展覧会遠征 新見編2

 

 先週から始めたトレーニングのダメージが若干体に残っている今日この頃(情けない限りである)。さてこの週末であるが、やはりここはトレーニングの一環も兼ねてどこか山城に出かけるべきであろう。そう考えた時に候補に浮上したのは新見である。新見といえばかつてはよく手頃なドライブとばかりによく出かけた先であるが、最近の調査によって近くに楪城なる城郭が存在することが明らかとなっている。また新見市街に新見陣屋が存在したということも分かっており、これらと新見美術館を組み合わせると遠征スケジュール出来上がりというところである。

 

 午前中に出発すると、山陽自動車道から岡山道を経由して中国道へと入る。中国道は久しぶりであるが、相変わらずカーブとアップダウンが激しい厳しい道である。かつてはここを老朽化したカローラ2でヒーヒー言いながら何度も走ったものである。今のノートはパワー的には余裕があるが、未だにハンドルの感覚が若干しっくりきていない(非常にハンドルがセンシティブなのが気になる)。この辺りの感覚を調整しながらの走行となる。

 

 新見ICで降りるとしばし新見市街を美術館に向けて走行。懐かしい道という印象。かつてはただの田舎とした感じなかった新見も、改めて見ると山間の風情のある町で、どことなく昭和レトロも感じられる。どうやらここ数年で私の観点が大分変わってきたことを知らされる。

  新見市街

 線路の反対側に回り込むと急坂を登って美術館へ。しかし駐車場が一杯なのに驚く。未だかつてこの美術館にこれだけ多くの観客がやってきているのを見たことがない。また館内に入場すると「入場者3千人達成」との張り紙が。もしかするとこれはこの美術館始まって以来かも。安野光雅って、こんなにキラーコンテンツだったんだろうか。そう言えば秋田県立美術館でもそこそこ入ってたな。

 


「安野光雅展 −空想を育む絵本の世界−」新見美術館で6/10まで

 

 絵本作家他多彩な活躍で知られる安野光雅氏の展覧会。本展での出展作の中心は「旅の絵本」など風景画を中心とした作品。

 幻想的でどことなくわざとらしい感さえある町並みの描写が、いかにも絵本原画という雰囲気。しかしなぜか身近で親しみやすい感覚を受ける。この感覚が彼が好まれる最大の理由なんだろう。


 

 美術館の見学を終えると近くの「新見陣屋跡」に向かう。かつての新見陣屋は今では小学校になっている。新見陣屋は1697年に津山藩が廃藩になった際、藩主森長継の子で宮川藩主の関長政の養子となって2代目を継いでいた関長治が新見に転封となった際に築いたものだという。後に藩校・思誠館がここに築かれ、これが現在この地に存在する思誠小学校の前身となっているという。現地にはこの思誠館に招かれて多くの人材を育てた丸川松陰に関する説明看板も立っている。

 

 現地は今では完全に小学校になっており、ひっそりと思誠館跡を伝える石碑が建つのみ。裏手は高校になっておりその間には崖があるのだが、ここだけが当時の名残だとか。

左 思誠館跡の石碑  中央 復元門  右 この校舎裏の崖は当時からの物とか
 

 なおここを出ると向かいに城山公園なるいかにも関わりのありそうな名前の公園が存在するが、現地にあった石碑によるとかつてここには藩主の館があったと言われているそうだが、既に明治期には何もなかったとか。周囲が堅固な小山の上であり、どちらかと言えば地形的にはこちらの方が城郭向きに思われるが、時代はとうにそのようなものを必要としない時代になっていたのだろう。

 道路向かいの城山公園

 新見陣屋を後にすると次は「楪城」に向かうことにする。しかしこの登城口を見つけるのが苦労した。最初は西に走ったがそれらしい道を見つけられず、次に東に回って国道180号を走ったところ、楪山登山道という表示を見つけたからそこを入っていったがそれもハズレ。これはもうダメかと諦めて、次の目的地へ向かうために国道180号をさらに北進したところでようやく「楪城大手口」という看板を見つける。

大手登り口

鬱蒼としているが舗装された道路
  

 細い路をひたすら進んでいくと、案内看板があってそこに1〜2台程度の駐車スペースがある。ここで車を停めるとそこからは徒歩で登山することになる。

 

 楪城は鎌倉末期に新見氏が築城したが、戦国期になって新見氏は三村氏によって滅ぼされて三村氏の城となる。しかし三村元範の時に小早川隆景を総大将とする2万騎に攻められて落城、元範は逃亡するものの追撃を受けて討たれる。後に楪城は吉川元春の所有となるが、関ヶ原で毛利氏が敗れたことで廃城となったという。

 

 舗装された登山道を息を切らせながら登ると三の丸方向と二の丸・本丸方向との分岐点にさしかかる。楪城は尾根筋に沿って曲輪が直線上に並ぶ直線連郭式城郭で、三の丸は堀切によって二の丸と完全に分断されており、今到着したのが堀切の底に当たるようだ。とりあえずここから二の丸方向に向かう。

左 この看板に行き当たる  中央 こちらは三の丸方向  右 二の丸方向から振り返って
 

 二の丸は楪城では最高所に位置し、先ほどの堀切からは480米との表示が出ていたが、この区間が山道をひたすら登る厳しいルートになる。ただ整備の手は入っているので、足下はそう危ないというわけでもない。

左 二の丸手前の大堀切  中央 二の丸の一段下の段  右 この上が二の丸
 

 息を切らせながら登っていくと上の方に削平地が見えてくる。これが二の丸である。二の丸は樹木も伐採されていて見晴らしが確保されている。ハイキングで弁当にするならここが一番良いだろう。私もここでしばし休憩すると伊右衛門で水分を補給してから先に進むことにする。

   

二の丸

二の丸からの風景

 ここから北側に下っていくと細長い平地に出るが、これが本丸と二の丸を結ぶ帯曲輪とのこと。幅11メートル、長さ80メートルの規模があり、これだけ大規模なものは例がないとか。

左 二の丸上から見た帯曲輪  中央 帯曲輪を進む  右 本丸が見えてくる
 

 ここを進んでいくと、前方に見えるこんもりした小山が本丸。ここから本丸は西方に向かって延びている。その本丸の手前に南に突き出した曲輪が花(端)の丸でここは守城の際に敵を誘い込む捨て郭と言われている。

  

端の丸

 本丸上に登ると下草が鬱蒼とした中に楪城址の石碑が建っている。上から見下ろすと西方に向かって二段ほど下方に曲輪が連なっているのが分かる。これが本丸一の壇と二の壇である。

左 本丸へ登る  中央 下草が鬱蒼としている  右 石碑

本丸風景

左 本丸二の壇  中央 さらに先の一の壇  右 振り返って

 本丸の見学を終えると来た道をとって返す。往路はヒーヒー言う羽目になったが、復路は足下にさえ気を付ければ楽な下りである。出発点の堀切に戻ってくるとここからこんどは三の丸方向に向かう。三の丸はここから若干登ることになるが距離的にはすぐである。

左 出発点を過ぎてさらに少し下る  中央 すぐに大堀切に当たる  右 急な斜面を登る
 

 三の丸は出城的な完全に独立した曲輪とのことだが、そのためか内部に井戸の跡が残っている。また規模も結構大きく、大量の兵を待機させられそうである。この曲輪は本丸などの尾根筋の南方を守るだけでなく、大手口から登ってきた兵を二の丸とで挟み撃ちにする役割があることが分かる。いかにも中世的な大規模山城である。

左 三の丸  中央・右 井戸跡

左 三の丸  中央 更に南の一段下にも曲輪が  右 振り返って
 

 知名度的にはほぼ無名に近いと言える城郭であるが、なかなか堪能できるだけの内容を持った城郭であった。このような城郭がまだまだ全国各地にあるのであろう。どうも城郭探訪のネタは尽きそうにない。それにしても私もまだまだ体力の強化が重要課題である。

 

 山城攻略が終わったところで最後はお約束の温泉としたいと思う。今回訪問したのはこの楪城をさらに北上したところにある千屋温泉いぶきの里。ゲレンデが隣接しているので明からさまに冬のスキー施設なのであるが、スキーに興味がない(高校の修学旅行で1回、就職してから1回行っただけでボーゲンで斜面をようよう降りてこられるレベル)私としては冬には無縁の施設である。

    隣はゲレンデ

 入浴料を支払って入館すると、まず遅めの昼食を先に摂ることにする。注文したのは「千屋牛鍋御膳(2100円)」。出てくるのは典型的な旅館の夕食という雰囲気の御膳。とりあえず鍋が煮えるのを待って頂く。感想は「千屋牛うめー!」に尽きる。柔らかい牛肉がたまらない。やっぱり日本人の牛肉の食い方はこれだなと感じつつ堪能。

   

 腹が膨れたところで大浴場へ。泉質はアルカリ単純泉。所詮はスキー場の入浴施設となめてかかっていたのだが、案に反して泉質が良く身体がヌルヌルする。これはうれしい誤算。露天でのんびりと結構堪能してしまった。

 

 温泉を堪能したところで風呂上がりにソフトクリームを頂くと、一休みして帰途についたのであった。良い城郭に良い温泉にうまい飯、たまりませんな・・・。日本人に生まれて良かったと感じる瞬間である。こうして私の週末は過ぎていったのである。

 

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