展覧会遠征 長崎編
つい先日に山陰方面に繰り出した直後であるが、ほとんど連チャンで今度は九州方面に遠征を行うこととなった。と言うのも、今週は中盤から末にかけて、会社の設備工事が行われることとなり、工事関係者以外は出社されても邪魔なので年有休暇を取れということに相成った次第。早い話が週末をひっつけて五連休というわけで、これは遠征に出なければ嘘だろうという状況になったわけである。
五連休となればやはり遠距離遠征になる。しかし東北方面だと今からでは旅割は無理。正規の航空料金なんて私の薄給では出せるはずもない。となれば必然的に目的地は九州方面に限定されることになる。そして諸条件を勘案した結果、九州で未踏の地として残っていた長崎を目的地とすることに決した次第である。
往復には新幹線を使用、現地での移動のために佐賀・長崎ゾーンの周遊切符を使用することで往復の料金も同時に節約する。これでプランの全体像は完成である。
当日は例によっての早朝の新幹線。どうも最近はこれが定番になっているような気がする。これで一気に博多まで移動すると、ここから地下鉄に乗り換える。佐賀・長崎ゾーンの入り口は姪浜であり、博多から姪浜までは地下鉄でつなぐことになっている。
唐津城が見える
姪浜からは先の九州遠征でも乗車している筑肥線である。最初は博多郊外の風景だが、途中からは海が見える風光明媚な路線に転じ、そのうちに唐津城が見えるようになると唐津に到着である。ここから乗り換えて伊万里を目指すことになるが、この路線が唐津から山本までは唐津線でそこから先が筑肥線ということになる。もっとも唐津から伊万里行きの列車で一本であるが。
伊万里行きのディーゼル車
左 唐津線との分岐駅の山本駅 中央 列車交換のある大川野駅 右 沿線は大抵はこんな雰囲気 この区間は非電化の単線路線。運行されているのは単両のキハ125である。ボックス型セミクロスシートの車内には乗客が数人という状態。沿線も最初は山岳部で沿線人口は多くはない区間。交換駅の大川野駅で数人の乗降があったが、後は伊万里に近づくまで乗降はあまりなかった模様。典型的なローカル線である。
出典 JR九州HPより 伊万里から先は松浦鉄道で有田に向かう。松浦鉄道はそもそもはJRの路線だった松浦線を引き継いだ第三セクター鉄道である。有田から伊万里、松浦を経由して佐世保に至る路線であるが、運行は伊万里から有田に向かう路線と伊万里から松浦経由で佐世保に向かう路線の2つに分断されている。またそもそもは伊万里でJR筑肥線と接続されていたものだが、現在は完全に線路を分離してしまっており、対称型にJRとMR(松浦鉄道)の駅舎が道路を挟んで対峙している。二度と両者が接続することはないとの意思表示のようにさえ見える(実際、駅舎を破壊しないと線路を接続できない)。乗客は陸橋で道路を横断して行き来するようになっている。
左 手前松浦鉄道伊万里駅、奥はJR伊万里駅 中央 連絡陸橋上からJR伊万里駅 右 伊万里・鍋島ギャラリー 列車の発車時刻まで若干の時間があったのでとりあえずの昼食として立ち食いうどんをかき込むと、駅の二階にある伊万里焼きに関するミュージアムをのぞく。小さなミュージアムであるが、古伊万里の歴史がよく分かる展示になっている。要は中国の鎖国によって陶磁器の調達に困った西欧がその代用として目をつけたのが伊万里。最初は中国品のコピーから始まっていたのが、だんだんと日本独自のオリジナリティがうけるようになり、ついには中国の側が日本製をコピーするまでになったとか。
左 行き止まりホームが複数ある 中央 こちらは佐世保行き 右 折り返し有田行きの列車が到着 そうこうしているうちに列車の発車時間が近づいてきたので駅に入場する。乗車したのは1+2タイプのセミクロスシート型のMR600形。松浦鉄道の新鋭車両のようで、内部も綺麗。ただ気になったのは自社広告しか車内にないこと。いずこの地方鉄道でも共通だが、なかなかスポンサーが付かないようである。なおこの路線もかつては黒字運営だったのだが、沿線の過疎化と共に赤字に転落、現在は自治体の支援を受けている状態で、いずれは存廃論議に至る可能性もあるとのこと。やはり地方の再生が急がれるところである。
車内は広告がなくて真っ白
有田までは30分ほどの行程。沿線はそれなりの人口がいるようなのだが、過疎化の進行は車窓から眺めているだけでも感じられる。乗降が多いのは有田の周辺の数駅。どちらかと言えば、これとJRを乗り継いで佐世保方面に出る乗客が多いようである。
有田では陸橋を移動
佐世保線の電車で二駅だけ移動
有田ではJR佐世保線に乗り換えて早岐まで。佐世保線は電化されているので、やってきたのは福岡近郊でも見かけたことのある817系電車。なぜJR九州はこんなに皮シートが好きなんだろうと思わせる電車である。早岐に到着すると列車はここでスイッチバックして佐世保に向かうが、私は大村線に乗り換えて長崎を目指す。
早岐でシーサイドライナーに乗り換え
大村線は早岐から諫早を結ぶ単線路線。ハウステンボス駅までは電化されているが、そこから先は非電化である。大村湾の海沿いを走る路線で、車両にはシーサイドライナーの名称が付けられている。
ハウステンボスが見えてくる 早岐を出て右手に見える水路は川ではなくて実は大村湾と佐世保湾をつなぐ水道である早岐瀬戸。やがて右手にヨーロッパ風の建物が見えてくるのがいわゆるハウステンボス。正直なところディズニーランド並みのわざとらしさ。由緒正しい貧民プロレタリアートの子息である私は、こういうバブリーでブルジョワジーな施設は好きでない。
大村湾は波静か
ハウステンボスを過ぎると大村湾の海沿いを走行することになる。大村湾は内海のためか明らかに水面が穏やかである。沿線には断続的に集落がある印象で、乗客はそこそこいる。地方輸送路線としての需要はあるようだ。比較的大きな集落である大村を過ぎると諫早に到着。ここは結構大きな街である。ここで大村線は長崎本線と合流するが、ここから長崎まではトンネルが中心のショートカットコースである新線と、海岸沿いを走る旧線がある。シーサイドライナーは旧線の方を通って30分ほどで長崎に到着。
長崎駅は完全に龍馬と福山の支配下にあった・・・ 長崎は九州に入ってから博多以来初めて目にした大都会というイメージ。とりあえずは荷物を置くためにホテルにチェックインする。今回の宿泊ホテルは「ドーミーイン長崎」。路面電車で移動する。途中で何やら洋館のようなものが見えたからなんだと思えば出島。どうも現在は出島は街のど真ん中になってしまっているらしい。ホテルはその出島の近くにあり、向かいには中華街があり、歩いていける範囲に繁華街があるというかなり便利な立地である。
路面電車で移動
とりあえずホテルにチェックインすると一息つく。しかしまだ4時前なのでここでまったりしてしまうにはまだ早い。しばしの休憩の後に再び町へと観光に繰り出すことにする。
中華街に 出島 まずはホテルに来る途中に目にした出島に立ち寄ることにする。出島はよく知られているように、鎖国下の江戸時代にオランダに対して貿易のために開かれていた港であるが、開港後にその存在の必要性がなくなってからは、周辺の都市整備などで今は完全に長崎の市街に埋まってしまったようである。現在はその跡地が整備されて復元施設などともに往時の姿を伝える資料館になっている。
内部では当時の商館などが復元されているが、印象に残るのは外観は洋風そのものだが、内部に関しては細かい部分で和風の部分が存在する和洋折衷様式になっていることである。この和洋折衷様式は明治以降の文明開化の時代まで残存している。
左 出島の復元模型 中央 内部の街並み 右 復元した門 左 商館長の屋敷 中央・右 内部は完全に和洋折衷 出島の見学を終えた頃に急に激しい雨が降り始める。そう言えば長崎駅に降りた時にどこからか「長崎は今日も雨だった」が聞こえてきたっけ。雨の中をザバザバと本題でもある美術館の方を訪問することになる。長崎と言えば長崎美術館。これは海岸埋め立て地に立地しているが、とにかく巨大な施設。横浜美術館といい、兵庫県立美術館といい、なぜ港湾都市は埋め立て地にこういう巨大施設を作りたがるんだろう。
長崎県美術館私の訪問時にはコレクション展が開催中であった。コレクション展はまずは須磨コレクション。これはスペイン全権公使だった須磨弥吉郎が収集した中世から近代のスペイン絵画コレクションであるが、日本の敗戦でスペインに永らく留め置かれ、返還交渉の結果日本に入った作品が、須磨弥吉郎の遺言によって長崎県美術館に寄贈されたものだという。ただ須磨弥吉郎自身が実はスパイであったと言われている謎の多い人物であったことなどもあり、そのコレクション自身もその資金の出所や目的などに謎が含まれているとかで、一部の作品には真贋論争もあるそうな。
とは言うもののこれだけのスペイン絵画コレクションというのは、日本では他に例がなくてかなり貴重であるという。ただどうしても作家的には知名度の低い作品が多いので、研究者にはともかく、一般には地味な印象が拭いがたい。私の場合には時代が中世であるので、宗教色が強すぎる作品が多かったのが今一つしっくり来なかった。
これ以外では展示の目玉としては、やはりエル・グレコの「聖母戴冠」だろう。プラド美術館から借り受けたというこの作品は、縦長に引き延ばされた人物表現がいかにもエル・グレコらしさを感じさせる。一つ間違うとバランスを崩して破綻しかねないのだが、それがギリギリのところで成立してしまっているのがすごくはある。
後は現代アート系作品が多かったので私には興味なし。全体的にスペインにかなり偏ったコレクションであるのが特徴である。
さてそろそろ腹が減ってきた。周りを見渡すと夕食を摂る店には事欠かないが、どうせなら長崎らしいものを食べてみたいと考え、昼間に見かけた中華街に繰り出すことにする。夜の中華街は照明がともって余計ににぎやかさが増している。どうゆら今日は中秋節という祭りとのこと。中華街を一渡り見学するが、意外とこぢんまりした印象。結局は適当に目に付いた「京華園」という店に入ることに。
中華街は何やらお祭り中 注文したのは「ちゃんぽん」「炒飯」「杏仁豆腐」。まずは料理二品が運ばれてくる。のでちゃんぽんから頂く。一口食べた途端に思わず「何じゃこりゃ?」という声が出る。まずいからではない。うますぎるのである。塩味ベースの濁ったスープにたっぷりの野菜やイカなどの具、そこにやや太めのしっかりした麺が入っているのだが、このバランスが絶妙。正直なところ私は五目湯麺はそう好きではないのだが、この麺は異常にうまい。野菜嫌いの私がモリモリと食べてしまうのである。
炒飯は極めてオーソドックスでうまい。杏仁豆腐もサッパリしていてデザートには最高。以上で1970円。まず妥当な価格である。店構えから結構高そうな店に見えたが、価格的にはそうべらぼうでもなく、味はしっかり高級中華の味をしている。これは良い店を見つけたかもしれない。
夕食を十二分に堪能した後は、ホテルに戻ってガッテンを見てから大浴場で入浴。これのためのドーミーインと言っても良い。大浴場でゆったりとくつろいで体の疲労を抜いてから、この夜はまったりと暮れていくのであった。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時前に起床するとホテルで朝食。ドーミーお約束の豊富なバイキングである。朝食を終えると手早く支度して、まだ小雨が残っている中を早めに外出。今日は基本的には長崎市内巡回のつもりだが、その前に一端諫早を見学するつもり。目的地は諫早城。
諫早城はこの地に勢力を張った西郷氏が建造した城だが、西郷氏は秀吉の九州征伐に参加しなかったために所領が没収され、代わってこの地を治めることになった龍造寺家晴に与えられる。しかしその龍造寺氏も二代目の直孝の時に、家臣であった鍋島氏に主家を乗っ取られ、逆に鍋島氏の家老に没落する。直孝はこの時より諫早姓を名乗ることになったという。その後、諫早城はほとんど放置のまま廃城となり(諫早氏に城を修復する財力もその意味もなくなっていたため)、そのまま今日に至ったとのこと。
白いかもめ(昨日撮影)
諫早駅までは特急かもめで移動。かもめは新線を経由するが、こちらはトンネルの連続で駅の手前でだけ地上に顔を出すという九州新幹線と同じ状態。先日、シーサイドライナーが30分ほどかけて到着した諫早−長崎間を半分程度の時間で突っ走る。
諫早に到着
諫早駅の乗り換え拠点の一つで、ここには島原鉄道の駅もある。後日のために島原鉄道の駅を確認しておいてから諫早駅に降り立つ。諫早は比較的大きな都会で、駅前も結構開けている。諫早城までは1キロほどのはずなので歩ける距離と判断、記憶の中の地図に従って、大体こっちの方角と目星をつけて歩き始める。
しかしこれが間違いだった。完全に道に迷ってしまったのである。本明川に行き当たって諫早神社の近くに来た辺りで方向が全く分からなくなってしまった。どこかで道を尋ねるにも通行人もいなければ店の類もない。グルグルと回り回った挙げ句にようやく見つけた店で道を聞くと、てんで見当違いの方角。こんなことならケチらずに駅からタクシーに乗っときゃ良かったと後悔することしばし。ようやく諫早公園の眼鏡橋(重要文化財)が見えてきた頃にはかなり疲れてしまっていた。
この眼鏡橋はそもそもは天保年間に本明川に架けらた橋だそうだが、昭和32年の諫早大水害の際、この橋ががれきなどをせき止めたことが洪水被害につながったとして解体されることになった時、当時の市長らが文化財として保存することを提案して、今の地に移設されることになったのだという。この橋は石橋としては日本で最初の重要文化財指定を受け、今日では諌早市の観光資源の一つとなっている。威風堂々たる橋で、諫早市民でなくても解体するのは勿体ないと感じる。結果としてこれを残したことは正解である。
目的の「諫早城」はこの背後の山上にある。山上は自然公園となっているようで階段なども整備されており上るのは楽。ただその代わりに城としての遺構はあまり残っていない。曲輪跡らしきものと、辛うじて本丸の虎口の痕跡は確認できるものの、城跡という表示がなければただの公園である。本丸跡にはかなりの巨木が茂っており、これが一番インパクトがある。またここからは諫早市街を一望にすることが出来、確かにこの地を治める場合の要衝であることは分かる。
左 登城口 中央 本丸に生えている巨木 右 虎口跡? 左 本丸先端は見晴台 中央 諫早市街が一望 右 下には腰曲輪らしき広場が見える 左 忠魂碑の奥が少し高くなっている 中央 忠魂碑裏は鬱蒼としている 右 何やら段差がある 本丸の中央には忠魂碑が立っており、その奥がわずかに高くなっている。こちら側には絡め手口があるようである。以上で手早く見学を済ませると山から下りてくる。
諫早城構造図(現地案内看板より)
これで諫早での予定は終了なので長崎に戻ることにする。バス停があったのでバスを待ったが時間になっても一向にやってくる気配なし。諦めて歩いて帰ろうとしたら再び駅に戻る道程で道に迷ってグルグル。結局はかなり時間をロスしてしまい、次の列車が到着するまで駅前のケンタでしばし時間をつぶす羽目になってしまう。
特急ハイパーかもめ
特急ハイパーかもめで浦上まで戻ってくるとここからはいよいよ長崎市内見学である。今日は路面電車での移動が主になる。これに備えて路面電車の一日フリー切符は先日に入手済み。まずはこれを使用して1号系統で赤迫まで移動する。基本的には路面軌道なのであるが、浜口町から浦上車庫前までは専用軌道のところが一部ある。この浦上車庫が北の拠点のようで、ここで運転士の交代も行われる。乗客は終点の赤迫の手前の住吉でほとんど降りてしまう。終点の赤迫は市街のはずれのイメージで特に何があるという場所ではない。いかにも中途半端な位置という印象だが、ここから先に延伸するには急坂があるのがネックになっているとか。
長崎電気軌道HPより
左 専用軌道部分 中央 浦上車庫 右 赤迫駅 赤迫で折り返すと松山町まで移動。ここで下車して平和公園を目指すことにする。地図ではよく分からないのが標高差だが、実はこの平和公園も意外な高台にあることが現地に行って初めて判明する。松山町駅からだとかなり階段を登ることになる。平和公園のあったところは元は留置場だったとのことで、原爆によって跡形もなく吹き飛ばされてしまって壁の痕跡のみが残っている。その奥に座っているのが有名な平和祈念像である。静かな重々しい空気が流れる。なお公園には多くの外国人観光客が訪れていたが、笑顔で像の前で記念写真を撮る姿を見ていると、果たして彼らの内の何割が原爆の本当の意味を理解しているやら・・・。
左 平和公園入口は階段になっている 中央 噴水の奥に祈念像が見える 右 像の裏には作者の思いが記されている
左 留置場の痕跡 中央 外国人観光客もかなり多い 右 浦上天主堂が見える 平和公園を見学した後は爆心地の公園を回ってから原爆資料館に入館する。広島の原爆資料館同様、ここもかなり生々しい資料が並ぶ。しかし何よりも胸を打たれるのは、原爆による大虐殺の直前まで普通の人々の生活が存在していたということである。それが原爆で完全に破壊されてしまったのである。この一事をとっても、原爆とは単なる無差別大量虐殺兵器であり、どういう理由をつけようともその使用を正当化しようがないのは確かである。なおここの施設にも多くの外国人観光客が訪れていたが、長崎に投下された原爆「ファットマン」の模型の横でうれしそうに記念写真を撮っている輩を見ると、本当にこいつらは原爆の意味を理解しているのかと疑問を感じる。
左 爆心地 中央 爆心地近くに立つ像 右 原爆資料館 朝頃は今一つだった天候が、昼頃になると完全に回復している。しかしそうなるとなったで今度は暑くなってくる。かなり消耗してきているのを感じる。とりあえず浜口町の電停まで降りてくると、今度は3系統の列車に乗って蛍茶屋まで移動。この路線は長崎中心部に向かうにつれて混雑し、長崎駅を過ぎる頃には車内は押し合いへし合いに近い。しかし桜町、公会堂前で大量の下車があって終点の蛍茶山で行く乗客はあまりいない。
左 浜口町電停近くにはビルが 中央 龍馬ペイントの列車 右 列車がやってくる 左 蛍茶屋に到着 中央 乗り換え拠点ではあるが 右 車庫以外には特に何もない 蛍茶屋は山が迫ってきている市街のはずれ。奥に車庫が見えるが、ここも特に何があるという場所ではないので、また折り返す。次は5系統で石橋まで。ここに行くのは目的がある。やはりグラバー園を見学しておこうというもの。
途中で5系統に乗り換えると、終点の石橋で降りる 乗客の多くは一駅手前の大浦天主堂下で下車するが、私はそのまま終点の石橋で下車する。ここからグラバースカイロードなる設備を経由してグラバー園に行けることを事前に確認しているからである。そのグラバースカイロードなる設備は石橋駅から山側にしばし歩いたところにある。つまりは斜行のエレベーターであり、グラバー園はかなりの高台にあるのでそこまでこれで登ろうというもの。非常にありがたい設備であるが、利用者は思いの外少ない。エレベーターは5階までになっており、5階で降りると長崎市街を見下ろす眺望。ここからさらに垂直エレベーターに乗り換えるとグラバー園のゲートの真ん前に出る。これは高齢者や障害者や私のような体力切れの観光客にはありがたい設備である。
グラバースカイロードは斜行エレベータ 降りれば既にこの高さだが、ここからさらに垂直エレベータを乗り継ぐと、グラバー園入口にたどり着く グラバー園はいわゆる「異人館街」。また多くの建物を並べてあるところは以前に訪問した「四国村」をイメージさせるところがある。もっとも四国村はすべての建造物が移築であるが、こちらはグラバー住宅、リンガー住宅、オルト住宅などは元からここにあったものである。
左 旧三菱第2ドックハウス 中央 その内部 右 バルコニーからの風景 グラバー住宅を初めてとする洋館が見所であるのは言うまでもないが、ここのもう一つの大きな売りはその眺望。特にゲートをくぐったすぐの旧三菱第2ドックハウスの庭園からは遥か遠くまでを見晴らすことが出来る。
左 旧ウォーカー住宅 中央 旧オルト住宅 右 旧リンガー住宅 降りていった先は旧グラバー住宅 左・中央 グラバー住宅内部 右 この像がキリンビールのラベルのモデルとか グラバー園を降りてくるとすぐそこに見えるのが大浦天主堂。観光客が多いようだが、敬虔とはほど遠い浄土真宗門徒である私としては、入場料を払ってまで見学する気も起こらずパスする。大浦天主堂周辺は完全な観光地になっていて土産物店の類も多い。そんな中に文明堂総本店の看板も見かける。はて文明堂って神戸の店でなかったっけ?と元神戸市民の私などは疑問を感じたが、どうやら大本は長崎から各地に別れて独立したものらしい。なお長崎はどこに行ってもカステラ一色であったが、神戸生まれの私は正直なところカステラを土産物にする気は起こらなかった(感覚として神戸はカステラの本場だと思っているので)。
大浦天主堂
大浦天主堂下駅まで降りてくるとやって来たのは低床タイプの電車。これは各地の路面電車で最先端形の車両である。確かに足がくたっている今だとこのタイプが乗りやすい。何やら身体が年寄りになってきている。これで築町まで行くと1系統に乗り換えて正覚寺下まで移動する。正覚寺下も繁華街のはずれという特に何があるというわけでもないところだが、これでようやく長崎電気軌道の視察完了である。
低床タイプ車両とその内部 さらに終点の正覚寺下駅 しかしここまで来た時点で疲れが一気に襲ってきた。やはり中一日での遠征連チャンというのがそもそも無茶だし、昨日は一日延々と過酷な列車移動、そしてトドメを刺したのが今日の午前の諫早での長距離歩行。さすがの私もついに疲労が貧乏性を凌駕するに至って、もう何をする気力もなくなってきた。乗ってきた電車で観光通駅までとって返すと、昼食を摂っていなかったことを思い出したのでうどんを一杯。それと長崎名物とか言う角煮マンを購入、ホテルに帰って平らげたところでベッドに横になるとしばし意識を失ってしまったのである。
角煮マン
次に気が付いた時にはもう日が沈んでいた。時刻は7時頃。夕食を摂りに行く必要がありそうである。もう今日は中華は嫌だし、何か近くで他の店はと調べたところうなぎ屋があるようだ。そこでそのうなぎ屋「なかしま」に繰り出すことにする。和風の落ち着いた座席中心の店である。うなぎや魚を中心としたメニューがいろいろあるようだが、昼食が遅くて腹がそう減っているというわけではなかったので、「うなぎ定食(2300円)」を注文する。
しばらくするとうなぎの骨煎餅が出される。これがポリポリとした歯ごたえで実に美味。茶をすすりつつ骨煎餅を食べつつまったりしていると、しばらくしてうなぎが運ばれてくる。うなぎはしっかりと保温容器に入れられており熱々である。その身はふっくらとしてサクサクとした歯触り、なかなかに絶妙の焼き具合である。味付けはやや濃いめの感があるが決して嫌味ではなく美味。ご飯のおかわり可とのことなので、おかわりを頂いてから夕食終了。十二分に満足できる内容であった。
長崎は飲食店のレベルも高いようである。神戸生まれの私には坂が多くて中華街もある港町というのは非常に馴染みやすいところ。正直なところ、初めて来たという気がしない。久々にかなりしっくりくる町である。来て良かったなという言葉が自然に出る。
夕食を堪能してホテルに戻ると、大浴場でゆったりと入浴。さらに汗をかいた衣類を洗濯してこの日は暮れていく。
☆☆☆☆☆
翌日は早朝にホテルで朝食を摂ると、早々にチェックアウト。長崎を後にすることにする。昨日完全にダウンしてしまったせいで長崎を完全に見終えたとは感じていないし、長崎には波長が合うものを感じたので名残惜しいが、そんなことを言っていると予定をこなせない。長崎にはいずれ再訪することもあるだろう。その時は長崎中心で滞在して、もっとゆったりと市内を回りたいところである。
路面で長崎駅に到着すると、特急かもめで先日も訪問した諫早まで移動。ここから島原電鉄に乗り換える。先日に現地視察しているので乗り換えの段取りは分かっている。一端改札外に出ると自販機で島鉄の「島原半島遊湯券」を購入。これは3000円で島原鉄道及び、バス・フェリーが乗り放題で、しかも沿線のホテルの日帰り入浴までついてくるという観光切符である。
諫早駅の行き止まり0番ホームが島原鉄道のホームになっている。私が移動した時にちょうど車両が入ってきて、通学の高校生が大量に下車してくる。どうやら彼らが島原鉄道のライフラインなんだろう。島原鉄道は単線非電化の路線で、かつては島原半島をグルリと回って加津佐までを結んでいたのだが、2008年に島原外港以南が廃止されて今日に至っている。なお1991年の雲仙普賢岳の噴火で施設が被害を受けた際に地元自治体が一部資本参加したが、一般的には第三セクターとしては扱われないとのこと。
今は朝の多客時のため二両編成になっているが、本来は単両のワンマン車が運行されているという。内部はボックス型セミクロスシート車両である。列車は諫早を出ると市街を南下、先日訪問した諫早城の裏手をトンネルでくぐって本諫早に到着。諫早駅が単線しかないので、ここが島鉄の西の拠点の模様。ここから先に進むと沿線はひたすら田んぼの連続。古来からの諫早湾の干拓地のようである。しばらく進んで美奈子・・・じゃなくて愛野で大量の降車があって、ここから先は乗客はかなり減少する。やがて左手に問題となった諫早湾のギロチンが見える。この水門が無駄な公共事業の象徴となっているが、動き出すと意味がなくなっても止まらない土建資本のための公共事業という図式であるが、地元では農家と漁師の対立の原因(工事推進派の農家と反対派の漁師。ちなみに農家は佐賀県内、漁師は県外が多い)にもなっており、問題がかなり複雑化しているようである。
左 諫早湾の干拓地 中央 いわゆる水門 右 すごい色の海 左・中央 島原半島を回るにつれて海の色が変わる 右 反対車窓からは雲仙普賢岳が見える ここからは列車は有明湾沿いに進むことになるが、有明湾は海の色が通常と違うのが印象的。海水が近くではねずみ色をしており、沖の方は緑色をしている。干潟が多いことからこういう色になるのだろう。確かにかなり特殊な環境である。さらに進んでいくと島原市に近づくに連れて住宅が増え始める。そして左手に城が見えるようになると島原駅である。今回の第一目的地はここであるが、今はとりあえずここを通過して終点の島原外港まで視察することにする。島原の二つ先が南島原で、ここが島鉄の東の拠点になる。ここで二両編成の後ろを切り離すと、単両で次の終点島原外港に向かう。島原外港はいかにも路線の途中で切断された駅という印象で線路はまだ先まで続いているのが悲しい。ここから少し歩くとフェリー乗り場に到着するが、今回の目的はここではないのでそのまま同じ列車で島原駅まで折り返す。
左 島原外港駅ホーム 中央 駅舎 右 先の線路はまだ残っているのが悲しい 島原駅からは目の前に島原城が見える。駅舎もそれを意識したのかお城調。とりあえずロッカーにトランクを放り込んで身軽になってから島原城を目指す。
島原駅に到着
数分で「島原城」に到着するが、とにかく立派な城郭である。堀はかなり広大であるし石垣も急峻で高い。この島原城を築いたのは松倉重政であるが、当時の松倉氏の知行は4万石であり、それを考えるとあまりに分を越えて立派すぎる城郭である。結局はその建造のために領民から搾取を行ったことが後の島原の乱につながっているのだから、松倉氏自滅の元になったと言っても良い。なお島原の乱の際には、島原藩勢は最終的にはこの城に籠城して一揆勢をしのいでいる。これだけ堅固な城であるから落城しなかったとも言えなくもないのだが、そもそもこの城の建造が乱の一因なのだから歴史の皮肉である。
島原城 入口は駅の反対側に回り込んだ側にある。なおこの入口、今ではまるで大手跡のように立派な橋が架かっているが、実はそもそもは存在しなかったもののようである。島原城の本丸は北側にある二の丸と廊下橋で接続されているのみで、この橋を落としてしまえば完全に水堀の中に孤立する形態になっていたとか。そう言われてよく見れば、門の跡と言うよりも城壁を途中で崩したというような入口の付き方である。なおこういう縄張りは堅固ではあるが、いざという時に雪隠詰めになる恐れもあって良し悪しである(将棋の穴熊囲いのような縄張りである)。それしても既に天下が定まった江戸時代初期、大名の中には堅固な山城を捨ててあえて平地に城を構える者も出てきている中で、ここまで堅固な要塞を建造するとは、城主の松倉重政はやはり何かを恐れていたようにしか思えないのだが・・・。それは領民の反乱か、はたまた幕府による討伐か。そもそも領民に苛税を課したのも、幕府への忠誠を示そうと分不相応の普請役などを請け負ったためというから、この時期の松倉重政はいつ幕府に取りつぶしに合うかと疑心暗鬼になっていたか、もしくは何らかの野心を抱いていたという気がする。
左 南側の石垣はかなり高い 中央 裏手の入口はいかにも後付 右 正面に天守が見える 本丸内部に入ると天守が正面に見える。この天守は鉄筋コンクリートのなんちゃって天守であるが、その外観は往時の姿を参考にしているという。五層五階で破風のない非常にシンプルな構造である。この実用本位で実戦的な天守を見ても、やはり松倉重政が見栄や体裁でこのような立派な城を造ったわけではないことが滲み出ている。やはり腹に何か思うところがあったのであろう。
現地案内看板より 天守内部はよくある博物館。最上階からは雲仙普賢岳から島原湾の海までを遠く見渡すことが出来る。非常に眺望がよい。回りには復元された西の櫓、巽の櫓、丑寅の櫓が取り囲んでおり、巽の櫓は西望記念館、丑寅の櫓は民具資料館となっている。
左 西の櫓 中央 二の丸 右 雲仙普賢岳 左 背後に見えるのが平成新山 中央 巽の櫓 右 丑寅の櫓 天守を降りると櫓を見学してから二の丸の方向に向かう。今は二の丸は文化会館などが建設されて遺構は残っていないようだが、その石垣は残存している。本丸と二の丸の間は石垣も高く堀が深い。ここをかつては廊下橋だけでつないでいたという。今は堀は水がなく、本丸と二の丸の間の堀底はゲートボール場や菖蒲園となっており、そこに降りることが出来る。堀底から見上げてみると改めて石垣の高さがよく分かる。とにかく堅固な城である。
左 二の丸との間の堀を降りる 中央 二の丸から望む本丸 右 堀底から見た本丸石垣 とにかくあまりに立派な城。その立派さに領民の怨嗟が満ちているような気がするが、今日となればこれだけ立派な城郭は100名城に選ばれるのは当然であろう。遺構の残存具合などを考えても全国でも屈指の名城ではある。
島原城の見学を終えると島原駅に帰ってくる。次はここから島鉄バスで移動の予定。次の目的地は原城である。原城は島原の乱の際に一揆勢が最後に立て籠もった城として有名である。この際だからそちらも見学しておきたいとの考えである。
島鉄バスは普賢岳を見つつ南下する
島鉄バスは1〜2時間に1本の割合で運行されている。原城跡までは1時間ほど。なおこのバスも本日購入した「島原半島遊湯券」で乗車可能である。バスは島原半島の海岸沿いにグルッと南下するが、これは概ねかつて島原鉄道が走っていたルートに準じている。バスの乗客は数人程度で、島原鉄道が赤字を理由に廃線にしたのも分からなくはない。とにかく島原鉄道は南に行くほど乗客が減るのが顕著である。沿線からは常に雲仙普賢岳が見えており、島原半島そのものが普賢岳の山腹そのものであることがよく分かる。そのため平地は少なく、土壌は火山灰であるのだから、稲作中心の中世においては貧困な地域であったことも頷ける。これが島原の乱の遠因になっているのである。
何もないバス停を進むと看板が
「原城跡」のバス停は本当に何もないところである。遠くに原城跡の看板が見えるのでトボトボと歩いていく。辺り一帯がかつての原城の城域なんだろうが、今ではのどかな畑に埋められているという印象。やがて本丸跡の方向を示す標識に行き当たるのでそちらに向かって歩いていくがとにかく遠い。ここは本来は車で訪問するべき場所だなと感じる。
本丸跡
左 三の丸跡 中央 畑化している二の丸跡を抜ける 右 空堀の跡
しばらく歩いたところでようやく前方に本丸らしき部分が見えてくる。乱後、幕府は再利用を恐れて原城を徹底的に破壊したというが、確かに石垣は上部がかなり崩されている。
左 破壊した石垣の石 中央 確かに石垣上部がかなり破壊されている 右 本丸に登る 本丸跡に登ると海が綺麗に見える。かつてあのような悲劇があったとは思えないほどの綺麗な海である。そして十字架と天草四郎の像が立っている。かつてここに立て籠もった一揆軍は、圧倒的兵力の幕府軍に取り囲まれて兵糧攻めに合い、疲弊しきったところを総攻撃で女子供の別なくなで斬りにされたという。
本丸にあるのは十字架と天草四郎の像 そしてあくまで海は美しかった 幕府による鎮圧軍は当初は九州の諸大名が動員されたのだが、統制が取れていない上に原城の堅固さのために何度も総攻撃に失敗し、指揮をしていた板倉重昌も最後は自ら突撃して討ち死にしている(責任を取って自害したに等しい)。確かにこうして現地に立ってみると、原城は背後は海に守られており、前方には空堀などが数重にあり、かなり堅固な要塞である。ここに島原藩の武器を略奪して意気軒昂な一揆軍が立て籠もると、確かにそう簡単には落とせなかったろう。ただ立て籠もる一揆軍にしても、戦闘の主体は旧有馬家家臣などの武士であったから、後詰めのない籠城戦に展望がないことは承知だったはずである。彼らにとって望みがあるとすれば、各地で反幕府で農民の蜂起が発生するか、キリシタンを救援するために西洋諸国が介入してくるかぐらいだったはずである。それが分かっているからこそ、板倉に代わって指揮官となった老中・松平信綱(知恵伊豆とも言われた切れ者である)はわざわざオランダ船に砲撃をさせている。この砲撃は軍事的には全く効果はなかったと言うが、一揆勢にとっては味方と思っていた西洋船に攻撃されたというのは心理的には著しいダメージであったろう。彼らの戦意を喪失させるには十二分の仕掛けである。その上で満を持して総攻撃をかけたのであるから、一揆勢もひとたまりもなかったであろう。
なおこの島原の乱には鎮圧軍側で剣豪宮本武蔵も参戦したが、一揆軍の投石で負傷してまともに活躍する場はなかったという。一騎打ちの時代ならともかく、集団戦の時代には剣豪の出番もないということである。実際、戦国時代以降は合戦の主力兵器はまずは弓・鉄砲などの飛び道具で、その次が槍であり、刀の出番はほとんどなかったという。武蔵が晩年に剣の技云々よりも精神的な世界に傾倒していくのも当然であろう。
左 陸地側はこの高さ 中央 奥が櫓台跡 右 櫓台跡から虎口方向を見る 左 本丸虎口跡 中央 虎口からグルリと回り込んで 右 この辺りに本丸門があったと言うところか 原城跡はかなり徹底して破壊されているが、それでも往時の姿を偲ぶことは出来る。廃城と言うからかなり小規模な城郭を想像していたのだが、案に反してかなり大規模な城郭だったようである。本丸虎口の跡なども残っているが、これもまたかなり大規模なものである。
二の丸跡、三の丸跡などは完全に畑になってしまっており、かつての悲劇とは似つかわしくないほどのどかな南国ムードである。しかしこの城郭もやはり「続100名城」には余裕で当選である。
大手門跡と石碑
原城の見学を終えると今度はかつての大手門方向に畑の中をトボトボと歩いていく。大手門では乱の時には有馬家遺臣の指揮の下で3500名が立て籠もって、三の丸を守備するために激戦したという。その脇に原城跡の石碑が建っている。
大手門跡を抜けると前方にホテルが見えてくる。これが「原城温泉真砂」。とりあえず昼食はここのレストランで摂ることにする。注文したのはまさご御膳(1000円)。典型的な旅館のレストランメニューというイメージの内容だが、味的にはまずまずである。
昼食を終えると入浴していくことにする。実は「島原半島遊湯券」で入浴できるホテルの中の一つがここである。
風呂場からは海を観れる絶好のロケーション。海の近くの立地のために、また例によっての海のそばのインチキ臭いナトリウム塩化物泉かと思っていたのだが、案に反してナトリウム炭酸水素塩泉で弱アルカリ泉である。ナトリウム塩化物泉のようなべたつく感じはなくて肌がヌルヌルするタイプである。かけ流しではなく、循環・塩素使用ではあるが不快なほどの塩素臭はしていないし、湯の肌当たりも極めて良い。施設は最近になって建て直したようで綺麗で、客も結構来ているようである。確かにゆったりできる良い施設である。
温泉で汗を流してからゆったりとくつろいだところで帰りのバスの時間が近づいてきたのでバス停へと移動する。島原駅でバスを降りるとトランクを回収して島原鉄道で諫早まで。行きは海岸線まで水が来ていたのに、帰りには干潮になって干潟がかなり見えているのが印象的。これが有明海というものらしい。
有明海は表情を変える
諫早に到着するとすぐに特急かもめに乗り換え。周遊切符は自由席しか使えないのが気がかりだったが、難なく座席は確保できた。ここからは長崎本線で佐賀まで。最初は諫早湾沿岸を走行、途中で例のギロチンが間近に見える。そこを過ぎると次第に海から離れて山の中を走行するようになる。この辺りは単線路線だがかなりカーブが多く、そこを白いかもめこと885系が車体を右に左に傾けて高速走行する。ただ路盤はあまり良くないのかガタガタと揺れる。最初の停車駅は肥前鹿島だが、単線路線であるために途中で何度か行き違い停車がある。肥前鹿島を過ぎた頃から本格的に佐賀平野に突入し始めると、沿線風景は一変して一面の平地と田んぼに変わる。次の肥前山口で佐世保線と合流すると、後は延々と田んぼの真ん中を走行。この田んぼの有無が長崎と佐賀の風景の大きな違いである。長崎ではこのような規模の田んぼは諫早湾周辺の干拓地でしか見られなかった。やがて唐津線が合流してくる久保田を通過すると佐賀はすぐである。
佐賀駅で下車。佐賀に来るのは久しぶりである。今回の長崎で九州の県庁所在地をすべて制覇したことになるが、こうして降り立つとやはり佐賀が一番小さい。やはり県庁所在地と言うよりも、他県なら二番手・三番手都市クラスである。駅前にも繁華街と言えるほどの集積はない。
今日の宿泊地はこの佐賀の予定。宿泊するのはサガシティホテル。大浴場付き、朝食付きなどの条件と宿泊料金をつきあわせての選択である。ホテルまでは徒歩5分程度。ただ途中で道に迷ったせいで少し遠回りをしてしまう。
ホテルにチェックインするとまったり。腹が減ったのでホテルのレストランで夕食を摂ることにする。このホテルは宿泊者は500円で食べられる夕食メニューがあるので、私はビーフシチュー定食を頂くことにする。なぜかシチューにうどんがついていたり、ご飯にパンが付いていたりなど意味不明な内容ではあるが、味はまずまずでボリュームも文句なし、500円の夕食としてはCP抜群である。佐賀市内は食事する店に困るようなところなのでこれはありがたい。
夕食を終えると大浴場でまったり。無料のマッサージチェアで身体をほぐすと部屋に戻ってネットと原稿執筆。しかしやはりかなりの疲労が溜まっている。途中でとてつもなく疲れてきて、気がつくと9時過ぎにはもう床に就いてしまっていたのである。
☆☆☆☆☆
昨日の就寝が異常に早かったせいで、今朝は目覚ましがなる前に5時台に目が覚めてしまった。とりあえずはする事がないので眠気覚ましにこの原稿の執筆などしながら、朝食時間の7時を待つ。
朝食はお約束のバイキング形式。充実度はドーミーインとは比べるべくもないが、宿泊料金を考えると(一泊4500円、私は早期予約割引で4200円)かなり充実している方。取りあえず和食を腹にたっぷりと叩き込むと、さらにしばしまったりしてから8時過ぎにホテルを出る。
今日の目的地は平戸。ターゲットは当然のように平戸城である。まずは佐賀駅から佐世保まで移動だが、これは特急みどりを使用することにする。特急みどりは特急かもめ、特急ハウステンボスと三階建てでやってくる。これが先の駅で多段ロケットよろしく切り離されるという仕掛け。博多−鳥栖間の長崎本線のキャパシティが一杯一杯のための窮余の策とも言える。
特急みどり 難無く座席を確保すると後はのんびりと列車の旅である。沿線はかもめが切り離される肥前山口までは田んぼのど真ん中であるが、肥前山口を過ぎるとほどなく山間部にさしかかる。次の停車駅の武雄温泉は山間の大都市というイメージ。そこから険しい山を越えていくと先日も通過した有田である。後は早岐でハウステンボスを切り離してからスイッチバック、間もなく終点の佐世保に到着する。
左 佐世保に到着 中央 松浦鉄道乗り口 右 一日フリー切符をゲット 佐世保は私のイメージ以上の大都会。また山が近いので斜面が多い。イメージとしては非常に長崎に近いものがある。とりあえずここで松浦鉄道に乗り換えてたびら平戸口駅を目指すのであるが、まだ列車の発車時間までに余裕があるので、早めの昼食がてら佐世保バーガーでも購入することにする。遠くに行く時間もないので駅内の「ログキット」でテイクアウト。880円と結構高い。
松浦鉄道の一日フリー乗車券(1700円)を購入して、列車を待つ間に先ほどのバーガーを出してくる。「デカい!」思わず声が出る。通常のバーガーの優に4倍以上の大きさがある。具は巨大なパテにベーコン、レタスにチーズに玉子といったところか。とにかく豊富である。味の方もかなり濃厚であるがなかなか。ただあまりにボリュームがありすぎて私にはとても一気に全部は食べられなかったので半分ほどしまい込んでおく。
やがて列車が到着。単両編成の1+2型セミクロスシート車両で、先日に伊万里−有田間で乗車したのと同タイプ。たびら平戸口行きの観光快速である。平戸を目指すらしき団体が乗車しておりとにかくにぎやかしい。
列車は最初は佐世保郊外を巡回するようなルートをとりつつ山の中をグルリと回る。相浦辺りで一瞬海が見えるが、その後はどんどんと山の中に入っていく。松浦線は海沿いのイメージがあったのであるが、それは完全な勘違いであったようだ。実際はかなり深い山の中を延々と走る路線である。最終的にたびら平戸口に至るまで海は全く見えなかったのである。
たびら平戸口駅には「日本最西端の駅」の碑が立っている。この駅前から平戸桟橋行きのバスが出ているのでこれに乗車して平戸を目指す。平戸大橋を渡ってしばらく走ると前方に平戸城の姿が見えてくる。海沿いの丘にそそり立つような城である。
バスで平戸大橋を渡る
「平戸城」は水軍で知られた松浦党の頭領であった松浦鎮信が築城した城である。しかし完成間近になって彼は自ら城に火を放って破却したという。これは松浦家が秀吉と親交が深かったことから、幕府に疑いの目を向けられたからだとのこと。その後、松浦氏は90年に渡って中の館と呼ばれる居館を藩庁としたが、4代の松浦鎮信の時に築城が許可され、次の松浦棟の時に築城が着工されたという。なお松浦鎮信が山鹿素行の弟子であったことから、城の縄張りは山鹿流軍学に基づいたものという。明治に廃城になった後に狸櫓と搦手門を除いてすべての建物が解体されたとのこと。今日では天守といくつかの櫓が復元されている。
現地案内看板より 平戸の中心部でバスを降りると平戸城へ向かう。大手口にかけては登りになっており、その一番高い位置に大手口があり、ここは亀岡神社の入口にもなっている。そこを進んでいくと、二つの門の跡の虎口などを経由して亀岡神社に到着するが、そこが二の丸。本丸はさらに深いところにあり、そこにはまた門をくぐって登っていくことになる。山鹿流の縄張りがどういう特徴を持つかについては私は知識はないが、この城に関して言うならば縦深陣である。二の丸と本丸が南北に延びた山上に位置する形になっている。また二の丸の東西には一段低いところがあり、高校と運動広場になっているが、ここもそもそもは外郭と三の郭だったらしい。確かにいくら地形が険阻でも、ここを守らないと腹背に攻撃を受けることになるので当然の縄張りである。
左 平戸城入口 中央・右 かなり複雑な虎口を抜けることになる 左 これも虎口 中央 ようやく二の丸に到着 右 奥に本丸が見える 左 三の郭との方啓門跡 中央 三の郭はグラウンドになっている 右 地蔵坂櫓 二の丸跡はかなり広々としており公園化している。ここには方啓門という門の跡が残っており、その脇には門を守るように乾櫓(復元)が建ち、この下に今は運動広場となっている三の郭が見える。全体的に縄張りがかなりゆったりとした城である。
左 北虎口門 中央 現存の狸櫓 右 本丸門を抜ける これが天守 本丸に入るには北虎口門(搦手門)の脇で料金を支払う。ここから現存の狸櫓の横を抜けて進むと本丸の門に行き当たる。そこを過ぎると本丸で、すぐに天守が建っている。だがそもそもの平戸城には天守はなく、二の丸の乾櫓を天守の代用にしていたとのことなので、実はこの天守はとんでも天守である。かつては二層の櫓があったに過ぎない場所に無理矢理天守を建てているので、かなり無理な構造になってはいるのだが、外から見た場合にこの天守は非常に見栄えが良く、観光的には天守を建てた意味が理解できるのである。
天守からの眺めは抜群 鉄筋コンクリートの天守の中はお約束の博物館。最上階からは平戸の港を一望にすることが出来る。ただこの日は非常に風が強く、外に出ると煽られそうである。
天守の見学を済ませると北虎口門を通って海側に降りる。まだ帰りのバスの時間まではかなり余裕があるので、市内の見学をしておくことにする。湾の奥の市役所の近くまで行くと趣のある石橋があるが、これは幸橋。1702年にオランダ商館が築造しており、オランダ橋との別称があるという。かつてここが貿易港として栄えた頃を偲ばせる。
対岸より望む平戸城はなかなか絵になる ここから平戸港の方に向かう。対岸に見える平戸城がなかなか絵になる。平戸のバスターミナルの場所を確認しておいてから、松浦史料博物館を訪問。小高い石垣の上に建つなかなか趣のある建物だが、ここは明治に旧藩主の邸宅として建造された建物だという。内部には松浦氏にまつわる史料が多々多々展示されてあり、土地柄海外にまつわる史料も多い。なお松浦氏は当地で善政を布いたらしく、地元ではかなり親しまれているとか。
松浦史料博物館
松浦史料博物館の見学を終えたところで帰りのバスの時間が近づいてきたので、平戸港のバスターミナルの方に戻る。ここからたびら平戸駅行きのバスに乗車、再び松浦鉄道で伊万里を目指す。到着した車内は学校帰りと見られる学生が多数乗車している。この松浦鉄道の後半の行程は前半に比べて海が見える部分は増えたが、それでもやはり意外と内陸が多い。沿線は最大の都市が松浦。その前後で乗降客がおり、学生の姿などもこの辺りまででパラパラと消えていく。後はそう特別に大きな集落もないまま1時間以上をかけて伊万里に到着する。
さて松浦鉄道の全線を完乗しての感想は「疲れた」というものが大きい。と言うのも各駅停車でゆっくり走っていくものだから、とにかく時間がかかる。実際に佐世保から伊万里まで全線を乗り通すと3時間近くかかることになる(もっともそのようなニーズは全くないであろうが)。基本的には区間区間の地域輸送が主で、経営を主に支えているのは学生のニーズであろうと思われるので、今後の少子化と過疎化時代にはかなり苦しいことになってくるだろう。かといって観光で生きるには沿線はそう風光明媚なわけでもなく(せめて海が見えれば良いのであるが・・・)、沿線の観光地も平戸ぐらいしか目玉がない状況ではかなり苦しい未来図が見えてしまう。最悪の場合、伊万里−有田間の路線しか残らない可能性もある。地域のニーズを考えると頑張ってもらいたいところではあるが。
伊万里に到着したところでしばし待ち時間。かなり昼食をキチンと摂っていないためにかなりの空腹だが、どこかに食べに行っているほどの時間もない。そこでふと思い出して、昼のハンバーガーの残りを出してくる。完全に冷え切っているのであるが、案に反して結構うまい。マクドのバーガーなどは、熱いうちが犬の餌だとしたら、冷え切ったらただの生ゴミである(添加物が多すぎて腐らないそうだから、生ゴミでなくて普通ゴミか?)。冷えても食べられる佐世保バーガー侮り難し。
山本駅で乗り換え
伊万里駅からは筑肥線で山本まで移動、そこで唐津線に乗り換えて佐賀を目指す。山本では唐津線の列車がホームの向かい側に停車しているので、乗り換え時間1分で乗り換え完了。非電化単線の古色蒼然たるローカル線だが、運行されているのも古色蒼然たるキハ47形の二両編成。すれ違い車両の中にはこのキハ47とキハ125を接続した二両編成もあったが、単両運行が基本のキハ125はともかく、片運転台のキハ47は切り離したらどうなるんだろう?
キハ47+キハ125
沿線は山の中を抜けていくというイメージ。佐賀は北部は山で南部は田んぼだが、その北部の山間を縫って田んぼに出てくる路線である。やはり沿線に大きな集落はないが、ある程度の民家は常に視界にある状態で、乗り降りもそれなりにはある。やがて広大な田んぼに出てくると、まもなく路線上の終点である久保田だが、列車自身はここから長崎本線に入って佐賀まで運行される。佐賀に到着すると折り返しらしく、多くの乗客が待っている。佐賀のベッドタウン向け路線・・・と言いたいところだが、どう考えても佐賀自体がベッドタウンを持つほどの大都会ではないので、やはり地方輸送路線であろうか。
久保田駅手前で長崎本線と合流
佐賀に戻ってきた時にはもう既に日は西に傾いていた。ホテルに戻るとこの日の夕食もホテルレストランでショウガ焼き定食。やはり500円にしてはCPは抜群であった。ただ今日はどうやら中学生の団体が来ているらしくてホテル内がとにかくやかましい(中学生にもなって、ホテルの廊下で大声を出しながら走るな!)。入浴してから洗濯を済ませてゆっくりしていたのだが、上の階がドタバタやっていてどうにも落ち着かない。しかし彼らは翌朝が早いらしく、さすがに夜遅くなってくると静かになってきたので、その頃を見計らって眠りにつく。こういうのも安ホテルではよくあるリスクの一つではある。
☆☆☆☆☆
さていよいよ遠征も最終日である。後は帰るだけなのだが、まっすぐ帰ったのではおもしろくないのは当然。少々寄り道をしていくことにしている。
まずは鳥栖まで移動すると快速で原田まで行って下車する。長崎本線で博多まで行ってそこから新幹線というのが普通だろうが、今回はあえて筑豊本線経由で小倉から帰るつもりである。まずは原田から桂川までだが、ここは筑豊本線の最南部であるが、桂川以北が電化されて福北ゆたか線に組み込まれたのに対し、原田線とも呼ばれるこの区間は非電化のまま残されており、それどころか運行されるのが日に数本と完全なローカル線扱いになってしまっている。そこでまずこの路線の視察からである。
原田駅の0番ホームに移動すると、待っているのは古色蒼然たるキハ31形。それもかなりくたった印象がある。内部は1+2のセミクロスシートで、乗客は10人ちょっと。
沿線であるが、次の筑前山家までは市街地の続きという印象だが、ここから次の筑前内野駅までの区間が異様に長く、その間に山越えが入る。山を越えるとわずかに民家はあるが、沿線人口はさして多くなさそう。結局は終点の桂川に到着するまでに乗降はたったの一人。ほとんどニーズがあるようには思えない。よくまあこんな路線が国鉄末期の廃線ラッシュ時に生き残れたものだと思うが、あの時は廃線の決定が路線単位という極めておおざっぱなものだったから、筑豊本線の一部ということで生き残れたのだろう。あの時の廃線基準の不明朗さと大馬鹿さは今でも語りぐさになっている。
原田線沿線風景
桂川に到着すると新飯塚まで移動する。ここは電化区間であるので、車両は以前に福北ゆたか線(篠栗線)で乗車した817系電車。またこの区間は沿線は平地である。ただ同じ平地でも佐賀のように一面の田圃というのとはちょっと違って荒涼としているというか、荒れ地も結構多い。
後藤寺線車両
新飯塚では後藤寺線に乗り換える。今回のとりあえずの目的地は田川後藤寺である。この後藤寺線は新飯塚と田川後藤寺を結ぶ単線非電化路線で、路線的には筑豊本線と日田彦山線を結ぶという形になる。車両は先ほど原田線で見たキハ31形だが、こちらはクロスシート+ロングシートの変則構成である。沿線はしばらくは平地であるが、突然に山岳地帯に突入すると、鉱山の巨大設備と思われる中を通行していくという路線。沿線にはそう人口は多そうには思えないが、利用者はそれなりにはいるようである。
沿線にはこのような風景も
田川後藤寺に到着すると駅のロッカーにトランクを預け・・・と思ったのだが、何とロッカーの半分ぐらいは壊れており、空いているロッカーにも謎の荷物が放り込んであるようなところがある。かなり管理が悪いようである。今一つ気は進まないが、仕方ないのでここに荷物を放り込むと町に繰り出す。
田川後藤寺駅
この辺りの町はかつては炭坑ブームで繁栄したのだが、その後の閉山で寂れたところが多いという。この辺りの町も何となくそのような空気を感じる。最初から田舎のところよりも、かつての繁栄の痕跡の残っている町の方がもの悲しさが増すが、駅前商店街などを見ていてもそのようなもの悲しさを否定できない町である。ここからはバスでの移動になるので、駅前のバスターミナルに行くが、これがまさにわびさびの世界。今でもバスの本数は結構多いのであるが、何となく活気がない。次の目的地は中村美術館。私の遠征は「美術館遠征」である。この美術館のためにわざわざここまでやって来たのである。何も後藤寺線に乗るためではない。
後藤寺バスセンター
中村美術館まではバスで10分ほど。博多方面に向かうバスの通り道なので本数は多い。美術館が立地しているのは鉱山のような施設の隣だが、そもそもこの美術館を設立したのが中村産業という鉱山輸送を手がけていた企業で、ここはそもそも三井鉱山セメントの跡地だという。遠くにその時代の面影があるが、今はこの一角は公園開発をしており、その中に美術館がある。
中村美術館
収蔵品は日本洋画、日本画を初めてして、ラリックなどのガラスや彫刻なども含まれており実に多彩。作家などを見ていると特別なコンセプトがあるようには思われないが、全館の展示品を見て感じた印象としては、色彩の美しい作品が多いというもの。これは恐らくコレクターの趣味を反映してのではないかと推測する。
その一方で、ここの美術館独特の収蔵品としては硯の展示がある。細工の凝った硯も一種の彫刻と考えての展示かもしれないが、わざわざ水に沈めた硯を見せていたところを見ると、水に濡れた硯石の色彩を楽しむのかもしれない。もっともこちらは私にとっては全くの専門外なので良くは分からないのであるが。
決して規模の大きい美術館ではないが、展示作はそれぞれとピリリと一味あるものが多く、なかなかに楽しめた。
美術館の見学を終えると再びバスで後藤寺バスセンターに帰還、そこで別のバスに乗り換えて次の目的地の田川市美術館を目指す。目的地はバス停から10分ほどゆるやかな登り坂を登っていった先にある。
ただ私の訪問時には何やら素人近代アート展みたいなものをやっていて興味をほとんど持てなかった。どうもこの手の地元の作品展示が多いところのようだ。
再び後藤寺バスセンターに戻ってきたところで次の予定を考える。このまま折り返しても良いがそれだと時間が余りそうな気配。ここまで来たからにはついでに平成筑豊鉄道を視察してやろうということを思いつく。平成筑豊鉄道はこの辺りのJRの伊田線、糸田線、田川線を引き継いだ第三セクターである。このうち、伊田線と田川線は実質的に直通しているので、直方−行橋の路線に金田から田川後藤寺への路線が分岐しているような形状になっている。この田川後藤寺−金田の糸田線を視察しておいてやろうという考え。
ただ列車の発車時間を見ると、まだ30分以上余裕がある。そこで昼食を摂ることにする。と言っても日曜の生か開いている店があまり多くない。そんな中で見つけたのが「レストランクック」。いかにも古色蒼然たる町の洋食屋さんである。注文したのは「カツランチ(700円)」。
全く期待していなかったのに対して予想外にまとも。ソースなどもなかなかにうまく、極めてオーソドックスなメニューである。非常に懐かしい味。CPを考えると普通に食べるのはこういうメニューになるだろう。
腹が膨れたところで駅に戻るととりあえずトランクを回収、平成筑豊鉄道に乗車することにする。ホームは2番乗り場なので、JRの駅のど真ん中に平成筑豊鉄道のホームが入り込んでいる形。そもそもはJR路線だったからこそ起こる構成である。やがてやって来たのは単両のディーゼル車。400形と書いてあるが、ローカル線ではよく見かけるタイプの車両。どうやら新潟トランシスの車両らしい。車内は変則的なセミクロスシート構成である。
車内の乗客は数人。列車が発車するとじきに沿線は何もないところになっていく。何となくJR九州が切り捨てた理由が頷ける。延々と荒野を走った後に到着した金田駅も特に何もないところ。しかもここからすぐに折り返すつもりだったのが、戻る列車のホームが分からずにウロウロしている内に列車は出てしまったという体たらく。時刻表を調べると田川後藤寺に戻る列車はなんと1時間後、とてもこんなところでそこまで待ってはいられないと思ったところ、どうやら田川伊田に行く列車は20分後ぐらいに来る模様なので、とりあえずそれで田川伊田まで行ってみることにする。
金田駅は何もないところ
20分後にやって来たのは「へいちく浪漫号」とペイントされた500形。内部はレトロ調の内装の列車。時間を無駄にしたが、まあこの列車を待っていたと思って納得することにする。田川伊田までの沿線も田んぼが続く特に何もないところ。直に田川伊田駅に到着する。
へいちく浪漫号 田川伊田に到着すると田川後藤寺行きの日田彦山線のダイヤを確認。20分ほど余裕があるようなので駅の周辺を見学する。しかし周辺の状況は一言で「寂れている」としか言いようがない状態。かつては乗り換え拠点でもあった田川伊田駅は、かなり立派な駅舎が建っているのであるが、テナントはすべて撤退しているようでほとんど閉鎖状態。閑散としている。駅前もその空気をそのままに、最早わびさびの世界。
田川伊田駅はかなり寂れている
駅に戻るとしばし列車待ち。ようやく到着した列車で田川後藤寺に移動すると、そこで再び後藤寺線に乗り換え、新飯塚にまで戻る。ここからは筑豊本線に復帰である。直方行きの列車に乗ると、直方で乗り換え。待っていたのは若松行きのディーゼル車。筑豊本線は折尾−若松間(通称若松線)が非電化のため、若松行きはディーゼル車で運行されることになる。
沿線はこの辺りから住宅が増えてくる。長崎本線との立体交差駅で乗り換えの複雑な折尾駅でしばし時間待ちをすると、若松線に入っていく。若松線は原田線と同様に非電化で残された筑豊本線の両端なのであるが、原田線と違って沿線に住宅も多いし、乗降客もそれなりにいて本数も多い。終点の若松も北九州郊外の住宅地という雰囲気。ここは戸畑との間に橋が架かっているので、バスで北九州方面に移動する者も多いようである。場所柄私は工場用運搬路線のイメージを持っていたのだが、案に反して住民の足になっているようである。
若松駅に到着
若松駅で折り返すと折尾で長崎本線に乗り換え、そのまま小倉を目指したのである。これで福岡県内のJRもすべて視察完了。北部九州のJR路線は視察完了、佐賀・長崎県内の鉄道路線はすべて視察完了である・・・って私は鉄道マニアではなかったはずなのであるが・・・。
折尾での長い乗り換え 後は小倉駅で夕食を摂ると、新幹線で家路についたのであった。四泊五日の大遠征であったが、その間に成し遂げたことと言えば、長崎県内の100名城制覇と北部九州鉄道視察というどうも当初の遠征の主旨とは大きく外れた内容となってしまったような気が・・・。まあ今回の遠征で西国での宿題がかなり解消したのは事実ではあるが。
また先の島根遠征から中一日での遠征連チャンは、体力的な負担もさることながら、財政的な負担が著しいものとなってしまった。体力は寝ていたらその内に回復するであろうが、瀕死状態の財布を回復させる妙案はない。全くもって頭の痛い限りと言うことになったのである。
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