展覧会遠征 甲信・草津編
さて世間は夏休み突入、そう言うわけで私も夏休みを取得することにした。えっ?確かに夏休みは先々週ぐらいに取ってなかったっけって? あれは夏休みではなくて夏に突入する前に英気を養うための夏休暇。今度が正真正銘の夏休みである。
夏休みと言えば当然遠征。目的地だが、今年は本来は東北・北海道強化年間だったのだが、東北であの大災害が発生したことから東北遠征は当面見合わせている状態。そのために暫定的に甲信越・北海道強化年間に目標が変更になっている。実際、甲信越地域にはまだまだ未視察領域が多い。今回はその中で山梨から群馬方面に抜けるルートを検討したという次第。
この地域には未視察の小海線、吾妻線と言った盲腸路線が残っている。またその沿線にも立ち寄るべきポイントは多々ある。そこでそれらを押さえていくルート策定を行った。大まかなルートはまず中央線で甲府に入り、そこから佐久平に抜けると、車で草津方面に移動するというもの。だから切符は最近定番になりつつある「レール&レンタカー切符」である。
木・金の二日間休暇を取り、全行程は三泊四日。ただし木曜の朝一番から活動を開始するために、水曜の夜に東京入りして前泊である。となると四泊四日とでも言うべきか。水曜日の仕事を終えると東京行きののぞみに飛び乗る。JR東海のドル箱路線は今日も大混雑である。
仕事疲れが出て爆睡している間にのぞみは東京駅に到着。今日の宿泊先は言うまでもなくホテルNEO東京。ただホテルに入る前に南千住駅前で遅めの夕食を摂る。いかにも東京らしい飯で何の感動もなし。
ホテルに入ると入浴。さっぱりしたところで早々に床に就く。
☆☆☆☆☆
翌朝は5時に起床。新幹線で爆睡したのが祟ったか、昨晩の睡眠はどことなく不十分。しかしそんなことにかまっていられない。昨日買い込んでいたパンを朝食に摂ると、6時前にチェックアウトする。
今日は中央線で山梨入りする予定。まずの目的地は大月である。山手線で新宿まで移動すると、松本行きのスーパーあずさ1号を待つ。自由席に乗車するつもりなので発車の30分前には新宿に到着するようにしたのだが、もう既に待ち客は結構いる。平日だがもう夏休みに突入しているせいか、出張のサラリーマンという身なりの者よりも、ハイキングにでも出かけるスタイルの行楽客の方が多い。
列車は発車15分前ぐらいに到着するが、直に自由席は満員になる。車内放送によるとどうやら指定席も満席とのことである。次の停車駅の立川では数人が下車するが、それよりも多くの乗客が乗り込んでくる。さらに八王子でも多数乗り込んできて、デッキにまで人があふれている状態。
高尾を過ぎた辺りからはひたすらトンネルの連続で、トンネルを抜けるたびに深い山の中に入っていっている印象である。トンネルの連続が切れると、険しい山の合間に町が広がる地域に突入。大月はそんな中にある。
大月駅 奥に見えるのが岩殿山である
大月にやって来た目的は「岩殿城」を訪問すること。岩殿城は見上げるような岩盤の上にある堅城。武田の親族衆でもあった小山田氏の城で、武田氏の勢力圏の東端を守る要衝であった。しかしこの城及び小山田氏のことが歴史上で語られるのは、武田の滅亡に関連したエピソードである。武田勝頼が織田氏の侵攻を受けた時、彼が最後に頼りにしようとしたのはこの城に拠る小山田信茂だった。しかし小山田信茂は織田方に寝返って、落ち延びてきた勝頼は進退窮まって天目山で自害、これで武田氏は滅亡している。しかし織田信長は小山田信茂の降伏を受け入れず、「不忠者」として処刑してしまっている。小山田信茂としては一族の存続のために寝返りを選択したのだと思われるが、結局は後世に裏切り者の汚名だけを残すことになってしまった。また残された一族衆はこの城に立て籠もるも大軍に包囲されて進退窮まり、尾根伝いに逃げる時に連れて行くことが不可能な子供を断崖から投げ落としたと言われており、その崖は「稚児落とし」と呼ばれているという。
悲しく壮絶な話である。なお歴史に「もし」はつき物だが、この時に小山田信茂が武田勝頼を匿っていたらどうなるだろうか。実は織田信長は武田氏滅亡のわずか3ヵ月後に本能寺の変で死亡している。信長死後の混乱に乗じれば、武田氏が再び勢力を取り戻すことも不可能ではなかったと思われる。実際、武田氏滅亡後に旧武田家臣団を取り込んだ徳川家康がその後に急速に勢力を伸ばしているし、同じく旧武田家臣団の一部を取り込んだ真田氏は、それまでの一地方豪族の立場から戦国大名の一角にまで勢力を伸ばしており、旧武田家臣団は人材の宝庫でもあるのである。もっとも信長が本能寺の変で倒れたのは、武田を滅ぼして後顧の憂いを無くした事で西に目を転じたのと、やはり武田という大敵を倒したことによる精神的油断の二つがあったと思われるので、勝頼が岩殿城に篭って徹底抗戦していたら本能寺の変が歴史どおりに起こることはないだろう。しかし信長のあまりに苛烈すぎる行動はあちこちに軋轢を生んでいたので、遅かれ早かれ信長はあのような形で倒れる運命だったのではないか考えている。信長の死後も武田が健在ならば、徳川があそこまで台頭するのも難しかったろうし、秀吉のその後の行動も大きく変わったろう。東国が再び群雄割拠して戦国時代パート2になっていた可能性、また武田が上杉同様に秀吉に下って、徳川及び北条に対する牽制勢力としてにらみ合いになるパターンなどいろいろ考えられるが、とにかく後の徳川幕府の誕生にはつながらなくなる可能性が高い。
さて今回の遠征では実はこの岩殿城訪問が目玉の一つになっている。以前にこの断崖を目にした時から、いつかは訪問したいと思っていたのである。そのために今回は満を持しての挑戦である。ただ本音を言うと、ワクワクする気持ちと反面、非常なプレッシャーも感じているのである。と言うのはこの城の堅固さは良く知られているが、城マニア系のHPなどを見るとことごとく「死ぬほどキツイ」などと書かれているのである。各地の山城を転々としているような歴戦の強者共がこのようなことを言っている城が、明らかに体力不足の私に攻略可能なのであろうかということに疑問を感じていたのである。
のしかかるような岩山 大月駅に到着すると、ホームから岩殿山が見える。見上げるような断崖である。しかしその山を見上げた時に、私は心の中でなぜかはっきりと確信する。「この山なら絶対に攻略できる」。
登り口
実際にはそれは確実な根拠があるものではない。確かにここを登りきるのは到底簡単とは思えず、まずヘロヘロになるのは間違いないのであるが、それでも途中で挫折はないという確信はあった。同じような山容の新高山城や、本格的な山城である置塩城を攻略した自信がこの確信を後押ししているのだろうか。
ふれあいの館 登山口までは駅から徒歩で15分ほどである。そこから階段と急坂をしばし登ると門と櫓のような建物がある。これが「ふれあいの館」。いわゆる郷土資料館なのだが、9時から開館とのことなのでまだ閉まっている。
岩山が本格的に牙をむく
ここを過ぎると岩殿城への登城路はいよいよ険しさを増してくる。雨でも降ったのか足下が濡れているが、通路は完全に整備されているし、今回に備えて靴も新しいものに履き替えているので足下には不安は全くない。
難行苦行のご褒美はこの風景
ただ確かに登りはいささか厳しい。険しい石段が延々と続いている印象である。しかし厳しいとはいえ、進むごとに確実に標高が増しているのが感じられるだけに精神的には楽である。苦労して経験値を稼いでいくと確実に強くなっていることを実感できるRPGみたいなものである。しかもこのRPGは時折すばらしい風景を見せてくれるなど、イベントも充実している非常に優れたRPGである。いくら努力して成果を上げても訳の分からない評価基準で全否定され、いつまでたっても現在地から1ミリたりとも動けない成果主義評価なるクソゲーに比べると、比較にならないほどやりがいがあると断言できる。
分岐の標識 ここで直進してしまうと絶壁の稚児落としに行ってしまう
大手門の方面に向かう分岐を越え、さらにしばし登るとようやく番所跡に到着する。ここにはかつて巨岩を利用して門が作られていたというが、確かにここに門を作られたのでは難攻不落である。何しろ通路が狭いので、いくら大軍を擁してもそれを展開できないのである。
番所跡は巨岩の砦 この難所を通り抜けるとようやく城内である。本丸は右手の奥だが、すぐ左手に西見張り台があり、ここからの眺めが抜群である。とにかくもう体がヘロヘロなので一端ここで伊右衛門を飲み干しながら一息つく。確かにきつかったというのが本音。何しろ途中では息切れを通り越して胸が苦しくなって吐き気がしたぐらい。ここまで身体に来たのは正直なところ久しぶりである。しかし当初の予想通り、何とか無事に山頂にたどり着くことは出来た。
西見張り台は崩落の危険から一部をダイナマイトで撤去したとか 左 馬屋跡を抜けると 中央 馬場に到着 右 一段低いところにある井戸 番所跡をぬけたところから東に向かうと馬場にでる。この辺りがこの城で一番広いところ。とはいっても山上の広さは限られているので、大軍勢が立てこもった城とは思えない。それにしても本当にこんな断崖の上に馬を連れて上がっていたのだろうか? いくら日本の馬が小柄だったとはいえ、ここの登城路は馬ではなくて鹿が上がるレベルである。なおここから下ったところに井戸の跡があるが、藪をかき分けてかなり下らないといけないので、近くまでいく元気はなかった。
左 倉屋敷跡 中央 烽火台跡 右 本丸跡はアンテナに占拠されている 蔵屋敷や二の丸を抜けて本丸に向かう。ここが城のほぼ最東部、この頃になると私の登山杖(正確にはカメラの一脚である)の役割は杖よりもクモの巣払いになる。本丸は一番小高くなってる部分。しかし残念ながらテレビのアンテナにほとんど塞がれてしまっていて往年の姿をイメージしにくい。
本丸跡からの風景と空堀跡 本丸のさらに東側には円通寺方面に降りるルートがあり、堀切なども見えるが道が険しそうな上に私はもう足がガクガクなので上から見ただけで引き返す。帰りには南物見台に寄って大眺望を堪能。この風景だけでもここまであがってくる価値があるというものである。なお晴天時には西に富士が見えると言うが、今日はこの辺りは晴天なのだが、残念ながら富士には雲がかかっていてその姿を全く見ることができない。
それにしても堅城である。狭いので大軍勢を駐屯させることは出来ないが、攻め手も大軍勢で一気に攻め落とすことが出来ないので、遠距離大型火器のない戦国時代には難攻不落そのものである。もし武田勝頼がここで徹底抗戦していれば歴史は面白いことになったような気もする。その内に背後で真田昌幸が暗躍を始めるという展開もあり得るし、いろいろと想像の翼が広がってしまう。
足下に見える町の風景 一渡り城の見学を終えると、注意しながらゆっくりと降りていくことにする。とにかく険しい城では登りよりも下りの方が危険である。途中で運動部らしい高校生の団体や登山客らしい面々とすれ違う。ハイキングルートとしてここを訪れる者もそれなりにいるようである。ふれあいの館まで下りてくると内部を見学。内部には富士の写真が展示されていた。なおなぜかプラネタリウムまであるようだが、それは故障中とのこと。
岩殿城から降りてきた時には案の定足はガタガタになっていた。また下り坂を厳しいと感じたのは久しぶりである。町まで降りてくると自動販売機でネクターを購入して一気飲み。正直、このジュースをこんなにうまいと感じたのは初めてである。予想通りかなり疲れたが、精神的には非常に充実したものを感じていた。
ところで話は変わるが、現在は日本人野球選手が次々とメジャーで活躍している。その先駆者は野茂やイチローであるが、ここまでメジャー行き選手が増えることに大きく貢献したのは新庄だという指摘がある。野茂やイチローがメジャーで活躍したという報が伝わっても、誰もが「やはりあれだけの超一流選手だから」と考えていたのだが、超一流とは言い難い新庄がメジャーでそこそこ通用したことで、一気にメジャー挑戦のハードルが下がったのだという。なるほど、死ぬほどきついと言われていた岩殿城だが、歴戦の強者だけでなく、今回私のような体力不足で持病ありの中年のオッサンが攻略に成功したことで、一気にハードルが下がることになるのだろうか。全国の初心者お城マニアの諸君も、これで心配なく攻略していただいて結構である(笑)。
富士急大月駅
大月駅まで戻ってくると次の目的地に向かうことにする。次は富士急で河口湖に向かう予定。まずはJR大月駅に隣接している富士急河口湖駅に行く。ホームにはかなりサイケなデザインの特急列車と二両編成の普通列車が待っている。とりあえずこの普通列車に乗車することにする。
左 普通列車 中央 車内 右 特急列車 沿線はいかにも山岳列車という趣。富士急は電化されているが全線単線なので途中で対向列車とのすれ違いが数度ある。晴れていたら前方に富士山が見えるのだろうが、残念ながら今日は雲がかかっていて富士山の姿は全く見えない。基本的には観光列車であるのだが、沿線人口もそこそこはある。富士山駅でスイッチバックするが、ここはその名の通り富士登山の拠点であり、ここからバスなども出ているようである。なお路線的には大月からこの富士山駅までが大月線、ここから終点の河口湖までが河口湖線となるのだが、実際は一体運用されているので路線の区別は意味はない。
左 沿線風景 中央 富士には雲がかかっている 右 富士山駅 数分の停車後、列車は反対方向に向かって走り出す。次の停車駅は富士急ハイランド駅。その名の通り、駅の改札がそのまま遊園地の入口になっており、多くの乗客がここで降車する。個人的には富士急ハイランドと言えば、かなりマイナーな遊園地というイメージを持っていたのだが、大型ジェットコースターの施設なども見え、単に富士山が見えるということだけが売りの遊園地というわけでもないようである。終点の河口湖駅まではここから数分である。
河口湖駅と駅前に置いてある列車 河口湖駅からの移動はバスが出ているのだが、駅で迷ってモタモタしている間にバスが出てしまう。次のバスの時間を調べるとかなり先。ここで待つ気もしないのでタクシーでロープウェイの駅まで移動する。
河口湖岸はいかにも観光地という雰囲気。以前に訪問した諏訪湖岸と雰囲気が似ている。湖岸にはホテルも多く、遊覧船なども出ているようであり、ここで一泊しての観光というのも良さそうである。しかし残念ながら私の滞在予定時間は数時間である。
タクシーは数分でロープウェイの駅に到着する。これは河口湖を見下ろす天上山に登るためのロープウェイで、天上山がカチカチ山の舞台と言われていることから「カチカチ山ロープウェイ」とネーミングされている。ウサギとタヌキのゴンドラが5分おきに運航されておりかなりの多頻度運転。しかし乗客もかなり多い。
山上駅と展望台
ゴンドラは3分程度で一気に山を登る。足下に河口湖の姿がハッキリと見えてなかなかの壮観。山上は展望台があって富士山方面と河口湖方面を見晴らすことが出来るが、それ以外には特に何があるというわけではない。風景を堪能するとすぐに降りてくることになる。
河口湖方面の風景 富士山方面の風景 ロープウェイを降りるとここからバスで湖岸を移動することにする。河口湖周辺も諏訪湖周辺と同様にリゾート型の美術館が多い。もっともその内容はいかにもリゾート美術館らしく、オルゴール美術館などの類が多い。その中で次の目的地は久保田一竹美術館にする。
久保田一竹美術館
左 門 中央 建物と中庭 右 庭園 染織家で辻が花染の技法を研究、その技法を活かした着物を製作して世界的に評価された人物である。彼は日本画を学んでいたことから、その作品は非常に絵画的で、私の訪問時に展示されていた作品も、数点が連作となって壮大な風景を描いているもの。工芸にはあまり興味のない私だが、彼の作品については絵画と共通する部分が多々あるためにその表現は興味深かった。
なお美術館自体の構造も非常に凝っており、インド風の門、日本風の庭園、現代アート的な中庭など何やら折衷風味の印象深い建物であった。
美術館を出ると次の目的地へバスで移動・・・するつもりだったが、ちょうどバスの合間の時刻で、次のバスまでかなり時間がある。私はこういう時にぼんやりとバス停でバスを待つほど気が長くない。とりあえず次のバス停まで歩くことにする。そう言えば腹が減った。もうとっくにお昼時は過ぎているのに昼食がまだだった。そこでしばらく歩いたところで目に付いた「もみじ亭」に入店する。
山梨という地域を考えると、注文としてはほうとう辺りが妥当なのだが、さすがにこの暑さでは残念ながらほうとうを食べる気にはならない。注文したのは「天ざるそば御膳(1575円)」。可もなく不可もなくといったところだが、やはり気になるのは観光地価格。
昼食を終えたところで再びバス停を目指して歩く。やがてバス停に到着するが、どうもさっき食事をしていた間にバスの到着時間を過ぎてしまったようだ。これは次のバス停までさらに歩くかと振り返った時、ダイヤよりかなり遅れてやってきたバスが見える。これ幸いとこれに飛び乗る。次の目的地も美術館である。
河口湖美術館
企画展ではポップアート展を開催中。しかし私にはもうリキテンシュタインのアメコミは飽き飽きだし、それ以外の作品も使い回しの一発芸に見えてしまって興味なし。正直、番組が変わっても同じネタばかりの漫才ブームの芸人を見ている気分。
所蔵品の方は富士に纏わる絵画が中心。昔から芸術家のインスピレーションを刺激する山ではあるが、同じ富士でも見る目が変わるとこうも表現が変わるんだということには非常な面白味を感じる。
これで河口湖での予定は終了。バスで河口湖駅に戻ると富士急で大月に引き返す。それにしても疲れた。ここにきて岩殿城での疲労が明らかにのしかかってきた。帰りの富士急車内では爆睡状態。そのまま大月に到着すると、ロッカーからトランクを回収。中央線の普通で甲府に向かう。中央線普通は大月駅で運行が完全に分かれているのか、新宿方面からやって来た都会型通勤車両タイプの普通列車と、甲府方面からやって来た地方型セミクロスシート車がこの駅で待ち合わせ接続して折り返し運行されている。当初予定では、時間に余裕があるようなら甲府を通過して新府に行き、新府城を訪問するというプランもあったのだが、もう既に時間がギリギリであるし、何よりそれを実行するための体力が全く残っていないので断念する。これは次回以降の宿題である。
甲府に到着するとまっすぐホテルに向かう。宿泊予定のホテルはドーミーイン甲府。やはりこういう時は大浴場でゆっくりしたい。それにしてもこのホテルは駅から少々距離があるのが難点なのだが、疲れきっている今ではこの距離がとにかく長い。ようやくヘロヘロの状態でホテルに到着すると大浴場に直行する。
汗を流してようやく一心地つくと腹が減ってきた。遠くにまででかける気力もないので、以前にも訪れたことのあるホテルの近くの「江戸屋」に入店する。前回気になっていた「ドジョウ鍋」にやはり夏ということで「ハモの天ぷら」、さらに本来なら甲府名物のアワビと行きたいところだが、これは予算不足なので「トコブシ」を注文、これに夕飯らしく白飯をつける。
ドジョウは頭からボリボリいくのが美味。臭みの類は全くなく、川魚らしい味の強さを感じる。ハモの天ぷらはいかにも夏向き。やはり関西人には夏と言えばハモ。さらにトコブシもコリコリとした食感で美味。以上を堪能して2348円。夕食としてはまずまずのCPである。私は甲府という町にかなり好印象を抱いているが、実は一皮むくとその好印象の8割はこの店のせいであったりする(笑)。
夕食を堪能すると、コンビニで飲み物の類を仕入れてホテルに戻り、この日はマッタリと暮れていったのである。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時に起床の予定・・・だったのだが、バタバタとした朝になってしまった。昨晩に目覚ましのセットを忘れていたようで1時間の寝坊をしてしまったのだ。疲れていたので目覚ましの確認をろくにしていなかったのと(時刻はセットしていたのだが、肝心のアラームスイッチを入れていなかった)、一旦5時過ぎに目覚めたが、まだ早すぎると二度寝したのがまずった原因である。
とりあえず慌てて朝食を摂りにいくと、ドタバタとチェックアウトする。しかし1時間の寝坊だったおかげでまだ何とかなったが、これが2時間寝坊していたら完全にアウトだった。
朝から体はだるいし、体のあちこちに痛みは残っている。やはり岩殿城は甘くはなかったようである。しかし正直なところ一番のダメージは昨日の異様な暑さからきているように思われる。体に熱が残っていてカッカしているのである。昨日だけで伊右衛門を3リットルぐらいは飲んでいるはずなのだが、どうやらそれでも軽い脱水症状のようである。
8時前にチェックアウトすると甲府駅に向かう。今日は中央線で小淵沢まで移動した後、小海線に乗り換えて佐久平方面を目指す予定である。やがて松本行きの三両編成の普通列車が到着するが、夏休みのせいかハイキングスタイルの乗客が多い。最初は甲府盆地内を走っていた列車は、やがて山岳地帯へと突入する。
しかし山岳地帯をしばし走っている間に変事が起きる。列車が小淵沢の手前の長坂駅で停車してしまったのである。どうやら先行している特急が鹿と衝突したとか。中央線は自殺の名所と言うありがたくない異名を持つが、なんと鹿まで飛び込んでしまったか。人身事故でなかったのは救いだが、安全確認のために中央線下りは運行停止となり、しばし長坂駅で待たされる。
停車時間が長引くにつれ、ハイキング姿の乗客たちが右往左往し始める。どうやら彼らは私と同様に小淵沢で小海線に乗り換える予定だったようである。小海線は単線で運行本数が多いとは言えないので、この列車に乗れなかったら次の列車は数時間待ちで予定が崩壊してしまう。私も運転士に確認したところ、現在車掌が連絡中とのこと。
20分以上停止した後、ようやく列車が動き出した。またどうやら小海線の列車も乗り換え待ちで待機している模様。やがて列車が小淵沢に到着すると、大勢の乗客が乗り換えのために跨線橋を走る。待機していたのはキハ110の二両編成。車内はすぐに満員になって立ち客がいる状態。列車はさらに後続の特急を待ってから15分遅れで発車する。
小淵沢を出た列車は、はっきりと傾斜が感じられるぐらいの急坂を登っていく。しかしさすがに名車キハ110はそのパワーに物を言わせて、急坂をものともせずに激しく加速していく。どうも明らかに「回復運転」を行っているようだ。清里までは沿線は森の中の別荘地。コテージなどが見える。各駅ごとに大量の降車があり、特に清里で大量降車。この時点で乗客は当初の半分程度に減少する。
清里駅
野辺山を過ぎた辺りから視界が開け、沿線は高原列車の風情が満載となる。思わず私の口をついて出てきた歌は「高原列車は行く」・・・と言うわけで歌詞を書こうとしたのだが、歌詞を書いたら強欲なる利権団体JASRACが法外な使用料を恐喝してくるという話があるのでやめておく。ハンケチを窓から振ったら乙女が牧場で云々という歌である。それにしても一体私はいつの生まれなんだ?
次に大量の降車があるのは松原湖駅。ここでハイキングスタイルの乗客が一斉に降車する。これで車内はガラガラになる。この辺りが高原列車風情が最も強烈になる地域である。
左 沿線風景 中央 ハイカーが大量降車の松原湖駅 右 小海駅で対向車と行き違い 小海を過ぎるとやがて沿線は山岳を抜けて盆地の風景となる。それと共に沿線に住宅が増え始め、今度は乗車してくる客が多くなってくる。
この時点で列車の遅れは10分。出発時には15分遅れだったものをここまで回復したのだが、これ以上は回復しようがないと言うか、回復する気がないようである。当初の予定では小諸で2分で佐久平へ折り返すつもりだったが、これだとその折り返しは不可能な模様。どうするか思案のしどころだが、小諸−佐久平間はそこそこの本数が合ったはずと考え、小諸までそのまま行くことにする。
佐久平手前から住宅が増えるが、佐久平自体は新幹線駅周辺に強引にできた町という印象が強い。また佐久平駅は在来線の方が高架で新幹線の上を越えるというすごい構造。しかも在来線駅は新幹線乗り換え駅にもかかわらず無人駅のようである。
佐久平付近
佐久平を過ぎるとまたしばらくは山の中のようなところになる。小諸は崖にへばりついているような町なので、その斜面なんだろう。やがてしなの鉄道が右手から合流してくると終点の小諸駅である。
小諸に到着
小諸駅で折り返しの時刻表を見ると、40分ぐらい時間があるようである。そこで駅前をプラプラするべく駅舎から出ると「小諸城大手門」の表示が目に入る。そう言えば以前に「小諸城」を訪問した際には大手門の見学をすっ飛ばしていたのを思い出した。ちょうどついでなので大手門の見学に行くことにする。
小諸城大手門
小諸城大手門は、公園整備された一角に建っている。この門は廃城後に個人所有となっていたらしいが、最近になって市に寄贈されたのだという。その後、大規模な修理を経て公開されているのだとか。東日本で現存の大手門はここ以外では弘前城にしかないとのことである。やはり良い木材を使用していると感じるのと、威風堂々たるのは現存門の凄みというもの。これを見学できたとなれば、あの中央線での事故もむしろ幸運だったと言うべきか。実際、小諸の駅前に出るまではこの大手門のことは完全に失念していた。
左 小諸からまた引き返す 中央 車内風景 右 車両の謎のエンブレム 大手門の見学を終えて小諸駅に戻ってくると、再び佐久平まで引き返す。ここまで来た時と同じキハ110で引き返すのだが、改めて見てみると車両に目眩のしそうなエンブレムがついている。後で調べたところによると、どうやらこれは小海線に導入されたハイブリッド車両(上の小海駅の写真で止まっている車両)のイメージキャラクター「ぶりっとちゃん」とのこと。何かこんなところまで「萌え」に占領されつつあるようである・・・。(もしぶりっとちゃんの壁紙が欲しい方がいればこちらへ)
佐久平駅は在来線のホームが新幹線駅の上を越えている 佐久平駅は新幹線のために無理矢理拡張した感がある駅で、駅前も郊外型ショッピングセンター地域のような趣。どちらかというとあまり私が好むタイプの町ではない(とにかく風情がない)。なおこれからの予定は、ここで駅レンタカーを借りてこの周辺を回るというもの。列車の予定が変わった関係で、レンタカーの予約時間に1時間ほど遅れてしまっているので駅レンタの事務所に急ぐ。
とりあえず今回借りるのはヴィッツ。やはり日頃カローラ2に乗っている関係で、やはりこのクラスの車が一番運転しやすいということからの選択。まずは一番近くの目標である佐久市立近代美術館へと向かう。
佐久市立近代美術館は佐久市郊外の公園ゾーンに建っている。公園の駐車場に車を停めると徒歩で美術館を目指す。
佐久市立近代美術館
私の訪問時には新収蔵品を中心とした所蔵品展を開催中。展示品としては「現代アート」の範囲に属するものが多いが、ジャンルは彫刻から絵画、果ては書に至るまで非常に幅広い。現代アートばかりかと思っていたら、唐突に山本春挙の作品が出てきたり、平山郁夫の常設展示があったりなどと展示にはあまり脈絡がない。
個人的にはあまり強く興味を持つ作品はないが、どちらかと言えば極端に尖った作品よりも、比較的無難な作品が多かったような印象。その分、比較的見やすい作品が多かったように思われる。また作者自身による作品の説明的なものが添えられていたのは理解を助ける手助けになる。もっとも中にはその説明自体が「○△□×」という感じで意味不明なものもあったが(まあこの手の作者の作品は大抵私の目から見るとダメ)。
美術館前にあったこの風呂屋の煙突と公衆トイレに見えるものも実はアートだとか 中央はトイレ(笑)内部
美術館の見学を済ませたところで次はお城に向かうことにする。次の目的地は龍岡城。日本の西洋式城郭と言えば五稜郭が有名であるが、実は日本には函館以外にもう一つ五稜郭があるということはあまり知られていない。それが龍岡城の五稜郭である。これは幕末に松平乗謨が幕府の許可を得て築いたもので、開明派で西洋の事情にも通じていたという彼がフランス式の設計を取り入れて築いたものである。とは言うものの、函館の五稜郭に比べると規模は小さいし、その他にもいろいろと構造上の難点は指摘されており、実戦には耐えなかったのではないかというのが一般の評価である。なお龍岡城自体は実戦を経験することなく明治を迎えたため、幸か不幸かその評価を現実で確認する機会はないまま、現在ではかつての城内には小学校が建っているという。
しかし実際に現地に到達するの一苦労であった。と言うのは回りの道がかなり細い道が多い上に入り組んでおり、しかも一番のメインルートたる道路が工事中で通行不可。周囲を何周もしつつ散々苦労した挙げ句にようやく到着したのだった。ここに来るまでに既に感じていたが、佐久の道はとにかく走りにくい。と言うのは道路整備が中途半端であり、広い道路が突然に集落内の狭い路地に入れ替わってしまうのである。以前に群馬の道を走った時にやはり走りにくいと感じたが、それと似たような傾向の走りにくさである。
苦労した挙げ句にようやく「五稜郭であいの館」に到着。ここに車を停めると徒歩で「龍岡城」の見学に向かう。
龍岡城 城壁内部は小学校 正面から城に相対するとなかなかに立派なものである。また星形の形状も地上からでもある程度は分かる。ただやはり堀は狭いし土塁も低いという印象を受けた。また星形の形状が地上から分かるということは、それだけ城が小さいということを意味する。やはり私の目から見ても世間一般で言われているように、この城は実戦には耐えないのではないかという印象を受けた。何よりも致命的だと感じるのは、すぐ近くにある山の存在。もしここを占領されると、当時の大砲の性能でも城内は狙い撃ちのように思える。五稜郭タイプの城砦はこのような地形ではその真価は発揮できない。
本丸周囲の堀の屈曲が星形城郭であることを感じさせる 左 国史跡の御台所 中央 すぐそこに山がある 右 やや離れた位置にある北入口の枡形 藩主だった松平乗謨は後に大給恒と改名し、日本赤十字社の創設者の一人として歴史に名前を残すのだが、その経歴を聞いて私の脳裏に浮かぶイメージは、理想に燃える若き青年藩主像である。この龍岡城はその若さと理想の一種の空回りの結果のように思えてならないのである。
龍岡城の見学を終えると次の目的地へ。次は奥村土牛記念美術館に立ち寄るつもり。しかしこの過程でもあちこちをグルグルと回る羽目になってしまった。また車のすれ違いが不可能な路地を走行することになったりと、つくづく佐久は運転しにくい地域だ。
奥村土牛記念美術館奥村土牛の素描などを集めて展示した美術館。また建物自体は大正時代から昭和の初めに建築された、黒澤合名会社の集会場として使われていた建物とのことだが、これがなかなか重厚にして趣のある和洋折衷的な建築であり、そちらの方も興味深い。
展示作に関しては素描中心なので、自ら絵を描くものなどなら興味深いのだろうが、自身は全く絵の心得のない私には少々退屈なのが本音。タッチの妙などは残念ながら私には全く分からない。
実のところ、これで予定していた目的地はほぼ網羅してしまった。とは言ってもまだホテルに入るには早すぎるように思われる。そう言えば昼食もまだ摂っていないし、昼食を摂る店を探しつつ佐久平方面に戻ることにする。しかし困ったのは実はこの店探し。と言うのは、この地域の飲食店は私の印象では「7割がそば屋で2割がラーメン屋、それ以外の店は1割」と言ったところで、麺類が欲しくないと思ったら食事をする店が全くないのである。結局は良い店が見つからないまま佐久平の近くまで帰ってきてしまう。佐久平まで戻ってきたところで、この地域にあったという岩尾城のことを思い出したのでそちらに向かって車を走らせることにする。
「岩尾城」は大井氏の城であったが、武田、北条、徳川などの勢力争いの中で翻弄された城であるという。今日では神社になっているが、その遺構は残っているとの話。
田んぼの中に浮かんでいるような岩尾城 佐久平の市街を離れると周辺はだんだんと田舎めいてくる。やがて前方に岩尾城の表示が見えるようになるのだが、困ったのはそれから。アクセスしようにも道路がないのである。標識はあるものの、いくらヴィッツでもとても入れそうにない路地ばかり。かといってそこらに車を停められるような場所はなく、下手をすると駐車違反で捕まりそうである(実際、なぜかパトカーがウロウロしていた)。田んぼのあぜ道のような道に突入したのだが、城に向かうと途中で明らかに私道と思われる道路に入り込んでしまい、Uターンにして引き返せるかがヒヤヒヤ。しかも車一台分の幅しかない道路だから、さすがにそこに駐車するのはマナー違反。結局は田んぼの真ん中の小高い丘である岩尾城の地形は確認したが、城の本体には全く近寄れないままに引き返す羽目に。車でないととてもアクセスできないような地域にあるのに、車では近寄れないという非常に難儀な城である。これは全く難攻不落であった(笑)。
周囲の道はこの道幅で駐車スペースもなし
岩尾城攻略を断念すると、諦めてホテルにはいることにする。今回宿泊するのは佐久平プラザ21。健康ランドと隣接しているタイプのホテルで、以前に瀬田で宿泊したニューびわこホテルにイメージが近い。施設は若干古い感じがして、部屋も何やら最近になって改造したような奇妙な構造の部屋。
とりあえず荷物を置くと、風呂の前に食事に出ることにする。食事の店なのだが、車で出るのも面倒くさいので、結局は歩いていけるところにあるそば屋「草笛」に入る。注文したのは「そば豆腐」「山菜蕎麦」「鯉の甘煮」の三点。
そば豆腐は変わった風味でなかなか面白い。山菜蕎麦が美味。私は今日はソバはあまり欲しくないと思っていたのだが、それが実は「あまり美味しくないソバは食べたくない」という意味だったということがこれを食べた時点で判明した。なおやはり佐久らしくということで鯉を注文したのだが、やはり鯉は味の強いうまい魚だと再認識した。ただここの甘煮に関してはウロコがついていなかったのが不満。鯉の甘煮はウロコがゼラチン質でうまいのに、食べもせずに気持ち悪がる素人が増えたせいで、最近は専門店でさえウロコをはずすとか。全く悲しい次第。なお以前から言っているが、鯉が泥臭いというのはろくなものを食ったことをないのを白状するようなもの。ちゃんとした養殖鯉なら臭みなどはない。
左 そば豆腐 中央 山菜そば 右 鯉の甘煮 夕食を済ませると近くの「たまごロールケーキ工房」で手作りプリンをデザートに頂く。これが玉子が多くて実に美味だった。本当ならおみやげに買って帰りたいところだが、まだ遠征半ばで保存の方法もなしということで諦める。
ホテルに戻ると隣の健康ランドに繰り出して入浴。いかにも一昔前のスーパー銭湯というイメージでいろいろな風呂はある。中にはプール風呂なんていうのもあって、まさかプール並みに塩素のキツイ風呂じゃないだろうなと思ったら、プール並みに深くてぬるい歩行風呂だった(笑)。ただ私のような者がじっくりと入れる風呂はなし。やっぱりこういう健康ランド的な施設とはあまり相性が良くないなと感じつつ戻ってくる。
この日は部屋でマッタリ。原稿の執筆をしようとしたが疲労で考えがまとまらないので断念。することもないし早めに床につくことにする。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時前に自動的に目が覚めると、ホテルで朝食を摂り8時にチェックアウトする。今日はとりあえず車で長野原草津口まで移動して、そこでレンタカーを返却することになっている。今日の最終目的地は草津温泉なので、草津温泉まで車で行ってしまえば良いような気もするが、それをすると乗り捨て手数料が必要になるからという貧乏根性である。
朝の風景
長野原草津口までは通常なら車でざっと1時間半といったところ、車の返却時間が12時半なので大分余裕があるのだが、あえて早朝出発にしたのは偏に渋滞が予測できないから。佐久平から長野原草津口に向かうルートは、中軽井沢を経由する日本ロマンチック街道ルートになるが、軽井沢周辺は渋滞が予測されるポイント。とにかく計算不能なのが渋滞で、万一これに引っかかって返却時間に遅れるようなことがあれば、24時間単位で延滞料がかかるというのが駅レンタの恐ろしいところである。実際、佐久平で車を借りた時にも「軽井沢周辺は渋滞が予測されているので、くれぐれも遅れないように」と警告を受けていたのである。となれば「石橋を叩いても渡らない」と言われている私である。当然のように早朝出発になる次第。
佐久平周辺は車がスムーズに流れていた。しかしやはり軽井沢の表示が見えだした頃から道路の通行量が極端に増加し始める。まだ渋滞というほどでもないが、走行速度がかなり低下している。なるほど、これは時間帯と時期を間違えるとドツボにはまるはずと妙に納得。中軽井沢から北進すると、ウネウネとくねった峠道を越えることになるのだが、ここも車が数珠繋ぎ。運転していてもとにかく運転の下手な車が多い。私の乗っているヴィッツに比べると数倍のパワーはあるはずの車がトロトロと坂を登っている。それに最近のドライバーはエンジンブレーキという言葉を知らないのかと思うほど下り坂はブレーキ踏みっぱなし。こういう道はやはり小回りが利いてエンジンブレーキもかけやすいヴィッツの方が得意ではある。
別荘地をひた走る
私のようなプロレタリアートには無縁なブルジョア別荘地帯を走ることしばし、予定通りに1時間半ほどで長野原草津口に着いてしまう。渋滞を懸念したのだが、順調に来すぎたせいで時間が大分余ってしまった。次の予定は昼頃だから、今車を返却してしまうと数時間ボーっとしているだけになってしまう。これはやはりどこかに足を伸ばすべきだろう。近くの道の駅「浅間酒造観光センター」に車を停めると、ソフトクリームを食べながら一人戦略会議。なおここの道の駅はその名の通り酒造メーカーが運営しているもので、実は大吟醸ソフトなる名物もあるのだが、残念ながらアルコールを含むためにドライバーには販売不可。そこで普通のバニラソフトを食べている次第。
作戦会議の結論は、ここから東進して吾妻渓谷を見学しようというもの。この地域は侵食によって出来た渓谷で、ここから見るだけでも奇岩の山などがある。吾妻渓谷は川原湯温泉を過ぎてさらに東進したところで、一応駐車場もあるので車を停めて見学をする。
吾妻渓谷は美しいが、やはりコンクリートはぶち壊し なかなかに壮観なのだが、その景観をぶち壊しているのがあちこちに見えるコンクリート。この辺りは例の八ッ場ダム関連の工事が進んでおり、道路建設やその他であちこちにコンクリートがむき出しになっている。このような景観を見ると、私などはこの景観を活かしつつ観光開発するにはと考えるのだが、日本には「この河を埋めてダムを造り、こちらの山にはトンネルを掘って」とコンクリートでガチガチに固めてしまうことを考える輩が権力を握っているようだ。こういうのを土建脳というのだろうが、こういう連中に任していると「国滅びてコンクリートのみ有り」という状況になりかねない。確かにこの辺りは道路事情が良くないので、道路整備などはすればよいと思うが、どう考えてもダムを造る意義は見えてこない。今回現地を視察して、改めて八ッ場ダムは土建業者を儲けさせるためだけの無駄なダムだと確信した。そもそもダム建設と地域住民の生活環境改善は別に考えるべき課題で、これをセットでしか出してこないのが卑怯である。後者は進めればよいものだし、前者は全く無駄なのである。
吾妻渓谷を見学した後は近くの川原湯温泉を訪問する。ひなびた良い雰囲気の温泉郷だが、ここも八ッ場ダム建設後には水没することが決まっている。全く土建脳の奴らは日本にとって何が一番重要だと考えているのやら・・・(多分、目の前の金のことしか頭にないのだろうが)。
周囲は絶賛大土木工事中
温泉郷に入った途端に辺りには硫黄の匂いが漂っている。この匂いを嗅ぐと湯に入っていかないという選択はない。共同浴場王湯があるので、駐車場に車を停めると300円を払って入場。内部には内風呂と露天風呂があるらしいが露天風呂に直行する。
露天風呂 脱衣所から扉一枚開けるとそこがすぐに浴槽というイメージ。まさに正真正銘の露天風呂である。ここに高温の湯と水が連続的に注がれている。湯は硫黄の匂いがしてかなり肌に優しいもの。正直なところ非常に気持ちがよい。長湯はしないたちの私だが、ここはゆったりといつまでも浸かっていそうな雰囲気。水没することになった川原湯温泉は移転するらしいが、恐らく泉質は大幅にダウンするのではないか。そうなると何のための工事やら意味不明である。やはりダム建設は百害あって一利なしに思える。なぜ土建脳の輩は、日本の一番良い点ばかりを徹底的に破壊しようとするのだろうか? 彼らの頭の中にある理想の日本の姿とはいかなるものか? すべてがコンクリートでガチガチに固められた未来都市のようなものを夢見ているのだろうか? それともそんなものさえ頭になく、札束しか見えていないのか?
この辺りにはすごい風景がゴロゴロしている 入浴を終えたところで長野原草津口方面に戻る。途中で不動の滝に寄ろうと思ったのだが、どう走り回っても場所が分からずに断念、結局はそのまま「浅間酒造観光センター」に戻ってきて、施設内のレストラン「さくら亭」で昼食を摂ることにする。注文したのは「かつとじセット(1480円)」。
味的にはまずまず。汲み出し豆腐やコンニャクの素朴な味わいがよい。また酒蔵らしく添えられた酒蔵仕込み水が軟水でクセのない飲みやすい水。やはり変に尖ったミネラルウォーターよりも、日本人にはこういう水の方がよい。
長野原草津口駅
昼食を終えると長野原草津口のトヨタレンタリースに車を返却する。ここからはバスで草津温泉に向かうつもりだが、その前に吾妻線の視察。昼頃に終点の大前まで行く列車が来るので、とりあえずこれで終点大前までを視察しようと考えている。吾妻線は終点の一つ手前の万座鹿沢口駅まではそれなりの本数があるのだが、終点の大前となると急に日に3本程度になってしまう。そこでその昼の便を捕まえようということである。
長野原草津口駅はいかにも観光地草津の玄関という雰囲気でバスターミナルが隣接しているが、駅前がダム関連の工事中なので何もない中に駅が孤立している雰囲気で寂し気である。ここでしばし列車を待つ。途中で特急草津なども到着、多くの観光客がバスへと乗り換えていく。さらに待つことしばし、ようやく普通列車が到着する。電化路線であるので車両自体は見慣れた面白みに欠けるもの。
特急草津と普通列車 長野原草津口を出た列車はドンドンと深い山の中に入っていく。そして万座鹿沢口駅に到着、ここでほとんどの乗客が降車・・・するかと思ったのだが、意外なことに車内には多数の乗客が残っている。そしてそのまま列車は終点の大前に向かう。大前まではいくつかのトンネルをくぐるが、そのたびに風景が変わる。そしてついに天候まで激変。終点の大前はバケツをひっくり返したような土砂降りの中だった。
万座鹿沢口駅の裏手はこの断崖
30人ほどの乗客がここで一斉に降車・・・するのだが、駅から出ていく者はほとんどいない。そして土砂降りの駅舎で突然に始まる大撮影大会。なんとここまで乗車してきた乗客のほとんどすべて、老若男女がみんな鉄道マニアだったのである。最近は鉄道マニアの裾野が広がっていると言うが、それを痛感する瞬間である。
左 大前駅に到着 中央 バケツをひっくり返したような雨 右 駅の周囲には何もない 大雨の中の撮影大会が一通り終わると、全乗客が車内に避難する。折り返しの発車は約10分後。それにしてもとんでもない豪雨である。もし線路が冠水して列車が動けなくなったら、こんなところでどうしようもないなということが一瞬頭をよぎる。
心配になるぐらいの雨
10分後、無事に列車は大前を出発する。もう沿線は完全に豪雨の中である。到着した長野原草津口駅も雷雨の中。とりあえずここからバスで草津温泉に移動のため、しばしバスの発車時間を待つ。
長野原草津口駅にはリゾート草津が到着していた
30分ほど待ってようやくバスが到着。車内からは大勢の観光客が下車してくる。それが全員下車して、バスが乗車口の方に転回してくると乗車である。バスは大型の車両だが、あっという間に満員になる。
バスターミナル
バスはそこから豪雨の中を山の中に向かって進んでいく。途中では前が見えないぐらいの豪雨にも出くわす。山を越えて盆地のようなところを下っていくと草津温泉バスターミナルに到着である。
草津温泉バスターミナル
雨の中をとりあえずホテルに移動する。今回の宿泊ホテルはアゼリア。温泉付きビジネスホテルという触れ込み。とにかく今回困ったのは宿泊先で、草津温泉は旧態依然というか、人気にあぐらというか、とにかく「お一人様お断り」の宿が多すぎるのである。たまにお一人様可の旅館があっても、今度は予算が全く合わない。結局はさんざん苦労した挙げ句にここを見つけた次第。単身世帯が増えているというご時世、今時は一人で旅行というのはごく普通のことである。本当に温泉旅館とJR西日本の「お一人様お断り」だけはどうかして欲しいところ。
アゼリアは草津温泉のややはずれにあり、コンビニと隣接(というか経営が同じである)している。建物や施設などは結構古い印象。部屋はシンプルな8畳和室。正直なところ「これは失敗したかな・・・」という考えが頭をよぎるが、とりあえず24時間入浴可能という浴場に向かう。
浴場はシンプルな岩風呂。ここに酸性の温泉が掛け流しでそそぎ込まれている。驚いたのはその泉質。草津温泉は酸性が強いことで知られるが、なめるとかなり酸っぱい湯がなみなみと注がれており、湯の鮮度も高い。慌てて先ほど頭によぎった「失敗かな」という考えを吹き飛ばす。
風呂に入ってさっぱりした頃には雨もほとんどやんだので外出することにする。まずはやはり草津温泉のメインストリートである湯畑を目指すことにする。
湯畑はかなり下ったすり鉢の底のようなところにある。近づいただけで辺りには強烈な硫黄の匂いが漂っており、いかにも「温泉地に来たな」というのが実感できるスポットとなっている。観光客の姿もかなりありなかなか盛況であるが、時節柄か外国人の姿は決して多くはない。
草津温泉にまで来た以上はホテルの風呂に入っているだけでは面白くない。ここはやはり外湯に入っていきたいところ。この近くにある町営の日帰り入浴施設である大滝の湯に立ち寄ることにする。
大滝の湯は典型的な日帰り入浴施設。食堂なども併設していて、いわゆるスーパー銭湯仕様である。早い話が風情にやや欠ける。ここには合わせ湯という浴槽があり、これは5種類の温度の浴槽を低温のものから順番に高温のものに温度を上げつつ入浴するというもの。しかし元々ぬる湯好きの私は3つ目の浴槽で熱すぎて脱落。無理はやめて露天風呂の方でまったりすることにする。ここの湯はホテルのものよりも硫黄分が強くてまったりした湯。ただ入浴客が多すぎるので湯の力や鮮度は落ちている。またここでも中国人観光客らしき連中が浴槽内でタオルを使っている。世界からみれば日本式入浴法の方がむしろ異端なんだから、日本もこれから観光立国として売り込む場合、併せて温泉の正しい入り方もPRする必要があろう。もっともこれに関しては今時は日本人でさえ正しいマナーを守っていない輩がいるが。
入浴を済ませると夕食を摂る店を探しつつプラプラとホテル方面へ。途中で土産物に温泉饅頭を購入するが、夕食については適当な店が見つからないままにホテルに到着してしまう。こうなったのはそもそもこの地域の飲食店はそば屋がほとんどであるせい。先にも言ったが信州にしても草津にしても、飲食店の7割がそば屋、残りのうち2割がラーメン屋、その他が1割という感じがする。だからそばを食べたくないと思ったら、飲食店の選択肢が極端に狭まるのである。
結局はホテルに一旦戻って、お風呂セットを置いてから再度繰り出すことにする。そう言えばホテルの近くでトンカツ屋を見かけたのを思い出して、もう面倒になったのでそのトンカツ屋で夕食を摂ることにする。その店は「とん香」。
注文したのはロースカツ定食。ここでは定食には突き出しが出るらしく、辛味噌を添えたキュウリが出てくる。実は一番驚いたのはこれ。と言うのは、私はキュウリが大嫌いなのに、これは普通に食べられたからである。なおトンカツの方もまずまず。正直なところ全く何も期待していなかったので完全に虚を突かれた。そう言えば普通はトンカツ屋と言えば豚肉に関してどれだけ良い肉かを長々と蘊蓄たれているのが普通だが、ここは肉よりも野菜の方が「契約農家から直接仕入れて」云々と説明が多かった。野菜に力を入れているトンカツ屋? 何とも奇妙な感じである。
夕食を済ませてホテルに帰ってくると、再び酸性の湯でさっぱりと汗を流し、途中で買い求めた草津名物という甘納豆が入っている最中をいだいて、テレビを見ながらくつろぐのであった。そう言えば私は以前から耳が悪く、何度も突発難聴の診断を受けているのだが、また最近も調子が良くないのか、主演の大塚寧々のセリフが聞き取りにくく困った。どうも特定の周波数が聞き取りにくくなっているようで、特に言葉の聞き取りが難しい。言葉が言葉としてでなくて、音の固まりとして入ってくる印象。もしかして耳ではなくて頭の方に問題があるのだろうか?
ドラマが終わった頃に疲れが出てきたので、そのまま寝入ってしまう。
☆☆☆☆☆
翌朝はかなりゆっくりとした出発。今日は11時頃の特急草津2号で帰るつもりなので、10時頃にバスターミナルからバスに乗ればよいので余裕。私の遠征には珍しいぐらいのゆったりした朝である。隣のコンビニで朝食のサンドイッチを仕入れると、朝から風呂。テレビなどをボンヤリ見つつ、9時過ぎまでマッタリと過ごす。やっぱりたまにはこういう余裕が重要だよなと思う瞬間。
9時過ぎにチェックアウト(と言っても、鍵を置いて出ていくだけだが)すると、バスターミナルへ。草津2号に合わせて急行と普通の2本のバスが出ているのだが、これはやはり積み残しが出たらいけないためか。ただこの日は急行の乗客も十数人程度で、普通の方は2人だけだった模様。バスターミナルを出ると町内がいきなりの大渋滞。車でやって来た温泉客が一斉に帰途についたようである。バスの到着時刻は特急草津の発車よりも30分近く早いんだが、これを見越してのダイヤ編成か。
町内の渋滞を抜けると、駅に向かうルート自体はがら空き。車は直接東京方面に向かう別のルートを通るのでこれは当然か。バスは例によって「草津良いとこ、一度はおいで」と流しながら駅に向かう(さすがの強欲なJASRACもこの歌で権利料は主張できないだろう、多分)。駅で待つことしばし、何やら見慣れたカラーリングの列車が到着。思わず普通列車かと思ったが、これが特急草津。
普通列車?と思ったら、特急草津だった
この時点では指定席はまだガラガラの状況。長野原草津口を出た特急草津は、昨日に車で通った吾妻渓谷をひた走る。しばし沿線は河川による浸食地形が続く。この辺りは上越線の水上以南と酷似している。
風景を楽しんでいたところで車内販売がやってくる。そろそろ昼時なので名物の達磨弁当を購入。シンプルな弁当で量も少なめだが、素朴な内容がなかなかにうまい。
名物だるま弁当 群馬原町からは突然町の中。それまでの渓谷から急に平地が広がっている印象である。この辺りからはいわゆる河岸段丘地形であり、先日に上越線に乗車した時の沼津以南の地形と共通、また川幅も大分広がってくる。そしていよいよ平地に出たと思えば、先日にも通った渋川。これで吾妻線視察完了である。
渋川付近
特急草津はここから満員に近い状態で走行する。ここからの沿線は住宅地ばかり。見たことのあるような風景と感じたが、それは当たり前で、私がここをSLで通り抜けてからまだ1ヶ月経っていない。やけに群馬づいてしまったものだ。おかげで、最初見た時はかなり微妙なキャラだなと感じた群馬デェスティネーションキャンペーンのキャラクターの「ぐんま」がかわいく見えてきた(笑)。
新前橋で前に特急水上を連結すると、後は大宮まで面白味のない行程。ついつい疲れが出てきてウトウトしている時に大宮に到着する。ここからは八高線に乗り換えて川越まで移動する。
川越駅でトランクをロッカーに放り込むと、市内循環のレトロバスの停留所に向かう。川越では観光客のために小型のボンネットバスを運行している。しかしバス停に不法駐車車両があってバスがバス停に近寄れない状態。とかく北関東は運転のマナーが劣悪であると感じていたが、ここ川越でもそれは同じようである。
レトロバス
レトロバスに乗り込むとこれで川越城本丸御殿を目指す。「川越城」は江戸幕府にとっては北の守りとして重視された城で、代々老中職担当者が城主になっている。平城であった川越城は、今となっては本丸御殿以外には城としての痕跡がほとんど残っていないが、入り組んで狭い街路などにはかつての城の縄張りの名残がある。またかつての城下町の風情も残っており、100名城にも選定されている。なお現存の本丸御殿は長らく大規模修理が行われていたのだが、この春にようやくそれが完成したという。また耐震補強の甲斐あって、今回の東日本地震でも被害はなかったとか。
レトロバスはかなり狭い道路をウネウネと走る。このコース設定を見ると、こんな小型の車両を使っている理由がよく分かった。ただ車両が小さいせいで、すぐに車内が満員になってしまう。
川越城本丸御殿 しばらく走行した後に本丸御殿に到着する。一回りした印象は、幕府に重要視されていた城という割には御殿は小さいなというもの。単純に規模だけで言うと、二条城(現存)、高山陣屋(現存)、佐賀城(復元)、熊本城(復元)などの方が大分大きい。西南方向には天守代わりの富士見櫓があったというが、今では土塁しか残っていないという。
本丸御殿内部
本丸御殿の見学を終えると、そこから数分北にある博物館、美術館に向かう。それにしても暑い。体にまとわりつくような熱気で、まさに「命の危険を感じる暑さ」。実際、町の中を救急車が走り回っている。恐らく熱中症で倒れる人が続出しているものと思われる。私もとりあえず水分を補給するべくミネラル麦茶を片手に歩く。
博物館がある場所はかつての二の丸跡だという。しかし市街に埋もれてしまっていてその名残は全く存在しない。
博物館と美術館
博物館の展示はよくある「地域の歴史」。縄文時代から始まって昭和に至るというどこの地方博物館でも同じような内容である。博物館の見学を終えると隣の美術館へ。ここでは川越の美術家たちということで金沢健一展を開催中。金沢健一氏のことはよく知らないが、彫刻家とのことで鉄板を使用した立体作品が中心。まあ意味のあるようなないような作品ばかりである。展示室がまるでスクラップ置き場に見える。なお当日は本人が来場していて、鉄板上に砂を撒いてから鉄板をこすって振動させることで、その波長に応じた紋様を描かせるというパフォーマンスを実施。確かに面白くはあるのだが、これがアートと言われるとウーン。それなら万華鏡もアートか? なおこのパフォーマンス、鉄板の固有振動数に応じた強烈な正弦波が出るので、これが私のような耳の悪い者には頭に響いてキツイ。
中ノ門堀跡と大手門跡 美術館の見学を終えるとしばし西方に向かって歩く。途中で中ノ門堀の跡があるが、これは住宅の裏にわずかに溝のようなものが残っているだけ。また市役所の西南隅に大手門跡の碑と太田道灌の像が建っているが、辺りは単なる大通りの交差点で往時を偲ばせるものは何も残っていない。
蔵通り
ここからさらに西に進んだところが、川越の観光メインストリートの蔵通り。かつての城下町の名残をとどめる町並みが残っている。観光客もかなり多い。途中でアイス最中を食べたりしながら町並みをプラプラ散策。やがて名所の時の鐘まで到着する。なかなか風情があり、この辺りが観光の中心地。
時の鐘 それにしても暑い。ここまで来たところで我慢がほぼ限界になり、近くの菓子店福呂屋に駆け込んで宇治金時ドーピング。氷で体内から身体を冷やす。それにしても本当に命を落としかねない暑さである。内陸の埼玉は暑いとは聞いていたが、それにしても常軌を逸している。本来ならこんな時は屋外をウロウロするべきではないのだろう。人心地つくと、そろそろ見るべきものも見たし帰路につくことにする。
シンプルすぎる宇治金時と思っていたら、中に隠し球があった 結局のところ、川越城自体は現存の本丸御殿以外には取り立てて見所がないというのが正直な印象。ただこれだけだとなぜ100名城なのかというのには少々疑問がある。やはり城下町と合わせての合わせ技なんだろうか。いろいろと言われている100名城選定だが、確かに私もいろいろと異議を唱えたくなる部分はある。個人的には100名城下位の10個ぐらいと、私の続100名城の上位10個ぐらいは入れ替えた方が良いような気がする。私個人としては、多賀城や吉野ヶ里、チャシ跡群などは100名城というよりは、100名遺跡のような気がするし、米子城が圏外というのは解せない。
とりあえず川越の見学を終えたところでバスで駅まで戻ってくる。しかしその間に辺りがみるみる真っ暗になっていき雲行きが怪しくなる。そして八高線に乗車して大宮に向かう頃には激しい雷雨に襲われるのだった。もし落雷などで列車が止まったら、どうやって東京駅まで行ったらいいだろうかなんてことが頭をよぎるが、幸いにして何事もなく無事に東京駅にたどり着き、そのまま満員の新幹線で帰途についたのであった。なおこの雷雨で西武鉄道が落雷の直撃を食らい、5時間にわたって列車が停止したということを知ったのは家に帰りついてからであった。
今回の遠征で95個目の100名城である川越城を訪問、これでいよいよ残りは沖縄の3つと、関東の八王子城(前回の新潟遠征の帰りに立ち寄る予定だったが、台風の影響でお流れになった)、東海の山中城(この春に箱根遠征をする予定だったのだが、諸般の事情で中止になった)の5箇所であり、これは来年度中にはケリを付けたいと考えている。1つの大目標であった100名城制覇を成し遂げた後はどうするかだが、これについてはまだ計画はない。ただまだまだ日本には訪問するべき土地は多々あると感じており、恐らく私の遠征は「日本再発見」色を強めることになるだろうと思われる。
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