展覧会遠征 静岡編

 

 さて三連休である。世間ではクリスマスなる行事があるそうだが、私にはそんなものは無関係である。三連休となれば遠征あるのみ。さて目的地であるが、正直なところを言うと年末は温泉でゆったりしたい。そこで諸々の計画を考えていたところ浮上したのは掛川。掛川は以前にも何度か訪問しており、掛川城などは既に見学済みである。しかし周辺にはこれ以外にいくつか訪問するべき城郭がある。もっともこれらの見学には車を使用することが前提。この時点でプランの骨格はほぼ瞬時に決定される。毎度のようにレール&レンタカー切符である。プランとしてはまず初日は早朝から掛川に移動して、ここでレンタカーを借りると周辺の城郭を攻略。二日目は大井川鉄道で以前の訪問時に乗車できなかったアプト式鉄道に乗車すると共に寸又峡温泉に移動して一泊。最終日は静岡に寄って美術館を攻略である。

 

 出発は金曜日の早朝。名古屋でこだまに乗り換えると掛川まで移動する。掛川で借りるレンタカーはノートを指定している。城郭の訪問時にはやはり乗り慣れている車を使用するのが一番である。

 

 まず最初の目的地は「高天神城」。今川氏配下の小笠原氏が治めていた山城だが、桶狭間の合戦後の今川氏の没落で小笠原氏は徳川氏の配下となる。その後、この地を巡って徳川氏と武田氏が激しい領土争いをすることになる。その中で武田信玄の攻撃を退けたということで知られる堅城である。

 高天神城遠景

 掛川駅前から南下すること20分弱。手前に小高い丘陵が見えてくるがそれが高天神城。周辺の案内表示に従ってまずは北方の搦手口の方からの登城を目指して駐車場に車を止める。ここからさて登城と思ったのだが、登城口のところに何やら注意書きがされている。何と高天神城内で土砂崩れがあり、倒木の危険などから搦手口側から本丸へは到達できないとのことである。本丸へ行くなら南側の大手口の方に回ってくれとのこと。高天神城は東に本丸を中心とする曲輪群が、西に高天神社のある西の丸を中心とする曲輪群があり、それを中央のやや低い位置の井戸曲輪が結ぶ形になっているのだが、どうやらその井戸曲輪周辺で土砂崩れがあったと見られる。さすがに城郭に行くのに本丸に立ち寄らないというのはあり得ない。やむなく再び駐車場に戻ると大手口の方に回ることにする。

 大手口の側にも駐車場が用意されているのでそこに車を止めるといよいよ登城にかかる。道は山道であるが、5分も登るとまずは大手門跡と着到櫓跡にさしかかる。ここは最初に攻め手を食い止める最前線だったのだろう。土塁などでかなり厳重に守られている。

左 大手門跡  中央 着到櫓跡  右 着到櫓にある土塁

 ここからさらに登ると城内らしき削平地に行き当たる。ここから西側に登ったところが本丸で、東側に下ったところが三の丸とのこと。ちなみに二の丸はこの城の西側部分にあることになっているのだが、そこへの道は通行禁止になっている。ところでこうやっていざ登ってみると、どうにも本丸、二の丸、三の丸の配置が奇妙なような気がする。

左 本丸へと登る  中央 本丸遠景  右 さらに進む

左 振り返ると御前曲輪  中央 顔出し看板と土台跡  右 御前曲輪からの風景

 本丸に登ってみると一段高い部分の本丸とそれから若干下がった位置にある御前曲輪の二部構造になっている。本来の二の丸はここなのではという気もする。なおこの部分にはいかにも観光地的ないわゆる「顔出し看板」があり、その後ろには明らかに最近のものであるコンクリート製の建物の土台跡が残っている。調査によるとここにかつてなんちゃって天守が建てられていたらしいが、その急造天守は落雷で焼失してしまったらしい。例の顔出し看板といい、かつて中途半端に観光開発を目指した名残なのだろう。今日でも明らかに登山路には手が入っており案内看板なども設置されているのだが、その一方で看板のいくつかは倒れたままで放置され、土砂崩れでの通行止めもそのまま放置されているように見えるのは、やはり観光開発が中途半端という気がする。

 土砂崩れ部分の惨状

 本丸から西に降りると土砂崩れ部分の惨状が見える。土砂崩れと言うよりも、倒木の危険性の方が高そうだ。確かに下を歩いている時にこの木が倒れてくると命に関わる。ただ私の本音としては、あくまで自己責任で良いので通してくれないかというところ。確かにやばいのは間違いないが、自然の山城の中ではもっとやばいところが放置されているのをいくつも通ってきている。

左・中央 三の丸  右 三の丸からの風景

 三の丸の側に回り込むとここからは周辺を一望できる。意外に高さもあるし、周辺の崖も結構急であるし、確かにここは山城を設置するには最適の立地である。ただ山上のスペースはそれほど広大ではないので多くの兵力がたてこもれたとは思えないし、地形が堅固とは言っても驚くほどというレベルではないしで、武田信玄の攻撃を退けたというイメージとはどうも合致しない。現実は武田信玄は兵力の損耗を避けるためにあえて無理な力攻めを避けたというのが事実ではないかと思われる。実際、後年にこの城は武田勝頼による力攻めで落城している。信玄も落とせなかった高天神城を落城させたことで勝頼の武名は大きく上がったというが、私にはむしろこれは彼の若気の至りだったように思われ、あの世の信玄はむしろを顔をしかめたのではないか。またこの勝利で自信を深めた勝頼は老臣達の諫言を聞かなくなり、これが武田滅亡の遠因との指摘もある(もっとも諏訪氏の末裔と見られていた勝頼は、最初から甲斐出身の家臣団との折り合いは悪かったのだが)。

 その後は武田配下の岡部元信がこの城に入っているが、徳川家康の6カ所も付城を築いてのじっくりした攻めで再び落城している。この際に設楽ヶ原での大敗のダメージの癒えない武田勝頼は援軍要請に応える余裕がなく、この城を見殺しにしたことで大きく声望を落とすことになり、これが諸侯の離反を招いて滅亡につながることになったという。なお高天神城はこの戦いの後に廃城となっている。

左 搦手口  中央 搦手門跡  右 急な石段を登る

 これで高天神城の本体部分の見学は終えたが、また西半分の見学を終えていない。まだ体力の余裕はあるのでこちら側も見ておきたいと考える。そこで駐車場まで降りると再び搦手口に回る。こちら側は高天神社の参道として整備されているようで、山道ではなくて石段が築かれている。ただしこの階段は急で長いので結構足腰には堪える。

左・中央 三日月井戸にはまだ水がある  右 井戸曲輪に到着

左・中央 かな井戸  右 高天神社のある西の丸へはこの石段
 

 途中で三日月井戸に遭遇。この井戸は未だに水をたたえており、この山城が水の手には困らなかったであろうことを思わせる。ここを過ぎてさらに少し登るとそこが井戸曲輪である。この曲輪の東方が本丸につながるルートだが、そこは立ち入り禁止。なお井戸曲輪の名の由来になっているかな井戸も現存しており、石垣で固められたかなり深い井戸である。底までは見ることは出来なかったが、今でも水は湧いているのではと思われる。

左 西の丸の高天神社  中央 神社の裏手に土塁がある  右 西の丸裏側の堀切

左・中央 馬場平  右 この奥が甚五郎抜け道

 ここからさらに急な石段を登った先が高天神社のある西の丸である。かなりの高所に位置するが曲輪としての大きさはそう大きくない。この西の丸の裏手には深い切割があり、その向こう側に馬場平がある。その西端は犬戻り猿戻りと呼ばれる尾根続き険路があり、落城の際に横田甚五郎尹松がここを通って武田勝頼に落城の報告のために脱出したとのこと。現在はここに「甚五郎抜け道」という看板が立っているが、当然のように通行止めの処置がなされていた。

左 二の丸へ続く道  中央 道の先に二の丸が見える  右 二の丸は複数の段に分かれている

左 二の丸にあった社 中央 大きな堀切  右 空堀の跡

 西の丸の北方には二の丸と呼ばれている曲輪がある。しかしここは一段の大きな曲輪ではなく、何段かの曲輪に別れており、やはり本当にここが二の丸かということには疑問を感じる。私にはむしろ屋敷跡などではないかという気がするのだが・・・。この周辺には大きな堀切や空堀の跡があり、防備を固めていたことがよく分かる。

 

 これで高天神城の見学は終了。いかにも戦国の城を感じさせる実用本位の山城で、遺構も良く残っていて堪能できる。全国的な知名度は今一つではあるが、私の続100名城には十分である。やはりかつて諸勢力が覇を競ったこの地には侮れない城郭が多数残っている。

 

 高天神城の次は近くの菊川市にある「黒田家代官屋敷」を訪問する。ここはかつて旗本・本多氏の代官であった黒田家の屋敷である。横には黒田家由来の品々を収めた資料館がある。いわゆる旧家の名士の屋敷であるが、今日でも末裔がここに住まれていているとのことで内部の見学は出来ないが表から門などを見ることが出来る。なおこのようなかつての名家も大抵は明治維新、さらには太平洋戦争などで没落し、屋敷の維持が出来なくなって今ではマンションなどになってしまっている例が多いのだが、ここの黒田家屋敷はほぼ奇跡的に残っている例である。屋敷の向かいで歯科医を経営されているのが黒田家末裔とのことなので、今でもそれなりの資産を有していると言うことだろうか。ただそれでもやはりこれだけの屋敷の維持は大変らしく、重要文化財指定の表門もつい最近に一部行政からの支援を受けながら黒田家がかなり負担しての修理が行われたらしい。このような私有財産である文化財の保護というのはなかなかに難しい問題を抱えている。

 

現地看板より

  

     重要文化財の表門                 堀なども残っている

 代官屋敷見学の後は、近くにある塩の道公園(歴史街道館)に立ち寄る。かつてこの辺りは信州まで塩を運んだ街道があったとのことで、庭園は各街道を模したものとなっており、隣接する歴史街道館では地元出身の画家・杉山良雄氏による街道の絵が展示されている。水彩でサクッと描いたような印象の絵画で、平山郁夫氏による街道シリーズなどを連想するような作品。個人的には芸術的価値よりも歴史資料的価値の方が高いような気もする。

 

 次の目的地は「勝間田城」である。もうそろそろ昼が近いので昼食を摂る店を探しつつ車を走らせるが、生憎と適当な店は見あたらない。やむなく途中のコンビニでおにぎりと肉まんを腹に入れてから現地に向かう。勝間田城跡は茶畑が広がる丘陵の中にある。丘陵の下に城跡見学者用の駐車場が整備されているので、そこに車を停めて茶畑横の舗装道路を歩いて城跡に向かう。この道路はかなり整備された道路なのだが、城跡見学者が車で入って路駐でもしたら農作業の邪魔になるのだろう「車では登れません 道路に駐車できません」の看板があちこちに立っている。何でもブームと言われて裾野が広がると、それに応じて質の悪いファンも増えて、その趣味全体が白い眼で見られることが多くなる。アニメファンが増えた時も貼ってあるポスターを盗むような輩が出たし、鉄道ファンも増えると他人の敷地内に勝手に入り込んで写真を撮るようなどうしようもない輩が出て、結局はファン全体が胡散臭がられる羽目になったことがある。現在は城ブームだと言われているが、この世界もそういうことにならないことを祈るのみ。とかく昔からマニアは目的だけが頭の中を占めて傍若無人になりやすい。気を付ける必要がある。これは自戒も込めて。

  勝間田城の駐車場

 勝間田城は遠く源平争乱の頃からこの地を治めていた勝間田氏が築いた中世山城だという。しかし勝間田氏は戦国期にこの地に進出してきた今川氏に敗北してこの地を追われ、その後にこの城は武田氏の持ち城になって戦国山城として手を加えられたようである。

  現地看板より

 茶畑脇を登っていくと最初に出くわすのが出曲輪。しかしここは今日では完全に茶畑になっており、往時の遺構は全く残っていない。ここからさらに進むと勝間田城跡の碑があり、その先が広大な三の曲輪である。

左 茶畑を見ながら登っていく  中央 出曲輪は完全に茶畑化  右 勝間田城跡入口
 

三の曲輪と二の曲輪の間の土塁

 三の曲輪の奥は土塁で仕切られており、その先は二の曲輪。ここには建物の礎石跡が残っている。この辺りまでが武田氏による戦国山城の跡になるとか。なおこの二の曲輪の入口のように見える部分は実は後に土塁が削られたもので、本来の入口はもっと東にあるらしい。

左 二の曲輪の礎石跡  中央 二の曲輪から見た物見台  右 ここが二の丸虎口跡らしい

 ここから奥を見ると狭い通路の先に小規模な曲輪が見える。左手の小高い丘の上が物見台。右手に本曲輪がある。この辺りからが中世山城の跡になるらしい。物見台に立つと二の曲輪などが遠く下に見える。それにしても周囲はかなり険しく要害である。

 

物見台と二の曲輪

 本曲輪は腰曲輪の上にある。現在は何やら石碑と看板が立っており土塁跡らしきものが残っているが、あまり広いスペースではない。

この上が本曲輪

 この裏手はまさに断崖になっており、ここを降りてとかなり深い堀切を超えた先に南曲輪がある。ここは通路よりかなり高くなっているのでまさによじ登らないといけないのだが、上がってみても特に何があると言うわけではない。

左 物見台  中央 本曲輪  右 本曲輪裏は断崖

左・中央 南曲輪の横を抜けて奥に  右 尾根沿いに先まで通じている

左 南曲輪 奥に土塁がある  右 この先が腰曲輪

 いかにも地形に頼った堅固な要害というイメージであるが、各曲輪の規模は小さく、大兵が籠もれた城ではないと思われる。中世の小豪族がひしめき合っていた時代なら守りきれるだろうが、戦国期になって諸勢力が収斂して大勢力となってきた時代になるとツライだろう。この要害も結局は今川の兵力の前にはなすすべもなかったと言うことか。

 

 勝間田城を後にすると次は近くの「諏訪原城」へ。諏訪原城は武田勝頼が遠江の支配を狙って牧ノ原台地上に築いた城である。しかし設楽ヶ原の戦いで武田軍は織田・徳川連合軍に大敗、その際に諏訪原城も徳川軍の攻撃を受けて2ヶ月あまりの攻防の果てに落城している。その後この城は徳川氏の対武田戦略の拠点として機能し、先の高天神城攻略にも寄与したが、武田氏滅亡によってその使命を終えて廃城となったとのこと。

 

 現地配付資料より

 勝間田城を後にして北上することしばし、ようやく案内看板が目に入る。現地に到着すると見学用の駐車場が用意されており、案内資料まで完備されている。この城を以前に訪問した先人達の記録から未開の山城をイメージしていた私としては、完全に予想を裏切られた形である。城内も見学順路の看板まで設置されている。なお現在内部で発掘調査が行われている模様で、私が訪問した時には「今日は諏訪原城見学できます」という看板が出ていたところを見ると、日によっては発掘作業などで見学不可の日があるということだろうか。

左 駐車場の奥が入口  中央 大手南外堀  右 武家屋敷跡

左 外堀はかなり広く深い 中央 馬場跡  右 現在発掘調査中

 諏訪原城は牧ノ原台地の端に立地しており、本丸の裏手は崖で守られており、前面を複数の堀や曲輪で守る形態となっている。これはいわゆる「後ろ堅固」と言われるパターンの城。また三日月堀と丸馬出を組み合わせた形態は典型的な武田流築城術だとも言われている。

左 三日月堀を渡って馬出へ  中央 馬出には発掘本部が  右 外堀を渡りつつ振り返る

外堀を渡った先の二の曲輪はかなり広大
 

 大手南外堀を越えると、武家屋敷と外堀の間を北上する。武家屋敷跡は今では畑になっている部分も多いが、外堀はかなり広くて深い。馬場跡を過ぎると発掘調査が行われているらしき現場に出くわす。ここからかつては水堀だったという三号堀を渡ると二の曲輪中馬出であり、ここには発掘の本部が置かれている模様。

左 さらに内堀を渡る  中央 内堀も広くて深い  右 鬱蒼としている本曲輪

左 本曲輪の看板が立っている 中央 鬱蒼とした森を抜けると  右 ここが天守台地
 

天守台地周辺風景

 ここから外堀を越えると広大な二の曲輪がある。さらにこれも大きな内堀を越えたところが本曲輪。この中には天守台地なるものもあるが、別に天守閣があったというわけではなく二層の物見櫓が建っていたらしい。

左 本丸の裏手はかなり急  中央 内堀まであったらしい  右 そしてこの高度
 

 本丸裏手に回り込むとそこはかなりの絶壁。しかもさらに内堀まであったらしく、攻撃しようとしても上から矢玉をまともに撃ち下ろされることになるし、こちら方面からの攻撃はほぼ不可能な地形になっている。

  看板は本丸に立っていた

左 今度は内堀の底に降りる  中央 奥に見えるのがカンカン井戸  右 カンカン井戸

三の丸もまた広大

 本丸をグルリと回ってから辿る帰りのルートは内堀の底を通ることになるが、この堀が実に深くて広い。またこの堀の底にカンカン井戸なる井戸がある。ここから再び内堀を上った先が三の丸ということになるらしい。ここも二の丸と同様にかなり広大なスペースである。

左 土橋を通って広くて深い外堀を越える  中央 大手馬出には祠が  右 大手馬出の三日月堀

 この三の丸から土橋の上を渡って大手馬出に渡る。ここには諏訪神社があるが、二の丸中馬出に匹敵する規模を持っている。この馬出の周囲にも三日月堀があり、そこを渡るところが大手と言うことになっている。

 

 とにかく規模が大きいというのが一番の印象。確かにこの城郭ならこの地を押さえるための拠点として大兵力を配備することも可能であろう。武田勝頼がかなりの気合いを入れて築城した城郭と思われるが、それが徳川氏に奪取されることで逆に対武田戦線の最前線で活用されたのは歴史の皮肉である。

 

 さてこれで当初に予定していた城郭は大体回った。これからどうしようかと考えたところで昼食をまだ摂っていなかったことを思い出した。この周辺に何かないかとカーナビで調べたところ、どうやらお茶の郷なる施設がある模様なのでそこを目指す。

 お茶の郷は土産物屋、レストラン、博物館などが一体になった施設。裏手には小堀遠州(茶人大名として有名 「へうげもの」ではなぜかオカマっぽい若者になっている)の庭園を復元したという日本庭園と茶室まで作られている。一言で言えば、「明からさまに観光客を狙ったハコモノ」である。

  

庭園と茶室

 三連休の初日ではあるものの、やはり季節はずれなのか大きな駐車場に車はそう多くない。とりあえず二階のレストランで茶そばのセットを頂いてこれが昼食。まあ良くも悪くも観光地レストランだなという印象。なおセルフサービスでいれるお茶だけはやけに凝っていたのはさすがにお茶の郷。

   

 昼食を終えると隣の博物館に入場。ここには世界中のお茶の葉が展示されており、手にとって匂うことも可能。またハーブティーやウーロン茶の試飲もしていた。さらには自分で抹茶を挽ける体験コーナーなど。しかし特にお茶マニアでもない私にはウーン。

 

 土産物コーナーでお土産を数点買い求めると、寒風の下で抹茶ソフトを頂いてから(このソフトは今まで体験したことがないほど抹茶が濃かった)、牧ノ原台地を降りていく。この後は隣の島田市を訪問する予定。かつての「越すに越されぬ大井川」も今では長大な橋で渡ることが可能。島田市に到着するとまずは島田市博物館に立ち寄る。

 大井川を渡る 


「青島淑雄 日本画の世界」島田市博物館で1/9まで

 

 島田市出身の日本画家・青島淑雄氏の展覧会。日展を中心に活躍した氏の大作の日本画からイベント用のポスター原画まで展示。

 淡いタッチの日本画は私の知っているところでは高山辰雄を連想させる画風。ただし人物画と風景画で微妙にタッチは変わっている。正直なところ、可もなく不可もなくで印象の薄いところがある。


 

 島田市博物館に車を置くと、博物館の分館に向かいつつ島田宿大井川川越遺跡の町並みを散策する。江戸時代においては江戸防御上の理由から大井川には橋を架けられていなかったため、この地は大井川を渡河するための渡し場であった。増水で川止めとでもなると水が退くまで延々とここで足止めとなるので、島田宿には宿泊施設などが整備されて賑わっていた。今日では大井川に架橋されてその意味を失ってしまったのだが、今でも往時の遺跡は残っており、川札を買うための「川会所」、人足が集まる「番宿」などの建物を含む町並みが復元されている。

たまに人が住んでいる建物もあるが、ほとんどは単なる復元建築

 いかにも江戸時代風の建物が並ぶが、中には何軒かは実際に居住者がいる建物もあるようである。しかし基本的には復元建物が中心なのか、町並み保存というような人が生きている感覚はなく、福井の一乗谷遺跡のようなまるごと復元遺跡そのものである。

  

 博物館分館はそのはずれにある。手前は町並みに従った木造の当時の旅館であり、その奥に近代的な建物があるのは版画の展示室。さらに奥には木造の民俗資料館があるが、ここは展示施設と言うよりもそのまま文字通りの資料館で、がらくたを詰め込んだ倉庫という趣であった。その中にゲームウォッチなんてのも含まれていたのは妙に懐かしかったが。

 

 川越遺跡を見学すると日が沈む前に慌てて蓬莱橋まで車を走らせる。蓬莱橋は大井川を渡る歩道専用橋で全長897.4m「世界一の長さの木造歩道橋」としてギネス認定されている。よく時代劇なんかのロケにも使われる橋である。この橋は有料の橋で、農道として利用されているとか。渡っても茶畑だけ何もないし、もう大分疲れているしで私は最初から渡る気はなし。ちゃんと周辺には見学者用の駐車場まで完備されているので、歴とした観光施設になっている。

左 趣がある  中央 向こう岸では工事中か  右 ギネスの認定証

 さてここで当初予定していた計画は完全に終了。それにこれからどこかを観光するにしてももうすぐ日没ということでタイムアップである。とは言うものの、まだ時刻は5時前。車はレンタカー事務所が閉まる8時まで借りているのでまだ3時間ぐらい余裕がある。このままさっさと車を返却というのも面白くない。どうしたものかと考えたところ、こうなるとやはり温泉に立ち寄るぐらいしか思いつかない。そこでやや遠いが以前に大井川鐵道に乗った時に通りかかった川根温泉を訪問することにする。遠いと言っても車を1時間も走らせれば到着するはず、現地滞在を1時間にしても(実際には烏の行水の私の場合はこれよりもずっと短くなるはず)帰りも1時間ぐらいで間に合うだろうと大ざっぱな計算をすると直ちに車を走らせる。

 

 島田から川根温泉まではひたすら山沿いの県道64号を突っ走るルート。途中で完全に日が暮れて辺りは真っ暗になるが、道は良いし、車の通りもそこそこあるのでドライブに不安を感じるような所ではない。目的地へは50分弱程度で到着する。到着したのは「川根温泉ふれあいの泉」。ドライブインのような施設なので車はかなり多数停まっている。どうやらかなり人気はあるようである。

 

 温水プールまである複合施設で良くも悪くも観光施設。ただ弱アルカリのナトリウム−塩化物泉という泉質は、強烈な特徴はないものの意外によい。どうやらここはかけ流し(塩素不使用)の非循環ということなので、それが一番の理由だろう。施設の雰囲気から受ける印象に反して温泉は本物であり、やや褐色がかったお湯の肌当たりはなかなかのもの。そこらのインチキなんちゃって温泉とは一線を画している。ただ難点は特に内風呂が入浴客の数に比して小さいこと。タイミングが悪いと押し合いへし合いになってしまう。冬の寒空の下なので露天風呂は内風呂よりも入浴客が少ないがそれでも結構一杯である。レストランや休憩室もあるので、時間に余裕があれば丸一日をここでマッタリと過ごすことも出来、何なら隣に宿泊用のロッジもあるという。ここで大井川鐵道のSLを見ながらマッタリなんてのも良さそうだ。

 

 たっぷり温泉を堪能して車に戻ると返却時間まで後2時間弱。掛川まで国道473号線で山中を突っ走ることになる。これは往路と違って正真正銘の山道。途中で標高の高いワインディング道路を抜けるようなルートで、酷道とまでは言わないがいかにも3ケタ国道らしい道。これが昼なら風景なども楽しめそうなのだが、今は真っ暗な中を前の道に目を凝らしながらハンドルを切るだけ。道幅は死ぬほど狭いというような道ではないが、対向車が結構多いのがしんどいところ。傾斜は滅茶苦茶きついわけではないが、カーブはかなりきついところもあるので、うかつにスピードを出しすぎてカーブで飛び出せば対向車と正面衝突というシチュエーションもあり得る。こういう時には全く不慣れな車とある程度勝手が分かっている車の差が出る。ノートを指名で借りて正解だったと感じたのはこの時。何しろ私は既に愛車のノートでいくつかの酷道を走っているのだから。

 

 ようやく前方に町の灯りが見え始めると金谷。ここからは国道1号に乗り換えて掛川を目指す。しばらくしてようやく掛川に到着したもののガソリンスタンドが見つからずにしばし辺りをウロウロ、ようやくガソリンを満タンにしたのは7時頃。まだ時間はあるがさすがにもう観念してレンタカーを返却する。

 

 車を返却するとトランクをゴロゴロと引っ張りながら今日の宿泊ホテルへ。宿泊するのは既に掛川での定宿になっている「ターミナルホテル」である。まさに駅前という抜群の立地で大浴場付き、豪華さはないがどちらかと言えばCP重視のホテルである。

 

 ホテルにチェックインすると夕食のために街中に繰り出す。今回夕食を摂ることに決めた店は「けんべゑ」。うなぎや魚が中心の店である。入店するとまず「食事ですか?」と聞かれる。「はい」と答えると「ではお茶で良いですね」の返答が来る。酒を全く飲まない私としては酒を無理強いさせられないこの対応はいきなり好印象。

 

 まず注文したのは「うな重(2500円)」。うな丼とうな重がメニューにあるのだが、違いはうな丼がうなぎ半分、うな重がうなぎ一匹だそうな。

 

 注文して見ていると、まずはうなぎを蒸してから遠火で焼いている。いわゆる関東流のうなぎのようである。しばし待った後にようやくうな重が運ばれてくる。うなぎは香ばしく焼きあがっていて美味。しかし驚いたのは添えられていた小鉢類。フキだろうと思うのだがこれが実にうまい。また添えられているのはうな重定番の肝吸いならぬキノコの味噌汁。しかしこの野菜とキノコたっぷりの味噌汁がまたうまい。それに考えてみたら、肝吸いよりもこれのほうが明らかに栄養バランスは良い。

 

 うなぎを堪能したところで魚類を食べたくなった。刺身で何かお勧めがあるかと聞いたところ、それなら今が旬のハゼの刺身はどうかとのこと。ハゼの刺身とはなかなか珍しい。早速それを注文する。

 

 生簀のハゼが3匹連行されると刺身になって出てくる。店主の話では刺身は活けでないとやらないとか。身はシコシコとして美味。また卵がトロリと甘くて絶妙。よくハゼは泥臭いなどと言うが、そんな雑味は全くなく、実に上品で力強い白身魚の味である。このハゼは浜名湖のハゼで、浜名湖のハゼは深いところで成長するので泥臭くならないとか。これは以前にカワハギの刺身を食べたとき以来の衝撃である。

 

 満足して店を後にする。以上で支払いは3500円。実にリーズナブル。本当に良い店を見つけた。私は現金なもので、良い飲食店が見つかるとその町までが良く見えてくる。

 

 ホテルに戻ると軽く入浴。帰りにコンビニで買ったおやつをつまみつつ、ホテルでサービスにもらった缶コーヒー(私は以前はコーヒーは全く駄目だったのだが、最近は体質が変わったのか一応は飲める)を飲みながら一服。やはり今日はかなり歩いたので身体に相当のダメージがある(諏訪原城がトドメになって2万2千歩)。PCはつないだものの執筆の気力もなくボーっとテレビを見るだけ。その内に本格的に眠くなってきたので早めに床に就くことにする。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時半に起床すると直ちに荷物をまとめる。今日は大井川鐵道を視察する予定である。前回の掛川訪問時に大井川鐵道の千頭までは視察しており、帰途にSLにも乗車している。しかし千頭から井川までを結ぶアプト式列車の走る井川線の方は、時間がなかったことと当時一部が事故でバスの代替輸送になっていたことで視察をしていない。今回はそれを視察するのも本遠征の目的の一つ(確か私は鉄道マニアではなかったはずなのだが・・・)。この日は大井川鐵道のダイヤに合わせて、7時過ぎにチェックアウトする早朝プランと9時過ぎにチェックアウトするゆっくりブランの2案を考えてある。朝食は7時に運ばれてくるはずなので、それが遅れた場合にはゆっくりプランにするつもりでいる。しばらく待っていると7時にちょうどに朝食の弁当が部屋に運ばれてくる。そこで素早くかき込むと7時10分頃にチェックアウトする。このホテルは駅前にあるので早朝からの移動には非常に便利である。7時20分頃に掛川を出る列車で金山まで。

 

 大井川鐵道の金山駅はJRの駅と隣接している。ここで全線が2日間乗り放題のフリー切符(5000円)を購入する。ホームに入場すると待っていたのは以前にも乗車したことのある南海の車両。動く鉄道博物館と言われるこの路線らしい老朽車両である。そもそも大井川鐵道は千頭付近の「無尽蔵」とも言われた木材を運搬するために敷設された鉄道であったが、国内における林業の衰退によって今日では観光路線として生き残っているという鉄道である。そのためか今では「最も運賃の高い私鉄」という呼び名もある。

   

 南海の老朽車両はまずは新金谷で京阪の列車とすれ違う。新金谷では新造された転車台の上でSLがスタンバイしているのが見える。大井川鐵道は千頭には転車台を有しているが金谷側に転車台がなかったため、千頭から金谷に戻るSLはバックで走行するという今一つ格好が付かない状態になっていたのだが、この転車台が稼働するようになったことで、新金谷−千頭間でSLが前向きで走れるようになったという。

  新装なった転車台とSL

 新金谷を過ぎるとしばし市街を走行、それを抜けた頃には列車は大井川を沿って北上することになる。この辺りは以前にも通ったルートなので物珍しさはもうない。途中で近鉄特急とすれ違ったりしながら1時間ちょっとで千頭に到着する。

  千頭に到着

 久しぶりの千頭・・・なのだが、相変わらず駅前には何もない。しかもまだ朝の9時なのでほとんどの店がまだ開店前。次の予定は10時半の井川線の列車に乗車するというものだが、それまで1時間半をどうするか。とりあえず観光案内所のロッカーにトランクを入れて身軽になると共に、この辺りのマップを入手して一瞥するが・・・うーん、することがない。

 

 私の興味の惹きそうなものとしては、小長谷城跡というのがあるが、その方向を見てみると大井川の対岸のかなり南の方でしかも意外に高さがありそう。その上に大井川を渡る橋は駅よりもやや北にあるのでかなりの遠回りになる。1時間半だと見学して帰ってくる時間があるかどうかが疑問だし、何よりも昨日の2万2千歩のせいでもう体力の方が残っていないのでこれは却下する。

  多分この山上が小長谷城

 駅南に音戯の郷なる施設があるらしいのだが、そこに行ってみると「10時開館」。朝食が軽かったのでせめて食事をする店でもあればよいのだが、駅ソバさえまだ準備中の状態。やむなく売店でおにぎりを買い求めて急場をしのぐ。結局は完全にすることがなくなってしまってボンヤリと駅で時間をつぶすことに。わざわざ早朝チェックアウトした意味は全くなくなってしまった。

 

 列車の出発時刻の20分ほど前に入構する。井川線は非電化路線なので3両の客車をディーゼル機関車が牽引(井川方面に向かう時は後ろから押し上げる)する形態。アプト式鉄道であるが、それは区間の一部なのでここで接続されているのは普通の機関車。またトロッコ列車と呼ばれているが、開放型客車ではなくて一応窓がついている(今が冬のせいか)。そもそもこの路線は上流の井川ダムの資材運搬用に建設されたとのことで、施設自体は中部電力が所有しており、大井川鐵道に運営を委託している形態になっているとか。そう言う点では黒部峡谷鉄道に類似している。軌間はJRと同じ1067mmだが、トンネルなどの車両限界が小さいらしく客車などは小型で軽便鉄道並みであるが、黒部峡谷鉄道ほどには小さくない。なお当然と言えば当然であるが、客車にトイレがないので乗車前に一番大事なことはトイレを済ませておくこと。終点までに2時間ほどの行程なので、発車前の車内アナウンスでも「発車前に絞り出しておいて下さい」との念押しがある。

左 トロッコ列車が待っている  中央 先頭の客車  右 客車内風景

左 客車間の移動は不可  中央 機関車は後ろに付いている  右 機関車

 発車時間ギリギリで大井川鐵道本線から乗り換えて来る乗客を待ってから、列車は若干遅れで出発する。次の川根両国辺りまではまだ民家があるが、すぐにそれもなくなり後はひたすら大井川の風景を見ながら北上することになる。大井川は列車の向かって右側に見えるので、風景的には完全に右側のワンサイド。またとにかくトンネルが多いのが最大の特徴で、この点もやはり黒部峡谷鉄道に近い。

沿線は山あり、川あり、茶畑あり

 

 やがて千頭以降最大の集落と思われる奥泉に到着、ここからはさらに秘境めいてくる。

 次のアプトいちしろでいよいよ後ろにアプト式機関車が増結されることになる。多くの乗客がこの接続作業を見学するために車外へ。一部の乗客はこの時間に駅の隣にあるトイレに突っ走る。

左 アプトいちしろで増結作業開始  中央 アプト式電気機関車が到着  右 アプト式レール

左 連結される  中央 この巨大な機関車が列車を押し上げる  右 歯車が見える

 やがて後方から今のディーゼル機関車よりも二回りくらい大きいアプト式機関車がやってくる。アプト式区間はこのアプトいちしろから次の長島ダムまでの一駅。またこの区間だけは電化されており、アプト式の電動機関車が90パーミル(1キロ進む間に90m上昇する)というおよそ鉄道ではあり得ない急傾斜をその強大なパワーで押し上げていくのである。そもそもここがアプト式区間になったのは、長島ダムが建設されたことで元々の路線が水没することになったためのやむを得ない処置だとか。ただこのことが観光的には新たな目玉になっている。

左 アプトレールが見える  中央 かなりの勾配を登る  右 はるか下方では工事中

左 元々の井川線はここを通っていたとか  中央 長島ダムが見える  右 ダムの横が長島ダム駅

 再び乗客を収容すると、列車は右手に巨大な長島ダムを見ながら急勾配を大きく右に曲がりながら登っていく。この辺りはこの路線でも最大の見所の一つである。

長島ダム駅で電気機関車は切り離される

 長島ダムを真横に見る長島ダム駅に到着すると、ここで先ほどのアプト式機関車は切り離されて待避線へと移動していく。この機関車は今度は上から降りてくる対向車に接続され、下りのブレーキの役目を果たしながらアプトいちしろに戻っていくのである。私の乗車した列車はここから再びディーゼル機関車に押されてダム湖のほとりを進んでいく。

左 ダム湖のほとりを進む  中央 これがレインボーブリッジ  右 奥大井湖上駅

 途中でレインボーブリッジと呼ばれる鉄橋を渡って到着するのが奥大井湖上駅。ここにはいわゆる幸せの鐘という類のものが立っている。ここで下車するカップルが数組。確かに風景も雰囲気も良いところである。

  接阻峡温泉

 次は接阻峡温泉。まさに秘境の温泉といったところだが、一応この沿線の名物の一つ。ここで降りる乗客が数人。ここには共同湯などもあるらしいが、とりあえず今回はパスである。

とにかくとんでもない風景が続く
   

 ここからはひたすらトンネルの連続。井川線の61カ所と言われるトンネルの半数以上がここから終点の井川までの間にある。そしてトンネルをくぐるたびにドンドンと辺りは山奥のひたすら秘境地域。途中では高さ日本一という関の沢鉄橋があり、そこで列車は一時停車。凄まじい風景だが強度の高所恐怖症の人間ならガクブルもの。私もかなりの高所恐怖症だが、なぜか列車などに乗っているとそれがあまり出ない。

いくつものトンネルを抜けてようやく井川ダムが見える

 ここを過ぎてトンネルをいくつか抜けるといよいよ右手に井川ダムが見えてきて終点の井川である。ここで下車する乗客は十数人。まずすべてが観光客と見て間違いないだろう。もっともその目的はハイキングから鉄オタまでの混成軍である。ここで降りた乗客がまず最初にやっておく必要があることはトイレに走ること。

井川駅と周辺風景

 井川周辺は駅前に売店が一軒あるだけで他には何もない。少し歩いたところに中部電力の展示館があるようだが冬期間は閉館中。ここから井川本村方向に向かって歩いていく者、売店に駆け込んでおでんに飛びつく者、20分後に折り返す列車に乗車するために駅の周辺でたむろしている者など様々。私はハイキングの趣味はないし、そもそも今はそんなシーズンではない。ダム方面をしばし視察してからすぐに駅に引き返す。

 

 帰りの列車の発車時刻になるので客車に乗車する。ここからは再び長い帰りのルート。やはりとんでもない風景だが、往路を逆に辿るだけなのでもう新鮮な驚きはない。私にとっては消化試合みたいなもの。そうこうしている疲れが一気に迫ってきて、途中ではウツラウツラする局面も。そのうち長島ダムを過ぎ、気が付けば終点の千頭に到着である。

  

 千頭に到着するとクリスマスエンブレムをつけたSLがホームで待っている。私が以前に乗車した時には後ろを向いていた機関車も今は前を向いている。やはりどう考えてもこの方が絵になる。

ちなみに前回訪問時はこうだった・・・

 しばしSLを見学してから駅前の食堂で遅めの昼食として山菜ソバを頂くと、寸又峡行きのバスに乗車する。今日は寸又峡で宿泊する予定。先に購入したフリー切符には寸又峡までのバスも料金に含まれている。

  寸又峡温泉行きバス

 寸又峡温泉行きのバスは十数人の乗客を乗せて発車する。しかしここからの道がとんでもない。山越えの乱高下ルートであるだけでなく、いわゆる1.0車線というやつで対向車とすれ違い不可能なポイントが多々ある。しかもワインディング道路なのでバスはカーブの度にボディをこすらんばかりである。にもかかわらず対向車が結構来る。それも運転がうまい者ばかりなら良いが、中にはすれ違い不可能のポイントでなぜかまっすぐ突っ込んでくる勘の悪い女性ドライバーも。途中でバスがバックすることなんかもある。

車窓から見えるのはあり得ないような風景

 ようやくたどり着いた寸又峡温泉はまさに山間の秘湯。バス乗車時の説明では、この温泉の由来はイノシシが水たまりに使っているのを見て奇妙に思って調べたことからとのこと。確かにイノシシなんかいくらでも出そうなところである。

  ホテルに到着

 寸又峡温泉入口でバスを下車すると、今日宿泊予定のホテル「翠紅園」はすぐそこである。ホテルにチェックインするとまずは大浴場に直行。ここの泉質は単純硫黄泉とのことだが、湯の特徴は硫黄の匂いが漂うことだけでなく、入浴するや肌が強烈にヌルヌルすること。水質分析表を見るとpH9.0とのことでかなりアルカリ性である。寸又峡温泉の湯は美肌の湯と聞いていたが、アルカリ性の硫黄泉とはまさに最強の美肌の湯である。体にまとわりつくような強烈な浴感だが、それでいて肌に非常に当たりが柔らかい。気持ちが良い湯とはこういうのを言うのだろうか。久々にかなり温泉を堪能したのである。

 

 温泉を堪能した後はしばしテレビを見ながらマッタリ。ネットも出来ないし当然のようにPHSは圏外表示のままという秘境で、ホテルの周囲も特に店などがあるわけではないのでやや暇を持て余し気味というのが本音。周辺の見所としては、ここからさらに山奥に歩いたところに吊り橋があるらしいが、もうすぐ日が暮れそうだし、とにかくもう完全に体力が尽きているので、結局はそのまま部屋でボーっと過ごす。やがて腹が減ってきた頃に夕食の時間になるのでレストランに向かう。夕食は山菜などが中心の会席料理で、鍋はこの温泉を発見したイノシシの末裔のボタン鍋。素朴なものであるが、今の私にはこういう料理が非常に旨い。

 

 夕食を終えると再び入浴。本当にこの湯のためだけでもこんな山奥に来た価値があったと感じつつマッタリ。結局この日は早めに床に就くことになる。

 

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時に起床するとまずは朝風呂。これがまた気持ちよい。7時に朝食バイキング。朝からご飯がうまい。8時にチェックアウトすると千頭行きのバスに乗車するためにバス停へ。それにしてもやはりのどかなところである。久々にゆったりしたというべきか。正直なところネットもできないしホテルの周りにも何もないというところなので、かつての私なら間違いなく暇を持て余したのだが(今回も全くそれがなかったとは言わないが)、こういう状況下で退屈せずにゆったりできるとは私も大分枯れてきたか。利休殿、それがしも最近はわびの良さをかみしめております・・・。

    朝の寸又峡温泉

 バスで再びあのとんでもない山道を千頭まで移動すると、千頭駅で私を待ちかまえていたのはまた南海(笑)。どうもこの車両とは腐れ縁だと感じつつこれで金山まで移動する。金山からはJRの普通列車で静岡まで。しかしこれが例によって乗客は多いにもかかわらず何故か四両編成なので車内は満員状態。さすがにこういう光景を日常的に目にしたら、「JR東海は静岡を冷遇しすぎている」と息巻きたくなるのも分からないではない。実際のJR東海の本音は「儲かる新幹線だけは欲しいが、儲からない在来線は切り捨てたい」というところだろう。JR東海といい、東日本といい、西日本といい、明らかに儲け優先で公共交通機関としての使命を捨てつつある。これは明らかに利益優先の民営化の負の側面である。私は何でもかんでも公で抱えろという大きな政府主義者ではないが、民営化万能論には荷担する気が起こらない。

    バスが通るのはこんな道

 満員電車でエッチラオッチラと静岡駅に到着すると、まずはトランクをロッカーに入れて身軽になる。今日の目的はそもそも私の遠征の主目的であるはずの美術館巡りである。まずは二駅先の草薙までJRで移動、そこからはバスで目的地へ。

 


「草原の王朝契丹−美しき3人のプリンセス−」静岡県立美術館で3/4まで

   

 唐王朝滅亡後の10世紀初頭、中国北方の遊牧民が結成した国家が契丹である。契丹は現在の中国東北部からモンゴル、さらにはカザフスタンまで含めた広大な勢力を有する国家となり、高度な文化を形成する。その彼らが残した文化遺産を最新の発掘成果も含めて紹介する。

 とかく我々は中国人の中華的史観に悪影響を受けて、北方遊牧民=未開な野蛮人という偏見を持ちがちであるが、そういう思いこみを完全に打ち砕くのが本展の展示品である。契丹の歴史に関わる3人のプリンセスを鍵にまとめられた種々の展示品は、装飾の動物などに遊牧民らしさを感じさせるものの、非常に高度に洗練されたものであり、当時の中原の国家・北宋にまさるとも劣らないレベルのものばかりなのである。それもそのはずで、実際に彼らは自らこそを唐の後継者と考えていたらしく、もろに唐風の文化を引き継いでいるのである。

 また驚くのはその展示品の保存状態の良さ。1000年前の木棺の鮮やかな塗装の色彩が未だに残っているのには驚かされるところ。これは乾燥したモンゴル地域の気候ならではであろう。さすがに高温多湿の日本ではすべて朽ち果ててしまっていただろうと思われる。

 とにかくいろいろな偏見と先入観を打ち破る見応えのある貴重な展覧会である。さすがに彼の国の文化の奥深さは侮れない。


 

 久しぶりに堪能したという印象の展覧会であった。この後は常設展とロダン館を一回りすると、表の彫刻通りを散策してからバスで草薙駅に戻る。そこから再び静岡駅に戻ると駅前に最近出来た美術館へと足を伸ばす。ビッグネームが客を呼ぶのか、それとも今日が会期の最終日のせいか、とにかく会場は満員であった。

 


「レオナルド・ダ・ヴィンチ美の理想」静岡市美術館で12/25終了

  

 「モナリザ」「最後の晩餐」で知られるレオナルド・ダ・ヴィンチの作品を中心に、彼が追い求めた美について迫るという展覧会。

 レオナルド・ダ・ヴィンチと銘打ってはいるが、そもそも彼の真筆と明らかな作品はそう多いわけでなく、それらは超貴重作品ばかりなので実際に展示されるのは「レオナルド派」や「レオナルドの弟子」や「レオナルドと同時代の画家」などによる作品が中心となる。

 こうして改めて見ていると、以前から感じていた想いがより強くなる。それは「レオナルド・ダ・ヴィンチの絵は、科学的な人体観察に基づいた非常に精密な絵であるが、その一方で結構クセ絵だな」というもの。と言うのは彼の絵については技術云々を越えたレベルで、彼にしかないような独特のクセがもろに表面に出ているということ。明からさまに言えば「全部の絵がモナリザに見える(笑)」ということに尽きる。

 本展ではパロディも含めて多数のモナリザが展示されていたが、その中で実に興味深かったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチによる習作ではないかという説もあるという「アイルワースのモナリザ」。明らかにモナリザよりも若くて活き活きとした感じがする絵である。もっともこの絵に関しては、確かにオーラを感じるようなすごい絵ではあるが、このオーラはレオナルド・ダ・ヴィンチのものではないだろうというのが正直な感想。

 


 

 これで本遠征の予定は完全終了である。まだ予約していた新幹線まで時間があるので、1時間早い便に切り替えると駅で昼食及び土産物購入を済ませる。ちょうど駅ビルで福引きをやっており、2回くじを引いたのだがポケットティッシュを2つもらっただけだった。やはり昔から相変わらずクジ運とモテ運だけはないようである。人には誰でも人生に2回だけモテ期があるという話があるが、どうやら私の場合は幼稚園の時と中学校の時に終わってしまったようである。さすがにこの年になると、イケメンというアビリティか、金という超強力アイテムかのどちらかを持っていないともうチャンスはなかろう。若い頃なら将来性という超確変もあり得たが、もう既にこちらは完全に先が見えてるし。

 

 などとつまらぬ暗黒面に入りかけたところでさっさと撤退することにする。どうも回りがクリスマスで一杯のせいでフォースの暗黒面に誘導されそうになったのか。これだから都会を避けていたのに(笑)。静岡駅からはひかりを利用。県庁所在地にもかかわらずのぞみが停車しないということで、これまた静岡県民はJR東海の静岡イジメと憤慨しているとのことである。ただ静岡は良いところだが、利用客もあまりいないというのも厳然たる事実だから・・・。

 

 結局は二泊三日で初日はお城巡り、二日目は鉄道視察、三日目は美術館巡りでこれに全体を通じて温泉を絡めたという私の趣味がてんこ盛りの遠征になった。ただそもそもは年末の慰労旅行のはずだったのだが、終わってみるとかなり疲れてしまったという本末転倒ぶり。やはりスケジュールを詰め込みすぎたと反省だが、これだけは私の貧乏性から来る業なので如何ともしがたい。私もまだまだ業が深すぎるようです、利休殿。

 

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