展覧会遠征 広島編3
先週に岡山に行った直後であるが、今週は広島に行くことにした。同じ方面に二週続けてとはあまりに芸がないが、これもそもそも今週の計画が先にあったところに先週の計画が急遽割り込んだからである。本来なら同じ方面同士まとめて先週の四連休に計画するのが妥当なのだが、そもそもは先週の週末が諸般の事情でお籠もりにならざるを得なかったのがこんなことになった諸悪の根元。
さて今回の主目的は広島県立美術館で開催中の「スキタイ展」であるが、時期的なものと私の疲労の度合いから、牡蠣でも食べたいという気もある。つまりはこの時期の私の恒例行事である。
さて交通機関だが、新幹線は金欠のためにパスしたい。また青春18切符なども生憎とちょうど端境期。となると車なのだが、広島は車で走りにくい上に止める場所もないし高いので、本音としては市街をうろつくなら車は避けたいところ。結局はあれこれと考えた結果、折衷案として広島手前の西条で車を置いてJRで広島入りすることにした。いわゆるパーク&ライドの一環である。こういうことになった原因も、なぜか広島市内にホテルがとれなかったこと。結局は周辺部まで含めて調査したところ、東広島にしかホテルがとれなかったのである。そこでそれを前提にして計画を全面的に組み直した次第。
先日はかなりの雨が降っていたが、今日はそれが嘘のように晴れ渡っている。まさに私の日頃の行いの良さいうものである。まずは山陽自動車道を西条まで突っ走るが、悪名高き岡山ナンバーはここでも猛威を振るっている。追い越し車線をマイペース運転に、当然のように車線変更でウインカーなどは使わない。おかげでこの辺りだけは大渋滞である。岡山ももっと県民の運転マナー向上に取り組んでもらいたいところだ。まずはウインカーの意味と役割を教えるところから。
ようやく西条に到着すると駅前のタイムズに車を入れる。西条駅は高架化するらしく工事中。確かに市街をJRがぶった切る形になっているのでこれは正解。この辺りは広島のベッドタウン化しているのか、乗降客は非常に多い。広島までの各駅ごとに乗客はさらに増え、最終的にはラッシュのような状態で広島に到着する。
広島に到着した時には既に昼前である。広島県立美術館に行く前にまず昼食を先に摂っておこうと考える。行く店は既に決めている「KAZUMARU」を訪問、昼メニューの「牡蠣のミニ懐石(4200円)」を注文する。
五種盛 牡蠣のタタキ 焼牡蠣
牡蠣の天ぷら 牡蠣サラダ 牡蠣ご飯と赤出汁
生牡蠣(サービスで頂きました) デザート
今年は秋になって暑さが続くので牡蠣が心配だったのだが、今年は一ヶ月ぐらい遅れていて、つい先日の寒さでようやく牡蠣を出せるようになったところだとか。異常気象はこのようなところにも影響しているのである。メニューは「牡蠣のたたき」に「焼牡蠣」「牡蠣の天ぷら」「牡蠣サラダ」「牡蠣ご飯」と牡蠣尽くしである。ちなみに牡蠣には関係ないはずの赤出汁が異様にうまかった。やはり味噌が良いんだろうか。なお毎年この時期になると牡蠣を食いに広島に来るという類の話を店の人としていたら、サービスで生牡蠣を一ついただいた。焼きも良いんだが、やはり生も絶品である。どうやらこの生で食べられる牡蠣が一番条件が難しいらしい。だから生で出せる時期は限られているとか。相変わらずこの店の料理は一番私の好みに合う。機会があればシーズン中にもう一度来たいところ。
牡蠣をたっぷり堪能してこれで広島訪問の主目的(?)は達成である。後は帰るだけ・・・じゃないって! 本来の主目的であるはずの美術館に向かうことにする。
「ウクライナの至宝−スキタイ黄金美術の煌き」広島県立美術館で11/13まで
かつて現在のウクライナ地域で勢力を張ったものの、文字を持たなかったためにその実態が謎に包まれた騎馬民族であるスキタイ。そのスキタイを中心としてこの地に栄えた民族の栄華を伝える発掘品を集めた展覧会。ウクライナ門外不出の国宝級が多数出展されているという触れ込みである。
騎馬民族だけあって、出典品には馬具や武具の類が多いのだが、それらがかなりギリシア文化の影響を受けているのはともかくとして(地理的にギリシアに近いし実際に文化的交流もある)、何やらアジアの影響も透けて見えているのがこの地域の特殊性を物語っていて興味深い。特に私の目を惹いたのは、どこから見ても鎌倉武士の大鎧に見える武具。源義経がつけていても違和感のないぐらいの代物であった。恐らく遠く文化のルーツが共通しているのだろう。そういう辺りにかつての世界規模での文化交流を感じられたりした。
なお西欧においてはとかく騎馬民族といえば蛮族扱いされるのだが、展示されていた金細工品などにはかなり高度な細工も多く、彼らの文化水準の高さを物語っていた。もっとも題材の方は日常的な動物などが多く、その辺りの洗練度は周辺地域的ではあったが。
これで正真正銘主目的達成である。しかしまだまだ時間的余裕があるので、この美術館の裏にある縮景園に入園することにする。縮景園は広島藩主の別邸の庭園として築かれたもので、最初は上田宗箇(古田織部の弟子で武将、例の「へうげもの」にも登場している無骨なオッサン)の設計とのことだが、大火で焼けて全面的に手直ししたらしい。西湖の風景をモデルにして風景を縮めているから縮景園だとか。
別邸の庭園とのことなので、兼六園や後楽園のような城郭の庭園と違ってこじんまりとしている。しかしそれでも変化が多くて動的であるのは武人の庭園と言うところか。順路に沿って一回りすると、園内が起伏に富んでいるせいもあって意外に運動にもなる。
これで広島での予定は終了である。広島を後にして西条に向かうことにする。ただそれにしても疲れた。やはり朝から高速を突っ走ってきたのがダメージだったか。西条に向かう列車の中で知らない間に意識を失ってしまう。
目が覚めるとまもなく西条に到着。まずはホテルに入る前にしばし駅前の酒蔵通りを散策。西条は日本酒で有名な地で、酒蔵が多数あって白壁の蔵が並んでいるというわけであり、これを現在は観光にも利用しようとしているようだ。さすがに酒蔵だけあって名水も湧いており、ペットボトルを大量に持参して水を汲んでいる者が多数見られた。なお町並みが古くて住宅に駐車場が足りないのか、町の中にやたらに駐車場があるのも印象的。そもそもは古い町が無理やりにモータリゼーションされたらこうなるのか。なんかこの辺りのバランスの悪い街でもある。
酒蔵通りを一回りすると車を回収してホテルにチェックインすることにする。今日の宿泊ホテルはグリーンホテルモーリス東広島。山陰地方ローカルのビジネスホテルチェーンで私が良く利用するところである。大浴場つきで朝食が充実しているという私好みのホテルで、ちょうど山陰地域はドーミーチェーンが手薄な分を補うようなホテルチェーンでもある。ホテルにチェックインするとまずは大浴場でくつろぐ。その後しばし部屋でマッタリとして、夕食時なってから出かける。
夕食の予定は大体考えてある。あえて車を出さずに徒歩でプラプラと酒蔵通りへ。西条と言えば美酒鍋という酒を使った鍋があるというので、それを食べようと昼に見た「仏蘭西屋」へ。しかしここで計算違いが発生。夜の部は鍋は「お二人様から」しかないらしい。温泉旅館ばかりかまさかこんなところでまでお二人様縛りにやられるとは・・・。日本という国は一人旅をしてはいけない国なのか。正直、これのために歩いてやってきたのに(酒のアルコールは完全に飛ばすから問題ないはずだが、私は異常に酒に弱いので用心した)、全くの無駄足である。少しイラッときたが、仕方ないので単品メニューを摂ることに・・・。しかし品数が少ない。結局は「卵焼き」と「鯛茶漬け」を頂くことに。
料理は確かにうまい。ただこのメニューを食べるのならここに来る必要はなかった。それとなぜかこの店でしばらく座っていると目眩がしてきた。鍋のアルコールが飛んできているのだろうか。やはりアルコールにかなり弱い私にはそもそも美酒鍋は端っから縁のないメニューだったと考えるべきか。アルコール類が駄目な私には、どうも夕食は鬼門になりやすい。私のようなアルコールを飲まない人間は、儲けが下がるために夕食ではとかく店に敬遠されがちになるというのが現実である(店にとって一番儲かるのは酒をガンガン飲んでくれる客)。しかし正直なところ私も本当はたまには酒でも飲んで忘れたいこともある。今の世の中、常に素面で渡っていくのは辛すぎる世界でもあるから。ただ私の場合は酒を飲むとストレス発散どころか、そのこと自体がストレスになってしまうのでどうしようもないが。
夜道で頭を冷やしながらホテルに帰ってくると、しばしこの原稿打ち。しかし夜になるとやはり夕食が中途半端なせいで小腹が空いてきたので、近くにあるラーメン屋「一龍」に出かける。ここは博多ラーメンの店とのこと。ラーメンと炒飯のセット(950円)を注文する。
ラーメンは豚骨系にしては比較的あっさりしたタイプ。いわゆるコッテリが好きな者には物足りないかもしれないが、コッテリ系ドロドロスープが苦手な私にはちょうど良いバランス。また和歌山ラーメンのような悪臭もない。これだとスープも飲める。また硬めの細麺はいかにも博多ラーメンらしくて良い。炒飯の方も取り立てて特徴はないが、いわゆるラーメン屋の炒飯としては合格点。なかなか実用性の高い店である。
腹を満たしてホテルに戻ってくると、しばしネットで時間をつぶしてから就寝する。
☆☆☆☆☆
翌朝はいつもよりゆっくりして7時過ぎまで眠る。今回の遠征は元々予定はあまり入れていないし、車なので融通が利く。こういう余裕もたまには必要である。
ようやく起き出すとまずは朝風呂へ。さっぱりするとマッサージチェアで身体をほぐす。これでやっとスイッチの入ったところでレストランへ。ホテルモーリスの朝食は和洋両対応でシンプルだがやはりうまい。まずは和食で腹を満たしてから、クロワッサンを頂く。ここの朝食はいつもこのクロワッサンが旨いのである。ビジネスホテルの朝食の満足度では目下の所はこのチェーンを越えるところはまだない。
たっぷりと朝食を摂ると9時頃まで休んでからチェックアウトする。さて今日の予定であるが、竹原を目指すつもりである。竹原はかつて製塩の町として栄えており、今でも往時の町並みが保存されているとか。以前に竹原に行った時にはまさに通過でここに立ち寄っていなかったので今回立ち寄ろうという考え。私の遠征も近年は「日本再発見」の色彩が強くなったことから、この手のところにも興味が強くなっている。私もかなり業が深くなってきたものだ。
竹原に向かって車を飛ばすが、その前に一カ所立ち寄るところがある。それは「木村城」。竹原小早川家の初代政景が1258年にこの地に城を構えてから、毛利からの養子である隆景が高山城に移るまで300年に渡って竹原小早川家の本拠だったという。現在は県の史跡となっている。
国道432号線を和賀神社を目標にして南下していくと、和賀神社の手前に木村城登山路を示す小さい標識があるので、それに従って車一台がギリギリの細い道を進む。ちなみにこの道はかなり狭いので、私のノートだと問題なく通過できたが大きな車ならしんどいかも。山の麓を回り込むような感じで進んでいくと、木村城の紹介の看板があり、その手前に車を2台ぐらいなんとか停められるスペースがある。ここに車を停めると案内に従って山の方を目指す。
左 登り口にある案内看板 中央 木村城遠景 右 登城路はこういった様子 山自体はそう高いものではないし、下草なども刈ってあって整備は比較的されている。足下が崩れているので注意との看板はあるが、よほど迂闊に進まなければ大丈夫な程度の道である。そこを数分ほど登ると井戸のある開けたスペースに出るが、そこが馬返しの段。城の本体はこの上にあり、登山ルートの看板は急斜面を指しているので「本当にここを登るのか?」と疑問を感じるが、よく見ると一応登りルートはある。
馬返しの段 ちなみに私は最初に登った時にはこの登りルートを見逃し、結果として別ルートで大回りして登ったのだが、これは途中で崖の上を通る危険なルート。正規ルートもかなり急だが、気を付けて登るとこちらの方が安全である。
兵糧の段の一段下にも井戸跡がある この崖を登り切ると削平地に出る。北側がやや小高くなっていて、そこが若宮社跡。案内板にあるように櫓台跡だろう。ここに登ると北方下部にさらに二段ほど曲輪状になっているのが見える。
兵糧の段 右手奥が櫓台跡である若宮社跡 ここの南方はさらに山になっていて、この頂上が本丸になる。途中には井戸のある曲輪もあり、この井戸は石垣で固められたかなり深そうなものである。本丸は簡単な建物ぐらいは建てられそうだがそう広くはないスペース。山岳地形をうまく生かしたなかなかの堅城だと思うが、城域全体としてあまり規模は大きくなく、ここに立て籠もるとしたら兵員は数百人というところか。隆景が本城を高山城に移したのは、小早川氏の勢力拡大と共に手狭になったせいだろう。
左 若宮社跡から北方の曲輪跡を 中央 振り返るとこの上が本丸方向 右 井戸の段にある井戸跡 左 かなり深いし石で固めてある 中央 さらに本丸へ登る道が 右 本丸上風景 左 本丸の木村城址碑 中央 本丸の周囲には輪郭状の曲輪が 右 本丸裏手の曲輪からの風景 城から降りてくると車を停めたところに地元の人が来ていたのでしばし歓談。彼の言によると予算がないので城の管理が今一つなのだとか、もう少し整備したら観光客を呼べないだろうかという話も出たので、案内看板をもう少し立てた方が良いんではということはアドバイスした。あまり気合いを入れて整備しすぎて、元の城跡を破壊するようなことになってしまったら逆効果だし。正直な私の感想としては、ここは下草がキチンと刈られているだけまだ整備されている方だと思う。ひどいところになると登山ルートさえ分からないようなところも少なくないし、ひたすらクモの巣と格闘になることも多いので(先日の徳倉城などはまさにそう)。日頃からキチンと整備さえしておけばそれで十分だと思う。まかり間違っても、地元が気合いを入れすぎてあの本丸に白亜の天守閣をぶっ建てるようなことだけはしないで欲しい(建てるならキチンと時代考証を考えたものに)。
木村城の見学の後は竹原に向かう。町並み保存地区近くの観光駐車場に車を止めると徒歩で散策。やがてなかなかに風情のある町並みが目に入ってくる。カメラを手にした観光客も多いが、その中にどうも毛色の違うタイプの連中が数人いる。「?」と思っていたらすぐに理由が判明。どうやらこの竹原が最近「たまゆら」なる萌えアニメの舞台になったらしい。と言うわけで普通の観光客だけでなく、あっち系の連中も来ているということ。思わず納得してしまったが、正直脱力である。どうもあちこちの観光地が「萌え」に占拠されつつあるのを感じる今日この頃。今に日本の観光PRも「cool Japan」から「Moe Japan」に変更されるのでは・・・目眩がしそうだ。
こっ、これは・・・
左 案内図 中央・右 手前の川沿いからなかなかに風情がある 町並み保存地区はなかなかに情緒のある良いところである。倉敷の美観地区はまるで映画のセットのような不自然さを感じるのに、ここにそれを感じないのはなぜかと考えていたところでようやくその原因が分かった。この町には人の生活感があるからである。やはり町とは建物だけが残っていても無意味で、そこに住む人々の生活も存在してこそ意味があるわけである。もっともこの竹原の町並み保存地区も明らかに空き家が増えているようであり、今後のことを考えるとあまり楽観できない。「萌え」でも何でもいいから利用できるものは利用したいというのも分からないでもない。とは言うものの、ほとんど「たまゆら記念館」と化していた住宅まであったのはなんとも・・・。
街路の一つ一つが風情溢れる
文化財級の建物 左 松阪邸(市重要文化財) 中央 頼惟清旧宅(県史跡) 右 春風館(国重要文化財)
笠井邸はほとんど「たまゆら記念館」と化していました・・・ 裏手のお寺に登って上から見学したり、一渡り町並みを見学したところで昼食を摂ることにする。町並み保存地区内の飲食店「のんびり亭」に入店する。いかにも民家を改造したというような店で、普通の家庭の玄関先と奥の部屋が店になったというイメージ。ごく普通の家庭用の食器棚が置いてあるのが何とも。注文したのは「タケノコの天ぷら定食(1400円)」。
いかにも家庭料理的な味付けだが、これが存外に旨い。各鉢共に旨いが、特にメインのタケノコの天ぷらは最高。タケノコの甘味を感じさせられるうまい揚がり具合になっている。また定食にミニうどんが付いてくるのもうれしい。おかげでボリューム的にも十分の内容になっている。
左 西方寺 中央 西方寺奥の善明閣 右 見下ろす町並みが風情がある 腹が膨れたところで駐車場に戻ると次の目的地へ向かうことにする。次の予定は「高山城」。以前に新高山城は訪問しているが、その時に向かいに見えた山城である。小早川氏は沼田小早川氏と竹原小早川氏に分かれていたのだが、竹原小早川氏の本拠が先ほどの木村城なら、沼田小早川氏の本拠が高山城である。結局は竹原小早川氏に養子に入った隆景が沼田小早川氏も継いだことで両家が統合され、隆景は高山城に本拠を置くことになる。しかし数年で隆景は本拠を向かいの新高山城に移して高山城は廃城になった。なお隆景が新高山城に本拠を移した理由については諸説言われているが、私は東からの脅威に対抗するために東側が川と崖で防御の堅固な新高山城を構えたのではという考えである。
高山城については登り口がよく分からなかったのだが、徹底した調査の結果、東側に登り口があるらしいことが判明した。そこでそちらに向かって車を走らせる。県道50号を北上して新幹線をくぐって少し行ったところで、住宅の方に上がっていく脇道が出ているのでそこに入る。すると道は住宅の間を抜ける狭い道になるが、それをひたすらに山の方向に向かって進んでいくと最終的には墓地に出て、そこに3台程度の駐車スペースがある。その脇に高山城の説明看板が立っている。どうやらここが登城口のようだ。
左 高山城登り口 中央・右 登城路はいきなり険しい ただこの看板によるとやはり想像以上に規模の大きい城郭のようだ。しかも目の前の山は思っていたよりも険しく、登城路も一応は整備はされているようではあるが結構鬱蒼としている。またここに来て斜面を登り始めると足が上がらないことに気づいた。どうやら木村城攻略に続く町歩きで思った以上に足にダメージが蓄積してしまったようである。しかも実のところ数日前から腰の調子が不穏である。このまま強行しても途中で体力が尽きるか体調が悪化する危険があると判断、この時点で今回の攻略は断念して引き返すことにする。やはり高山城は何かのついでに立ち寄れるような城郭ではなく、最初からここを目的にして計画を練ってから来る必要があるようだ。痛恨の撤退であるが、とりあえず今回は登城口を確認したということで良しとしておく。
高山城を後にすると本郷ICから山陽自動車道に乗る。このまま帰宅することも考えたが、まだ昼過ぎであまりに時間に余裕がある。どこか立ち寄るところがないかと考えた時に、竹喬美術館のことが頭に浮かぶ。本来は先日の岡山遠征の際に立ち寄るべき所なのだが、生憎とちょうど企画展が切り替わる直前だったためにパスしたことを思い出したのである。とりあえず笠岡ICで山陽自動車道を降りるといつもの道を突っ走る。
「アンリ・ルソーと素朴な画家たち いきること えがくこと」笠岡市立竹喬美術館で'12/1/9まで世田谷美術館が所蔵するルソーなどの「素朴派」の作品を展示した展覧会。「素朴派」とは正規の美術教育を受けず、あくまで独学で自身の内的感情などに従って作品を製作した画家達であり、その作品は技巧的には稚拙であっても独自の純真無垢さのようなものを感じさせるものである。
例によってルソーの作品などは一見すると「ただの下手な絵」であり、彼の作品が生前には一般的には嘲笑の対象にしかならなかったというのも頷けるところ。しかし同時に他の画家にはないような魅力を持っており、これが一部の画家を強烈に魅了して多大な影響を与えている。実際に私も「下手な絵だな」と感じつつも、表現に困るような魅力を感じるのが彼らの作品であり、現実に彼らの展覧会には何度も足を運んでいるのである。描きたいから描いているという純粋な創作意欲のようなものに魅入られるのだろうか。
これで後は帰るだけだが、最後に一カ所だけ立ち寄ることにする。笠岡ICから竹喬美術館に向かう途中で海のそばの小山を通過するのだが、以前からこの地形は城郭向きだなと気になっていた。その後の調査の結果、やはりここにはかつて「笠岡山城」があったということが判明したので、立ち寄ってみるとことにする。笠岡山城は村上水軍の城だったとのこと。海のそばの小山というのはまさに水軍城には格好のロケーションである。もっともこの山は明治になって削れて原形はとどめていないとのこと。
左 笠岡山城遠景 中央・右 山頂風景 一方通行などに進路を阻まれながらかなり大回りしてから急な山道を車で登る。頂上は真っ平らで広々としており、完全に公園化しており、ごく一部かつての山頂らしきところが残っているだけ。恐らくそこにはかつては見張り台でもあったと思われるが、確かに城としての原型は全くとどめていないようだ。海側にある展望台に登ると辺りを見渡すことが出来る。元々はこの山(島だったという話もある)の眼前には海が広がっていたはずなのだが、現在は大規模な干拓が行われて海岸線は遙か向こうになってしまっている。その干拓地を頭の中で消去して地形を眺めると、複雑な入江の奥に位置するこの地は水軍の要塞としてのまさに適地であることは頷ける。ただそれも遠い昔の話である。
山頂よりの風景 南東方向 山頂よりの風景 南西方向 しばし昔に思いを馳せてから帰途につくことにする。今回は高山城からの撤退によって当初の目的を完全に達成することは叶わず、やや中途半端な遠征となってしまった。いずれ高山城には完全にリニューアルした計画でリベンジする必要があろう。それにしても以前に痛めていた膝がようやく回復したと思えば、今度は腰の方が怪しくなってくる。まさに満身創痍である。そもそもはこの弱すぎる身体を何とかする必要があるだろう。
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