展覧会遠征 岡山編9

 

 今週の遠征先は岡山。美術館をメインに山城を一つ絡めた遠征である。

 

 午前中に家を出ると山陽自動車道を突っ走る。最初の目的地は今までに10回以上は来ている馴染みの美術館である。

 


「入江波光展」笠岡市立竹喬美術館で3/17まで

 

 国画創作協会などで活躍して優れた日本画家として知られながら、名利を求める画壇に背を向けて晩年は教育者として活躍したのが入江波光だという。

 入江波光は四条派の元で絵画を学び、京都市立美術工芸学校で村上華岳、榊原紫峰らと親交を結ぶ。本展では初期の絵画も展示されているが、そのころの作品は伝統的な日本画の手法に乗っ取ったものである。

 その後、渡欧して古代ローマのフレスコ画の影響を受けるとのことであるが、この頃からシンプルな画面の中に静謐感のある独特の絵画を描くようになる。日本画の境地とフレスコ画のシンプルな表現がマッチしたのであろうか。一般的に波光の作品といえばこの頃の作品をイメージする者が多いようだ。

 晩年は水墨画に自由な表現を求めるようになり、「線の波光」とも言われる伸びやかで自由な線表現が現れるようになる。この時代の作品は画面から楽しさというようなものが滲んでおり、俗世の名利から離れた波光が至った境地を感じさせる。

 渡欧期の作品を見た時、この独特の静謐感はどこかで見た記憶があると感じたのだが、同じくフレスコ画に強力な影響を受けたという有元利夫の絵画だった。ただしかなりファンタジー性を帯びていた有元と異なり、波光の場合はあくまで軸足は描写の側にあり、その辺りはそもそも四条派の画家であったという経歴が効いているのか。晩年の水墨画も古典の線の表現を復活させるということに精力を注いだらしく、そこから模写の名手としても名を残している。芸術家としての側面よりも研究者としての側面が強かった画家のような気もする。


 展覧会の鑑賞を終えると再び山陽自動車道で戻ってくる。次の目的地は岡山だが、面倒くさいので昼食は吉備SAで済ませる。ヒレカツ定食。ややカロリーオーバー気味だが、これから山に登るので良しとする。

 さて次の目的地だが、それは岡山の「金川城」。岡山北部の山上にある中世の山城である。実はこの城については以前にこの地域の城郭について調査した時、徳倉城、白石城などと共にリストアップされていた城郭である。しかし実地調査は延び延びになっていた。と言うのは、この城は他の二城に比べてかなり険しい山の上だと聞いていたからである。体力に自身のない私としては尻込みしてしまっていた。しかし最近のウォーキングによって大分足腰も強化されてきたことから、そろそろ潮時であると判断した次第。それに深い山ならなおのこと冬の内に訪問しておきたい(春を過ぎるとスズメバチやマムシなどの活動が活発になるので、深い山奥の城ほど調査に危険を伴う)。

 

 金川城は岡山ICを出て北にしばし走った川沿いの山上にある。この一帯はかなり高い山が続いており、その一部が川沿いに張り出した部分に当たる。下から見上げると中世の山城としては手頃な高さである(近世の城よりは随分高い)。

 

 金川城の山上を目指すには複数のルートがあると聞いている。このうち市役所支所の方からのルートは、延々と千段以上の階段を登る羽目になる厳しいルートだと聞いている。より楽なルートと言われている妙覚寺側からのルートをとることにする。ちょうどこの近くに郷土歴史資料館があるので、車を置くと共に地図などを入手して事前の予習をしておく。

 郷土資料館

 金川城を最初に築城したのは、承久の乱の戦功でこの地を得た松田盛朝である。松田氏はその後に富山城に本拠を移すが、応仁の乱後の混乱期に松田元成が本拠を再びここに移し、この際にかなり拡充されたとのこと。しかし宇喜多直家による攻撃で家臣の内応もあって落城、松田氏はこの戦いで滅亡したという。その後、金川城は宇喜多氏の支配下となるが、宇喜多氏が関ヶ原の戦いで改易となった後にこの地に入った小早川秀秋によって廃城とされた。

  

播但線の線路の下を潜って妙覚寺の横を抜けると登山口がある

 妙覚寺の横を抜けると整備された山道が続く。足下に不安はないが最初はひたすら登りである。いくら「楽な方」のルートとはいえ、それはあくまでハードなお城マニアさんが言うところの「楽」であって、私のような元々体力が不足しているものが鼻歌交じりに登れるようなルートではない。情けないことにすぐに息が上がる。ヒーヒー言いながら20分程登ったところで出くわすのが道林寺跡である。

左 山道を登る  中央 道林寺跡の一番下の曲輪  右 石垣横の山道を進む

 ここから続くのが道林寺丸。城の南西側を守る出丸である。道林寺跡と道林寺丸は南西の尾根上に連なる一連の削平地であるが、道林寺跡と道林寺丸の間には虎口を形成していたかと思われる通路の屈曲がある。

  

鬱蒼とした数段の削平地が続き、通路に屈曲もある

 道林寺丸の最上段には休憩所がしつらえてあり、ここからは西方を見晴らすことが出来る。

左 ようやく最上段か  中央 広い曲輪に出る  右 西方を一望できる

 ここから先に進むと、本丸に登るルートと北の丸に向かうルートに分岐するが、まずは北の丸に立ち寄ることにする。

左 本丸と北の丸の分岐  中央 北の丸方面の道は厳しい  右 石垣らしきものもある

 北の丸へのルートは崖の間の狭い通路。足を踏み外すと下まで落ちそうなので用心して歩く。北の丸の手前には白水の井戸がある。そう大きくはない井戸だが、石組みのされた立派なものである。

左 北の丸手前に白水の井戸の案内が  中央・右 白水の井戸

 北の丸は小高い丘の上に乗っている。そこそこの広さがあり、北方から尾根伝いで攻めてきた敵をここで食い止めるようになっている。また北の丸の奥には深い堀切があり、そこの奥にさらにもう一本の堀切がある。この北の尾根伝いのルートがこの城の弱点と言える部分なので、厳重に防備しているのがよく分かる。

左 北の丸入口の土塁  中央・右 北の丸は鬱蒼としてよく分からない

左 北の丸を降りて堀切に回り込む  中央 さらに先にもう一本堀切が  右 堀切と土橋

 北の丸から引き返すと本丸へと登る。本丸は結構な広さがある。奥の部分が一段高くなっているが、監視櫓でも建てられていたのだろうか。

  

左 本丸風景  右 この部分は一段高くなっている

 そしてこの城の一番の目玉とも言えるのが、ここから一段降りたところにある天守の井戸。とにかくこの井戸については絶句した。大きさといい、深さといい、こんな山上にこの規模の井戸があるというのが驚き。今まで見た井戸の中でこれだけの規模のものは初めてである。もしまかり間違って中に落ちてしまったら万事休すである。井戸と言うよりは本丸横の落とし穴というイメージ。さすがにここにはロープが張ってあった。

左 本丸の一段下に井戸が見える  中央 天守の井戸はとてつもなく大きい  右 そしてとてつもなく深い

 再び本丸に上がると二の丸の方向に向かう。本丸と二の丸の間には本丸の虎口の構造が見て取れる。また二の丸はかなりのスペースがあり、この城郭のメインの曲輪という印象。この二の丸の北側には土塁が築かれておりしっかりと防備されている。またこの二の丸にも井戸の跡が見られる。そこの抜けて二の丸の先端まで行き着くと、そこからは南方の視界が開ける。

左 本丸虎口内側から  中央 枡形と門跡  右 本丸虎口外側から

左 二の丸へと続く  中央 二の丸北部の土塁  右 二の丸の杉の木の井戸

左 二の丸をさらに進む  中央 二の丸東端  右 東方の視界が開ける

 この二の丸から東に降りたところにも削平地があり、これが出丸。ここが城域の最東端になる。ここからは市役所支所までつづれ折の階段がつながる。段数も半端ではないし、視界も一切開けない。確かにここを登るのは心身共にかなりきつそうである。実際のところ、降りるだけでもかなり膝にツライ。

左 二の丸からさら降りると  中央 出丸に到着する  右 ここからさらに降り続ける

 下に降りてきた頃には足はガクガクでグッタリである。とりあえず車のところに戻ってくると一息。やはりなかなかにハードな城であった。どこかで汗を流していきたいところだが、予定よりもかなり時間を費やしてしまったので次の目的地である岡山県立美術館へと急ぐ。

 足がガクガクになった頃にようやく東の登り口へと降りてくる

 しかしこの行程がスムーズに行かない。例によって岡山市内のとんでもない渋滞に、例の如くのひどい運転マナー。岡山ダンジョンは健在である。何しろ岡山のドライバーはウインカーを出さないのがデフォルト。まあ岡山ではウインカーはディーラーオプションになっているとのことなので、ほとんどの車がウインカーを装備していないのだろう。だからウインカーを出されても意味が分からないドライバーが多く、「あの車は変なランプをチカチカさせて何をしたいのだろう?」と不審がられた挙げ句、そんな変な車を前には入れたくないとブロックされる羽目になるのである。

 

 ようやく目的地に到着した時には閉館の30分前のギリギリであった。急ぎ足で見学をすることになる。

 


「ジェームズ・アンソール −写実と幻想の系譜−」岡山県立美術館で3/17まで

 

 「仮面の画家」とも言われ、グロテスクな仮面や骸骨といった素材を描いた絵画で知られるアンソールの展覧会。

 アンソールの一見グロテスクな絵画は、何も怪奇趣味や奇をてらったわけではなく、彼自身は写実ということに終始一貫こだわり続けた画家だという。

 初期のアンソールは形式主義的なアカデミズム絵画に反発しながら、ひたすら対象を写実的に描くことに邁進していた。彼の写実とはただ単に外観を写し取るものではなく、対象の内面までもを描ききるものである。そのために彼の描いた人物画は、対象の性格までもが何となく読み取れるものになっている。

 彼が用いた仮面や骸骨といったものは、人間の本質を比喩的に諧謔に満ちて描くためのものであった。だからこそ彼の描く仮面や骸骨は非人間的なものであるにもかかわらず、極めて人間的な感覚を受ける。

 ちなみに彼はシュルレアリスムの先駆けの画家と言われるが、彼自身は決してシュルレアリスムに共感は持っていなかったとか。彼としては超現実を描いたのではなく、現実そのものを描いたということなのだろう。


 これで本遠征の予定は終了。温泉に立ち寄りたい気持ちはあったものの、もう既に日も傾いているので家路につくことにしたのであった。

 

 金川城はなかなかにハードな城郭であったが、今年に入ってからのウォーキングによる足腰の強化と、丹波黒井城に八上城といった本格的山城の連続攻略などによってかなり体力が養われたようで、特に問題なく登り切ることが出来た。今後も今年のスローガンである「スマートライフ」目指して身体の強化に取り組みたいところである。また差し当たって、温かくなる前に攻略しておきたい山城がいくつかあるので、この冬の内に攻略を済ませておきたい。

 

 

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