展覧会遠征 新潟・群馬編
厳しい環境下での仕事を強いられている毎日だが、そろそろ気分転換も兼ねて大型遠征へと繰り出したくなってきた。ちょうど夏休み直前のこの時期には三連休がある。そこで早めの夏休みとして、これを絡めての日数を確保しての長距離遠征を計画した。
目的地は新潟。そもそも今年度は春に新潟遠征を計画していたが、そこにあの震災がやってきて、遠征計画はあえなくお流れとなってしまった。そこでこの新潟遠征計画をベースにプランを再検討することにした。当初の新潟遠征計画は週末の三連休を利用した二泊三日のプランであった。しかし夏休みプランということでこれを拡大、往路に富山、復路に以前からの懸案事項であった北関東エリアを加えた五泊六日の大遠征プランにまで拡大することになった。
ルートは往路は北陸経由で新潟方面まで移動、新潟からは上越線経由で高崎へ、高崎を拠点にしてレンタカーで周囲を攻略した後に東海道新幹線で帰ってくるというものである。切符に関しては往路と復路が異なることから、帰りの山科で区切った長大な連続切符にして、これをレール&レンタカー切符にして運賃2割引きとすることにした。
出発は木曜日の早朝。木、金及び翌週の火曜日は夏休みということで有給休暇を取得。当然ながらこのための根回しと段取りは事前に行っている。例によって早朝の新幹線に飛び乗ると新大阪へ。ここでサンダーバードに乗り換えである。なお新大阪までならわざわざ新幹線を使わなくても新快速でも十分なのであるが、あえて新幹線を使用しているのは、早朝の時間の節約というだけでなく、サンダーバードの指定席特急券を乗り継ぎ割引で半額にするためでもある。なおレール&レンタカーで特急券を併せて購入すると1割引になるが、この場合には乗り継ぎ割引が適用されなくなるので、新幹線及びサンダーバードの特急券は乗車券とは独立して購入している。またこれら特急券はJR西日本のe5489でも購入可能だが、このシステムを使用した場合、新幹線とサンダーバードの乗り換えがより料金の高くなる京都でしか指定されないという「意図的な欠陥」がある。
ホームで待つことしばし、ようやくサンダーバードが入線してくる。既にホームにはかなりの待ち客がいるが、到着した車内にも既に大阪からの乗客がかなり乗り込んでおり、これは相当な混雑である。そして次の京都駅ではさらに大量の乗客が乗り込んできて、この時点で車内はほぼ満員となる。確かにこの列車が人気列車と言われるわけである。平日なので車内の乗客はほとんどがビジネス客の模様。見るからに観光客といった風体の私はいささか申し訳ないぐらい。
車内でサンドイッチを購入して(弁当は積んでないとか)朝食を済ませると、私の大好きな湖西線の風景がかっ飛んで行くのをボーッと眺めながら、後はこの原稿を打ちつつ時間を過ごす。隣の男性が大柄のためにシートがやや狭いが、体格についてはお互い様なので人のことを言えたものではない。
早朝出発の疲れでウトウトしているうちに敦賀。そこからは田んぼの中を北上、福井から先では降車客が増えるが車内が突然にガラガラになるのは金沢を過ぎてから。途中でトンネルを抜けて平野に出ると富山である。
駅に降り立った途端にとんでもない熱気が顔に吹き付ける。どこかにエアコン室外機の吹き出し口でもあるのかと思ったが、実はそれは単なる外気。北陸は冬は豪雪、夏は猛暑などと言われるが、確かに命の危険を感じるような猛暑。慌てて自販機でお茶を補充する。
今回富山にやってきた目的には富山地方鉄道の視察というものがある。富山地方鉄道は、富山を中心に市内路面軌道と立山や宇奈月温泉とを結ぶ郊外線を有する北陸の私鉄の雄(略称は地鉄)である。以前に富山県立近代美術館を訪問した際に路面電車に少しだけ乗車したことがあるが、ほとんど未視察に近い路線である。まずは市内線の視察から行うことにする。
JR富山駅は北陸新幹線建設に合わせての駅舎改築中で、位置がかなり変わってしまっている。とりあえずトランクをロッカーに入れると路面電車の駅を目指すが、場所がかなり遠くなっているせいで予定の列車に乗り遅れる。やむなくしばし駅で待った後に次の列車で大学前を目指す。
市内電車は元々は南富山駅から富山駅を経由して大学前までの1ルートだけだったのだが、最近になって丸の内と荒町を結ぶ環状線を建造し、市街中心部にアクセスできるようになったという。近年になって都市交通としての路面電車が再注目されているが、自動車中心の短絡的判断で路面電車を廃止してしまう自治体もある中で、路面電車を都市交通の中心に位置づける富山市の試みは注目に値する。
左 丸の内で環状線と分岐 右 固着したポイントを動かすための工具(下の赤い棒) 丸の内に到着した列車はここで環状線と分岐する。環状線は単線であり、富山駅方面からの線路だけが接続している構造になっている。しかしどうも運転士がやけに手間取っている。どうやらポイントのリモート切り替えがうまく行っていないようである。やがて運転士は赤い鉄棒を取り出すと、ポイントを手動で切り替え。どうやらこういうことが時々あるのか、駅にそのための工具が据え付けてある。
終点の大学前
丸の内で右折すると終点までは直線ルート。橋の手前で単線になると終点の大学前はもうすぐである。終点に到着するが、特に何があると言うわけでもないので、私は直ちに折り返す。
新型の低床式車両 丸の内で下車すると、今度は環状線の列車に乗り換える。到着したのは、新式の二両編成のバリアフリータイプ。こういう車両を見ると、過去の遺物のように言われていた路面電車が、一転して未来交通システムに見えるから不思議である。列車は富山城の前を通って市街中心部に突入。ところで富山城は以前に工事をしていたようだが、それが終わったのか全体的にピカピカになっていた。しかしピカピカすぎて、日光を浴びてテラテラ光る屋根瓦が非常に安っぽく、何やらイマイチ感を漂わせてしまっているのが難しいところ。
どことなく安っぽい富山城 列車はデパートのなどのある繁華街を通る。このルートが出来たことで路面電車の使い勝手がさらに良くなりそうである。実際に乗り降りも多い。やがて荒町に到着すると、ここで下車して南富山行きの列車に乗り換える。
南富山駅では郊外線と接続しています 繁華街から徐々に郊外に移っていき、列車の踏切が見えるとその先が南富山駅。路面電車はここで郊外線と接続している。一旦下車した私は、自販機でお茶を補充してから電車に戻る。このまま富山駅まで乗車してこれで市内路線視察完了である。感想としてはやはり利用はかなりあり、路面電車を中心とした公共交通というのは成功しているというものである。ただ気になったのは、以前より「富山は運転マナーが悪いと言うか、運転が極めて下手」という噂を聞いていたが、路面の軌道内に入ってきては通行妨害する車が結構目立ったこと。一番ひどかった例なんか、枯葉マークの車が軌道内に斜めに止まって通行妨害。そのままびくとも動く気配がないので、もしかしてドライバーが死んでるんじゃないかと思ったぐらい。同じようなことは高岡でも感じたので、富山のドライバー云々ということは個人的には信憑性を感じる。
出典 富山地方鉄道HP 富山に戻ってきたところで次の行動。今度は郊外線の視察というか、立山を見学してやろうという考え。当初の予定では立山行きの電車が出る前にどこかで昼食を摂るつもりだったが、最初の乗り遅れで店に入っている余裕がなくなってしまったので、昼食は結局駅そばになってしまう。
駅内にはいろいろなタイプの列車が止まっています 左 マニアはこういうのもたまらないのでは 中央 車内風景 右 単線で対向車とすれ違い 平日のせいか、立山行きの普通列車には乗客はそう多くはない。富山地方鉄道の路線構成は、宇奈月までの路線が本線、これに立山線と不二越・上滝線がつながっているという構成。3線全部が合流している富山−稲荷町間のみが複線で、そこから先は単線である。本線と立山線が分岐する寺田駅はV字型のホームになっている。ここを過ぎるとそれまではまだ富山市街地延長だった沿線風景が、一気に田んぼの風景になる。
寺田駅
次の大集落は五百国。ここで乗客の大半が下車する。電車はそこから先をさらに進み、不二越・上滝線との乗換駅である岩峅寺を過ぎると、沿線は山の風情が強くなり、立山線という名称のイメージに近いものになる。沿線にまだいくらかでも住宅があるのは、終着駅手前の本宮駅までで、ここから終着の立山の間はまさに民家もない山岳路線で距離も長い。
本宮以降の風景はまさに山岳列車 左 道路橋 中央 立山駅がようやく見える 右 立山駅 ようやく立山に到着。ここからはケーブルで美女平に登るのが立山黒部アルペンルートのコースであるが、もとより私は登山をしに来たわけではない。と言うか、こっちに進んでしまうと富山に帰ってこれない。私はここからバスで称名滝を目指すつもりである。バスは電車の到着時間に合わせて駅前で待っている。乗客は私以外は夫婦らしい二人連れだけ。
バスに乗り換え
バスは20分ほどをかけてさらに山の中に入っていく。やがて目の前に見上げるような断崖が迫ってくる。これは悪城の壁と呼ばれる安山岩の絶壁で、侵食によって作られた地形だとのこと。見上げるばかりの断崖だが、いわゆる立山黒部アルペンルートはこの断崖の上を通っているのだと言う。あまりに日本離れした雄大すぎる光景にしばし呆然とする私。
もう日本の風景とは思えない
終着のバス停で下車すると、そこからは徒歩で称名滝をめざすことになる。この行程が徒歩30分とのことだが、険しい道ではないが結構長いので体力不足の私にはかなり堪える。ヘロヘロになりながら進んでいくと、そのうちに急激に辺りが涼しくなり始める。
写真での表現力の限界を感じずにはいられない・・・ そしてその滝は突然に目の前に現れた。まさに唖然とする光景である。標高差600メートルほどの崖の上から4段に分かれた滝が落ちてきているのである。まさに頭の上から水が降ってくる印象で、滝つぼからは猛烈な水しぶきが辺りに立ち込めている。これが滝が近づくにつれて急激に涼しくなった理由である。始めて見るとんでもない光景に唖然としながらも夢中でシャッターを切る。しかしこういう光景を目の当たりにすると、私の写真による表現力に限界を感じずにはいられない。どうやってもこの迫力と空気感を伝えることは私の腕では不可能である。
下はずぶ濡れ、次の瞬間!!
しばし呆然と滝を見上げていたが、そろそろ引き返すことにする。ただ気をつけないと足元が濡れているので危険である・・・と思った途端に足が滑って見事にしりもちをついてしまう。幸いにして怪我はしていないが、この時に尾てい骨をしたたか打ち付けてしまい、これが後になって堪えてくる。
再び立山駅にバスで戻ってくる。どうやらこの時にケーブルも降りてきたようで、大量の乗客がケーブルの駅から降りてくる。バスもケーブルも電車の時間に合わせて運行されているようである。
岩峅寺で乗り換え
富山行きの電車で戻るが、岩峅寺で不二越・上滝線に乗り換えることにする。不二越・上滝線は岩峅寺で行き止まりになっていて、ここと富山駅の間をピストン運行されているようである。沿線はやはり田んぼの中だが、立山線沿線よりも住宅が多いような気がする。そのうちに列車は南富山駅に到着、ここからは終点まで富山の市街地を走行することになる。
富山駅まで戻ってくるとこれで本日の予定は終了である。トランクを回収するとホテルに向かう。宿泊ホテルは私の富山での定宿、ドーミーイン富山。今回は格安プランで予約しており、実はこのプランがあったのが富山に立ち寄る気になった大きな理由でもある。駅前から送迎バスが出ているので、それを捕まえるとホテルに向かう。
ホテルにチェックイン手続きをして荷物を置くとすぐに外出。まずは夕食である。とにかく今日は朝はサンドイッチ、昼はそばとおにぎりという状態なので腹が減っている。さて何を食べるかだが、富山といえばやはり寿司か。以前にも訪れたことがある「寿司栄総曲輪本店」を訪ねる。
この寿司屋の特徴は禁酒・禁煙であること。このことを嫌う者もいるようだが、とにかくタバコの煙でいぶされると寿司の味なんて楽しめないし、酔っ払いなんかも迷惑至極。まさに私にとっては最適の店である。そして何より飲み物の注文をしつこく迫られることがないのが一番良い。お茶で寿司を堪能することに専念できる。
真っ赤なカウンターのせいでデジカメのホワイトバランスが崩れてしまったようだ・・・ とりあえず10貫ほどがセットになった「富山の味にぎり(3150円)」を注文する。1品1品が非常によくできていておいしい。さすがに回る寿司とは格が違う。10貫をあっという間に堪能すると、これにカレイとシマアジを追加、締めに玉子をいただいて終わりにする。気が付けば20分ほどで怒涛のごとく食べていた。店にしてみたら奇妙な客だろう。
ホテルに戻ると入浴。このホテルの風呂は褐色のヌルッとした湯で本格的。これが私がここを定宿にする大きな理由。今の私は称名滝でしたたか打ちつけた尾てい骨の痛みがひどくなってきており、腰を深く曲げることができない状態。風呂でゆったりと癒すことにする。
風呂で身体を癒した後は部屋でまったり。インターネットを調べながら原稿書きなどで過ごす。その内に眠気がこみ上げてきたので早めに床につく。
☆☆☆☆☆
翌朝は予定よりも早く目が覚める。やはり旅先ではどうも眠りが浅いようだ。とりあえず朝食を摂ると、朝風呂を浴びてからチェックアウトする。ホテルのバスで送迎してもらって富山駅まで移動するが、どうも昨日したたか打ち付けた尾てい骨が具合が悪い。椅子に座ったり立ったりとか、体をひねる動作が痛くて苦しい。とりあえず駅の売店でサロンパスを買い求めて貼っておくが、果たしてどれだけ効くことやら。
今日はまずは長岡まで移動する予定。直江津までは特急はくたかで移動。混雑を警戒して事前に指定席を取っていたのだがそれが正解。車内はかなりの混雑である。以前に富山−糸魚川間、及び直江津−糸魚川間を共に普通列車で通ったことがあるが、その時にもかなり距離があるということを感じたが、特急でも富山−直江津間は1時間以上かかる。とにかく長い上にトンネルなども多い区間である。気が付けばウトウトとしてしまう。
直江津に到着すると、ここからは快速くびきのに乗り換えて信越本線を進むことになる。はくたかを下車した多くの乗客がくびきのに殺到して席取り合戦である。くびきのは6両編成のうちの5両が自由席という自由席主体の列車だが、既に先に乗り込んでいる客もいることから、すぐに席はほとんど埋まってしまう。
列車はそのまましばし海沿いを走る。北には海が、南には山が見えるというパターン。途中でほくほく線と分かれるとくびきのはそのまま直進して柏崎に到着する。ところで直江津までの沿線の随所で新幹線の高架の工事が見えたが、北陸新幹線が開通したら現在ほくほく線を経由して越後湯沢まで走行している特急はくたかは廃止が必至であろう。そうなるとその通行料で運営されているに等しいほくほく線は果たしてどうなることやら。北陸地域の交通の不便さを考えると新幹線を望むのは分からないでもないが、どうも無駄な二重投資になっている気がする。なお北陸新幹線が開通しても、関西から北陸へのアクセスは相変わらず不便なままである。
柏崎で越後線と分岐した信越本線は南下すると山岳地帯に入っていく。そのまましばし山岳地帯を走行し、次に平地に降りてくると長岡はまもなくである。その前に上越線との分岐駅である宮内に到着。宮内駅の周辺は特に何かがあるわけではないが、駅自体は車庫などがあってかなり大きい。この隣の駅が長岡である。この地形を見ていると、長岡は越後平野の東部を守る要衝であったことがよく分かる。
長岡に到着するとまずはトランクをロッカーに入れてから町に繰り出す。まず最初の目的地は駒田十吉記念美術館。駅で地図を見て大体の方向に目星をつけるとおもむろに歩き出す。しかしとにかく暑い。町の中は灼熱地獄であり、まさに「命の危険を感じる暑さ」。にもかかわらず各地で節電と言うことで空調を落としているから体が冷えない。今の電力不足は明らかに電気会社が原発利権死守のためのアピールとして仕組んだものだが、熱中症を人質に取っているようで卑劣である。そう言えば例の九電のやらせメール事件でも、原発賛成の「例文」として「熱中症が心配なので原発が必要」というものがあったようである。これを見ていると何をか言わん。
長岡駅は原発利権死守のために絶賛嫌がらせ中
灼熱地獄の中、途中で道に迷うが近所の人に道を聞きつつようやく目的地に到着する。幸いにしてそう遠回りはしていなかったようだ。
駒形十吉記念美術館地元の財界人で美術品のコレクターであった駒形十吉氏のコレクションを展示した美術館である。彼は独自の審美眼に従って近代日本画を収集したとのことであり、私の訪問時には展示の中心は梅原龍三郎に須田国太郎。確かに私の好みとはかなりずれるが、明らかに一貫した好みで蒐集したのだろうということが頷けるラインナップである。
なお彼は加山又蔵や平山郁夫などとは実際に交流があったらしく、両氏の作品やさらに速水御舟、村上華岳の作品などもコレクションに含まれるらしい。
面白かったのは彼自身も絵を描いたらしく、その作品が展示されていたが、それがもろに梅原龍三郎調、速水御舟調などと言ったように元ネタが分かること。やはりそう言う意味で趣味が極めて一貫しており、コレクターの自己主張が垣間見えるような美術館である。
ところで長岡に来てから、やはりここは新潟だなと感じることがある。それはやっぱり美人が多いことである。不思議なことに富山ではそういうことは感じなかった。
美術館の見学を終えると灼熱地獄を駅前まで戻ってくる。こうなると伊右衛門がライフラインだが、これがいくら買い込んでもすぐにぬるくなる。ようやく駅まで戻ってくると駅前の飲食店でランチ。ワンコインで食べられるチキンカツランチを頂いたが、満足度はともかくCP的にはまずまず。
長岡の次は今日の宿泊地である弥彦まで移動である。ただまだ列車の時間に余裕があるので、西口の方に出てみる。どうやらこちらの方が長岡のメインの繁華街のようである。そして駅前にはひっそりと「長岡城本丸跡」の碑が立っている。
遺構は皆無で石碑だけ
「長岡城」はかつての越後長岡藩の城で、江戸時代には譜代大名の牧野氏が治めていた。幕末の戊辰戦争で長岡藩は奥羽越列藩同盟の一員として、河井継之助を総大将として徹底抗戦したことで知られている(もっとも河井継之助自身は新政府に恭順するつもりだったのに、新政府側の代表が偉そうにするだけの馬鹿だったために戦いになってしまったとか)。この時に河井継之助は自らガトリング砲を撃って徹底抗戦し、新政府軍をてこずらせている。結果として旧幕府側の中でもっとも頑強な抵抗をしたのが長岡藩だったために、その城は後に徹底的に破壊されており(いわゆる明治政府による嫌がらせである)、現在では遺構は何も残っておらず、先ほどの石碑がひっそりとあるだけである。その辺りには悲しさを感じるところである。
長岡を出た列車はしばし新幹線を遠目に見ながら田んぼの中を走る 長岡を後にすると信越本線で東三条まで移動する。この沿線はとにかくひたすら田んぼで、三条駅の手前辺りから突然に三条市の市街地が広がり始める。東三条で弥彦線に乗り換えるが、弥彦線は信越本線が到着した1番ホームの隣にある行き止まりの0番ホームから出ている単線電化路線。沿線はしばし三条市の市街地が続くが、それが途切れたところで新幹線乗換駅の燕三条に到着する。しかし燕三条は新幹線乗換駅でありながら在来線は無人駅扱い。また周辺も何もなかった郊外にいきなり無理やりの都市開発をしたような印象で今ひとつ不自然な町。燕三条を過ぎて次の燕駅までいくと今度は燕市の古い市街が広がり始めるので、燕三条はちょうど一番中途半端な位置にあることになる。どうやらこの立地は燕市と三条市の間での強烈な綱引き合戦の結果とか。何やらまたも「関係者全員が不幸になる結論」だったような気が。
東三条で弥彦線に乗り換え 燕の次が西燕で、その次が吉田。この吉田は越後線との乗換駅で、ここでほとんどの乗客が降車して車内はガラガラになってしまう。ここで数分の停車の後に列車はようやく終点の弥彦を目指す。
吉田を通り過ぎると沿線はすぐに田んぼの中 正面に弥彦山が見えてくると終点の弥彦駅に到着 到着した弥彦は典型的な古い温泉地というイメージの場所。この辺りは弥彦村だそうだが、何となくひなびたのどかなところである。そこをトランクを引きながらガラガラとホテルに向かう。宿泊予定のホテルは「四季の宿みのや」。未だに「お二人様から」というまるでJR西日本のような時代遅れの規制が多い温泉旅館の中で、ここだけがお一人様プランがあったのが選択理由。実際に現地に到着してみると、予想していたよりも大きな立派なホテル。いつもビジネスホテルばかり利用している私には眩しいぐらいである。チェックインの時間までまだ余裕があるので、とりあえずトランクを預けると近くの弥彦神社を見学に行く。
弥彦駅前から温泉街に移動 弥彦神社は古くは万葉集にまで記載があると言われている古社である。祀っているのは天香山命とのこと。有名な神社のようであるが、私の訪問時は観光客もそう多くはなく、深い森が鬱蒼とする中でのたたずまいはなかかなに趣がある。
本殿への参拝を済ませると、この神社の裏手にある弥彦山を登る事にする。この弥彦山にはロープウェイがあり、その山麓駅までの無料送迎バスがこの神社の境内から出ているとか。バス乗り場に移動したところ、ちょうどバスが乗客を乗せているところに遭遇。早速私も便乗する事にする。山麓駅までは数分で着くが、その間の道は深い森の中を登っていく狭い道。確かにこれを歩くとなると結構しんどそうである。
山麓駅に到着すると往復のロープウェイのチケットを購入する。30人乗り程度のゴンドラは名称が「うみひこ」と「やまひこ」。何かどこかで聞いた事があると思えば、私が幼少期によく連れて行かれた須磨浦公園のロープウェイと同じ名前である。
ロープウェイで山上を目指す ロープウェイは5分ほどで山頂に到着する。高度が上がるにつれて眼前に広がるのは一面の田んぼ。さすがに米所新潟である。田んぼの緑が美しい。
山上駅で降りるとそこは展望台など 山上は遊園地に展望レストランなど。ただ平日のせいか観光客はそう多くなく、遊園地も休業している状態。とりあえず展望レストランや土産物屋あるところまで登ると、冷たい飲み物でクールダウン。一息ついて回りを見渡すと、隣に何やらタワーが見えている。これは回転昇降式展望台で瀬戸大橋のところなんかにあるタイプ。ここからだとクライミングカーなる傾斜式エレベーターで下の駐車場まで下りて、そこから乗車する事になるらしい。クライミングカーの往復と展望台のチケットがセットで1000円との事なので、ここまで来たついでに野次馬する。
クライミングカーで一端下に降りる 観光客が少ないせいか、展望台の客は私一人。何やら申し訳ない貸し切り状態で展望台が動き始める。高度が上がるにつれ、南には一面の田んぼが、北には日本海が見えてくる。なお天候が良ければ佐渡島が見えるとの事だが、今日は天気は良いにも関わらず遠くが煙っており(黄砂か?)、残念ながら佐渡島は見えない。
展望台からのすごい風景 かなり壮大な田んぼで、私のような田んぼの風景好きにはたまらない光景。ただこちらに来て感じたのは、なぜか「田んぼの風景が好き」と言えば、相手が怪訝そうな表情を浮かべる事だ。新潟の人間にはあまりに普通の光景過ぎて分からないのだろうか。挙げ句は「もしかして、田舎だと馬鹿にしてるのか?」と勘ぐらてしまうようである。そう言えば日本の観光開発に携わっている外国人が「現地の人間が実は一番その土地の良さが分かっていなかったりする」と言っていたのを見た事があるが、確かにそうなんだろう。だから広島の鞆の浦を埋め立てて道路を造るなんて馬鹿な事を考えつくのである。
非常に美しい風景であるが、ただ一つ感じたのは、ここからは夜景は駄目だろうという事である。恐らく日没後には真っ暗で何も見えなくなると思われる。なるほど、弥彦山ロープウェイがナイター営業がないわけだ。
展望台を降りて、再びクライミングカーで登ってくる。それにしても暑い。売店の「コシヒカリアイス」というメニューに心惹かれたので購入。嫌味のない甘さで美味。時々感じる粒々がコシヒカリなんだろうか。
これで大体見るべきものも見たので下山する事にする。ロープウェイで下山すると、バスで神社に戻って参道筋をフラフラ。すると「和カフェ社彩庵」という看板が眼に飛びこんできたのでフラフラと引き寄せられるように入店。「白玉クリームパフェ(700円)」を注文する。
なかなかに洒落たパフェだが、見た目だけでなくて味も旨い。思わずガツガツと一気食い。やはりこういう暑い時にはパフェかかき氷である。
ドーピングも終わったところでちょうど時間になったのでホテルにチェックインする。通された部屋はビジネスホテルを思わせるようなシングルルーム。無線LANも使えるし申し分ない部屋。ただ冷蔵庫が自動販売機になっているのだけが、どことなく古式ゆかしい温泉旅館である。
まずは登山でかいた汗を流しに大浴場へ。内風呂は結構蒸していて暑苦しいので、ゆったりとした露天風呂の方へ。山の見える開放感のある露天風呂が最高。アルカリ性単純泉の温泉は特別な浴感はないが、逆に言えば入りやすいやさしい湯ということで、こういう時にくつろぐには最適である。
入浴をすませるとしばし部屋でテレビを見ながらまったり。そのうちに腹が減ってきたのでやや早めだが夕食のために外に繰り出す。夕食を摂る店は諸々の調査の結果「吉田屋」に行くことにする。注文したのは「わっぱ飯膳」。
わっぱ飯は鮭といくらの入ったセイロ蒸し飯のようなもの。非常にシンプルなのだが、鮭といくらが合わさるとなかなかにうまい。わっぱ飯を堪能し終わって店内のメニューを見ると「岩ガキ」があるようだ。そこでこれを追加する。
プリプリのいかにもうまそうな牡蠣が現れる。この夏に牡蠣をいただく贅沢がたまらない。以上で支払いは2520円。極めて妥当。
ホテルへの帰りに饅頭屋の「三笠屋」に立ち寄って味噌饅頭、玉子饅頭、田舎饅頭の3つをおやつに買い込む。この饅頭は後で夜食に頂いたが、これもなかなかに美味であった。良い風呂があり、うまい食い物があり、私が予想していたよりも弥彦は良いところである(笑)。
部屋に戻ってボーっとテレビを見ていると「海がきこえる」が始まる。そう言えばこの作品はまだ見たことがなかったなと思ってそのまま見る。結果、ほろ苦い・・・というか40代のオッサンが見るべき作品ではないと痛感。それにそもそも高校時代にほろ苦すぎる強烈な後悔を残している私には、洒落にならないというか・・・。それでなくても「あの時にああしていたら、現在は今と全く異なっているはず」との思いがトラウマのようになっているのだから・・・。若さとは振り向かないこと、愛とはためらわないことと言うが、振り向いてためらってばかりの私には若さも愛もないということ。とにかくこのまま行くと鬱に入ってしまいそうだったので気分転換に再び風呂に出かけることにする。宿泊客がみんな夕食に行っているのか貸しきり状態の露天風呂で、ボーっと空を眺めていると少しは気分が晴れてくる。
この日も早めに眠気か襲来してきたので、いつもよりも早めに床につく。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時前に起床すると、まずは朝風呂。朝日の下での露天風呂が清々しい。たまにはこういうのもいいなと、やや贅沢な気分。入浴後は荷物をまとめ、7時には朝食会場に向かう。朝食はお約束のバイキング。品数、内容はまずまず。昨晩から空腹なのでとりあえず腹を満たす。
8時前にチェックアウトする。今日は休日であるし、この手のホテルではゆったりしながらギリギリ近い時間まで粘るのが大抵の宿泊客の行動なのだろう。ビジネスホテルなどではごく普通の私のチェックアウト時間も、ホテル側はいささか意表を突かれたのか、会計などがややドタバタした印象。元よりこうなる可能性も考慮して、私は十分に早い時間にホテルを出立することにしている。
朝の静まり返った温泉街をトランクをゴロゴロと引きながら駅に向かう。なかなかにくつろげた。やはりビジネスホテルばかりでなく、たまにはこういうのも良いなと感じる。ただそれにしても未だに大抵の温泉旅館が「お二人様」からなのは何とかならないのか。日本では男女共にシングルが増えているというのに、いつまでもこんなことをしているから時代に乗り遅れるのである。
おみやげは弥彦玉兎
弥彦駅に到着すると窓口で「えちごツーデーパス」を購入する。これで2日間新潟周辺エリアの普通列車が乗り放題である。弥彦から列車に乗り込むと、吉田で柏崎行きの越後線普通列車に乗り換える。今日はまずは越後線の視察を行う予定。吉田では新潟方面からの折り返し列車と、柏崎方面からの折り返し列車、それに東三条行きの弥彦線列車が相次いで発車する模様。バタバタと乗り換え客が移動する。
越後線列車に乗り換え
山の中を走行する信越本線と違い、越後線は田んぼの中をひたすら走行するというイメージ。途中の大きな集落は寺泊で、新潟方面から乗り込んできた乗客のかなりの部分がここで降車。そこから先はまた田んぼ。やがて原発がらみで名前を聞いたことがある刈羽。発電所は見えないが、巨大な送電線が原発の存在を推測させる。もしここの原発が事故を起こせば、日本最大の米所が壊滅することになる。既に安全神話が崩れさった今、やはり原発は早急に廃止していく必要があるだろう。そもそも最初から安全神話が嘘八百であることは、賢明なる者達が遙かに昔から指摘していたのだが、原発利権が圧倒的に強いこの国ではその声は抹殺され、荒唐無稽な安全神話を振りかざして原発推進を唱える者が「現実派」と呼ばれ、現実に基づいて危険な原発は廃止すべきと主張した者達が「夢想家」と後ろ指を指されるという馬鹿げたことが今までなされていたのである。これを本来の正しいあり方に戻す必要がある。今までは原発利権を守るために意図的に自然エネルギー開発の予算が抑えられていたが、これからは原子力開発に費やした膨大な無駄な予算を自然エネルギー開発に投じることである。そうすればすぐに実用化可能となる。だからこそ未だに原発利権死守に必死の政治家や電力会社は、あらゆる手段を使ってそれに抵抗しているのである。資金力と権力を持つ彼らは、御用学者やマスコミを動員してのPR、社員や関連会社を動員してのネット工作などあらゆる卑怯な手を駆使しているが、そんなものに騙されてはいけない。
刈羽では巨大な送電線が見える
刈羽を抜けるとまもなく柏崎に到着する。列車は行き止まりの0番ホームに停車。30分後に折り返すことになる。その間に私は駅前のコンビニで飲み物とタオル(持参していたものをホテルに忘れてきてしまった)を購入する。
柏崎駅に到着
疲労でウトウトしつつ再び吉田まで戻ってくると、ここで新潟方面行きに乗り換え。越後線南半分と違って、こちら側は既に乗客がかなり多い。そこに東三条方面からの乗客をさらに収容すると出発する。
確かに沿線を見ていると利用が多いのは頷ける。最初こそ吉田の集落を抜けると田んぼの中だが、やがて沿線には住宅が増えてくる。内野を過ぎると区間運行の列車も多いらしく、越後線で初めて体験する列車の交換待ちがしばしば発生するようになる。またそれと同時に列車の中もかなり混雑し始め、不快感が増してくる。
ただそれ以上にキツかったのが臭い。実は途中から乗車してきたご老人が、尋常でない加齢臭をさせていて息が出来ないような状態。体臭には体質的なものがあるし、私も既に若くない身なのであまりどうこうは言いたくないが、さすがにここまで体臭がキツいと内臓に何か病気をお持ちなのではないかと心配になる。
列車が新潟に近づくにつれて対向車との交換が増えて待ち時間が長くなる。ようやくかなりの時間を要して新潟駅に到着する。
新潟駅に降り立つとまずはホテルに荷物を置きに行く。今回の宿泊ホテルは駅前のグリーンホテル。本来ならドーミーイン新潟を使いたいところだったのだが、最近になってドーミーインはビジネスホテルからリゾートホテルに業態変更でもするつもりなのか、週末になると料金が急に高くなるなどといったよろしくない傾向が現れており、今回はパスした次第。ドーミーインがこの方針を続けるのなら、残念ながら私の定宿からはずれる時が来るかもしれない。このような事情と、明日はかなり早朝出発になることから、それなら駅に近い寝るだけのホテルで良いだろうという判断である。
とりあえずホテルに荷物を預けると、再び新潟駅に舞い戻って食事にする。面倒なので駅内の適当な店でカツ丼を食べる。さすが新潟というか、カツはともかく米はうまいなと思っていたら表に「新潟コシヒカリ使用」との表示が。
ここからは村上に移動する予定。目的は村上城である。臨時の特急いなほの自由席に乗車すると村上を目指す。なおえちごツーデーパスは青春18切符と違って特急券購入で特急に乗れるのが助かる。
羽越本線は、以前の東北遠征の際に米坂線との分岐駅である坂町までは乗車済み。この間は新発田などの都市が田んぼの中に浮いている新潟らしい風景だ。坂町を過ぎると山がかなり接近してくるが、まだ海沿いには平地が広がる。坂町から村上はすぐだ。
村上駅で下車すると村上城を目指す事にする。当初の予定では、えちごツーデーパスでレンタサイクルを借りることが出来るのでそれを利用するつもりだった。しかし先日の尾てい骨のダメージがまだかなり残っており、自転車をこいで市内を移動するのはとても無理そうである。そこでやむなく駅前でタクシーを拾う。村上城の登城口までは結構距離があり、今のコンディションで歩いていくのは難しい。結局はタクシー利用が正解だったように思われる。
「村上城」は村上市街を見下ろす臥牛山(結構多い名前だ)の頂上に築かれている。村上城は別名舞鶴城(これも結構多い名前)と言い、村上藩主の居城だった城である。元々は戦国期にこの地を押さえていた本庄氏によって築かれた本庄城が元になっているという。上杉家の重臣となった本庄氏だが、本庄繁長の時に上杉謙信に対して反乱を起こしており、その際には本庄城に籠城して抵抗したものの、最終的には嫡子を人質に出して講和し、再び上杉配下に返り咲いている。上杉氏の会津移封に伴って本庄氏がこの地を離れた後は、城主は村上氏、堀氏と替わったが、堀氏の時代に三重天守を持つ近世城郭としての村上城が完成している。その後、江戸時代を通じて城主は転々として、その間に天守は落雷で焼失し、幕末の内藤氏の時に戊辰戦争に巻き込まれ、親幕府派と新政府派で藩論が二分される中、親幕府派が城に火を放って撤退、この際に建造物のほとんどが失われている。
左 ここが門の跡 中央 麓の館跡 右 いよいよ登城路を登る 山の麓は館跡だが今では何も残っていない。ここから山上の本丸に向かう七曲がりと呼ばれる登城道がある。道は整備されているので登るのに困難はないが、体力の方に困難があって途中で息が上がる。七曲がりの名の通り、実際に七回前後の折れ曲がりを抜けると目の前に石垣が見てくる。ここで到着するのが四ツ門跡。ここで向かって左側が三の丸、右側が二の丸及び本丸に分かれている。
三の丸の隅には櫓跡の出っ張りがあるが建物の類は一切残っていない。案内図によると竪堀があるようだが、鬱蒼としているせいで定かではない。
左・中央 四つ門跡 右 四つ門跡から三の丸方向 左 三の丸 中央 玉櫓跡 右 籾櫓跡のところには石垣もある 本丸方面に向かっても良いが、四ツ門からまっすぐ裏側に進むルートが中世遺跡散策コースと記されているので、とりあえずこちらに向かうことにする。
左 降りていくと坂中門跡 中央 少し戻って降りていく 右 井戸の跡がある こちら側は主に戦国期の本庄城のころの遺構が多いという。少し下ると井戸の跡があり、ここには今も水が溜まっている。山城に不可欠の水の確保には問題なさそうだ。
帯曲輪を抜けて登っていくと埋門跡に出る さらに進むと坂中門跡を過ぎて帯曲輪方面に抜ける。帯曲輪は結構大きなもので、戦国期の本庄城はこちらが表側だったのだろうということを感じさせる。
左 本丸石垣が見える 中央 冠木門跡を抜けると 右 ようやく本丸へたどり着く ここからヒーヒー言いながら斜面を登ると、埋門跡を抜けて本丸の領域に入ることになる。目の前に立派な石垣が現れてテンションも上がる。冠木門跡を抜けて本丸に上がるとそこが城の主要部。ここからは村上市街を一望できる。しばし風景を見ながら一息入れる。
本丸から村上市街を一望
左 本丸東部は神社になっている 中央 一段高い櫓台のようなものが 右 櫓台上から西方を望む 右 本丸西部にあるこれが天守台 中央 天守台から西方風景 右 舞鶴城址の碑が立っている 本丸上には天守台とお約束の神社が建っている。ここから降りていくと二の丸なのだが、この辺りは石垣が一番立派な部分。特に出櫓跡周辺の石垣などは高さもある。この辺りは近世城郭の肝なんだろう。なお現在は石垣修復作業中のようで、工事中になっていて立入が制限されている。
左 本丸石垣 中央・右 出櫓の石垣は工事中 二の丸入口の御鐘門跡の立派な石垣を抜けるてさらに下ると最初の四ツ門跡に出る。中世城郭と近世城郭が入り交じった非常に立派な城跡でかなり堪能した。この城郭が100名城に入っていないというのもまた疑問である。とりあえず私の「続100名城」には余裕で当選である。
御鐘門跡を内側(左)と外側(右)から 村上城の見学を終えて山を下る。そろそろ暑さのピーク時間を過ぎたためか(私が登ったのはよりによって最も暑い時間帯)下から登ってくる人が増えている。地元の者は史跡云々ではなく、手近な山として散歩がてらの体力づくりに登っている人が多いらしい。
下まで降りるととりあえず自販機で飲み物を買って一息。それからタクシーを呼んで駅まで戻り、そこから特急いなほで新潟に戻る。こちらは往路の臨時列車と違って正規のいなほのためかシートが良い。
新潟駅に戻ってくるとホテルに入ってくつろぐ。なおこのホテル、無線LANアダプタを貸し出すとのことなんだが、これがどうやっても私のノートでは機能しなかった。おかげでホテルで全くすることがなくなってしまった。
夕食を摂りに町に出るが、目を付けていた店は予約でいっぱい、遠くまで繰り出す元気もないし、結局は近場の中華料理屋で済ませる。ただし残念ながら、中華にはうるさい私を納得させるレベルではなかった。
ホテルに戻って入浴を済ませると、ネットは出来ないし、テレビはろくな番組がないしですることがないので、結局はPCに落としてきた「ガッテン」を見てすごすことに。2本ほど見たところで眠くなってきたので早めに就寝する。
☆☆☆☆☆
翌日は5時半に起床すると、昨日に朝食代わりに買い込んでいたパンを食べると支度を済ませてさっさとチェックアウトする。今日は高崎方面まで大移動の予定。新潟駅を7時過ぎの出発である。
乗車したのは上越線を水上まで走行する普通列車。普段は越後中里までの運行らしいが、今日は臨時で水上まで運行されるとか。今日はSLみなかみが運行される日であり、その関係がありそうである。
新潟を出た4両編成の列車はまずは信越本線経由で新津に向かう。ここは以前に新潟遠征で通った事があるが、新潟の市街を外れるや沿線に田んぼが広がり、新潟が田んぼの中に浮かぶ大都会であることを実感させる風景である。
新津を過ぎるとさらに信越本線経由で長岡を目指す。以前に新津で羽越本線に乗り換えた時は、新津は全く何もないところと感じていたのだが、こうして信越本線経由で進むと新津の市街地が信越本線沿いに広がっているのが分かる。ここから先は田んぼは多いのであるが、沿線に常に住宅が見えているような状態で、この辺りが沿線に延々と田んぼだけが続いていた先日の越後線南部とは雰囲気が違う。
加茂駅
比較的大きな集落である加茂を過ぎると、先日にも通った東三条。ここで弥彦線方面からの乗り換え客がいて、この頃には車内はかなり満員。そのまま長岡に到着すると大半の客が降車する。
宮内駅で信越本線と分かれる
小千谷駅
長岡でしばし停車の後、次の宮内で信越本線と別れを告げると次の越後滝谷を過ぎた頃から沿線は山岳列車の趣になり始め、乗車していても感じられるぐらいの登り勾配にさしかかる。次の小千谷は山間の大きな町というイメージのところで、ここでリュックを背負った登山スタイルの乗客が多数降車する。
越後川口駅の飯山線車両
川を見ながら走行した次の越後川口は飯山線との接続駅。とは言うものの、駅周辺には特に何もない。ここでも飯山線乗り換えのための乗客が降車していき、車内の人口はさらに減少する。飯山線も未調査路線であるが、それは今後の話である。
小出駅は川の向こうに町が見える 山間を列車は進み、やがて小出に到着する。ここからは只見線が分岐しているが、この只見線が日に2、3本しかないというJR西の三江線並のウルトラA級ローカル線。当然のように未視察路線であるが、鉄道マニアではない私としてはあまりに難度の高すぎる路線のような気がする。この時も、次の列車までは数時間ある模様で乗り換え客はいないが、駅で乗降する客はいる。駅周辺も意外に人家が多く、川の向こうには町のようなものも見え、私の想像していたよりは大きな集落のようだ。
浦佐駅とその駅前 浦佐で新幹線と合流するが、浦佐自体は何のために新幹線を停めるのかよく分からない駅。例によって駅前が無理矢理に開発されている模様だが、どことなく相生を連想するような無理さである。
上越線沿線は山の中というイメージを持っていたが、実際にこうして北から降りてくると、山間に平地が散在している地形で、しなの鉄道沿線の雰囲気に近いものがある。こういう地形では、上田の真田氏のように平地ごとに小領主が乱立することになりがちである。
どうやら坂戸城はこの背後の山の上のよう・・・ 次の五日町を過ぎて、ほくほく線が合流してくると六日町である。ここは上越線沿線で今日見た中で一番大きい町。ここで残りの乗客の大半が下車。なおここには坂戸城という山城があるので、後日のためにとどんな山かを遠望・・・。しかし町の背後にそびえるのは山城攻略と言うよりは本格的登山になりそうな山。「まさかあの山!?」思わず絶句。戸惑いつつも確認したところやはり間違いなさそう。思わず「無理!絶対無理!」という言葉が口から出る。どう考えても現在の私の体力ではとても攻略は不可能。今から体重を10キロ以上減らした上で体力をつけ、鳥取城程度は鼻歌を歌いながら登れるぐらいにならないと歯が立ちそうにない。
左 越後湯沢遠景 中央 越後湯沢駅でほくほく線車両 右 越後湯沢駅は田んぼとリゾートホテルが共存する町 いささかショックを受けつつ六日町を過ぎると、ここから先はひたすらリゾート地帯になる。あちこちの斜面にスキー場があり、駅もそれに合わせて作られている印象。その最大のものが越後湯沢。ただ正直なところ、美しい渓谷や山の風景を無機質で醜悪なスキー場がぶち壊しにしているような印象も受ける。私はことさらに環境保護を声高に叫ぶ者ではないが、こういう風景を見ると「スキー場とゴルフ場は最大の自然破壊」と言う者の気持ちも分かってくる気がする。越後湯沢周辺にしても、駅の近くに存在するのどかな棚田と巨大リゾートホテルのミスマッチがすべてを象徴している。地元にすれば、リゾート開発をしないと産業がないんだろうことは分かるんだが・・・。やはりこういう地域が林業や農業で食べていける日本にできないものだろうか。
越後中里はゲレンデの真ん前 旧型客車を休憩室に使っている模様
左 この土樽からは長いトンネル 中央 湯桧曽手前のループ入口では下の線が見える 右 湯桧曽駅 越後中里まではひたすらスキー場。越後中里駅自体もスキー場の真ん前。おかげでシーズンオフの今は閑散としている。ここを過ぎるとトンネルで三国峠越えになる。ループトンネルで高度を稼ぐのだが、時々地上に出た時の凄まじい風景で、三国峠の険しさは嫌というほど分かる。これが地形的に越後と関東を完全に分断しており、昔はここを越えるのは並大抵ではなかっただろう。土合、土樽はトンネルの合間に息継ぎのために顔を出したような駅で、実際土合駅は下り線は深いトンネル中にあるらしい。ようやく湯桧曽駅で地上に顔を出すと次は温泉で有名な水上。ここがこの列車の終点。水上は谷間にへばりついているような町で、秘境の雰囲気が漂っている。ここで途中下車しても良いのだが、今はここで高崎行きの列車に乗り換えて先に進む。
見慣れたカラーの電車に乗り換え
水上から次の上牧までは利根川上流の渓谷沿いを進む事になる。上牧を抜けるとようやく平地が現れてさらに進むと沼田。沼田は河岸段丘を背後に控えた町である。ここで下車する事にする。
沼田駅と駅前風景 トランクをロッカーに入れて身軽になるとまずは駅前のそば屋で腹ごしらえ。沼田で下車した目的は2つある。1つはここを30分後に通過するはずのSLみなかみを待ちかまえる事。2つ目は真田氏ゆかりの城である沼田城を見学する事である。
入店したのは「松乃屋」。そば10割そばで出てくるのに少々時間がかかるのだが、そこは店も心得たもので、客にまず何時の列車に乗るつもりなのかを聞いてくるので、私はSLが通過する時間を告げる。どうやらギリギリ間に合いそう。
私が注文したのは「10割蕎麦の大盛り(650円)」。太めで平たいいかにも手打ちな蕎麦。味は悪くないのだが、私の好みから言えばもう少しそばに腰が欲しいところ。ただCPは非常に良い。天ぷら付きのそばなんかもあるようなので、もう少し時間があればそれらをじっくりと楽しみたかったか。
電光石火でそばを腹にたたき込むと駅に戻る。ホームを見ると既に端の方にカメラを保った一団が集まっている。私はその連中とは距離を取って少し手前でカメラを構える。やがて前方からSLがやってくる。とにかく煙がすごいしやかましい。こうして近くに来るとSLとはあらゆる意味で存在感のある列車だと感じる。数分の停車時間の間は乗客も含めての大撮影大会。やがて興奮冷めやらぬ中をSLは水上に向かって走り去っていく。
SLを見送ったところで次は「沼田城」である。当初予定では徒歩のつもりだったが、現地で見た河岸段丘の高さに徒歩での攻略を瞬時に断念して、タクシーで現地に向かう事にする。まあ真田ゆかりの城だけにそんなに甘い城のはずはなかったと言う事。
沼田はそもそも周辺諸勢力の争奪の地であり、ここに最初に城を築いたのはその名の通りの沼田氏である。その後、上杉、北条、武田などの争奪戦の中で真田昌幸がこの城を攻略、以降真田氏がこの地を支配する事になる。その後、沼田城奪還を目指す沼田景義が昌幸の謀略で殺害されたり(これで沼田氏は滅亡)、武田氏衰退に伴って徳川や北条が進出してきたりなどがあるが、一貫して真田氏の支配が続く事になる。ただ江戸時代になった1681年に沼田藩は改易になり、その時に沼田城は破却されたとのこと。その後に天領を経て本多氏が沼田藩を再興するが、沼田城の本格復興は最後まで成されなかったとか(最早その必要はなかったということだろう)。
西櫓台の石垣・石段 左 本丸跡にある鐘楼 中央 平八石 右 本丸からの眺め 左 天守跡 中央 本丸堀跡 右 二の丸跡は野球場に 今日では沼田城跡は公園として整備されており、かつての城域にはテニスコートなども出来ていて、この時も何かの大会で多くの人が集まっていた。建物は残存しないものの、かつての本丸跡などは残っており、河岸段丘の地形を活かした堅固な城郭の様を偲ぶ事が出来る。北、西、南の三方の守りはこの河岸段丘の地形を利用し、東には堀を構えていたようである。なお現在の沼田市の市街の主要部はかつての沼田城の城域に乗っかっているような構造になっている。
旧土岐家住宅内に展示されていた沼田城と天守閣の模型 何も残っていないかと思っていたが、実際に現地に来ると石垣の痕跡などが残っており、それなりに見所のある城であってわざわざやって来た価値があったと感じるものであった。100名城に匹敵するレベルのものではないが、私の「続100名城」には十分に当選である。
沼田城の見学を終えるとタクシーを呼び出して駅に戻ると、切符を購入して水上に引き返す。やはり城郭見学の後は温泉に浸かりたいというのが人情というものである。
水上駅と駅前風景 水上駅はかなり賑わっている。典型的な昔からの温泉地という雰囲気。日帰り入浴を受け付けているホテルは事前に調査済み。水上温泉ひがきホテルの送迎バスを見つけると、これでホテルまで移動する。
たどり着いたのは典型的な巨大温泉ホテル。松山のホテル奥道後を思い出す。日帰り入浴の手続きをすると、とりあえずフロントに貴重品を預けて浴場へ。大浴槽が2つある内風呂と川が見える露天風呂がある。私は露天風呂で入浴。ただこの露天風呂、あまり川近くで仁王立ちすると、川でラフティングしている人から丸見えのように思えるのだが。
泉質は含芒硝石膏泉とのこと。あまり特別な浴感はないが、肌には良く馴染むお湯。なお掛け流しとのことだが、温度調整のために加水をしてあるし、循環濾過及び塩素消毒も併用している模様。厳密にはこれを掛け流しと言っていいんだろうか?
水上は川沿いの断崖の町
入浴を終えると散歩を兼ねて駅前までプラプラと歩く。実は水上からはSLで高崎に移動するつもりで事前に指定券は入手してある。沿線にはSL目当てのマニアがズラリと三脚を並べていて物々しい雰囲気。こういう光景を見ると、やはり私はいわゆる鉄道マニアとは違うなという気がする。
SLの連結作業 駅前で温泉饅頭をみやげに買い求めると、駅の中で発車時間を待つ。すると目の前をいきなりSLが通過する。どうやら客車の先頭に連結する作業に入った模様。すると老若男女が入り乱れて撮影のためにホームを走る。あまりの熱気ぶりに思わず気圧される私。正直なところ私は「SLが走るんだったらついでに乗っておくか」程度の軽い気持ちだったのでそこまでの思い入れはない。とにかく驚いたのは高齢者ほど目を輝かせて必死で走っていること。カメラを片手に全力疾走するジジイという光景は初めて見た。人は自らが若い頃の思い出が蘇ると、無意識にその年代の頃のような行動をとるのだろうか? そう言えば、私もお台場ガンダムの時はすっかりガキになってたっけ。
謎のキャラクターのお見送り
C61は乗客を満載した客車を率いてゆっくりと出発する。この出足の鈍さはやっぱりSLだよなと妙なところに感心する私。沿道ではカメラの砲列が待ちかまえている中を列車はゆっくりと進む。
温泉饅頭を頂く(土産物屋でオマケにくれた)
ただ以前にも大井川鉄道に乗車した時に思ったのだが、SLも乗車してしまうと単に遅くて臭くてうるさい列車だったりするのである。確かに汽笛の音や窓から見える煙にはノスタルジーは感じるが、それ以上のものはあまりなかったりする。やはり私の少年時代の原風景には既にSLは存在しなかったからだろうか。ちなみに乗客の中には、SLが原風景にないどころかそもそも初めて見る存在という年代の子供もいて、彼らがなんとトンネルの中で窓を開けたために車内がとんでもないことに(親父さんが慌てて飛んでいっていたが)。やはりSLは乗るよりも外から手を振っている方が正解か?
沼田以南の上越線は川岸の風景からだんだんと平野に出てくる。吾妻線との分岐駅である渋川以南は完全に市街で沿線風景に面白味はなくなる。そう言う意味では上越線の本領は水上以北のようである。そのうちに終点の高崎に到着、乗客が別れを惜しむ中、客車から切り離されたSLは単行で去っていってしまう。
高崎での宿泊先はドーミーイン高崎。ホテルにチェックインするとまずは最上階の大浴場に直行。とにかく汗をかいた上に疲労がかなり溜まっているので風呂でこれらを洗い流す。こういう時にやはり大浴場のあるホテルの方が良い。
入浴を済ませてようやく人心地つくと、買い出しと夕食のために外出。以前から感じているのだが、どうも高崎にはピンとくる飲食店がない。結局最後には面倒になって、ホテル向かいの中華料理屋「蓮煌」で炒飯と黒酢の酢豚に小籠包を注文する。
この店には以前にも入店しているが、とにかく可もなく不可もなくというところ。酢豚が薄切り肉で作ってあったのは驚いたが、これはこれでもありか。
大分身体に疲労も溜まってきているのを感じたので、この日はそのまま原稿の執筆もせずに床につく。
☆☆☆☆☆
翌朝も5時過ぎに自動的に目が覚める。高崎では二泊する予定なので朝食を摂ると身軽な状態で駅前に出向く。今日はレンタカーを駆使して群馬エリアの城跡を散策する予定。ある意味では今日が本遠征のメインイベントである。
駅レンタの事務所におもむいて予約していたヴィッツを借りると、まずは箕輪城跡を目指すことにする。
「箕輪城」は高崎市箕郷町にある平山城で、戦国期にこの地を支配した長野氏が築いた城郭である。そもそもこの地は関東管領上杉憲政の支配するところであったのだが、彼が越後に亡命した後、重臣の長野氏がここを守って残留したらしい。その後、長野氏は越後上杉氏の後ろ盾を得て長野業正の時代に全盛期を迎えるが、業正の死後に武田の侵攻を受けて箕輪城は陥落、城主の業盛は自刃したという。箕輪城自体は武田氏や北条氏の支配を経て、江戸時代に井伊直政に与えられたが、高崎城への移封によって廃城となったという。現在は城跡が国の史跡に指定され、100名城にも選定されている。
高崎市内というものの、そもそも箕郷町は独立自治体だったものが平成の大合併で高崎市に統合されたものであり、高崎中心部からはやや距離があり、しばし車で走行する必要がある。それにしても慣れない車であることを割り引いて考えても、どうも群馬の道は運転がしにくい。道幅が微妙に狭い上にとにかくドライバーの運転マナーが悪い。運転マナーが悪いというか、下手なドライバーが多い印象。それにも関わらずなぜかスピードだけはやたらに出す。以前に宇都宮で運転マナーが悪いということを感じた、どうやらこれは北関東共通の傾向のようだ。ただ運転マナーに関しては北陸もひどいし、名古屋や関西は言うまでもなく、広島、福岡などもかなり壮絶である。そうやって考えていくと、日本に運転マナーが良いところがあるのかどうかが疑問になってくるが(笑)。
搦手口の先を進むと二の丸に出る しばし運転の後にようやく箕輪城跡の表示のある地域に入ってくる。案内標識に従って車を進めていると、やけに狭い路地に誘導されるので本当に道があっているのか不安になるが、路地の奥には「搦手口」の表示があり、そこをさらに進むと二の丸跡に誘導される。そこに車を置けるようになっているのでここからは徒歩で散策する。
左 二の丸からは土橋を通って本丸へ 中央 かなり深い堀切がある 右 箕輪城址碑 左・中央 本丸はかなり広い 右 御前曲輪 二の丸の奥に本丸があり、間は土橋でつながれていて空堀が作られている。本丸はかなり広く、この城がかなり大規模な中世城郭だったことを物語っている。この本丸の更に奥にあるのが御前曲輪。ここも構造的には本丸の一部だったようだが、独立曲輪となっており詰めの場所でもあり精神的な中心でもあったとされている。ちなみに長野業盛が最後に自刃したのもここであったという。
左 御前曲輪奥から堀底を見下ろすとかなり深い 中央 堀切から見上げる本丸 右 さらに先に進む 御前曲輪の奥を見るとかなり深い堀切がされている。本丸と御前曲輪の間の堀からここに降りていけそうであるので、道なき道を一脚でクモの巣を払いながら進む。堀底は道は通っているのだが、とにかく参ったのがこのクモの巣の多さ。どうしてもこのシーズンは、山の中は数日でクモの巣だらけになってしまう(毎日地元ボランティアが出入りしているような山でも、朝になるとクモの巣が張っているという)。そういう意味でも杖が不可欠になってしまうのだ(一回りした後の一脚はかなりひどい状態になっていて、後で拭き取る必要があったぐらい)。
左 随所に曲輪跡がある 中央 三の丸 右 下に通じている 左 三の丸石垣 中央 大堀切 右 大手口にはさらに下る模様 堀の底から見ると本丸はかなり高い位置にある。この堀の反対側にある曲輪は蔵屋敷とか。ここをさらに進むと三の丸に出るが、ここには石垣もありかなり広い。ここを下ったところに大手口があったという。ただそこまではかなり下る必要があるので途中で引き返す。
左 二の丸からさらに大堀切を越えて奥に 中央 郭馬出 右 さらに奥にも曲輪が 左 木俣 中央・右 搦手口脇の曲輪群 三の丸から進むと最初の二の丸にたどり着くが、二の丸の奥にも大堀切を越えてさらに城域は続いており、木俣を中心に曲輪が周囲に広がっており、その辺りをウロウロしているうちに搦手口にたどり着く。
とにかく規模の大きい城で全体をくまなく回るとかなりの時間を要すると思われた。ただそれだけに見所の多い城で、100名城選定は妥当と思われた。
箕輪城の見学を終えると、もう一つの群馬の100名城である金山城を目指す。ただこちらは同じく群馬県内と言っても、高崎の反対側の群馬の尻尾の部分に当たるので「ほとんど栃木」。関越自動車道に前橋ICから乗ると、高崎JCTで北関東自動車道に乗り換え、終点の太田桐生ICで降りるとその近くである。
「金山城」は鎌倉末期に新田義貞が築いたと言われているようだが、その証拠は見つかっていないらしい。その後、下克上などで城主が替わったりしつつ戦国期を迎え、最終的には関東小領主の常で北条勢に属することになったようだ。大規模な中世城郭であり、戦国期には北条氏の山城として上杉謙信の攻撃を退けており、関東七名城にあげられている。ただ秀吉の小田原征伐で落城、それから廃城になったらしい。
金山城までは車でウネウネと山を登っていくことになる。車で近くまで登れるから良いものの、これが道路がなかったら上まで行くのは大変だろうなという考えが頭をよぎる。駐車場があるのは城域の西端に当たり、かつて西城と呼ばれていた場所とのことである。城の本体はここから東の方向にかなり深い構造になっている。
左 上看板の現在地 中央 西矢倉台 右 西矢倉台の堀切 とりあえず見学道を進むとまずは西矢倉台に突き当たる。この辺りには堀切の底を渡って桟道を通るルートが発見されて復元もされているようだ。案内看板ではこのルートを通れるかのような表記になっているが、実際には桟道は通行止めになっている。復元したものの老朽化で安全を保証できなくなったか?
左 馬場下通路入口 中央・右 土橋の下は堀切 左 中に入ると 中央 建物の礎石が 右 上がる通路もある 西矢倉跡を抜けると正面に本格的な石垣作りの虎口が見え、堀切の上を土橋で横切っていくようになっている。これが馬場下通路。石垣好きの私としては、このような光景が見えた途端に一気にテンションが上がる。
石段を上がるといきなり案内看板があり、その先には物見台が 物見台からの風景 馬場下通路の奥には建物の礎石が残っており、ここから一段上がったところの西端は物見台跡。現在はあまりにあまりな展望台のようなものが建てられているが、遺跡の発掘では実際に柱穴跡が見つかっているので、何か建っていたのは間違いないらしい。
左 引き返して先に進む 中央 先に見えるのが馬場曲輪 右 馬場曲輪 ここからさらに奥に進むと馬場曲輪跡で、ここには何やら建物っぽいものが復元されている。とりあえずそこに避難して伊右衛門を口にして一服。
左 馬場の奥にいよいよメインステージが見えてくる 中央 月ノ池 右 直線的な石垣に囲まれた登城路 ここまででも「かなり立派な城郭だな」と思っていたのだが、大堀切を超えて先に進んだところが金山城のメイン会場と言える部分の本丸になる。手前には丸い月ノ池が水をたたえており、その奥には復元された立派な石垣が飛びこんでくる。とにかくかなり大規模な石垣群で、これがそれまでの「中世の関東には総石垣の城はない」という定説を覆したことで知られている大遺構である。これを目にした途端に興奮が頂点にまで駆け上がり、石垣好きの私は興奮のあまりに思わず鼻血が出そうになる始末(私は変態か?)。
左 排水路も整備されている 中央・右 複数段の石垣を連ねている 当時の石垣建造技術の制約か、一段の石垣はそう高くない分を複数段の石垣を組んで補っているパターン。結果、中央の通路を階段状に連なった曲輪が取り囲んでおり、通路自身は直線的だが、この通路を進む敵は周囲から集中攻撃を食らうことになる。なおこの石垣の形式には朝鮮式山城の影響が見られているという。確かに非常に直線的な石垣の形式は、どことなく今まで見慣れてきた日本式城郭のそれとは雰囲気の違いがある。
儀式的意味があったという日ノ池
通路の突き当たりの先にはまたも丸い人工池があり、これは日ノ池。最もこの池は単なる溜め池という意味だけでなく、儀式的な意味も秘めていると言われている。
ここには休憩所も整備されているので、そこで飲み物を飲みつつ一端休憩。こうして見てみると、単なる史跡発掘と言うだけでなく、観光資源としての活用を意識しての整備も成されているようである。城跡の活用法としてはありだろう。
さらに奥に上がったところが二の丸 左 二の丸の奥をさらに上がる 中央・右 本丸跡には神社が 休憩後は奥の二の丸、本丸を見学、本丸は新田神社となっていて社殿が建っている。また本丸のさらに奥に北の城があるとの表記があったので本丸の周囲をグルリと回ったが、鬱蒼としていて通路的なものは発見できず、また体力も限界に近づいていたのでそれ以上の散策は諦める。なおその過程で本丸石垣の遺構を発見する。
左・中央 天守曲輪裏馬場 右 その奥に本丸石垣発見 とにかくかなり立派な城郭であるし、あの石垣には唖然とさせられる。このインパクトだけでも100名城選定は当然であろうと思われる城郭である。
金山城の見学を終えた時点でほぼ昼時である。予定よりは若干早めにスケジュールが進んでいるか。これは私がせっかちで、とにかく先へ先へと進む習性があるためのようだ。ただ今日も暑さが尋常ではなく、その分は身体にダメージが確実に来ている。次の目的地は前回の北関東遠征で立ち寄る時間のなかった栗田美術館のつもりだが、そもそも昼食も摂りたいというのが本音。とりあえず栗田美術館を目指しつつ、適当な飲食店がないか物色する。しかし適当な店が見つかる前に栗田美術館に到着。美術館の見学を先にすることにする。
栗田美術館
広大な敷地に複数の展示施設と登り窯や工房まで持つ巨大施設。展示品は創立者の栗田英男氏が蒐集した伊万里、鍋島などであるが、驚くべきはそのスケール。世界最大級と名乗っているが確かにかなりの規模。
また美術館自体の敷地も広く、ここに複数の建物が点在、これらを見て回るだけでちょっとした城郭散策並みに歩き回る必要がある。
展示品はシンプルな古伊万里から、色彩鮮やかな柿右衛門様式、さらには現代の伊万里まで幅広く、そちらに興味のある者なら興味尽きないところではなかろうか。
左 栗田山荘 中央 本館 右 歴史館 左 収蔵庫 中央 登り窯 右 陶磁会館
とにかく美術館の規模に唖然とさせられた。ただおかげでかなり歩き回る必要があり、それでなくてもダメージが重なっている身体に更なるダメージ。しかも昼時で暑さもピークを迎えつつあり、脱水状態になりかけてやばい状態。美術館見学ということで車内に荷物を置いてきたのが間違いだった。これなら伊右衛門を持参すべきだったと後悔。おかげで見学後半になったらヘロヘロになってきていまいち見学に集中できず、そそくさと引き揚げてきたのが現実である。
前回の北関東遠征の時にはスケジュールと位置的問題(駅から若干距離がある)のためにパスしたのだが、今になってみればそれは正解だった模様。あの時点で想定していた見学時間ではとても見学が不能で、後々のスケジュールが崩壊するところだった。
栗田美術館を出た頃にはいよいよ本格的に身体が限界になっていたので、もうつべこべと選んでいる余地はなく、適当なファミレスのようなレストランで昼食にする。そこで昼食の爆弾ハンバーグにかき氷でクールダウン。ようやく人心地つく。ところでこの店、ハンバーグの安全性確保の項目で、工場などによる品質管理の類のことを書いていたのはともかく、牛肉100%ということも記載していたがそれは安全性とは無関係のような。アメリカ狂牛ビーフ100%だったら危険性丸出しである。と思って後で調べてみたら、やはりアメリカビーフ使用の模様。なんだかな・・・。
まだまだ時間に余裕があるのでオプションツアーを発動することにする。この近くにやはり関東七名城の一つである「唐沢山城」があるはずなのでそこに立ち寄ることに。唐沢山城は平将門の乱の鎮圧で功績を挙げた藤原秀郷が築城したと伝えられている。その後、末裔が佐野氏を名乗ってこの地を治めた。戦国期には上杉・北条の二大勢力の合間で翻弄されることになったが、上杉勢を9度に渡って退けたことで知られる堅城である。しかし江戸時代に入って廃城になっている(江戸城を見下ろせる位置にあったことがけしからんとされたという話もある)。
左 入口 中央 枡形が残っている 右 見張り台だった天狗岩 左・中央 三の丸 右 二の丸 左 二の丸 中央 二の丸から本丸に上がる通路は多分後付 右 本丸は神社 とにかく高い山の奥である。私ならこんな城はとても攻める気になれず、押さえの兵だけを残して無視するなというのが本音。城跡は現在は神社になっており、その際に改変なども行われているようだが、本丸石垣など当時の遺構も残っており、この高石垣が最大の見所の一つ。
さすがに山城三連チャンはかなり疲れた。それに暑い盛りで身体がぐっしょりしている。こういう時にはやはり温泉に立ち寄りたいのが心情。ただこの周辺に土地勘がないために全くあてがない。そこでカーナビにお伺いを立てたところ、ここからしばらく走った先に柏倉温泉なる温泉がある模様。そこでカーナビの指示に従って山道を突っ走る。
山奥に柏倉温泉太子館なる旅館があり、そこが日帰り入浴を受け付けている模様。名称からも分かるように、日本各地にごまんとある「聖徳太子ゆかりの地」の一つらしい。昔からこの地に鉱泉が湧いているようだ。浴室には内風呂と露天風呂があり、露天風呂なども心地よいが、このシーズンは内風呂の脇にある鉱泉風呂の方が心地よい。やや着色した鉱泉が注がれており、温度はプール程度のもの。のぼせやすい私には非常に最適。しっとりとしたなかなかに良い感触である。そう言えばここの鉱泉は明らかに着色しているのだが、風呂の湯の方は無色透明だったことから、あちらは新湯か?
風呂で汗を流すと高崎に戻ることにする。ただまだ車の返却まで若干の時間があるので前橋の県庁に寄ることにする。群馬県庁のある一角は元々は「前橋城」があったところで、前橋城は江戸自体には前橋藩の藩庁があり、関東七名城にも数えられた城だが、利根川沿いにあるためにその氾濫にしばしば悩まされたようである。明治以降には廃城になってここに県庁が置かれ、その後も市役所や裁判所が立地するなど行政の中心となってきたが、おかげで城の遺構はほとんど残っていない。現在も残る遺構で目立つのは土塁の一部のみ。
群馬県庁建物は高層建築で、最上階が展望台として一般開放されている。ここに上がると群馬周辺を一望することが出来るが、やはりこの地は関東平野北方の要衝であることが分かる。特に越後方面から関東に向かう上杉勢にとってはここは出口に当たる地域なので、常に小競り合いが繰り返されることになったのも理解できる。
なお群馬の地形をさらに理解するには階下にジオラマも設置されていて見学できる。ただその設置階は昨今の省エネで照明が完全に落とされており、真っ暗で正直なところ恐いぐらい。これでは特に女性なんかは寄りつかないだろう。実際に見学に行っていたのは私だけだったし。
これで予定は終了。そう言えば先日当たりから台風の接近が言われていたが、先ほどまではあれだけカンカン照りだった天候が夕方にかけてにわかに曇ってきて、雨がぱらつくようになってきた。その中を高崎まで走行、車を返却すると面倒なのでそのまま駅ビル内の「田舎料理しおん」で「生姜焼き定食(950円)」を食べて夕食にする。可もなく不可もなくというところ。ただやはり味付けは関東か。ところでテーブルの上に中濃ソースを見かけたのだが、この辺りはいかにも関東。関西人は目的によって細かくソースを使い分けるので、このような中途半端なソースは好まない。
夕食も終了したところでホテルに戻る。先日来台風の情報が入ってきているが、いよいよ天候が不穏になりつつあるようである。明日は最初の予定では八王子城を訪問するつもりだったが、天候的に登山しているような状況ではないと思われるので予定変更が必要である。急遽目的地を川越城に変更することを検討したが、明日は休み明けの火曜日で肝心の本丸御殿が休みの模様。これでは川越城に立ち寄る意味がない。美術館関係もやはり同様にほとんどが休館。さらに台風の状況を調べると、明日の昼には高地に上陸する可能性が。こうなると山陽新幹線もいつまで動いているやら怪しいもの。しかも今度の台風は速度が遅いので、一度足止めを食らうとそれが数日かかる恐れもある。この時点で明日の予定は全面的に中止にして、朝一番から帰宅することにする。
そう決定すると、エクスプレス予約で新幹線を早い便に振り替え、手続きを終えたところで入浴に行くと早めに床につく。
☆☆☆☆☆
翌朝も5時頃に起床。高崎は天候は不穏だがまだ雨が降るところまでは行っていない。チェックアウトの準備をしてから朝食に行くと、朝食後すぐにチェックアウトする。高崎駅で八王子経由の新横浜から帰宅になっていた切符を東京経由に切り替え(結果としては大宮−新横浜間を新たに買い足す形)、上野行きの普通列車に乗車する。ちょうどラッシュ時間帯に当たるために東京のラッシュで揺られるのは後免だから、グリーン席に乗車することにする。列車が進むにつれて雨がばらつき始め、場所によってはひどい豪雨。また乗客も確実に増え、大宮当たりではグリーン席も満席状態。こうなると網棚のない二階建てグリーンは狭苦しい。その狭苦しい中でウトウトしつつ気がついたら上野。なぜか東京では雨が止んでいる。東京駅で確認すると新幹線は完全に平常通り。なぜか御殿場線は豪雨で停まっているのに新幹線は全く普通通りらしい。これは慌てすぎたかなと言う気もしたが、今から八王子に行くのは天候を抜きにしてももう体力的にも無理だし、他に行く当てもないので初志貫徹でそのまま帰宅することにする。
東京までは豪雨
結局は帰りのルートでも米原周辺で豪雨にあった以外はほとんど雨がなく、かなり拍子抜けの状態で家にたどり着いたのである。
結局は新潟から関東にかけてを駆けずり回った感のある今回の遠征。また展覧会遠征とタイトルに掲げているにもかかわらず実体はそれと異なり、明らかに城郭巡りを第一に置いた遠征になってしまった。正直なところかなり疲れる遠征であったが、それだけに内容は盛り沢山で充実しているものではあった。また今回の遠征で新潟周辺の事情が大体把握できたのは収穫である。
ところで今回の遠征では、行く先々でタクシーの運転手や売店のおばさんに「お客さん関西から?」とか「大阪からですか?」と聞かれたのだが、私の言葉はそんなに関西弁丸出しなのだろうか? どうも「言葉のイントネーションがまるで違うから」とのことだったようだが、あの辺りは東京方面からの観光客は来ても、関西からの観光客はあまり来ないという事情があったようで、向こうも「そんな遠いところからわざわざ」というニュアンスが入っていた。確かに今回感じたことであるが、とにかく関西から新潟は遠い。直通の列車はなくて新幹線だと東京経由だし、飛行機の便もそう多いわけではない。やはり新潟は関西からは遠い土地と言わざるを得ないのだろう。残念ながらこの状況は北陸新幹線が開通しても全く変わらないだろうし(何しろ関西までは直通しないし)、下手をすると特急の廃止などで余計に遠くなる可能性も。
また新潟をウロウロしていると、あちこちで新潟市のことを「県都第一の都市」とか「日本海側最大の都市」とアピールしているのに出くわした。新潟が大都市であることには私は全く異論はないのだが、やたらのアピールはかえってコンプレックスの裏返しのような気もした。別に東京なんかに引け目を感じることはないのに・・・。はっきり言って東京は直ちに解体すべき異常な町なんだから。普通に新潟の良さをアピールするだけで、東京の異常さがむしろ際立つと思う。もっとも完全に病んでいる東京人の中には、その異常さに気づかなかったり、薄々気づいても頑なに認めない輩もいるが。
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