展覧会遠征 みちのく一人旅編
さて本年は東北・九州方面強化年間に当たっているわけであるが、いよいよ満を持しての東北遠征である。ただ今回はいつもの遠征とは少し違う。今回私は「生まれて初めて飛行機に乗る」ということになったのである。これは何も飛行機に乗りたかったからというわけではない。むしろ強度の高所恐怖症である私の場合、飛行機は出来れば乗りたくない交通機関である。しかしあえて飛行機を選ばざるを得なかった理由は「その方が安いから」。飛行機と言えば高いというイメージがあるが、今日では格安航空会社の参入などの影響で、大手航空会社でも各種割引運賃が導入されている。例えばANAの場合、スーパー旅割などの割引サービスを使用すると、新幹線を乗り継ぐよりもかなり安く仙台に乗り込むことが出来るのである。ただやはり不安はある。果たして私の貧乏性は高所恐怖症を凌駕することができるのか一抹の不安を含みつつの出発と相成ったわけである。
スーパー旅割の最大の難点は便の変更が不可能なことと45日前までに購入する必要があること。45日の条件については私の遠征は半年前から周到な計画を立てられているという点で問題ないが、やはり嫌なのは変更が不可能ということである。もしキャンセルになると事実上チケットを捨てるに等しい(キャンセルすると半額も帰ってこない)。とりあえず朝一番の仙台便を予約した私は、遅刻の危険を避けるために大阪に前泊する事となった。
極度に緊張しつつ熟睡して朝を迎えた私(笑)は、早朝にホテルをチェックアウトすると阪急とモノレールを乗り継いで伊丹空港に向かう。モノレールの駅と空港ビルは接続されているのでそう遠くはない。この日のためにANA会員になっていた私は搭乗手続きを省略できるとのことなので(スキップサービスというそうな)、いきなり保安検査場に向かう。機内に持ち込める手荷物は規定サイズ以下のキャリー+手元バッグと聞いていたので、いつものリュックではなくて一回り小さいサイズの鞄も事前に購入してある(この周到な準備ぶりが仕事に生かされていたら、今頃重役ぐらいに出世しているのではないかとも思えるが・・・)。空港の荷物検査と言えばかなり厳重なものというイメージがあったが、国内線のせいか思いの外簡単という印象。体から金属類をはずしてゲートをくぐると、後は荷物をそのままX線で透視するだけである(なぜかパソコンは外に出さされたが)。手荷物検査を終えると搭乗口で手続きを待つ。少し早く来すぎたのか待ち時間が思いの外長い。困るのは緊張というのは往々にして待ち時間に高まるということ。「全国を回り始めた時から、いつかはこのような時が来るとは思っていましたが、いざとなると怖いものです。手の震えが止まりません・・・。」自嘲気味につぶやいてみる。
初飛行に緊張が高まってくる ようやく搭乗時刻が来て飛行機内部に入る。昔はタラップをテクテク上ったと言うが、今はゲートからそのまま接続なので、乗り物に乗り込むというイメージがない。機内に入った最初の印象は「狭い」というもの。私の搭乗した機体はボーイング737で、小型旅客機だとは言うが、それでも客席数100席以上で国内線としては中型クラスだろう。3+3で1列6席になっている。ただ噂には聞いていたが、飛行機内部は新幹線などよりは遙かに狭い。シートピッチも短いし、これではシートにリクライニング機能があっても、事実上使用は不可能である。ベルトなどもウエストサイズが標準以上の私の場合、長さはギリギリ。なるほど、大相撲海外巡業の際、力士は一人で2シートを使用したわけである。
出発時刻が来て飛行機が動き始める。滑走路に向かうのには意外に時間がかかる。この間に非常時の説明が入る。ようやく滑走路に到着するとここからいよいよ本気の加速。さすがにGは新幹線などの比ではなく、体がシートに押しつけられる感覚がある。思わず「アムロ、行きます!」と叫びたくなる。そして一瞬の後に急上昇に入り、気がつけば伊丹の遙か上空にいる。
はっきり言って窓が小さいせいで外はよく見えないし、ちらりと見えた風景もあまりに日常生活とかけ離れた高度のために全くリアリティが感じられず、高所恐怖症を発症する暇さえなかった。ただ細かいGの変動が感じられるので、ジェットコースターが怖いよりは気持ち悪いという私の場合、この感覚はあまり好きではない。エレベータ酔いのようなものをしてしまいそうである。飛行機嫌いというのは多分これが駄目なんだろう。どちらかというと、高所恐怖症の者よりも閉所恐怖症の者の方がつらいだろうと思われる。
いざ雲の上に出てしまうと後は何もすることはない。周辺のいかにも乗り慣れたという風のビジネスマン諸子は大半が寝ているが、それもさりなん。かく言う私はこの原稿を打っている(笑)。後は気になるのは仙台の天候だけ。霧が出ているのでもし着陸不可なら羽田に向かうとのことだが、東京なんかで放り出されてもどうしようもない。しかし幸いにも仙台の霧は解消の方向に向かったとのことで、予定通りに仙台に向かうことになる。
仙台が近づいたとのことで間もなく降下に入る。思わず「早っ」と言いたくなる。鉄道ばかり乗っている人間にはついて行けないタイムスケールである。そのうちに雲の下に降りてさらに降下を続ける。空港の建物が見えたと思うとドカンと衝撃があり、強烈な前方Gがかかると間もなく停止する。乗客が一斉に降りようと立ち上がるが、通路が狭いので大混乱。なるほど、非常時には整然と行動しないと危ないと言われるわけだと妙に納得。ようやく乗客がさばけてくると私も空港に降り立つ、仙台初上陸、感無量である。
男みちのく一人旅 唄 ジョージ・山本
ここに一緒に行けたらいいと 連れる女もいやしない
独り語りの慰め言って 男みちのく一人旅
後ろ髪引く家族の声を 背中(せな)で断ち切り逃げ出した
金が尽きたらそのうち帰る 嫌でも帰るだろう
たとえどんなに離れていても たとえどんなにお金が惜しくても
俺には東北(おまえ)が最後の目的地(エリア)
俺には東北(おまえ)が最後の目的地(エリア)
怪しげな東北のテーマソングを口ずさみながら到着ゲートを抜けると、仙台まで鉄道で移動するために仙台空港線の駅を目指す。仙台空港線は第三セクターの仙台空港鉄道の路線で、仙台空港駅と東北本線の名取駅を結ぶ単線電化路線である。なお実際の運行は仙台まで乗り入れて仙台−仙台空港間で往復運転されている。
仙台空港線
駅に到着して出発時刻を確認すると、とんでもない時刻が表示されている。JRの信号機故障でダイヤが滅茶苦茶になっている模様。とりあえずもうすぐ出発するという列車に乗り込むと間もなく発車する。沿線はひたすら田んぼの真ん中というところだが、2つ先の杜せきのした駅にはイオンが進出しており、駅舎と接続している。この辺りでは開発が進んでいる模様。
東北本線と合流する次の名取駅までは比較的順調に到着した。しかしここから列車はほとんど動かなくなってしまう。特急を待ったり先がつかえていたりで一向に出発する気配がない。ようやく仙台に到着したのはかなり時間が経過してからであった。到着した仙台は大混乱の渦中、何しろすべての時刻表が「調整中」になっている状態。当初の予定ではここからさらに国府多賀城まで移動するつもりだったのだが、この状況を見て急遽予定を変更、仙台市内の見学の方を先に済ませることにする。
駅はこの状況 そして市内はこの状況 とりあえずは身軽になる必要があるので、今日の宿泊予定のドーミーイン仙台駅前に向かうと、チェックイン手続きを済ませてトランクを預けておく、さらに駅に戻ってくる途中でJTBに立ち寄りスリーデーパスを購入。これはあさって以降の移動に活躍する予定である。
仙台駅まで戻ってくると、ここからバスで市内を移動することにする。仙台では市内の観光名所を回る「るーぷるバス」というバスを運行しており、一日乗車券が600円なのでこれを購入。しかもこのパスを持っていると各所の施設で割引料金が適用されるありがたさである。
るーぷるバス
仙台と言えば目的地は100名城の一つでもある仙台城(青葉城)なのだが、その前にバスが立ち寄った瑞鳳殿で途中下車する。瑞鳳殿は伊達氏の墓所であり、政宗を初めとして二代忠宗、三代綱宗が祀られている。桃山文化を物語る絢爛豪華な建物で、戦前には国宝指定されていたというが、例によってあのアホな戦争で焼失してしまっており、1979年になって発掘調査の後に再建されたという。
いかにも政宗好みの派手派手な瑞鳳殿 バス停から参道を登っていくと瑞鳳殿の入口にたどり着く。ここで入場料を払って入場(るーぷるの乗車券を持っていると割引)。瑞鳳殿に祀られているのは政宗であるが、いかにも政宗にピッタリの派手派手の建物で、日光の東照宮を連想させる。ここを見学すると別の場所にある感仙殿と善応殿も見学。こちらに二代忠宗、三代綱宗が祀られている。やはり政宗は別格扱いのようである。こちらも瑞鳳殿と同様の派手派手な建物である。
左 感仙殿と善応殿 右 こういう普通の墓もあります バス停まで戻ってくるときっかり見学時間は30分。小高い山の上に建っている施設だけに足は疲れたのだが、思いの外見学には時間を要さなかった。しばしバスの到着を待って「仙台城」に向かう。バスは復元されたという大手門脇櫓の横を抜けると山道を登っていく。そのうちに目の前に立派な石垣が見えてくるが、これが本丸北側の石垣。仙台城は広瀬川沿いの小高い山の上に地形を最大限活かして建造された城郭であり、石垣はあまり用いていないとのことで、ここの石垣が一番立派な石垣だという。つい最近に保存のための修復が成されたこともあり、いかにも生々しい感がある。かなりの高さの石垣がそそり立っており、こちらにのしかかってくるような迫力がある。
仙台城の本丸北側石垣
本丸上は完全に広場になっており建造物の類は一切残っていない。仙台城の建造物は大正までにほぼ失われ、数少ない残存建造物もやはりあのアホな戦争で一切合切焼失したという。現在の本丸上は公園となっており、巨大な伊達政宗の騎馬像が仙台市街を見下ろしている。本丸スペースはかなり広大であり、城郭としての規模は大きい。さすがに伊達氏の本拠と言うべきか。
本丸上の政宗像 仙台城の縄張り図(現地看板より)と模型 本丸よりの風景 本丸跡をグルリと回ると、土産物屋などが建ち並ぶ一帯へ。本丸上はご多分にもれず神社になっており、その参道筋が土産物屋街という仕掛け。ここにある青葉城資料展示館なる施設にるーぷる割引で入場。この施設では本丸御殿をCG復元したムービーや、さらに他の建物類の模型、さらには甲冑類などを見学できる。とにかく実用性重視の伊達氏の甲冑は、耐被弾性能を高めるために鉄板を重ねた胴を用いており、しかも実際に火縄銃で撃ってみて防弾性能を確認するという手の込んだものだったとか。
防弾性能を確認した跡のある甲冑
見学を終えた頃にはもう昼過ぎ、さすがに空腹が身に染みてきたのでここで昼食を摂ることにする。ここにあった「日本料理仙臺」といういかにも観光地レストラン的な店に入り、これまたいかにも仙台定番と感じられる「牛タン定食(1500円)」を注文する。
お約束の牛タン塩焼きにタンシチューがついた膳である。典型的な観光地メニューと感じたが、案に反してシチューがうまい。朝からほとんど何も食べていないせいで空腹が極限まで来ていたのか、シチューのうまさが身に染みる。結局は予想外に満足して店を後にしたのであった。
腹ごしらえが終わると、旧三の丸にある仙台市博物館まで本丸石垣を見学しつつ降りていく。見上げる本丸石垣がなかなかの壮観。博物館までの道のりの途中にも、曲輪跡と思われる平地があったり、石垣があったりするが、これが往時の遺構であるかは定かではない。
博物館では「黄金の都シカン」展を開催中。これは以前に東京の化博で見ているのでパス、常設展の方を一回りする。こちらの展示についてはどこでもあるようなタイプ。いわゆる考古展示と民俗展示が入り交じっているような印象である。
仙台市博物館 博物館の見学を終えるとちょうど通りかかったるーぷるに乗り込んで次の目的地を目指す。次の目的地は宮城県美術館。バスは東北大学の構内を一周するようなコースでかなり大回りの後に美術館に到着する。
宮城県美術館ちょうど企画展の端境期であったので常設展のみを見学。
コレクションは地元ゆかりの画家の作品が中心。印象に残ったのは松本竣介と萬鉄五郎辺りか。かなり強烈に個性の強い画家達で「鮮烈」という言葉がよく似合う。今回の展示は近現代作品中心だったので、個人的にピンとくる作品はあまりなし。なお本館は別館に佐藤忠良の作品が集めてある。
るーぷるバスで再び仙台駅に戻って来た時には3時頃。駅で確認してみると、ようやくダイヤは通常に回復した模様。そこで多賀城まで繰り出すことにする。東北本線の松島行きに乗り込むと国府多賀城駅にはすぐに到着する。駅を降りた時にはそれまでギリギリのところで持ちこたえていた天候がついに限界に来たのか、雨がポツポツと落ち始めている。とりあえず駅の南にある東北歴史博物館へ入場する。
博物館内の展示は多彩である上に規模も大きい。特別展としては夏休み企画として昔からの職業に関する品々を集めていたが、鉄道マニアなんかが喜びそうな展示品も。個人的には昔の商店にあった御菓子のショーケースと瓶ジュースの冷蔵庫が懐かしかった。常設展の方は考古展示+民俗展示。当然のことながら最寄りの多賀城に関する展示もあり。ここでも個人的に泣けたのは昭和時代の商店をまるごと再現している展示。お茶の間のテレビまで再現してある凝りようにはマニア魂のようなものを感じた。
思わず涙が出そうになる昭和レトロな光景 歴史博物館の見学を終えた頃には外は本格的な降雨だった。どうやら多賀城見学は最悪のコンディションの中で行うことを余儀なくされそうである。最悪と言えば私の体調の方もそろそろ最悪になりつつあった。仙台城周辺で歩き回ったのが祟ったか、この時点でもう1万5千歩をはるかに超えている状態で、既に足の裏に痛みを感じ始めており、これからがかなり心配である。とは言うものの、ここまで来た以上初志貫徹しかない。まずは博物館東方にある寺院跡から見学開始。
多賀城の寺院と政庁の模型(東北歴史博物館より) 寺院跡は博物館東方の小高い森を越えたところにある。付近は遺跡公園として整備されており、金堂や塔などの礎石の跡が残っている。なかなかに規模の大きいものであり、この時代の寺院がどういう構造になっているかがよく分かるのだが、残念ながら実際には土盛のところに石が転がっているだけの極めてマニアックな遺跡。どちらかと言えば、お城ファンよりも考古ファン向きである。
廃寺跡の風景。金堂跡や塔跡 「多賀城」の中心である政庁跡は博物館の北西方向にあり、ここからは正反対の位置になる。仕方ないので歩いていくが、もう既に足がかなりまずいことになりつつあるのを感じる。しかも雨はますます激しさを増して足下もぬかるんでくる。あらゆる意味で遺跡見学には最悪のコンディションになってしまった。
多賀城碑と政庁の階段 かなり歩いて疲れ切った頃に、目の前に小石を積み上げた石段が見えてくる。あれが政庁跡のいわゆる大路になるようである。それを登ると低い土塁に囲まれた平地が現れるが、これが政庁跡。回りはかつては城壁に囲まれていたようであるが、やはり軍事要塞ではないので堅固な印象はない。建物跡などを確認しつつ、そのまま北に抜ける。
多賀城の見学を終えたところでやはり一つの疑問を感じずにはいられなかった。それは果たして本当にここが100名城にふさわしいかということである。と言うのは多賀城は明らかに政庁を中心とする都であって、戦闘を想定した要塞ではないということである。政庁跡などは確かに小高い丘の上には立地しているものの、その地形は堅固とはほど遠いものであり、周囲に城壁を巡らせたところでそう守備力が高いとは思えない。実際に蝦夷の有力者である伊治呰麻呂が反乱を起こした際には呆気なく落城・炎上している。
多賀城の遺跡は確かに訪問の価値のある立派なものであるが、100名城というのとは少し違うように思える。多賀城が100名城だというなら、太宰府や平城京も100名城の資格があることになる。いろいろと異議も出ている100名城であるが、さすがに多賀城については強引の批判は免れないであろう。正直なところ、名称が多賀「城」だから無理矢理に100名城に入れたのではないかという気さえしてくる。これが多賀宮や多賀府なら100名城とはならなかったのでは。
多賀城の見学を終えたところで再び仙台に戻ってくる。今日の予定はこれで終了。後は夕食だけである。しかしさすがに1日で2万歩を遙かに越える状況で疲労の極限。夕食のために遠くに繰り出す気など起こらない。結局はホテルに近い店を探した結果「牛タン炭焼 利久 西口本店」を訪問。注文したのは「牛タン極定食(1995円)」。これにとろろをつける。
しばらく待つと驚くほど厚切りの牛タンが登場する。柔らかくてなかなかに美味。非常に食べ応えがある。ついでに「タンシチュー」も追加注文。こちらもオーソドックスにしてまずまず。以上で支払いは2940円。非常にCPが良いのが印象に残る店であった。
ホテルに戻ると大浴場で入浴。なんといってもこのためのドーミーインである。とにかくここで疲れを抜いておかないと明日に響く。既に足の裏に痛みが出ているのが懸念されるところ。入浴後は雨でずぶ濡れになったズボンと汗でびしょ濡れになったシャツをランドリーで洗濯してから床につく。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時に起床すると朝食の後、8時頃にホテルを出発する。今日は山形方面を巡回する予定である。
ルートとしては仙北線を使用する。仙北線は仙台と山形を結ぶ単線電化路線。セミクロスシートの車内はかなり混雑している。沿線はしばらくは仙台近郊で住宅も多い。しばらく進み、東北福祉大前と国見で大量の降車。隣の葛岡は急に山の中。愛子を過ぎたところで車内はガラガラになる。近郊路線から山岳路線へと沿線が目まぐるしく変化する路線である。都市近郊部で何度も仙台方面行きの車両とすれ違ったが、あちら側は通勤列車並の混雑である。単線路線では輸送能力に限界が来ている模様。本来なら都市近郊部だけでも複線化したいところだろう。
出典 JR東日本HP 山岳地帯を抜けると山形盆地に出る。結構広い盆地であり、この地がかつて東北において争奪の地になったことは納得できる。山形市街が前方に見えてくるが、とりあえずは山形まで行かずに手前の北山形で下車する。山形に入る前にここから出ているローカル線の左沢(あてらざわ)線を視察するつもりである。左沢線は北山形から山形市北西の左沢を結ぶ単線非電化のローカル線で、「フルーツライン左沢線」という愛称が付けられている。
北山形でしばらく待つと、2両編成のキハ101が到着する。全線で40分程度なので、トイレなしのロングシート車両である。乗客は意外に多く、乗車率は6割程度というところ。ワンマン運転で無人駅では一番前のドアから降りるというパターン。
北山形駅で向こうのホームに移動して乗り換え 沿線は北山形を出た途端にいきなり田んぼと畑だらけの中を走ることになる。沿線人口はあまり多くなさそう。沿線で最大の集落は寒河江の模様で、寒河江駅で乗客の大半が降車する。実質的に寒河江と山形地域を結ぶ鉄道として機能しているようである。列車は寒河江を過ぎてもさらに続き、終点の左沢も一応の集落となっている。
左沢線の車両や沿線風景はこんな感じ 終点の左沢駅はやけに駅舎が大きいが、これは市民センターの類が併設されているからのようである。中には地元の祭りの山車らしきものが展示されており、地元物産の直売コーナーなんかも設置されている。とは言うもののここに特に用事はないので、10分ほどで折り返す。帰りも山形に近づくほど乗客が増えるという様子で、山形に到着した時には車内は満員状態。沿線人口がそれほど多いようには感じられなかったのだが、需要はしっかりあるようである。
左沢駅舎と内部
山形駅で降り立つと目的地(山形美術館&山形城)へバスで移動・・・と思ったのだが、どのバスに乗ったら良いのかがさっぱり分からない。案内所の類も見あたらないし、とりあえず市内巡回バスが来たのでそれに飛び乗る。山形美術館に行くとのことだったが、それは市内を一回りした一番最後だったことが判明。結局は市街地一周観光する羽目になる。まあ今日はそんなに予定がきつくないので良しとするか・・・。目的地に到着したのは、後で考えるともしかしたら歩いた方が早かったのではという時間が経過してからだった。
山形美術館
吉野石膏からの寄託作品を中心に展示。吉野石膏コレクションは印象派などを中心とする西洋絵画であり、ラインナップ的にはいわゆる日本人に対するウケ線。モネやルノワールなどの定番品である。これらがなかなかにレベルが高くて楽しめる。
「山形城」は二の丸東大手門が復元されているが、その門はこのすぐ近く。とりあえずそこから城内に入る。東大手門に入るには橋で堀を越えるが、その橋がJRの線路もまたいでいる。東大手門を入ると最上義光の騎馬像が建っている。伊達氏と時には対立し、また時には手を組みつつ覇を狙った東北の雄である。斯波氏が築いた城を大規模に拡張したのも彼の手による。山形城が最終的に完成したのは、最上氏改易後にここに入った鳥居忠政によるが、城下町をもその内部に取り込んだ巨大な城郭であったという。今日では三の丸の痕跡は山形市内の数カ所に残るのみで、現在残存しているのは二の丸と本丸の跡である。ただし二の丸内には競技場の類の公的施設が林立しており、内部に入ってしまうと城郭らしいのはこの東大手門周辺など一部に限られている。
左 復元なった東大手門 右 手前の堀のそばをJRが 城域は残ってはいますが、ほとんどが公園、公共施設、グラウンドで占められている ただ最近の城郭ブームで観光資源的価値が見直されたのか、現在は本丸一文字門などの修復工事中である。ただし御殿や櫓の建設が資料不足のために難航しているとか。国の史跡だけに、当時の図面や写真なしでのいい加減な復元はまかりならんと文化庁からクレームがついているらしい。各地の城跡に鉄筋コンクリートのインチキ天守が立ち並んだ時代とはかなりの違いである。なお山形城は城主が転々とし、その度に山形藩は小藩になっていったので、ついには城の維持管理にさえ窮するようになってかなり荒廃したこともあるらしく、この辺りが資料の不足の一因になっているとのこと。
東大手門脇には最上義光の騎馬像が建っています
遠くに見えるのが本丸土塁 拍子抜けするほど公園化してます
復元なった東大手門の内部や復元中の本丸門を見学、さらには二の丸にある博物館ものぞくが、ここはどちらかと言えば自然博物館+民俗資料館で山形城関連の資料はほとんど見あたらなかった。これは復元にも苦労するはずである。
山形県立博物館
復元工事中の本丸一文字門 完成イメージ図はこうだそうです
博物館を出て南下すると、派手な洋風の外観の建物が目に入る。これは山形市郷土館。元々は済生館と名付けられた病院の建物だったらしく、ここに移築されたらしい。遠くからは一見レンガ造りにも見えるのであるが、実は木造下見張りの擬洋風建築とのこと。多角形で内庭や塔のある印象的な建物。なかなか風情のある螺旋階段などもあるのだが、残念ながらこの階段は老朽化のために立ち入り禁止。建物内部には医学関係の資料などが展示されている。見学無料と言うことなので中に入って見学しているうちに、突然に外では大雨が降り始める。
しばらく雨宿りがてらで見学をし、小降りになったところで建物を出る。城の本丸修復工事の様子などを見学しつつ、南大手門から城を出る。こちらは完全に車の入口になってしまっていてやや風情に欠ける。ここから北不明門まで道路が二の丸を貫通している。
南大手門
昼食を摂る店を探しがてら駅の方に向かって歩くが、駅のこちら側は繁華街と反対側に当たるので郊外の雰囲気で店は多くない。その内に再び豪雨が降り出したので雨宿り。その時にふと近くを見ると「魚料理土佐」と書いてある店が目に入ったので、どこでもいいやとここで昼食を摂ることにする。
ランチメニューはいわゆる定食類の模様。とりあえず「刺身定食(650円)」を注文。典型的な町の定食屋という雰囲気なのでほとんど期待せずに待っていたら、刺身二種(かつおとマグロ)に小鉢三種に湯葉の味噌汁のついたランチが登場。で、これが案に反してうまい。決して高級な魚ではないが、魚がうまい。また小鉢類の味も良い。これは思いがけないめっけものであった。町の食堂はたまにこういうことがあるから面白い。もっともとんでもないハズレに出くわす可能性もまた高いのであるが。
昼食を終えると駅まで移動、次の目的地である米沢に向かう。山形新幹線の開通によって在来線は壊滅的なまでに本数が減少しているので、距離を考えると勿体ないのであるが新幹線で移動することにする(明らかにJR東日本のせこい陰謀である)。なお山形新幹線や秋田新幹線といった「なんちゃって新幹線」のために一部が標準軌化されたために、今では奥羽本線を通しで運行できる列車はおらず、ズタズタになってしまっている。
山形新幹線は駅の端の2番ホームに到着する。内部に入ってみると「狭っ」という声が出る。さすがに昨日乗った飛行機よりは天井が高いが、通常の新幹線に比べて明らかに車両が小さい。やはり何となくバチもの感が漂うとしか言いようがない。間もなく発車するが、速度もやはり新幹線という速度ではなく通常の特急。せいぜいが新快速並と言うところ。
内部は狭い
しばらく走行すると山形盆地の端まで達したようで沿線がやや山岳めいてくる。その内に右手に城らしき建物が見えるが、これは上山城のなんちゃって天守。時間があれば立ち寄っても良かったところだが、今日はその暇はないので後日と言うことにしておく。
上山城 さらに沿線は山岳めいてくるが、やがてそれを抜けると再び平地に出るが、これが米沢盆地。目的地米沢はもうすぐである。こうして実際に現地を訪れてみると、盆地盆地でそれなりの大きさがあるのが分かる。かつてはこの盆地ごとに豪族が出現して、互いに勢力の拡大を図っていたのだろう。地形的には信州と似たところがあり、この辺りが東北地域では大大名が出るのが遅れた一因か(遅すぎた覇者候補が伊達政宗だったが)。
米沢駅の改札を出ると、いきなり直江兼継が鎮座している。どうやら米沢の看板は直江兼継と上杉鷹山に米沢牛らしく、ホームにはなぜか上杉鷹山をバックに米沢牛が鎮座していたりする。
米沢駅ではこの方がお出迎え
米沢までやって来た目的は米沢城こと上杉神社である。ただ駅からは結構距離がある。バスの便は良くないし、歩くには遠すぎる上にそもそも昨日の無理に加えて山形で歩き回ったせいで足が終わりかかっている。ここは無理をせずにタクシーで移動することにする。
ホームには米沢牛の後ろになぜかこの方
上杉神社まではタクシーで10分程度といったところ。現地に到着するとあまりに観光地ムード全開なのでのけぞってしまう。そういえば昨年に訪問した春日山城周辺も似たような雰囲気があったが、こちらはさらに上を行っている。南に目を転じると巨大な施設が建っているが、これが「伝国の杜」なる上杉博物館。とりあえず入場してみるが、上杉博物館と言うよりも「兼続&鷹山記念館」。映像展示などもあるのだが、これも兼続編と鷹山編が30分交代で放映という仕掛け。兼続編なんて、いきなり大河ドラマのテーマが高々に鳴り響くので「おいおい、良いのか?」と思っていたら、最後にしっかり「製作NHKエンタープライズ」の文字がどうやらタイアップ企画の模様。実際、米沢市内をウロウロしていたら未だに大河ドラマは「天地人」が現役という雰囲気。「龍馬」はどこに行った?
伝国の杜 中身は兼続&鷹山記念館でした・・・
NHKスタジオパーク・・・じゃなくて、伝国の杜を見学した後はいよいよ「米沢城こと上杉神社」の見学に向かう。越後の虎・上杉家も関ヶ原の敗北でこの米沢の地に押し込められてしまうのであるが、米沢城はその上杉の本拠である。現在はかつての本丸跡が上杉神社として残っている。正方形の本丸をグルリと取り巻く堀は立派であるが、城としては比較的こじんまりした印象を受け、難攻不落の山城である春日山城とは比べるべくもない。
上杉神社正面 正面の堀 左 本殿 右 櫓跡? とりあえず神社に参拝した後で一回りするが、完全に神社化してしまっているので、城としての遺構が今一つ残っていない。回りは土塁で石垣は築かれず、また幕府への配慮から天守閣は築かれなかったという。そういう意味で、いろいろな点で「負けた上杉が押し込められた城」というイメージがつきまとう。なおこの神社内でやたらに目立ったのは上杉鷹山の像。ご本尊は上杉謙信のはずなのだが、明らかに鷹山の姿の方が多い。
鷹山の立像に 鷹山の座像 上杉神社の見学を終えるとタクシーで駅まで戻る。実のところ帰りのタクシーの心配をしていたのだが、現地は完全に観光地で、地元産品の直売施設なども整っていてタクシーが常に待っている状態。タクシーの手配には困らずに済んだが・・・。
米沢からは新幹線で福島経由での帰還となる。米沢から福島までの経路はさらに深い山。ルートが峠越えになる上にカーブもあったりするので速度は自ずと落ちてくる。やはりこうやって乗っていると新幹線と言うよりも普通の特急。果たしてわざわざ新幹線を通す必要があったのかについて大きな疑問符が浮かぶ。正直なところわざわざ標準軌に改軌するぐらいなら、線路を部分的に高速対応に引き直した上で振り子列車などを使用したリレー特急を走らせるのでどこか問題があったのだろうか? この速度だったらリレー特急でもそんなに遜色があるとは思えないし、結局は福島駅で東北新幹線との接続などの作業があるのなら乗り換え時間もあるし、現状だと山形新幹線で遅れが出るとそれが東北新幹線のダイヤの乱れにつながっているしと、あまり良い材料が思いつかない。やはりどう考えてもこの新幹線のメリットが見えない。謎だ。
新幹線の沿線とは思えない風景
福島に到着すると、向かいのホームにやって来た下りのやまびこに乗車して仙台に戻る。さすがにもう牛タンは見たくないので、この日は仙台の寿司屋で夕食を摂った。CPはなかなかだったのだが、個人的な問題は江戸前寿司だったこと。やはり関西人の私には、甘味のない舎利はどうにもなじめない。何となく夕食については不完全燃焼。
とにかく足にかなり負担が来ているので、この日は風呂で足をよくほぐした上で床に就いたのであった。
☆☆☆☆☆
翌朝はホテルで朝食を済ませると早々にチェックアウト。今日から東北周回大移動である。ここから活躍するのが先日購入しておいたスリーデーパス。まずは新幹線で盛岡を目指す。東北新幹線は昨日の山形新幹線とは違い、とにかく飛ばす。むきになったかのように飛ばす。かなり凶暴な飛ばし方なので、スピード感としては山陽新幹線よりもある。トンネルをいくつか抜けているうちに盛岡にはすぐに到着する。
盛岡に到着
盛岡に来た目的は盛岡城及び岩手県立美術館。まずは盛岡城から。まずはロッカーに荷物を置いてからと思ったのだが、このロッカーがどこにあるのか分からない。ようやくロッカーを見つけるとバスで移動と思ったが、このバスもどれがどこに行くのか分からない。やむなく盛岡城までタクシーで移動することにする。どうも盛岡駅は旅行者に対して親切心に欠けるという印象である。
タクシーでしばらく走ると立派な石垣が見えてくる。これが「盛岡城」のようである。盛岡城は南部氏が治めた城であるが、安土桃山時代になって南部氏が本拠として新たに構えた城なので、総石垣の近世城郭である。完成したのは江戸時代になってからで、そのまま南部氏の支配下のまま明治維新を迎える。明治に廃城になった後に建造物はほとんどが解体され、用地が後に公園となったという。現在でも建造物は全くないものの立派な石垣はそのまま残存しており、100名城に選定されている。
現地案内看板より 城の縄張りは中津川と北上川を天然の堀にした連郭式になっており、南側から本丸、二の丸、三の丸と続いている。本丸を取り囲むように腰曲輪があり、公園入口からはまずはその腰曲輪に登れるようになっている。腰曲輪はちょっとした展望公園という趣で、もう既にここからでも盛岡市街をかなり見渡せる。背後にはさらに一段高い本丸があり、ここに登ると天守代わりであったという三重櫓の跡が残っている。本丸には淡路丸へと続く虎口跡も残っているが、二の丸へは堀を朱塗りの橋で越えて渡ることになる。
左 盛岡城入り口 中央 腰曲輪手前の門 右 腰曲輪西方の石垣 左 振り返ると本丸石垣 中央 本丸上天守台 右 二の丸へと至る橋 左 本丸と二の丸の間の堀は意外と深い 中央 二の丸 右 二の丸北部の石垣 二の丸に降りてくるとここはさらに広大なスペースとなっている。三の丸はここからさらに一段低い位置にあり、三の丸入口となる瓦門の跡も残っているが、その脇には烏帽子岩という巨石が存在しており、その下は現在では神社となっている。
左 三の丸へと下りる 中央 三の丸広場 右 三の丸から見る二の丸北部石垣 左 烏帽子岩 中央 大手門跡 右 大手門外から 三の丸から降りたところで広場となっているのが、かつての台所跡だという。ここから眺める本丸、二の丸の石垣は壮観。ここの南にはかつての内堀跡という親水公園がある。この水路はそのまま北東側に突き出した下曲輪を囲む堀につながっている。なおこの下曲輪跡は今では完全に市街化している。
台所跡から望む本丸石垣
実に堂々たる城郭で100名城たるに恥ずかしくない立派な城跡であった。特に石垣が少ないと言われる東北では珍しいほど大規模な総石垣で、石垣好きの私としては興奮が抑えられない状態。足の痛みを忘れて歩き回ってしまったが、正直なところ、足が完全ならもっと隅々まで堪能できたのにといささか残念。
盛岡城の見学を終えると、タクシーを拾ってそのまま県立美術館まで移動する。県立美術館はJRの反対側にある。
岩手県立美術館
私が訪問時には特別展は「黒田清輝展」を開催中。黒田展は各地を回っており、私は徳島県立近代美術館を初め、二回ほど見ているので今更目新しいものはないが、やはり黒田の明るい絵は親しみやすい絵である。代表作とも言える「智・感・情」「湖畔」にも久々に再会である。改めて見直してみると、確かに「智・感・情」のモデルは日本人のプロポーションとは違うし(理想化していると言われている)、「湖畔」はかなりタッチの荒い作品である。
常設展の方は地元ゆかりの作品と言ったところで、萬鐵五郎、松本竣介など。なぜかいずれも荒々しく大胆で力強い絵である。それ以外では舟越保武の彫刻。亡霊のような兵士の像「原の城」が非常にインパクトがあるが、これのモチーフは島原の乱の原城とか。確かに言われると納得してしまう。
JRの西側は市街地の東側と違って開発があまり進んでいない感じで、山形なんかとよく似た雰囲気である。盛岡駅は構造上東西の連絡が良くないことから、余計にこのような格差が起こっているように思われる。
美術館からは駅への連絡バスはあるものの、これは1時間に1本といういたって不便なもの。こんなものを待っていられないので、タクシーを呼び出して駅に戻る。駅に戻ると昼食をゆっくり摂っている暇がないので、当座の食料としておにぎりを2つ買い込むと、足の痛みが限界に近づいているので、それを誤魔化すためにシップを買い込んで、足の裏にグルグルに貼り込む。
盛岡からはIGRいわて銀河鉄道で二戸を目指す。これは東北本線が東北新幹線開業に伴って第3セクターとして切り離された路線。車両は「価格半分、寿命半分、安全性半分」の「東北版走るんです」と鉄道マニアには評判最悪のJR701系電車をそのまま引き継いだIGR7000系電車である。私が乗車した車両は一部クロスシート改造されているタイプだったのでここに着席。発車時間が近づくにつれ乗客が増え、発車時には二両編成のセミクロスシート車内は満員となり、地域輸送路線として住民の重要な足になっていることがうかがえる。それにも関わらずこの路線を呆気なく切り捨ててしまったJR東日本は、在来線はすべて切り捨てたいという意志が透けて見える。郡山−白河間の在来線の惨状といい、やはりJR東日本は公共交通機関としての使命感より、収益性の方が重視ということだろう。民営化の負の面が露骨に現れている。
IGRいわて銀河鉄道盛岡駅と「走るんです」 路線は概ね新幹線と沿っているが、沿線が山岳地帯にさしかかるにつれて、沿線人口はかなり減少する。新幹線はこのような地域をトンネルで抜けてしまうわけだが、こちらは地面をエッチラオッチラ走る。トンネルではなく溝のようなところを走るケースが多いので、意外と風景が見えない。
左 沿線風景 中央 JR花輪線が分岐する好摩駅 右 新幹線接続駅のいわて沼宮内駅 二戸には1時間ちょっとで到着する。ここで下車するのは十数人というところ。二戸は新幹線とも接続している大きな駅である。それまで沿線人口が少ないところばかりを走っていたが、ここと手前の一戸が久々にそれなりの集落となっている。
二戸駅に到着
二戸駅でとりあえずトランクをロッカーに入れると、駅前からタクシーで移動する。目的地は「九戸城」。南部氏のかつての居城であるが、その前にここを治めていた九戸政実の悲劇で知られる城である。南部家中でのお家争いの中、豊臣秀吉が介入して、彼は秀吉に対して反乱を起こしたとして、奥州討伐軍6万を送り込まれることになる。これに対して政実は九戸城に籠もって5千の兵でこれを防ぐ。九戸城の堅固さと政実の巧みな戦術に攻めあぐねた奥州討伐軍は偽りの和議を結び、城兵の助命を条件に政実を降伏させる。しかし城兵及び女子供に至るまでなで切りされ、政実も罪人として処刑される。この戦いを全国統一の総仕上げと考えていた秀吉としては、政実と講和ではなく、圧倒的な兵力によって粉砕したという形にする必要があったのだろうと考えられる。それにしても信長といい、秀吉といい、悪党でないと天下統一など出来ないということである。
九戸城縄張り図(現地看板より) 九戸城は河川による浸食台地を巧みに利用した堅固な作りとなっている。自然の断崖は石垣以上に急峻で堅固であり、その上に二の丸や本丸などが位置している。なお本丸周辺には石垣が見られるが、これは後に蒲生氏が築かせたもので、東北最古の石垣だという。とにかく城郭としての規模も大きく、確かにこれだと6万の兵でも攻めあぐねることは十分に考えられる。
左 二の丸より本丸を望む 中央 本丸大手門虎口 右 本丸と二の丸の間の堀跡 左 本丸周囲には石垣が見られる 中央 本丸光景 右 本丸奥の断崖 左 本丸搦手口 中央 奥が石沢館 右 二の丸搦手門跡 地元でも観光開発を考えているのか、本丸と二の丸の主要部が整備された状態になって見学できるようになっており、週末はボランティアガイドによる案内などもあるようだ。二の丸と本丸の間の堀などが綺麗に残っており、本丸入口の虎口なども確認することが出来る。また二の丸の向こうには堀を隔てて石沢館跡も見えるし、南の道路を隔てて出丸になっている松の丸もある。こちらは現在では墓地などになっているようである。
左 二の丸周囲の断崖 中央 堀跡の道路より遠景 右 振り返った松の丸は今では墓地 南部氏が本拠を構えたことがある城だけに、縄張りにどことなく盛岡城と通じるものを感じた。盛岡城はここの自然地形を人工的に建造しようとしたのではという気もする。
松の丸を見学して降りてくると、ここまで乗ってきたタクシーがそこの駐車場で待っていたのでこれで駅まで戻ることにする(帰りもどうせ乗るだろうと予想して待っていたか?)。ただ駅まで戻ったものの生憎と時間が中途半端になってしまい、次の列車まではかなり待ち時間がある状態。いっそのこと新幹線で先に進もうかとも思ったが、ここまで来た以上はIGRいわて銀河鉄道及び青い森鉄道を完乗したいという気もしたので(新幹線はまたいつでも乗ることがあると思うし、そもそも新幹線は乗っても楽しくない)、待合室でポメラを取り出してこの原稿を打ちながらしばし時間をつぶす。
やがて列車が到着。例によって「走るんです」だが、今度はオールロングシートタイプのいわゆる「大凶バージョン」。これで残りの行程をガタンコガタンコと揺られていくことになる。沿線はいよいよ山が深くなり続け、長いトンネルを抜けて目地駅に出ると、ここからは青森県になると共に青い森鉄道のエリアということになる。
次の三戸駅では「三戸城」という案内が見えて心が動くが、残念ながらそこまで立ち寄っている時間は今回はないし、ここも車でないとアクセスが不便なところだったはずだ。いずれは東北地域も鉄道+レンタカーといった形式の視察を考える必要があるのだろうか。
三戸を過ぎてさらにしばらく進み、前方が開けてくると八戸はもうすぐである。ただ八戸駅はその名に反して、実は八戸の市街からは遠く、駅の周辺も東側こそ開発が進みつつあるが、西側には何もない。そもそもここは尻内駅といって何もない村の駅だったのが、新幹線がここに通ることになって急遽名称が八戸駅に変更になったという。そして本来の八戸駅が本八戸駅に変わったのだとか。だから名称的には八戸の中心の駅のように思えるのに、実はとんでもない辺鄙の駅になってしまった次第。しかしどうもおかしなネーミングである。普通この場合は八戸駅ではなく、新八戸駅になるのがパターンだと思うのだが。名称が新八戸駅だったら、別にとんでもない辺鄙にあっても驚きはしないのに。
次の目的地はこれも100名城の1つである根城。しかしここまでは距離があるのでタクシーで移動することにする。なおタクシーの運転手さんによると八戸駅なんて名称は紛らわしいので、あの駅は尻内駅のままで良かったとのことである。
八戸郊外を走ることしばし、八戸博物館に到着する。入り口には南部師行の騎馬像が建っている。東北人は騎馬像が好きなのか、どうもどこに行っても騎馬像ばかりである。根城はここから入るようになっているが、まずは博物館の見学から。展示内容はいずこも同じような考古資料。あまり興味は湧かないので、ここでトランクを預けると根城の見学に向かう。
八戸博物館の南部師行像
「根城」は博物館前の南部師行像が大鎧を着ていることから分かるように、中世(南北朝時代)の城の遺跡である。この城を築いた南部師行は南朝方についたものの足利尊氏討伐の戦いで戦死、南朝方が落ち目になるに従って南部氏の勢力も弱体化したという。その後、南部氏は内部争いなどを繰り返しつつ秀吉の時代を迎え(この間に、先の九戸政実の悲劇などがあるのだが)、結局は三戸城に本拠を置いていた南部家が一族の当主として八戸の南部氏を支配下に治めることになった。なお根城は江戸時代初期に八戸の南部氏が遠野に移封になったことから廃城となっている。
現地案内板より縄張り図 現在は発掘調査に基づいて屋敷などを復元してあり、中世の城郭の様子を伝える資料となっている。なお入り口は博物館の近くにあるが、そこから屋敷の跡までがとにかく遠い。もうほとんど死にかけている足にはこれかキツい。
左 表の門 中央 東善寺館手前の堀 右 道のりは遠い 左 中館と手前の堀 中央 中館 右 中館復元模型 屋敷跡は柵に囲まれた防御施設になっている。屋敷を中心にして馬場、鍛冶場、倉庫などが集まっており、これであらゆる事態に対応できる一つの施設となっている。中世の城郭とはこのようなものであったのかと思わせる。ただ敷地は広くて一応は堀や柵などの防御施設はあるものの、いわゆる近世城郭とは堅固さの点では比較にならない。近世城郭が要塞のイメージがあるのに対し、根城はあくまで屋敷の延長線上の施設に過ぎない。そういう点ではここも100名城という呼び方をされた時にしっくりくるとは言い難い印象を受けるのである・・・。私なら根城よりは九戸城をこそ100名城に加えたい。
左 本丸 中央 本丸入口門 右 領主の館 左 工房 中央 工房内部 右 野鍛冶場 根城の見学を終えると、今日の宿泊先のスマイルホテル八戸に向かうためにバスに乗車して八戸の中心街を目指す。しかし途中から渋滞でバスがなかなか動かなくなる。どうやら今晩、八戸で七夕祭りがあるのだとか。私は祭りの類には全く興味がないので、混雑を避けるためにあえて祭りの時期を避けたのだが、八戸で祭りに出くわすとは全く予想外であった。
八戸中心街は祭中
ようやく到着した中心街はかなりの人出で賑わっており、縁日などが立ち並んでいる状態。どうやら道路の規制をするようで、もう少しやってくるのが遅ければバスが入れないところであった。昼食をまともに摂っていなかったせいで空腹を感じた私は、とりあえず縁日で鯛焼きを買って燃料を補給しつつホテルに向かう。
ホテルにチェックインした時にはもう足が限界に達していた。夕食に行く必要があるが、遠くまで歩いていける状態でない。最初はホテルに隣接しているレストランで夕食を摂ろうと思ったのだが、予約で満員とのことなのでやむなくホテル近くのそば屋「番丁庵」で「エビ天丼セット(1030円)」を頂く。
天ぷらが真っ黒なのが印象的
手打ちそばということでコシのあるなかなかに良いそばだが、より印象に残ったのは天丼の方。一般的に天丼は天ぷらを並べた上からつゆをかけているものだが、ここの天丼はご飯の上に味のついた天ぷらを並べているタイプ。見た目は辛そうに思えたのだがそういうこともなく、ご飯がベシャベシャにならない分、むしろ私の好みかも。
夕食を摂るとホテルに戻り、大浴場で入浴(温泉などではなく、本当に家庭風呂の浴槽をそのまま大きくしただけのような風呂だが、これがあるだけでもかなりありがたい)、部屋に戻ってネットで調べ物などをしているうちに強烈な眠気に襲われ、この日は夜の9時頃にはもう就寝してしまったのである。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時頃に起床。身体にけだるさが残っているが、それよりもとにかく足の裏が痛いし、足全体にむくんだような感じがある。どうしようもないのでとりあえずは両足裏にシップを張りまくって誤魔化す。
朝食を7時にホテルで摂るとチェックアウト。今日の予定は青森を経由して弘前まで。青森行きのスーパー白鳥が8:52出発なのでまだ時間があるが、どうせだから本八戸駅までブラブラと歩きがてらに八戸城を見ておいてやろうという考え。
八戸城は根城と違い、八戸の南部氏が遠野に移封になった後、盛岡の南部家がこの地の統治のために築いた城である。結果としてその城下が今日の八戸の中心街となっており、八戸市民の感覚でも一般に八戸の城と言えばこちらを指すようである。
南部会館前にある角御殿表門
「八戸城跡」は現在ではかなり市街化しており、二の丸跡には市役所や公会堂が建っており、本丸跡は三八城神社及び三八城公園となっている。八戸城の案内看板は公会堂の横に立っているが、向かいにある南部会館にある非常に立派な門が修理復元された角御殿表門。今となっては貴重な遺構である。
左 入口は町の中 中央 本丸跡は完全に公園化されている 右 西側の崖は結構高い 本丸跡は完全に公園化しており、城の面影を残すものはない。ただ東南方向から入ってきた時には何の防御もないなだらかな台地に思われるが、本丸跡から北西方向にはかなり急な崖になっている。往時の八戸城は、この方向はこの崖を防御壁として、東南方向には二の丸と堀で守備を固めていたらしい。平時の領国統治用の政庁としての機能が中心と思われる城郭だが、それでも最低限の防御機能はやはり備えていたようである。
本八戸駅
もう少し周辺を見て回りたいところでもあるが、とにかく足がほとんど壊れかけであるので、ここらで切り上げて本八戸駅に向かうことにする。本八戸駅は八戸中心街最寄りの高架駅だが、東北本線の駅でなくて支線である八戸線の駅なので交通の要衝からは離れている。また八戸線自体は非電化単線の完全なローカル線である。本八戸から少し先の鮫駅までは八戸の市街ということで1時間1本程度の運行があるが、そこから先は本数が激減するようになっている。私が乗車したのも古色蒼然たるキハ40形。しかも驚いたことに冷房が装備されておらず、扇風機が現役である。いくら東北といっても今日のようなカンカン照りの暑い日にはこれはいささかつらい。
到着したキハ40は何と扇風機が現役 これで八戸駅まで移動。乗客はそこそこいるようだ。八戸駅までは二駅なので数分で到着、ここで特急スーパー白鳥に乗り換える。この特急は結構混むと聞いていたので特急券は事前に指定席を確保してあったが、自由席でも座れないというほどではなかったようである。ただとにかく足が完全にダメになっている状態なので、やはり少しでもリスクは避けたいところ。
スーパー白鳥車両 スーパー白鳥は東北本線をひたすら北上する。沿線風景は時折遠くに津軽の山が見えるぐらいで後は変化に乏しい大地という印象。以前より「本線」とつく路線は概して実用性重視で沿線風景の面白味に欠けると感じているが、ここもどうやらそのようである。地図で見ると海沿いを走っているように見えるが、実際は海岸線からは距離があり、海が見えるのは青森も近づいた浅虫温泉の前後ぐらい。
出典 JR東日本HP
青森駅はスイッチバック駅になっている。スーパー白鳥はここで進行方向を変えて函館を目指す。スリーデーパスは函館までエリア内なので、このまま青函トンネルを越えたい気も起こるが、それをしてしまうと後の予定が無茶苦茶になってしまうので、北海道上陸はとりあえず来年以降の宿題ということにして、今日は青森で途中下車する。
青森駅は駅前工事中
青森駅は駅前が工事中で混乱の最中。とりあえずトランクをおいて身軽になるためにロッカーを探すが、あいにくと300円のロッカーは全部ふさがっていて、高いロッカーしか空いていない。やむなくそこにトランクを放り込むが、どうも駅の規模に比してロッカーが少なすぎるような気がする。また駅前の案内もわかりにくく、先の盛岡といいどうも東北のターミナル駅はよそ者にやさしくない。
身軽になったところでバスで移動である。目的地は青森県立美術館。ただこの美術館の隣に有名な三内丸山遺跡があるのでここもついでに見学してやろうという考え。
美術館及び遺跡は市街からかなり離れた山の中に位置する。どうやらこの辺りに複合文化施設を建設する計画で工事をしていた最中に遺跡を発見したということらしい。遺跡の価値の高さに野球場を作るよりもこっちの方が観光資源になると考えたと思われる県は、遺跡を中心に一大観光地開発を目指しているように思われる。実際、遺跡の現地を訪れた私は、物産館まで併設した巨大な展示施設が建設されていることに唖然とするやら呆れるやらであった。
縄文時遊館
その巨大施設は「縄文時遊館」なる施設。三内丸山遺跡の出土品なども展示されたかなり本格的な博物館でもあるのだが、入館料無料というのは太っ腹。それだけ地元が観光に意気込んでいるのも分かるというものではあるが。
左 土器と縄文人 中央 縄文人の暮らし 右 三内丸山古墳復元模型 展示室を一渡り見学した後は遺跡に向かう。遺跡はこの施設の裏手にあり、時空トンネルなるルートを通って向かうことになる。トンネルから出て振り返ると、景観配慮かこの施設自体が半地下になっていることが分かる。
時空トンネルを抜けていく
トンネルを出た途端にモワッとした熱気がまとわりついてくる。さすがに青森でも現在は灼熱地獄になっている。まだ地面が土なのが救いか(そりゃアスファルト舗装した遺跡なんてあり得ないが)。ただ実際の遺跡はここから数百メートル先なので、この行程が完全に壊れる寸前の足にはかなり堪える。
とにかく遺跡までが遠い 遺跡中心部は発掘成果に基づいて竪穴住居や高床倉庫などの建物類が復元されており、吉野ヶ里遺跡と同じような遺跡公園になっている。ひときわ目立つのは物見台とされている巨大建造物。かなり太い柱を6本垂直に立て、その間に三層の床を渡してある。もっとも現実に出土したのはこの巨大な柱の跡だけなので、建造物の形はあくまで想像に過ぎないはずだが。つまりは単に柱を6本立てたモニュメントのようなものだった可能性から、もっと高度な建造物であった可能性までいろいろ考えられる。
左 物見台らしき塔と大きな建物 中央 建物内部 右 高床式の建物 左 こちらは竪穴式の建物 中央 遺物の出土跡も保存されています 右 これは遺跡ではありません(笑) 吉野ヶ里をイメージさせる部分は多々あるのだが、根本的に違うのは吉野ヶ里のような防御施設が見あたらないところ。吉野ヶ里は環濠と柵と逆茂木に囲まれた要塞のような防御施設であったが、三内丸山はこうして見る限りはオープンな普通の集落であり、目立った防御施設らしきものはない。この時代はまだ集落同士の大規模な戦闘はなかったということだろうか。まあそもそも戦闘が起こるほどに人口密度がまだ高くはなかった可能性もある。戦争は生存に有利な土地の奪い合いであるので、人口密度がある程度高くないと起こらない。結局は農耕によって人口が増えると共に定住性が増したことによって、「土地を守る」必要が生じたことが戦争のきっかけになっているわけなのだが。
次の目的地は青森県立美術館。時遊館の前からシャトルバスも出ているのだが、生憎とちょうどバスが出た後ぐらい。次のバスまで待つには時間的余裕がないしやむなく歩くことにする。これが身体的に普通の状態なら「かったるい」程度の距離なのだが、今の足の状況とこの炎天下では予想した以上にキツイ行程に。美術館に到着した頃にはかなり消耗してしまったので入館前に伊右衛門で水分補給を行ってから入館する。
「ロボットと美術 機械×身体のビジュアルイメージ」青森県立美術館で8/29まで
人形の機械ロボット。チェコ語で労働者を現すロボタから由来していると言われるこの存在は、映画・演劇・文学の世界などでまず登場したのであるが、芸術の世界でも機械と人体の結びつきという観点から影響を与えている。そんなロボットのビジュアルイメージに関する展覧会。
いわゆる美術展としては異色。最初はロボットに纏わる絵画という形で、人体を機械的なイメージ捉えているような作品が登場、次の部では芸術的なロボットなどが登場するが、その先はほとんど「海洋堂ミュージアム」。アトムは当然として、ガンプラから果てはバーチャロンに初音ミクまで登場するというカオスなオタクの世界。また目玉の一つはこの展覧会用に製作されたというオリジナルアニメーションというターゲットをどこに設定したのか今一つ意味不明感のある展覧会である。個人的には結構楽しめたが、ロボットと人体の接点と言うよりも、美術ファンとオタクの接点ってあるのか?
ちなみに本展は青森の次は静岡県立美術館に巡回予定で、現在静岡ではビームサーベルを装備してパワーアップしたお台場ガンダムが展示中(本展の期間中も展示続行中)。何やらターゲットが・・・。
ここも東北地方の施設のパターン通り、とにかく巨大な施設。全体的に展示品が現代寄りなのが印象的だが、上田信のミリタリーイラストとか、成田亨の怪獣デザイン(有名な不気味なウルトラマンの初期稿などが展示されている)などかなり「そっち系」のものが多かったのが特にインパクトがあった。まあそもそも特別展の内容自体がもろに「そっち系」だったのだが・・・。
これが青森犬 実はかなり巨大です
この美術館のシンボルでもある「青森犬」や美術館中央アレコホールの名前の由来になっているシャガールの巨大背景画「アレコ」など一渡りの見学を終えてこれで美術館の見学は終了。駅に戻るバスは1時間に1本程度出ているのだが、今はちょうどのその中間の時間。次のバスまで待っていると列車の時間まで余裕がないので、これから昼食を摂ることも考えてタクシーで駅まで戻ることにする。今回はとにかくタクシーの利用が多いが、これはまず足が完全に壊れていること、東北大遠征であることを考えて資金的なリミッターを一時的にはずしていることなどがあるが、何よりも東北地域の公共交通機関の貧弱さも反映している(1時間に1本バスがあるところは良い方で、大抵は1日数本)。
青森駅まで戻ってくると駅前で昼食にする。選んだ店は「ホタテのおいしい店」と表に看板が出ている「お食事処おさない」。注文したのは無難に「ホタテフライ定食(1200円)」。
ホタテフライがまさに絶品 かなりのボリュームのホタテフライが盛られた定食が運ばれてくる。私は個人的にはホタテはフライよりも天ぷらのイメージがあったので、ホタテフライには「?」という感じだったのだが、実際に一口食べてみるとうまい。メニューには醤油をかけてと書いてあるのだが、確かにソースだとホタテの風味が死ぬので醤油をチョイスするのが正解。柔らかくて噛みしめるとじわっと味があって最高。さすがと言うか、今まで食べたホタテの中でも最上の部類である。
このビルの地下に 市場が・・・
昼食を終えると近くのビルに入ってみる。ここは地下に市場があるようだが、これがまたいかにも昔ながらの市場。恐らく本来はこの市場があった場所に再開発でビルを建てたのだろう。非常に懐かしさを感じさせる。とは言うものの特に用事があるわけではないので青森駅に戻ってしばし列車待ちをする。
リゾートしらかみ・・・いつかは乗りたい
ようやく秋田行きの特急かもしかの発車時間が近づいたので駅に入場する。向かいのホームを見ると五能線経由の観光快速りぞーとしらかみが見える。正直、これも乗ってみたい気があるのだが今日はその時間がない。どうも東北方面はまだまだ宿題が多い。しばらくして特急かもしかが到着するが、これは古色蒼然たる485系列車。未だに地方の特急では使用されている車両である。シートのリクライニングもガックンガックンという感じだし、乗り心地はイマイチ。乗車率は4割というところだから、これもあえて指定を取る必要はなかったような・・・。
特急かもしかは・・・少々ボロい 青森を出るとすぐに新青森駅を通過。今年末にはここに新幹線が通るようだが、現在は日本で一番大きな無人駅だとか。実際、在来線の駅は小さないかにもローカル駅。それにしても新幹線も微妙な場所に駅を作るものである。多分青森駅周辺にスペースがないのと、これから先に北海道に延伸するとした場合(実際に延伸できるとは思えないが)のコース設定の関係だろう。
しばらく山の間を抜けるようなコースになるが、そこを抜けると急に田んぼの真ん中を走るコースに変わり、右手に大きな山が見える。これが有名な岩木山らしい。東北のシンボルにふさわしい堂々たる山容。また天気はよいのにもかかわらず、なぜか山頂には雲がかかっている。
岩木山には雲がかかっている
次の目的地は弘前だが、とりあえずの予定は大鰐温泉までこの列車で移動して、大鰐温泉で視察も兼ねて弘南電鉄の大鰐線に乗り換えて弘前入りしようというもの。ただ大鰐温泉での乗り換え時間が短いのが懸念されるところ。駅は隣接していると聞いているので大丈夫だろうとは思うが・・・。という考え事をしていたら急に列車が緊急停止。何だろうと思っていたら、どうやら車か歩行者が列車の直前を横断したらしい(田舎だな・・・)。安全確認やら何やらで列車は数分間その場で停止、これで大鰐温泉での乗り換え不可なのは確定、急遽予定を変更することを余儀なくされる。
弘前駅に到着
結局は大鰐温泉まで行かずに弘前駅で下車することにする。とりあえずは今日の宿泊ホテルに向かうとするが、宿泊を予定していたドーミーイン弘前はここからだとかなり距離がある。そこでホテルに移動方法を問い合わせると、間もなく無料の送迎タクシーが出るとのこと。そこでタクシーの待ち合わせ場所に急ぐと、どうやら今の時間の送迎客は私だけの模様。悪いなと思いつつも、正直言うとかなり助かる。ホテルまでは結構な距離があって、今のように足が死んでいる状態でなかったとしても歩いていこうと考える距離ではない。
10分ほどでホテルに到着。とりあえずチェックイン手続きだけ済ませて荷物を預けると、いよいよ本遠征の主目的とも言って良い弘前城見学に向かう。ホテルから「弘前城」までは徒歩10分程度なのだが、足がほとんど死んでしまっている現状では正直なところこれがキツイ。
もう門からして風格がまるで違う
足をひきずりながら進んでいるとその内に目の前に門が見えてくる。思わず「おおっ、すごい」という声が出る。そこらの門とは風格からして全く違う。これが三の丸追手門。やはり現存の建築らしい。これを見た途端に足の激痛を一瞬忘れる。
現地案内看板より 門をくぐって三の丸に入ると、まっすぐに本丸の方向に向かうつもりだったのだが、何と正面の橋が工事中で、東側から大きく回り込む必要があるらしい。正直これはツライ。そこでまずはそちらに向かう前に手前にある博物館の方に立ち寄っておく。
「華麗なる美人画の世界〜清方・深水・松園ら巨匠の系譜〜」弘前市博物館で7/19まで
美術品蒐集家の福富太郎氏のコレクションから美人画の代表的な作品を展示したもの。展覧会のタイトルにも銘打っているが鏑木清方の作品が多い。
鏑木清方の作品と言えば、浮世絵の伝統を引き継ぎつつ、品のあるおとなしめの作品が多いのであるが、そんな中で異彩を放っていたのが人魚を描いた「妖魚」。彼の絵にしては珍しい艶めかしさと怪しさで、一瞬ギョッとさせられる。それ以外では島成園の作品が数点あったのが個人的には収穫。
博物館の出し物は全く知らず、実は弘前城に関する情報を仕入れるつもりで入ったのに、全館が絵画展示だったせいで目的の情報は得られず。展覧会自体はまずまずだったが、これは実は三次に巡回した時にそちらで行くつもりだったもの。予定が狂った。
左 未申櫓 右 杉の大橋は工事中 博物館の見学を終えたところでいよいよ本丸を目指す。本丸に向かうには三の丸の植物園の脇に作られた臨時通路を回り込む形で歩く必要がある。体力も興味もないので植物園はパスしてひたすら二の丸の堀沿いにグルリと東の方向に回り込む。足に激痛が走るのだが、それも忘れるぐらいの興奮が身体を駆けめぐる。「すごい」その一言を何度も連発してしまう。なんと言っても現存建築物の数が桁違いである。田舎であるのが幸いして第二次大戦の空襲を免れたのだろう。戦前にはこのレベルの城が全国にまだいくつもあったと言うことを考えると、つくづく無差別爆撃を行った卑劣な米軍と、無謀な戦争に突っ走った無能な軍部に怒りがこみあげてくる。またこの城で驚きなのは城域がほぼそのまま残っていること。大抵の城では城の外郭から市街化の波に押しつぶされることが多いのだが、この城では三の丸までの全域がほぼそのまま残っている。これも田舎であることが幸いしたのであろう。とにかく他の城とは格が違うことを痛感する。
左 辰巳櫓 中央 東内門外橋を通って 右 東内門をくぐると二の丸 弘前城天守 二の丸の東内門を通って二の丸に入ると、正面に天守が見える。ここで心の底から感動が湧きあがる。「ああ、ようやくここまでやって来たんだ」という感慨が身体を駆けめぐる。ただこの感動は天守からだけ受けたものではない。やはり城郭全体としてのすばらしさが与えた影響が大きい。以前にこの城を訪問した知人から、天守閣が思っていたよりも小振りで貧弱なので拍子抜けしたと聞いていたが、彼は「城=天守閣」というレベルの認識なのでそうなったのだろう。私の場合、この城ならもし天守が現存していなくてもかなり強い感銘を受けたはずである。この城郭は私なら迷うことなく全国ベスト5に挙げる(他は姫路城、松本城、松山城、熊本城辺りか)。
左 本丸より眺める天守はこじんまりしている 中央 さすがに梁はしっかりしている 右 本丸御殿模型 本丸及び北の郭が有料区域になっているので、本丸に入ったところで入場料を支払う。三層の天守が間近に見えているのでまずはそこに入場。中は極めて質実剛健なシンプルなもの。窓も小さくて展望が良いというものではないが、そこがいかにも現存天守という感じで良い。これでついに私も現存十二天守制覇達成である。一瞬、今までの全国遠征が走馬燈のように頭をよぎる。この時だけは、本気で今この瞬間に命を終えても悔いが残らないと感じていたのである(ちなみに今はもう既に新たなる目標が生まれているが(笑))。
左 本丸には何もない 中央 北の郭へと渡る橋 右 本丸と北の郭の間の堀 左 北の郭から本丸方向を望む 中央 北の郭もやはり広場 右 その隅に休憩所の建物が 本丸は天守は残っているものの後は広場で公園状になっている(屋敷は残っていない)。ここを抜けると赤い太鼓橋を渡って北の郭へ。北の郭も広場状だが、隅の方に土産物屋兼の休憩施設(武徳殿)が建っているのでそこでしばし休憩をとる。実際、もう足が完全に死んでしまっている。
ドーピング剤と私の愛機Kissデジ
休憩施設に入るとまずは宇治金時ドーピング。これで身体をクールダウンして落ち着いたところでメニューを見渡すと、「ご当地サイダー」という表示が目に入ったので、この朝日サイダーを頂く。特別にどうと言うことのないサイダーだが身体に染みいる優しい味。最近の合成甘味料を使いまくったギトギトした味の飲料とは風味が違う。
左 丑寅櫓 中央 与力番所 右 三の丸東門 休憩を入れて人心地ついたところで帰ることにする。本当はもっと隅々まで見たい城だが、さすがに足の方が限界を超えている。まっすぐ東門を抜けて城から出る。この東門もこれまた現存。つくづく現存建造物の多い城である。今思ってみると、工事のせいで遠回りさせられることになったが、おかけでいろいろ見て回れた気もする。もし工事がなかったら、足の状態を考えるとまっすぐ天守まで往復してそれで終わりだったろう。それだといかにも消化不良感が残るところだった。結果オーライか。
城から東に抜けると市内巡回バスで弘前駅経由でホテルに戻ることにする。途中で弘南鉄道の中央弘前駅近くで下車、一応駅の位置を確認しておく。あわよくばこのまま大鰐温泉まで・・・という気もあったのだが、電車が出た直後で次は1時間後。さすがにそれだと途中で日没しそうだったので諦めて再びバスでホテルに戻る。
夕食を摂る必要があるが、足が完全に死んでいてどこかに出るという状態でない。面倒なこともあってホテルの向かいの和食レストランでご当地メニューを中心に夕食を済ませる。これに関しては可もなく不可もなくというところ。この夜はホテルの大浴場で、シップまみれで半分腐りかけている足(笑)を徹底的にほぐしてから、かなり早めに就寝した(と言うか、実際はダウンしてしまったと言う方が正しい)のであった。
☆☆☆☆☆
朝起きた時には体調は最悪だった。体自体が特に悪いわけではないのだが、両足が完全に壊れてしまっていた。立ち上がっただけで両足はかかとを中心に激痛が走るし、両太ももがだるい感じで足があがらない。どうしても足を引きずるような歩き方になるので、通常の半分ぐらいの速度しか出ない。老人のような歩き方であり、知らない人から見たら障害者に見えるだろうと思われる。やはり昨日の三内丸山遺跡と弘前城は完全なとどめとなったようである。足のダメージは翌日に顕著に現れる。
このような状態なので、今日はなるべく歩かないで済むようにしたい。とりあえずホテルで朝食を済ませるとチェックアウト。ホテルの近くの弘南鉄道中央弘前駅までトランクを引きずりつつヨタヨタと歩く。
古式ゆかしい中央弘前駅
かなり古びた車両で扇風機も現役 弘南鉄道は中央弘前−大鰐間の大鰐線と弘前−黒石間の弘南線の2つの路線を運営している。これを視察しておいてやろうという考え。まず中央弘前から大鰐行きの列車に乗車。単線電化路線を二両編成の電車が運行しているが、多分車両はどこかの中古(東急あたりか)と思われる。休日の早朝のせいか車両内はガラガラ。駅名を見ていると学校名を冠している駅名が多いことから、平日には通学客がそこそこいるだろうとは思われる。小集落をつなぐような感じで路線は続いているが、途中で畑の中を延々と走るシーンもある。なお路盤が悪いのか車両が古いせいかとにかくよく揺れるし、線形は比較的直線なのにもかかわらず速度が出ない。終点の大鰐には30分ほどかかって到着する。
左 大鰐駅に到着 中央 すぐのところに北口もありますが 右 JR側に渡る跨線橋があります 左 跨線橋内部の表示 中央 JR大鰐温泉駅 右 その横にひっそりと弘南鉄道大鰐駅 大鰐では跨線橋でJR大鰐温泉駅とつながっている。今度はJRで弘前まで帰ることにするが、JRの車両がやけに速く感じられる。実際、JRは10分ちょっとで弘前に到着する。ただJRの沿線は弘南鉄道以上に何もないところを通っている。
弘前に到着すると今度は弘南線の方の視察。こちらも大鰐線とほとんど同じタイプの車両が運行されている。こちらも駅名に学校名を冠しているところが多く、その点でも大鰐線と類似している。
左 弘南鉄道弘前駅駅舎 中央・右 こちらの車両も同タイプ こちらは延々と田んぼの中を走行するというイメージ。終点の黒石はそれなりの集落であるが、途中には小集落が点在しているのみという印象。終点までは30分ほどでこれも大鰐線とほぼ同じ。大きくU字を描くようなルートになっているので、進むにつれて岩木山が見える方角が変わっていく。
左・中央 黒石駅に到着(隣の建物はAコープ) 右 駅前風景 終点の黒石はここからさらに奥地の観光の拠点という印象の駅である。また駅舎には農協のスーパーが隣接していた。ここで列車の折り返しを待っていると、騒がしい団体がやってくる。どうやら近くの温泉に行っていたおばさんの団体の模様。バタバタと隣のスーパーに出ていったり、自動販売機で飲み物を買いまくっていたりととにかく賑やかしい。その内に発車時間がやってきたので私は列車に移動、このおばさんの団体も後からドカドカとやってくる。
帰りの方が乗客は多い。また途中の駅で次々と乗客を拾っていって、弘前に到着した時にはほぼ満員。弘前と周辺地域を結ぶ鉄道としてキチンと機能しているようである。経営は楽とはとても思えないが、もっとひどい状況の鉄道会社を各地で見ているだけに、まだそれに比べるとずっと良さそうである。問題は東北全体での過疎化。やはり日本全国レベルでの対策が早急に必要。今のうちに手を打たないと取り返しがつかなくなる。
再び特急かもしか
弘前に戻るとここからは特急かもしかで秋田まで移動することになる。ただこれは正直なところ想像以上にしんどい行程だった。と言うのも、奥羽本線も本線と付く路線のお約束通り、沿線風景にはこれという特徴がないし(ひたから山ばかり)、距離は長いし、旧型車両のかもしかはとにかく遅いしシートも今一つ快適ではない。大分精神的に疲れた頃にようやく山岳地帯を抜けて平地に出てくる。すると明らかに周辺の田んぼの様子が変わってくる。この辺りが大潟村。確かに田んぼの区画がかなり大きいのは遠目にも分かる。
左 のどかな沿線風景 中央 鷹ノ巣の秋田縦貫鉄道車両 右 謎のイカ 大潟村を抜けると秋田はもうすぐ、ようやく弘前から2時間を費やして秋田に到着した。到着時には体調が悪いこともあって既にグッタリとしていた。とりあえずロッカーにトランクを預けると観光案内所で付近の地図を入手。秋田に来た目的は久保田城見学なのだが、久保田城は駅から徒歩10分程度とのこと。普通の体調ならなんてことないのだが、足が完全にぶち壊れている現状ではこれはキツイ。結局はその倍ぐらいの時間をかけてヨタヨタと歩いていくことになる。
秋田駅
やがて前方に大きな堀が見えてくる。この辺りはなかなか立派だが、堀の内側には図書館、美術館、学校などの建物が並んでいて城としての遺構はほとんど見られない。大手門も跡があるだけである。とりあえずここから城内に入るとまずは城内にある美術館に立ち寄る。
秋田県立美術館・平野政吉美術館
収蔵品は藤田嗣治の作品が代表的。特にメインに展示されている「秋田の行事」は人物群像を描いた大作。これは地元の資産家・平野政吉の依頼で制作した作品で、藤田は縦3.65m、横20.50mの大作を15日で仕上げたという。
私は藤田の描く人物の乳白色の肌が死人に見えて基本的に好まないのであるが、この大作は藤田らしからぬ生気に満ちており、地元の祭りをモチーフにしているせいか画面全体が躍動感に溢れている。この作品を見るためだけにでもここに出向いてくる価値はありそうだ。
「久保田城」は平山城である。城の本体はここから先に進んだ小高い丘の上にあるようである。そこを登っていくと松下門跡を抜けて二の丸入り。そこに最初にあるのは佐竹資料館。久保田城は常陸から移封された佐竹氏が治めていた城なのでそれに関連した資料が収められている。なお佐竹氏は関ヶ原の戦いにおいて旗幟を鮮明にしなかったので、この移封は多分に制裁の意味が込められている。実際、大幅な石高減少となった佐竹氏は、同じような処遇を受けた上杉氏と同様にその後の藩運営に困窮することになったという。
現地案内看板より 佐竹資料館から出ると二の丸跡は現在は広大な公園となっている。この北西方向の少し小高くなったところが本丸跡である。現在、御隅櫓が鉄筋コンクリートで復元されている。久保田城は元々天守のない城で、その代わりに8棟の櫓が建っていたというから、これはいわゆる「なんちゃって天守」と同等物である。
左 二の丸の松下門跡 中央 二の丸は完全に公園化 右 佐竹資料館 本丸に上がるとそこも公園化している。その北西隅にさらに一段高くなった部分があり、そこに御隅櫓が建っている。中はエレベータ付きの普通のビル。しかし今の足の状態では初めてエレベータ付きのインチキ天守をありがたいと感じたのが本音。この状態では現存天守の急な階段などとても登れない。最上階はお約束の展望台で辺りを見渡せるが、正直なところ久保田城は木が深すぎて眺望が遮られており、あまり眺めが良いというわけではない。
左 階段を登って裏口門から本丸へ 中央 本丸も公園化している 右 本丸奥がさらに一段高くなっている 御隅櫓 御隅櫓の見学を終えると本丸を一回りして本丸南部に到達する。ここには趣のある門が建っているが、これが復元された本丸表門とのこと。つまりはここからが正規の入口。ここを出ると、久保田城唯一の現存建築物である御物頭御番所が建っている。中は普通の旧民家のような趣。なお他の建造物は明治期の大火で焼失してしまったという。
再建された本丸表門と御物頭御番所(現存)
本丸から二の丸まで戻ってきたところで溜息が出る。これから駅まで戻らないといけないのだが、正直なところ足が完全に壊れているのでもう一歩も歩きたくない心境。いっそタクシーでも呼び出そうかと思ったが、この辺りのタクシー会社の電話番号を知らない。どうしようかと思案していたところ、目の前の二の丸入口のところにタクシーがやってくる。誰かが呼び出したのかなと思っていたらそういう気配もなくタクシーは駐車場に停まる。これは天の助けとばかりにそのタクシーに近寄って確認すると単に客待ちをしていた模様なのでそれで駅まで移動する。
駅まで戻ってきたところで遅めの昼食。とりあえず観光案内所で「駅の近くで何か地元食のある店を」と聞いていた店「秋田比内や」に入店。何かチェーンのような店である。本当は秋田と言えばきりたんぽなどを食べたかったのだが、それはちょっと季節が違うし、とにかく店を探しているような体力もないので手近な選択である。注文したのは比内地鶏の肉と玉子を使用しているという「究極親子丼(1280円)」。
見た目は普通の親子丼。鶏肉について言うと、確かに地鶏らしく肉がしっかりと固く、それでいて味は強い。ただグルメとはほど遠い私には、玉子の違いはそれほどには分からなかった。まあ親子丼としてはなかなかにうまいが、明らかに高い。やはり比内地鶏を味わうなら、もっと鶏をメインにしたメニューの方がよいのだろう。これはいずれリターンマッチの時に検討したい。
秋田を出るのは夕方の予定で新幹線のチケットを手配しているので、まだ時間がかなり余っている。とは言うもののとても動き回れる状態でない。そこでこういう事態のために用意していたブランを発動させることにする。それは男鹿線の視察。男鹿線は秋田の北にある追分と男鹿半島の男鹿を結ぶ単線非電化路線で「男鹿なまはげライン」の愛称を持つ路線。なお実際の運行は秋田−男鹿間になっている。
トランクを回収して秋田駅に入ると、男鹿線のホームへ。待っていたのは二両編成のキハ48形ロングシート車。車内は既に満員状態である。追分までは奥羽本線を走り、追分で西に大きく迂回すると男鹿半島に向かって進んでいく。追分までは秋田市近郊の雰囲気だが、ここから沿線は田舎めく、ただし沿線にはそこそこの集落はある。また海沿いを行く路線のイメージがあったのだが、実際には海から常に距離があって海が見えることは最後までなかった。終点の男鹿駅はなまはげを正面に打ち出した観光地だが、何となく中途半端な印象。
駅で土産物(塩汁煎餅)を買い求めてから折り返しの列車で秋田まで戻る。行きも帰りも秋田に近づくにつれて乗客が増えるパターン。典型的な都市近郊路線のタイプである。弘南鉄道黒石線などと乗降パターンが類似している。
秋田駅に戻ってくるとそのまま秋田新幹線に移動する。ここからは秋田新幹線で一気に仙台にまで戻る予定。明日の夕方に仙台空港から飛行機で帰還するので、今晩は仙台で宿泊するつもりである。秋田新幹線は混雑すると聞いていたので、事前に指定席のチケットは手配している。
噂の通り秋田新幹線はほぼ満員の状況。かなり利用者の多い路線のようである・・・とは言うものの、それはそもそもこの路線はほとんど在来線がないので他に代替機関がないというのが実態だからの模様。全車指定席などといった強気の商売も、競争相手が満足にいないという現状があってのものか。東北を一渡り回ったことになるが、どうも秋田は他の県よりもだんちに交通が不便である。まあ秋田市が日本海沿岸にあることに最大の理由があるとは思うが。
新幹線と思えない沿線風景
秋田新幹線は新幹線とは言っても山形新幹線と同様の「なんちゃって新幹線」であり、車両は小さくて編成が短い。これが大混雑の最大の原因。列車は秋田から大曲まで奥羽本線を通るが、この辺りは新幹線と言うよりは普通の特急。正直なところ特急かもしか並みにかったるい。ただ実はまだこの区間は良い方で、問題は大曲からスイッチバックして田沢湖線に入ってから。田沢湖線は山間を行く単線のローカル線なので、速度は大幅に落ちる上に途中での行き違い待ちがやたらに多く、甚だしきは普通列車を待つ羽目にさえなる。山間を行く沿線風景は新幹線のものとはとても思えず、どう見てもただのローカル線。遠征初期に乗った仙山線の風景に近い。新幹線どころか普通の特急と比較しても遅いと感じる始末で、やっぱり何のための新幹線か意味不明。秋田新幹線ならスーパーはくとの方が速いとこの時に感じる。盛岡では連結のための時間待ちもあるし、それを考えると、無理矢理に改軌電化してこんな中途半端な新幹線を走らせるよりも、速度上ネックになる部分だけを手直しして、ディーゼル特急をリレーで走らせた方がよほど効率が良かったような・・・。どうも新幹線という「名」だけ欲しがったように思われてならない。
結局は1時間半以上を費やして盛岡に到着すると、そこから今までの鬱憤を晴らすかのように爆走して仙台に到着する。この速度のギャップがまた・・・。
仙台に到着するとホテルに入る前に駅近辺で夕食を済ませておくことにする。駅の牛タン専門店に入ったところ「全席喫煙ですけど良いですか?」と聞かれて「?」となるが、やむなく入店。しかしやけに待たされて出された料理は味付けがえぐく、所詮はこの時代に禁煙席も設けないような店はその程度だと痛感しただけだった。やはり喫煙への対応も店を選ぶ目安になりそうである。
今日の宿泊予定ホテルは「ドーミーイン仙台ANNEX」。駅からはそう遠くないはずだが、正直なところ現状ではとても歩ける状態でない。やむなく嫌がられるであろうことは覚悟の上でタクシーを利用。予想通り露骨に嫌がられたが、こちらも事情が事情なのでそれに気が付かないふりをして乗車。私も足がもう少し動けばせめて流しのタクシーを拾うところだが・・・。
この日もホテルにチェックインして入浴するとほぼ瞬時にバタンキュー。かなり体力的に限界に達していることを感じるのであった。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時頃に起床すると朝食に向かう。昨日徹底して歩行を避けたおかげか、足の状態が若干だが回復している(それまで連日二万歩前後だったが、昨日は一万歩程度)。何とか動けそうなので当初の予定通りの計画を実行することにする。それは仙台に来たのだからやはり松島には立ち寄る必要があろうというごく普通の観光計画である。以前に天橋立、安芸の宮島は訪問しているので、松島を訪問すると日本三景制覇ということにもなる。
松島最寄りは東北本線の松島駅ではなく、仙石線の松島海岸駅だという調べがついているので、ホテルをチェックアウトすると仙石線の始発駅であるあおば通駅を目指す。仙石線はあおば通と石巻を結ぶJRの路線である。周囲のJR線はすべて交流電化である中、この路線だけが直流電化と言うことで他の路線とは完全に分離している。またあおば通駅から陸前原ノ町までが地下化されているので、イメージとしては地下鉄に近い。ちょうど地下鉄と直通運転しているJR九州の筑肥線を想像するが、この路線は地下鉄などとは相互乗り入れしておらず、あくまでJR単独での地下路線である。
あおば通駅
あおば通駅は改札からして地下鉄の雰囲気。今日から使える青春18切符を取り出して改札を通過するとホームへ。この路線は複線区間が東塩釜までなので、東塩釜で折り返す列車が非常に多く、その先はガクンと本数が減るようである。松島海岸まで行こうとするとどうも途中でかなり待たされそうである。
ライダーと009
仙石線は直流電化路線なので、列車は首都圏型の車両が用いられている。二両が待っていたが、その一両が奇妙な車両。仮面ライダーやサイボーグ009などが描かれている。これは石ノ森章太郎が宮城の出身で、石巻に石ノ森萬画館があるというこで導入されたマンガッタンライナーなる車両のようである。ちょうど発車寸前だったし、どうせだからこれに乗車することにする。
仙石線は車両だけでなくて乗客も地下鉄である。今日は平日の月曜日であるので、次の仙台駅からは大量の通勤客が乗車してきて車内はラッシュアワー。これが一気に減少するのは多賀城駅で。少々閑散とした車両はそのまま東塩釜まで走行。塩釜は港町であるが東塩釜は特に何もないところ。駅で確認すると松島方面まで行く列車は40分ぐらい経たないとこないらしい。こんなところで長時間待つのも面白くないし、どうせその列車は千台方面から来るのだろうからいっそのことこっちから途中まで迎えに行こうかと、乗ってきた列車でそのまま仙台方面に折り返すことにする(こんなことも青春18切符ならではだが)。
左 ゴレンジャーに 中央 先頭車はロボコン 右 車両内部 改めて乗車してみると、私は三両目のロングシート車に飛び乗ったので気がつかなかったのだが、両端の車両はセミクロスシート車だったらしい。また車両ごとにキャラクターが違うという凝りよう。私は009と仮面ライダーしか見ていなかったが、他の車両はゴレンジャーとロボコンであった。
多賀城駅で途中下車するとここで列車を待つことにする。多賀城駅は現在高架化工事中のようで、上りホームと下りホームが上下に分かれてしまっており階段移動。正直なところ、トランクを担いでの階段移動はまだツライ。ここで列車を2本ほどやり過ごすと、ようやく石巻行きの列車が到着するのでこれに乗車する。
松島海岸駅に到着
松島海岸駅までは海が見えるかと思いきや、予想に反して山とトンネルの連続である。そしてトンネルを抜けた途端に松島海岸である。松島を堪能するには鉄道では無理で、やはり下車する必要があるようだ。とりあえず駅のロッカーにトランクを放り込むと、湾内遊覧船のチケットを購入する。実は松島と言ってもどうやって見学すればよいのか分からず、あれやこれや調べた結果、松島全体の風景を楽しむには山上に登るしかないが、それをするには車が不可欠であるという結論に達したのだった。しかし今回はレンタカーなどを手配するつもりはないのでそうなると代案が必要である。その結果、山に登れないなら海から見学するしかないという結論に至ったわけである。
湾内遊覧船は9時の第一便は出てしまっているので、次は10時の第二便を待つしかないようである。とりあえず遊覧船乗り場までトロトロと歩く。まだ朝早めなのか観光客の姿はそう多くない。しかし既に車は増えつつある気配。10分ほどで乗り場に到着するとしばしそこで待つ。
やがて遊覧船が戻ってきたので乗船。二階はグリーン席とのことで追加料金が必要だが、この際だから二階の方に上がることにする。乗船券が1400円にグリーン拳が600円、しめて2000円、結構高い。
船は奇岩の類を紹介しつつ外海に向かっていく。デッキではカモメの餌などが売っており、カモメに餌をやる子供などの姿があるが、おかげで船にカモメが大量につきまとっている。ひったくるような感じで餌をとるので、そのシーンを撮影したらそのままヒチコックの「鳥」の世界である。
私はたまにデッキに出たりしたが、やはり外は灼熱していて暑すぎので基本的には冷房の効いた船内にとどまりつつ松島見学。とにかく島の多い湾である。と言うことは浅瀬もあるはずで航路は限られているのではなかろうかということが頭をよぎる。それと意外だったのは人が住んでいる島が意外とあること。中には小学校のある島もあるらしい。
そのうちに外海に出ると船が途端に揺れ始める。以前に小浜の蘇洞門巡りで体験しているが、湾内と外海とでは驚くほどに波が違う。湾内が天然の良港となるゆえんである。
松島は奇岩の連続
観光クルーズは50分で終了。再び元の港に戻ってくる。松島の全貌を把握することは困難だが、まったりと松島を楽しめたので良しとしよう。港で船を降りると、次の11時の便を待つ客が百人レベルでいることに驚く。こんなに多くの乗客が乗船できるのだろうか? 私はどうやら松島の観光客がピークになる前にここにやって来ていたようだ。実際、この後に駅の方に戻るために道路に出てみると、朝とは比較にならない台数の車がひしめいて渋滞を起こしていた。今日は平日の月曜日だというのに。
駅まで戻ってくると列車の時間を確認してから、昼食を摂るために駅前の「かきや福来」に入店する。注文したのは「カキ定食(1500円)」。ここはカキの販売もしており、それが1個300円。つまり5つ買うとご飯とみそ汁が付いてくると言うわけでもある。なお5個のカキの焼きにするか生にするかは自由なので、私は1つを生に、後の4つを焼きにしてもらう。
夏のこのカンカン照りの時期にカキというのも妙なものだが、松島はカキの養殖が盛んで、この店でも今は夏ガキの旬なのだという。基本的にはここでは年中カキが食べれるということ。夏に食べるプリプリのカキもまた格別である。死にかかっていた体が持ち直してくるような気がする。本当に下手なサプリメントなんかよりもカキの方がよほど私には効く。
駅に戻ってトランクを回収すると、ここからさらに奥地に移動することにする。仙台空港からの飛行機は夕方の便なので、それまでは仙台周辺地域のJR路線の視察である。まずは仙石線の終点の石巻まで向かうことにする。石巻行きの列車を待っていると、向かいのホームにマンガッタンライナーが到着。しかし私が乗車したものとは違い、左武と市やらチョビンやらエッちゃんなどかなりマニアックなデザインがなされている。どうやらこちらがマンガッタンライナーの2号らしい。このマンガ列車は仙台方面に向かって走っていく。
1号よりも作品チョイスがさらにマニアックなマンガッタン2号 しばらく後、ようやく石巻行の普通列車がやって来た。松島海岸から石巻への沿線は山の中やら郊外で海は皆無。石巻に到着すると乗客は一斉に降車。その内の一部が石巻線に乗り換える。なお石巻は石ノ森萬画館で盛り上げようとしているようだが、既に駅の中にライダーと009が鎮座している。果たしてこの石巻の町興しはどれほど成功しているのかは私には分からない。
石巻駅に到着 この方々がお出迎え 私は一部の乗客と共に石巻線に乗り換え。石巻線は小牛田−女川を結ぶ単線非電化路線である。ホームには女川行きの二両編成のキハ48形セミクロスシート車が待っている。なおこの列車も扇風機車。どうも東北地区ではまだ扇風機が現役のようだ。ただいくら東北でもやはり夏は暑い。今日のような蒸している日は列車が動き出すまではこれではツライ。私はこれに乗り込んでまずは女川を目指す。車内は結構乗客が多い。
ここでもまた扇風機車両
列車はしばらくは石巻の市街を走行するが、すぐに沿線が閑散としてくる。大半の乗客はその辺りで降車。女川の手前からは列車は海沿いを走ることになる。走行し出すと窓から風が吹き込んでくるので、まずまずは快適なローカル線の旅である。
左 女川駅舎 右 お座敷列車と温泉施設 終点の女川は温泉町の模様。駅舎の隣にも入浴施設があるようだ。ただ今回は寄り道している時間はないし、次の列車は2時間ほど先だしということですぐに折り返す。なおこの駅のホームの階段の真ん中に線があるのだが、これはチリ地震の時にここまで津波が北ということを現している。チリ地震では三陸沖は壊滅的被害を受けているが、この辺りもかなりの被害が出たのだろう。
チリ地震ではこの線まで津波がやって来たそうです
列車が発車して間もなく、次の浦宿で高校生とおぼしき一団が一斉に乗り込んでくる。「なぜ平日のこの時間に高校生が?」と思ったのだが、よくよく考えると7/20は一学期の終業式か・・・。列車はこのまま学生を満載して石巻へ、ここで大勢の乗り降りがある。石巻を出ると沿線は田んぼめいてくるのであるが、次の駅やその次の駅からかなり大量の学生が。どうやら結構学生の利用が多い路線のようである。やがて気仙沼線との分岐駅である前谷地に到着すると、ここで大量に降車。気仙沼線に乗り換える乗客が多い。列車はその後、見事な田んぼのど真ん中を突っ走り、終点の小牛田に到着する。小牛田は東北本線と石巻線が合流する一大ターミナルで、またここからは西の新庄までを結ぶ陸羽東線も出ている。さらに先ほどの気仙沼線も運行上の始発駅はここである。それだけに駅は巨大なのだが、周辺はというと駅の西側にこそ一応の町はあるが、東側には全く何もない。JRによくあるド田舎のターミナル駅というパターンである。
左 前谷地に到着 中央 気仙沼線車両が到着 右 小牛田で乗り換え ここで東北本線に乗り換えて仙台に向かう。東北本線は小牛田を出ると後はひたすら田んぼと山だけ。途中の松島駅は海さえ全く見えない山の中。ここを過ぎると左手間近に仙石線の線路が見えるようになる。塩釜で仙石線と離れるとここからしばらくはトンネルの連続、そして懐かしの国府多賀城駅を過ぎると間もなく仙台に到着する。
仙台では一端改札を出て土産物を購入。ただもう特に何もすることがないので早々と仙台空港に移動することにする。仙台空港行きの各駅停車は満員だが、明らかに空港に関係ないと思われる乗客が多い。彼らのほとんどは長町、南仙台、名取で降車、最終的に仙台空港に到着した時には乗客はかなり減少している。
空港に到着するとまだフライト時間まで余裕があるので、空港内で軽く夕食。早めに荷物検査を受けて入場してしまう。帰りはトランク+カバンに土産物袋が増えて手荷物が3つになってしまっているので機内持ち込みが出来るか不安だったが、土産物袋はカウントしなかったようである。入場すると場内のANAショップでさらに土産物を買い足してフライト時刻を待つ。
帰りの飛行機はボーイング767。行きの飛行機よりも大型機で、シートは2+3+2の構成。大きい飛行機なので行きよりも不安がないかと思えば、こちらの飛行機ではわざわざ機内スクリーンに外の状況を映してくれている。おかげでわけの分からないまま空中に浮上してしまっていた往路と違い、嫌でも離陸の瞬間を意識してしまって一瞬あのフワリとした感覚で気分が悪くなりそうになる。
ただ一端飛んでしまえば後は往路と全く同じ、程なく伊丹に到着して、今度は空港バスで新大阪まで移動の後、新快速で家路へと着いたのである。そして結論「飛行機は特に恐いというものではないが、あえて好きこのんで乗るようなものではない。」「秋田はとにかく遠い。そして秋田新幹線は新快速よりもずっと遅い。」以上が今回の教訓であった。
それにしても今回はかなり駆け足で東北を駆けずり回る旅になってしまった。東北全般の空気を肌で感じることは出来たが、おかげで開始早々に足が潰れてしまったのは大きな計算違いだった。そのせいで特に終盤の秋田ではかなり悔いの残ることになってしまった。秋田名物の中でも今回比内鳥は何とかフォローしたが、後の名物、きりたんぽと超神ネイガーがフォローできていないことには痛恨の極みである。いずれはリターンマッチが必要であるが、今年中はもう残念ながら秋田を再訪することは叶わぬであろうから、来年の課題である。また出来れば来年度中に北海道の先端でよいから足跡を記したいという気もある。何にせよ課題は実に多いのであるが、例によって問題となるのは先立つべき予算。それに必然的に長期の遠征になるので、勤め人の身では日程を組むことも大変である。来年度以降はより緻密な計画性が必要になるだろう・・・。
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