展覧会遠征 南九州編2
ようやく夏の暑さもピークを過ぎ、世間も行楽シーズンに突入する頃である。さて私の職場であるが、この時期になんと電気工事のために一週間停電。つまりは出社しても全く仕事にならないというか、はっきり言って邪魔という状態。必然的に工事に関係ない社員は全員年有休暇をとるということになる。こうなったらどこかに出かけないと嘘というものである。私も早速遠征計画を立案することとなった。
行くとなると東北か九州である。しかし東北は未訪問地域として残っているのは三陸地域で、そこはまだ復興途上というか、政府の対応の遅さのせいでまだ復興とはほど遠い状態。まだまだ観光旅行という雰囲気とは思えない。となると必然的に遠征先は九州となる。ただ九州訪問と言っても一応一渡りは既に鉄道で回っている。となったら後は鉄道では行きにくいような地域を車で回るというプランしか考えられない。そういうわけで結局は車を使用しての九州一周プランの立案と相成った。
出発は金曜の夜。仕事が終わると直ちに高速を突っ走る。翌日の予定を考えると今日のうちに岡山まで走って前泊する予定。それにしても相変わらず岡山の交通事情は劣悪。渋滞がひどいし、運転者のマナーが最悪。自分の車線が渋滞していて全く動かないんだから右折車を先に行かせてやればよいのに、なぜかわざわざ車を前で停めて右折車をブロックするのが岡山ドライバー。そう言えば、混雑している交差点に黄色信号になってから無理矢理突っ込んで、交差点のど真ん中で停車して交差車線の流れを止めて悠々としているなんて車も岡山以外では見たことがない。
ホテルに到着した時には日はとっぷりと暮れていた。宿泊ホテルは岡山シティホテル厚生町。会社の福利厚生による割引が使えるということで選んだホテルである。ホテルの駐車場に車を放り込むとチェックイン。部屋に荷物を置くと、腹が減っているのですぐにレストランに向かう。夕食はバイキング(1500円)と単品メニューがあるが、単品でカツ重(1000円)を頼む。混雑しているのか散々待たされた後、ようやく出てくる。CPはあまり良いとは言いがたいが、味はまあまあだったので良しとする。なおこのホテルは1階にパン屋が入居しているという面白い構成なので、夜食のパンも買い求める。
腹を満たすと入浴。このホテルは大浴場がないことだけが残念である。しかしこの際は贅沢は言っていられない。
風呂に入ると急激に疲れが出てくる。さっさと就寝することにする。
☆☆☆☆☆
翌朝は3時に中途覚醒して、そのまま寝るとも起きているともつかない状態のまま5時半を迎える。どうも最近は睡眠力が落ちていることを感じる。これも老化だろうか。とりあえず荷物をまとめると、6時からレストランで朝食バイキング。7時にはチェックアウトする。
今日、九州に渡ることになるが、心配なのは台風の進路。この時期に遠征計画を立てる際の一番のリスクファクターは台風なのだが、よりによって「猛烈な」台風が発生した模様で、それが沖縄に接近しているという。今日は大丈夫でも明日辺りに影響が出る可能性が高い。
ただとりあえず今のところは台風が嘘のような好天。さて九州上陸ルートだが、今回は初めてフェリーを使おうと考えている。徳山港まで突っ走って、そこからスオーナダフェリーで国東半島に一気に上陸しようというプラン。
山陽自動車道に乗ると長駆のドライブとなる。最近は長時間運転をあまりしていなかったので不安があったが、順調に徳山ICまで到着する。この時点で所要時間3時間弱。このまま徳山港に直行しても良いが、それだと港で2時間ほど待つ羽目になる。どうも待つのは性に合わない。そこでこういう事態のために用意していたプランを発動することにする。
それは防府にある毛利氏庭園及び博物館を訪問するというプラン。徳山−防府間が30分程度のはずだから、ギリギリ見学時間ぐらいは取れるはず。とりあえずそう決心すると目的地を変更、防府東ICまで突っ走る。
毛利氏庭園正門
毛利氏庭園は防府東ICから10分程度。防府の市街のはずれの山の麓にある。専用駐車場に車を止めると入場するが、門からの距離も結構遠い。
旧毛利邸
旧毛利邸が毛利氏博物館となっており、それに庭園が隣接している。博物館は毛利ゆかりの品を展示してあるが、それよりもこの屋敷自体が一番の展示物。
毛利庭園
庭園は結構変化のあるもので、屋敷の庭園としては規模が大きい。とりあえず一回りする。
毛利氏庭園の見学を終えると徳山港まで車で走る。正直なところ渋滞などが怖かったのだが、幸いにして道路は至ってスムーズで、フェリーの出航40分前ぐらいには徳山港に到着する。
左 フェリー埠頭 中央 ターミナルビル 右 フェリーが到着 徳山港に到着すると既にフェリーへの搭乗を待つ車の行列ができている。私は事前に正午の便の予約を入れているので、ターミナルの方で搭乗手続きを済ませて港でしばし待つ。やがてフェリーが到着。これから2時間程度の船旅である。
船に乗ってしまうと、する事はないのでボンヤリするだけ。船窓を眺めていてもすぐに飽きてくるので、結局はシートに横になってウトウトすることに。
しばらくウトウトしてから目を覚ました頃には九州が見えていた。フェリーはこのまま国東半島の竹田津港に入港する。
竹田津港でフェリーを降りると最初の目的地へ向かって海沿いの道を突っ走る。最初の目的地は豊後高田である。ここは以前に宇佐神宮を訪問した時に併せて訪問できないか検討したが、交通の便と時間の問題であきらめた経緯がある。
豊後高田は昭和レトロの町ということで観光開発を行っている。時代遅れに思われた古色蒼然たる商店街が、一転して観光資源になったという例である。観光用の駐車場に車を停めると近くのレトロ館に入館。ここには玩具博物館と昭和の町並みを再現した建物があるのだが、懐かしいを通り越して泣けてきそうな内容。もっとも玩具博物館自体は「昭和」と時代を大括りにしているため、私にとってジャストミートのものもあれば、「これは古すぎて・・・」というものも多い。若者にとっては全部ひっくるめて「昔のもの」なのかもしれないが、実際に昭和を生きてきた者にとっては昭和と言ってもかなり長いのである(何しろ昭和初期は戦前なんだから)。
玩具博物館は・・・泣ける
こちらは昭和の夢博物館 アグネス・ラムってのがまた泣ける 玩具博物館を出たところで突然の豪雨。どうやら台風の影響が現れ始めたようである。しばし足止めを食らうが、まもなく雨も上がったので商店街の散策に向かう。
泣ける風景の商店街をレトロバスが走る それにしても自販機まで泣ける 商店街は懐かしい・・・というか、一目見るなり「長田」と呟いてしまう私。神戸の長田出身の私としてはこのような町並みはまさに記憶にある長田の町並みなのである。しかしその町並みもあの震災で焼き尽くされたのだが、真にひどかったのはその後の市当局による完膚なきまの破壊である。ゼネコンと癒着している神戸市当局は、ゼネコンを喜ばせるために、長田の町並みを無味乾燥な巨大マンションの集合体に変えてしまったのである。
途中で「喫茶去」で昼食を摂ることにする。注文したのはミンチカツ定食。どことなく懐かしい感じもするが、意外と本格的な料理でもある。
昼食を終えるとさらに町の散策。町のはずれには縁起物ばかりを集めた博物館などもあり、そこで金運、勝負運、さらには良縁などを祈願してくる。
豊後高田の見学が終わった頃にはもう夕方。宿泊ホテルに向かうことにする。今日は別府温泉で一泊の予定。宇佐別府道路を走ること一時間弱、ようやく別府に到着する。宿泊ホテルはサンバレーアネックス。
ホテルにチェックインするととりあえず入浴である。ここの風呂は単純温泉で非加水非加熱循環なし(ただし塩素は使用)とのこと。あまり特徴があるお湯ではないが、若干ヌルッとした体に優しいホッとする湯。
入浴を終えると夕食に出ることにする。どこで何を食べようかと調べたところ、ボルシチを出す店がホテルの向かいにあるという。非常にそそられたのでその店「馬家溝」を訪問。注文したのはミニサラダ付のボルシチ(1550円)。
しばらく待った後、グツグツ煮立った熱々のボルシチが運ばれてくる。スプーンで冷ましつつ一口。「うまい」。まさに私が食べたいと思っていたイメージどおりのボルシチ。ただ今の状態では猫舌の私にはかなりつらいので、サラダから先に頂くことにするが、このサラダもシンプルな割には無性にうまい。
サラダを食べ終わった頃にはボルシチが適度に冷えたので本格的に頂くことに。トマトベースのスープの酸味と、煮込んだ野菜の甘味のバランスが絶妙。さらに半分溶けかけたバラ肉がまたうまい。永らくこういうボルシチが食べたかった。あまりにうまくて感動して涙が出そうになる。
まさに堪能した。気持ちが良くなったところでデザートにプリン(520円)を頂くことにする。こちらもなかなかに美味。満足して夕食を終えたのだった。別府はなかなか良いところだ(笑)。
夕食を終えると車を出して買い物及び給油。今日は400キロ以上走っているので、一日で満タンのガソリンを使ってしまった。それにしてもガソリンも高い。アメリカも日本に「軽自動車が非関税障壁だから廃止しろ」なんて馬鹿な圧力をかけるよりも、「日本の高すぎるガソリン価格は非関税障壁だからガソリン税を下げろ」と圧力をかけたほうが、直接にアメリカ車の売り上げに結びつくのに。
ホテルに戻ると今度は向かいのサンバリー本館の方の展望浴場へ。湯はアネックスと変わらないが、別府の夜景を見ながらの入浴も乙なもの。
部屋に戻るとやはり昨日の寝不足がこたえてきた。かなり早いが床に就くことにする。
☆☆☆☆☆
翌日も夜中の3時半に一度目がさめる。しかしそのまま意地でも6時まで寝る(笑)。起きだしてニュースをつけると、いよいよ台風が接近してきている模様。幸いにして九州直撃は避けられたようだが、九州西部をなめていくようなコースを取る模様。別府は今のところ、不気味な雲は出ているが荒れていると言う雰囲気はない。しかしこれからは天候を見ながら予定を考えないといけないだろう。
一応睡眠時間は十分にとったのだが、肩の痛みもあって睡眠が浅い。それに体に疲れも残っている。昨日はたかだか一万歩程度だが、やはり長時間の車の運転が堪えている。
朝食を摂ると朝風呂に繰り出す。窓からサンフラワーが別府港に入ってくるのが見える。さすがにスオーナダフェリーなどとは桁違いの巨大さだ。実は今回の計画立案の際、このフェリーで大分に上陸するという案もあったのだが、主に予算の問題で却下になっている。しかしいつかは乗って見たい気もする。
チェックアウト前にテレビで台風情報を確認。幸いにして九州直撃は避けられたようだが、それでも今日は各地で台風の影響による豪雨などがありそうである。とりあえず別府は今のところは空模様は極めて怪しいが、まだ雨は降っていない。8時にチェックアウトするとまずは杵築に向かう。
杵築には杵築城があり、城下町の武家屋敷なども残っているという。しばし走行するとやがて「杵築城」が見えてくるが、杵築の町自体が典型的な河岸段丘の特異な形態をしている。市街が台地状の丘と川沿いの低地に二分されており、それらが急崖によってつながっている。杵築城はその河岸段丘の一番東端に地形を活かして築かれている。とりあえず杵築城を見学しようと思うが駐車場が分からない。結局は川岸の空き地に車を停めてヒーヒー言いながら崖を登るが、崖を登ると多くの車がそこに停めてある。どうやらどこかに登城路がある様子。ガックリきたがとりあえず杵築城の見学をすることにする。
杵築城は河岸段丘を活かした小さな城。一番東端の奥に天守があり、手前に曲輪がつながる形式だが、その辺りは完全に公園化されていて往時の遺構はあまりない。奥にあるのは鉄筋コンクリート製のお手軽天守。内部は博物館となっているというお約束のパターンだが、この天守台からの眺望はなかなか良い。
左 城内風景 中央 門 右 天守閣 杵築城の見学を終えると市街の見学に移る。杵築市街には往時の武家屋敷が残っており、それらは河岸段丘の上にある。南北に河岸段丘があってその上が武家屋敷街、間の低地が商家街となっている構造で、武家屋敷街と商家街を多くの坂がつないでおり、その中でも酢屋の坂や志保屋の坂などの石畳の坂は観光名所となっていてドラマの撮影などもよく行われるとか。
酢屋の坂
近くの小学校の前に観光駐車場があるのでここに車を置いて武家屋敷の見学に移るが、この頃から天候が本格的に怪しくなってくる。雨がパラ付き始め、それが時折豪雨に変化する状況も。武家屋敷でも雨戸を閉めたりなど対応がバタバタし始める。
北側台地の武家屋敷の見学を終え、次は南側台地の一松家、城下町資料館などの見学に移るが、この頃になると雨だけでなく風がかなり強くなってきた。一松家などは吹きさらしの高地にあるために雨戸を打ち付けたりなどの作業が慌ただしくなってき、私も「城下町の見学をするなら午前中に終わらせた方が良いですよ」とのアドバイスを受ける。
一松家とその内部
城下町資料館には山車や杵築の模型が展示されている 昼が近づいてくるにつれていよいよ本格的に気象が怪しくなってきた。とりあえず昼前に追われるように杵築を後にする。初期の予定ではこの後は佐伯城に寄って、それから宿泊予定の延岡を目指すことになっている。しかし状況によっては予定変更もやむをえない。
雨が激しくなってくる
大分空港道路から日出バイパス、さらに大分自動車道と乗り継いで・・・と思っていたのだが、大分自動車道が霧のために通行止めとのことで速見で追い出されてしまう。しかしここからが超難儀。速見は山の中なので道は狭いし、しかも霧が出ていて視界が全く利かない。視界10メートル以下ぐらいの中で山道を走り抜けることになる。とにかく山を降りないことにはどうにもならない。カーナビを頼りに、狭い山道をひたすら下っていく。ようやく別府に出た頃には正午近く。しかもヘトヘトになってしまった。
しかしこれで目出度し目出度しではない。今日中に延岡に行く必要があるのである。しかし別府市街の道路は高速の通行止めの煽りもあるのか大渋滞。大分を過ぎるまで車はトロトロ運転の状態。ここでかなり時間をロス。しかも天候はいよいよ本格的に悪化してきており、時折車に叩きつけるような雨が降ってくる状態。この時点で佐伯城を訪問するのは不可能と判断、延岡に直行することに決定する。
道の駅みえで昼食 延岡に直行するということで経路は国道10号経由のルートをとることにする。しかし時折前が全く見えないような豪雨に出くわすという最悪のコンディション。とにかく前が見えにくいので異常に疲れる。やがて道路は国道326号に変わってひたすら山の中を突っ走る。途中で道の駅みえで休憩及び昼食。
昼食後はさらに先を急ぐが、雨はいよいよとんでもない状態に。私のノートは水しぶきを上げながら山道を走るが、対向車が来るとその跳ね上げた水しぶきで一瞬何も見えなくなるような状態。とにかく神経が磨り減る運転である。延岡に到着したのは3時過ぎ。結局は杵築から4時間近くのドライブだった。不思議なことに延岡の手前では豪雨だったのに、延岡に到着すると嘘のように静かであった。
延岡で宿泊するのはルートイン延岡駅前。あまりホテルが多いとは言いがたい延岡でようやく見つけたホテルである。部屋でほっと一息しながら窓の外を見ると、台風が接近しているとは思えないほどに外は穏やかである。そこで今のうちに予定を一つこなしておこうと外出することにする。
向かったのは「延岡城」。延岡城は高橋元種が1600年ごろに築城したと言われている。その後、江戸時代には延岡藩の政庁として使用されていたらしい。今日では公園となっていると言う。
さて私の訪問時、私は道が分からないまま延岡城を目指し、結局は本丸まで車で一気に登ってしまってそこに車を置いたのだが、後になって調べてみるとどうやら車で登ってはいけなかったようである(麓に駐車場があったらしい)。しかしなぜか道路に車止めや進入禁止の表示もなかった上、山上にも台風のせいか誰も人がいなかったため、その時は全く気付かなかった。
左 本丸 中央 天守台虎口(下から) 右 天守台虎口(上から)
左 天守台上の鐘突き堂 中央 天守台上の風景 右 天守台からの風景 本丸は意外と広いスペースで、そこから天守台に登る道がある。そこを進むと最高所に天守台というか曲輪がある。現在もこの曲輪の虎口が残っているが、そこは立ち入り禁止になっている。この曲輪からは広く延岡市外を見渡せ、ここには鐘突き堂がある。なおここに実際に天守があったかどうかは不明らしい。実際、天守がなくとも物見の役には十分だし、江戸時代頃の築城であることを考えると天守は必要ないかもしれない。
左 天守台周辺には帯曲輪がある 中央・右 三階櫓跡地 天守台をグルリと取り囲むルートがあるが、その脇には三重櫓跡がある。ここに三重櫓があったことは文献的に確からしい。
左 大手門 中央・右 千人殺しの石垣
左 右手が二の丸 中央 二の丸は何かの工事中 右 石垣の裏手のここに二階門櫓があった 本丸の先には二の丸に続く通路があるが、その途中にあるのが千人殺しと言われている石垣である。かなり高い石垣だが、千人殺しの理由はこの石垣を崩せば敵兵を千人殺せるという意味らしい。ただ実際にこの石垣にそういう仕掛けがあるのかどうかは知らないが、現状の石垣を見ると中央部が老朽化して膨れてきており、そのうちに自然に崩れないか心配になる。
二の丸の先には門も復元されているようである。正直なところ大した遺構は残っていないのではないかと思っていたのだが、石垣を中心に予想外にいろいろと城の構造が残っており、なかなかに見所はあった。
延岡城の見学を終えるとホテルに戻ってくる。しかしホテル契約駐車場に車を置いた途端に急激に雨脚が強まる。おかげでホテルに戻るまでの間にずぶ濡れになる。
ホテルに戻るととりあえず汗を流すのと体を温めるために入浴する。このホテルは人工温泉の大浴場を持っているのでそこでマッタリ。
入浴後は夕食に出かけることにする。しかし台風が近づいているせいか閉めている店が多い。そんな中で入店したのはホテル近くの「どて焼」。郷土料理系居酒屋というところか。注文したのは店名にもなっている「どて焼」に「地鶏バター」「クジラのフライ」「ツナサラダ」。
最初に出てきたのは「ツナサラダ」。なんてことない普通のメニューだが、そのボリュームに驚く。いきなりサラダで腹を膨らませる羽目に。
次が「クジラのフライ」。牛肉と豚肉の中間のような印象のクジラが意外と柔らかくてうまい。次の「地鶏バター」はバター焼き鳥。もう少ししつこいかと思っていたが、思いのほかあっさりしているこれもなかなか。
最後が「どて焼」。どて焼とは牛スジの味噌焼きのことらしい。甘辛い味噌で味付けした牛スジが、トロッとしていて意外なうまさ。以上で支払いは2450円。まずまずのCPである。なお最初にサラダをたっぷり食べた上に、後のメニューにも野菜が添えてあったので、トータルとしてはかなりの量の野菜を食べたことになる。なかなかにヘルシーな食事である(笑)。
店に入る前には大したことのなかった雨が、店を出る時には豪雨に変わっていた。とりあえず近くのコンビニで飲み物を調達すると慌ててホテルに帰る。
部屋に戻ると急激に疲労が襲ってくる。寝る前にもう一度入浴しようと考えていたのだが、そんな気力もないままグッタリとベッドに倒れこんでしまう。この夜は台風のゴーゴーという音を聞きながら眠りに就いたのである。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時頃に起床。シャワーで汗を流してからレストランでバイキング朝食。荷物をまとめると8時ごろにチェックアウトする。外は雨はやんでいたがまだ風は強い。台風は長崎方面に向かっており、長崎では駅前が浸水するなど結構被害が出ている模様。
今日の最初の目的地は美々津。耳川河口の海に面した土地で、古くから港町として繁栄し、往時の面影の残る町並みは重伝建に指定されている。
雨はないものの強風の中を国道10号線を南下し、耳川を渡るとすぐに美々津の表記が出ているので左折すると、いきなり風情あふれる町並みの真ん中に出る。しばしそのまま町並みの中を南下すると、町並みを抜けたところに観光用の駐車場があるのでそこに車を停める。それにしてもここは海の近くのせいか風がやたらに強い。また海はまだ台風の影響が残っていて大荒れである。ゴーゴーと聞こえてくる風の音が何やら恐怖感を呼び起こす。
海は大荒れである
美々津の町並みは昔懐かしい趣のあるもの。まだ午前の比較的早い時刻のせいか観光客の姿は全くない。そのまま市街を南から北に抜けていく。すると北に抜けたところで突然に団体客に出くわす。どうやらバスツアーかなにかの団体のようだ。
町並みの北端は耳川でそこには神社と海軍関係の記念碑が建っている。そこから今度は海沿いの通りを散策する。途中で民俗資料館があるので見学しようと思ったが、台風のために閉館中。結局はそのまま駐車場まで戻ってくる。
左 海軍関係の碑 中央 神社 右 高瀬舟の船着き場跡 美々津はその名前から考えられるように港町であるのだが、実際に現地を見学すると街道の宿場町の性質の方が強かったように思われる。かつては中継貿易で栄えた土地と聞くが、現在では海側も川側も完全に堤防で囲われており、既に港町としての機能は有していないように思われる。
美々津を後にすると次の目的地へと向かう。次の目的地は「佐土原城」。佐土原城は伊東氏配下の城郭であったが、伊東氏が島津に敗れて豊後に逃れた後、島津の支配下となってそのまま明治に至ったと言う。
佐土原城の近くに郷土資料館及び復元された鶴松館が建っているこれらは見学が無料となかなか太っ腹。ここを訪問して城郭の地図を入手すると登城口について質問する。すると分かりにくいので案内するとの話。ありがたく案内していただく。
鶴松館
本来は鶴松館の手前から登城路がまっすぐに延びていたのだが、送電線の鉄塔が建ったせいで回り込まないといけないとのこと。また登城路は台風の影響でかなり荒れているので足下に注意するようにとの注意を受ける。
登城路の風景 佐土原城は典型的な山城であり、尾根筋に沿って曲輪を並べてある。台風の余波で足下はぬかるんでいるが、歩けない状態ではない。ただ一番難儀したのは登城路の入り口。かなりひどくぬかるんでおり、足がズブズブと地面に沈む。こんな調子では先が思いやられると思ったが、幸いにしてこの先はもっと地盤が安定しており、まず普通に歩ける。
松尾丸方向に向かう階段は完全に朽ちている 10数分程度山道を歩くと本丸方面と松尾丸方向への分岐があるが、松尾丸方向は明からさまに道が荒れている上に、そもそも最初の上り階段がほとんど朽ちており、それ以上進むのは不可能と判断して引き返した(無理矢理進んでも松尾丸自体も薮化していると後で聞いた)。
左 南の城の手前の堀切 中央・右 南の城の虎口
南の城の風景 更に進むと堀切を越え、その先に南の城との分岐があるので、そちらを見学する。南の城は土塁が巡らされ、本丸を守るための独立曲輪となっている。また入口は虎口となっている跡がしっかりと確認される。そう広大なスペースというほどでもないが、この城の曲輪の中では大きい部類に属する。
さらに進むと三層櫓跡がある 再び本丸方向に進むと開けたスペースに出るが、ここは三層櫓跡となっている。といっても今では土台があるのみ。台上は下草が鬱蒼としており、お約束の「マムシに注意」の立て札が立っている。
左・中央 本丸虎口 右 本丸は湿原状態 本丸はこの脇を抜けてさらに進んだ先にある。本丸虎口跡を抜けるとようやく本丸にたどり着く。しかし本丸内部は先日の豪雨で完全に浸水しており、湿地のようになっている状態。恐らくここは最近までは田圃にでもなっていたのではないかと思われる。見学しようと乗り込んだものの足が水にズブズブと沈む状態で途中で進むのが不可能になってしまう。
本丸中央の移動は断念して、本丸周囲を回り込もうとしたときだった。足下前方を横切る細長い姿を目にした。蛇である。しかも蛇にしてはずんぐりしたスタイル。「マムシだ!」思わず声が出る。山歩きの際はマムシに注意というのは常識だが、実際に遭遇するのは初めて。思わず身がすくむ。しかし向こうから逃げてくれたようである。そもそもマムシはハブなどと比べてそう好戦的なわけでもない。またマムシにすると人間と喧嘩しても得になることは何もない。毒で殺したところで捕食できる相手ではないし、下手をすると自分の方が捕まって食われることもあるのだから。マムシにとって人間の足音はまるでゴジラが接近してくるようなものだから、通常は向こうから逃げると聞いている。だから私は意識してことさらに足音を立てて歩いていたのであるが。
郷土資料館
マムシを気にしながら天守台跡の見学を済ませると、登城路とは別ルートのあずま屋の横を通るルートで麓に降りてくる。そう巨大な城という印象でもなかったが、なかなかに見所がある山城だった。麓に出た時にはちょうど郷土資料館の前に出たので郷土資料館を見学しておく。
佐土原城の見学を終えると「都於郡城」の見学に向かうことにする。都於郡城は佐土原城から10分程度走った都於郡小学校の奥にある。手前に観光用の駐車場があるのでそこに車を停める。
都於郡城は伊東氏の本拠だった城郭である。しかし島津の侵攻によって伊東氏がこの地を追われた時に島津の所有となり、後に一国一城令で廃城になったという。
現地案内看板より
都於郡城は複数の曲輪からなっているが、国の史跡に指定されているだけあって非常に良く整備されている。東から進むと一番最初に行き当たるのが本丸であるが、周囲を囲っている土塁などその形態をそのまま残している。堀を隔てて北側には奥ノ城が、西側には二の丸が見える。曲輪の構造自体は単純であるが面積は非常に広大であり、多くの建物を建てることも可能であったと思われる。
左 本丸登り口 中央 本丸虎口 右 本丸
左 本丸周囲には土塁がある 中央 堀切の向こうに奥ノ城がある 右 本丸風景 左 天草四郎・・・ではなくて伊東マンショです 右 本丸から堀切を隔てて西には二の丸 本丸南の曲輪 本丸と幅広い堀を隔てて隣接するのは二の丸。ここも本丸に劣らぬほど広大な曲輪である。この奥にはさらに堀を隔てて三の丸が見えている。
左 本丸からの降り口 中央 向こうが二の丸 右 二の丸の登り口 二の丸風景 二の丸から望む三の丸及び西ノ城 二の丸を降りて先に進むと三の丸及び西ノ城に行き当たる。西の城は複数の曲輪からなっているが、一番大きな曲輪は現在は水道施設があるようで半分は立ち入り禁止になっている。ちなみにそこを見学中に再び足下を逃げていく蛇を発見。今度はマムシではないようであるが、いちいち驚かされる。九州では熊が絶滅したと先日テレビで言っていたので「楽勝」と思っていたが、その分マムシの脅威は多いのだろうか?
左 正面が西ノ城 中央 西ノ城 右 曲輪の半分は水道施設のために立ち入り禁止
左 奥に見えるのが三の丸 中央 二の丸方向を望む 右 西側は断崖 三の丸は手前に小曲輪を従えている。細長く奥行きのある曲輪で東端からは二の丸が見える。もしかすると往時にはこの間にはいざというときには落とせるような吊り橋や木橋で接続されていたかもしれない。
左 三の丸に登る 中央・右 三の丸
左 三の丸の奥に二の丸が見える 中央 堀切越に望む二の丸 右 西ノ城を望む 伊東氏の本拠だったと言うだけあって、規模の大きい堂々たる城郭である。縄張り自体は台地を堀切で切り分けて複数の曲輪は並べただけとも言えるが、シラス台地においてはこれが最も合理的な城郭の形態なのかもしれない。ただ一つだけ気になったのは、西側には川もある上にかなり断崖になっていて防御が堅固なのだが、東側から攻められると本丸が最前線になってしまうということ。島津の脅威に備えることから西側が正面なのは良いとして、あまりに東側が手薄な気がする。近くに池が残っていることから、こちら側は昔は広大な池か何かだったのだろうか。都於郡城は浮舟城という呼び名もあるとのことから、沼沢地の中に浮かんでいるような城郭だったのかもしれない。
都於郡城の見学を終えると宮崎に向かって車を走らせる。ここまで来ると宮崎はそう遠くない。宮崎に到着した時には既に台風の影響は全く感じられなくなっていた。しかし待ちかまえていたのは台風一過の後の灼熱地獄であった。もう9月も終盤だというのに、目眩がしそうなほど暑い。
二つの城の連チャンでかなり疲れたので、気持ちとしてはさっさとホテルに入って一休みしたいところ。しかし残念ながらまだチェックイン時刻にはかなりある。そこでとりあえず昼食を摂ることにする。
どこで昼食を摂ろうかと物色しているとウナギの看板が目に飛び込んでくる。宮崎と言えばウナギの養殖で有名である。そこで昼食はウナギにしようと「うなぎ千両」に入店する。
注文したのは鰻重(2000円)。やはり昨今のウナギの高騰を受けてか、メニューの価格欄を張り替えた跡がある。出てきたのは鰻重と呉汁。呉汁とはつぶした豆を入れた宮崎の郷土料理である。若干癖があるが結構いける。ウナギの方はまずまずだが、やはり時節柄若干ボリュームがないように思われる。ウナギ資源の今後が気になるところである。ちなみにウナギの高騰の原因はウナギの稚魚であるシラスウナギの不漁だが、その原因は乱獲。特に中国での乱獲がひどいらしい。とにかく彼らは何をやるにも限度というものを考えないから、すぐに取り尽くしてしまう。ウナギ資源の計画的保護とウナギの完全養殖の実用化が急がれるところである。
昼食を終えたがまだチェックイン時刻までに時間がある。そこでさらに近くの蓮ヶ池史跡公園に立ち寄ることにする。ここは蓮ヶ池横穴群と呼ばれる約80基の横穴墓がある遺跡であり、国の史跡に指定されている。現在は史跡公園として整備されてみやざき歴史文化館が建てられている。
みやざき歴史文化館
歴史文化館は入館無料で古代の歴史に纏わる展示や、全国の横穴墓に関する映像展示などもある。その中では九州を代表する横穴墓群として人吉の大村横穴墓群なども紹介されている(人吉駅のすぐ北側にあり、人吉訪問時に覗いたことはある)。
水辺の脇にこのような横穴が多数ある
左 復元古代村 中央 高床式倉庫内部 右 竪穴式住居 歴史文化館の次は横穴墓の見学。と言っても山の崖に洞穴が掘ってあるだけ。この辺りは水辺も近いし確かに集落などを作るには最適である。また復元された竪穴式住居なども建っている。しばし古代に想いを馳せながらあたりを散策。
遺跡の見学を終えた頃にはホテルのチェックイン時刻を過ぎていた。そこでホテルに向かうことにする。それにしても結構の距離の散策になってしまっていた。疲れきっていたからホテルに直行したはずなのに、ここでさらに疲れてどうするんだか・・・。
宮崎での宿泊ホテルはホテルマリックスラグーン。スーパー銭湯と隣接したホテルである。ホテルの駐車場に車を入れるとチェックイン手続きをとる。部屋に入ってようやく一息である。
さて一休みしようかと考えたら、何やら部屋が臭い。一体どこから臭っているのかと調べたら、どうやら私の体自身が臭っているようだ。山で汗をかいたせいかと思ったが、単純な汗のにおいとも少し違う。そこで調べてみるとどうやら足が臭っている。原因は靴。佐土原城の本丸を歩いた時に足が水に沈んでしまったが、その水がいわゆるぬかるみの水だったもので、表現しがたいような生臭い臭いがしているようである。とにかくこれでは不快極まりないので靴を洗いたいところだが、まさか洗面所で靴をザブザブというわけにもいかない(さすがに私もそこまで非常識ではない)。そこでとりあえずリセッシュをかけまくってから靴を乾燥させることにする。
とりあえず靴はそれで何とかするとして、当然ながら靴下も同様の臭いを発している。そこでほかの洗濯物とまとめてまず洗濯をすることにする。元より今回の遠征は長期に渡るので毎日の着替えを持参することは不可能であり、どこかで洗濯をするのは計画に織り込み済みである。それをやや前倒しにすることにする。
服の方を洗っている間に体も綺麗にしておくことにする。ホテル隣のスーパー銭湯に入浴に行く。体を洗ってサッパリすると新しい服に着替える。靴だけはまだやや臭っているが、これは仕方ないのでさらにリセッシュを吹きかけて、できる限り乾燥させておく。
しばし部屋でまったりと原稿書き。そのうちに夕食を摂るべき時間になってきたので食事に出ることにする。まだ若干臭いが残っている靴にもう一度リセッシュを吹きかけてから外出する。
さて今日の夕食だが、気分としては洋食系、それも肉を食いたいというところ。調査をしておいた店に向かうが、残念ながら今日は休みとのことで途方に暮れてしまう。やむなく他の店を探して繁華街をプラプラ。しかしなかなかピンとくる店がない。その内に見つけた店が「グリルきのした」。どことなくビビッと来たのでここに入店することにする。注文したのはビーフカツレツ(2650円)。
いわゆるカツ屋のビーフカツと違って洋食屋のビーフカツレツである。柔らかい肉にソースの組み合わせが実に美味。まさしく私が食べたいと思っていたイメージ通りの味。この店は正解であった。
帰りにコンビニに立ち寄ると夜食を購入。こうしてこの日の夜は暮れていくのであった。
☆☆☆☆☆
翌朝は5時過ぎ頃に目が覚めるが、そのまま6時前までウダウダとベッドで過ごす。とにかく疲労が半端でない。6時過ぎに起きだしてシャワーで目を覚ますと、朝食を摂りに行く。
チェックアウトは8時頃。今日はとにかく鹿児島方面に向けてひたすら高速を突っ走ることになる。今日の宿泊予定は鹿児島だが、その前に立ち寄る場所は鹿児島を通り越して知覧。宮崎自動車道から九州自動車道を乗り継ぎ、鹿児島を過ぎてからは指宿有料道路に乗り継いでの2時間超の長時間ドライブ。指宿有料道路は山間を抜けるアップダウンの激しい道路で、かなりの高所を走るのだが溝の底を走るような感じなので眺望は決して良くない。しかも参ったのはこの道路に入ってから燃料残量警告が出始めたこと。知覧までぐらいはもつとは思うが、こんな山中でガソリンが尽きたら万事休すである。とりあえず登り坂ではなるべくふかし過ぎないように、下り坂ではアクセルは切った状態でなるべく無駄な減速はしないように走行する。
何とか知覧に到着。しかし困ったことにガソリンスタンドが見つからない。とりあえず観光駐車場に車を停めてから聞くと、ここからもう少し進んだ先にあるとのこと。それならばということで、近くの武家屋敷の見学を先にすることにする。
石垣の上に生け垣を設けた武家屋敷が整然と並んでいる。島津はこのような形態の武家屋敷街を各地に築き、これを国の防御としたようである。入口で見学料を払うと内部を見学。中には数軒の庭園が観光客に開放されていて見学が出来るようになっている。
西郷恵一郎邸 平山克己邸 平山亮一郎邸 佐多美船邸 佐多民子邸 佐多直忠邸 森重堅邸 知覧は重伝建指定が1981年と比較的古く、それだけ観光地としての開発も進んでいるという印象を受ける。見学料を徴収することで直接的に収益を生み出すシステムも出来ているし、内部でも観光客相手の商売をしている家もある。
武家屋敷街の中の高城家が飲食店を行っているようである。そこでやや早めだが昼食を摂ることにする。ざるそば定食(1050円)を注文。地味なメニューだがなかなかうまい。
武家屋敷街の見学を終えると駐車場から車を出してまずはガソリン補給。これでようやく一安心である。さてこれからだが、とりあえずこの近くの知覧城の見学である。
「知覧城」は知覧の武家屋敷街から車で10分程度。近くには駐車場が整備されており案内看板もある。知覧城も都於郡城と同様で、基本的にはシラス台地を堀切で分断して複数の曲輪を並列した構造になっている。目の前が本丸と蔵の城の間の堀切なのだが、鬱蒼としていてとても入っていける状態ではないので本丸の東側をグルリと回り込むことになる。途中で何やら怪しい洞穴があるのは第二次大戦の防空壕跡とのこと。
さらに進むとやがて本丸と蔵の城の間に到着する。まずは本丸に登る。堀切の底からだとかなり高台の印象。本丸上には知覧城の石碑があり土塁が残っているが特に何があると言うわけではない。
左 奥の右手が本丸、左手が蔵の城 中央 本丸登り口 右 本丸上には城跡碑が
左 本丸風景 中央 周囲には土塁の跡が 右 こうして見るとただの原っぱ 次は向かいの蔵の城に登る。こちらは建物跡が発見されたらしく、柱が復元されている。ここは虎口の跡も残っており、武士達の居住スペースだったと思われるとのこと。
左 蔵の城登り口 中央 通路は直角に折れ、一応虎口をなす 右 蔵の城には建物跡が発見されている 本丸と蔵の城の南には門の跡のような構造があり、そこを下ると弓場城及び今城に登る通路が存在する。弓場城にも今城にも虎口の跡のような構造は残っている。スペース的には今城の方が広い。
左・中央 門の跡らしき構造を抜ける 右 弓場城と今城の分岐 左 弓場城へと登る 中央 弓場城 右 こちらは今城の虎口 左 今城虎口 中央・右 今城内部 弓場城の西に抜けようかとしたが、そこも鬱蒼とした茂みと斜面に阻まれたので結局は元来た道を引き返す。知覧城自体はこの周辺にも付帯施設がいろいろあるようだが、単調な曲輪を登って降りての繰り返しは疲れたので見学はここまでにすることにする。
鬱蒼とした茂みに前進を阻まれる
このまま鹿児島に向かっても良いのだが、ここまで来たのでもう一カ所だけ立ち寄ることにする。次の目的地は「伊作城」。南北朝時代に築かれたという島津氏の城で、かつての島津氏の本拠だったという城である。戦国に名を馳せた有名な島津四兄弟はここで生まれているという。
狭い山道を進む
国道270号線で薩摩半島の東側を北上することしばし、途中から伊作街道を東進したすぐのところに案内標識があるので伊作川を渡り、石亀神社の脇を北上しつつ回り込むような形になる。しばし走行するが何もないので道を間違えたかと思った頃に案内標識を見つけ、後は台風の影響で木の枝が敷き詰められている山道を、バキバキと枝を踏みしめながら走行するとやがて駐車場に到着する。ここからすぐのところに城の案内看板があり、その脇を登ると本丸(亀丸城)に到着する。
左 登り口 右 本丸(亀丸城)と蔵之城の分岐 本丸は鬱蒼としているので念のために足下を杖で叩きながらの進行となる。本丸奥に島津忠良や四兄弟の生誕石がある。また土塁なども残っているが、回りが鬱蒼としていて眺望はない。なお四兄弟生誕の城としてはやや小さいという印象。
左 本丸虎口 中央 本丸風景 右 城跡碑
左 島津四兄弟の誕生石 中央 土塁 右 かなりの山奥 となりの曲輪は蔵の城だが、こちらもそう大きい曲輪ではない。何にしろ正直なところシラス台地に曲輪を水平に並べただけの島津式城郭はもう飽きてきた気もする。大分時刻も遅くなって来つつあるし、もう撤退して鹿児島に向かうことにする。
左 蔵之城に向かう 中央 登り口 右 蔵之城 鹿児島まではまたしばしのドライブ。とにかく今日は一日でかなりの距離を走行したのでやたらに疲れた。ようやく鹿児島に到着した時にはかなりヘロヘロの状態。しかし鹿児島市内は車が多いし、道もややこしくて走りにくい。散々の苦労の末にようやく今日の宿泊ホテルであるドーミーイン鹿児島に到着する。
ホテルに到着すると何はともあれまずは風呂でサッパリしたい。ここもドーミーインのお約束として温泉大浴場完備だが、ナトリウム−塩化物−炭酸水素塩泉という大浴場はビジネスホテルとしては悪くない。ようやく人心地つく。
入浴してサッパリするとしばし部屋で休息。しかしすることもないし、よくよく考えると今日は全く昼食を摂っていないことから、まだ早めではあるが夕食と買い出しがてらに出かけることとする。
しばしは鹿児島の繁華街である天文館をフラフラ。夜食の菓子などを買い求めつつ夕食を摂る店を物色する。ただ疲労が溜まっているのか考えがまとまらない。結局は夕食を摂ったのは「いちにいさん天文館店」。実は鹿児島に来た時点で夕食は豚しゃぶにしようと考えていて、それならば以前にも訪問したこの店でよかろうということになった次第。注文したのは豚しゃぶの3500円のコース。
まず出てくるのは豚骨ごぼう。これが豚肉がトロトロで非常にうまい。沖縄でもこの手のメニューがあったが、やはり豚の軟骨系のこういう料理は特にこちらで食べるとうまい。
次はメインの豚しゃぶを頂くことに。やはりうまい。豚肉はかなり脂身が多いのだが、その余分な脂がしゃぶしゃぶにすることで適度に抜けるので肉がうまい。またここのそばつゆで頂くというのもあっさりしていてうまい。そしてしゃぶしゃぶの最後にそばを入れて頂くのがまたたまらない。
途中で揚げ物が出てきて、最後にはきびなごの寿司と豚汁。そしてデザートはバナナのプリン。最後まで堪能した。やはりうまいわここは。
夕食を堪能した後はホテルに帰ってマッタリ。しばらくして先ほど購入した夜食の菓子を食べてから原稿の執筆・・・と思ったのだが、体に強烈な疲労が溜まっていてとても何かを書ける状態ではない。とりあえず一休みと思ってベッドに横になるとすぐにそのまま意識を失ってしまう。
次に気がついた時は夜の11時過ぎ。どうやら3時間ほど完全に意識を失っていたようである。とりあえず今日の決算まとめ(つまりは家計簿のことだが)をしてから再び改めて床に就く。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時に起床。朝食をとると朝風呂を浴びてから8時ごろにチェックアウトする。今日の予定であるが、入来麓、出水麓といった島津氏の武家屋敷地帯の重伝建を訪問していくというもの。鹿児島を出ると国道3号線から328号線に乗り継いでひたすら北上する。ただ問題は入来までやってきても、どこが入来麓か分からない。カーナビを必死でチェックしていると「入来麓郵便局」を見つけたので、その周辺をウロウロしていたら、すぐ近くに観光用駐車場を見つける。
車を止めると徒歩で散策。武家屋敷地域は石垣と生垣で囲まれた家々が続く町並みで、先日に訪問した知覧にそっくりである。ただ重伝建指定を受けたのが知覧より随分後(知覧が1981年に対し、2003年)ということもあり、観光地としての開発はまだ知覧よりも遅れている印象。
武家屋敷地域を一回りすると、この地にある「清色城」を見学することにする。清色城があるのは現在清色小学校があるところの裏山。住宅地の間を抜けて入口に到着するが、そこには「最近マムシの目撃報告が多数あるので注意」との恐怖の張り紙。確かに下草が全く刈られずに鬱蒼としているので、これならマムシが出るのも当然な気がする。
左 清色城入口 中央 足下が鬱蒼としすぎ 右 この堀切が入口
左 圧迫感のある入口を抜ける 中央 堀切の底は圧迫感が強い 右 今にも崩れそうな崖 登城口がいきなり堀切というのが驚き。これがまさに崖に切り込みを入れているという感じのところなので異様さが際立っている。ここを潜り抜けても、周りから崖が迫ってきている感じで圧迫感が半端ではない。それだけでなく、そもそもは崩れやすいシラス台地の上に、ここの城は整備状況があまり良くないことから、実際に今崩れてきてもおかしくないような崖があり恐怖感を抱かされる。城の構造としては一昨日辺りから見学している城と同じで、堀切で分断された複数の曲輪が並んでいる構造。
左 堀底をさらに進む 中央 本丸の登り口 右 本丸
左・中央 本丸から下って登ると 右 中之城 縄張り的にはあまり個性的なものはない。しかし一応指定されている見学ルートが、まずいきなり本丸に上がり、次に中之城、求聞持城、物見之段の4つの曲輪を経由して一回りするコースになっており、構造上これらの曲輪はすべて堀切で分断されているというわけであるから、勢い何度も登って降りてのハードなコースになってしまうのである。しかも整備状況があまり良くない上に、先日の台風の影響もあるのか足元がかなり危ない箇所なんかもあって、想像していた以上にハードな行程となってしまった。特に中之城からの下りのルートなどは「えっ?マジでここを下るの?」と言いたくなるようなルート。何しろ張ってあるロープを手がかりに足元が滑りまくる階段・・・というよりはもう既に崖と言って良いようなところを降りていかないといけない。マムシを警戒しつつ、足元にも注意しながらの前進はかなり困難であった。
左 ほとんど崖を下ることに 中央 そこからダラダラと進むと 右 求聞持城
左 土橋のようなところを渡って先に進む 中央 物見之段 右 堀切らしきものも ようやく小学校の裏手まで抜けた時にはクタクタの汗だくだった。城郭見学者と言うよりは遭難者に近い風体になってしまっており、これで小学校の近くをウロウロしていたら不審者と間違われるのではと心配になってしまった。
入来小学校
とりあえず入来麓の見学を終えると次は出水麓まで車を走らせる。こちらも知覧や入来麓と同様の島津系武家屋敷地区で重伝建指定は両者の間の1995年である。
さすがに出水麓のほうは観光バス駐車場まで整備されていて、着実に観光開発を目指しているという印象を受ける。とりあえず観光用駐車場に車を止めて徒歩で散策するが、風景としては知覧や入来麓と同じような町並みである。風情はあるのであるが、知覧、入来麓と同様の形態の町並みが続いたのでやや飽きたのも本音。
竹添邸 税所邸 結局は町並みをグルリと一周し、公開されている二つの武家屋敷を見学して戻ってくる。ちなみに中には大河ドラマ「篤姫」でロケに使用された住宅もあり、そちらでは当時の模様の写真を展示してあったが、さすがにもう色褪せていた。なおこの篤姫の成功で脚本家の田渕久美子氏は一躍名を挙げたが、その後に再び脚本を担当した大河ドラマ「江」があまりにもひどすぎる出来だったため、実は篤姫の脚本はゴーストライターの兄が担当していたなどの事実がしれて馬脚を現してしまった。
なおこの近くには「亀ヶ城」と呼ばれる中世山城があったらしいが、車で登ってみたものの完全に墓地として整備されており、城の遺構と言えそうなものは全くなかった。
出水の見学を終えると国道3号線をひたすら北上する。次の目的地は「佐敷城」。以前に津奈木を訪問した際に高速に乗る直前に目にした山上の石垣に心惹かれるも、時間がなかったために再訪を誓いつつ後にした城郭である。
佐敷城は肥後を治めた加藤清正によって、領国の南の要衝を守る城郭として築かれた城で、島津の侵攻を想定したものであるという。加藤清正が手がけたというだけに当然ながら石垣造りの立派な城郭だが、後に一国一城令で廃城となり壊されている。しかし島原の乱後に「壊し方が不十分」として再度壊されているとのことで、当時の城の壊し方を知るための重要な遺跡ともなっているとのこと。
佐敷城はかなり標高の高い山の上にあるが、そこまでは車で登ることが出来る。駐車場で車を置くと、向こうの山上に立派な石垣が見える。島津のシラス台地用群郭式城郭ばかり見てきて石垣禁断症状が出ていた石垣好きの私としては、久しぶりに興奮してくる城郭である。
左 本丸石垣 中央 本丸西門跡 右 さらに登る
左 本丸最上部 中央 一段上る 右 結構広い 本丸からの風景 ルートに沿って登っていくと搦手門方面から本丸へとたどり着く。石垣は上部の隅から壊してあり、これは名護屋城でも見られる城の壊し方である。ただそれでも未だにその石垣は威容を誇っており、さすがに加藤清正が手がけた城。石垣は打ち込みハギのかなり高度なものである。よくまあこの山上にこれだけの石垣を築いたものだと感心する。本丸上からは辺り一面を見渡すことが出来る上に、周囲からもこの城の威容は目に入ることから、島津に対する牽制としては非常に効果的であったろう。なお一国一城令下でも戦略的に重要、または領国統治上に不可欠と判断された城は残存している。幕府にとっての潜在的脅威である島津氏を牽制するためには重要性が高い城と思われるにもかかわらず廃城となっていることは、当時の幕府にとっては島津氏よりも加藤氏の方が潜在的脅威として大きいと考えられていたと思われる。実際に加藤家は二代目の加藤忠広の代で家中の内紛などを理由に改易となっている。
左 本丸から見下ろした二の丸 中央 二の丸東門 右 二の丸搦手側
左 二の丸から見下ろした三の丸 中央 二の丸から見上げた本丸石垣 右 二の丸東門から追っ手門方向 本丸の南方下方に見えるのが二の丸。ここに降りると東門のかなり立派な石組みが見える。またさらに南方下方には三の丸が存在する。
追っ手門
二の丸東門を降りた先にあるのが追手門跡。とにかくこれらの門の威容を見ればこの城の堅固さを感じることが出来る。曲輪の面積などを考えると城としての規模は決して大きいものではないが、この堅固さから、島津急襲の際には本国に直ちに異変を伝えつつ援兵到着まで島津軍を足止めするに十分な城郭である。
期待以上のすばらしさであった。石垣好きの私としては一気に鼻息が荒くなってしまうぐらいの代物。もうこれだけで本遠征の価値は十二分にあったと感じられたぐらいである。
後は今日の宿泊予定の熊本に向けてひたすら高速で北上するのみ。渋滞が気になっていたが高速はスムーズに流れ、熊本市内に突入してからとんでもない渋滞に巻き込まれたものの、宿泊ホテルのドーミーイン熊本には夕方頃到着する。
今日はかなり歩き回ったので(この時点で既に1万歩越え)かなり疲れており、正直なところはさっさと風呂に入ってくつろぎたいところだが、もう一カ所だけ立ち寄りたいところがある。まだ身体が動く内に再度外出することにする。
見学に出かけたのは「熊本古城」。清正の熊本城以前に築城された城で、清正が熊本城を大整備する際にその領域に取り込まれた城である。今では完全に熊本城と一体化してしまっているが、現在は高校となっている部分に往時の石垣を見ることが出来るという。
左 城跡は今は高校になっている 中央 ここは元々は堀跡 右 この辺りの石垣は直線的
左 堀跡が公園になっている 中央 奥の石垣の方が高い 右 奥の石垣には扇の勾配がある 目的地はホテルから歩いてすぐのところ。確かに高校があって石垣と堀の断片のようなものが残っている。かつての堀跡は古城公園となっていてここから石垣を間近に見ることが出来るが、確かに熊本城本体の石垣とは様相が異なることが一目で分かる。熊本城本体の石垣は加藤清正の代名詞ともなっている扇の勾配の高度なものであるが、ここの石垣はもっと単純で直線的なものである。なお奥に進むと石垣の雰囲気が代わり、高さが高くなると共に扇の勾配が見られたことから、こちらは清正の石垣か。
左 熊本城船場柳御門跡 右 遠くに熊本城が見える 熊本古城の見学を済ませてホテルに戻ると大浴場で入浴。このホテルは天然温泉大浴場付きである。さっぱりと汗を流してホッとする。
しばし部屋で休憩をしてから夕食に出向くことにする。夕食はやはり馬刺しかというところで「むつ五郎」に繰り出す。注文したのは馬刺しにタテガミ、さらに心臓刺しである。
左 付きだし 中央 タテガミと馬刺し 右 心臓刺し さすがに刺身ばかりだと口の中が生々してきたので馬の一口カツを注文。これがなかなかにうまい。
馬刺しを中心に堪能。ちなみにこの店は食べログなどでは異常に評価が高いのだが、それだけは疑問。確かにうまいが圧倒的とは思わない。それに以上のメニューにウーロン茶一杯で支払いが5415円というのはCPもあまり良くない。
熊本の有名人もいました
馬刺しだけだとまだ腹が中途半端なので、帰りにラーメンを一杯食べてから、百貨店の地下でみやげものを買い求めてホテルに戻る。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時過ぎに起床すると朝から入浴、レストランで朝食を済ませて8時頃にはチェックアウトする。今日の予定であるが、最終的には湯布院まで九州横断することになるが、その前に立ち寄り先がいくつかある。もっとも所要時間を読めないので進行具合に併せて出たとこ勝負である。
昨日の夕方も渋滞がひどかったが、今朝も熊本市内は渋滞がひどい。どうやら熊本の渋滞は慢性のものであるようだ。ようやく九州自動車道にたどり着くと八女までひた走る。最初の目的地は八女の重伝建地区である福島である。
八女福島はそもそもは城下町として発祥した町で、福島城南部を迂回する往還道路に沿って町人地が配置された。その後1620年に福島城は廃城となるが、八女地域の交通の要衝であることから商家町として発展したという。現在でも往時の繁栄を偲ばせる白壁の町並みが残っているという。
重伝建地区の近くに八女市役所があるのでそこの駐車場に車を止めると町並みの見学に向かう。確かにかつての往還沿いに江戸時代の風情の残る白壁の建物が多数存在している。
ただ町並み全体の趣としては単純に江戸時代だけではない。よくよく見ていると微妙に昭和レトロが紛れ込んでいる。実際はこれがこの地域の「現代」なんだろう。実際に重伝建地区と無関係の表通りの商店街などはむしろもろに昭和レトロである。
表通りの商店街の風景
重伝建指定は2002年と比較的近年であるが、商業地としての伝統は残っているのか、今でも観光客をターゲットにした商売が行われているような様子は見られた。もっとも私の訪問時はまだ9時過ぎ頃の早朝ということもあるのか、開いている店などは皆無だったので普段どの程度賑わっているのかの判断は出来かねるところである。個人的にはどことなく懐かしさを感じさせる町であった。やはり武家屋敷街よりは町人街の方が活気や人の息吹を感じることが出来る。
八女福島の見学を終えると、次は同じく八女市の黒木地区(元は黒木町だが、平成の大合併で八女市に合流している)に向かう。黒木は福島同様に矢部川沿いの地域だが、福島が矢部川下流近くの平地なのに対し、黒木は矢部川上流の山間地域である。この地域は八女に対して奥八女と呼ばれていた地域になる。
黒木はそもそもはこの地域に勢力を張った黒木氏の拠点であった猫尾城の城下町として発祥しており、諸勢力の九州支配を巡る戦いの中で黒木氏が滅亡した後は、在郷町として発展したという。重伝建に指定されたのは2009年とつい最近であり、一般的な知名度はそう高くないが、樹齢600年の黒木大藤で知られており、この大藤が花を咲かせる春には多くの観光客が訪れるとか。また宝塚出身女優である黒木瞳の出身地であることも知られている。
市街地を抜けるとまずは「猫尾城」の見学を先にすることにする。猫尾城跡は現在では公園になっていて展望台などがある。南西側から入り込む道は通行禁止になっており、山上へは北東側から大きく回り込む必要があるが車道は整備されている。駐車場に車を置くととりあえず案内に従って本丸跡に向かう。
左 下から見上げた本丸 中央 本丸風景 右 この石垣の上に櫓が載っていたというが 本丸跡は彦山神社になっているが、スペースとしてはそう大きくはない。現在は石垣に社が載っている。
左 二の丸 中央 二の丸から本丸方向を望む 右 二の丸にも社がある ここから崖を降りていくと二の丸跡。ここにもお堂が建っているが、城としての遺構はほとんどない。
もし落ちたらひとたまりもありません・・・ 結局は「城があったらしい地形が残っている」というレベル。なお車道沿いに駐車場に向かって歩いていたら、途中で道路が派手に崩落している箇所があり、これが南西側からの道路が通行禁止になっている理由と思われた。それにしてもこんなところから転落したらまず助からない。
猫尾城から降りると黒木の大藤を見学。この藤はあまりに大きすぎるために道路にまではみ出しており、その部分は覆いのようになっている。猫尾城に向かう際に車でここをくぐったのだが、その時には陸橋か何かと思って気にも留めていなかった。
重伝建地区の風景 左 学びの館 中央 内部 右 文学資料館 重伝建地区は随所に古い町家があるが、まだ重伝建指定されてから日が浅いせいか、一貫した保存・展示と言った方向には向かっていない印象を受ける。観光案内所に立ち寄ってマップを入手したが、その時も「こんな何もないところに珍しい」というような反応。良くも悪くもまだ観光地してはこなれていないようである。一渡り町並みを見学すると、町はずれの旧家・隈本家住宅(現在は学びの館として解放されている)を見学してから先に進むことにする。なお展示物は現地出身の文芸評論家・石橋忍月の資料などだが、やはり黒木瞳関連の資料なんかも展示されていた。
さて次の目的地だが、この近傍には岩戸山古墳があることからそこに立ち寄ることにする。岩戸山古墳は九州を代表する前方後円墳で磐井の乱で知られる筑紫君磐井の墓と言われている。
左 古墳に隣接している「別区」 中央 復元した石人が立っている 右 古墳本体はやはりただの山 現地は遺跡公園になっていて駐車場も完備してあるが、やはり巨大古墳の常で実際に現地に行くと何のことやらサッパリ分からない(本体はまるっきりただの山)。そこで遺跡近くにある歴史資料館に立ち寄って館員の説明を受ける。
岩戸山歴史資料館
磐井の一族はこの辺りを中心に勢力を張った地方豪族である。磐井の乱は朝鮮半島に渡航しようとする大和政権軍を磐井が阻んだことから起こった争いだが、そもそも九州は古来より渡来人も多く朝鮮半島との結びつきの強い地域なので、要は朝鮮半島での権力争いがそのまま日本に波及したものらしい。なお磐井の乱自体は日本書紀の注釈にわずかに「筑後国風土記(今は既に散逸して現存していない)」からの抜粋の記載があるのみだという。なお元より歴史資料としては捏造が多いことで知られている日本書紀の記述であるので、実際にはその詳細は全く不明らしい。なお岩戸山古墳の特徴は、副葬品がいわゆる埴輪ではなくて石人石馬などであることと、別区と呼ばれる広場上の区画があって何らかの祭事などが行われていたのではと推測されることとか。また意図的に破壊されている石人などが多いことから、埋葬者(及びその末裔など)が何らかの権力闘争に敗れたということはほぼ確からしい。
岩戸山古墳を見学した後は茶畑の中を西進、岩戸山古墳の歴史資料館でお勧めされた石人山古墳を見学することにする。この辺りは八女古墳群と呼ばれる古墳集積地帯で、概ね西から東に向かって徐々に年代が新しくなるらしい。この石人山古墳はかつて磐井の墓と言われていたらしいが、岩戸山古墳が磐井の墓であるらしいということから、最近の説では磐井の祖父の墓ではないかとされているとか。
左 石人山古墳遠景 中央 略図 右 登り口 ちなみに石人山古墳はその名の由来となっている石人と共に装飾のなされた石棺が展示されている。なおこの石人は江戸期からその存在が知られているが、当時は今と異なって着色や紋様などがあったのだが、触れば病気が治るという民間信仰の対象になったことから森の石松の墓石同様に摩耗によって今日のような状態になってしまったらしい。
石人
石人山古墳の手前には広川町の古墳資料館があるのでまずはそこを見学してから、石人山古墳の見学に向かう。例によって古墳本体は小高い丘という印象で、石人と石棺は今では建物の中に安置されているが、石人の方は見事にすり減ってしまっている。もうちょっと早く何とかしようがなかったのかとも思われるが、江戸時代では仕方ないか。
石棺の表面には模様が描かれている 石人山古墳の見学を済ませると、すぐそばの弘化谷古墳を覗いてから移動する。当初予定では遺跡関係をこんなに回るつもりはなかったので大幅な予定変更になってしまったが、これはこれで面白かった。なお当初予定ではうきは市の重伝建地区である筑後吉井や同じく重伝建の日田の豆田町などに立ち寄ることを考えていたが、既にかなり時刻が遅くなっていてもう時間的に不可能である。それに何よりも岩戸山古墳周辺などで歩きすぎていてかなり疲労が蓄積していて体力がもう限界。さすがに連日の一万歩越えの負担がかなり身体に来ていている。既に両太ももの筋肉がパンパンで、時折大腿四頭筋に軽い痙攣がでるぐらい。無理はやめて今日の宿泊予定の湯布院まで一気に移動することにする。
左 古墳遠景 中央 石室入口 右 石室内部はこのように彩色されていたらしい 八女ICから九州自動車道に乗ると、次の広川SAでかなり遅めの昼食を摂り、後は鳥栖JCTで大分自動車道に乗り換えて九州横断の長距離ドライブとなる。ここは途中で九州山地越えがある山間コース。と言っても高速道路は別に走行が困難なわけではない。ただ問題は体力がかなり限界に近づいていること。今日で遠征6日目、やはりかなり疲労が溜まってきている。長時間ドライブが今までになく身体にキツイ。途中で意識が虚ろになりかけるところを無理矢理に鼓舞してのドライブである。もっともこれは想定内で、だからこそ今日は湯布院温泉でゆっくりするつもりで元々予定もあまり入れていなかったはずだったのだが・・・。かなりヘロヘロになってきた頃にようやく目の前に由布岳の姿が見えるようになる。湯布院ICで高速を降りるとそこは既に温泉場の雰囲気がそこはかとなく漂っている。
由布岳(翌日撮影)
ようやく湯布院に到着するとまずは旅館に直行。宿泊旅館は「由布院いよとみ」。老舗旅館をリフォームしたらしく、建物自体は古いものの内部は綺麗で洒落ている。ちなみに今回の遠征では当初から湯布院で一泊することを考えていたのだが、そのためのプランニングは難航した。そもそも湯布院には一人で宿泊できるホテルがほとんどない。その上とにかくホテルの相場が異常に高く、しかも週末になるとさらに割増料金になる。そのためにとにかく湯布院宿泊が週末にならないようにプランニングし、一人で宿泊できるホテルを探す必要があったのである。そしてようやく見つけたのがこの旅館であった。
チェックインを済ませるとまずは入浴である。この旅館は3つの貸切風呂があるが、2つが内風呂で1つが露天風呂である。とりあえず1番人気間違いなしの露天風呂にまず入浴する。
露天風呂は広々としていて気持ち良い。泉質は単純温泉とのことだが、湯は苦味やしょっぱさなどが少なく非常に肌当たりの柔らかいもの。連日の酷使の上に昨日の1万5千歩がトドメとなって足がパンパンに張っている状態なので、とにかくそれをほぐす。まさに生き返るというやつである。
由布院サイダーで一服
入浴を終えると部屋で「由布院サイダー」で一服。その後は夕食までの間に駅前まで散策に出る。駅前は観光地を意識して洒落た雰囲気になっている。別府ほど賑やかしくなく、適度に鄙びたなかなかによい温泉地である。
湯布院駅と駅前風景 旅館に戻ってくるとすぐに夕食である。夕食は地鶏鍋のコースだが、鍋の前に小皿がズラリと並んでいて驚く。これが地場ものなどをうまく使ったなかなかうまいもの。刺身の後はようやく鍋だが、これがこれでもかとばかりに地鶏を盛ってあってまた驚き。鍋の途中でもにゅうめんやら小鉢やらが追加。これがまたうまい。にゅうめんをうまいと思ったのは初めてである。
最後は雑炊とデザートの柚子シャーベットでしめて終わり。とにかくボリュームが十二分で食後は「満腹で死にそう(笑)」。
ところでネットの口コミなんてものが全く当てにならないというのは常識だが、この旅館についてもいろいろ書かれている。曰く「館内が不潔」・・・病院の無菌病棟のような部屋が好みなのかと思ったが、どうやら「古い=不潔」という感性の持ち主らしい。それに温泉析出物とゴミの区別もついていないようだし。曰く「食事が物足りなかったので、外に食べに出ないといけなかった」・・・どんだけ大食漢やねん! さらに「所詮は安旅館」というような記述も見かけたが、本遠征でここが一番の高級旅館の私には、そんなお金持ちの方の感性は分かりません。それにしてもそれだけ金持ちなら、なぜ安旅館にわざわざ泊まるの?
夕食を終えて一服すると(腹が重い・・・)、寝る前にもう一度入浴しておくことにする。案の定露天風呂は使用中なので内風呂(大)に入浴。露天風呂ほどの開放感はないが、これも悪くはない。
駅前で買い求めたそば饅頭 入浴を終えるといよいよ本格的に疲労が押し寄せてくる。そこでやや早めではあるが床に就くことにする。
☆☆☆☆☆
翌朝は7時前まで完全に爆睡していた。私には柔らかめのベッドよりは、畳に布団のほうが合うんだろうか。目を覚ますととりあえず朝風呂。空いていたの内風呂(小)。これは一人用レベルの内風呂。これでこの旅館の3浴室ですべて入浴したことになる。
朝食は8時から。昨晩の夕食もボリュームがあったが、朝食もこれまたかなりのボリュームがある上に品数が多くて手が込んでいる。朝からたっぷりと頂く。
チェックアウトしたのは9時頃。今日は一気に山口まで突っ走ることになるから長時間ドライブである。とりあえずは由布岳を眺めながら東進、中津方面に向かって走ることになる。
宇佐からは一般道を走ることになる。九州は大分のある東側が鉄道・道路ともに交通整備が貧弱である。宮崎県民の空港依存度が増すわけである。なお北九州方面に向かう大型トラックがやたらに多かったのが印象的。
小倉から九州自動車道に乗ると関門橋を渡って本州へ。関門橋を渡るのは初めてだが、やはり瀬戸大橋などに比べると今となっては小さい橋のイメージ。
関門大橋を渡ると本州であるが、この頃になると本格的に体力が切れてくる。昨晩はかなり爆睡したはずだが、やはりそれだけでは累積している疲労は回復しきれない。残念ながら私も年を取ったということである。とにかく気を付けないと意識が遠のきそうになるので、適宜PAで休憩をとりながらの行程となる。
さて今日の予定であるが、今日は秋吉台周辺をうろつく模様。秋芳洞自体は以前の山口訪問の際に訪れているが、その時には生憎の天候だったために秋吉台は何も見えなかったということがある。また秋吉台には秋芳洞以外に大正洞、景清洞などの鍾乳洞もあることが知られているが、バスで行っていたために足がなくて訪問できなかった。これらの以前の宿題をまとめて解決するつもりである。
秋吉台展望台
ヘロヘロになりつつようやく秋吉台に到着、秋芳洞の駐車場などがあるがそこは無視して秋吉台展望台に向けて走る。展望台近くの駐車場に車を止めると、ようやく長年の念願だったカルスト台地見学。なかなかにワイルドで非日常的な光景である。
展望台の売店で購入した梨ソフトをなめながら駐車場に戻ると、大正洞に向かうことにする。車でしばし秋吉台の中を突っ走る。しかしあまりの壮観に気を取られ、気がつけば車はフラフラと道路の端に。危ういところで気がついてハンドルを立て直したが、その時に助手席のドアのあたりからチッという音が。どうやらガードレール代わりに張られていた金属ワイヤーにドアが触れたようである。危ないところであった。やはり肉体的疲労が運転の集中力も奪っている気配がある。
大正洞はその名が示すように大正時代に発見された鍾乳洞である。もっともそれ以前から「牛隠しの洞」と呼ばれており、戦乱などの折に住民が牛を奪われないようにこの洞窟に隠した(昔から牛は農民にとっての重要な財産である)というエピソードが残っている。
洞窟は牛隠しなどのある下層から登っていくと、極楽広場と呼ばれる上層に達する。この上層部は比較的開けた空間になっており、ここに様々な鍾乳石が存在しており一番の見所となっている形式。下層は地獄で上層は極楽とは良く言ったもので、圧迫感の強い下層から開けた上層に達するとホッとした気持ちになるのは確か。
鬱蒼とした中を帰っていると、突然足下に・・・で、出た! ちなみにこの洞窟は鬱蒼とした岩場の奥に存在するが、洞窟から出てゲートに戻る途中で蛇に遭遇。何やら今回の遠征ではやたらに蛇に出会う。佐土原城で蛇に出会った時、その旨を現地の方に伝えると「蛇は金運の象徴だと言われているし、これはラッキーなことに出会う予兆だと思っていれば良い」と言われたが、いくら何でも出会いすぎなのでは。それに蛇が金運の象徴だとしたら、それが悉く目の前を逃げていくというのはどんなもんだか(もっともこっちに向かってきても困るが)。
大正洞の見学の後はさらに車で北上、景清洞に向かうことにする。景清洞の周辺はキャンプ場的雰囲気。景清洞の入洞料は1000円だが、先ほどの大正洞の入道券の半券があれば半額になる。なお景清洞は手前の800メートルが照明付の観光コース。そこから照明なしの400メートルの探検コースがあるとのことでその入洞料は300円。とりあえず来たついでだとばかりに300円を支払って長靴とライト付ヘルメット、さらに懐中電灯(一人で行く場合には、万一ライトが故障した時も考えて懐中電灯を併せて貸し出すらしい)を借りて準備をする。
前半は普通の観光洞窟である 景清洞は大正洞とは違って広大な鍾乳洞で鍾乳石などは比較的少ない。景清洞はそもそも地下河川のようで、私の訪問時には全く水はなかったのだが、季節によると水が流れていることがあるらしい(だから長靴である)。観光コース部分は足下も整備されていてバリアフリーなのだが、本領はそこから先の冒険コース。足下は川原そのもののゴツゴツした岩場になって、長靴だと靴底が薄いために正直痛い。水がない今の場合はトレッキングシューズが欲しいところ。またコースが曲がっているので、歩いてしばらくすると照明なしには自分の手も見えないぐらいの漆黒の闇の中になる。その中をヘルメットのライトと懐中電灯の明かりを頼りに足下に気を付けながらトボトボと歩く。そうなると洞内が広いのが逆に心細さにつながるし、気を付けないと帰りの道順が分からなくなりそう。しかも私の訪問時は平日の金曜日の昼ということもあって、観光コースで小学生の団体とすれ違った以降は人の気配さえ洞内にはない。閉所恐怖症などが全くない私でも恐怖を感じるような状態なのだから、もしその傾向がある者なら一生もののトラウマになるかもという世界である。
左 観光コースはここでおわり 中央 いよいよ冒険の始まり始まり・・・ 右 いきなり天井が低い
左 天井もデコボコ 中央 足下は完全に川原 右 巨石も転がる そのうちに天井が低くなってきて腰をかがめないと歩けなくなる。これは腰が悪い上に足にかなりダメージが来ている私にはかなりツライ。その内にドカンと派手に頭を天井にぶつけ、ヘルメットを貸し出していた意味を体感する(ヘルメットのおかげで怪我はしなかったが、衝撃で首を痛めそうになった)。
左 ようやく中間地点 中央 途中で横穴もあり 右 這うように低い天井を抜けて、精根尽きた頃にようやくゴール 天井が低い部分をようやく通過して再び天井が高くなるとそこが終点。洞窟はその先もあるようだが、天井がさらに低くなっているので進むとしても這っていかないと無理だろう(当然ながら私はそんな危険なことをする気は毛頭ない)。それにしても山で毒蛇に出会ったり、真っ暗な洞窟の中を進んだり「私は川口浩探検隊かい!」。一体自分で何をやってるんだろうと思わず自嘲の笑みが出る。確か最初は「全国の美術館を訪問する」が目的だったはずなのだが・・・。どうも私の人生もこの暗闇の洞窟並みにわけが分からなくなってきている。
暗闇の洞窟から表に出てきた時にはつくづく明かりのありがたみが身に染みた。とりあえずこれで秋吉台での宿題は完了。後は今日の宿泊予定地を目指して車を走らせる。
山口近くまで走ってきて時間を確認するとまだ若干の余裕が。そこでホテルに入る前にこの地にある山城である「高嶺城」に立ち寄ることにする。
道幅はこれ(帰路に撮影)
高嶺城は山口市街北側の高嶺に築かれた山城で、大内氏が詰めの城としていた城郭だという。テレビの中継塔が立っているのでそこまでは車で行けると聞いていたのだが、その入口がなかなか分からない。ようやく見つけたの神社の脇の極めて狭い道で、そこを進むと高嶺城の案内看板が出ている。しかしそこからの道もとんでもない狭い山道。確かに車で進める道ではあるが、道幅は車幅一杯の上に傾斜もきつく、対向車とすれ違えるポイントもあまりないためにもし対向車に出会ったら万事休す。入ったは良いが対向車が来ないことを天に祈らざるを得ないような道である。
左 いきなりNHKの放送アンテナに当たる 中央 その奥が郭 右 郭 幸いにして対向車に出会うこともなくNHKの放送塔のあるところまでやってくる。ここにはとりあえず2,3台の車が停められるスペースがある。その奥がちょっとした展望台のようになっていて案内板も立っている。それによるとここが郭跡でここから下にも数段の郭、さらに山上にかけて複数の郭がある模様。
左 かなりの標高だ 中央 下を見ると確かに郭がある 右 降りてみるとさらに郭と石垣の残骸らしき石も とりあえず下の郭を見に降りてみるが、途中から鬱蒼としていて、結局は案内看板にあった石垣はうまく見つけられず。
体力が尽きて上には登れず
では上の方はと登山にかかるのだが・・・すぐに駄目だということが分かる。もう完全に足が死んでいて足が上に上がらないのである。長期遠征で身体全体に疲労が蓄積してきているが、どうも今日の分の体力は洞窟探検で使い果たしてしまったらしい。結局は郭らしき部分の下まで来たが、これ以上の前進は時間的にもそして何より体力的に不可能と判断して今回は撤退することにした。
先ほどの山道を再びヒヤヒヤしながらようやく降りると宿泊地を目指すことにする。さて今日の宿泊地であるが、湯田温泉に宿泊する予定。山口県山口市の白狐が発見したとされる温泉地である。ところで県庁所在地の自治体で、市街地近傍にこれだけメジャーな温泉を抱える市は道後温泉を要する松山市以外では思い当たらない(有馬温泉も神戸市だが、あそこは山越えをする必要がある)。
宿泊ホテルはホテルニュータナカ。選択理由は会社の福利厚生割引が使用可能だから。湯田温泉中心部の結構大きなホテルである。
ホテルにチェックインするとまずは入浴。このホテルでは屋上露天風呂と地下の内風呂があるらしいが、まずは屋上露天風呂に向かう。吹きさらしの屋上露天風呂はやや肌寒い感もあるが、開放感は抜群。そしてアルカリ単純泉の湯がやさしくて良い。もうとにかく両足がグラグラになっているので、とにかくその疲れを抜くのが最優先である。
入浴を終えると腹が減ってきた。というか、そもそも今日はお昼を食べていない。ホテルから出かけると夕食を摂る店を物色する。とにかく今日はガッツリ食べたい気分なんだが、どうもこの界隈の店は店構えから高そうと感じる店が多い。ガッツリ食いたい時にそれでは少々財布が。そこでそう高くなさそうな店構えの店を探す。そして目に付いたのが「お花茶屋」という居酒屋。
入店してメニューを見てみると価格は安め。とりあえず「ツナサラダ」「鯨の竜田揚げ」「小フクのから揚げ」「串焼き中皿盛り」「おにぎり」を注文。そしてさらに「イシダイの煮付け」「アイスクリーム」を追加。
いずれも驚くほどうまいようなものはないが、まあ普通にうまい。何しろこれだけ死ぬほど食って支払いが3910円なんだからCPは良い。
ホテルに戻ると、しばしテレビを見てボンヤリしてから、今度は地下大浴場のほうへ出向く。しかし浴場内で馬鹿ガキ様が大騒ぎ中で頭が痛くなった(地下なので子供の声がよく反響する)ので早々に撤退する。
部屋に戻るとグッタリ。それにしても疲労が溜まっている。今晩は早めに寝ることにする。
☆☆☆☆☆
翌朝は5時過ぎに目が覚めてしまう。中途半端なのでやむを得ずそのまま起床。テレビなどを見ながら時間をつぶすとレストランで朝食。腹を満たしたところでチェックアウト前に屋上露天風呂を堪能する。
8時過ぎにチェックアウトすると今日の目的地へ向かって車を走らせる。今日の最初の目的地は萩往還の宿場町として栄え、2011年に重伝建に指定された佐々並市。
山口県庁に建っている藩庁門を見学してから県道62号を北上する。この道は萩往還に沿っている道で、ところどころで萩往還の遺構を見ることが出来るのだが、車道として見た場合にはかなりひどい道。道幅がとんでもなく狭い箇所がいくつかあるし、カーブも傾斜もきつくとにかく走りにくい。にもかかわらず、地元の車は前も見ずにまるで対向車など来るはずがないと言わんばかりの猛スピードで走り抜ける。おかげで何度か正面衝突をしかねない場面も。整備された国道262号線に乗り換えてホッとするとまもなく佐々並市である。
山口藩庁門
佐々並市近くの道の駅あさひには「佐々並市重伝建指定」という看板が高々と掲げられていて歓迎ムード。しかし肝心の観光案内図の類が全くない。また町内を走行してみたが、まだまだ整備はこれからというか、どこが見所なのかよく分からないというか・・・。結局は「普通の山村」という以上の印象を得られずに現地を後にすることに。まあ実際はこういう普通の山村が実は貴重ではあるのだが・・・。
再び山口に戻ってくると今度は高速を長距離走行になる。次の目的地は吉川元春館。それにしてもこういう長距離走行になるとやはりヘロヘロ。初日は岡山から防府までノンストップで高速を突っ走ったというのに。体力の衰えというものはあまり直視したくないものである。途中吉和SAで休憩がてらに昼食。「岩魚茶漬け丼(800円)」を頂くが、サクサクに揚げてある岩魚に出汁をかけて頂く岩魚茶漬けが美味。SAのレストランにしてはこれは上出来なメニューである。
昼食を済ませると再び気を取り直して高速走行。千代田ICで中国道を降りるとしばし山道を西進、ようやく吉川元春館に到着する。
手前にある戦国の庭歴史館で映像資料などで予習。吉川元春は言わずとしれた毛利元就の次男で、三男の小早川隆景と共に「毛利両川」と呼ばれて毛利の中国平定に貢献した人物である。個人的なイメージとしては「武の吉川元春、智の小早川隆景」という印象があるが、実際に戦闘に長けた人物であったようである(小早川隆景は調略に長けている)。吉川元春館は彼が隠居所として建てた館であるが、関ヶ原合戦後の毛利氏の移封に伴って吉川氏も岩国に移封されたことで廃墟となったようである。
左 戦国の庭歴史館 右 吉川元春館復元模型 吉川元春館は表の堂々たる石垣が印象的な建物である。さすがに戦国武将の館だけあって、館と言えども一定の守備力は持っているようである。なお当然ながら建造物の類は一切残存していないのだが、台所の建物が復元されている。またここではトイレの遺構が見つかっており、発掘された寄生虫卵などから当時の食生活が明らかとなるなど考古的には貴重な発見となっている。またこの奥には吉川元春の墓所なども存在している。
左 石切場 中央 表の石垣 右 表門 左 屋敷跡 中央 復元された台所 右 台所内部 左 庭園跡 中央 この便所跡からは寄生虫の卵などが発見された 右 吉川元春墓所 吉川元春館見学後は、近くの万徳院跡を訪ねる。ここは吉川氏の菩提寺として建造されたが、吉川氏の移封に伴って建物等は解体移築されたらしい。まっすぐに200メートルほど延びる参道が印象的だが、本堂内には蒸し風呂が設置されていたことが分かっており、それが復元されている。
左 万徳院跡碑 中央 本堂をイメージしたガイダンスホール 左 長い参道 中央 ここが正面 右 ガイダンスホールに展示されていた復元模型 左 寺院内部 中央 復元した蒸し風呂 右 庭園跡 万徳院跡は吉川氏の居城であった小倉山城を訪ねる。しかしこの辺りの道はカーナビにほとんどデータがないために、途中で道に迷って道幅ギリギリの山道をウロウロと走り回る羽目に。散々な目にあってようやく現地に到着する。
狭い山道を迷走飛行
「小倉山城」は吉川元春が本拠をより堅固な日野山城に移すまでの間、吉川氏の本拠となっていた城郭であり、毛利元就夫人の妙玖もここで産まれている。
城内は遺跡公園として整備されており、良好な状態で見学可能。また駐車場からの道はそう険しくない。ただ残念なことに私の訪問時は、二の丸から本丸内の通路が崩落の危険があるために通行禁止ということで本丸の一番高い曲輪には登れなかった。
左 登城路脇にある二の丸 中央 本丸への登り口は通行止め 右 本丸帯曲輪にある建物跡 左 同じ曲輪には門跡もある 中央 反対側に回り込む土塁がある 右 その先が三の丸 本丸が最高所にあり、その手前に三の丸が、また本丸の脇に二の丸の曲輪群があるという構成。地形に合わせて複数の曲輪を放射状に配した合理的な城郭だが、そう高い山上にあるわけではないので難攻不落という印象はない。それが吉川元春が本拠を移動した理由であろうか。吉川元春も小早川隆景と同様に吉川家を乗っ取る形で送り込まれた養子なので、人心を一新するという意味もあったのかもしれないが(ちなみに小早川隆景も本拠を高山城から新高山城に移している)。
なおここでも二の丸見学中に蛇に遭遇する。私は今まで各地の山城を探索しているが蛇に遭遇したのは本遠征が初めてである。それにしても異常なほどに蛇に遭遇する。
体力に余裕があればまだ他のところを訪問するだけの時間的余裕がないわけではないが、体力の方に全く余裕がないし、そもそももう訪問するあてもないしということで宿泊ホテルに直行することにする。今日の宿泊予定ホテルはホテルモーリス東広島。大浴場完備で朝食がうまく、安価な宿泊料金ということでこちら方面では私が定宿にしているホテルチェーンである。
しばし高速を走行してホテルに到着。グッタリして部屋に入るとまずは大浴場で入浴、山中を歩き回ってかいた汗を流す。
入浴をしてから夕食に繰り出すことにする。今日の夕食であるが、気分としては「ガッツリ食べたい」(なんか昨日もこう言っていたような・・・)。そこで頭に浮かんだのはトンカツ。トンカツと言えば思い当たる店がある。というわけで訪問したのは「一久」。注文したのは「ジャンボ特選ロースカツ定食(1596円)」。250gのトンカツの定食である。
充実したサラダバーに重量感のあるトンカツ。とにかく「ガッツリ」食べられる店である。そのためか客層も若い。
夕食を終えて帰ってくると横になりながらテレビをボンヤリと見る。しかしNHKの首藤奈知子の番組を見ていた途中で意識を失ってしまう。
☆☆☆☆☆
結局、昨晩は9時前ごろから爆睡していたようである。気が付けば翌朝の7時頃になっていた。ゴソゴソと起き出すととりあえず朝食。ここのホテルの朝食は取り立てて特別なものがあるわけではないのだが、なぜかご飯やパンがうまい。
朝食後は入浴して一服。今日の予定だが今日は遠征最終日なので特に大きな予定はない。実際のところ、山口からダイレクトに帰宅するのはしんどすぎるから一泊入れたというのが実態。一応の予定はあるがスケジュール的にはガラガラである。だから十二分に休憩をとってから9時過ぎにチェックアウトする。
さて今日の予定だが、とりあえずホテルの南側にある「鏡山城」に立ち寄ろうというもの。ここに山城があることは以前から知っていたが、今まで何だかんだで機会がなくて延び延びになっていた経緯がある。
この山の上が鏡山城
鏡山城はそもそもは大内氏が安芸支配の拠点として築城した城郭で、その後は尼子氏の台頭と共に争いの最前線となる。この戦いで大内側の守将・蔵田房信は奮戦して尼子側に多大な被害を与えたものの、当時尼子傘下にあった毛利元就の謀略によって鏡山城は落城、蔵田房信は自害する。こうして鏡山城は尼子氏の支配下となったものの、この時の戦後処理で毛利元就と尼子氏の間に亀裂が生じ、後に大内氏が鏡山城奪回のために再び出兵した際に元就は大内側に寝返り、鏡山城も大内氏に奪還されている。その後、鏡山城の防御力に不安を持った大内義興が要害の槌山城を築城したことによって鏡山城は廃城となったという。今日では城跡は公園として整備されているとのこと。
ホテルからは10分ほどで現地に到着する。公園の駐車場に車を止めると東の尾根側から登山する。登山道は完全に整備されており、高齢者の体力づくりのためのハイキングコースという趣だが、体力的に既にガタガタの私にはこの程度のコースでもキツイ。クモの巣を払いつつ息を切らせて10分ほどかけて登山道を登り切る。
この調子で登山道は完全に公園整備されているのだが・・・ 登山道を登り切った先は尾根づたいで5郭の手前までいける。5郭へは堀切跡を越えてから回り込む形で登る。5郭から崖の上に見えるのが2郭。今では崖がかなり崩れているので無理をすれば直登も可能に見えるが、往時にはもっと切り立っていただろうと思われる。ここにたどり着くには一端降りてから3,4郭を経て登り直す必要がある。
左 尾根沿いに進む 中央 正面に見える崖の上が5郭 右 手前には堀切が 左 横から回り込む 中央 この上が5郭 右 5郭の井戸 左 5郭内部 中央 この崖の上は2郭 右 一端3,4郭に降りる 2郭には井戸の跡があり、その西側のさらに一段高くなっているところが1郭。ここがこの城の最高所であり、見張り台的な役割もなすと思われる。
左 2郭に登る 中央 2郭 右 井戸跡 左 この上が1郭 中央 1郭 右 見晴らしは良い 1郭の西側は切り立った崖になっているが、その下はなだらかな尾根が続いており、明らかにこの城の防御の弱点。そこでこの方向には二重の深い堀切があり、それは今でも残っている。この堀切を超えると後はなだらかな尾根づたいに城山の南西に抜ける。
左 1郭の下を回り込む 中央 二重の堀切がある 右 堀切で尾根を分断してある 左 振り返って1郭 中央 堀切を越えるとなだらかな尾根道 右 出城でもあったのだろうか? 結局は城を縦断する形で駐車場からかなり遠いところに下山してしまったので、駐車場に戻るまでにかなり歩くことになってしまった。
決して防御力に欠ける城郭とも思えないが、確かに取り立てて堅固というほどでもないという印象の城郭で、争奪の地の要の城郭としては心許ないと大内義興が拠点を移したのもやむを得ないだろう。特に東西の尾根沿いの防御に弱点があるということは実際に登ってみて感じたところである。ただ城マニアの観点から見た場合は、整備されていて見学しやすく、それでいて城としての基本構造が充実しているという点で特に初心者に楽しみやすい山城と言える。
鏡山城の見学の後は近くの三つ城古墳に立ち寄る。三つ城古墳はこの地にある前方後円墳で、今は公園として整備されていて駐車場も完備・・・のはずなのだが、いざ現地に到着すると駐車場は公園に遊びに来たと思われる車両で埋め尽くされていて駐車不可。結局は近寄ることも叶わずに撤退となる。
三つ城古墳の次は安芸国分寺に立ち寄るが、この周辺は路地地獄で進退窮まりそうになる。周辺道路及び現地も整備途上という印象で、途中で車を置くこともかなわずすごすご撤退となる。
何やらしまらない結果となってしまったが、これで本遠征の全予定は終了。後は高速に乗って帰宅するだけだが、その前に昼食は済ませておくことにする。立ち寄ったのは「くろんぼ」(この店名、用語的には大丈夫なのかとちょっと気になる)。そもそもは「ほんまもん」という焼肉屋だが、ランチタイムには「くろんぼ」として定食類を提供しているらしい。私が注文したのはSSランチ(1500円+ご飯大盛り50円)。
圧倒的ボリューム とにかく驚くのがそのボリューム。ポークソテーは大きいのが2枚ある上に、この巨大なビフカツはポークソテーの下にまでしっかり存在するのである。味はまあ普通というところだが、とにかくそのボリュームには圧倒されてしまう。ランチは500円のものからあるので、CPという点では圧倒的だろう。ただ個人的にはビーフカツの単純な甘めのソースはもう少し凝ったものにして欲しいところ。それにしても先日の「一久」といい、西条にはどうしてこうも「ガッツリ」と食える店が多いんだ?
ガッツリと腹が重たくなったところで、高速を経由して帰宅の途についたのである。思えば1日200キロ、山城2カ所がノルマのような遠征になってしまったが、当初計画立案時に懸念していた通り、やはり途中で体力切れになってしまって、特に後半の行動に大きく制約がかかってしまったのであった。
それにしても本来「美術館遠征」であった私の遠征のはずなのに、今回はちょうど九州地区の美術館が秋の連休前の展示交代期だったせいもあって、長期遠征中に美術館訪問0という体たらくになってしまった。その一方で遺跡探索に洞窟探検、果ては山中で蛇と格闘(?)とまるっきり本来の主旨とは外れた川口浩探検隊。完全に当初の目的を見失った迷走飛行は、私の「何をやりたいのかサッパリ分からない」と言われている人生そのものの縮図と化してきた感がある。
とりあえず今回の遠征を通してみてみると、相変わらず城郭探訪は大きなキーワードであるが、最近は「重伝建」というキーワードの比重が高まってきたということを感じずにはいられない。さらには体力の衰えと共に「温泉」というキーワードも。段々と嗜好がジジイ寄りになってきているということであろうか。
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