展覧会遠征 豊田・長浜編
未曾有の大災害によって東北では多くの被災者が出ている。犠牲者のご冥福をお祈りすると共に、被災地が一刻も早く復興されて、被災者の方々が普通の生活を取り戻せることを祈るしかない。阪神大震災の被災者である私にすれば、当時のことを思い出さずにいられなかった。被災者にとっては恐らくこれからが一番大変な時期だと思われる。政府などによる支援が必要である。
さて私のほうなのだが、週末に出かける用意をしていたと思ったところに飛び込んできたのがこのニュースである。関西は全く何の被害もなかったのであるが、想像の付かない数の死者は出ているし、原発はいつ吹っ飛ぶか分からないしというような状況では、さすがの私も出かける気には到底ならず、その週末は家にこもってテレビの情報に食い入るだけだった。とは言っても私にできることなど何もない。せいぜいが募金をする程度。後はとにかく仕事をすることで税を納めるぐらいしか。東日本が壊滅した以上、無傷の西日本が経済を全力で回して日本を支えるしかない。
そうして一週間経過。本来ならこの週末は私は新潟に行っている予定であった。しかしながら直接の被害はなかったとは言われているものの、被災地に隣接している新潟はまだ物見遊山に出かけるような状況ではないことは容易に推察はつくし、電力の関係で関東方面は鉄道も間引き運転されているらしく、当初の予定を実行するのは不可能であり、事前に手配をしていたチケットなどはキャンセルするしかなかった(キャンセル手数料だけで馬鹿にならない額になったのだが・・・)。
しかし家に篭っていると、やはりというか気が滅入ってきた。悲惨なニュースやネットの馬鹿(他人の不幸を喜んでいたり、混乱に拍車をかけようと意図的にデマを流している輩)ばかりを見ていると精神を病みそうである。この時期に観光なんて不謹慎かという考えも頭をよぎったが、とにかく何でもかんでも自粛自粛で不況の引き金になるのは最悪の事態。計画停電の東京で電気を大量に浪費してナイターなんてのは問題外だが、少なくとも西日本で経済を回す必要はあるはずであるし、そもそも地方では観光も大事な産業である。
何だかんだ言っているが、結局は上記のような葛藤を経た後にほとんど思いつきで出かけることにした。となるとプランをどうするかだが、今更一からプランを起案している余裕などない。先週に実行するつもりだった長浜プランをそのまま流用。とは言うものの、計画自体は根本的に変更である。当初の長浜プランは、青春18切符を使った鉄道中心のものであったが、新潟プランが流れたことで今期は青春18切符は使い切れる目処が立たなくなったことから、関連チケットを解約した時にこれも解約している。そういうことから今回のプランは車によるものにすることになった。となると長浜日帰りは正直なところ体力的にキツイ。必然的に長浜周辺で一泊。それならもう少し先まで足を伸ばしてから長浜に戻って一泊のパターン。この時の目的地として急遽浮上したのが足助城。今では豊田市に併合された旧足助町にあるこの城郭は以前から気になっているところであったが、とにかく足の便が悪いので今まで計画が延び延びになっていたところである。ついでにこの周辺の城郭をいくつか加えて一日目。二日目は長浜訪問の目的であるところの小谷城を中心にというところでプランは完成である。
出発は日曜日の早朝。と言ってもやはり私自身が精神的に少々疲れているのか、いつものような未明の出発というわけにもいけず、日が完全に昇ってからの出発である。ルートは山陽自動車道から名神に乗り継ぐパターン。ただ気になっていたのは、東北の震災絡みで物資輸送のトラックで渋滞しているのではないかということ。もし高速がそのような状態だったら、さすがにそこに観光目的の乗用車が割り込むのは顰蹙ものなので、その場合には急遽の予定変更も睨みつつの出発である。
しかし高速道路に関しては全くの通常モードだった。たまに反対車線を松江市消防局の消防車など普段はあり得ないような地域の消防車が走っていたのがいつもと違うぐらい。山陽・名神共に特別に混雑しているという状況ではなかった。ただ静岡以東ではSAでの給油が復興関係車両を優先するとのアナウンスはあちこち(PAや道路情報など)で常に流されていたが。
足助には3時間強ぐらいで到着する。足助は山の中ののどかな山村といった趣のところ。この辺りでは東北の震災の話など明らかに別世界の話になってしまっているイメージ。観光地なども完全に通常モードのようである。目的の足助城はかなり細くて急な車道(あまりに急すぎて、私の非力なカローラ2で登れるか不安になったぐらい)を登った先にある。
「足助城」は戦国期にこの地を支配した鈴木氏の本城だったとされている。後に徳川に仕えた鈴木氏が関東に移動するに際して廃城になったとのこと。なお現在では、発掘調査の結果に基づいたかなり忠実な復元がされているのが最大の特徴。城跡に時代考証を無視して白亜のコンクリート天守をぶち上げるような無茶な「自称復元」ではなく、キチンとした中世山城を復元してあるのが最大の見所である。
駐車場に車を停めると、入城口で料金を払ってから入城する。城は山の地形をそのまま活かした構造になっており、山頂に本丸があって周囲を複数の曲輪が取り囲む形式となっている。麓を巡るような形でまずは南の丸を通過するが、かなり崖が急であり、本丸は見上げるような位置。上から矢を放たれたらひとたまりもない構造になっている。なお石垣でない自然斜面であるので、雨などによる土砂崩れもあるのか最近になって人工的に加工してある部分もある。
井戸跡を抜けると西の丸に向かう道と西の丸腰曲輪に向かう道が分岐している。西の丸腰曲輪はこじんまりとしたスペースで、背後に西の丸が見上げる位置にある。
左 南の丸腰曲輪にある建物の礎石らしき巨石 中央 井戸跡 右 西の丸に上がる前に西の丸腰曲輪を目指す 左 西の丸腰曲輪 中央 西の丸腰曲輪から見上げた西の丸 右 西の丸に上がる 西の丸は比較的広大なスペース、奥には西見張り台が建っている。この城の中ではかなり重要なスペースでもある。
西の丸と西見張り台 ここから登ると南の丸に行ける。ここでは台所跡が見つかっており、かまどの跡が発見されたとのこと。二棟の厨が復元されているが、これは単に台所と言うよりも兵の宿舎であったと思われる。
左 南の丸入口のはねあげ戸 中央 厨とカマド小屋、奥が南物見台 右 カマド小屋内部 左 厨内部 中央 厨は二棟建っている 右 南物見台から見た厨の屋根 ここの上の小高い頂点に南物見台があり、ここから周囲の支城群と連絡をとっていたと思われる。
南物見台から見た周囲の山々 この物見台から堀切り跡を越えた先が本丸。ここには発掘結果に基づいて長屋と高櫓が復元されている。インチキ復元によくある時代考証を無視した白亜の天守ではなく、渋い檜皮葺の二階建ての櫓が建っており、その二階からは周囲の集落を見下ろすことが出来る。
高櫓と長屋
左 堀切り跡を越えて本丸へ 中央 高櫓が見えてくる 右 高櫓二階、内部はシンプル 小規模な城郭で籠城可能な城兵はせいぜい100人程度というところか。しかし自然の地形を巧みに利用してかなり堅固な造りになっている。領主は普段は麓の館で生活をし、一朝事あった時には配下と共にこの城に籠もったのであろう。実用本位の中世の山城とはこのようなものだったのだなと納得できる造りであった。
高櫓から麓の集落を見下ろす
とにかくかなり見応えのある城郭であった。同じような復元は長野の戸石城でも成されていたが、あちらは何となく映画のセットのようなわざとらしさを感じる部分があったのに対し、足助城にはそのようなものが感じられなかった。これは復元の正確さの差だろうか。しかしその割には知名度が低すぎるように思われ、100名城にも入っていない(根城は入っているのになぜ?)。とりあえず私の続100名城には余裕で当選である。
足助城の見学を終えた後は田峯城に向かうことにする。田峯城は設楽市にある山城で、戦国期にこの地に勢力を置いた菅沼氏の本城だったという。しかしこの地は信濃と三河を結ぶ要衝のため、今川、武田、織田など諸勢力に翻弄されることになった。五代目城主である菅沼定忠は武田氏についたようだが、家臣の中には異論もあり、これが結果として謀反につながって設楽が原の戦いに従軍して退却した定忠は田峯城から締め出しを食らう羽目になってしまったらしい。これに対して定忠は翌年に夜襲で反乱者達を惨殺して城を取り戻すが、彼自身はその後に武田勝頼と運命を共にすることになり、菅沼家はここに滅亡、田峯城もその後に廃城になったらしい。
足助城から田峯城には国道420号線を走っていけば良いのだが、この道路が起伏が激しい上に途中では道幅が狭くてセンターラインがなくなる部分があったりという半未整備道路。道路幅が一番狭い部分では対向車とのすれ違いが不可能なので、そういうところでは対向車と阿吽の呼吸が必要になる。もっとも下手くそドライバーが大型車で乗り込んでくると大変なことになるが、ある程度の運転が出来るドライバーなら特に問題があるというほどひどい道路ではない。
1時間ほど道路を走ってトンネルを抜けると田峯。しかしここから目的地に行くルートが分からなくてしばし右往左往する。その結果、やっと見つけたのはかなり狭い急な山道。さすがにこの道路は途中で対向車に出くわすと進退窮まる恐れもあるような道だ。しかし幸いにして対向車は全くないまま目的地に到着する。
狭い山道を走る
「田峯城」は山上ののどかな集落の脇の小山の上にある。空堀跡を渡るとそこからが城内。本丸の前に複数の曲輪が連なっている構造だが、その曲輪の一部は現在では茶畑や墓地になっている。
左 表曲輪は茶畑になっている 中央 井戸曲輪 右 手前が蔵屋敷、奥の墓地が道寿曲輪 左 手前が畷曲輪、奥の一段高いのが御代様屋敷 中央 本丸御殿を下から 右 本丸入口 本丸上から畷曲輪、井戸曲輪を見下ろす 一番奥の本丸には御殿、厩、物見台、門などがあるが、これらはすべて復元。ただ根拠のある復元と言うよりも、大体この時代の建物はこんな雰囲気だろうというアバウトなものなので、厩や物見台などはこんなものだと思うが、御殿は城郭の規模から考えるとあまりに立派すぎる。
本丸配置図 搦手門と大手門が逆のように思えるが・・・。
左 本丸御殿 中央・右 復元大手門の裏手には一応虎口が 御殿は展示館も兼ねていて内部には甲冑などもあるが、当時のものであるのが確実なのは古びた胴鎧と錆びた刀(付近の土中から出てきたらしい)、刺又ぐらいだとか。なお座敷には「城主の席」もあるので、ここに座ってその気になって記念写真を撮る者も多いとか。
左 御殿内部 中央 謎の刀 右 胴鎧 御殿の裏の見張り台は急な梯子を登る恐いもの。ここに登ると裏手は断崖絶壁であることがよく分かる。高所恐怖症の私は少々足がすくむ。
左・中央 物見台と急な階段 右 物見台上からのすごい風景 厩 この辺りは山深い街道なので、足助城や田峯城以外にもこのタイプの城郭が各地にあったのだろうと思われる。とにかく小領主が乱立しやすい地形になっている。これらの山間の小領主はどうしても結局は織田・今川・武田などの平野型の大領主に翻弄される運命になってしまうものである。守るには堅いがとにかく大兵を養える地形ではない。
田峯城の見学を終えると再び国道420号線で足助まで戻り、そこから豊田市中心部を目指す。城郭見学第三弾は丸根城である。
「丸根城」は豊田市内を流れる矢作川の川幅が最も狭くなる「鵜の首」と呼ばれる部分の東岸の台地の先端を利用した城郭で、今日でも主郭を取り巻く空堀の跡が綺麗に残っている城跡である。ただ城跡はかなり状態良く残っている一方で、城の由来はハッキリとしていないのだとか。一応、松平氏の城郭だったのではと言う説が最有力ではあるらしい。
左手が北曲輪、中央が虎口で奥が主郭 確かに城跡の構造がハッキリと残っている。北曲輪と主郭を取り囲む空堀の跡及び虎口の跡が残っており、往時のこの城郭の姿がイメージできる。また北曲輪と主郭の間の空堀はかなり深い。
主郭の風景 主郭から空堀方向を望む ただ城としての規模はかなり小規模であり、防御機能は備えているもののそう堅固というイメージではない。地形的に大兵に攻められたらひとたまりもないと思われるので、本格的に戦闘をするための城と言うよりも、防御機能を持った屋敷というところではなかったかと考えられる。矢作川の水運を押さえるのに適した要所なので、それらを監視するための関所のようなものだったのかもしれない。
左 主郭脇の空堀 右 主郭と北の郭の間の空堀 これで今日の城郭見学は終わり。最後は本題に戻って美術館遠征である。なおこの美術館のある高台は挙母城址という城跡。城を築くならこの高台の方が大規模で堅固な城郭は築けそうである。
「Art in an Office」豊田市美術館で3/27まで
豊田市の企業が所有する美術作品を展示した展覧会。実質的にはトヨタの所有作品が大半である。
序盤は近代絵画、後半は現代アートの構成。近代絵画については藤田や松園など意外と優品が多い。
後半の現代アートについては、トヨタが力を入れている分野だとか。例によってこの手の作品は私には「?」なのだが、感動はしないまでも意外と面白いと感じる作品があったのは興味深い。
これで本日の予定は終了。高速に乗って今日の宿泊地に向かう。今日は長浜に宿泊する予定で、昨日急遽手配したのはルートイン長浜インター。例によって私がドーミーチェーンと並んでよく利用するホテルチェーンである。
夕方にホテルにチェックインすると、まずは夕食を摂りに繰り出す。しかし長浜の中心市街は車を停める場所がないし、郊外はと言うといわゆる外食チェーンばかりというところでなかなか適当な店がない。しかも見つけた店はいずれも一杯で入れない状態。一体長浜に何が起こっているのか? まさかあの最悪大河ドラマの効果か? 結局は情けないことに丸亀製麺で釜たまうどんを食べる羽目に。当然ながらこれだけだと全く足りないので、イオン長浜店で寿司を購入。なんか空しくなってきた・・・。
ホテルに帰って寿司を食い終わったところで大河ドラマが始まる。別に見なくてもいいんだが、どうせまともな番組はないし、とりあえず長浜に来ていることだしということで見てみたのだが・・・結論、やっぱり見る必要なし。
今回は北の庄落城で、市は勝家と共に自害、姫達は母との今生の別れという序盤の一つの山になるエピソードのはずなんだが・・・まるで感動しない。5分で終わる賤ヶ岳の合戦については今更どうこうは言わんが(ただこれだと秀吉が引き返してきただけでパニックになった柴田軍は総崩れというイメージで、あまりに柴田勝家が無能に見える)、後の時間に延々と繰り返される市と姫達の感動の別れのシーンが、ひどすぎる脚本と棒すぎる主役陣の演技、陳腐すぎる演出に間抜けすぎるBGMのせいで一向に盛り上がらず、ひたすら退屈なだけで半ば拷問。時代劇ではなくて完全に現代劇になっているのもひどいが、とにかく鼻に付くのは姫としての品が全くない主役陣に、どこのチンピラだと言うほど小者な秀吉(今回はその上に変態属性がプラスされた)。さらに今回はそれに輪をかけて小者のパシリ三成が登場。本当に当時の戦国武将がこの程度の人物ばかりだったら、私でも天下をとれそうだ・・・。
面白くないなぐらいなら今までにいくつかあったのだが(「峠の群像」とか)、さすがに見ていて不愉快になる大河というのは初めて。今回のネタなら普通に作れば見れるドラマにはなると思ったのだが、どうもこちらの予想をはるかに超える低レベルで来るのでどうしようもない。とにかく脚本と演技がアイドルの月9ドラマかというレベルだから、これからは大河ドラマと呼ばずにNHK日8ドラマと呼ぶことにする。
この後は大浴場で入浴。ゆったりしたところで原稿を執筆、疲れたところでさっさと床に就いたのであった。
☆☆☆☆☆
翌朝は予定外に早朝に目覚めてしまった。私は枕が変わったら寝られないほど神経質な人間ではないのだが、どうも確実に睡眠力が落ちてきていることを感じており、最近は遠征先で寝不足になることが多い。この日も疲れは残っているのに目が覚めてしまったという最悪の目覚めである。
とりあえずボーっとニュースをチェックしてから、朝食を摂るために下に降りる。その後はプラプラとしながら8時半過ぎにチェックアウトする。そのまま車で小谷城に向かう。小谷城では例のNHK日8ドラマに連動して、博覧会を開催中とか。しかし正直なところ私は失敗したと思っている。と言うのは、小谷城は去年までは普通に車で登れたのに、このドラマ絡みのドタバタのせいで車で登ることが禁止されて、今では500円も払って専用バスで登らないといけなくなってしまっている。こんな事になると知っていたら、去年のうちに訪問していたのだが・・・。あまりに自分が情報に疎すぎたと感じている。
なお「小谷城」は言うまでもなく浅井氏の居城であり、三代目の長政は織田信長の妹であるお市を妻としていた。しかし信長が浅井氏が長年同盟を結んでいた朝倉氏を攻撃したことで信長との同盟関係は決裂、姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に敗北、小谷城も織田軍の直接攻撃にあう。小谷城は戦国屈指の強固な山城でもあり、長政は数年に渡って織田軍に抵抗するものの、結局は織田側の調略工作による家臣の寝返りなどでついに落城。長政及び父の久政は切腹して浅井氏は滅亡する。浅井氏の滅亡後にこの地を与えられた羽柴秀吉は、山中の城を嫌って湖岸の長浜城を建造したので小谷城は廃城となる。朝倉氏の脅威が去った後は、守りの堅固さよりも商業の発展を重視したのだろう。なお今でも城跡が残っており、戦国山城の形態を伝えると言うことで100名城にも選定されている。
現地には9時頃に到着。とりあえず博覧会会場に顔を出して小谷城行きのバスのチケットを買おうとしたら、何と10時出発の便までないとか。今朝は小雨がぱらついているせいで、本来なら9時から始発があるはずのバスが、10時まで延びてしまったらしい。こんな特に何もないところで1時間近く時間をつぶすことを考えると目眩がするが、かといってどこかに行くには時間がなさ過ぎ。結局はここで時間をつぶすしかなくなってしまう。
早朝のせいか、雨のせいか、博覧会会場は閑散
仕方ないのでほとんど自棄で博覧会会場に入場することにする。しかし予想通り、入場料300円の割には内容が薄い。もっともここの小谷会場は歴史関係の展示が中心だったのが救い。これで中身が上野樹里記念館だったらキレそうである。
会場内の小谷城復元模型(展示物の中でこれだけが撮影可)
ようやく10時になってバスの発車時刻になる。定員15人のマイクロバスの乗客は8人程度。いかにも普通の観光客というタイプの人たちばかりである。急な山道を5分ほどでバスは小谷城入口の番所手前まで到着する。ここでバスを降りて、後はボランティアガイドの案内付きで本丸まで1時間ほどのツアーになる。
左 歩行者登山口 中央 旧大手路は松茸山につき入山禁止の表示 右 車道は完全に封鎖されている まずは番所跡。ここはその名の通り、城の入り口に当たるところである。建物があったらしいところが曲輪として残っている。
左 番所手前の金吾丸 中央 番所跡 右 ここから山道を進むことになる ここからは山道を登ることになる。若干険しいのと雨のせいで足下が滑るが、それほどツライという道のりではない。少し登ったところにお茶屋跡があり、ここからは琵琶湖方面を一望できる。
正面に見えるのが、織田軍が陣を張った虎御前山 この一段上の広い曲輪が御馬屋跡である。周囲には土塁の跡も残っている。ここには馬洗池と呼ばれる池があるが、実際に馬を洗ったと言うよりは生活用水や水堀としての役割があったらしい。
左 御馬屋跡 中央 土塁が残っている 右 馬洗池 ここからさらに登った道の脇に裏切り者の首を晒したという首据石があり、その先が桜馬場である。ここには浅井氏及び家臣の供養塔があるが、かなり広い曲輪で眺望も良く、日8ドラマの撮影もここで行われたのだという。また曲輪内には建物の礎石と思われる石も残っている。
左 首据石 中央・右 この道を進むと赤尾屋敷跡だが、今回は立ち寄れず 左 桜馬場はかなり広大 中央 浅井氏及び家臣の供養塔 右 建物の礎石跡 さらに黒金門跡を過ぎると大広間跡に出る。ここは千畳敷とも呼ばれる広大なスペースで、長さ85メートル、幅35メートルもあるという。ここには屋敷があったと推測され、建物の跡も残っている。
左 黒金門跡 中央 大広間跡はかなり広大 右 奥に本丸石垣が見える 大広間跡の奥に小さな石を積み上げた石垣が見えるが、その上が本丸である。この本丸は二段になっており、この奥の一番高いスペース(30メートル×25メートル)が長政の居住していたところだとのこと。
左 本丸は二段構成になっている 中央 奥の段 右 かなりの高さがあり、奥にはさらに中の丸などがある さらに奥には最高所の中の丸、京極丸、久政の立て籠もった山王丸などがあるのだが、案内はここまでで引き返すことになる。
正直なところ普通の観光客ならこれで十分なんだろうが、城マニアにはいささか消化不良。しかし自分で好き勝手に回りたいなら、最初からバスを使わずに下から徒歩で登るか、それとも来年あたりになってほとぼりが冷めてからやって来るかしか手はない。コアな山城マニアなら迷わずに前者を選ぶのだろうが、私には実質的に後者しか手段はない。またガイドを無視して単独行動というのもありなように思われるのだが、実際は各バスの乗客ごとに団体行動をしており、下山時もそのまま団体でバスに乗るので、そこに後から別の者がやって来てもバスに乗れない可能性もある。結局は今年一年は城オタは排除か。つくづく去年のうちに来なかったことが悔やまれる。それにしてもいわゆるブームの類って、正直なところ迷惑しかないよな・・・。
やや不完全燃焼の感を抱きながら小谷城を後にする。次の目的地であるが、久々に洞窟探検と洒落込むことにする。この近くの鍾乳洞である関ヶ原鍾乳洞を目指すことにする。
関ヶ原鍾乳洞までは山沿いの道をひた走ることになる。昼時なので途中で見つけたそば屋「伊吹野」。しかしこれが大失敗というか最悪だった。そばはまずまずだったのだが、最悪なのは客あしらい。まずは入口に「客が多いので店の前でお待ち下さい」の看板が出ており待たされたのだが、出る客が何組いても30分以上もそこでそのまま放置。その挙げ句にようやく通された店内はテーブル席が6つ以上空いている(待ち客はこの時点で私を含めて3組)。この時点で「?」だったのだが、席に通されてからも延々と10分以上お茶も出ず注文も聞きに来ず放置。ようやく注文してからさらにそばを待つことになる。そば屋において注文からそばが出てくるまでに時間がかかるのは仕方ないが、その段階以前の客あしらいが問題外である。席に通してからお茶も出ないというのは接客の基本として話にならない。
なお私は味の点で「失敗した」と感じた店の場合は、常に名前を出さない。それは所詮は味というものは好みの世界のものなので、自分の好みに合わなかったというだけで最悪評価などという営業妨害じみたことはしたくないからである。しかしここの場合は、そばの味はマズマズであったし、客あしらいというのは改善の余地があることなので、あえて反省を促す意味で店名を出しておく。
結局はたかがそばのために1時間以上を浪費、予定よりもかなり遅い時間に関ヶ原鍾乳洞に到着する。
関ヶ原鍾乳洞は入口からグルリと518メートルで一周し、入口に隣接する出口に出てくる構造。しかし現在は出口が工事中で、一番奥から引き返してこないといけないようである。とりあえず入洞料金を払って入洞。例によって口ずさむテーマは「行け行け川口浩」である。
左 鍾乳洞入口 中央 出口は工事中で通行禁止 右 案内看板 序盤は延々と人工トンネルである。鍾乳石が本格的に出てくるのは中盤以降。ただし全体的にこじんまりしていて地味な印象。鍾乳石などはそう多いわけではないが、見所の一つは序盤で出くわすウミユリの化石か。また非常に水が多い鍾乳洞で、なぜか鍾乳洞の奥ではマスが飼われていたりする。なお内部は完全バリアフリー。天井が低いところが多いので、歩行者よりもむしろ車椅子の方が通行しやすいかも(笑)。かなりお手軽に訪問できる鍾乳洞となっている。ところでよく考えてみると、今回初めて今使っている一脚を本来の用途に使ったような(今まで登山杖としてしか使ってなかった)。
左 入口すぐにある伏竜水 中央 洞窟は天井が低い 右 巨人の足 左 橋を渡った辺りから本格的な鍾乳洞 中央 鬼子母の間 右 昇竜の間
左 天井には鍾乳石が多数 中央 水路もある 右 ここで行き止まり 洞窟探検を終えると高速で大津まで移動。遠征本来の主旨にまた戻る。ここも私の行きつけの美術館の一つ。
「襖と屏風 −暮らしを彩る大画面の美−」滋賀県立近代美術館で4/10まで
屏風や襖の大画面を利用した絵画は日本流スペクタクルアートとでも呼べそうな演出効果を持つ。この効果を利用して、山水画などが昔からよく描かれている。本展でも序盤はその手の伝統的作品が展示されている。
これが近代になってくると、以前のような形式的な堅苦しさがなくなってきて、例えば屏風の縦横比などにかなりの自由度が出てくる。中には屏風の形態を奥行きの表現に活用した「意欲的」な作品なども見られており、新しい展開としてなかなかに面白かったりする。
当初の予定ではこの後は京都方面まで足を延ばすつもりだったのだが、昨夜の寝不足が祟ったのか、はたまた花粉症防止のために飲んでいる薬のせいなのか、ここにきて急激に疲労が出てきてしまった。大津市街までやってきたが、その頃には意識レベルが落ちてきて危ない状態。やばいなと思っていた時、車の左前部から突然にガリガリという大きな音が出る。どうやらホンヤリしすぎて歩道にこすってしまったらしい。ここに来てこれ以上の運転の継続は無理と判断。大事故を起こしては洒落にならないので、とりあえず近くの店に休憩がてらに早めの夕食を摂りに入る。
しばしの休息で体は持ち直したものの、これ以上の予定の継続は危険性が高すぎると判断。このまま撤退することに決定した。
結局はメインは小谷城訪問だったのが本遠征。ただ小谷城に関してはまだかなり悔いの残る状態なので、これは来年以降のほとぼりの冷めた頃に再訪したい。いくつかの断り付きだが、これでとりあえず近畿地区の100名城は終了である。後は北海道の3つと沖縄の3つ、さらに東海の1つ(山中城)と関東の4つ(箕輪城、金山城、川越城、八王子城)である。しかし沖縄は今年中に飛ぶ予定はないし、北海道もこの状況では不透明(北海道はほとんど被害がなさそうだが、途中の東北が惨々な有様である)、関東・静岡も原発と計画停電の混乱が収まらないと観光なんて状況じゃないし・・・。
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