展覧会遠征 姫路編4
さて今週であるが、やや疲れが溜まっているのを実感している。こういう時はあまり遠出はしないに限る。と言うわけで姫路の「池田遙邨展」を鑑賞に行くことにする。
姫路までは車で。ここの美術館は観光用の駐車場に車を停めないといけないので、駐車料金がかなり高い(3時間までで500円)のがネックである。市営駐車場のくせにぼったくりすぎ。なぜ1時間200円コースがないのかが謎である。姫路城の見学なら3時間程度必要かもしれないが、美術館だと3時間もかからない。その辺りをもう少し考えてもらいたいものである。
「京都画壇の巨匠 池田遙邨展」姫路市立美術館で3/27まで風景画で知られ、特に晩年の山頭火シリーズが有名な日本画家・池田遙邨の作品を初期から晩年まで集めた展覧会。
若い頃から画家を志した彼は、当初は洋画を習って19才で文展に入選するという天才ぶりを発揮する。その後、小野竹喬の「風景にもう少し主観を表現した方がよい」というアドバイスから刺激を受けた彼は日本画に展示、竹喬の紹介で竹内栖鳳に師事したという。
ただこの時期にはかなり画風の模索があるようで、歌川広重に感銘を受けて東海道の風景を浮世絵調に描いてみたり、また大正という時代の影響を受けたようなやけにモダンな印象の絵画から、プロレタリアート芸術的な暗い作品、果てはシャガール風の幻想的なものや絵本原画のように見えるものまでありとあらゆる実験をしているのが展示作からも見受けられる。
その模索の中から、ようやく彼は自身の風景画のスタイルを確立したようである。戦後から晩年にかけての作品は、ともすれば稚拙にさえ見えかねない画面から、自然に叙情が溢れるような作品になっており、妙な魅力を持った風景画となっている。これは最晩年の山頭火シリーズに集約されることになる。
私は以前から池田遙邨についてはどことなくつかみ所のない画家という印象を受けていたが、これは彼の試行錯誤期の作品をいくつか目にしていたためであることが、本展によって明らかになった。確かにこれだけ激しくあらゆる画風を試していたら、つかみ所がないように思えたはずである。しかしそこを突き抜けた遙邨の晩年の作品は明らかに魅力的なものであり、私の遙邨に対する認識を改めることとなった。かなり有意義な展覧会であったと感じた次第である。
現在の姫路城は完全に覆いをかぶってしまっている姫路市立美術館の見学を終えると、次の目的地へ。次は以前から気にはなっていたが、祝祭日が休みのためになかなか訪問する機会がなかったグレンバラ美術館へ。グレンバラ美術館はインドの現代美術というかなりマニアックな展示の美術館である。美術館はクジラ肉を扱う会社である「まるげい」(旧名グレンバラ)の工場に隣接しており、一見しただけでは工場の倉庫。駐車場に車を停めて美術館の方に向かうが、入口が閉まっている模様。開いていないのかと思って引き揚げようとすると、後ろから「何かご用ですか?」と声がかかる。美術館を見に来た旨を伝えると入館させてもらえることになった。どうやら通常は扉は閉めているらしく、事務所の方に声をかける必要がある模様。
外観はただの倉庫
事務所の奥から通された美術館は、3階建て吹き抜けのだだっ広い真っ白なスペースで、洒落た倉庫(笑)というイメージ。ただこの環境はある意味では非常に現代アート向き。ここの収蔵品は社長が個人的趣味で集めたとのことで、かなりマニアック。なおここに展示してあるのはごく一部で、相当のコレクションがあるらしく「インドの現地よりもここの方が多いのでは」との話。現代アートに疎い私の目には何とも評価が難しいところだが、いずれの作品にも言えるのは、とにかく強烈なパワーを感じること。この辺りは変に洗練されているヨーロッパ系のアートではなかなか感じられないところであり、スタイルだけで斬新ぶっている日本の現代アーティストの多くとは根本的に違うようにも思われた。美術館のスタイルとしては、作品名も作者名も一切の情報がないところが、いかにもコレクションを並べているという印象。そう言えば入場料も請求されなかった。とにかくいろいろな意味でかなりマニアックである。ちなみにここはクジラ食品メーカーということなので、私も「くたばれシーシェパード!」「人種差別主義者のテロには屈しない!」という意味でクジラの竜田揚げを土産物に購入する。
これで今回の訪問予定の美術館は終了。次は山城に向かうことにする。今回訪問する予定の城は「置塩城」。姫路北部にある山城で、中世から戦国期にかけてこの地を支配した赤松氏の居城である。築城したのは赤松政則で、嘉吉の変後に一端滅亡した赤松氏が再興した時の本拠である。この赤松氏の栄枯盛衰はもろに中央の政情と連動しており、細川氏と山名氏の対立が背景にある。赤松氏は政則以降五代に渡ってここを拠点に播磨を治めるが、五代目の赤松則房の時に秀吉の中国攻めに合う。ここまでで相次ぐ内紛で既に著しく勢力を衰退させていた赤松氏にはこれに対抗する力など全くなく、則房はほとんど戦うことなく降伏したという。この時に置塩城は解体され、秀吉の姫路城築城の用材として使用されたとか。
カーナビを頼りに夢前川沿いを北上、やがて前方にそれらしき山容が見えてくる。その山を見た時に思わず「マジでこれか?」という声が出る。置塩城は堅固な山城というのは聞いていたが、目の前に見える山は私の予想以上に本格的な山岳である。そう言えば赤松氏と言えば、まるで何かを恐れるように(実際に恐れていたのだろうが)やたらに高い山の上に城を築いたことで有名な一族であることを思い出した。まあこれは赤松氏に限らず、中世の山城とは往々にしてそういうものだが、どうも半端な山城ではなさそうである。
左 この山の上 高い・・・ 右 駐車場にはこんな石碑が 登山路の入口のところに駐車場があるのでそこに車を停めて案内看板を見てみると、山頂までは2キロ程度、大体40分ぐらいはかかるとの記述がある。私は登り坂だと大体10分程度で体力が尽きるという軟弱男。その上に現時点ではあまりに準備不足だと思い至った。よくよく考えてみるにとっくに昼時を過ぎているのに昼食をまだ摂っておらず(ここに来る途中で店を探そうと思っていたが、途中には飲食店は皆無だった)、さらに山城攻めに不可欠の伊右衛門も準備していない。この状況でこの城を攻めるのは無謀すぎると判断、一端撤退して体勢を立て直すことにする。
登山口
まずは飲食店探し、しかし近くには全くそれらしきものはない。近くにあるウェルサンピア姫路ゆめさきまで車を走らせたが、残念ながらレストランは昼食の営業を終了した後。結局はそこからさらに西に車を走らせ、ようやく見つけた喫茶店でとりあえずパスタを昼食として食べておく。途中で伊右衛門も仕入れてようやく万全の体制で登山口に戻ってくると、いよいよ意を決して進むことにする。一眼デジカメを肩から下げ、伊右衛門を上着のポケットに入れ、いつもの登山杖(正確には一脚である)を取り出すと、完全装備の軽装(笑)で山に挑むことにする。
左 登山路はこんな感じ 中央 三丁 右 五丁 登城路は本格的な山道。キチンと整備はされているが落ち葉が積もっているので、気を付けないと足を滑らせてけがをする可能性がある。登山路の脇には○丁という標識が出ており、全体の行程のどの辺りまで来たか分かるようになっている・・・はずなのだが、最初に何丁で最終地点に到着するのかを確認していなかったので、結局は先の見えない行程になってしまう。
左・中央 十二丁のところの炭焼釜跡 右 ようやくそれらしい標識が見えだす 情けないことに四丁程度で既に息が上がって体力が尽きてくる。時計を見ると登山を始めて10分後ぐらいである。やはり私は登り坂は10分が体力の限界らしい。体力が尽きかけている身体を叱咤激励して十丁目ぐらいまで来るが、まだまだ登山は終わりそうにない。その時に前方から下山する人がやって来たので「一体何丁で目的地まで着きますか?」と聞いたところ、十八丁とのこと。それを聞いた途端に目眩がしてひっくり返りそうになるが、何とか気力を振り絞って先に進むことにする。
左 南曲輪群 中央 ようやく十八丁 右 置塩城址の碑は茶室跡に建っている 案内看板の奥が二の丸跡 十二丁のところに石組みがあるが、これは城の遺構ではなくて昭和に作られた炭焼釜跡とのこと。十四丁ぐらいから何となく周囲に城郭的雰囲気が漂い始め、いよいよラストスパート。ようやく十七丁を過ぎたところで前方に最終目標が見える。十八丁の標識は、置塩城の碑及び案内看板のところにある。登山口の看板にあった通りここまできっかりと40分を要していた。しかし現金なものでこういう山城の光景が目に入ると、さっきまで完全に死にかけていたのが急に蘇生する。 茶室跡 ここが城の中心的な部分で、奥に見えるのは二の丸跡。城の縄張りとしては、ここを中心に四方の尾根沿いに伸びているようである。この崖の上に二の丸があり、右手にある平地は茶室跡、さらに下に見える平地が南曲輪群の模様。とりあえず本丸方向に向かうには二の丸を回り込まないといけないらしい。
二の丸の北側に回り込むと左手の崖の上が三の丸、その先には一段低い台所跡がある。その先にまた小高くなっているのが二の丸北曲輪群。そして反対側右手の崖の上が二の丸である。つまりはここを通って本丸方面に向かおうとすると、左右から矢ぶすまに晒されることになるという仕掛け。それにしてもよくもこれだけの規模の城をこんな山の上に作ったもんだと思う。落ちぶれたとはいえ、中世の名門赤松氏だけのことはあると言うべきなのか。もっともこんなものを作るために駆り出される地元民はたまったもんじゃないとは思うが。
左 二の丸の石垣 中央 右手の崖の上が二の丸 右 道は堀切になっている 左 三の丸方向への分岐 中央 台所跡 右 二の丸北曲輪群 本丸へ行く前に二の丸の見学をしておくことにする。足下がかなり怪しいので注意しながら崖を登る。二の丸は複数の段からなっており、複数の腰曲輪で中央の曲輪を取り囲んでいるような構成。二の丸自体は結構なスペースがあり、屋敷ぐらいは建てられそう。建物の礎石だろうかと思われる石がゴロゴロと転がっている。
二の丸腰曲輪から二の丸風景 二の丸最上段風景 二の丸を降りると二の丸と二の丸北部曲輪群の間の掘割を通って、本丸方向へ。本丸は隣の小山の頂上にあるような構造で尾根筋でつながっているのだが、この尾根筋にも幅20メートルぐらいの掘割を切っているようである。
左側が二の丸方向で右側が本丸 ここを過ぎると本丸頂上までしばしの登りになる。ここまで酷使してきた足腰が、再びの登りに悲鳴を上げる。踏ん張りが効かなくなっているので転倒しないように注意しながらの歩行。ここの斜面にもいくつかの腰曲輪のような構造が見える。
左 鬱蒼としたところを登る 中央 本丸にも石垣らしき跡が 右 本丸上の石碑 本丸風景 かなりへばりつつようやく本丸に到着。ここは辺りをグルリと見渡すことが出来てなかなかの風景。ただ遠くはもやっていてハッキリとは見えない。ここのところ、黄砂などの影響でこのような風景ばかりだ。もっとも今だと新燃岳の影響の可能性もないとは言えない。ここからは遠く姫路やその先の海まで見通すことが出来る。播州を治めるには要地だとは思われるが、いささか奥まりすぎているような気はする。この高台の築城といい、赤松氏は守備優先の思想だったのだろうか。
北方の風景 南方遥か姫路方面 そろそろ日が西に傾いてきたので下りにかかることにする。途中で二の丸北曲輪群に立ち寄るが、ここは広場があるだけで特に何があるというわけではない。隣には三の丸もあるが、ここらの見学は省略することにする。
二の丸北曲輪群 再び看板のところに戻ってくると、茶室跡のところで一休み。茶室跡というぐらいだからここで伊右衛門で水分補給をしておく。これで一息つくと一気に下りにはいる。ただ注意すべきはこの下り。登山でも深刻な事故は下山時に多い。ミスをした時に取り返しがつかないのは、ヒルクライムよりもダウンヒルなのである。足下が枯れ葉で怪しいので、注意しないと滑って転倒してけがをする可能性がある。実際に何度か足を滑らせたが、何とか体勢を立て直して転倒は防止した。足が完全に死んでいるとこれをしそこねる恐れがあるので要注意。
慎重に降りてきたので帰りの行程も30分近くを要することになってしまった。ようやく駐車場まで降りてくると、ぐっしょりと汗をかいている。こうなると次に向かうのは温泉。一番近いのは先ほど立ち寄ったウェルサンピアだが、施設は綺麗だが温泉には疑問符がある施設なので、足を伸ばして安富花温泉まで行くことにする。
花温泉には30分ほどで到着する。ここは工場の先の別荘地のような妙な一角にある施設。駐車場からかなり坂を登る必要があるのが難点である。しかし泉質はこの辺りでも珍しい硫黄泉で、浴槽からもかすかな硫黄臭が漂っている。さすがに硫黄泉だけあって肌あたりがよい。これでたっぷりと汗を流してから帰途につくのであった。
正直なところ置塩城を見た時にはくじけそうになって引き返そうかと思ったが、何とか気力を振り絞って最後まで登り切った。これは先日に新高山城を攻略したことが自信につながっている。今後はこの置塩城を攻略したことが更なる自信へとつながることであろう。やはりステップアップとはこういう風に段階を踏んで行っていく必要があるんだと、妙なところで実感。
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