展覧会遠征 北関東編
ここのところ「展覧会遠征」とは銘打ちながら、中身は展覧会以外がメインというような当初の趣旨とずれたような遠征が多くなっていた。しかしこの週末においては、久々にその趣旨通りの遠征を実施することになりそうである。
現在横浜では「ドガ展」が、東京では「ゴッホ展」が開催されている。さらに埼玉では私が興味を持っている画家の一人であるワイエスの展覧会が開催中。やはりこれらの展覧会は押さえておきたいところである。そこで急遽東京方面に遠征することと相成った次第である。
また上記の展覧会は久々になかなかのビックネームである。これは会場が混雑する可能性が高い。そのようなことを考えるとできれば平日に訪問したいところ。となれば金曜日に年有休暇を取得するパターン。さらにどうせ東京まで出向くなら、その周辺地域も回りたい。三連休に年有休暇一日を加えると最大四日間の日程が組める。そうして考えた場合に浮上したのが群馬・栃木・茨城といった北関東地域。実はこれらの地域は今まで何かのついでに立ち寄った程度で、本格的に見学のために回ったということがない。そのためにこれらの地域には未訪問の美術館、城郭などが非常に多くなっている。このような諸条件を勘案した結果、東京を訪問してから北関東に移動し、北関東を横断的に回っていくというプランの骨格が出来上がった。
さて当日はお約束の朝一番の新幹線(エクスプレス予約で「いつもの便」に加えても良いぐらいだな)。新横浜までこれで移動すると菊名で切符を精算して東急に乗り換え(料金の関係で東京までの往復切符を買っている)、そのままみなとみらいまで一気に移動する。
横浜美術館に到着したのは開館の10時の10分前。50人程度の開館待ちの行列が出来ている。まあこの程度までは想定内である。開場の頃にはこの行列が倍になっている。
「ドガ展」横浜美術館で12/31まで
印象派の旗手の一人で踊り子の絵で有名なドガの展覧会である。
ドガの作品で有名な「エトワール」が初来日するというのが目玉になっているが、展覧会自体はドガのかなり初期のスケッチから展示されている。その中で、ドガという画家はかなりデッサンにこだわった画家だというのが分かるようになっている。とにかく線で形態を現すことに徹底的にこだわり、それが初期のスケッチには端的に表れている。
やがてそのデッサンへのこだわりが、モデルの動きへの執着になって現れる。彼は競馬を好んだことで知られるが、それは競走馬の動きに魅入られたからだという。実際に彼が描く馬の絵は非常に躍動的である。このような嗜好を持っている以上、踊り子という題材に彼が惹かれていくのはある意味で当然であったようである。
躍動的な踊り子の姿を描くために、彼は画材としてパステルを用いるようになる。油絵の具のような大がかりな準備が必要でないパステルは、その場でのスケッチを重視する彼には好都合な画材だったようである。「エトワール」もパステルで描かれた絵画であり、独特の淡い色彩で煌びやかな踊り子の姿が描かれている。実際に作品を目の前にすると神々しい雰囲気さえ感じてしまう。
なお展覧会には彼の彫刻作品も展示されていたが、それらのほとんどは作品と言うよりも、あくまで彼の絵画における人体表現を考える上での資料だったようで、アニメーターが使うモデル人形のようなものだったらしい。そのようなものが残っているところにも、彼が動きの表現にあくまで執着していたことがうかがわれる。
個人的には印象派の画家の中でドガは「踊り子の画家」というイメージ以外には確たるものを持っていなかったのだが、本展のおかげでドガという画家の本質に迫れたような気がする。そういう点で非常に貴重な機会で、やはり関東まで出張った甲斐があったというものである。
非常に有用な展覧会であり、これから私のドガの作品を見る目も変わるだろうと思わざるを得ないような内容であった。これも一期一会だろうか。こういうことがあるからこそ展覧会遠征をやめられないのである。
横浜美術館を出ると地下鉄で菊名まで移動、ここからJR横浜線で八王子まで移動する。横浜線は大分昔に視察しているが、東京の郊外を走る路線。やはりあまり面白味はない。なお私は今回の遠征に備えて事前にSuicaを購入しているので、往路と違ってここでの乗り換えはスムーズである。今まではICOCAを持っていたせいで、わざわざデポジットを払ってまでSuicaを購入する気はしなかったのであるが、ICACAはPASMOと相互乗り入れしていないため、地下鉄などの使用に非常に不便を感じてはいた。しかし最近の調査の結果、Suicaが搭載されたAEONカードがあることが判明。しかもこのカードはデポジットは不要とのことなので、今まで使用していたAEONカードをこれに切り替えた次第。東京圏ではSuica対応自販機が非常に多いので、実際に持ってみると思いの外便利ではある。この際もカード1枚でJRとの乗り換えが一発である。
八王子に到着するとここからは八高線で川越方面に向かうつもり。八高線は八王子と高崎を結ぶ路線という意味。忠犬ハチ公とは無関係である(笑)。ただ元々は非電化単線路線だったが、今では途中の高麗川以南が電化され、この部分はやはり単線電化路線である川越線の川越以西と一体運行されている。
待ち時間の間に駅でとりあえずの昼食として怪しげなうどん(なぜか微妙に麺が黒い)をかき込むと、到着した折り返し列車に乗車する。4両編成の車内には乗客が多く、しばし沿線は八王子周辺の住宅地が続く。しかし青梅線・五日市線との接続駅である拝島で大量の降車があり、車内は一気に乗客が減少する。ここからは駅間も非常に長い上に、沿線は何もないという東京周辺とは思えない風景が続く。
高麗川の手前の東飯能は西武池袋線との乗換駅。ここで大量の乗客の入れ替えがあって次の高麗川に向かう。高麗川では対向列車とのすれ違い及び、八高線北部の非電化部分との接続がある。ここから川越線に突入すると、沿線は再び都市化してくる。運行本数も多いのか、駅ごとにすれ違いがあるので待ち時間が長くて少々かったるい。
川越に到着すると乗り換えである。川越には100名城の一つである川越城があるので、本来なら立ち寄っていきたいところだが、現在は川越城の一番の目玉である本丸御殿が修復工事中で立ち入り禁止。どうせなら工事が終了してから訪問するつもりなので今回はパスする。
向かいのホームに止まっているのは6つドアで朝には座席がなくなるという、別名「社畜運搬車両」。川越線は大宮と高麗川を結ぶ路線だが、川越以西は八高線と、以東は埼京線と一体運行されているので、埼京線仕様の車両というわけ。それにしてもこんなほとんど人権無視な車両が運行されるとは、つくづく東京というのは異常な都市であるし、やはり既に破綻していると考えずにはいられない。
大宮に到着するとここから北浦和に移動。次の目的地は駅からそう遠くないところにある。たださすがに昼食がうどん一杯では腹の方がかなり厳しいので、喫茶でパスタを食べてから入場することにする。
「アンドリュー・ワイエス展」埼玉県立近代美術館で12/12までアメリカの国民画家と呼ばれているアンドリュー・ワイエスの作品の中で、オルソンハウスを題材にした一連の作品は特に名作として知られているが、丸沼芸術の森が所蔵する貴重なオルソンシリーズの水彩・素描を中心に展示したのが本展。
ワイエスと言えばテンペラを用いた異様に精緻でリアルな絵画で知られているが、本展で展示されているのはその前段階とも言えるスケッチであり、これを見ているとワイエスが最終作品に至るまでに何度も構成などを検討していることが分かる。また彼はかなりリアリティを追求した画家であるが、そのリアリティとは単に風景を写真的に写し取るという意味ではなく、あくまで彼の思考回路を経由しての再構成も実は行われているということなども読み取ることが出来る。
ワイエスという画家の創作の過程に迫れる展覧会でなかなかに興味深いところである。
次の目的地は通い慣れたる美術館。「ドガ展」に並んで本遠征の主目的である。それにしても何回行ってもやはりここは行きにくい。なんでこんなに接続が悪いんだろう。それに東京の地下鉄はやはり使いにくい。
「没後120年 ゴッホ展 こうして私はゴッホになった」国立新美術館で12/20まで
ゴッホと言えば大胆な構図に鮮やかな色使いの一連の代表作が頭に浮かぶが、実はそのようなゴッホの典型的な画風は彼の南仏時代以降に形成されたもので、そこに至るまでは種々の試行錯誤を経由している。本展は「こうして私はゴッホになった」と題しているように、ゴッホがいかにしてそのような画風の確立に至ったかに重点を置いた展覧会であり、ゴッホの作品のみならず、同時代のゴッホに影響を与えた画家の作品なども併せて展示してある。
ほぼ独学で絵を学んだゴッホは、最初期にはデッサンを学ぶべく素描を描きまくっているが、正直なところ絵心のない私の目から見てもバランスなどに難があってあまり旨いとは思えない。やがて暗い色彩で農民の姿などを描き始める。この頃の絵画は我々が通常ゴッホの絵と言われた時に連想する絵画とはかなり性格が異なる。
やがて当時流行の印象派の洗礼を受けた彼は、独自に色彩表現の追究を始める。さらにはこれまた当時流行のジャポニズムの影響で浮世絵に触れた彼の中で、急激な画風の変化が起こり始め、それが南仏で花開く。ここからがいわゆる我々が普通に思いつくゴッホの作品が登場するのであるが、実は我々がイメージするゴッホの絵画とは、短かった彼の画業の中でも、さらに短いほんの数年の範囲であるということを改めて思い知らされるのである。
その後の彼は、早すぎる進化は往々にして早すぎる破滅に結びつくと言うことを証明するかのように精神の破綻を来たし、ついには自殺によってこの世を去ってしまう。まさに天才と何とか紙一重という言葉を実践してしまった生涯であった。一体ゴッホとは何者であったのだろうかということをつくづく考えさせられる展覧会である。
これで本日の予定は終了。後はホテルにチェックインして夕食に行くだけである。ホテルはいつものホテルNEO東京。しかし異変はそのホテルへの途中で発生する。何と常磐線で人身事故があったということで、西日暮里まで到着した時点で列車の運行が停止されてしまったのである。
東京というところは、毎日のように必ずどこかで人身事故があるところだが、実に迷惑至極である。しかも夕方の帰宅ラッシュをもろに直撃なので大混乱が発生している。千代田線は運行が停止してしまったので振り替え輸送が行われているが、JRの方も大混乱。つくづく鉄道自殺はテロと言っても良いと思う。ちなみにイスラム教徒の自爆テロは、本人はイスラムの天国に行けると確信しているらしいが、日本の鉄道自殺テロは、これだけ大勢の人間に迷惑をかける以上は間違いなく地獄に一直線だろう。各人の事情があるので、死を選ぶことをすべて否定する気はないが、鉄道にだけは飛び込むな。もっと他人に迷惑のかからない死に方をしろ!
常磐線が完全停止している以上は千代田線経由では南千住にたどり着きようがない。とりあえず何にしても上野に出るしかないので、西日暮里からJR山手線に乗り換える。西日暮里からの山手線は身動きの取れないほどの満員。あちこちで押し合いへし合いのパニックが発生している。次の日暮里で大量の降車がある(私は東京の土地勘がないので分からなかったが、彼らは京成に乗り換えたのか?)。私はそのままとりあえず上野に行く。
上野に到着した時点で常磐線の回復にはまだまだかかりそうな模様。そこで腹を括って上野で夕食を摂ってからホテルに向かうことにする。さて夕食を摂る店だが、以前に上野駅周辺にはあまり良い店がないことを痛感している。そこで今回は上野南部のいかにも何かがありそうな雰囲気のエリアに向かうことにする。いかにも雑然としている町の上に「アメ横」の表示が出ている。「これがアメ横か・・・。」今までに名前は聞いたことはあったが、実際に来たのは初めてである。雰囲気的には大阪の新世界に近いものがある。雑然として何となくガラが悪いが、概して安くて旨いものはこういうところで食べられるものである。
とりあえず一回りしつつ適当な店を探す。いわゆる立ち飲み屋が多く、こういう点でも大阪のミナミにそっくりである。ただやはりこういう場所はトランクを引っ張りながらウロウロしていると浮いてしまうのを感じる。その内にビビッと来る店があったのでそこに入る。
入店したのは「松ずみ」。食事と居酒屋の両対応の雰囲気の店で、酒を受け付けない私でも食事に専念できるので好都合。まずは注文は「天丼」。さらにメニューを見ていると、ここはクジラを扱っているようなので「クジラの唐揚げ」を追加注文する(それにしても最近の欧米を中心とした、狂信の影に打算と人種差別が滲み出ている反捕鯨運動には怒りを禁じ得ないが)。
天丼はボリューム的にはやや小振りだが、エビ天が5つも入っていて貧相という印象はない。東京らしく天ぷらには多分ごま油使用、つゆの味付けもやや濃いめではあるが、関西人の私でも嫌味に感じない程度。クジラの唐揚げはいわゆる懐かしいクジラの竜田揚げ。普通に美味しい。よく「クジラの肉なんて臭くて食えたものではない」と言う輩がいるんだが、本当にクジラを食べたことがあるんだろうか?
以上で支払いは2310円。まずは妥当なところで東京としてはCPが良い。なかなかに使える店を見つけたという感想。
向かいのセブンイレブンで夜食を仕入れると上野駅に戻る。しかしまだ常磐線は復旧されていない模様。やむなく地下鉄日比谷線で南千住に向かおうとするが、予想通り駅内は大混雑。乗車できたのは二台をやり過ごした後。その間に常磐線復旧の報が入るが、だからといって急に混雑が解消されるわけではない。結局は押し合いへし合いの超ラッシュ状態の列車でヘロヘロになりながら南千住に到着する。
ホテルにチェックインしてテレビをつけると「カリオストロの城」を放送している。この映画は一体今まで何十回見たか分からないぐらいだが、やはり見入ってしまう。いやー、やっぱり名作だなぁ・・・。何年たっても古いという気は全くしない。クライマックスなんて何度見ても感動の涙が出そうになる。一見コミカルに見える動きが、非常にシリアスに感情を語っていたりして。時計塔から落ちていくクラリスを空中を泳ぎながら追いついて抱きしめ、彼女の頭をかばいつつ、水面をキッと睨み付けるシーンなんて何度見ても格好がいい。そしてラストの別れのシーン。思わずクラリスを抱きしめそうになるが、ここで抱きしめてしまうと二度と彼女と別れることが出来ない。彼女のためには彼女は絶対に自分についてきてはいけない。そこでまさに渾身の力で抱きしめかけた両手を広げ、彼女の肩を抱く。痛いほど気持ちの分かるシーンで、何度見ても笑いつつ涙が出るな・・・。そしていい味出している埼玉県警の面々。結局は最後まで見入ってしまった。やっぱり宮崎駿の作品も、この頃の方が最近の作品よりも生き生きしていて力がある。
結局この日は風呂に入ってテレビを見ただけで就寝。まあ元々何もないホテルなので、ホテルに入ってしまうとすることはないのだが・・・。
☆☆☆☆☆
翌朝は5時半に起床すると買っていたパンを朝食代わりに腹に入れ、6時過ぎにチェックアウトする。今日の最終目的地は高崎であるが、諸般の事情で八高線経由のルートになる予定である。JRで池袋まで移動すると、そこから東武の特急で川越まで。東武のこの路線に乗るのは初めてだが、沿線は住宅地ばかりで変化がない。以前に新宿から府中まで京王線に乗った時も感じたが、特に鉄道マニアではない私にはやはり都会の私鉄は乗車していて全く面白味を感じない。まだ地下鉄でないことが救いではあるが。
東武川越に到着
川越でJR八高線に乗り換える。土曜日ではあるが、時間帯的に通勤時間帯であるためか乗客は結構行き来している。ここからはちょうど昨日と逆に八王子方面に向かうことになる。途中の高麗川で昨日も見かけたキハ110系の3両編成に乗り換える。単両運行可の車両を三両連ねた変わった編成の列車。乗車率はそこそこである。ここから高崎方面に移動である。
ワンマンタイプの車両を連結している
高麗川を出ると沿線は突然に山の中という風景に。八高線は東京近郊路線とは思えないようなローカル線ムード漂う路線と聞いていたが、確かに通常の東京近郊路線とは雰囲気が違う。そもそも東京近郊にはディーゼル車自体がほとんどない。ここ以外では久留里線ぐらいではなかろうか。
寄居駅に到着
のどかな風景の中をしばし走行。列車は高崎行きであるが、一気に高崎まで行くだけでは意味がないので途中で一カ所立ち寄る。目的地は寄居。ここから鉢形城を見学するつもりである。そもそも八高線に乗車した目的自体がここに立ち寄るためである。
「鉢形城」は山内上杉氏の家宰だった長尾氏が築いた中世城郭で、その後に変転があって戦国期には北条氏の所属となる。しかし秀吉の小田原攻めで前田利家や上杉景勝の攻撃を受けて開城。その後に廃城となったという。現在は史跡公園として整備されており、100名城にも選定されている。私としては初めて訪問する埼玉県の100名城である(と言うか、埼玉県内の城郭自体が初めてであるが)。
寄居駅で下車するとロッカーにトランクを・・・と思うが何とコインロッカーがない。そこで駅前にあった観光案内所を訪問、鉢形城の地図を入手すると共にトランクを預かってもらう。後は地図にしたがって市街を南下。寄居の市街はどこか懐かしいような街並み。はっきり言って田舎である。ただこういう街並みは正直言って嫌いではない。
街並みを抜けると目の前に橋が見えてくる。これで荒川を渡った先が鉢形城のようだが、ここが唖然とするほどの渓谷。これだけは現地に来てみないと地図を見ているだけだとイメージできなかったところである。これだけの断崖絶壁だと、鉢形城は背後の守りは万全である。
橋から見る鉢形城裏手は断崖絶壁
橋を渡るとそこが鉢形城跡なので城内を散策する。朝から生憎の雨なので傘をさしながらの見学となる。鉢形城は西側が大手、東側が搦手となっているので、最東部のこの辺りは本丸の東端となる。鉢形城は荒川と深沢川が合流する地点に作られているので、その合流地点を一番奥にして、手前に防御施設を連ねる形となっている。実に理にかなった縄張りである。
川沿いの小高くなっている部分がかつての御殿曲輪跡だという。建造物の類は一切なく、田山花袋の歌碑があるだけだが、曲輪の跡はよく分かるし整備もされている。地元も観光開発に力を入れていると見られ、下草の類はよく刈り込んであるのであるが、やたらに立派なクモの巣があちこちに張っていたのが閉口(奴らは数時間あれば立派な巣を張ってしまうので、完全に除去するのは不可能)。歩く時には頭上に注意である。
左 本丸の搦手側 中央 伝御殿曲輪 右 御殿曲輪から見た荒川 左 田山花袋の歌碑 中央 ここは門だったと思われる 右 本曲輪と二の曲輪の間の堀跡か 御殿曲輪跡から荒川の対岸を見下ろすことが出来る。やはりこれはかなりの要害である。外郭線の距離が長いので寡兵で大軍を防ぐというタイプの城ではないが、大軍勢を駐屯させてこの地域の要の城として守るには堅固そのものである。実際に秀吉の小田原攻めでは各地の城が次々と落城する中で、この城は拠点としてある程度の兵力が残されていたこともあってかなり持ちこたえたようである。
左・中央 二の曲輪 右 二の曲輪の堀と土塁 左 建物の復元 中央 井戸 右 門も復元されている 本曲輪見学の後は西部の二の曲輪、三の曲輪の見学に行く。こちらの方は本曲輪跡よりもさらに整備が進んでいるようである。土塁や堀なども整備されており、三の曲輪跡には復元門や小屋なども建てられており、当時の城郭の雰囲気を醸し出している。
左 二の曲輪の虎口 中央 虎口の奥に見えるのが諏訪神社 右 向こうに見えるのが三の曲輪 左 大手門付近には水堀跡も残る 中央 弁天社跡、ここは本来は水堀だった 右 遠くに外曲輪が見える この三の曲輪のさらに奥には逸見曲輪や外曲輪などがあるのだが、ここは水堀を多用した要塞になっていたようで、大手口をしっかりと守っている。この辺りはこの城郭の規模の大きさを実感できるようになっている。
左 三の曲輪の南部 中央 深沢川方面に降りる 右 深沢川は決して広い川ではないが険しい 左 南外曲輪の広い土塁 中央 土塁の南は昔は水堀だった 右 土塁の内部はかなり広い 二の曲輪まで戻ってくると、深沢川を渡って南部の外曲輪跡に出る。この川は川幅は狭いのであるが両岸がかなり断崖になっており、このままで天然の堀である。北部の荒川と南部のこの深沢川が鉢形城の守りの要である。なおこの深沢川のさらに南方を守っているのが外曲輪で、その外郭は土塁と堀で守られていたようである。
鉢形城歴史資料館
この外曲輪の西方にあるのが鉢形城歴史館。ここでは鉢形城関係の資料を見ることが出来る。ここを見学したところで鉢形城見学は終了。とにかく予想していた以上に規模が大きく、また見所も多い城郭である。これは100名城選定も納得。
さて駅まで戻らないと行けないが、かなり駅から離れてしまった上にもう既に足がグダグダであるので無理をせずにタクシーを呼ぶことにする。
駅に到着すると八高線で高崎まで移動である。この寄居駅はJRと東武と秩父鉄道が入った共同駅で駅の管理は東武が行っているようだ。JRのホームで列車を待っていると、秩父鉄道のホームで何やら人だかりが出来ている。何だろうと思っているとSLが入線してくる。どうやら秩父鉄道で運行されているSLパレオエクスプレスのようである。SLは乗ってみてそれほど面白いと感じるものではないが、やはりこうして横で音を聞きつつ眺めているとなかなか良い。いつかはこれにも乗ってみたいななんて考えも頭をよぎる。
SLが駅を出発する頃に八高線の車両がやってくる。こちらの出発まではまだ時間があるので(この駅で対向車との待ち合わせがある)、SLを見送ってから乗車する。例のごとく単両×3の三両編成の構成だが、車内は結構混雑している。
寄居からの沿線はやはりローカルムードであるが、高麗川−寄居間に比べるとまだ住宅は多い印象。高崎が近づくにつれて沿線は住宅地になり乗客も多くなる。やがて列車は高崎駅の行き止まり3番ホームに到着。八高線はここでピストン運転されているようだ。
高崎駅に到着
さてこれからの予定であるが、今日の宿泊予定はドーミーイン高崎であるが、まだ昼過ぎ頃であるので当然であるがここからさらに足を伸ばすつもり。とりあえずは駅内のロッカーにトランクを放り込んでから両毛線のホームに向かう。まずは前橋に行くつもりである。
やがて小山行きの列車が到着。両毛線は正確には新前橋−小山間の路線であるが、全列車が高崎まで乗り入れており、新前橋−高崎間は上越線を経由することになる。車両自体は何の面白味もない都市近郊形電車(107系)。
両毛線車両
前橋駅にはすぐに到着する。乗り降りは結構多い。前橋駅は現在改装中の模様。ただそれをさっ引いても、駅前に降り立つがどうもパッとしない。前橋市はそもそもは群馬県の県庁所在地なのであるが、交通の要衝である高崎市に比べて印象が弱い。何となく駅前から寂れムードが漂っているのが否定できないところ。
前橋駅は何となく寂れムード
駅前からバスに乗車する。しかし雨が降っているせいとモータリゼーションが進行しているせいか、土曜日の昼だというのに道路が大渋滞でバスが進まない。正直なところいろいろな面で問題のある都市だという印象を受ける。
ようやくバスは中央前橋に到着、ここから上毛電鉄で西桐生を目指す予定である。上毛電鉄は中央前橋と西桐生を結ぶローカル私鉄である。桐生に行くつもりなのでどうせならこれを視察しておいてやろうという考えである。
左 中央前橋駅駅舎 中央 中央前橋駅構内 右 車両はかなりレトロ 駅舎は最近に建て直されたとかで比較的綺麗。以前はテナントが撤退して閑散とした悲惨なビルだったという。列車はかなり古色蒼然とした二両編成車両だが、700形といって元々は京王の車両だったらしい。車内を見渡すと結構乗客がいる。またサイクルトレインを実施しているようで、自転車を持ち込んでいる中学生が見受けられる。これは特に都市周辺部では機動性を発揮できる組み合わせである。
赤城駅にて東武の特急りょうもう
沿線はいきなり郊外という地域に突入する。どうやら前橋の市街自体がそう大きくないようである。乗客は前橋から離れるにつれて減少するというパターンで、程なく車内は閑散とするようになる。また最初はアテンダントが登場して切符の販売などを行っているが、彼女たちは途中で下車して折り返しの列車に移乗してしまうので、途中からは完全なワンマン運行となる。途中の大胡駅には車両基地があり、赤城駅では東武と接続しているが、それ以外はひたすら畑と田んぼの中を疾走しているイメージ。また路盤が悪いのか妙な揺れ方をするので決して乗り心地が良いとは言えない。沿線の雰囲気といい、車両の揺れ方と良い、思い出したのは島根の一畑電鉄。正直なところ、駅が多すぎるせいもあって乗っていて「だるい」と感じる路線である。かなり疲れた頃にようやく終点の西桐生に到着する。
左・中央 終点の西桐生駅に到着 右 北の山腹に目的地が見えている 西桐生の風情のある駅舎を抜けて山の方を見ると、ちょうど山腹に白い建物が見える。これが目的地の大川美術館。実はここを訪問するためにわざわざ上毛電鉄に乗車したのである。私の遠征はあくまで展覧会遠征であって、乗り鉄ツアーではない。住宅地裏の険しい階段をヒーヒー言いながら登ると、ようやく目的地に到着である。
大川美術館斜面に建った階段がやたらに多い建物の構成が最も印象的である。数階に分かれたフロアに多くの展示室があり、美術館の規模に比べて展示点数が多い。
所蔵品は近代の日本人の画家の作品が多く、ジャンルは洋画。正直なところ、こちらの分野にあまり造詣が深くない私には知らない画家が多かったのだが、松本竣介の作品が印象的。いかにも彼らしい色遣いである。
作品的には現代に近いところが多いので、今一つ私にピンとくる作品は少なかったが、美術館の落ち着いた雰囲気や建物の構成が良い。住宅地に自然に溶け込んでいるところなども気に入った。
館内は落ち着いた雰囲気で小部屋が多い。また館内撮影可なのは非常に珍しい。 中央 松本竣介の「運河(汐留近く)」 右 同じく松本竣介の「街」
美術館を出ると西桐生駅からさらに南下、JR桐生駅まで歩く。しかしこの桐生の市街も何となく活気がない。どうも東京周辺地域は寂れているところが多い。東京の毒が回っているというべきか。やはりあの病的な街は解体しかないと思うところである。
桐生駅でしばらく列車待ち。その間に反対側ホームに妙にファンシーなキャラクターをつけた115系がやってくる。「群馬デスティネーションキャンペーン」とペイントしてある。デスティネーションキャンペーンって・・・つまりは群馬をただ単なる通過県ではなくて、群馬に滞在してくれというキャンペーンだろうか? 群馬は大人口集積地の東京を控えているので、観光地としては決して条件は悪いとは思えないが・・・。ただそうして考えてみると、これと言って群馬にアピールポイントがないのは事実。やはり「東京周辺部」ではなくて、群馬のアイデンティティーを確立するのが最重要だろう。どこの観光地にしても、このアイデンティティーがないところは魅力がない。
左 桐生駅 中央 わたらせ渓谷鉄道車両 右 群馬デスティネーションキャンペーン ようやく高崎行きの列車が到着したのでこれで高崎に戻る。久しぶりに降り立つ高崎駅は相変わらず結構活気がある。トランクを回収するととりあえずはホテルに入る前に美術館に立ち寄ることにする。ただ生憎かなりの豪雨なのには閉口する。
「アルフォンス・ミュシャ展」高崎市美術館及び高崎市タワー美術館で11/7まで「アールヌーヴォーの旗手」、または「世界で女性を最も美しく描いた画家」、さらには「19世紀最大の萌え絵師」とも言われている(少女マンガの定番であるヒロインが花枠を背負って登場するというカットは、そもそも彼が確立したものである)アルフォンス・ミュシャの展覧会である。
展示品は堺市文化会館所蔵品が多かったので、私には馴染みのある作品も多かったが、それ以外のものも含まれていたので楽しめた。特にポスターばかりでなくて晩年の絵画作品が多く展示されていたのは収穫。
ホテルにチェックインすると一息ついてから夕食に出ることにする。調べてから向かった店は三連休のためか生憎と休み。他に特にあてもなく、雨も激しいのであまり歩き回る気もしないしで面倒くさくなったのでホテル向かいの中華料理屋「蓮煌」に入店する。ここはどちらかといえば飲茶の店であるが、一品料理もあるようである。とりあえず「炒飯」「麻婆豆腐(四川風)」「黒酢の角煮」「杏仁豆腐」を注文。
夕食は中華を堪能することとなった
シンプルな炒飯はあっさりしていて良い。麻婆豆腐は何やら香辛料が効いた結構私好みのタイプ。黒酢の角煮は酢の風味がなかなか良い。杏仁豆腐は至って単純至極なものだが、爽やかでなかなか。以上で支払いは2170円。なかなか妥当な線である。
ホテルに帰還するとまずは風呂にはいることにする。露天風呂もある大浴場でいかにもドーミーらしい構成でまずまず。入浴を済ませてまったりしているとすぐに眠気が襲ってくる。どうも最近は体力がなくなったせいか、ホテルにはいるとバタンキューになってしまうことが多い。この日もいつもよりも早めに床に就いたのである。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時前に起床するとホテルで朝食を済ませ、8時前頃にチェックアウトする。さて今日は水戸方面までの移動である。先日も乗車した両毛線に乗車、まずは足利を目指す。目的は足利美術館と足利氏館こと鑁阿寺。また足利館の近くには、日本最古の高等教育機関と言われている足利学校も存在している。
足利までは両毛線の各駅停車である。両毛線の沿線は田んぼか畑か山しかない印象だが、先日訪問した桐生を過ぎるとさらにその傾向に拍車がかかる。足利の手前では山をトンネルで抜けることから、恐らくかつてはこの辺りには足利を守るための城郭・砦などがあったであろうと推測される。
両毛線で足利まで移動 足利駅で下車するとトランクをロッカーに入れて街に繰り出す。市内巡回バスが来たのでそれで足利学校の近くまで移動する。
足利学校がいつ創設されたかは諸説あるが、平安、もしくは鎌倉時代と言われている。室町期には上杉憲実などの保護を受け、関東の最高学府として知られることになった。なお初期の教育内容は儒学が中心であったが、戦国時代になって行くにつれて実用性を重視して兵学や易学が中心となり、戦国期には事実上の軍師の養成校となっていったという。江戸時代にもそのまま存続したが、やがて学問の多様化、また藩校や寺子屋の普及などによって徐々に衰退していったという。明治になって廃校となり、建物は多くが撤去されて蔵書も散逸の危機に瀕したが、田崎早雲らの活動によって辛うじて蔵書及び孔子廟などの建物が保存されることになったという。近年に小学校になっていた東半分が復元されて今日の姿になったとのこと。
「學校」の額がかかった門をくぐって内部にはいると、孔子廟などが建っている。足利学校はかなり落ち着いた建物で、確かに「学問」という修行をするには良さそうなところである。これに比べると今の大学はいかにもチャラチャラしすぎのように思えてくる。世の中が豊かになるほどどうも努力を避けるぐうたらは増えてくるようで、日本でも学問どころか労働自体を避けるニートが増えてきている。昔は「衣食足りて礼節を知る」と言われたが、今では「衣食余りてぐうたらになる」か。ただ物的には豊かになっているが、精神的には極めて貧困になっているのが気がかりである。
左 入学証をもらうと 中央 学校の門をくぐる 右 門の脇には孔子像もある 左 孔子廟 中央 これが学校の建物 右 庭園がある 左 これは裏手の門 中央 学校内部 右 オリジナルの看板 足利学校の見学を終えると、隣接している「足利氏館こと鑁阿寺」に向かう。ここは元々は足利氏の館の跡であり、中世の武家館の形式を伝える遺跡として100名城にも選定されている。
四方に門を持ち、土塁と堀に囲まれている姿は確かに中世の武家館と言える。ただ内部は完全にただのお寺であり、入ってしまうと城郭というイメージは皆無である。甲府の武田館も今は神社であるが、まだあちらは東の馬出や北部の藪の中などに城郭の面影があるが、こちらはどこから見てもただのお寺。正直なところ100名城としてはどうかなという印象。100名城は観光のことを考えて1都道府県に最低1つという妙な基準があるので、それが故に無理矢理に選ばれたのではという印象も持つ。まあ少なくとも鑁阿寺単独でどうこうというよりも足利学校も合わせての合わせ技でギリギリというところか。
内部は普通にお寺です とは言うものの、100名城抜きの単なる歴史的遺跡と見ればなかなかに良いところである。足利の町自体も風情がどことなくあるし、もっと観光地としてアピールしていっても良いように思われる(その際には間違っても「北関東の鎌倉」とかそういうカビの生えたようなコピーは使わない方がよい)。
足利市美術館
鑁阿寺の見学を終えた後は、まっすぐに南下してしばし歩くと足利市美術館に到着する。ここはマンションらしき建物の低層階に入居している。私の訪問時には「仮面」の展示。世界各地の仮面が展示されていて面白くはあったが、私の専門外である(日本の仮面の代表として仮面ライダーでも出てくれば私の専門に近づくのだが(笑))。
歩いて足利駅に戻ると列車の到着時刻まで時間があるのでどこかで食事をと思ったが、駅前には適当な店が見あたらない。結局は駅前のはなまるうどんに入る羽目に。しかし実は関東で一番まともなうどんが食べられるのはこのチェーンだったりする。
うどんブランチを済ませて、駅でセブンティーンアイスをなめながら待っていた頃にようやく列車が到着する。次の行動予定は足利での所要時間次第と考えていたが、想定以上に見学に時間を要した(つまりはそれだけの見所があったという意味である)ので、次の目的地である栃木に直行する。
栃木市はなぜか栃木の県庁所在地ではないという不思議な都市である。実は昔は県庁があったのだが、その後に宇都宮に移転したとのこと。この間、諸々のゴタゴタがあったであろうことは想像に難くない。今は栃木市は「蔵の町」として観光を中心に売り込んでいる。ただ降り立った駅前は少々寂れているという印象を否定は出来ない。
栃木駅前
JR栃木駅から町の中心部までは距離があるのだが、市内巡回バスは列車の到着直前に出た後という連絡の悪さ。仕方ないのでしばし歩くことにするが、昨日の雨天が一転して晴天になった今日は、昼頃になってきて灼熱してきており、距離も思った以上にあったことから予想以上に消耗してしまう。なお「蔵の町」を売りにしている栃木だが、特に町並み保存が徹底しているというほどではなく、実際には蔵が並んでいる町並みは川沿いのごく一部。後は江戸時代と言うよりは昭和レトロな町並みである。まあ嫌いではないけれども。
川沿いの風景
左・中央 町中にはこんな建物もありますが 右 全体としてはこういう感じでごく普通の街 レトロな町並みを眺めつつ進むと、やがて目の前に三つの連なった蔵が見えてくる。これが今回の目的地である蔵の町美術館。館内の展示はちょうどハイチの市民アートを展示中。日本人とは明らかに感性の異なる明るい色使いが印象的で技巧的ではないが非常に精緻な作品が多い。こうやって見ると、光沢のあるアクリル絵具はまさに彼らのための画材のようにさえ思える。
隣には山車展示館があり、ここではこの地域の祭りを映像などで再現している。どことなく岸和田のだんじり会館を思い出す。
市内巡回バス
さてこれからだがどうしたものか。足利では予定以上に時間を費やしてしまったが、栃木では予定よりも早く目的を終えてしまった。そこでオプショナルツアーを発動させることにする。市内循環バスで栃木駅まで戻ると、そこから東武で宇都宮に移動。宇都宮城を見学することにする。
東武宇都宮線は次の新栃木から分岐して宇都宮までを結ぶ単線路線である。沿線は畑が圧倒的に多いが、利用客はそれなりにいる。群馬・栃木エリアは東武の勢力が強く、JRの八高線や両毛線では勝負になっていないような印象である。両線共にそもそも本数が少なすぎ、利便性の点で東武と勝負になっていない。畑を眺めながらぼんやりしていると、やがて宇都宮の市街が見え始める。宇都宮へは30分程度で到着する。
東武路線図 東武宇都宮駅で降りると宇都宮市役所方面に向かう。「宇都宮城」は市役所の隣にあるとのこと。最近になって再整備されたと聞いているが、どういう状態かは見たことがない。宇都宮に来るのは二回目であるが、ここの町も栃木よりは大きくはあるものの、今一つ繁栄しているという雰囲気でもない。やはりここも「東京の毒」に苛まれているような印象を受ける。やはり日本全体の繁栄を考えると、東京という腫瘍は摘出手術が必要だとしか思えない。
徒歩10分ほど市役所に到着。市役所の横を抜けるとかなり高い土塁が目にはいる。土塁上には櫓も復元されており、西の城門や堀などもありなかなかに絵になるようにはなっている。
表からは結構立派に見えますが、門をくぐって裏に回ると完全に張りぼてです ただ城門をくぐって裏側に回ると愕然とする。まず城門の奥には何もないし、この土塁自体が裏側からはコンクリートが丸見え。実際は土塁に見せかけたコンクリート建造物であることがよく分かる。コンクリート構造体の表面に土嚢のようなものをつけて、そこに芝を植えてある。つまりは城郭全体が張りぼて状態。これでは映画のセットのようなものである。復元櫓はそれなりに時代考証などを検討して木造復元しているようだが、これだけでは何とも寂しい限り。明らかに県庁所在地の城郭には採点が甘いように思われる100名城の選定にも宇都宮城は名前が挙がっていないが、これではそれも仕方なかろう。やはりあまりに遺構が残っていない。
土塁に見せかけていても実態はこれ
宇都宮城の見学を終えると東武で栃木にとんぼ返り、トランクを回収すると両毛線で小山まで出る。小山は田んぼの真ん中に忽然と存在する都市というイメージ。栃木にしても宇都宮にしても、この地域の都市はすべてこういうイメージである。小山で水戸線に乗り換えるとそのまま今日の宿泊地である水戸を目指す。時間の余裕によっては途中の下館に立ち寄るつもりであったが、時間的にも体力的にもそんな余裕は全くなくなってしまった。1時間半ほど朦朧となりながら水戸線の普通列車に揺られる。
水戸に到着した時にはすっかり真っ暗になっていた。つくづく日が暮れるのが早くなったものである。明日のために駅のみどりの券売機で「ときわ路パス」を購入すると、とにかくはホテルに向かう。今日宿泊するのは水戸プリンスホテル。水戸駅前のビジネスホテルである。例によって条件は大浴場付き、朝食付き、そしても何よりも宿泊料が安価であることである。
ホテルにチェックインすると夕食に。しかし中途半端に東京化している水戸駅前には適当な店はない。どこもここもチェーン店のようなところばかり。結局は適当な海鮮料理の店を見つけて入ったものの、可もなく不可もなくというところで全く印象には残らなかった。
この日はホテルに戻ると大浴場で疲れを抜き、洗濯を片づけて(何とランドリーが無料であるのには驚いた)、さっさと床に就いたのである。
☆☆☆☆☆
いつものように6時に起床すると、いつものようにホテルで朝食を摂ると7時半頃チェックアウトする。
ここで取り出すのが先日購入した「ときわ路パス」である。これはJR水戸支社の独自商品で、2000円で茨城県内のJR路線及び鹿島臨海鉄道、ひたちなか海浜鉄道、関東鉄道が一日乗り放題という代物である。北は大津港、南は取手、西は小田林まで乗り放題である。
水戸駅のロッカーにトランクを放り込んでおくと、まずはこの切符でエリア北限の大津港まで行くことにする。大津港までは常磐線の普通列車で。時刻が早いせいか車内はかなりガラガラ。ゆったりと風景を眺めつつ大津港まで移動する。以前にここを通った時にも感じたが、常磐線の沿線は田舎と言うだけで意外と海の見えるポジションは少ない。のどかな良い風景ではあるが、見飽きやすい風景ということも出来そうである。しばらく乗車して、大津港の手前当たりで海が少し見えるが、大津港自体は内陸の駅である。
大津港駅に到着
大津港駅は典型的な田舎の駅という風情。駅前にはコンビニこそあるが、特に何があるというわけでもない。とりあえず駅前でタクシーに乗り込むと今日の最初の目的地に向かう。それは岡倉天心記念五浦美術館。前から来たいとは思っていたが、あまりに場所が不便なせいで訪問できていなかった美術館である。
岡倉天心記念五浦美術館この地に居を構えた岡倉天心の元に、横山大観ら日本画家が集まって彼らの芸術の研鑽を重ねた。それを記念して立てられた美術館である。
当然のように展示品は岡倉天心ゆかりの画家等の作品が多く、また天心の記念室も存在している。私の訪問時は所蔵品展の開催期間で、菱田春草、横山大観など天心と直接の関係のあった画家の作品及び、近代の日本画作品というかなり極端な展示になっていた。
ただ残念ながら施設の規模の割には展示点数が今一つ(企画展開催期でなかったせいもある)で、強く印象に残る作品もなかった。
美術館の見学を終えると美術館周辺を見学。この美術館は海のそばに立地しているので海を見下ろすことが出来る。太平洋の荒波にむき出しの奇岩という海岸線で、なかなかに絵になる場所である。この辺り自体がちょっとした保養地のようなので、車で来ていたらプラプラと散策するのも良いだろう。そもそもここも駅からバスの便が全くなく、明らかに車で来る客しか想定していないような場所である。
笑っちゃうほど海の綺麗なところです 一渡りの見学を済ませるとタクシーを呼びだして駅まで戻る。ここからまたとんぼ返りである。ただ今度は水戸まで行くのではなく、勝田で途中下車する。せっかくだからひたちなか海浜鉄道を視察しておいてやろうという考え。
ひたちなか海浜鉄道は地元が出資する第三セクター鉄道であるが、旧国鉄系ではなくて茨城交通の路線を引き継いだものである。全線非電化単線路線である。勝田駅はJR勝田駅の構内に存在し、行き止まりの1番線がひたちなか海浜鉄道の勝田駅となっている。
左 ひたちなか海浜鉄道勝田駅 中央 駅名プレートはすべてこの字体 右 新造なった車両 ホームで待つことしばし、やがて向こうから単両の車両がやってくる。車両は古色蒼然たるディーゼル車。とは言うものの、車両そのものは新造されたもののようだ。内部はロングシートである。後で調べたところによると、これはキハ3710というこの会社の新造車両らしい。
沿線はこの調子
勝田を出た列車は、最初こそ勝田近郊の工場街の中を抜けるが、すぐに沿線は田んぼ以外に何もないところになる。田んぼの中を進むことしばし、拠点駅である那珂湊に到着。ここで反対列車との行き違いをする。那珂湊には車庫があり、覗くとかなり古色蒼然とした車両が多数並んでいる。そう言えばひたちなか海浜鉄道は、以前は全国からかき集めたキハ20系のみを走らせていたと聞いたことがある。キハ20系に統一したのは運用やメンテナンスの容易さからとか。またひたちなか海浜鉄道の路線は起伏はほとんどないし、上限速度も遅いことから、旧型車両を運行してもトラブルは少ないだろうとは思われる。しかしながらさすがに今となってはもはや新造のなくなったキハ20系では老朽化が進みすぎて、ついには新型車両導入と相成ったらしい。おかげで那珂湊駅はキハ20博物館化しており、案の定鉄道マニアらしき連中が飛び出していく。
左 那珂湊駅は鉄道博物館化している 中央 キハ37100形とキハ2000形 右 ミキ300形とキハ200形 左 キハ111+キハ112 中央 キハ201形はかなり錆びている 右 キハ200形は再塗装されたらしい 那珂湊を過ぎると沿線は再び田んぼの中。結局はそのままさして沿線人口が増加しないまま終点の阿字ヶ浦に到着するのだった。
左 阿字ヶ浦に到着 中央 本来の駅舎 右 振り返って見るとかなり奥に列車が止まっています 阿字ヶ浦駅は現在工事中のようで、長いホームの奥の端が臨時駅のようになっている。後で調べたところによるとバリアフリー化のためにスロープをつけるのだとか。なおこの駅の先にひたちなか海浜公園なる国営自然公園があり、接続のシャトルバスが出ているようであるのだが、私の見た限りでは乗客は皆無。発車時間がやってきたバスは空しく空気だけを乗せて出て行ってしまった。どうも公園への乗客輸送でも直通バスに負けている気配が濃厚である。
シャトルバスは完全に空気輸送
しばしここで折り返し時間待ちがあってから再び列車は発車する。驚いたのはここまで乗車していた顔ぶれがほとんどそのまま乗車してきたこと。どうやらここまで乗車していた客のほとんどすべてが鉄道マニアだったようだ。見るからにというタイプのおっさんはともかくとして、公園に行く親子連れだろうと思っていたのは鉄ちゃん親子だったようだし、地元民かと思っていたおばさまはベテラン鉄子さんだったようだ。何と鉄分の濃い路線だろう。鉄道マニアではない私としては来るところを間違えた感が強くする。
帰りの行程では各駅で客を拾いつつ勝田に向かう。鉄道博物館那珂湊駅で鉄ちゃんご一行様は大量下車するが、その後も乗客はそこそこ増えつつ終点の勝田に到着する。やはりひたちなか市がむざむざ廃線にせず第三セクターに出資してまで存続させただけあって、営利ベースに乗るかどうかはともかくとして、沿線住民の一定のニーズは明らかにあるようである。ただ今後本当に存廃の判断が難しいのはこういうレベルの路線である。誰もニーズがない路線なら廃止しても問題がないが、一定以上のニーズのある路線は廃止すればもろに不利益を蒙る交通弱者が存在する。そのような路線をどこまで公的負担で支えるべきか。人口減少に向かう日本ではこの判断が今後はさらに難しくなるだろう。
勝田から水戸まで戻ってくると次は「水戸城」の見学である。今まで水戸は何度か来ており、偕楽園も2回訪問しているにもかかわらず、水戸城に関しては見学している時間がなくて今まで延び延びになっていたのである。水戸城は言うまでもなく徳川御三家の水戸家の居城であるが、そもそもの築城は平安末期まで遡り、大規模に整備したのは豊臣時代に常陸を与えられた佐竹氏である。しかしその佐竹氏は関ヶ原の戦いで旗幟を明らかにしなかったことから家康によって出羽に逐われ、家康は東北を睨むこの要地に自らの五男を配し、それ以来徳川家の親藩が抑える城となっている。
出典 余湖くんのホームページ http://homepage3.nifty.com/yogokun/ 幕末の混乱で多くの建造物が焼失し、第二次大戦での水戸空襲で天守代わりであった三階櫓も焼失したという。現在残存するのは三の丸にある藩校であった弘道館と薬医門のみである。なお現在はその敷地のほとんどは学校になっており、この辺りは教育を重視した水戸らしいと言えば言えなくもない。
水戸駅から切り立った崖の間の道を北上するが、ここは旧二の丸と三の丸の間の堀跡になる。水戸城は那珂川を北の千波湖を南の自然の堀とした丘陵の上に建つ連郭式平山城で、東から本丸、二の丸、三の丸と並ぶ配置になっている。これらが空堀で仕切られ、石垣はない比較的簡素な城である。
左 この道は堀跡で上に見える橋が大手橋 中央 大手口跡 右 二の丸内は学校になっている 今はコンクリート製になっている大手橋のところまで上がると、東には大手門跡がある。建造物の類は全くないが、土塁らしき跡が残っているのと、道が湾曲しているのは虎口の跡と思われる。
ここから先の二の丸は完全な学校通り。両脇に高校や小学校など学校ばかりである。天守のない城であるため、天守代わりの三階櫓がここに築かれていたというが、今となってはその痕跡は全くない。
左 この橋の奥が本丸跡 中央 堀の底をJR水郡線が走る 右 現存の薬医門 二の丸の奥が本丸であるが、ここを仕切る空堀跡は今はJRの水郡線が通っている。また本丸は水戸第一高校の敷地となっており、関係者以外は立ち入り禁止であるが、学校の入口付近にある薬医門のところまでは城見学者は立入可能となっている。
大手橋を渡って三の丸の弘道館へ 建物内部 薬医門の見学を終えると二の丸を横断して三の丸に移動、弘道館を見学する。ここはいわゆる藩校の跡であるが、その正門は国の重要文化財に指定されている。ここも幕末の混乱で建造物の焼失などがあったらしい。
水戸城は100名城にも選定されているが、正直なところを言うと、城が残っていると言うよりも城があった地形が残っているという印象が強くて、あまり城を見学したという気がしない。そう言う点ではこの城も偕楽園との合わせ技で100名城というのが実態であろうか。茨城県に他にこれという城がないということと、例の「県庁所在地の城には甘い」という法則が発動したような気もする。
水戸城の見学を終えると水戸駅まで戻ってきて、土産物の購入及び昼食。以前に水戸に来た時にコミケに出くわして目眩がしたが、どうも水戸は現在「萌えの町」を目指しているのか、土産物の類もその手が多くて目眩がする。また最近に「桜田門外の変」の映画が公開されるとのことで、それにちなんだ品も多いが、その中にも萌え路線の商品があって目眩が。そもそも桜田門外の変は大老井伊直弼を暗殺した要人テロであり、非常に血なまぐさい事件であるので、どう考えても萌え路線とは相容れないような・・・と思ったのだが、最近は「ひぐらしのなく頃に」のような萌えホラーとでも言うべき奇妙な作品が出ているのでそう言うのもありなのか?
目眩のしそうな土産物の数々 適当に土産物を買い込み(結局はなんだかんだ言いながら、件の「桜田門外の変」を買っちまったのだが・・・)、駅近くの飲食店であまり感動のない昼食を終えると(やはりチェーンのような店である)、いよいよ最後の予定となる。それは水郡線の視察。水郡線は水戸と郡山を結ぶJRの非電化単線路線である。ただ全線を走破すると3時間はかかるため、とても今回はそんな時間はない。今回は途中の上菅谷から分かれて常陸太田に向かう支線の視察のみを行うことにする。常陸太田は水戸近郊の都市としてそれなりの人口はいるが、日立電鉄の廃止によって今では水郡線が水戸への唯一のアクセス路線となっており、運行本数が少ない水郡線の中でもこの区間だけはそこそこの本数が運行されているという。
トランクを回収してからホームに入ると、郡山行きのキハE130(正確に言うと、E131+132の2両編成)が待っている。しかし今回乗車するのはこれではない。これをやり過ごすと、次に到着した常陸太田行きに乗車する。
内部は1+2のセミクロスシート。新造車両というイメージでディーゼル車でありながら内部はかなり綺麗。列車は出発すると、すぐに北側にカーブし、水戸城の本丸と二の丸の間の堀を通過する。次に那珂川を渡るが、ここの橋梁があまりに低い位置にあることから、現在は新しい橋梁に架け替え工事中とのこと。
先ほどの本丸へ行く橋の下をくぐる
那珂川を渡ってしばらく走ると、沿線は田んぼ以外何も見えないようになってくる。無人駅ばかりで乗降もほとんどない。分岐駅である上菅谷で対向車とすれ違うと、今度は山の中を抜けることになる。やがてその山を抜けるとまたひたすら田んぼ。田んぼの真ん中のあまりに何もないところに駅があるので驚くばかり。そして案の定、乗降客は全くいない。
上菅谷を抜けて本線と分かれると山の中に入る やがて田んぼの真ん中に突然に町が見えてくるとこれが終点の常陸太田。ほとんどの乗客がここまでの乗車で、この路線は事実上は水戸と常陸太田の二点間輸送専門の路線になっているようである。常陸太田駅は何やら工事中。入れ替わりに駅から乗客が乗り込んでくるが、その人数は結構多い。私もここに何か用があるわけではないのでただちに折り返す。
山を抜けた田んぼの果ての都市が終点の常陸太田 これで本遠征のすべての予定は終了である。後はスーパーひたちで上野まで移動すると、東京駅から新幹線で帰宅。家にたどり着いた時にはかなり遅くなっており、さすがに鉄道乗り続けでクタクタになっていたのである。
結局は東京方面の展覧会を見学したついでに北関東方面の100名城を押さえてきたというような遠征になった。今回は八高線、両毛線という関東周辺を巡る路線沿いに行動したのだが、この辺りになるとまさに関東平野の外縁という印象で、かなりローカルムードが漂っていたのが印象的。ただそのローカルムードに寂れ感がつきまとっていたのが気になるところ。変に東京に影響されているせいで地方でありながら地方でないような中途半端なムードになっていた。端的に現れていたのが女の子のファッション。こっちには全く詳しくないというよりも関心がない私の目から見ても、明らかに変に派手な服装(メイクも)が多かったのが印象に残っている。むしろ東京都内の方がもっと地味な格好が多い。
実は今まで100名城巡りが一番手薄だった地域が関東なのだが、今回の遠征でかなり押さえることができた。とは言ってもまだ半分。後に残っている中で川越城は来年に本丸御殿の修復が終えてから、江戸城は折を見て訪問するにしても、八王子城、箕輪城、金山城などといった訪問しにくいところ(関東周辺の山岳部)ばかりが残ることになるので、そろそろ関東でも車を使った遠征が必要になるかもしれない。と言ってもとても私のご老体カローラ2で関東くんだりまで走る気にはなれないので、いよいよ「レール&レンタカー」か。場所的に見て、今回の遠征でのルートと似たようなルートを車で走ることになるか。それにこの辺りの地域は、モータリゼーションが進んでいるせいで美術館も車が前提のところが多いので、そういうのも併せて拾っていく感じになるだろう。実行するとすれば来年の秋以降か。
さて今回の遠征では今までのシグマのレンズがいよいよ本格的にオートフォーカスが不調になってきた(3枚に1枚はピンぼけ写真になる始末)ことから、新たに導入したタムロンのレンズを使用した。久々にまともにオートフォーカスが機能することに感動した次第であるが、よくよく考えるとこれは当たり前のことではある。ちなみにカメラに関しては全くド素人の私では、両者のレンズの絵作りの差などは全く分からなかった。所詮は私のセンスなんてその程度か。
戻る