展覧会遠征 福岡編
さて三連休である。三連休となればどこかに遠征というのは世間の常識(?)である。ただこの時期の遠征につきまとうのは積雪リスク。それを考えると北方方面の遠征は難しく、行き先は必然的に南方方向に限定されてくる。そこで私が設定した目的地は福岡である。先の鹿児島遠征時に入手した「旅名人の九州満喫切符」がまだ2日分残っており、これを3月末までに使用する必要がある。この切符は九州全域のJR及び私鉄の普通車両に乗車できるという優れものである。ちょうど九州北部には未視察の私鉄路線がゴロゴロあるし、100名城の一つの大野城も未訪問だしということで、目的地が決定した次第。
ただ九州内の移動は切符があるとしても、往復の旅費の問題がある。そこで初めてレール&レンタカー切符を使用することにした。これを使うと往復の乗車券が2割引になるし、どうせ大野城を訪問するなら車がないとかなりしんどいことから、格好のプランと考えられた。
しかし順当にチケットを手配し終えた頃から状況が変化し始めた。なんとここに来て一気に寒の戻りが発生。週末の三連休は全国的に大荒れの模様だという。しかもその降雪地域には福岡も含まれている。恐れていた積雪リスクが本格的に襲撃してきたのである。実はレンタカー予約の時に、万一の事態も想定してスタッドレスタイヤのオプションを指定しようと考えていたのだが、なんと福岡のレンタカー屋にはスタッドレスタイヤのオプションがないことが判明。福岡では雪の日には「車を使わない」という選択肢しかないらしいということを痛感したのである。つまりもし雪が降ったら万事休す。運を天に任せる状況だったのだが、もうこうなると出たとこ勝負である。
当日は早朝に起床。天候は雪はちらついているものの最寄りの駅に向かうには問題のなさそうな路面状況であった。遠征決行である。ただもう一つ気になるのは新幹線の混雑具合。例によって今回も一週間前にエクスプレス予約で早朝の新幹線のチケットを確保しようとしたのであるが、なんとこの日は昼頃の新幹線まですべて指定席は満席。結局は自由席を購入せざるを得なくなったのである。この時期になぜこんなに混雑するのかは意味不明だが、いくらなんでも小倉まで立ってなんて状況では体が持たない。
寒いホームでしばらく待った後、ようやく新幹線が到着する。自由席に目をやると、それなりに混雑はしているようだが座席の確保には問題なさそうでホッとする。席を確保して座り込むと昨夜の寝不足のツケが出てきてすぐに眠くなる。時々ハッと目が覚めるが、そのたびに車窓風景が雪で真っ白なのが気になるところ。
新幹線は予定通りに小倉に到着。九州は幸いにして雪は降らずに小雨がぱらついている程度。とりあえずトランクをロッカーに入れて身軽になってから、予定通りの行動に入る。まずは鹿児島本線で黒崎まで移動、ここから筑豊電鉄に乗り換えて直方を目指すことにする。
筑豊電鉄は黒崎と直方を結んでいる鉄道会社で、西鉄の完全子会社なのだとか。JR黒崎駅の改札を出て西に向かうと、バスターミナルの中に筑豊電鉄の黒崎駅前駅がある。列車は二両編成で全線複線電化の標準軌である。私は車両の写真を見たときにてっきり路面電車だと思っていたのだが、実は全線専用軌道である。イメージとしては京阪に近いか。なお全線複線化されており1時間に4本ぐらいの運行があり、電化のメリットを生かした多頻度運転で利便性は高い。また線形自体は悪くはないのだが、路盤があまり良くない印象で、あえて高速運転はしていないような感も受ける。なお周辺のバスの運行とも連携しており、この鉄道自体がバスの一路線のような位置づけになっている。
左 黒崎駅前 中央 筑豊電鉄黒崎駅前駅 隣はバス停 右 筑豊電鉄車両 終点までの駅の数は21で16キロの路線距離を考えるとかなり多い。こういう点でもバスに近いイメージ。全く乗り降りがなくて通過するような駅も少なくないが、基本的には小倉から筑豊地域にかけての住宅地の中を通っているので、全線を通じて細かい乗り降りがあり、乗客はそれなりにいるようである。駅はすべて無人駅で、車内で運転士と車掌が改札をする形態である。車庫は楠橋駅の近くにあるようで、使っているのか使っていないのか判然としないような車両も見える。
左 筑豊電鉄車内 中央 線形は悪くはない 右 対向車両とすれ違う 30分ちょっとで終点の筑豊直方に到着。ここからは平成筑豊鉄道で行橋まで移動の予定。平成筑豊鉄道の始発駅であるJR直方駅に向かって歩く。とりあえず頭の中にイメージした地図に従って5分ほど歩くが、どうも雰囲気がおかしいことに気づく。確か10分もせずに到着するはずなのだが、そもそも線路らしきものの気配がない。嫌な予感がしたので近くの店で道を確認したところ、なんと真反対に歩いていたことが判明。慌てて引き返すが、この時点で乗車予定列車の発車時間まで10分ない。これはどう計算してもとても間に合わない。いきなりスケジュール大崩壊の危機。絶望的な気分で駅へと急ぐことになる。急いで(と言っても走るだけの体力はないが)筑豊直方駅手前まで戻ってきた時、後方からやって来たバスが目の前のバス停に止まる。行き先を見ると「直方行き」。これは天の助けとばかりにそのバスに飛び乗る。直方でバスから飛び降りるとダッシュ。何とか列車の発車直前に滑り込むことに成功した。ラッキーだったと言うべきか。やはり日頃の行いが良いとどこかから助けがあるようである(笑)。
左 筑豊直方駅と 中央 JR直方駅 右 平成筑豊鉄道車両 平成筑豊鉄道の車両は一部クロスシートのロングシート単両ディーゼル車。元々国鉄の路線だけに「なぜこんなところを」と言うような田圃の真ん中をしばし走行する。田川伊田までは沿線はそんな調子。田川伊田からはしばし市街地がつづく区間があり、その辺りの乗り降りはいくらかある。そこを過ぎると森の中になり、それを越えて開けたところに出ると終点の行橋はすぐである。
左 車内風景 中央 沿線風景 右 金田駅の車庫 左 柚須原駅で対向れっや市とすれ違い 中央 源じいの森駅周辺 右 行橋駅(JR線ホームから) 行橋からはJRに乗り換え。中津行きの普通列車に乗車する。中津は相変わらずの「一万円札の町」で、駅前商店街が壊滅的状態なのも相変わらず。とりあえずはここで昼食を摂る。
たまたま行橋を通りかかったソニックは、なぜかたま駅長ペイント 昼食を済ませると、さらに先へ進む。今回の目的地は宇佐。行橋まで来たついでに、さらに足を延ばして宇佐神宮を訪問しておこうという考え。宇佐神宮とは、USAと書けば分かるようにアメリカに由来する神社で、かつてアメリカ大統領が日本を初訪問した時に記念に建てられた神社である・・・なんてベタなボケをかましてる場合じゃない。宇佐神宮とは古代よりの由緒正しい神社で、宇佐八幡は日本中にある八幡宮の総本山であり、三大八幡にもあげられている。また宇佐神宮と言えば、なんと言っても有名なのは道鏡の偽御神託事件。これは称徳天皇に取り入った道鏡が、天皇位の纂奪をねらって「道鏡を天皇にすべし」という宇佐神宮の御神託をでっち上げた事件である。この件は調査に行った和気清麻呂が「天皇の血統を守るべし」という正しい御神託を持ち帰ったことで解決したということになっている。もっとも道鏡を天皇にする気満々だった称徳天皇はこの報告に激怒。和気清麻呂を別部穢麻呂と改名させた上で流刑に処している(それにしても改名とは子供じみたことをさせる)。なお称徳天皇の崩御後に即位した光仁天皇によって道鏡は失脚させられ、和気清麻呂は復職した。この光仁天皇、歴史的には特に何をしたというわけではないが、道鏡を失脚させて和気清麻呂を復職させたということだけで歴史に名が残っている。そういう点では綱吉の生類哀れみの令を廃止した徳川六代将軍・家宣みたいなものである。
なお実際は道鏡は事前に宇佐神宮に手を回して、自身に都合がよい御神託が出るように工作していたのだろうから、そもそも「道鏡を天皇にすべし」という御神託はある意味で正規のものだったろうし、和気清麻呂もそれを承知の上で、新たな御神託をでっち上げたというのが実態だろう。そういう意味では神仏を一番信じていなかったのは道鏡だし、和気清麻呂にしても信仰についてはかなりドライだったように思われる。なお道鏡が今の世に生きていたら、まず間違いなく新興宗教の教祖かマルチ商法の社長になっていただろう。
宇佐駅
宇佐神宮までは宇佐駅からバスが出ているのでそれに乗車。8分程度で目的地に到着する。とにかく外から見ただけでも巨大な寺院だというのと、かなり現地が観光地化しているというのが第一印象である。また周囲は川と堀に囲まれている上に、中心の上宮は小高い山の上にあってとにかく堅固であり、この時代の寺院のご多分に漏れずほとんど城郭並の構えをしている。
左 宇佐神宮参道 中央 なぜか参道に機関車が 右 売店で購入したほかほかの抹茶饅頭 左 この橋を渡ると境内 中央 水路が堅固な堀のよう 右 こんな注意書きも山城並です(笑) 順路に沿って本堂から参拝。本堂には3つの御殿があり、それぞれ八幡大神、比売大神、神宮皇后が祀ってある。また上宮と下宮があり、どちらも3つの御殿があるのでとにかく参拝するところが多い寺院である。そもそもは上宮は貴族や皇族のための寺院で、我々のような下々のプロレタリアートは下宮の方に参拝することになっていたらしい。そういうところは「民主化」されたわけである。なお上宮の下には絵画館があり、和気清磨呂の大活躍を絵物語で展示してある。
左 西大門をくぐると 中央・右 上宮に到着する 左 南大門へのこの急な階段が堅固さの証 中央・右 こちらは下宮 上宮と下宮の参拝を済ませると宝物館に立ち寄る。ここはいわゆる神社付きの博物館と言うところ。国宝や重要文化財がゾロゾロだが、個人的には刀剣の類と室町期製作の金剛力士像あたりが面白かった。それにしてもさすがに全国の八幡宮の総本山だけあって、とにかく施設の規模が巨大。そう言う点でも「城郭」なのである。
見学を済ませると再びバスで宇佐駅に戻る。宇佐駅に到着すると、ちょうど中津行きの普通列車が待っているのでそれに飛び乗る。中津では小倉行きの普通に乗り換え、小倉でトランクを回収すると、ここから博多までは普通列車で移動するのもだるいのでソニックに乗車する(九州満喫切符では特急には乗車できないが、私は往路の切符として博多までの切符を買って小倉で途中下車しているので、小倉−博多の切符を持っている)。なお小倉−博多間は新幹線がJR西日本、在来線はJR九州といった競争がある区間なので、新幹線は博多との往復の割引切符を販売し、ソニックの方はこの区間は自由席料金で指定席にも乗車できるようにしてある。例によって「資本主義経済下においては、自由競争が非常に重要である」ということを示す実例となっている。ソニックは快調に走行して、45分程度で博多に到着する。
博多に到着するとまずはホテルにチェックインする。今回宿泊するのはルートイン博多駅前。私がドーミーインチェーンの次によく利用するホテルチェーンだが、ここはとにかく博多駅がそこに見えているような立地が至便であり、それがチョイスの最大理由。ホテルにチェックインするとしばしまったり。ただまだ夕食に繰り出すには若干早い気がするし、外もまだ明るいしということで、もう少しだけ足を伸ばすことにする。
博多駅の地下に潜ると地下鉄の駅へ。ここから福岡空港を見学しておいてやろうという考え。そもそも福岡市地下鉄は空港線と箱崎線、七隈線の3つの路線があり、空港線は福岡空港から姪浜まで結び、姪浜からはJR筑肥線と相互乗り入れをしている。博多以西は今までに数度乗車しているが、福岡空港方面には行ったことがないのでこの際に見学という考えである。なお九州満喫切符はこの地下鉄でも使用可能である。
出典 福岡市交通局HP 博多の次は東比恵。なおこの駅名、私はついつい「恵比寿」と間違ってしまう。字面だけを見るとイメージで「えびす」と読んでしまい、どうしてもそれが修正できない。終着の福岡空港駅はその次。改札を出てエスカレーターやエレベータで上がるとそこがもう空港である。これは確かに便利だ。この空港が利用客が多くて過密なのも納得できる。このアクセスの良さを考えると、田んぼの真ん中の不便極まりない佐賀空港なんて使う者は誰もいないだろう。やっぱり空港は立地が大事である。関空や成田なんて、そもそも作ったこと自体が間違いである。
左 地下鉄福岡空港駅 中央 エレベータの上がった先が空港ビル 右 ポケモンジャンボがいます ついでだから送迎デッキでしばし飛行機見物。見ているうちでも、出発便が飛び立った直後に到着便が滑走路に降りてくる。確かに過密ぶりは半端ではない。また明らかに空港のギリギリまで市街が迫っており、こういう都市型空港固有の問題点も垣間見える。
空港見学を終えると博多まで戻ってくる。ここで夕食にすることにする。やはり博多と言えば魚か。事前の調査に基づき選んだ店は「博多味処ひかり」。クエを目玉にしている居酒屋のようだ。とりあえず「お通し」「クエの刺身」「油坊主の煮物」「クエの味噌汁」「もずく酢」がセットになっている「ひかりセット」を注文。
かなり人気があるのかとにかく料理が出てくるのが遅い。こうなると酒を飲まない上に一人で訪問している私の場合は間が持たない。これがこの店の最大の難点。ただ料理自体はなかなかで客が多いのも納得。淡泊ながらも味に力のあるクエの刺身は最高だし、感心したのは油坊主の煮付け。非常に脂分が多いために食べ過ぎると下痢することもある魚だと聞いているが、こうして煮付けにすると異常に旨い魚である。そしてクエ入りの味噌汁も絶品。なおもずくが切れていたのか、なまこ酢に替えられてしまったのだが、私は生憎となまこはあまり好きでないのでこれだけはハズレ。
これだけ食べたところでやはりご飯ものが欲しくなった。そこで「クエ茶漬け」を注文。しばし待たされた後にようやく登場した茶漬けはほぼ期待通りのもの。やはり締めはこういうものに限る。
以上にコーラとウーロン茶1杯で支払いは4590円。まず妥当なところか。やはり博多は大都会にしては食べ物がうまいところであり、この辺りが東京や名古屋などとは根本的に違う。
夕食を堪能してからホテルに戻ると、大浴場でたっぷりと汗を流してから就寝するのであった。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時に起床すると朝食を摂ってから7時過ぎに外出。まずは地下鉄で天神に移動する。今日は主に西鉄沿いを移動する予定。西鉄こと西日本鉄道は、九州で唯一気を吐く大手私鉄である。西鉄福岡(天神)駅は地下鉄空港線の天神駅よりも南にある。早朝の地下街を駅に向かって足早に移動する人が多い。西鉄は福岡と大牟田を結ぶ天神大牟田線と支線である大宰府線、甘木線、さらに完全に独立している路線である貝塚線(他は標準軌なのに対して、ここだけ狭軌)がある。まずは天神から大牟田まで移動する予定。天神駅は大ターミナル。そこにロングシート6両編成の大牟田行き特急(5000形と言うらしい)が到着する。
天神を出るとしばらくは高架区間。特急はこの高架区間を狂ったようなスピードで突っ走る。やがて路線は地面に降りてくるが、それでも大丈夫かと思うぐらいの疾走。何が彼をここまで駆り立てるのか・・・ってそれはJRとの競争であるのは言うまでもない。そう言えば以前にJR九州の博多行き快速が滅多矢鱈にぶっ飛ばすと感じたが、この競争を意識しているのだろう。もっともJRの快速のほうは博多の手前の南福岡で何本も特急の通過を待たされる羽目になるので、ここまでの疾走が全く功をなさないことになってしまうのだが。
二日市までは沿線は市街地の延長。二日市からは大宰府に向かう支線が出ているが、これは以前に乗車している。二日市から先はしばし市街が途切れるところがあり、沿線に田んぼが見えたりする。次の大都市は久留米。久留米を過ぎると再び沿線はやや田舎めく。この辺りからは列車のスピードも若干低下する部分もある。掘割で有名な柳川手前辺りからは水郷のある田園風景が続く。柳川を過ぎると後は大牟田まで疾走。左手にJRが見えてきて、それと併走するようになるとまもなく大牟田に到着である。
左 大牟田駅入口 中央 JRと改札が並んでいる 右 雪がちらつき始める 西鉄大牟田駅はJR大牟田駅と隣接しており、改札口が隣り合っている。大牟田に到着する辺りから雪が断続的にちらつき始め、外に出ると肌が刺されるように気温が低い。とりあえず大牟田には用はないので、体を温めるために売店であんまんとホットココアを購入すると列車に戻る。なおこの辺りの駅の売店は当然のようにJR九州のSUGOCA対応なのだが、これ以外になぜかJR東日本のSuicaが使用可能。しかしそれにも関わらず、なぜかJR西日本のICOCAは使えない。なにやら訳が分からない。
列車は30分ほどで折り返し。私は柳川で途中下車をする。実は今日の目的地はここ。鉄道マニアではない私としては、やはり何の目的もなしに列車に乗るだけなんてのは我慢できるものではない。ここは掘割の町・柳川を見学しておいてやろうという計画。
西鉄柳川駅で特急を降りる。駅前には朝市が出ていたりなど完全に観光地の駅。ただ天候は生憎と小雪が舞い散る悪天候。とりあえずは駅から歩いて川下り船の乗り場に向かう。やはり柳川に来たからには定番の川下りをしておこうという考え。しかし最初に着いた船着き場では「団体客で一杯」とのことで乗船不可。そこで仕方なく別の船着き場に向かう。そこでは20分後ぐらいに船が出るとのことなのでしばし待つ。
西鉄柳川駅で降りると、生憎の小雪が舞い散る中を川下り船へ 川下りの船は十数人乗り程度の小舟。冬のこの時期にはこたつ船になっているが、如何せん小雪の舞い散る中ではそれでも寒い。また小さな舟にこたつを入れているので狭く、身動きがしにくくて大変である(実際、この後で私は足のしびれに惨々苦しめられることになる)。また乗船時に気を付けないと、バランスを崩すと転覆して水の中に落ちそうである。小舟は私以外に数組の家族連れなどを乗せて出発。この悪天候下でも観光客は結構来ているようである。小舟には動力はなく、竿で突いて操縦するという昔ながらの形式。寒空の下で重労働の船頭さんはかなり大変そうである。
船頭さんが操縦するこたつ船で掘割を進む 堀内を悠々と泳ぐ水鳥になぜかカッパ像に待ちぼうけの像
小舟は掘割を1時間ちょっとのコースで下ってゆく。そもそもこの掘割は柳川城の堀として川の水を引き込んで作られたものであるとのこと。柳川城はかつてこの地域に勢力を張った蒲池氏が築いた城郭で、九州でも屈指の堅城だったという。蒲池氏滅亡後は鍋島氏、龍造寺氏、田中氏などを経て、立花氏がここの領主となって明治を迎えている。明治時代に火災で建造物をほとんど失い、現在では城郭跡は柳川高校及び柳川中学校になっている。
左 水路にはかなり狭いところもある 中央 これが柳川式ドライブスルー 右 柳川高校の裏を通る 掘割は城の防御施設としてだけでなく、住民の生活水路としても使用されていたようで、掘割に面した入口を持っている家が多い。この辺りは以前に松江のお堀巡りをした時に見た光景に非常に類似している。また川下りの観光客用に、舟に乗ったまま甘酒などを買える店もあり、船頭によると柳川式のドライブスルーとのこと。
御花の回りを一周すると下船場へ。 この辺りは観光の中心 川下り船は柳川市街を下りつつ、柳川高校の裏手を通り、旧立花伯爵邸の御花の回りをグルッと一周して最後は観光案内所の近くの下船場に到着する。この辺りがちょうど柳川観光の中心地であるようだ。なお柳川の名物といえば、掘割にうなぎに北原白秋。なぜか常にどこかから「待ちぼうけ」か「あわて床屋」が聞こえてくるのがこの町である。この下船場の近くには白秋の生家を使用した白秋記念館があるのでまずはそこに立ち寄る。
白秋記念館は古民家 北原白秋はこの地の名家の息子として生まれたとのことで、なかなかに大きな屋敷である。ただ北原家はその後に没落し、この屋敷も人手に渡っていたとのこと。しかしそれが再度転売されることになった時、地元から白秋ゆかりのこの屋敷を記念館として保存するべきとの声が上がったのだという。
白秋記念館の見学の後はとりあえず昼食を摂ることにする。やはりここはうなぎを食べないと嘘だろう。なお柳川鍋と言えばドジョウ鍋なので、柳川と言えばドジョウというイメージがあるが、実際は柳川の名物はドジョウではなくてうなぎである。地元民はドジョウのような貧乏くさいものは食べないとのこと。なおかつては掘割でうなぎが捕れたのだが、今では鹿児島や宮崎から養殖物を買っているとか。とりあえず下船場近くのうなぎ屋「若松屋」で「上鰻せいろ蒸し(2200円)」を注文する。
昼食時と言うことで店内は客で一杯。しばらく待った後に熱々のせいろ蒸しが運ばれてくる。器のふたを取るとせいろに入ったうなぎ飯が現れる。鰻の匂いがプーンと食欲をそそる。うなぎは非常に柔らかくてどちらかと言えば関東向きか(そもそも関東のうなぎは焼く前に蒸すし)。タレの味付けはやや甘めで私好み。また器を見た時にはボリューム不足かと思ったのだが、実際に食べてみると見た目のイメージよりは量がある。ご飯にもしっかりと味が付いており、非常に食べ応えがある。入店前は所詮は観光地の店と少し侮っていたところがあるのだが、これは人気店であることも納得。
旧立花伯爵邸 昼食を終えたところでプラプラと今は学校になってしまっている「柳川城跡」を見学に行く。学校の周囲には一応は堀の名残と思われる水路があり、隅櫓跡の石碑も置いてある。また中学校のテニスコートの奥に天守台跡と言われる遺構が残っており、そこに一応看板は立っている。とは言うものの遺構はこの程度。やはり見るべきものはほとんど残っていないようである。九州一の堅城も、今や掘割にその名残をとどめるのみ。一抹の寂しさを感じずにはいられない。しばしこんな感傷に浸っているうちに柳川駅行きのバスの時刻が近づいてきたので、バスに乗車するためにバス停に急ぐ。
左 柳川中学周辺には水路が残る 中央 櫓跡を示す石碑 右 テニスコートの奥に天守台跡が 天守台跡と石垣跡 ↓この上に記念碑のようなものと案内看板 柳川からはとりあえずは久留米を目指す。今度到着した特急は朝に乗車したロングシートの通勤特急とは違って、2ドアで転換クロスシートのより特急らしい車両。これは8000形という本来の特急用車両。これでとりあえず久留米方面を目指すと、久留米の手前の花畑駅で甘木行きの普通列車に乗り換える。西鉄の支線である甘木線を調査しておいてやろうという考えである。到着したのは二両編成ロングシートの7000形車両。花畑を出ると久留米、櫛原と過ぎ、次の宮の陣で天神大牟田線と分岐することになる。この駅は構造がV字型ホームになっており、甘木線は東側の専用ホームに到着する形。列車はここでしばし博多方面からの列車を待ってから発車する。甘木線は全線単線路線なので、終点までに数回の対向車との行き違いがある。沿線にはある程度の住宅はあるものの、基本的には田んぼが非常に多く風景がのどかである。また乗降パターンとしては、甘木に向かうにつれて乗客が減少するというパターン。
左・中央 西鉄特急車両 右 甘木線車両 しばしのどかなの車窓を眺めていたのだが、その間に外の様子が劇的に変化を始める。途中からかなり雪が激しくなってきたのである。天気予報では午後から降雪の恐れと行っていたが、どうやらそれが的中した模様。辺りの田んぼの風景が見る見る真っ白になっていく。そして終点の甘木に到着した時には前を見るのもツライぐらいの豪雪になっていた。人工衛星にドップラーレーダー、流体解析まで併用した昨今の天気予報の精度は侮れないようだ。柳川から北上するにつれて空が薄暗くなってきていたのに不安を感じていたのだが、見事に不安通りになってしまった。
左 宮の陣駅ホーム 中央・右 進んでいくうちに天候がとんでもないことに ここから帰りは甘木鉄道に乗車するつもりなので、甘木鉄道の甘木駅を探すが、本来は2、3分で到着できるはずの距離なのに方向がよく分からない。結局は散々迷ってかなり遠回りをしてようやく甘木駅に到着する。場合によっては甘木周辺を散策しようと思っていたのであるが、とてもそんな状況ではない。
左・中央 西鉄甘木駅 右 甘木鉄道甘木駅 甘木からは甘木鉄道で基山まで移動することにする。甘木鉄道は甘木と基山を結ぶ単線非電化路線で、元々は国鉄甘木線だったものを地元自治体が中心となった第3セクターが引き継いだ路線である。なおこの路線の存続に対して福岡県は「西鉄甘木線もあるし、併走しているバス路線もあるし、存続の意義がない」と最後まで3セクでの存続に難色を示したため、3セク会社であるにもかかわらず福岡県の出資は全くないとか。
左 甘木鉄道車両 中央 車内風景 右 奥には車庫が 左・中央 朝倉は卑弥呼の里だとか 右 対向列車が到着 ホームに待っていた車両はAR300形で、新潟トランシスの典型的な3セク向け車両である。内部は見慣れたセミクロスシート構成だが、2+2ではなくて1+2のボックス構成なのが特徴的。ラッシュ時にはそこそこの乗客がいるということだろうか? なお全線で30分弱の短距離路線なので車両にトイレは付いていない。なお朝倉市は「卑弥呼の里」というのをキャッチコピーにしているようで、奥に停車していた車両は卑弥呼ペイントがされていた。邪馬台国については畿内説と北九州説が争って未だに決着はついていないが、その論争の行方はこのような地方の観光開発にも影響を及ぼしそうである。
左 沿線は豪雪 中央 西鉄小郡駅を越える 右 甘木鉄道基山駅(JRホームから) やがて豪雪の中を基山からの列車が到着、十数人の乗客が降車する。私の乗車した車両はそれと入れ替わりの形で発車する。甘木鉄道沿線には住宅もあるが比較的閑散とした雰囲気。こういう点でも経路の選定が旧国鉄的。もっとも運行本数などから西鉄甘木線の方が圧倒的に利便性が高いので、そちらの沿線の方がより発展したとも言えるが。なお途中である大きな工場は、この路線にも出資しているキリンビールの工場らしい。最初は数人だった乗客が、先に進むにつれて数人ずつ増えていく。やがて軌道が高架になり、辺りが市街めいてきたところが小郡駅。ここはちょうど西鉄の線路をまたいだところで、西鉄天神大牟田線と徒歩接続されている。ここで多くの乗客が降車する。列車はここを過ぎると大きく右にカーブし、やや閑散とした中を走り抜けていく。途中で高速道路の下をくぐるが、このトンネル内が立野駅。回りに何もないので、何故こんなところに駅があるのかと思ったが、どうやら近くに工場がいくつかあるらしい。ここから更に進むと終点の基山である。甘木鉄道はここの一番東側のホームを使用しており、高架を通ってJRに乗り換えが出来る。
南福岡駅ではポイントの凍結防止のために火で暖めていた
基山からはJRの快速で博多方面に向かう。例によって快速は南福岡まで爆走した後に、ここで延々と追い越され待ち。結局はかなり時間を浪費してから博多に到着する。しかし私はここで下車はせずにさらに先に進む。実はついでに西鉄貝塚線及び地下鉄を視察しておくつもり。千早まで乗車するとここで下車。JRに隣接している西鉄千早駅に移動する。
西鉄千早駅 隣はJR千早駅 西鉄貝塚線は貝塚から新宮を結ぶ単線路線である。他の西鉄路線と違って狭軌なのが特徴。基本的にデイタイムは1時間4本のパターンダイヤ。到着したのは2両編成ロングシートの600形車両。これはかつて天神大牟田線に導入されたものを狭軌に改造された車両とのこと。沿線は住宅地で、終点の新宮駅も特に何があるというわけではない普通の住宅地である。
新宮駅に到着すると、特にここに用はないので直ちに折り返す。千早駅を過ぎるとすぐに貝塚駅である。地図で見ると西鉄貝塚は地下鉄貝塚と一体になっているので線路がつながっているのかと思っていたのだが、実は線路はつながっておらず、向かい合わせになった西鉄と地下鉄の改札を徒歩で通り抜けて乗り換える形になっている。何やら無駄に不便な形態だと感じたが、将来的には線路を接続して相互乗り入れをする予定はあるらしい。
貝塚駅では一端改札をくぐってから列車乗り換え ここからは福岡市地下鉄箱崎線で中洲川端まで移動。ここで空港線に乗り換えて隣の天神まで移動する。天神で下車すると福岡市地下鉄最後の路線である七隈線の視察に向かう。七隈線は天神南から橋本を結ぶ路線だが、この天神南駅は天神から地下街をその南端までかなり下った位置にある。方向的には西鉄福岡駅と同じ方向だが、それよりさらに南。実際、西鉄との乗換駅は西鉄福岡のさらに一駅南の薬院になる。
地下街を抜けて天神南駅へ 10分近く歩いてようやく天神南駅に到着する。車両は空港線の車両とは違って、やや洒落たデザイン・・・と思っていたらどうやらローレル賞受賞車両らしい。天神南をでた時には車内は満員のラッシュ状態。これが橋本に向かうにつれてバラバラと乗客が降車していくというパターン。終着の橋本までは30分ほどだが、ここで降りる乗客は数人しかいない。
橋本駅から地上に上がると、もう博多の市街を外れた郊外で回りには何もない。こんなところに用はないので直ちに引き返す。復路も最初はガラガラだった車内が進むにつれて乗客が増え、天神南に到着時には満員というパターンである。
これで本日の予定は終了。しかしやけに疲れているし、どうにも心に空しさが広がっている。今日は柳川にこそ立ち寄ったものの、後は一日列車に乗っていただけだったからだろう。こういう時につくづく自分はいわゆる鉄道マニアではないと痛感する。やはり列車に乗っているだけでは楽しくないのである。特に地下鉄なんか乗っていても空しさしか感じない。あまりガラではないことはするべきではないななどと呟く。
疲れた上にここは博多一の繁華街であるのでこのままここで夕食を摂って帰ることにする。と思ったが、適当な店が見あたらないというか、今一つ何かを食べたいという気が起こらない。昼食にうなぎという結構重いものを食べたせいか? だんだんと面倒になってきたので、適当な店であっさりと豚カツ定食(笑)を食べてからホテルに戻る。
ホテルに帰ると風呂でゆったりとくつろいでから明日の戦略を練る。明日はレンタカーを予約しているので、これを使用して大野城、さらに秋月に向かう予定。ただ気になるのは積雪である。今日は特に甘木地方で豪雪にあったが、秋月はその奥である。もし明日も今日の調子で雪が降ったら途中で進退窮まることになりかねない。それどころか朝目覚めた途端に辺りが真っ白という事態になれば、最初からすべての計画が頓挫する可能性さえある。とは言うもののうだうだ思い悩んだところでどうなるものではない。後は運を天に任せるしかない。腹を括ったところで急激に眠気が襲ってきたので、早めに床につくことにする。
☆☆☆☆☆
翌朝も6時に起床すると早々に朝食を摂って8時前にチェックアウトする。駅レンタは8時からオープンである。駅の案内所で手続きをすると、駅ビル4階の駐車場へ。ここに駅レンタの事務所がある。待っていたのはスズキのワゴンR。これがとりあえずは今日の私のパートナーである。とりあえず車とカーナビの簡単な操作説明を聞くと町に繰り出すことにする。
しかし最初は予想以上に戸惑いが多かった。やはり慣れない車は運転しにくい。ブレーキの感触が違うので、突然にガクンと急ブレーキになってしまったり、アクセルの踏み加減だけでは速度の推測がつかなかったりと、最初は車に慣れるだけで四苦八苦である。ただ基本的にワゴンRは運転しにくい車ではないのは確かである。
積雪が心配であったが、幸いにして道路に雪はないし、天候も晴れている。とりあえずある程度車に慣れたところで大野城を目指すことにする。目的地は駐車場のある県民の森センター。
大野城は飛鳥時代に太宰府北方の四王寺山に築かれた古代山城である。663年、倭国は友好国であった百済の復興支援のために朝鮮半島に援軍を送るが、その百済・倭国連合軍が新羅・唐連合軍に敗北する。これによって新羅が侵攻してくる危険を感じた倭国では、防御のための城郭をいくつか築く。この時に技術的に指揮を執ったのが百済からの亡命技術者達なので、いずれも朝鮮式の山城となっている。大野城は九州の拠点であった太宰府防御のための城であり、同時期に同様の目的で築かれたのがこれも100名城の岡山の鬼ノ城である。
「大野城」までの道路には雪はなかった。しかし山道にさしかかった途端に突然に状況が変化する。道一面に雪が積もっている。どうも山中の雪はまだ溶けきっていなかったらしい。しかし今更引き返せないのでそのまま轍の跡をたどりながら2速でゆっくりと走る。路面状態は最悪であるが、林道と言っても対面2車線の立派な舗装道路であるのが救いではある。
道路はこの状況
しかし状況は標高が高くなるにつれてさらに悪化する。運転と言うよりは轍の跡をたどるので精一杯である。途中で百間石垣らしい場所にさしかかったが、雪に埋もれていてよく分からない。しかも見学のために一度停車すると、再発進の際に車輪が空滑りして脱出できなくなりかけるし、轍から少しそれるとすぐに車が横に向きそうになる。とにかく大野城が全山を使用したとてつもない規模のものだということは分かるが、車を止めて見学できる状態ではない。
百間石垣?
四苦八苦の末にようやく県民の森センターに到着。しかし辺りは一面の銀世界。当初はここで車を止めて徒歩で見学することを考えていたが、いざ現地に到着してみると山の規模が予想よりも大きいし、足下は雪道で悪すぎるしということで、とにかく今回の見学は断念することにする。
後はとにかく南側の斜面のヘアピンカーブを最大限のエンジンブレーキを利かせながら脱出である。ようやく太宰府の辺りに出てきたときには疲れでぐったりしてしまった。とにかく教訓は、ノーマルタイヤの軽自動車で雪の山道を走行することは無謀というものであった。お粗末。
大野城をパスしたことでとりあえず予定の全面組み替えが必要となった。といっても特別なあてがあるわけでもない。仕方ないので次の目的地である秋月訪問を繰り上げることにする。とりあえずカーナビの目的地に秋月を入力すると指示に従って走行する。
甘木一帯は前日にかなりの雪に見舞われたのだが、今朝がやや暖かめだったこともあって、幸いにして路上に雪は残っておらずスムーズに走行できる。ただし秋月は山の近くだけに、秋月に近づくにつれて雪は増えてくる。もし雪で道が閉ざされるようなら引き返すしかないと考えつつのドライブだが、幸いにして最後まで道路に雪が積もっているところはなかった。
秋月に近づくにつれ、風情のある町並みが見えてくる。秋月の手前にはアーチ型の石橋があるので、しばしそれを撮影。そこからさらに先に進んだ位置にある町営駐車場に車を止める。秋月ではあちこちに駐車場があるようだが(現地の人が空いている私有地を駐車場にしているようだ)、どこも示し合わせたように1日300円が相場になっている。
秋月のシンボルのアーチ橋
まずは秋月郷土館に立ち寄る。茅葺き屋根に積もった雪が風情がある。ここは民俗資料館と歴史博物館と美術館をつきまぜたような施設。地元の農機具から秋月藩ゆかりの資料、さらになぜかルノワールやピカソの絵画まであるという意味不明な施設である。歴史博物館では秋月藩の歴史について解説されているが、幕末の秋月の乱に関する試料が多い。
秋月の乱は明治初期に続発したいわゆる不平氏族の反乱の一つだが、この時に蜂起した秋月党は鎮圧され(隣国の豊津藩にも蜂起を呼びかけたが、結果としては豊津藩は蜂起に参加せずに裏切られる形になったとか)、多くの死者を出したらしい。また関係者の多くが処罰されることになり、首謀者とされた益田静方、今村百八郎らは裁判で即日斬首にされたとのこと。
またこれ以外では「日本最後の仇討ち」とされた臼井六郎関係の資料もある。これは幕末の動乱期に暗殺された秋月藩執政・臼井亘理の息子の六郎が、父母の敵である一瀬直久を旧藩主・黒田長沖邸で殺害した事件である。事件発生時の明治13年は既に明治政府による仇討ち禁止令が公布された後であり、六郎は殺人犯として終身刑に処せられる。10年後に恩赦によって釈放されて秋月に戻った彼は、英雄の如く迎えられたという。なお近くこの臼井六郎の物語がドラマとして放送されるとかで、館内にはその案内も貼り出されていた。
歴史の動乱期であるが、今は穏やかな山間のこの町でもそのような殺伐とした多くの血が流れたと言うことである。国の行く末に関する意見の対立が、議論を越えてテロの応酬になってしまったために流れた血も多い。昨今も短絡的にとにかく対立意見を力で封じようとする風潮が出つつあるので、それが気がかりなところである。
郷土館を見学した後は、秋月城の方に向かう。街路は並木に雪が積もっていて風情たっぷり。ただ朝からの日差しで雪が半分溶けかかっており、時々上からドサッと落ちてくるのでそれが要注意である。
「秋月城」は、この地に勢力を張った秋月氏が古処山に山城を築城したことから始まっており、秋月氏が秀吉に降伏して国替えになり一時廃城となる。後に黒田長政の三男の黒田長興が福岡藩から分封される形でここに入ったという。しかしこの時点で既に一国一城令で古処山の山城は廃城となっていたので、麓の秋月氏の館跡を陣屋として改修したのだという。その後、秋月藩の藩庁として明治を迎え、明治の廃城令で大部分の建造物が撤去されたとか。
左 瓦坂 中央 黒門 右 長屋門 秋月城跡は今では中学校になってしまっているが、手前の堀や石垣などが残っており、当時の偉容を伝えている。大手門跡には石橋がかかっているが、ここは瓦坂と呼ばれ、滑り止めのために瓦が埋められている。なお現在はこの瓦坂の先は行き止まりにされており(先は中学校の校庭)、現在はここより少し南のところに学校の入口が新たに作られている。この学校より南方は一段高くなっており、かつては奥御殿であったとか。ここのところに裏手門であった長屋門が修復されて建っている。またさらに南方がまた一段高くなっており神社となっている。陣屋であったので天守などはなく、非常にシンプルな構造である。なお元々は大手門であった黒門がこの神社の参道に移築されているし、裏手門であった長屋門は修復されて現地に建っている。
武家屋敷
秋月城の見学を終えると軽い昼食としてそばを食べ、さらに市街を散策する。筑前の小京都と銘打っている秋月は、どちらかというと典型的な田舎の農村という風景だが、町並みにはかつての城下町の面影が残っており、武家屋敷なども数件残存している。非常に懐かしくて落ち着く町である。
町並みの見学を終えると駐車場に戻ってくる。次の目的地への移動である。次の目的地は久留米。以前に久留米を訪問した時には時間の関係で駆け足でしか見学できなかった石橋美術館をもっとゆっくりと見学しようという考えである。
秋月から甘木まで移動すると、そこからほぼ西鉄甘木線に沿ったルートになる。甘木周辺は都会だが、そこをはずれると田圃の中といった風景になる。なお最初から気になっていたことなのであるが、福岡は運転マナーが劣悪なところである。特に道路脇から割り込んでくる車が、本線車道の車の動きを全く見ずに強引に割り込んでくる。一度など「これは絶対に来ないだろう」というタイミングでいきなり軽トラックが突っ込んできた(しかもこっちに気づいても、自らは停止しようという気が全くない)ために危うく衝突事故を起こしそうになった。こちらは急ブレーキを踏んだために、車内でカメラが吹っ飛んだぐらいである。あまりに強引に割り込む車が多いので、もしかして福岡では割り込み車の方が優先というローカルルールでもあるのかと疑ってしまう。また車線変更などではウィンカーを出さないのがデフォルト。運転マナーが悪いと言えば大阪も有名であるが、福岡のドライバーが大阪のドライバーと根本的に違うのは、明らかに運転が下手であることである。大阪のドライバーは無茶苦茶な運転をしながらでも、阿吽の呼吸で事故を避けているのに対して、福岡のドライバーにはそのようなものはない。何となく福岡では車の事故が非常に多いという理由が分かった気がする。
運転のしにくさに閉口しながらも、ようやく目的の石橋美術館に到着。駐車場に車を入れると早速見学である。
「10のとびら−絵からひろがる世界」石橋美術館で3/13まで
石橋美術館のコレクションは明治期の作品から現代まで、具象画から抽象画、さらには彫刻に陶器など多岐に渡るが、これらのコレクションを10のテーマで分類して、何らかの共通テーマを浮かび上がらせるという企画。例えば1つ目の扉である「自画像・肖像画」といったコーナーでは岸田劉生の「麗子像」を中心として、いろいろな画家が描いた肖像画を並べているというような趣向。
テーマの中には「写実」「写実的に描くとは?」というようなものもあり、前者はまさに写実に徹したような絵画を、後者は安井曾太郎の「玉蟲先生像」を中心に、明らかに見たままを描いたと言うものとは違うようでありながら、実は対象の特徴をよくとらえていることからむしろリアリティを感じられるというような作品が並んでおり、この辺りは芸術表現としてはなかなか面白かった。
とにかくコレクションのレベルが高いので、それだけでかなり堪能できる。この美術館の看板のような青木繁の「海の幸」や黒田清輝、藤島武二の作品などかなり楽しめる作品が多く、実に満足度の高い展覧会である。
美術館の見学を終えたところで、次は温泉と洒落込むことにする。実はちょうどこの美術館の裏手ぐらい当たるところに久留米温泉という温泉があるということが調査済みである。早速そこに向かうことにする・・・が、目的地が路地の奥のために入口に行き当たるまでに惨々迷う羽目になる。路地をウネウネと走るので、これは軽自動車で正解だったという感じ。迷いまくってようやくたどり着いた久留米温泉はいかにも昔懐かしい温泉ホテルという風情。ただ立地的に日帰り入浴客がかなり多いようで、駐車場には多くの車が停まっている。
料金は3時間のショートステイで700円。これが実質的な日帰り入浴料金である。なお時間制なので休憩をとってから再入浴というのもありである。浴場に入るとプンと鼻を突くのは硫黄の匂い。48度の天然自噴泉で泉質はアルカリ性硫黄温泉。色はほとんど無色。この湯がドバドバと浴槽に注がれており、熱湯が好きな人は注ぎ口に近い浴槽に、ぬるめが好きな人は離れた浴槽に入るというパターン。
とにかく湯の質が良いというのが第一印象。アルカリ泉なので肌がヌルヌルするタイプである。これに硫黄泉の効果が加わってとにかく肌には最強の泉質であると言える。町のど真ん中なので眺望や雰囲気を味わえるものではないが、広い露天ではそれなりにくつろげる。とにかく泉質に関しては、私が今まで行った温泉の中でも屈指である。施設的に老朽化もあるためにロッカーが汚い。また大広間で食事&休憩しようとすると、老人団体のカラオケ大会に立ち会う羽目になる。さらにやはり土地柄か、入浴客の中には模様入りの方も見受けられるなんて辺りが施設的な難であるが、これが気にならないのなら非常に優れた温泉である。明らかに地元民の常連客が多く見られるのも納得は出来る。
温泉でさっぱりゆっくりしたところで時計を見るとまだ3時ぐらい。レンタカーは8時まで借りられるのでまだまだ時間に余裕がある。これはやはりまだどこかへと考えた時に、太宰府政庁跡に寄って来なかったことを思い出す。ここも公共交通機関で行こうと考えると意外と面倒なところ。この際に立ち寄っておこうと思い立つ。
道路を博多方面に北上することしばし、目的地に到着する。駐車場に車を置いて降り立ったところはひたすら広い公園。そこに建物の礎石の跡などが残っている。ただこれがなければただの公園。実際、犬の散歩をさせている人がやたらに多い。隣接している展示館には復元模型などがあるが、これを見ると平城京や平安京と同じような建物が建っていたようだが、政庁跡ということで規模の違いこそあれ多賀城に一番近い。と感じたところで、やはり多賀城が100名城に入っていることに改めて違和感を感じる。実際にあれの名称が多賀城でなくて、多賀宮や多賀府なら100名城には入っていなかったのではないか? また多賀城が100名城なら、太宰府だって十二分に資格はあるような気がする。
左 太宰府展示館 中央・右 建物跡 太宰府の背後にそびえるのは大野城のある四王寺山。大野城はこの太宰府の防御のために作られた山城である・・・と四王寺山を見上げた時にあることに気づく。「雪が消えている・・・。」 朝に大野城に行った時には下から見た四王寺山は真っ白であった。今日は比較的気温が上がったことで木の枝などに乗っていた雪が溶け落ちたのだろう。これを見て、もしかしたら今からなら大野城の見学も可能かもと思い立つ。
思い立ったら早速行動である。もう4時を回っているので日没時刻を考えると見学に要せる時間はそう多くはない。朝に通った道を逆に辿りながら四王寺山を登る。やはり私の読み通り路上の雪はほとんどなくなっており、スムーズに走行が出来る。
雪は溶けている
途中で朝にも見つけていた「岩屋城跡」の入口に到着したことから、道路脇に車を停めてまずは岩屋城跡を見学しておくことにする。
左 岩屋城入口 中央 堀の底を右に登る 右 本丸跡 左 石碑 中央 高橋紹運墓地 右 太宰府政庁跡が見える 岩屋城は戦国時代に大友氏の配下の高橋鑑種が築いたとされる城で、大友家にとっては筑前支配の拠点であった。しかし高橋鑑種は大友宗麟に反旗を翻したために城を追われ、代わって吉弘鎮種が高橋鎮種(高橋紹運)と名乗ってこの城に入る。大友氏が耳川の戦いで島津氏に大敗し斜陽になる中で、彼は立花道雪と共に筑前を他勢力の侵攻から守り抜く。しかし道雪の病死後に島津軍が2万(現地看板には5万と記載)の大軍を率いて岩屋城に侵攻、高橋紹運は島津軍の降伏勧告をはねつけて、763人の城兵と共に城に籠もって半月に渡って徹底抗戦した末に討ち死にしたという。彼の名は主君に忠義を尽くして壮絶な最期を遂げた猛将として歴史に残っている。
案内看板のところからまだ雪の残る階段を足下に気を付けながら登っていく。途中で路の分岐があるが、どうやらここは堀切の底のようである。ここから右手に進むとまるで展望台のような開けた小さな平地に出るが、これが岩屋城本丸跡である。ここには高橋紹運を讃えたと思われる「嗚呼壮烈岩屋城址」という石碑が建っている。ここからは辺りを一望できてまさに展望台。眼下には太宰府政庁跡も見える。また下方に墓地らしきものが見えるのは高橋紹運の墓所で二の丸らしい。しかし雪で足下は悪いし、タイムリミットは近づいているしということで、岩屋城の見学はこれで終えてさらに車を先に進める。
さらに四王寺山を登ると駐車場のようなスペースがあるが、ここの奥には立派な土塁がある。また下方を見ると石積みが見える。これは「大野城」の太宰府口城門跡とのこと。実はもっと近くで見てみたかったのだが、斜面が急な上に雪が残っていて足下が悪いので、万一の事態を考えて降りていくのは残念ながら諦めた。やはり一人での山城見学は万一の事故が一番怖い。なお私と一緒に山城を回ってくれる女性がいればいつでも歓迎である。出来れば山城巡りだけでなく人生のパートナーになってもらいたい(笑)。
左 土塁跡 中央 急な斜面の下の方に門の跡が見える 右 門跡 さらに進むと県民の森センターに到着する。しかし開園時間が9時〜17時ということで、現在は17時前だがもう既に駐車場入口はチェーンが張られて閉鎖されている。仕方がないのでさらに先に進むと、百間石垣の下に出てくる。朝には雪に埋もれていて何が何やらよく分からなかったが、現在は石垣の石がハッキリと見えている。急な崖の上に細かい石垣を積み上げたような感じで、やはり鬼ノ城のものと雰囲気が似ている。
とりあえず大野城の雰囲気は把握することが出来た。今回は悪条件のためにキチンとした見学は不可能だったが、これはいずれリベンジしたいところである。その場合には車の調達はもちろんとして、時間としては最低でも半日は確保、さらにはハイキングのための装備と体力の準備が必要である。
これで本日の予定は完全終了である。まだレンタカー返却の時間まで余裕はあるが、早めに博多駅に戻ってしまうことにする。ただこの行程もとにかく福岡のドライバーのマナーの悪さと、博多駅周辺の道路の異常な混雑に辟易する羽目になったのである。結局は駅ビルの4階の駅レン事務所に車を返却したのは6時過ぎ。その後は駅周辺で適当に夕食を摂ってから、博多通りもんやひよこなどの定番土産を買い込んで、新幹線で帰途についたのである。そう言えばなぜか近年では東京土産の定番になってしまっているひよこであるが、本来の発祥は博多であり、博多駅のキオスクでも「ひよこは博多のお土産です」とデカデカと張り出してあった。東京で名物と言われているものって、実際はこんな風にどこかから盗ってきたものが意外と多いのである。
予定外の雪という悪条件に祟られることとなったが、何とか所期の目的は達成することが出来た遠征である。これも私の日頃の行いの賜物か(笑)。先の松江でのお堀巡りから何やら舟づいて来た感のある私だが、柳川の掘割もなかなかに印象に残るものであった。水路から見上げると町がまた違った表情を見せるのは新鮮である。またまだ宿題は残っているものの、これで一応は大野城も制覇。これで100名城九州地区は完了である。これで残るは近畿の小谷城、東海の山中城、さらには関東の箕輪城、金山城、八王子城といった山城群に川越城、後は未踏の北海道及び沖縄が3城ずつということで、1つのゴールが見えてきたような気がする。また実は今回の遠征で北部九州は私鉄完乗ということで、九州地区に残る未視察鉄道は南阿蘇鉄道だけだったりする。私は公的には鉄道マニアではないことになっているのだが、知らない間に版図が着々と広がってしまっているのである。
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