってくると、洗濯物をコインランドリーに放り込んでから大浴場に出向く。このホテルは隣接する温泉旅館の大浴場が使用できる。大浴場は寒河江温泉で含重曹弱食塩泉とのこと。さっぱりとした温まる湯である。これが非常に快適。2種類の源泉で高温泉と低温泉になっているのがまた具合が良い。今日の強行軍の無理が体にこないように、十分にほぐしておく。
風呂から上がると洗濯物を乾燥機に放り込んでから夕食に行く。夕食は面倒なのでホテル内の飲食店「お食事処みずき亭」で済ませる。大根サラダと海鮮丼。まあ可もなく不可もなく。
洗濯物を引き上げると部屋に戻ってしばし休息。しかし夕食が済むとかなり強い疲労が襲ってくる。やはり山城2カ所に山寺はあまりに無理すぎたか。その上に意外とハードな運転もしている。無理をせずに早めに床につくことにする。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時に起床するとまず朝風呂。それから朝食である。このホテルは朝食バイキングも隣接する温泉旅館であり、旅館らしい充実した朝食を頂ける。これがこのホテルがCPで最強と言う大きな理由。朝から頂くずんだというのがお気に入り。また来たいホテルでもある。
8時になってテレビから「あまちゃん」の軽〜いOPが聞こえてくる頃にホテルをチェックアウトする。今日は花巻まで長駆することになるが、立ち寄り予定も多々あり、かなりハードな運転になることが予想されるので気合いを入れる必要がある。
花巻に向かうには東北道を経由する必要があるので山形自動車道を東進する。山岳を縫うかなり険しい道路であるが、特に問題もなく東北道に到達。ただ本格的に東北道を走る前に寄り道をする。寄り道先は仙台市博物館。東北支援プロジェクトの一貫としてプライスコレクションの展示がされているので、ついでだから立ち寄っておこうとの考え。
博物館に到着したのは開館直後のはずだったのだが、博物館周辺は既に大量の車がひしめいている。博物館前の駐車場には入りきらず、離れたところにかなり巨大な臨時駐車場が設置されているがそちらも5割以上駐車しているような状況。会期末が近い上にGWという条件もあるだろうが、それにしても大盛況である。臨時駐車場に車を停めて博物館に向かうが、その過程でも観客がゾロゾロ。これは先が思いやられると思ったら、案の定券売所には長蛇の列でここで数十分の待ち。
臨時駐車場は車で一杯
プライスコレクション自体は以前に別の展覧会で目にしているので初見ではない作品が多数。なおプライスコレクションは美術コレクターであるプライス氏が、自身の鑑識眼に基づいて作品の銘などにはこだわらずに収集したコレクションである。そのために作品の中には作者不明のものも少なくない。しかし彼の鑑識眼が尋常ではなかった証明として、伊藤若冲や長沢芦雪などの名品が多数含まれており、収集当時には決して一般評価が高かったとまでは言えなかったこれらの画家の再評価につながることになった。なお本展は東日本大震災の惨状に心を痛めたプライス氏の、何とか東北の人々を勇気づけることが出来ないかとの好意によって開催されることになったという。
展示は作者名にはこだわらなかったというプライス氏の方式に合わせてか、作者名や作品名などは目を凝らさないと分からないような表示になっており、その辺りが普通の展覧会と印象が異なる。これはこれで良いのだが、やはり私のような素人には作者名も気になるところではある。なお若冲や蕭白の作品などは久しぶりに対面したのだが、やはりその奇想っぷりには圧倒される。精密描写(にも関わらず、やはりどうしても虎は猫になる)の応挙や、これは遊びすぎだろうと言いたくなる作品の多い芦雪など、強烈な面々の競演が楽しませてくれた。なお展覧会タイトルは「若冲が来てくれました」になっているのだが、この強烈な面々の筆頭が若冲かどうかは各人異議があるかも。私なら「若冲が来てくれました」のタイトル後に「−蕭白も芦雪もいるぞ!−」と付けずにはいられないが(笑)。
博物館の見学を終えると東北道を北進する。それにしても驚くのは東北道の走行速度の高さ。山陽道や中国道と比べると桁違いの速度で車が爆走している。新幹線も山陽新幹線よりも東北新幹線の方が爆走というイメージがあるが、やはり広大な東北地域はこのぐらいのスピードが標準なんだろうか。とにかく速度も速ければ運転も荒っぽいという印象。なおGWであるが、幸いにして道路は渋滞などは全くない。
東北道を古河ICで降りると最初の目的地は「岩出山城」。そもそもは大崎氏の居城であったのだが、大崎での一揆への関与が疑われた伊達政宗がここに移されることになり、後に仙台城に移るまでの12年間居城にしていたことで知られる城である。なお岩出山城自体はその後も仙台城の支城として明治まで残ったという。
おおよその場所まではたどり着いてから、現地を見つけるまでに苦労した。ウロウロしている内に間違って座散乱木遺跡にたどり着いてしまう。この遺跡はどうも妙な空気が漂っていると感じたのだが、後で調べてみて理由が判明した。最初は岩宿遺跡よりも古い4万年前の遺跡とされて国の史跡に指定されたのだが、後に例のゴッドハンド事件に関連して発掘物が捏造であったことが発覚して、史跡指定が取り消されるという異例の事態になったのだとか。それで現地の異様な雰囲気が理解できた。何やら史跡公園として大規模整備しようとしていたのに、それを途中で中止した上にまるで封印しているかのような奇妙さを感じたからである。ただ確かに旧石器時代の遺跡ではなかったが、後期石器時代から縄文時代にかけての遺跡であることは確かであるのだから、考古学を塗り替えるような大遺跡が普通の遺跡になったというだけで遺跡自体は本物なのに、まるで遺跡全体が不祥事のように扱われていしまっているのはいささか不憫である。
悲しき座散乱木遺跡
紆余曲折はあったが何とか現地にたどり着く。いざ現地にたどり着くと拍子抜けするぐらいに観光地化した普通の山。駐車場のある場所はかつての曲輪跡だろうが、遺構のようなものは皆無。山上も完全に公園化していて城と言えるようなものは残っていない。なおここには平服の伊達政宗像があり、仙台城の甲冑騎馬姿の政宗像と対比して、政宗の平和像などと言われることもあるとか。
左 本丸跡は完全に公園化 中央 これは土塁跡だろうか 右 下のSL広場はかつての曲輪跡か 現地を回ってみると、政宗が居城にしていたにしては小規模な城郭という印象。政宗としては、拠点だった米沢を奪われて小城に押し込められたという意識が強かっただろうと思われる。一時は奥州の覇者に迫っていた政宗としてはかなりの失意(同様の失意は九州の覇者・島津、四国の覇者・長宗我部なども味合わされたと思うが)であったと思われるのだが、そんな中で彼はどのようにして巻き返しを考えていただろうか。
岩出山城見学の後は、山間を北上して次の目的地である姫松館を目指す。「姫松館」はその由来は定かではないのだが、奥州藤原氏の時代まで遡るという。伝説としては奥州藤原氏の残党がここに籠もって鎌倉方と戦い、落城の際に千代姫が傘にすがって断崖を飛び降りて逃亡したとか。
かなり狭い山道を走ることになる 車を停めたのは城域の一番西端 城の縄張り図 出典:余湖くんのホームページ 曲輪へと登る かなりの高度がある 中世の大規模な山上城郭であるが、近くまで車でアクセスすることが可能であると聞いている。しかしその道を見つけるのに一苦労。県道17号線で南から川を渡った先の工事現場のようなところに東に入る道を見つけて突入する。最初は舗装されていた1.5車線道路が、途中から未舗装の車一台ギリギリの幅の道に変じる。こういうところを走ることが多いからこそあえてボディの小さいノートを選んだのだが、その御利益を感じる場面である。そのまましばらく直進、しかし途中で三叉路を間違えて曲がって西側の墓地に出てしまったのでUターン。四苦八苦の末にようやく城域に到着する。
左 西の曲輪(上図の8郭)入口 中央 曲輪内部 右 向こうに見えるのが上図の1郭 車が到達したのは城域の最西端に当たるのでここから東に向かって徒歩で見学することになるが、一見しただけでとんでもない規模の城館であることが分かる。なお南はかなりの断崖になっており、姫が飛び降りたのがこの崖だとしたらそれは逃亡ではなくて単なる身投げである。姫の体重が小学生ぐらいだったとしても、とても傘で飛び降りられるとは思えない。
左 東に移動する 中央・右 途中には堀切が見られる 左 1郭入口 中央 1郭は南に伸びている 右 その南端に断崖の松 山上はかなり複雑な堀切で複数の曲輪に分けられており、非常に凝った造りの城郭であったことがよく分かる。それにしても堀切や土橋などがハッキリと残っており、保存状態の良さには驚かされる。現地の案内看板などは決して整っていないが、それでも遺構が極めてハッキリしているおかげで、私のような素人にも構造が把握しやすくて非常に助かる。基本構造としては尾根筋に沿って地形を利用して大小複数の曲輪を連ねており、各曲輪の間は堀切で分離して土橋で接続してある。また主要な曲輪を守るように、斜面に沿って複数の帯曲輪を配してある。
左 さらに堀切を越えて東進 中央 3郭 右 その先もいくつもの堀切が 左 二重の堀切 中央 細長い曲輪 右 北側斜面の小曲輪群 城の縄張りに沿って東の端までやってくると、ここは尾根筋を分断するように高い土塁が築かれている。とても越える気にはなれなかったが、この土塁の向こうには多分堀もあるだろう。ここが城域の最東端のようである。
左・中央 城域東端の大土塁 右 南斜面の帯曲輪群 とにかく規模が大きいのでかなりの大軍勢が籠もれただろうと思うが、逆に言うと大軍勢でないと守れない城。奥州藤原氏残党軍がどれだけの軍勢を有していたかは分からないが、兵力によっては逆に規模の大きさが仇になりかねない。ただ謎なのは、奥州藤原氏関係の城だとすればかなり古いものになるはずなのだが、それにしては縄張りが凝りすぎていて大がかりであること。縄張りを見る限りでは明らかに戦国期の山城である。名の通り「館」なのであるならここまで技巧的な作りにはなっていないのが大抵である。発祥は奥州藤原氏の時代だとしても、後の時代に手が加わっている可能性は否定できないと思う。
姫松館を後にするとここを北上。次の目的地である「鶴丸城」を目指す。鶴丸城は小学校の裏手の辺りに車で登れる登山道が続いており、道なりに登っていくと山上に到着できる。まずは本丸下の駐車場に車を停めて本丸を見学。
本丸は完全に公園化されているので城と言われないとただの展望台。しかし下に明らかに曲輪であることが分かる構造が見られる。
左 完全に公園化している本丸 中央 眺めは良い 右 下の曲輪(上図の2郭) 本丸から隣の曲輪へは堀切を越えて降りられる。こちらは最近になって木を刈って整備したような印象。木がなくなったおかげで曲輪であることがよく分かる。またここからさらにもう一段下にも曲輪がある。
左 6郭への降り口 中央 6郭 右 6郭の一段下に7郭が見える 左 7郭 中央 南西斜面は伐採跡が目立つ 右 遠くに見えるのが蛭子公園 ここまで来ると下側に公園になっている曲輪が見えるが、これが蛭子公園。城としては独立曲輪に近いような印象で、出城的なものだったのだろうか。一端駐車場に戻るとそちらに車を回してみる。こちらの方は公園整備が本丸よりも遙かに進んでいるが、曲輪であったことは明らかに分かる。
左 左手奥が蛭子公園 中央 蛭子公園 右 完全に公園化しているが明らかに元々は曲輪跡 公園整備されすぎている感も受けたが、かなり大規模な城郭であった。今のところは単なる花見公園のようだが、もっと城跡を意識した公園として整備されるとそれなりに見所は多いだろうと思われる。何やら工事中の様子がうかがえたが、城跡をぶっつぶしてただの公園になるなんてことはないことを祈るのみ。
もう大分疲れたし、時間もほどほどになってきたので今日の宿泊地に向かうことにする。今日の宿泊地は花巻温泉。宿泊ホテルは花巻温泉愛隣館。一応今日はGW合間の平日ということなので、どうにか温泉ホテルのシングルプランを予約できた次第。県道を東にひた走り、若柳金成ICから東北道に乗ると途中の前沢SAでかなり遅めの昼食(もう既に夕方である)として塩タン定食を食べてから花巻南ICまで突っ走る。
花巻南ICから花巻温泉までは車で30分程。それにしても驚くのは、先ほどまで高速道路ではあれだけすっ飛ばしていた東北人が、高速道路から降りたら途端に制限速度にも届かないようなトロトロ運転になること。ギャップが大きすぎて戸惑う。似たようなことは長崎でもあったが、こっちの方が遙かに極端である。
県道12号を北西に向かって走行。この沿線は温泉街道と言っても良いぐらいの温泉だらけ。進むに連れてドンドンと山深くなってきて、愛隣館は一番奥の方にある。
愛隣館は典型的な古き良き温泉巨大ホテルという佇まい。シングルルームは最近になってシングルプランのために整備したようで、ビジネスホテル形式の使いやすい部屋。ただ窓を開けるとそこにボイラーしか見えないというのはご愛敬。かつては従業員の宿舎とかだったくちだろう。
チェックインするとまずは大浴場に直行。ここは川の湯、南部の湯、森の湯という3つの大浴場があり、時間交代になっているシステム。男は今の時間は川の湯か南部の湯だが、とりあえずは川の湯に行くことにする。
川の湯はその名の通り川に面した広々とした露天が売りの浴場。しかし明らかに「丸見えの湯」でもある。これは男はともかく、女性の場合は問題がありそうな・・・。泉質はナトリウム一硫酸塩・炭酸水素塩泉とのことだが、特に個性があるわけではない湯。ただ肌当たりの柔らかい湯なので長湯には適している。ちなみにホテルは花巻温泉と名乗っているが、温泉の源泉名は新鉛温泉となるらしい。
温泉を堪能して帰ってくると、夕食までは部屋でマッタリと。と言うか、このホテルは山奥過ぎてインターネットは出来ないし(iphone5の通話がギリギリつながるレベルで、データ通信は不可)、周辺にはコンビニはおろか店自体が皆無なのでホテルで土産物を買うぐらいしかすることがないのである。
そのうちに夕食の時間が来たので夕食会場へ。夕食は温泉ホテルの定番である会席膳だが、これがとにかくうまい。一品一品が行き届いて抜群。これは料理人の腕がなかなかなのだろう。またこれ以外に食べ放題で「わんこそば」「盛岡冷麺」「じゃじゃ麺」の岩手三大麺類も。私も話の種に完全制覇。いずれもまずまず。さらには岩手定番のいちご煮なんかもついていて良い意味でお約束を踏まえている。
最後はデザートとこれも食べ放題というプリンを頂いて締め。非常に満足度の高い夕食であった。はるばる山奥までやって来たが、温泉と食事だけでその価値は十二分にあったように感じる。
デザート二品
夕食後は再び入浴、今度は南部の湯に入る。ここには外で星を見ながら入浴できる立ち湯なんかがある。とにかく今日で3日連続で1万歩越えの上に、山城攻略を含んでいるので足回りの疲労は半端ではない。途中でダウンしないようにしっかりと疲れを抜いておく必要がある。
夕食を終えて入浴も終えると身体がヘロヘロになっていることがよく分かる。この日もかなり早めではあるがさっさと床についたのであった。
☆☆☆☆☆
結局昨晩は9時過ぎから爆睡してしまったようだ。体が疲れてきていることもあったし、ベッドの硬さが私にちょうど良かったということもあるようだ。自然に目が覚めたのは目覚ましをセットした6時の30分前だった。とりあえず目覚ましを兼ねて大浴場に入浴に。今度は森の湯。これで3つの浴場完全制覇である。
朝風呂で目を覚ますと荷物をまとめる。朝食は7時から。バイキングだが質量共に十二分。このホテルはなかなか正解だった。朝食を終えると8時過ぎにチェックアウトする。
今朝は生憎と雨がぱらついている。その中を東北道に向けて走る。途中で車を道路脇に停めて、携帯をネットにつないで夏の遠征用のANA旅割切符の先行予約。本当はこれは昨日にやりたくて出来なかったことである。
花巻南ICから東北道に乗ると、花巻JCTで釜石道に乗り換えて東進する。私が以前にここを通った時には釜石道は土沢の手前までしか開通していなかったが、今はその先まで通じている模様。サブのカーナビのなびすけが使用しているグーグルマップには記載があるのだが、私のメインのカーナビのデータには載っていない。そこでカーナビの指示を無視してそのまま直進。鱒沢で釜石道から国道107号線に乗り継ぐ。これでかなり予定よりも時間を稼げた。
まもなく遠野に到着。駅前を走るが、駅周辺はややレトロな田舎町という風情。とりあえずは「鍋倉城」を目指す。鍋倉城は記録によると16世紀末には阿曽沼氏によって築城された横田城から発祥しているとのこと。阿曽沼氏没落後には南部氏の領土となり、1627年に八戸から南部直義が入って本拠地とし、そのまま明治まで存続したらしい。
左 JR遠野駅 中央 遠野駅前 右 鍋倉城は奥の山上 鍋倉城は遠野市街南部の小高い山上にあり、三の丸まで車で乗り入れることが出来るようになっている。手前にも出曲輪のような場所があるが、そこは現在は神社になっている。また三の丸に向かう途中で搦手口の横を通ることになる。
三の丸広場は公園化していて奥にはふるさと創生一億円(竹下政権による人気取りバラマキである)によって建てられたというインチキ天守も鎮座している。ここに登ると遠野市街を一望できる。
左 南部神社 中央 山道を進む 右 本丸搦手口 左 三の丸から見た本丸 中央 三の丸は公園化している 右 インチキ天守 展望台から望む遠野市街 三の丸を一回りすると本丸へ登る。何があるというわけではないが、虎口の跡は残っている。また八幡神社跡なども発掘されたようだが、今は完全に埋め戻されている。
左 大手門跡 中央 本丸登り口 右 本丸 本丸風景
左 八幡神社跡 中央 搦手門跡 右 本丸館玄関跡 本丸からは深い堀を隔てて二の丸が隣接している。しかし二の丸は今は墓地となっていて立入不可。なお先ほどの搦手口はこの間にある。上から見るとかなり複雑な構造になっているのが分かる。
左 堀切を隔てた向こうが二の丸 中央 二の丸と本丸の間の堀切 右 搦手口を内側から 実際にはこれらの曲輪を取り囲んでさらに複数の曲輪があるようだが、そこまでは調べる時間も体力も気力もなかった。ただ「ろくに遺構は残っていないだろう」という私の予想に反して、意外にも遺構が多く残っていて見応えもある城郭であった。
鍋倉城の見学を終えると、その麓にある遠野市立博物館に入館。中では遠野の文化に纏わる展示や遠野物語のビデオ上映など。遠野物語のアニメは水木しげる原作で野沢雅子が声をつとめるというもの。なかなかに楽しい内容であった。
遠野市立博物館
博物館から出てきた時には入館時には小降りだった雨が豪雨に転じていた。慌てて車のところまで走ると次の目的地に向かうことにする。本来は遠野の自然などを時間をかけて散策するのが良いのだろうが、生憎の天候である上に今日は長駆する必要があるので時間が足りない。とりあえず近くの道の駅で昼食だけ摂って次の目的地へと急ぐことにする。なおこの昼食、普通の蕎麦定食なのだが、そばに添えてある海苔にカッパの絵があったのが特徴。道の駅の土産物もカッパ一色であった。
昼食を終えると国道340号線経由で宮古を目指す。当初は釜石を経由するつもりだったが、遠野で予定以上に長時間を費やしたので予定変更である。しかしこの道が300番台国道のお約束というかの酷道。途中でセンターラインが消え、すれ違い不可の隘路が延々と続くなど、辛うじて舗装されているだけの山道に転じる。また道の傾斜も半端ない上にカーブもきつく、さすがに道がこれでは走行の平均速度は低下せざるを得ない。幸いだったのはさすがに対向車も皆無だったこと。ただこのことが逆に不安感を増させることにもなったが。
雨の中を走る
国道106号に当たるまではギュインギュインの山道走行をする羽目になった。おかげで遠征に出た頃にはどことなくしっくりと来ていなかったノートのフィーリングが、この頃には完全にしっくりと把握できるようになっていた。
国道106号に出た時には一転して晴れていた
国道106号は山間の道だが完全に整備された走りやすい道。ところどころ道路に沿って山田線の線路が見える。また宮古方面への幹線ということで通行量も多い。おかげで自分のペースで走ることが出来ないので、その点ではストレスはある。
宮古は一見したところ普通 しばしのドライビングの後にようやく宮古に到着する。先の震災では宮古もかなりの被害を受けたと聞いているが、市街中心部を車から眺めた限りでは震災の影響は見られない。宮古は明らかに復興の局面に入っているようである。またいずれ鉄道を中心とした三陸方面遠征を考えているが、その際には宮古が宿泊地になりそうである。
一転して田老地区の惨状 宮古の周辺でガソリン補給をしてから北上。途中で田老地区を通るが、ここは目を覆うような悲惨さ。集落が全く根こそぎなくなってしまっている。本遠征で初めて眼にした津波の被害の光景であった。海側には防潮堤が見られたが、皮肉なことにこの防潮堤が先の津波では単なる目隠しになってしまったのである。これだけの防潮堤があったが故の油断は間違いなくあったであろう。所詮は人間の為すことなど大自然の前では無力であるということか。
小本で国道485号(小本街道)に乗り換えて山間部へと進んでいく。次の目的地は岩泉の龍泉洞。秋芳洞、龍河洞と共に日本三大鍾乳洞に数えられる鍾乳洞である。なおそこの龍泉洞温泉ホテルが今日の宿泊地である。
龍泉洞入口
龍泉洞は観光洞として整備されており、辺りは土産物店から飲食店まで完備である。入洞券を購入すると入洞する。
龍泉洞の最大の特徴はとにかく水が多いこと。最大の見所は最深部に複数ある地底湖。洞窟はこの奥までさらに続いているとのことだが、全長がどのくらいかはまだ把握されていないらしい。この地底湖はとにかく水の透明度が高いのが特徴。ちなみに龍泉洞の水は名水として販売されている模様。
龍泉洞と道路を挟んだ向かいには龍泉新洞がある。こちらは博物館と称して洞窟自体を展示している。鍾乳石はこちらの方が多彩な印象で、鍾乳洞を鑑賞するという意味ではこちらもかなり楽しい。またこちらの洞窟は古代人が暮らしていた跡もあるとのことで、考古学的な資料でもある。そのせいかは不明だが、なぜかこちらの洞窟内は撮影不可。
龍泉新洞入口
これで三大鍾乳洞を制覇ということになるのだが、それぞれ特徴がかなり違う。とにかく規模が大きいのは秋芳洞で洞窟の規模は桁違い。また鍾乳石の種類も多彩である。龍河洞はダンジョンめいていていかにも洞窟探検の趣が強い。この龍泉洞は地底湖は非常に充実しているが、鍾乳石の方はあまり見られない印象。まあ昔から「三大○○」なんての選定基準は特にないが、そこには挙げられてなくても印象的な洞窟は他にもあった。例えば大分の風連鍾乳洞などはかなり印象に残っている。
龍泉洞を見学した後は近くの岩泉駅を見に行く。岩泉駅はローカル線岩泉線の終着駅であるが、岩泉線は数年前の落盤事故で運休中である。地元は早期の復旧を訴えているが、ボッタクリの新幹線と牛詰めの東京近郊路線というボロ儲け路線以外は営業したくないと考えている「利益優先の民間会社」JR東日本は、当然のように岩泉線のようなローカル線を復旧する気などサラサラ無く、交渉は難航しておりこのまま廃線になる可能性が極めて高いのが現状である。訪れた岩泉駅も閑散としておりこのまま行けばいずれは廃墟になりそうな空気が漂っていた。秘境路線として鉄道マニアには人気の路線だが、まあ利益の亡者のJRでなくても、まさか鉄道マニアのためだけに工事費に大枚はたくわけにもいかないというのは分からないではない。残る手は第三セクターだが、過疎化が進んでいる上に震災の影響で更に人口減少が見込まれるこの地域の自治体に工事の財源があるとは思えない。最後の手段は土建利権の回復のための公共事業バラマキを実行中の自民党政権の下で、うまく震災復興に潜り込ませるかぐらいか。しかしこれも岩手は小沢一郎の地元ということで嫌がらせを受けている状況なので困難。八方塞がりである。
岩泉駅
ところで岩泉駅の近くを車で走っていた時に、魔王様の車に遭遇することとなった。何しろナンバーが「ま 666」。これはどう考えても狙って取ったとしか思えない。さぞかしファンキーなドライバーでは・・・と思ったのだが、車自体は至って普通でファンキーでもヤンキーでもなかった。さすがに今の時代は魔王様も世に潜んでひっそりとお暮らしになっているようである。そう言えばNHKで相撲解説している魔王もいるし、今時は勇者とラブラブになる魔王とか、バイトに精を出している魔王なんてのもいるらしい。
岩泉駅を見学した後は近くのコンビニでおやつを若干買い込んでからホテルにチェックインする。龍泉洞温泉ホテルは典型的な観光地ホテル。やや設備が古びている感があるのと、どことなく活気が感じられないのが気になるところ。
ホテルにチェックインするととりあえず入浴である。今日はかなり汗をかいた。なおこのホテルの大浴場は、その名に反して実は温泉ではない。それがいささか寂しくはある。まあそれでも大浴場はそれなりに快適ではある。
入浴を終えると龍泉洞地サイダーを飲みながら夕食まで部屋でマッタリとする。どうやらここは辛うじてiphone5のデータ通信はつながるようなので、なんとかテザリングでインターネット接続は可能。しかしいささか不安定ではある。
龍泉洞地サイダー
時間が来たので夕食会場へ。夕食は例によっての会席料理。このホテル自体は一応地産地消を掲げているようだ。椎茸などは地元素材か。いずれも料理の味は良い。ただ配膳の段取りなど、どうもサービス側の対応が今一つの感がある。
夕食を終えて部屋に戻ると布団が敷いてあった。布団に入ってしばしテレビをボンヤリと見ているが、とにかく最近は見るべきテレビ番組が皆無。その内に疲れが押し寄せてくる。今日は歩行こそ7000歩程度だが、とにかく長時間の運転でそれが身体に堪えている。結局は今日も早々と寝てしまう。
☆☆☆☆☆
昨晩は爆睡したようで、朝の6時に目覚ましで起こされる。とりあえず朝風呂で目を覚ましてから朝食。8時過ぎにチェックアウトする。
今日は一般道を200キロほど走る必要があるかなり過酷なスケジュール。最初に立ち寄ったのは龍泉洞の20キロほど北にある安家洞。昨日になってこちらでこの鍾乳洞の案内看板を見つけたので、急遽立ち寄り予定先に加えたところである。現地には8時半過ぎに到着。しかし入口はまだ閉まっている。どうやら9時にならないと開かないらしい。
この辺りはかなり寒い。その中で30分程待つと、ようやく係のおばさんが出勤してくる。洞窟内の明かりが点ると、入洞料を払ってからヘルメットを借りて入洞する。なお先日の龍泉洞で洞窟内の撮影がうまくいかなかった反省から、今回は一脚を持参している。
序盤はただのトンネルという印象 安家洞は日本最長の洞窟と銘打っているが、主洞の長さが2300メートルでさらに無数の支洞が迷路のように延びており、その全貌ははっきりしていない。なお現在観光洞として公開されているのはそのほんの入口部分のようだ。とにかく長い洞窟である。また途中で天井が低い箇所もいくつかあるので、盛大に頭をぶつけてしまい、ヘルメットを貸し出している理由が納得できた。もっともヘルメットのおかげで頭を怪我はしなかったが、衝撃がまともに首に来るのでむち打ちになりそうになった。
本格的に鍾乳石が見られるのは中盤以降 洞窟内は当然のことながら全く人気がない。最初はただのトンネルを潜っていくような印象だが、中盤以降から多彩な鍾乳石を目にすることが出来る。またかなり支洞も多いようで、道を間違えたら帰ってこられないのではないかという気がする。もしこんなところで明かりが消えたらパニックだなということが頭に浮かぶ。もし地震でも起きたらどうしようということが一瞬頭をよぎる。とてもではないが手探りで動けるような洞窟ではない。やはり洞窟探検の時は何らかの照明器具を持参した方が精神衛生上良いように思われる。
ここが終点
しばらく進むと終点。まだまだ洞窟は先に続いているのだが、そこから先は立ち入り禁止である。ここで折り返す。外に出ると空気がヒンヤリしているのを感じる。
なかなかに鍾乳洞らしい鍾乳洞であった。とりあえず次の目的地である三戸城を目指して県道202号線を西進する。しかしこれがとんでもない道。明らかに山間の生活道路である。完全に道路幅が1.0車線なので、ごくたまに対向車が来たらすれ違いが大変。しかし実際には車はほとんど走っていない。たまに地元の人が通りかかると、見たことのない他県ナンバーに珍しそうな様子。
砂利道を突っ走る
山道を走ること1時間弱。しかしここで行く手を阻まれる。どうやら山間部を経由する部分がGW明けまで冬期通行止めらしくてゲートが閉まっている。万事休す。またあの道を延々と引き返すのか? それはどう考えても時間の無駄であるだけでなくゾッとしない。カーナビを調べても道は全くないのだが、グーグルマップを調べると何やらここから北に向かって細い道が通じている模様。ええい、もうこうなったら行けるところまで行ってやれとやけくそ気味にその道に乗り入れる。しかしその道は当然ながらとんでもない道であった。まず車線が消え(それは予想通り)、ついには舗装まで消えた。砂利道を小石を巻き上げながら走行する羽目に。本当に道が通じているのかと不安になるが、途中で一台だけ対向車がいたということは、少なくともどこかにはつながっているのだろうと考えて山道をひたすら直進する。
今度は雪
悪路を走行すること数十分、ようやく舗装が復活して、整備されているらしき道路に出てきてホッとする。しかしそれもつかの間、今度はドンドンと標高が上がって来るに連れて回りが雪景色に。とりあえず路面は今のところ積雪していないが、傾斜もきついワインディング道路であることから、もし積雪が発生すると万事休すである。とにかく慎重に、しかし急いでここを通り抜けることにする。
散々苦労して一山越えるとようやく平地の国道に到着。普通にセンターラインがある対面二車線の道路をこれだけありがたいと感じたのは久しぶりである。それにしてもまだ今日の全行程の半分も走っていないのに、ここまでで異常に疲れてしまった。まだまだ次の目的地である三戸までは遠い道のりである。
三戸に到着した頃にはなかば朦朧としかけていた。気を張っているので居眠り運転こそしていないが、注意が散漫になる寸前まで来ているのは自分でも分かる。「三戸城」は三戸市街地の真ん中にある。アクセス道は幅が狭いのだが、山上に上ってしまうと公園整備されていてかなり広大である。
山上は完全に公園整備されている
三戸城は南部氏の城郭であり、南部晴政が築いたとされている。その後南部氏の居城として使用される。南部氏の後継争いに端を発した九戸政実の反乱の際には奥州再仕置軍を率いる蒲生氏郷の手によって近世城郭として整備され、南部氏が盛岡城に居城を移した後も城自体は保持され続けたという。現在は本丸部分は完全に公園化しており、本丸より一段低い部分が多目的広場となっていて駐車場も完備している。本丸では桜祭りが開催中であるが、ここのところの天候不順のせいで肝心の桜が全くのかなり残念な状態。
左 城跡碑はあるものの完全に公園 中央 太鼓櫓跡 右 この神社も本丸跡らしい 左 温故館(つまりはインチキ天守) 右 内部に展示してあった三戸城の模型 三戸城の縄張りは川沿いの台地上で北東を一番奥に、南西に向かって下っていく連郭形式になっている。そこで南西方向に向けて下っていく。となりの郭には神社があり、その奥にある天守らしき建物が温故館という郷土歴史博物館。まあいわゆるインチキ天守である。
左 中央通路の両脇に曲輪がある 中央 欅御門跡 右 一段下の曲輪から上を見てみる 左 北信愛屋敷跡 中央 鳩御門跡 右 武者溜まり 左 武者溜まりの先に綱御門 中央 綱御門を外から 右 近くにある石垣は当時のものか そこをさらに進むと中央の通路の両脇に数段になった曲輪が続く構造。曲輪の間には門跡があるが、一番下の綱御門が復元されている。ここは事実上の大手門であり、防御の要として石垣で固めた上に背後には武者溜も用意して、多くの兵を伏せられるようにしてある。なおこの綱御門もふるさと創生一億円で建設されたとか。
物見台
綱御門の先には物見台があるが、ここが台地の一番どん詰まり。ここまでが城域というところか。
公園整備の際に大分手が入ってしまっているので、構造は往時といささか変化している可能性があるが、それでもあまり複雑な構造の城ではなかったようである。台地上をフルに利用しているので面積は広いが、構造は曲輪が並列につながっているだけで、大手門である綱御門を破られると第二、第三の防御の仕掛けは弱いように思われた。そういう意味でこの城は中世の館跡の延長なのだろう。やはり後世の盛岡城の方が明らかに縄張り的に洗練されている。
三戸城を後にすると次の目的地は七戸城。途中で十和田市を通ったので、回転寿司で間に合わせの昼食。ついでに現代美術館にでも立ち寄りたいところだが時間がないので先を急ぐことにする。
十和田市から北上することしばし、ようやく七戸町に到着する。七戸は私が予想していたよりは大きな町である。まずは「七戸城」を目指して町内をグルグル。町役場の北側に復元した東門と案内看板があり、車を停められるスペースもあったのでここに車を置いて見学に向かう。
復元東門 トイレの男女表記がなんか笑えた 七戸城はその築城年代は定かではないが、南北朝期に遡るのではないかと言われている。永らく七戸南部氏の居城として使用されたが、九戸政実の反乱の際にそれに荷担したために七戸南部氏は滅亡してしまって廃城となったという。しかしその戦略的重要性から南部藩の支城として再び維持されることになり、そのまま明治を迎えたとのこと。
七戸城構造と北館復元計画 七戸城は今は柏葉公園となっているが、私が予想していたよりもはるかに規模の大きい城郭である。東門をくぐって前進すると右手と左手に台地があるが、七戸城の本体は左手の台地の上のようである。右手の台地は貝の口という独立曲輪だが、ここだけでもかなりの規模がある。広大な曲輪を横に並べた形というのがいかにも中世的であるし、また二戸城などこの辺りの城郭に共通する性格を思わせる。
東門内の風景 左側が本城 左手の台地はいくつかに分かれているが、北館と本城の間には堀があり、ここから姫塚の横を通って本城に登れる。本城は今では完全に公園になってしまっている。面積はかなり広い。また東門から登った時にはそれほど高度を感じなかったのだが、この公園から東側の市街を見ると意外と高度がある。また西側には土塁が築かれ、隅には大きな土盛がある。ただここは櫓台にしては整地がされていない。
左 本城への登り口 中央 二の丸は完全に公園化している 右 かなり広い 二の丸の周囲の風景 本城の南側は神社になっている。ご神木だと思われるかなり立派な木が生えている。
ご神木だと思われる大木
左 この神社がかつての本丸 中央 本丸登り口は今では参道 右 隣の曲輪が見える 本城と水堀を隔てて西にあるのが北館。ここでは遺跡の復元を試みるとのことで現在は工事中である。完成後には往時の館が復元されるらしい。
左 姫塚 中央 本城と北館の間の水堀 右 北館にはまだ何もない 南部にもまだ複数の曲輪があるようなのだが、そこを歩き回る体力も時間ももう既に残ってはいなかった。ここまで大規模な城郭を想定していなかった私の計算の甘さである。若干の心残りもあるが先を急ぐことにする。
七戸城を後にすると北上、途中で新幹線の七戸十和田駅の前を通るが、こんなところにどうするんだろうというところに駅がある。せめてもう少し七戸市街にちかければ良いのだが、いかにも半端な場所である。
国道4号(奥州街道)を北上、途中からみちのく有料道路に乗り換える。みちのく有料道路は本当に何もないところを通過する道路。終点から再び国道4号に合流すると、目的地の浅虫温泉はすぐである。
浅虫温泉は海のすぐそば
ようやく到着。とにかく疲れた。今日はひたすら運転ばかりしていたという印象。とりあえず浅虫温泉海扇閣にチェックインすると、夕食を摂る店を探すがてらに街をフラフラする。浅虫温泉だったら別にホテルで夕食を摂らなくても飲食店ぐらいいくらでもあるだろうと考えて夕食なしプランにしたのだが、いざ現地に到着してみると思いの外寂れている雰囲気で飲食店もそう多くない。結局は途中で見かけた鶴亀屋食堂に入店。どうやらマグロ丼が売りの店のようだが、マグロばかり食べたいという気はないのでウニとのハーフ丼(3000円)を注文する。
少々高いが観光地価格で仕方ないかと思っていたが、出てきた丼のボリュームを見て絶句。今になって店内に「食べ残しの持ち帰りは出来ません」という貼り紙がしてあった理由がよく分かった。ちなみにマグロ丼を頼んだ客の場合はもっと凄まじく、一瞬絶句した後に爆笑していた。ただ現在の私としては、もう少しボリュームを減らして価格も抑えて欲しいところ(だからマグロ丼には小もあったようだが、ハーフ丼はワンサイズだった)。またウニはともかく、マグロばかりはとてもではないがこんなに食べられなかった(脂が多いので途中で気分が悪くなる)。まあ久しぶりにウニを堪能したが。
とんでもない丼 とりあえず腹を膨らませると、途中で土産物とおやつを仕入れてホテルに戻ってくる。ホテルに戻ると展望大浴場で入浴である。浅虫温泉の泉質は海のそばの塩化物泉ということなので、端的に言えば「地下で温まった海水」。しかし塩化物泉は温まる系の湯なので、このような北国には適していると言えるだろう。このホテルの大浴場は海が見えてなかなかのもの。露天でゆっくりとくつろぐ。
入浴を終えてプラプラしていると一階ホールで津軽三味線の生演奏があるとのことなのでそこに出向く。やはり青森と言えば津軽三味線。あのピンと張った音色が心に響く。
津軽三味線生演奏
アトラクションが終わった後には再び入浴、そうこうしているうちに半端でない疲労が押し寄せてくるのでそのまま就寝する。
☆☆☆☆☆
翌朝は4時半に一旦目が覚めてから、そのまま6時前まで布団の中でウダウダ。やはり体の疲労が半端ではないのを感じる。とりあえず6時に起き出すと例によって朝風呂。ようやく目が覚めたところで朝食に繰り出す。
荷物をまとめてホテルをチェックアウトしたのは「あまちゃん」のOPが聞こえてきた8時頃。どうもあの軽〜いOPは私にとっての進軍ラッパみたいなものか。ちなみに東北では南部は「八重の桜」一色、北部は「あまちゃん」一色の雰囲気。ただやはり会津と三陸の気合いの入り方は尋常ではない。
ホテルをチェックアウトすると、まずは最初の目的地である「浪岡城」を目指して車を走らせる。浪岡城は南北朝期にこの地の国司であった北畠氏が本拠としていた城。しかし下克上の世の中になっていくにつれて北畠氏も衰退、最後は大浦氏によって攻められて浪岡城も落城、北畠氏は滅亡したとのこと。現在は城跡が国の史跡に指定されているとか。
出典:余湖くんのホームページ 城跡の手前に中世の館という歴史資料館があるので、そこでまず浪岡城について予習してから現地に向かう。
中世の館と同じ敷地内にある旧坪田家住宅 現地は川筋に沿って存在しており、複数の曲輪が橋でつながる構造になっている。城跡の南東に案内所があるのでそこに車を停めて現地を見学することにする。現在は堀に水はないが、かつてはこれらの堀は川とつながって水城となっていたのであろうと思われる。川の中の島が橋でつながっているような構造になり、なかなかに堅固な防御とも言える。
最初に登るのは東館 周回ルートに従って城内を回ると、まずは東館にたどり着くことになる。ここだけでも結構な広さがある。
東館から土塁上を渡って北館へ ここからはまるで廊下のような構造になっている土塁に橋で渡って移動することになるが、ここを通る敵は隣の曲輪から完全に狙い撃ちされる構造になっている。これは防御のための知恵である。
左 井戸の跡 中央 建物跡の復元 右 北館復元イメージ図 北館は建物の跡と木塀が復元されている。復元塀は見学者を迷わせないように低く作ってあるが、往時はこれは視界を塞ぐ高さであったはずなので、曲輪の中に敵が入り込んだとしても迷路のような通路で迷わされることになり、分断されて討ち取られるという仕掛けだろう。
迷路のような土塁上を渡っていく 左 内館入口には一応虎口のような構造がある 中央 内館は広い 右 裏手に川が見えている ここからまた土塁を経て到達するのが内館。ここは浪岡川を背にした一番奥の部分にあることから、ここに城主の館があったのではないかと推測される。現在は南側の川縁に降りられるようになっているが、そもそもはここは断崖で川に面していたのだろう。なおこの隣には猿楽館と称される曲輪があるが、何に使われていたかは定かではないそうな。
左 内館川側のこの降り口は多分後付け 中央 川側から内館 右 猿楽館 さすがに国司の本拠だけあって堂々たる巨大城郭である。また曲輪の配置はどことなく七戸城などと共通するものを感じさせ、この辺りの城郭の伝統なのかもしれない。実に見応えのある城郭であった。
浪岡城の見学を終えた後は黒石市を目指す。目的は重伝建に指定されている黒石市中町。しばし車を走らせると特徴のある町並みにたどり着くのですぐに場所は分かる。ただ問題は車を停める場所が全く見つからないこと。仕方ないので近くの市役所の駐車場に車を停め、市役所でどこかに観光用の駐車場がないかを聞いたところ、ここに停めて徒歩で観光してくれたらいいとのことなのでそのまま出かけることにする。
左 これが「こみせ」 中央 バス停です 右 こみせのついた建物が並ぶ 左 ここは造り酒屋 中央・右 建物の種類は結構ある 黒石市中町はかつて街道沿いの商家町として栄えたという。一番の特徴は「こみせ」と呼ばれる建物前の張り出し。雪国ならではの木造アーケードである。冬には雪を防ぎ、夏には日差しを防ぐ役目を果たしているという。
町並み保存地域内にはこの手の町並みには定番の大手醸造所などを始め、今でも往時の風情ある建物が残っている。またこれは江戸期のものではないが、なかなかに風情のある消防署なども。
消防署 町並みを一回りすると町並み内の飲食店「御幸」で昼食を摂ることにする。注文したのは何のひねりもないえびフライとトンカツの定食。ここのところ旅館の会席膳が続いたために、たまにこういうものが食べたくなった次第。
町並みを一回りして車に帰ってくるとかなり汗をかいた。黒石と言えば温泉もあることで有名。そこで黒石温泉に繰り出す。しかし当初予定していた温泉は今日は休業とのこと。そこで隣の湯温温泉を訪問、立ち寄ったのは鶴の名湯という共同浴場。町の温泉銭湯というところ。すばらしいのは入湯料が200円と馬鹿安なこと。サッパリとした塩化物泉で温まる湯。東北には結構良い温泉地が多そうである。
鶴の名湯
温泉で汗を流してサッパリしたところで次の目的地へ向かう。次の目的地は「堀越城」。しかし現地に到着すると何やら工事中の上に車でのアクセスルートが分からない。何回か回りをウロウロした挙句、神社の鳥居の中に車で入れそうなことを見つけてそのまま車で進む。
左 向こうの鳥居を潜って入った 中央 内側から入口の土塁 右 本丸は神社 左・中央 内部は何やら大規模工事中 右 周囲の堀跡らしきところも工事中 とりあえず神社の前に車を置いて一回りしてみるが、工事中であることを除いても特に土塁以外には見るべきものが何もない。一体これからどういう整備をするつもりなのか不明だが、その成果如何というところか。なおこの城を居城としていた大浦氏は後に弘前城に移ったとのことだが、本丸部分がこの神社部分だけだとすると弘前城に比べるとあまりに手狭な印象は否定できないし、防備の点でもやや心許なさがある。
後は今日の宿泊予定地の十和田湖まで走るだけ。東北道で小坂ICまで移動すると、そこから県道2号で北上する。しかし段々と雨が激しくなってきて不穏な雰囲気。それどころか十和田湖周辺の山岳地帯に差し掛かった途端、その雨が雪に変わる。まさかこの時期に雪に遭遇しようとは。しかも関西人の私はそもそも雪用タイヤもチェーンも持っていない。万一積もるようなことになったら進退窮まる。とりあえず今のところは積もりそうな気配はないことを確認しつつ、慎重に車を走らせる。
十和田湖までの道はとんでもないことに ようやく十和田湖に降りてきたがどんよりと曇っていて湖ははっきりと見えない。どこかに車を停めて湖面見学でもしたいところだが、車を停められるところが見当たらない。そこで仕方ないのでまず今日の宿に向かうことにする。
どうも天候が良くない
今日宿泊するのは民宿春山荘。民宿の利用はかなり久しぶりである。とりあえず駐車場に車を入れて荷物を部屋に運び込むと徒歩で湖の見学に向かう。
観光港からは遊覧船が出ているが、次の船までは30分以上ある模様。そこでしばし辺りをウロウロして時間をつぶす。しかし辺りは土産物屋の廃墟やホテルの廃墟など廃墟が多くてわびさびの情緒が漂っている。日本のいずこでも進んでいる定番観光地の衰退というやつだろうか。軽く何かを食べたいと考えていたが、それに適した店が見あたらないので、結局は乗船場に戻ってきてそばを食べることに。そうこうしているうちに遊覧船の出発時刻が近づいてきたので乗船券を購入してから乗り込む。これは十和田湖を回って帰ってくる最後の便とのこと。
いざ乗船
未だに雨はぱらついているが辛うじて視界は確保されている。乗船客は10人程度といったところ。十和田湖は山が陥没して出来たカルデラ湖なので回りの地形が断崖であり、景色的には面白いものが多い。とにかくその高度といい、形といい、どことなく不思議な感じのある湖である。なお回りから隔絶していることから非常に生態系に乏しい湖だったらしく、現在の鱒の養殖が成功するまでにはかなりの苦労があったらしい。
十和田湖は場所によっていろいろな表情を見せる 生憎の天候だったのがやや残念だが、それでも遊覧中には霧は若干晴れてきたので風景はなんとか見ることができた。船は途中で願掛けで有名というポジションに到着したので、乗客全員願い事を書いた札を持って甲板へ。説明によると海に投げた札がまっすぐに海中に沈んでいったら願いが叶うそうな。良縁祈願をこめて投げた私の札は、見事に全く沈むことなく海面を漂っていく・・・ダメだこりゃ。
乙女の像
1時間ほどのクルーズを終えて港に戻ってくると、もうすることもないので宿に直行することにする。宿に入るとまず入浴。風呂は家庭風呂程度のものだが、一応は温泉らしい。とりあえずはさっぱりと汗を流す。
夕食は鱒を中心としたメニュー。素朴であるがなかなかうまい。ただ夕食を終えるとテレビを見るぐらいしかする事がなくなってしまう。しかし例によってろくな番組がない。布団にゴロンと寝転がってテレビを見ているうち、いつの間にやらウトウトと意識を失ってしまったのであった。
☆☆☆☆☆
部屋で意識を失ったのはまだ9時過ぎ頃だったはずだが、そのまま6時ごろまで完全に爆睡をしていた。どうも昼間に長距離運転(ここ数日は1日200キロがノルマのようになってしまっている)をし、夜は早目から爆睡というパターンになってしまっている。荷物をまとめてから宿で朝食を摂ると、早目にチェックアウトする。今日もはるばる秋田まで移動する必要がある上に、立ち寄り先は今までで一番多いスケジュールの強行軍である。それにしても改めて無茶なスケジュールを組んだものだと痛感する。まるで東北一周ドライビングツアーになってしまっている。
十和田湖周囲の山は雪で白くなっているが、幸いに道路には積雪がない。今日は昨日よりも霧が晴れているので、途中の展望台で十和田湖を撮影。ただし車から降りたら身を切られるように寒い。完全に外の気候は真冬である。
山間を縫う県道を走行してまず目指すは大館。大館城を見学する予定である。
かなり長距離のドライビングの後に「大館城」に到着したが、車がやたらに多くて駐車場所が見つからずにウロウロする羽目に。何度か回りを回った挙句、ようやく市役所の駐車場に一台分のスペースを見つけて駐車する。
左 案内看板 中央 ここは大手跡か 右 大手脇の堀 左 本丸は完全に公園化 中央 こちらの橋は搦手口で道路は堀跡というところか 右 裏手は結構な高さがある 本丸上は今では完全に公園化されており、人でごった返している。花見客かと思ったが、桜の花はまだ咲いている様子がない。よく見ているとやたらに犬が多い。どうやら秋田犬のコンテストが行われている模様。城の遺構といえるようなものは全く残っていないし、犬には興味がない(と言うよりも嫌いである)ので早々に退散することにする。
城を後にしようとした時、近くに和洋折衷形式の風情ある建物を見かける。桜櫓館というらしい。開館時間が10分後ぐらいだったのでしばしその前で待つことにする。
桜櫓館は市制施行前の最後の町長の桜場文蔵氏の私邸とのこと。中央の展望台が特徴だが、彼はここから町を一望しながら町政に思いを巡らせたのだそうな。見所はとにかく良い木材を使っていること。床板や梁などに今ではなかなか使えないような立派な一枚板を惜しげもなく使用している。また障子一つ取っても細工が非常に細かく、かなり金をかけたお屋敷という印象を受ける。今では国の登録有形文化財に指定されているとのこと。
左 廊下の床板はなんと一枚張り 中央 和室の大広間 右 かなり良い木材を使用している 左 二階の和室 中央・右 恐ろしいほどに細工が細かい 左 望楼に登る階段 中央 望楼内部 右 入口は狭い(賊を防ぐためとも) 大館を後にすると羽州街道を能代方面に向かって走る。しかしここでGWが牙をむく。道路が渋滞にはまってノロノロ運転になってしまったのである。地方では幹線道路でも対面二車線が普通だから、一台のド下手ドライバーで簡単に詰まってしまう。そしてド下手ドライバーが大挙して繰り出してくるのがGWと年末年始である。
結局ところどころノロノロ運転の結果、能代に到着したのは予定よりかなり遅れた時刻になる。能代からは急いで山道を走る。下手くそな車につかえてしまう幹線道路より、邪魔な車が全くいない山道(たまに地元の軽トラックがゆっくり走っているが、大抵は追い越し可能である)の方が平均速度があがるというのがGWの現実。ここからは順調に走行する。次の目的地は檜山城である。
「檜山城」は安東氏が本拠としていた城郭で、戦国期を通じて安東氏の支配下にあったが、関ヶ原の合戦後の国替えで佐竹氏の城となる。佐竹氏配下の多賀谷氏の元で城の改築が行われたものの、一国一城令で廃城となったとのこと。
出典:余湖くんのホームページ 山上の城郭であるが、二の丸の近くまで車で行けると聞いている。実際に道幅はそう広くはないものの整備された道路が通っているので、二の丸の手前まで乗り入れてそこに車を置く。
左 三の丸 中央 かなり奥に深い 右 三の丸先端部 左 三の丸からの風景 中央 下には大きな堀切が見える 右 堀切を下で見るとこの規模 車道の脇にあった曲輪が三の丸。細長い曲輪で先端には大きな堀切が切ってある。ここはかなりの面積がある。
左 二の丸 中央 二の丸から本丸へ登る 右 本丸 左 本丸から南の曲輪を見下ろす 中央 下の曲輪から本丸 右 南の曲輪の先端 反対側が二の丸だが、ここはそう大きなスペースではない。ここからさらに進むと本丸。ここがこの城の中心部であり、最高所に陣取っていることになる。ここを中心に四方に曲輪が伸びているのだが、特に東側に尾根沿いに延びる曲輪の連なりが大規模。
左 東の曲輪に回り込む 中央 東の曲輪 右 先端の枡形虎口 本丸から降りるとその東側の尾根に進む。かなり大規模な曲輪が連なっていて相当の兵力を置くことができると考えられる。曲輪の東端には枡形虎口があり、その先には堀切も見られる。一応城域はここまでのように見えるのだが、実際にはさらに東部にもつながっている。
左 枡形虎口を抜けると 中央 さらに先に進む 右 すぐに堀切に当たる 左 堀切の先は不整地 中央 先に進むと小高い丘が 右 これが将軍山 堀切の先は斜面を登ることになるが、かなり凸凹が激しくて曲輪としての整地はされていないようである。そこをさらに進むと小高い丘のような地形があるのだが、それが将軍山。かなり高いが櫓台として整地されたようなものではなく、自然の小山のようである。
左 将軍山から北に折れると平らな曲輪が 中央 先に土塁に囲まれた部分がある 右 かなり厳重に囲っている ここから北に折れると曲輪らしい平地があり、その先に土塁で囲まれた一角がある。案内では祠跡のようなことが書いてあるが、それにしてはあまりに厳重である。火薬庫跡ではないかとの説もあるようだが、私もそれに同意である。
檜山城は私が予想していたよりも遥かに大規模な城郭であった。100名城クラスの城郭がこんなところにもあろうとは。なかなかに堪能したが、それだけ歩き回ったので足へのダメージもかなりある。それと失敗したのは、ここ数日来の雨のせいか地面がぬかるんでいた部分があって、そこに両足が沈んで(危うく足首まで沈むところだった)靴が泥だらけになってしまったこと。これは後で靴が臭ったり痛んだりすることになりそうである。しかしそんなことにかまっていられない。次の目的地を目指して県道を南下する。ただ吹きっさらしの道路である上に横風がかなり強くなってきたようだ。時折車が揺らぐのが感じられる。途中の道の駅で昼食と甘物で燃料補給しつつ次の目的地へと向かう。
次の目的地は「浦城」。この城についてはネットでの事前の調査でも十分な情報が出てこなかったのでやや不安がある。実際、現地に到着した途端に登り口がわからずに右往左往。東の方に看板があったのでそこから登ってみたものの、祠があるだけで登り道らしきものはなく引き返すことに。結局は山裾沿いに路地を西に走ったところでようやく登り口を発見。登山者用に駐車場まで完備されていた。ここまで整備するなら手前の県道のところに案内看板を立てておいてほしいところ。
入口の脇に案内看板がある 駐車場に車を置くと登りにかかる。本格的な登りになるが足下は整備されているし、10分弱でヨレヨレになりながらも山上に到着する。
左 山上に上るといきなり木柵が 中央 屋敷跡とある 右 その先にかなり高い曲輪が 左 振り返ってみると高い 中央 鬱蒼とした中を進む 右 畝郭とある 山上では曲輪跡が復元されており、木柵や櫓台などが建っている。ただ驚くのは各曲輪間の起伏の差。本丸に至るには手前の曲輪を上がったり降りたりをしながら進んでいくしかない。
左 先に新たな曲輪が見えてくる 中央 鐘があるところは見張り台か 右 鐘 左 先に本丸が見えてきた 中央 本丸にはまた登る 右 本丸 左 かなり山深い 中央 本丸先にも二の丸がある 右 二の丸先端 縄張り自体は山上に地形に合わせて曲輪が一直線に並ぶだけの単純なもの。しかし全長が長いのと各曲輪の高低差が半端ではないので足の負担がなかなかにある。
左 入口の反対側にも曲輪がある 中央 ここもかなり広い 右 曲輪の先端部 左 かなり深い堀切がある 中央 曲輪の北には帯曲輪が 右 帯曲輪を通って入口に戻る 浦城の来歴については不明な点が多いらしい。三浦氏が城主だったと言われているが、築城時期は不明である。城主三浦盛永の時に湊安東家と身檜山安東家の内紛で湊方に味方し、檜山方から攻められて落城したとのこと。
この城については予想外だった。全国的な知名度が皆無に近いので、どうせ小さな城だろうと高を括っていたのだが、いざ現地を訪れると予想以上に本格的な山城で余裕で準100名城クラス。地元有志の手によってしっかりと維持管理されているようで状態も良好であった。こういうことがあるから城郭訪問は面白い。ただこの予想外はタイムスケジュールと体への負担の点でも想定外の事態を起こしている。本格山城連チャンで足のダメージがかなりだが、次を急ぐことにする。次はこの近くにある五城目城。
「五城目城」は先の湊騒動の後に藤原内記秀盛がこの地に築城して五城目氏を名乗ったとのこと。しかし秋田氏(安東氏)の移封に伴って五城目氏も移動したために廃城になったという。この歴史から見ると実質10年ちょっとしか使用されなかった城である。
左 かなり遠くからでもインチキ天守が見える 中央 森林資料館 右 見晴らしは抜群だが・・・ 五城目城は山頂のとんでも天守が大分遠くからでも見えるのですぐに見つかる。ちなみにこのとんでも天守は森林資料館とのことで、内部はそれに関連した展示がなされている(歴史博物館にするほどの歴史由来もないのだろう)。実際に現地を訪れるとあるのはこのとんでも天守ぐらいで、遺構らしきものはほとんどない。さっさと次の目的地へと急ぐことにする。次の目的地はなまはげの聖地こと男鹿半島。目指すは脇本城である。
「脇本城」は檜山城と同様に安東氏ゆかりの城郭である。湊騒動で安東氏を統一した安東愛季が居城としていたという。
脇本城は男鹿半島の海沿いの丘陵の上にある。国道101号を西進、巨大なまはげ像などを通り抜けてしばし走行すると国道に案内看板が出ているのでそこで右折して急な山道に入る。神社の脇を抜けて行き止まりまで登ると駐車スペースがあり、パンフレットまで用意されている。
天下道を進んでいくと視界が広がる 脇本城は国の史跡に指定されているが、現地も非常によく整備されている。とにかく呆れるのはその規模の巨大さ。堀底の通路を登っていくと、左右の広大な曲輪が目に入る。東側が城主の居館があった中心部、西側は家臣の屋敷が置かれていた部分である。
西の屋敷跡 西側の屋敷跡を一回りするが、とにかく広い。それと海の風景の雄大さには思わず飲まれる。男鹿半島の海岸線が一望でき、そこに打ち寄せる日本海の荒波が白波を立てているのが見える。
西の屋敷跡の先までやってくると風景に唖然とする ただ海沿いの吹きっさらしの高地なので風は強い。もし嵐が来たら城内はとんでもないことになりそうである。
西の屋敷跡から見た内舘 城主の館があったという内館はやや凝った構造になっていて、土塁なども残っている。
内舘の南側
左 奥の土塁を越える 中央 館神堂 右 建物跡だろうか ここからさらに奥にある馬乗り場を目指すことにする。案内図を見るとここから東に向かう道があるようなのでそれを通ることにしたのだが・・・これが完全に失敗だった。途中で道らしきものは完全に消滅して藪に突入。進退窮まってしまったのである。それでも半ば意地で藪をかき分けてガサガサと進む内にようやく道にたどり着いた。これがいわゆる天下道らしい。最初からここを通るのが正解である。
途中で完全に道に迷ったが、ようやく天下道にたどり着く 馬乗り場までは結構距離があるし起伏もそれなりにある。しかももう既に4時を回っている。もしこんなところで日没してしまえば完全に進退窮まって万事休すである。とにかく早足で急ぐ。しかし急ぎすぎたせいで途中で足を滑らせて大転倒。杖を持参していたおかげで幸いにしてけがはなかったが、こんなところで足を痛めでもしたらそれこそどうしようもなくなる。急ぎつつも慎重に進む必要がある。
馬乗り場はとにかくだだっ広いだけ ようやくたどり着いた馬乗り場はとにかく広大な広場。確かにその名の通り馬を乗り回すことも可能である。出城の扱いであるのだが、普通の城ならこの規模でも十分なように思われる。昔はここが本城だったのではなかろうか。
ざっと見学を終えると急ぎつつも慎重に来た道を引き返す。迫り来る夕闇に追われるように脇本城を後にすると、ようやく今日の宿泊地である秋田を目指す。今日の宿泊ホテルはルートイン系列のグランティア秋田。今回の遠征ではGW中の平日期間は温泉ホテル、休日期間はビジネスホテルというパターンになっているが、これはそもそも休日には大抵の温泉ホテルは一人プランがないかあっても異様に高価格になっているパターンが多いため。なんだかんだ言っても未だにビジネス以外の一人客はあまり歓迎されていないようである。しかも腹が立つことは「女性の一人旅プラン」を打ち出すホテルはたまにあるのに、「男性の一人旅」はないのである。これは差別ではないのか? おかしなことに日本では男性を優遇すると差別だと問題になるのに、女性を優遇するのは問題ないらしい。本来の男女同権運動家は女性の優遇も否定するのだが(だからレディーファーストにも反対する)、なぜか日本のその手の運動家には実質的に女性の優遇を主張する者が多い。
とりあえずホテルには日没前にたどり着く。ここのホテルは日帰り入浴施設を併設している構造になっており、宿泊客は無料で利用できる仕掛け。とりあえず衣類を洗濯機に放り込んでから大浴場に入浴に行くことにする。先ほど脇本城で大転倒したせいで、シャツからズボンまでドロドロになっていた。
とにかく今日はハードだった。今日も200キロは走っている上に、檜山城、浦城、脇本城のいずれも本格的山城。もう既に遠征終盤にさしかかって今までの疲労が蓄積している上に、今回の負荷は完全に私の限界を超えている。とにかくゆっくりと大浴場で入浴して、少しでも疲れを癒すことに気を付ける。
それにしても疲れた。ただそうなるのは遠征計画段階で予想の上だったので、宿泊は夕食付きのプランにしている。腹も減ったので入浴施設に併設しているレストランに夕食に出向く。夕食は刺身などの定食。量的にはこれで十分・・・のはずなんだが、あちこち回ってきたせいか無性に腹が減っている。結局は刺身にカニのサラダと卵焼きを追加注文。さらにはデザートまで。明らかにカロリーオーバーである。
完全に食べ過ぎ・・・ 入浴も済ませ、夕食も済ませ、後はマッタリと夜を過ごすだけ・・・。しかし実のところはそんな体力的余裕は全くなく、気が付けばそのまま寝てしまっていたのである。
☆☆☆☆☆
朝は6時頃に起床。とりあえず大浴場で朝風呂。内風呂はやけに湯がぬるかったので露天で体を温めるとそのままレストランへ。レストランは高齢者の団体客で大混雑。高齢者は朝が早いと言われるが、確かにその通りのようである。
朝をガッツリ食べると行動開始。いよいよ今日が東北での活動は実質的に最終日である。しかし実のところ当初のスケジュールでは今日は実質的に予備日的な扱いにしていたから、今日のスケジュールはほとんどいれていない。と言うのは、昨日のスケジュールがあまりにハードな設定になっていたし、遠征終盤のこの頃になるともう体力的にヘロヘロになっていることが予想され、昨日のスケジュールが予定通りこなせない可能性が高いと考えたからである。しかし実際には私は自分の想像を超える勤勉さで昨日のスケジュールを予定通り完璧にこなしてしまったのである。そこで昨晩、意識を失ってしまう前に急遽新スケジュールを設定してある。予定がなくなったらなくなったで一日温泉ででもマッタリすればよいのだが、どうもそれは私の性分が許さないところがある。やはり私は本業の仕事以外では異常に勤勉で活動的になるようである。
まず最初の目的地は「払田柵」。平安時代の遺跡で胆沢城などと同様に、坂上田村麻呂による蝦夷征伐に絡んだ施設であると考えられている。かなり重要な遺跡であるが、農村整備事業であやうく破壊されるところであったという。現在は国の史跡として整備保存されている。
資料館と模型 ここについては実は昨年夏の山形遠征の際に金沢柵と共に見学予定に入っていたのだが、時間不足のために省略したという経緯がある。ようやくの宿題解決である。
左 復元された門と塀 中央 何やら小屋が建っている 右 これは門の跡 払田柵は田んぼの中の小高い丘の上に本体がある。表には門や塀が復元されている。なおこの塀だが、木の板を直接に地面に打ち込んであるタイプなので、シロアリによる食害を受けた上に嵐で一度倒壊してしまったらしい。今はそのために裏からつっかえ棒をしてある。
左 政庁西御殿跡 中央 政庁南門と板塀跡 右 このようになっていたらしい 丘の上に登ってみると建物跡が残っている。それを見ているとやはりここは城郭と言うよりも政庁跡というのが正しいようである。確かに地形的に小高くはなっているものの決して険しくはなく、これでは防御はほとんど取れない。城郭とするなら切岸加工が不可欠であるが、そのような跡はない。施設の性質としては多賀城に近いように思える。
左・中央 東の丘の上の建物群 右 東の門の跡 広大な丘の中央に政庁の建物を置き、東西に通路が通ってその先に門があった模様である。となると入口は東西と南の三カ所か? これも城郭なら東西のどちらかを大手にして、反対側は搦手口、南北には水堀を築いてさらに丘は堀切でいくつかに分断しているだろう。
西の門の跡
どんなところだろうかと考えていたが、思った以上に充実した遺跡であった。ここは秋田城と共に私の100名遺跡入りである。
払田柵を後にすると次は城郭巡り。次の目的地は「大森城」。小野寺氏の城で、関ヶ原の合戦の際は小野寺氏は上杉氏配下としてここで最上氏等の一万余りの大軍の包囲の中で2ヶ月以上も耐え、最後まで落城しなかったとのこと。しかし関ヶ原での西軍敗北によって小野寺氏は城を明け渡して津和野に預けられることになり、かつての出羽の覇者・小野寺氏も歴史の表舞台から姿を消すことになる。
駐車場
周辺は運動公園のようなものに整備されており、城跡も半ば公園整備されている。駐車場に車を置いて本丸まで登るが、本丸跡は大森神社になっている。結構な広さはあり、高さもあるので市街を一望できるが城跡らしき遺構は特に残っていない。
左 正面の参道 中央 本丸の神社 右 本丸自体はかなり広い 本丸見学後は二の丸方面に下るが、こちらも完全に駐車場として整備されてしまっていて、城の遺構らしきものは見られない。失地回復を目指した小野寺氏の激戦の跡も歴史の狭間に埋もれてしまったようである。
左 曲輪跡なのか後世の改変なのか 中央・右 かつての二の丸跡もこの有様 大森城の次は「吉田城」を目指す。吉田城もやはり小野寺氏関連の城で、関ヶ原後に廃城となっている。現在は西法寺の隣に遺構が残っている。
左 土塁はかなり高い 中央 内部はかなり広い 右 北東隅の神社 左 北西隅の入口 中央 外には堀跡らしきものも 右 南側の土塁だけは寺の墓地で壊されている 一部が西法寺の墓地となっているが、四囲の土塁のほとんどが残っている。土塁の高さは結構あり、内部もかなりの広さがある。平地の中の平城であり、周囲には今でも川や水路が多いことから、かつての防御施設は土塁と堀によっただろうと思われる。本丸の広さから考えるとそれなりの規模の城郭であると考えられ、かつての小野寺氏の勢力のほどが伺われる。
吉田城の見学を終えた頃には昼過ぎ。かなり腹が減ってきたので昼食を摂ろうと考えて、近くの秋田村に立ち寄ってみる。しかしGWのせいか異常に車が多くて駐車場も一杯の状態。稲庭うどんでも食べたいと考えて佐藤養助をのぞくが店の前には長蛇の列の状態。これは次の目的地へ急いだ方が得策とだと思い直したら、よくよく考えると次の目的地は稲庭城。稲庭うどんを食べるならそちらの方が本拠のはずである。
秋田名物ババヘラアイス
結局は秋田村ではババヘラアイスを食べただけで次に向かうことにする。なおババヘラアイスとは秋田のあちこちで売られているアイスだが、由来はババアがヘラで盛りつけるからだとか。味としてはアイスクリームと言うよりは昔懐かしいアイスクリン。乳成分はあまりなく、サクッとした舌触りである。
稲庭城までは1時間程度の長躯ドライブとなる。稲庭市街に入ったところで佐藤養助本店の看板を見たのでそこに立ち寄る。しかしここもやはり長蛇の列。結局は30分以上待たされる羽目に・・・。
店の前はこの有様
かなり待ってからようやく入店。とりあえず稲庭うどんと天ぷらのセットに炊き込みご飯を付ける。腰のあるうどんが非常に美味。やはり関西のうどんとは全く別物であるが、これはこれでさすがにうまい。
稲庭うどんと炊き込みご飯
腹ごしらえを済ませると「稲庭城」の見学に移る。稲庭城はやはりこれも小野寺氏関連の城郭で、居城として用いられていた城である。しかし最上の伸張によって小野寺氏の勢力は徐々に蚕食され、ついには稲庭城も落城に至る。結局は小野寺氏はこのような最上氏との確執の果て、一発逆転を狙って関ヶ原合戦では西軍に荷担したのだが、結果としてこの大博打は大失敗してしまうのである。
今では稲庭城にはスロープカーが作られていて、これで二の丸跡にまで登ることが出来る。なお二の丸跡には史料館となっているインチキ天守が建っており、スロープカーの乗車券がこの入館券とセットになっている。
左 スロープカー乗り場 中央 上下二段になっている 左 内部風景 中央 山上に到着 スロープカー スロープカーは大名駕籠のデザインになっており、重々しい太鼓の音と共にいざ出陣とばかりに発車する。斜面をかなりの急角度で直登し、標高が上がってくると視界が広がってくる。なお斜面を見ていると曲輪跡のように思われる平地が数カ所見える。
史料館ことインチキ天守
左 二の丸の下にも曲輪らしい地形が 中央 これは二の丸の櫓跡らしい 右 風景は見事 山上に到着すると目の前がインチキ天守である。実際の稲庭城の本丸もこの先にあると聞いているので、史料館を見学してから本丸の位置について史料館の人に尋ねたところ、この先の三重の堀切を越えた先に本丸まで続く登山道があると教えてもらう。
道路脇に堀切らしい跡がある 二の丸から先に進むと、今では道路が引かれたせいで分かりにくくはなっているが、確かにかなり深い堀切の跡が見受けられ、その先に登山道の入口があった。
左 登山道を登る 中央・右 途中にある堀切 左 本丸が近づいてくる 中央 本丸下の虎口構造 右 本丸入口 左・中央 本丸は鬱蒼としているがかなり広い 右 本丸から下の虎口付近の構造を見る 登山道は人一人が通れる幅の尾根道である。結構険しい上にあまり通る人がいないのか途中が倒木で塞がれていたりなどしていたが、歩くのに不安を感じるというほどではなかった。本丸までは10分程度で到着するが、本丸手前には虎口の構造があるのが今でも分かる。また本丸は今では鬱蒼とした林になっているが、結構な面積があり、かつての東北の覇者・小野寺氏の居城にふさわしいものであったことが分かる。
なお先ほど史料館の係の人と話した時、稲庭城は堅固な要塞であったのだが、水の手に難があったということを聞かされていた。結局は包囲されて水を断たれたことによって落城を余儀なくされたのだという。なお秋田の地は後に佐竹氏によって支配されることでかつての小野寺氏の記憶や記録は消滅していって、その存在は完全に歴史の狭間に消えてしまったとのこと。しかしかつてこの地に小野寺氏という一族が存在していたということは後世に伝えていって欲しいとのことだった。
インチキ天守が建っているぐらいだから観光地整備されてしまって遺構もないだろうと考えていたのだが、実際は稲庭城は私の予想よりも見所のある城郭だった。また登山でいささか汗をかいた。こうなるとどこかで入浴したい。この近くと言えば湯沢温泉がある。どうせ秋田へ戻るルート上だし立ち寄ることにする。調べたところサンパレスみたけというホテルが日帰り入浴可能らしい。
サンパレスみたけはやや寂れた温泉ホテルというイメージの施設。料金を払うと早速大浴場へ。施設はややくたびれた様子で何となく昭和のわびさびを感じさせ、大浴場も一部照明が切れて薄暗かったりする。単純泉で加温循環消毒有りということなので特別な浴感はないが、汗を流すには十二分。ようやくここでサッパリとする。
汗を流したところで湯沢横手道路と秋田道を乗り継いで秋田に戻る。東北最後の宿泊ホテルはルートイン秋田土崎。昨日のホテルで連泊でも良かったのだが、明日の朝にフェリーに乗るのでそれならフェリー港の真ん前のこのホテルの方が便利がよいと考えた次第。
ホテルにたどり着いた頃にはかなりクタクタであった。チェックインを済ませると夕食のために港の方に繰り出す。結局この日の夕食は港の近くの商業ビル内の「すごえもん」で魚のフライの定食を頂く。可もなく不可もなく特に印象もなしと言うところ。疲れたのでデザートにソフトクリームを頂いて夕食は終了。
夕食後はホテルで入浴を済ませると激しい疲労が押し寄せる。ベッド少し横になるとそのまま意識を失ってしまった。
☆☆☆☆☆
やはり今までの無理が祟って疲労の溜まり方が半端ではないようだ。朝の5時半まで完全に意識を失っていた。目覚ましをセットした6時になる前にゴソゴソと置きだすとまずは朝風呂。振り返ってみるに風呂に入りまくりの遠征だった。しかしその長期遠征も事実上最終盤。今日からは帰宅にかかることになる。
これは小樽行きのフェリー
団体客でごった返すレストランで朝食を済ませると、7時半ごろにはホテルをチェックアウトする。秋田港発の新日本海フェリーが9時に出航するのでその一時間前には港に行っておく必要がある。コンビニで飲み物を仕入れると秋田港に直行する。
乗り場には既に乗船待ちの車列が出来ているのでそこに並ぶ。やはりGW中とあってかかなり乗客は多そう。それを考えると少々気が重い。
船はかなり大きく、以前に乗船したさんふらわあクラス。内部の構造も何となく似ている。私が予約していたのはステート洋室。定員2名の部屋を1人で利用する形になる。これは2名部屋だけあって、さんふらわあの独房よりは広い。そして窓があることだけで心理的圧迫感はまるで違う。ただここは内向きの部屋だから、窓から覗いても見えるのは向かいの部屋の窓だけであるが、辛うじて空だけは何とか見える。
船室はそこそこ広いが、窓の外には向かいの窓が見えるだけ 乗船するとすぐに秋田港を出航。部屋に荷物を置いてホッとした頃に、ラウンジでビンゴゲームの大会があるという。一等商品は3000円分の船内商品券だとか。暇なのでラウンジに出向くが、既にラウンジ内は乗客でごった返している。やはり私の想像を超える人数が乗船していたらしい。なおビンゴゲームの結果はビンゴどころかリーチさえかからず終い。運というものにまるで恵まれていない私の人生の縮図そのものである。
ラウンジ
ゲームが終わって部屋に戻ると急激に疲労が出てきたのでベッドに横になる。大船とはいってもさすがに日本海は波が高いのか、以前の瀬戸内航路のさんふらわあとは違って常に足元がフラフラと揺れている。これが疲労をさらに誘っているのか。船酔いをしないことを祈るのみ。
船内風景 ベットに倒れてしばし意識を失い、次に気がついたら正午前であったので急いで昼食のためにレストランへと向かう。しかし嫌な予感が的中。レストランの前には長蛇の列である。入場するだけでしばし待たされることになる。なお昼食はバイキング形式で内容的にはさんふらわあとどっこいどっこいというところ。
昼食を終えると風呂に直行する。いわゆる展望風呂というやつだが、ひたすら海が見えるだけ。2分で見飽きる風景である。風呂から上がるとしばしネットをしながらマッタリしていたが(近海航路のせいか船の位置によってはネットがつながる)、その内にまた強烈な眠気が襲ってきたのでうつらうつらする。
新潟に到着した時には半分意識がなく、新潟を出航した時には完全に意識を失っていた。再び目を覚ましたのは夕食の案内の放送で。新潟で下船した乗客が意外と多かったのか、夕食のレストランの混雑は昼食時よりもはるかにマシであった。なお夕食バイキングのメニューは一応は昼食とは変わっており、肉類が増えていたのが特徴。
夕食を終えて部屋に戻るとまた疲れが押し寄せる。結局は私のフェリーでの旅はほとんど寝るだけで終わってしまったのである。
☆☆☆☆☆
翌朝は敦賀港到着が朝の5時半なので、4時過ぎには起き出して下船準備ということになる。船は予定通りに敦賀港に到着、早朝に船から追い出されることになる。敦賀の町はまだ薄暗さの中でシンとしている。どこか朝食を取れる店がないかと調べたところ、「どんと屋」なる店が朝市に合わせて6時から朝食営業をしているらしいのでそこに向かう。私を含めて数人が店の前でしばし待つが、6時になっても営業を開始するような雰囲気がない。今はGWだしもしかして休みか? 諦めて移動しようとしかけた時にいきなり奥から暖簾が出てくる。
朝は仕入れの関係でメニューは2種類とのこと。そこで頼んだのは「鯛茶漬け」。オーソドックスなメニューだがなかなかうまい。またアラ汁が付いてくるのがうれしい。この店は海鮮丼などの店だとのこと。いつかまた早朝以外にも来たいところだ。
朝食を終えたところで移動。今日は家に帰るだけだが、さすがにまっすぐに帰るのでは芸がない。いくつか立ち寄る予定がある。まずは「国吉城」に向かう。以前の若狭遠征の際に立ち寄る予定だったが、豪雨のせいで玄蕃尾城と共に訪問を諦めた城郭である。ようやくのリターンマッチである。
国道27号線を西進、椿トンネルを抜けるとすぐに左手の細い路に折れる。今トンネルでくぐったのが城山である。案内に従って進むと登山用の駐車場が完備されているのでそこに車を停める。城山の麓には歴史資料館もあるのだが、残念ながらまだ早朝なので開いていない。
歴史資料館
国吉城は後瀬山城の若狭守護・武田義統の重臣の粟屋勝久が築城、朝倉義景の10年近くに渡る長期の攻撃にも落城せず、堅城として知られることとなった。後に織田信長の越前攻めの際には粟屋勝久は信長に協力し、ここが本陣となったという。しかし豊臣秀吉の時代に城主が替わり、江戸時代になって一国一城令で廃城となったとのと。なおこの城は金ヶ崎の退き口の際に防御の拠点となっており、殿を務めた秀吉と家康がここに入ったはずである。そのような経緯から地元では「三英傑を迎えた城」としてPRしている模様である。
左 歴史資料館があるのは奉行所跡 中央・右 麓の城主館跡 歴史資料館があるところが江戸時代の奉行所跡になるらしい。その前を抜けると山の麓には城主居館跡の広場があり、シャガの花が群生している幻想的な光景。その奥から七曲がりで山頂まで直登することになる。途中には動物除けのフェンスがあり、そこにはお約束通り「熊に注意」の貼り紙が。まさかとは思うものの、常に何か付近に獣の気配は感じられるので注意して登ることにする。
左 シャガの花の群生の中を先に進むと 中央 いきなり「熊出没注意」の貼り紙とフェンス 右 七曲がりをひたすら登る しばし登ると二の丸跡という削平地に出る。土塁などが残っているが、面積はあまり広くないしあまりに本丸から離れすぎているように思われる。実際には番所跡とかの方が正しいような気がする。
左 かなり疲れた頃にこの標識に当たる 中央 二の丸跡 右 土塁がある ちょうどここが中間地点で、ここからさらに登って息が切れまくった頃にようやく本丸にたどり着く。山上では調査中なのかあちこちに土嚢やブルーシートが見られ、また掘り出された石垣などが見られる。
左 さらに登り続ける 中央 土嚢やビニルシートが目立つ 右 本丸が見えてきた 左 掘り出された石垣 中央 本丸虎口 右 本丸 本丸から西側には複数の曲輪が連なっているようである。しかし曲輪の間の高度差が結構あるのと、ハッキリとした道がなかったことから、もう既に大分ガタが来つつある足腰の状態を考慮して先まで進むのは止めて引き返すことにする。なお私がこの判断に至った理由としてはもう一つ、先ほどから強烈に感じられている獣の気配がいよいよ強くなってきて、これ以上ここにいるのは良くないという虫の知らせがあったことにもよる。
左 本丸西曲輪 中央 結構広い 右 下を見るとまだ先に続いているようだ シンプルな構造であるもののなかなか見応えがあり、またもや続100名城クラスの城郭であった。なお後で調べたところによると、この山には野生の猿がいるらしい。あの時に私が強烈に感じた動物の気配はもしかすると猿のものだったのか。ただ熊ほどの危険性はないとしても、野生の猿も十二分に危険な相手ではある。
左 山上からの風景 中央・右 麓の佐柿の町並み 国吉城見学で体力を使い切ってしまった。当初の目論見ではこの勢いで玄蕃尾城も攻略するつもりだったのだが、明らかにそんな体力は残っていない。玄蕃尾城は次の機会に回すとして、最後に一カ所だけ立ち寄ることにする。それは重伝建地区の五個荘金堂町。
敦賀まで折り返すと北陸道と名神道を乗り継いで彦根ICを目指す。かなり身体がヘロヘロになっていることを感じたので、途中のSAで抹茶パフェドーピング。彦根ICで名神を降りると国道8号を南下する。
五個荘金堂町の入口に当たるところに近江商人博物館があるのでそこに車を置く。博物館内部は近江商人に関する歴史・民俗展示と何やら絵画の展示。五個荘金堂町は近江商人達の商家町であり、中には昭和初期まで活躍していた豪商などの住宅も残っている。その商家町が重伝建に指定されている。
近江商人記念館と謎のキャラクター 五個荘金堂町に向かって進むと、いきなり寺社と古い民家が入り交じった趣のある町並みに到着する。どことなく歴史が止まったように感じられる町で、街角に立っている電柱と路駐の車が現実に引き戻してくれる。
とにかく風情のある町である 町内には数軒、内部を公開している商家があるという。そこでそれらの入場券を購入して順に見学。まず最初は外村繁邸。なかなかに立派なお屋敷で、時節柄内部には五月人形を展示してある。そう言えば足助を訪問した時はひな人形を飾ってたなと思い出す。ここには文学者であった外村繁に纏わる品々を展示した外村繁文学館が土蔵にある。ただ私は文学者関係の展示にはあまり興味なし。
外村繁邸 次は隣の外村宇兵衛邸。先ほどの外村繁邸は分家で、こちらは外村家の本家の方だという。さすがに本家というべきなのか、先ほど外村繁邸よりもさらに一回り大きい大邸宅である。またかなり立派で大規模な庭園が付いている。
外村宇兵衛邸 三軒目は中江準五郎邸。この邸宅の主である中江準五郎氏は三中井百貨店を経営した中江四兄弟の末弟だとか。三中井百貨店は朝鮮や中国に店舗を展開して繁盛したのだが、店舗展開が外地中心だったのが仇になり、第二次大戦の敗戦でそれらの資産を失って没落したらしい。今では往時の繁栄ぶりを伝える屋敷内に多くの土人形が展示されている。
中江準五郎邸 商家三軒を見学した後は、まちなみ保存交流館として無料公開されている中江富十郎邸を覗いてから駐車場に戻る。
まちなみ保存交流館(中江富十郎邸) 駐車場から車を出すと最後に一軒だけ離れている藤井彦四郎邸を訪問する。藤井彦四郎氏は手芸をする者なら聞いたことがあるはずの「スキー毛糸」を製造して財をなした人物とのこと。いかにも立派なお屋敷で、本宅は古い日本建築であるが、正面の客殿は琵琶湖を模した池のある回遊式の日本庭園がしつらえてある堂々たる造り。また洋館の離れもあり、非常に大規模である。
藤井彦四郎邸 さすがに豪商達のお屋敷だけあってとにかく立派な建物であった。ヒルズのにわか成金と違って屋敷などにも風格がある。なお近江商人達は今でも財界の第一線で活躍しているという。近江商人の思想は「売り手よし、買い手よし、世間よし」の三方よしだとか。商売で社会に貢献するという心意気を示している。最近はこういう矜持を持った財界人は減って、自分が儲けるためには社会に迷惑をかけても良いというただの守銭奴が増えてしまった。こういうところも日本人の劣化そのものである。
五個荘金堂町の見学を終えると、本格的渋滞が始まる前に帰途についたのであった。なお途中のSAで昼食を摂りたいと考えていたのだが、立ち寄った先はことごとく満車状態であり、昼食も摂れないままの帰宅と相成ってしまったのである。
結局は11泊11日という史上最大規模の大遠征となった今回。これで東北地区の宿題の多くを解決できることとなった。ただしまだ三陸地区はほんのさわりの程度なので、来年度辺りに改めて鉄道中心の遠征を考えている(三陸鉄道の復旧に期待したい)。今回の視察の印象では宮古は宿泊が可能に思われたので、現地に金を落とすことも考えたい。
非常に充実した遠征だったが、やはりいささかキツ過ぎたというのも本音。とにかく一日山城三カ所に走行200キロがノルマみたいになってしまったので、遠征終盤になると完全にヘロヘロになってしまった。もう既に若い頃のような無茶を出来る体力などないのだが、どうしても貧乏性が頭をもたげて「ここまで来たのなら、ついでにここも、ここも」となってしまう。本来ならどこかの温泉地にでも逗留してゆったりとなんてこともしたいのだが、まだまだそういう境地には至っていないようである(実際にそうしたら多分退屈をしてしまう)。
なお大規模遠征だけに私の体力が根こそぎ奪われたのみならず、私の財力も根こそぎになってしまった。あまりにも行き当たりばったりの財政状況である。もっとも先のことを全く考えずに、とにかく目の前を誤魔化すためだけに予算をばらまくのをアベノミクスなどと称するようだから、私の財政もサギノミクスとでも呼ぶことにするか。
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