展覧会遠征 東京・福島編
さて今回の遠征であるが、今回は年に数度の東京遠征を実行することとなった。本来は先々週の予定であったが、風邪でダウン後の体調悪化で急遽二週間予定を繰り延べしたのである。しかしその後体調が急激に回復したことで、その週末は鳥取山城強行軍を実行したのであるから、一体何をやっているのやら・・・。
なお当初はおとなしく東京を往復するだけのつもりだったのであるが、今年が「九州・東北方面強化年間」であることを鑑み、初めて東北の入り口に足跡を記していくことにした。なにせわざわざ東京まで出て行くのなら、福島なんてほんの近くである(関西人の感覚)。本格的な東北遠征は今年の7月中旬に予定しているが、とりあえずその前に東北の空気の一端だけでも触れることにしよう。
例によって当日は早朝の新幹線での出発である。いよいよ梅雨入りのために天候が非常に気になるところ。関西は早朝から既に雨がぱらつき始める天候であったが、東京に到着するとまだ雨は降り始めていなかった。とりあえず東京駅のロッカーにトランクを放り込むと、JRと地下鉄を駆使して東京の美術館の各個撃破から。そもそもこれが今回の遠征の本題である。
「ユトリロ展」損保ジャパン東郷青児美術館で7/4終了
天才と何とかは紙一重とか、芸術は狂気の中に宿るとかいろいろ言われるが、まさにそれを地でいったような感があるユトリロの作品を集めた展覧会である。
展示点数はかなり多いが、そのほとんどはユトリロの量産期である「色彩の時代」の作品である。一般的に芸術家にとって量産期は好調期とか脂がのっているなどと表現されることが多いのだが、ユトリロの作品に関してはこの時期は贅沢な生活を続ける母親を支えるための金銭作りが目的化しており、まさに「粗製濫造」の感が強い。明るくて見た目が綺麗ので一般受けしやすいのだが、「白の時代」の苦悩や怒りを漆喰の壁に塗り込めたような感情的な深さが感じられない。
美術館を後にするとただちに次の目的地に移動。ただしその前に新宿駅で昼食代わりにカレーをかきこんでおく。次の目的地は渋谷。ここも通い慣れたる感のある美術館。ただ美術館に行く前に一カ所寄り道。駅前のJTBで明日からの二日間の移動のためにウィークエンドパスを購入しておく。これで週末の土日はJR東日本エリアの仙台近辺までが乗り放題になる(特急券は別途購入する必要があるが)。用事を済ませると目的の美術館へ。
「語りかける風景」BUNKAMURAで7/11まで
かつては単なる人物の背景に過ぎなかった風景が、やがては独立した一つのジャンルとして確立し、ついには人物さえもがその風景の一要素に溶け込んでしまうといった逆転現象なども起こしつつ進化してきたのが風景画というジャンルである。ストラスブール美術館(古典美術館と近代美術館)の収蔵品から、風景画のジャンルに所属する作品を選んで展示したのが本展。
題材別に章立てる構成になっているが、その各々の章で同じ題材ながらも時代が下ってくると表現がどう変わってくるかを眺めることが出来る。共通しているのは、最初はなるべく客観的に風景をとらえようとしていた風景画が、時代が下るにつれて主観的なものに変貌し、ついには風景は風景でも単なる心象風景画になっていくという流れ。いわゆる現代アート一般について共通する流れがハッキリと現れている。
なおフランスとドイツの境界領域に当たるアルザス地方という微妙な地域にある美術館のせいか、所蔵作品についても両国の特徴が入り交じったような一貫性のなさのようなものが感じられたのがご愛敬。
Bunkamuraを後にすると、次は地下鉄で六本木に移動。正直ヒルズは大嫌いなのであるが、出し物によってはここに来ないわけにもいかない。
「ボストン美術館展」森美術館で6/20終了 京都市美術館で7/6〜8/29
ボストン美術館は、地元の美術愛好家などの寄贈作品をメインに設立された施設であるというが、その社会背景と時代性から自ずと印象派の作品が多くなっている。伝統的絵画はやはりヨーロッパの美術館の方が多いし、アメリカという新興国の国民にとっては、印象派という新進気鋭の芸術は共感を呼ぶところだったのだろう。
その結果として、ボストン美術館の収蔵品は印象派好きの日本人には馴染みの深い画家の作品を多く含むことになっている。本展出展作も蒼々たる顔ぶれの蒼々たる作品が並んでおり、その点では非常に堪能できるものである。とにかくビッグネームが多いので、美術を少しかじっている程度の者でも楽しめる内容になっている。
特に圧巻はズラリと並んだモネの作品。比較的初期の作品から晩年の作品まで、こういうあらゆるパターンのモネの作品を一堂に眺めることが出来るのはそれだけで十二分に楽しいものである。
なお出展作は印象派だけでなく、例えばレンブラントの肖像画なども含まれている。このような作品とマネによる肖像画を同じ肖像画として並べて展示すると、マネの作品が筆跡も稚拙な下書きに見えてくるなんて現象も実感でき、なんとなく印象派が当時「未完成の作品」とアカデミズム派からボロクソに批判された理由も納得できたりするわけである。つまりは目指している方向がまるで違うというわけなのだが、なかなか面白い。
ヒルズを後にするとそこから国立新美術館まで歩く。朝からギリギリの線で持ちこたえていた天候が、そろそろ限界に達してきた模様なのでとりあえず急ぐ。こちらからだと施設を大回りするようなルートになるので地図でイメージするよりは道のりがやや長い。美術館に到着する頃には雨がぱらつき始める。
「オルセー美術館展2010「ポスト印象派」」国立新美術館で8/16まで
印象派が西洋絵画史に与えた影響は非常に大きく、印象派が広げた波紋によってその後の西洋絵画界は百家争鳴の様相を呈してくるのである。本展はその印象派後に現れた多くの画家「ポスト印象派」に注目した展覧会である。
ポスト印象派といえば、スーラ等のそのものズバリの後期印象派の画家達を思い浮かべるが、本展でもやはり彼らがまず最初に登場する。彼らは印象派が追い求めた光の表現をさらに追究した結果、点描などによって画面上で色彩を混合する光学分割の方法にたどり着く。もっともこの手法は確かに光の表現には向いているが、対象物の輪郭は不明確になるし、何よりも異常に手間がかかるというかなりの欠点を有した手法でもあるので、必ずしもその後の主流とはならなかった。
一方、セザンヌから始まった抽象絵画的な流れは、対象を忠実に描くという絵画の本来の流れを越えて、むしろ画家の内面を描くような絵画の流れが現れてくる。いわゆる現代アートへの流れである。また平面のキャンバスに対象物の立体性を表現しようとした結果発生したキュビズムなどの新表現も登場する。
キュビズムからナビ派、さらにはフォーヴに神秘主義など百家争鳴の流れを「ポスト印象派」という言葉で一括りにしているので、展覧会の内容は実に種々雑多という印象を受ける。その結果、トータルとしての流れというものはよく分からない(そもそもそういうものが存在しないのかもしれないが)。終わってみると、とりあえずゴッホ・ゴーギャンにかなり力を入れていたなという記憶とセザンヌって近代絵画から見ればそんなに影響が大きかったのかという驚きだけが残ったりする。
館内が大混雑のためになかなかにじっくりと見学というわけにいかなかったのがしんどいところ。やはり日本では「印象派」という言葉はキャッチコピーとして影響力が大きい。「19−20世紀ヨーロッパ絵画展」でなく、「ポスト印象派展」と銘打ったネーミングの勝利だろう(オルセー美術館という名前もまたキャッチーなのであるが)
展示室から出てくると館外はバケツをひっくり返したような豪雨になっていた。いよいよ梅雨が本格的に牙をむき始めた模様。それにしても典型的な都市型豪雨で傘が役に立ちそうにない。そこでできる限り地下を経由して次の目的地へと向かうことにする。
次の目的地は三菱一号館美術館。丸の内に最近にオープンした美術館であるが、真新しいオフィスビルと赤煉瓦の古びた洋館が同居しており、美術館はこの古びた洋館の方にある。この建物は明治にジョサイア・コンドルが設計したものとのこと。
「マネとモダンパリ」三菱一号館美術館で7/25まで
印象派の草創期に大きな役割を果たした画家の一人がマネである。彼はそれまでのアカデミズム派の形式化した絵画の世界を抜け出して新たな表現に挑戦しただけでなく、実際に多くの若い画家達と人的な交流もあった人物である。もっとも印象派の画家達が保守的なサロンに背を向ける中で、彼は一貫してサロンに活躍の場を求めるなど、ドンドンと先鋭化を進めていく印象派とは常に一定の距離を置いているというのも特徴である。
本展ではマネの作品を単に並べるだけでなく、その背景にある19世紀末のパリの空気をも紹介しようとしている。マネの絵画の展開は、その当時のパリの流行と不可分になっているからであろう。実際、彼の初期の作品に現れるスペイン趣味や、その後の絵画に登場するジャポニズムはこの時代のパリの流行そのものだったようである。
予想以上に多くの作品が展示されていたのが驚き。時代を追って眺めていくと、マネがアカデミズム的なものから発祥してそれとは違う方向に向かっていったのが何となく理解できる。彼の作品は人物画が多いが、その題材は身近な人物が多く、その分自由に描けたのかと妙に納得をする。これだけの作品を眺めていくと、それで何となくマネという画家の人物を理解できたような気になってくるから不思議である。
これで東京での展覧会の予定は終了。雨は一層激しさを増しているので、地下づたいで東京駅に移動する。東京駅でロッカーを回収すると空腹が極限まで来ていたのでとりあえず軽く食事。そのままホテルのある南千住へと向かう。今更言うまでもなく宿泊ホテルは「ホテルNEO東京」である。
駅からずぶ濡れになりながらホテルに到着、部屋で服を乾かしがてらのネット調査の結果、南千住から東武で数駅進んだ先にサティがあることが判明。雨が小降りになったタイミングを見計らって買い物に出かける。なんか鳥取でもイオンに行っていた気がするが・・・。便利ではあるが旅情は猛烈に削がれることになる。
そもそもサティに行ったのはずぶ濡れになったズボンの替えを購入するため。裾上げを頼んでいる間に(悲しいかな私のウエストに合わせてスボンを買うと、必然的にかなり裾を切り詰める必要がある)食料品売り場をウロウロして夕食用の寿司を購入、仕上がったズボンを受け取るとホテルに帰還する。結局はこの晩はここで購入した寿司が夕食。何やら非常に記憶にあるパターンになってきたような・・・。なんかわびしいな・・・。
☆☆☆☆☆
翌朝は4時30分起床。実は事前の予定ではもっとゆっくりするつもりだったのだが、計画の詳細を練り直していたところ、やはり今朝は朝一番の新幹線て出発するべきだと考え直し、昨日立ち寄ったJTBで指定席券を購入してある。5時過ぎにホテルをチェックアウトすると、そのまま上野駅に移動する。東北新幹線に乗車するのは初めてだが、ホームが地下4階というとてつもなく深いところにあるのに呆れる。新幹線も都心では地下鉄になるようだ。
東北新幹線初乗車
ホームで待つことしばし、ようやく新幹線が到着する。さて今日の予定だが、とりあえずは新幹線で郡山まで移動するつもりである。今回の福島視察は郡山を中心にして動き回ることになる計画である。郡山からは在来線で動き回ることになるが、さすがに郡山まで在来線で行っていたのでは時間がかかりすぎるので、一気に新幹線でワープである。ウィークエンドパスは青春18切符と違って、特急券を買い足すことで新幹線にも乗れるのでありがたい。
ちなみに以前の切符はもう少し高くて特急の自由席に乗り放題だったとか。そのためJR東エリアの鉄道マニアの中には「改悪だ」と憤慨している者が多いという。しかしJR西エリアの私からすると、ほとんどすべての企画切符に「お二人様以上のみ使用可」という訳の分からない縛りをかけて、事実上使用不可能にしているJR西に比べると随分まともな気もするが(JR西の対応は明らかに常軌を逸している)。
列車は上野を出るとすぐに地上に顔を出す。ただどうにも気になるのは「かったるい」こと。やけにゆっくりと走行しており、どう考えても新幹線の速度ではない。これでは在来線と変わらない。結局新幹線が本気の走行になるのは大宮を過ぎてから。どうもここまでは意図的に速度を抑えていたようである。騒音問題の関係か?それとも線形の悪さのせいか?
大宮を過ぎると列車は快調にすっ飛ばす。雨が結構降っているが、水滴が後ろにぶっ飛んでいく。そのうちに宇都宮に到着。在来線でエッチラオッチラと宇都宮から帰還した時にはどれだけ時間がかかったかを思い出すと、新幹線の威力を感じずにはいられない。
山岳地帯にさしかかると那須高原の那須塩原駅を通過する。それにしてもこの駅も、なぜこんなところに新幹線が止まるのか意味不明な駅である。聞くところによると、北の黒磯と南の西那須野の間で壮絶な誘致合戦があった結果、「中をとって」那須塩原駅になってしまい、おかげで乗り換えの便も悪い中途半端な駅になってしまったとのこと。単純に乗り換えの便を考えるなら、東北本線の交直切り替え駅であるためにすでに乗り換え拠点になっている黒磯に置いた方が都合が良かったのではと思うのだが・・・。とかく新幹線の駅の設置にはいろいろな「力学」が絡むので、終わってみるととんでもない結果になるということがあるようだ。特に日本的「解決法」は、結果として三方一両損で関係者全員が不幸になる結末に終わる場合が多い。
さらに進んで新白河を通過。東方に目をやると白川城らしき影が見える。当然のことながらここには立ち寄る予定であるが、スケジュールの関係で今はとりあえず通過。遠くからでも見えるようななかなか立派な石垣があるようでありこれはかなり楽しみ。新白河を過ぎると郡山まではトンネルの連続、そのトンネルをくぐり抜けるとまもなく到着する。
郡山で新幹線を下車すると、とりあえずは一端改札から出てから、ロッカーにトランクを放り込んで身軽になる。ここで東北本線に乗り換えである。福島にはいくつかの美術館と100名城中の3つの城郭(二本松城、白河城、鶴ヶ城)が存在するので、それらを攻略するのが今日・明日の目的である。なるべく効果的に移動が出来るよう、各施設の開館時間と列車のダイヤを睨んで例によっての分刻みの綿密なスケジュールが既に作成されている。とりあえずそのスケジュール表を再確認。最初の目的地は二本松。当然ながら「二本松城」の見学が目的である。
二本松は南の白河と共に会津地域を押さえる要衝である。それだけにここは争奪の地になりやすく、戦国時代には会津進出を目指す伊達氏がここに攻め込んでいる。当時の城主は畠山氏であったが、伊達氏に圧迫された畠山義継は講和交渉の際に伊達政宗の父である輝宗を拉致し、駆けつけた政宗によって輝宗共々撃ち殺されている。なおこの事件については、奥州平定に関して武力を行使しての強攻策をとる政宗と、古い血縁関係などを重視して穏健策をとる輝宗との間に意見の対立があり、事件にかこつけて政宗が邪魔な父親を排除したという見方もある。何にせよ、この後に二本松城は伊達勢の猛攻を受けて畠山氏は滅亡している。
さらに時代が下って、幕末期にも二本松城は歴史の舞台に登場する。幕末期にはここには丹羽氏が治める二本松藩があり、同藩は奥羽越列藩同盟に参加して、新政府軍による会津攻めの際に白川城と共に会津を守る拠点になっている。しかし主力を白河口に送っている間に奇襲を受け、二本松城は呆気なく落城している。
郡山で東北本線に乗り換え
ホームに停車しているのは、この辺りの地域での汎用車両となる701系電車。ロングシート車両で決して乗り心地がよいとは言い難い車両である。長大なる東北本線であるが、新幹線並行本線においては、乗客を新幹線に向かわせるために乗客の乗り心地が最大限悪くなるように腐心するというのは、JR東日本においても東海道本線を抱えるJR東海や山陽本線を抱えるJR西日本と同様の戦略を取っている。ただこの目の前の利益のみを重視した戦略が、大きい流れとしての「鉄道離れ」を促進し、結果としては自社の利益を大きく損ねているのだが、最近はそういう大局に立った経営判断の出来る経営者が鉄道界に限らずほとんどいないようだ。
二本松に到着
郡山を出ると沿線は田園風景になる。こうして見ているだけで福島が肥沃な地域であることは分かる。田園地帯を抜けてやや山岳にさしかかると二本松に到着である。二本松駅で下車するとそこから城まではタクシーで移動する。しばらく走ると小高い丘のようなところに達するので、いよいよ城が近づいたかと思ったのだが、案に反してタクシーはそこを越えて再び下る。城はさらにしばらく進んだ山の麓にある。
二本松城と二本松少年隊像 立派な石垣と復元されたと思われる門が目に飛び込んでくる。なかなかに堂々たる構えであるが、これが麓の三の丸らしい。なお門の手前に立っているのが二本松少年隊の銅像。新政府軍の奇襲を受けた二本松城では、防戦のために下は十二歳の少年までが動員されたという。しかし彼らの奮戦むなしく二本松城は落城、彼らの多くも犠牲になったという。少年の犠牲といえば会津城の白虎隊が有名だが、二本松でも同様のことが起こっていたのである。
箕輪門と三の丸広場
門をくぐって上がっていくと広大なスペースに出るが、この辺りが三の丸ということになる。三の丸の奥は石段で一段高くなっており、ここから山上の曲輪に通じる道が出ている。二本松城はこの山裾の曲輪だけでも十二分な大きさを有しているが、これに背後の山上にある本丸等を加えたのが城域の全体となる。麓の館+山上の詰めの丸といった鳥取城などと類似した構造になっている。実際にこうして現地に来てみると事前にイメージしていたよりもかなり広大な城郭である。私は当初計画ではこの城の見学時間を1時間に想定していたのだが、調査を進めるうちに1時間では不十分な可能性があると判断して今朝早朝の出発に急遽切り替えたのだが、それが正解であったことをこの時に実感する。
現地案内看板より 三の丸の見学を終えると山上の本丸を目指して登るが、このルートは複数あって一体自分が現在どのルートを辿っているのかが分かりにくい。ただもう既に見学を2時間コースに切り替えているので時間は十分あるから、どの道を辿っていってもとりあえず山を登っていけば本丸にたどり着くだろうぐらいの気持ちで登っていくことにする。
傘松に洗心滝
傘松という巨大松や洗心滝といった見所を経由しながら登っていく。この城は木も多いが、この滝のようにとにかく水が豊富である。山城においては水の確保が重要なのであるが、この城は水に関しては確保は楽であったろうと思われる。さらに登っていくと見晴台に到着する。
見晴台よりの風景
この時点で完全に現在地を見失っていたので、近くの案内表示を確認するとかなり本丸方向よりずれてしまったようである。そこでここから少し戻って新城館跡に登る。ここは広大な曲輪になっており、智恵子抄の詩碑と二本松少年隊の顕彰碑が置いてある。
左 智恵子抄の詩碑 中央 新城館跡全景 右 二本松少年隊の顕彰碑 ここからさらに奥に進むと本丸方向に向かう登りルートがあるが、その前に搦手門跡の見学。搦手門跡は石垣が残存しており、かつての堅固な門を想像させる。門の外は曲輪なのか平坦地が見えている。
搦手門跡から本丸跡へと登る
ここから引き返して本丸まで直坂する。やがて目の前に整備された巨大な石垣が見えてくる。この山上本丸の石垣は近年に再整備されたもので、元々の石垣を保存保護するような形で積まれているとか。本丸上には天守台と二つの櫓台がある。天守台上に立つと周囲を一望である。
本丸石垣
左 枡形虎口 中央 本丸風景 右 天守台 左・中央 東櫓台 右 丹羽和左衛門と安倍井又之丞の自尽の碑 さてようやく山頂に到着したところで後はゆっくり風景でも堪能して・・・と言いたいところなのだが、ここに来て急にそうはしていられない事態が発生した。私は元々胃腸があまり強い方ではなく、今でも過敏性腸症候群気味である。そこに来てこの暑さで脱水症状を防ぐためには常に水分を補給しておく必要があるので今朝からもあまり腹の具合が良くなく、ついに催してきたのである。まさか野○ソをするわけにもいかないし(そう言えばかつて訪問した山城において、明らかに獣のものとは思えない糞を目にしたこともあったっけ)、慌ただしく下山することにする。
大石垣と日影の井戸
帰りはやや急ぎ足での下山となったが、途中で大石垣と井戸の見学だけは行っておく。また地図には載っていない曲輪も多くあることも確認しつつ下山、麓のトイレに駆け込んでようやく一息ついた時には1時間を過ぎていた。
さてとりあえずは駅に戻る必要があるが、まだ時間はあるし来た時の道を辿って駅まで歩くことにする。往路で通った小高い丘を突っ切るルートだが、ここはそもそも二本松城の大手ルートの切り通しの名残のようである。地図を見ると、二本松城をUの字型に囲うように高地があり、これが外郭防御をなしている。東側が開いているが、恐らくかつてはこちらの方向には水路を使用した防御施設があったと推測される。こうして考えるとこの城は地形を利用したなかなかの堅城である。
左 歴史資料館 中央 大手門跡 右 切り通しへと続く旧大手道 切り通しルートの途中で歴史資料館があるが、ここは二本松藩がらみの資料から、古代資料、さらには地元ゆかりの芸術家の作品まで展示してあるごった煮施設。まあ地方の中小都市ではよくあるパターンである(博物館と歴史博物館と民俗資料館と美術館が分離していない)。またここの少し南に大手門跡が残っており、このルートがかつての大手筋だったことをうかがわせている。またここの少し東の小高い丘の上に二本松神社、西側の丘の上にも寺院があるが、これはいざというときには大手を守る独立曲輪として機能したのだろう。
二本松神社
二本松駅まで戻ってくるとここからは福島まで移動。この辺りは山岳地帯になるため、山を迂回するために路線は左右にうねり、急傾斜回避のために上下線が分離している区間も出てくるので、ところによっては単線に見えるようになる。
20分程度で福島駅に到着。福島駅は新幹線など多くの路線が乗り入れている交通の要衝。ここから市内循環バスで次の目的地に移動することにする。次の目的地は福島県立美術館。バス停からしばし歩いたところにその施設はある。山の麓に図書館と並んで建設されている巨大施設だが、とにかく呆れるほどに規模が大きい。また背後に山を控えているので、山頂本丸の前に立つ三の丸御殿というイメージ。しかし実際の福島城はここではなくて、阿武隈川のほとりに立つ水城で、現在は市街地に埋もれて遺構は全く残っていないという。
「世界で一番美しい庭 アンドレ・ポーシャン展」福島県立美術館で7/4終了
世紀の美術教育を受けずに独学で絵画を描いた「素朴派」の画家・ポーシャンの展覧会。表題に「美しい庭」と銘打っているが、展示作は花や果物の絵が多い。
明らかに技巧的でなく、デッサンとしてはバランスのおかしなところが多々ある。また花などを描けば非常にパターン的で装飾的。はっきり言って上手な絵ではないのであるが、それでいて何とも表現に困る魅力がある。また下手な絵に感じられても、明らかに雑な絵ではなく、かなり細かい書き込みがなされているのには驚かされる。この魅力が天然のものではなく、実は計算されたものだとしたらかなりのテクニックであるのであるが。とにかく「気持ちがよい」という言葉がピッタリとくる絵画である。
なお美術館の最寄りには福島交通飯坂線の美術館図書館前駅があるのだが、列車の本数があまり多くないので結局は帰りもバスで駅前に戻ることにする。
再び駅前に戻ってくると、とりあえずは昼食を摂ることにする。駅前商店街をウロウロして見つけた寿司屋「鮨長」でランチメニューの「穴子丼(750円)」を注文する。
穴子丼は寿司飯に穴子が載っているタイプで意外とあっさりしている。特に可もなく不可もなくというところだが、これに小鉢類と味噌汁(これはうまかった)、さらにはコーヒーまでついてきて750円というのはランチとしてのCPは良いだろう。
昼食を摂ったところで東北本線で折り返すことにする。今日の宿泊予定地は郡山であるが、その前にそこを通り越して白河が次の目的地。当然であるが目的は白河城である。
福島で黒磯行きの普通列車に乗車。6両編成だが、後ろの4両は郡山で切り離しだという。郡山までは特に問題なかったのだが、問題は郡山以南。車両が短くなる上に郡山から大量の乗客が乗り込んでくるので車内は通勤列車並みの満員。これだけの乗客がいるのに、なぜ編成を二両にまで縮少するのかは意味不明。多分例によって新幹線に乗れという嫌がらせなんだろうが、乗客の移動を見ていると郡山−白河間の地域移動客が大半なので、どれだけ嫌がらせをしたところで新幹線に流れるはずがない。青春18シーズンなどなら思わぬ路線が突発的に混雑することがあるが、現在は18シーズンを外れているわけだから、これが常態なんだろう。さすがにこれではJR東日本は公共交通機関としての責任を放棄していると非難されても仕方なかろう。早急な改善が必要であると思われる。
クタクタになりながらようやく白河に到着。白河駅でホームに出るとすぐそこに白河城が見えている。ただし白河城は駅の北側で、駅の出口は南にしかないのでトンネルで線路をくぐって北に抜ける必要がある。
白河駅と連絡通路
「白河城」は二本松城と共に会津を睨む要衝である。幕末においてはこの地は奥羽越列藩同盟と新政府軍の激戦の地となり、その際に建造物の大半は焼失したという。なおこの城が落城したことによって、会津が直接に新政府軍の攻撃を受けることになり、あの白虎隊の悲劇などにもつながっている。なお現在は木造復元された三重櫓(実質的な天守)が建っているが、これが建造された時は建築基準法で大規模木造建築が禁止されていた時期で(馬鹿な規制であるが)、建造物としてではなく工作物として許可を取る(つまりは内部に人をいれる建造物でなくて、外から眺めるだけのモニュメントのようなものですよと主張したわけ)というウルトラCで建造したらしいが、実際には人を入れていたために脱法行為だと問題になったとか。ただし現在は建築基準法が改正されたので、大っぴらに内部の見学が出来るようなっている。
法律スレスレのことまでやって木造復元しただけあって、この復元天守にはかなりのこだわりが見られる。後世に建てられた復元と称した天守では、観光を意識して本来はなかったはずの展望用の回廊をつけるなんてことも平気で行われることが多いが、ここの天守はかなり忠実に復元してあり、そのために天守の窓は極端に小さく、天守最上階に登っても眺望は望めない。またあの大洲城でさえ安全性を考えて階段は傾斜を緩くして幅を広げたと言っているのに、ここはその階段までもそのまま復元してあるようで、現存天守並みの急で恐ろしい階段がそのままついている。福島人は郷土意識が強いと聞いたことがあるが(特に戊辰戦争で薩長に蹂躙されたという記憶を強烈に残しているという)、そういうところも反映しているのだろうか。何となく単なる観光目的の復元というのとは次元の違うものを感じる。
城域内は公園化されており、この辺りが二の丸に当たるという。そもそもは今日のJR白河駅も城内にあたる場所なのだから、かなり規模の大きい城郭であったようだ。本丸は二の丸と水堀で区切られた地域にあり、立派な石垣を周囲を取り囲んでいる。門をくぐって本丸内にはいると、復元された三重櫓とそれに付随して前御門が存在している。この辺りがなかなかに絵になる部分。この前御門をくぐると本丸跡の広場になり、三重櫓は北東隅の一段高い部分に建っている。また本丸周辺はグルリと土塁が囲んであり、その上を一周すると雪見櫓、富士見櫓、多聞櫓などの櫓跡を見ることが出来、本丸周辺をグルリと取り囲む帯曲輪跡は今ではバラ園となっている。
左 本丸土塁 中央 帯曲輪はバラ園になっている 右 富士見櫓跡 白河城の魅力は出来の良い復元天守もさることながら、やはり石垣の見事さ。二の丸方面から見る石垣の美しさには溜息が出る。石垣好きの私を堪能させるに十分な石垣である。
城下にある白河集古館を覗くと1時間ほどで再び白河駅に帰ってくる。ここから今日の宿泊地である郡山に移動する。到着した郡山行き普通列車は往路ほどは混雑していない。間もなく郡山駅に到着。いよいよ今日の最後の目的地を目指す。駅前からバスに乗車すると郡山市立美術館へ。美術館はかなり郊外に立地しており、郡山でもモータリゼーションがかなり進行していることをうかがわせる。
「スウィンギン・ロンドン 50's〜60's ビートルズたちが輝いていた時代」郡山市立美術館で7/4終了
ようやく第二次大戦の荒廃を乗り越え、戦後文化が花開き始めた1950年代、世界を席巻したのがビートルズのサウンド。そして新時代を告げるかのような未来志向のデザインやファッションが街にあふれ、家電製品なども一般家庭への普及が始まり、若者達は新時代の文化を担った。そういう時代の証言とも言える品々を展示した展覧会。
当時の最先端は今ではレトロの象徴、非常に懐かしいような気がするが、現実にはいずれも私が生まれる前の時代の話である。これらの時代の余韻は残っていつつも、これらの時代を実際に体験してはいない私の目から見ると、現代ではレトロが一回りして最先端になりつつある印象を受ける。
さてこの時代の余韻さえ体験していない若い世代ならどう感じるのだろう。また実際にこの時代を体験した世代(いわゆる団塊の世代になるだろうか)ならまた感慨もひとしおであろう。人によって感じるところがいろいろありそうである。
東北地方は土地が余っているのか、この美術館も福島県立美術館と同様にとにかく施設の規模は非常に大きいと言うことを感じさせられた。
これで今日の予定は終了。郡山駅に戻るとトランクを回収、ホテルに向かおうとするが異様な疲労感に襲われる。やはり朝食抜きでかなり強行軍過ぎた上に、昼食も軽めだったためガス欠になった模様。結局は駅前のビルの飲食店街のポムの樹でオムライスを食べてこれがそのまま夕食になる。どうも昨日に続いて食事がやっつけである。
今日の宿泊ホテルは例によって「ドーミーイン郡山」。結局はこの日は疲労もあって、ホテルにチェックインしてから入浴に出かけると、ほとんどそのままバタンキューになってしまったのだった。この日は2万3千歩。先日に続いての2万歩越えは確実に身体にダメージとなっていた。
☆☆☆☆☆
翌朝は5時半に起床。6時半にホテルで朝食を摂るとすぐにチェックアウト。7時前に郡山を出る会津若松行きの普通に乗車する。当初の予定ではもう少しゆっくりとした出発のつもりだったが、計画を練り直しているうちに早朝出発に越したことがなかろうと急遽変更になった次第。
出典 JR東日本HP ここからは磐越西線での移動になる。磐越西線は郡山から会津若松を経て新潟の新津までを結ぶ長大路線だが、途中の会津若松でスイッチバックの形になっており、さらには電化区間が郡山から喜多方であることから、事実上会津若松の東西で運行が分離されており、郡山−会津若松間は別名「磐越中線」と呼ばれることもあるとか(郡山−いわき間が磐越東線であるため)。
私が乗車したのは二両編成の719系電車。この地域向けの「赤べえ」塗装が施されている。なおこの路線には特急型車両を用いた快速あいづライナーも運行されているが、生憎と私の予定と運行時間が合致していない。まだ早朝ということもあってか二両編成のセミクロスシートの車内は閑散としている。幸いにして気にしていた天候も良い模様であり、のんびりと車窓を楽しみながらの旅になる。単線路線であるので途中で対向車とのすれ違いがあるが、反対方向の列車は乗客を満載している。
郡山の市街地を抜け、しばし田園風景の中を走行すると、すぐに山岳地帯に突入する。この山岳地帯を抜けるといよいよ会津盆地に突入である。会津盆地に突入すると南に猪苗代湖、北に磐梯山を見ながらの走行になるが、生憎と猪苗代湖からの距離が結構あるために、実際には猪苗代湖が見えるポイントはほとんどない。また先日来の悪天候のためか磐梯山の頂上には雲がかかっている。こうして磐梯山を見てみると、高い山であるが火山であるためか急峻な山岳というイメージとは違う。
山岳地帯を抜けると広大な田園に出、やがては磐梯山が見えてくる 比較的乗り降りが多いのは猪苗代駅。ここは磐梯山観光の拠点であると共に、そこそこの集落になっている。またここにはかつて猪苗代城が存在し、葦名氏と伊達市による会津争奪戦の舞台となった。結局は両者の決戦である摺上原の合戦で、猪苗代城城主・猪苗代盛国が伊達政宗に内応したこともあり伊達氏が勝利、葦名氏は滅亡へと追い込まれている。またこうやって念願の会津を手にした政宗であるが、結局は秀吉の奥州仕置きで会津の地を召し上げられており、政宗の無念たるや想像に難くない。
列車は磐梯山を見ながら西進する。非常に風光明媚な路線であり観光路線向きである。やがて進行方向が変化したと思うとしばらくして会津若松駅に到着する。会津若松では行き止まりホームになっていて、この列車は折り返し運転されるらしく多くの乗客がホームで待っている。私はここで下車する。
会津若松は地方の小都市という印象。私としては結構好きな雰囲気の街だ。こちらの天候は郡山よりも良いようで晴天で気持ちがよい。とりあえず駅のロッカーにトランクを放り込むと「会津若松城(鶴ヶ城)」までタクシーで移動する。
鶴ヶ城案内図(現地配付資料より) 鶴ヶ城は白虎隊の悲劇で有名であるが、戦国時代には葦名氏の勢力下であり、その後に伊達氏が奪取、しかし秀吉の介入で蒲生氏がここに配されることになる。しかし秀吉が死の直前に伊達と徳川の抑えに上杉景勝をここに移封させる。会津に移封した上杉氏は鶴ヶ城に代わる新要塞として神指城の建設を開始するが、これがかえって家康に「上杉に謀反の意志あり」と言いがかりをつける材料とされ、結局は神指城の完成を見る前に関ヶ原の合戦が勃発し、敗北した上杉氏は会津を去って米沢に押し込められることになる。その後、蒲生氏、加藤氏と城主が替わりながら、最終的には家光の庶弟である保科正之が入封し、この保科氏が松平に改名してそのまま幕末を迎えることになる。
幕末時の城主は松平容保であったが、彼は京都守護職として攘夷派の取り締まりなどに力を入れたために新政府側からは恨みを買っており、これが新政府軍との会津戦争につながる。どうもこの松平容保という人物は真面目な人物だったらしく、職務にも極めて真面目に取り組んだ故に賊軍の首魁とされてしまったようである。新政府軍との戦いは凄惨を極め、白虎隊の悲劇のみならず死屍累々の被害が生じることになる。それでも会津軍は籠城して徹底抗戦したが、同盟軍である奥羽越列藩同盟の諸藩が次々と新政府軍に降伏していく中で孤立して、ついには降伏する。
なおこの時の凄惨極める戦いの結果、今でも会津地域では高齢者を中心に山口(長州)出身者に対する敵愾心が残っているという。実際にネットを見ていても、未だに「長州兵は会津でこんな残虐行為を働いた」「いや、それは捏造で実際は会津藩士が行ったものだ」「会津は観光に利用しようと悲劇をやたらに強調した史観をばらまいている」などの、どこかで見たことがあるような罵倒合戦なども起こっている(中には差別意識むき出しの明らかに頭がアレな連中もいる)。これを見ていると、同じ日本人同士の100年以上前の戦争でさえこれなのだから、異民族間のほんの数十年前の戦争の問題が簡単に片づくはずもなかろうと気が重くなる。なお萩市がかつて会津若松に「もう120年も経っている(当時は1986年)ので過去を水に流して」と友好都市提携を申し込んだ時、会津若松は「まだ120年しか経っていない」と拒絶したとか。概して加害者側は「もう過去のこと」と言い、被害者側は「まだ終わっていない」と言うというのも常にある図式である。
実際に反長州とまではいかなくても、会津人の鶴ヶ城に対する思い入れは結構強いようで、つい最近もTBSがクイズ番組で「戊辰戦争の際、会津若松城では糞尿が溜まりすぎたことで籠城兵が降伏した」と放送して、市民から猛抗議が殺到したという。自分たちの祖先が汚されたと感じたのだろう。まあ私もこのクイズを見た時は「いや、いくら何でもそれはないだろう」と思ったのであるが(昔は糞尿まで兵器として使用していた)。実際、糞まみれになったことで降伏するぐらいなら、それ以前に血まみれになった時点で降伏しているだろう。疫病の発生で城兵のほとんどが倒れてしまって落城したというのならまだ分かるのだが。
私が訪問した時の天守はこの状態
なお鶴ヶ城はこの時の戦いにおいて新政府軍の砲撃でハチの巣にされており、後に破却された。現在では鉄筋コンクリートによるいわゆる「なんちゃって天守」が建造されているが、この天守が現在は往時の赤瓦の状態に戻すべく工事中とのことで、私が訪問した際には足場が組まれて覆いが被されていた。また櫓などの復元の計画もあるようで、これらの後に復元された施設は木造従来工法によるものになるため、建造物の中で天守が一番安っぽいという熊本城と同じ状況になりそうな気配である。
北の太鼓門付近は石垣も堀もかなり立派 タクシーで現地に乗り入れるとかなり立派な石垣と堀が迎えてくれる。本丸部分が公園として残存しており、本丸の周囲は石垣に囲まれている。この東方には現在はテニスコートなどになってしまっているが、土塁や堀で囲まれた二の丸跡も残っており、そのさらに東方の三の丸跡に歴史博物館などが建っている。
左 天守入口 中央 天守最上階 右 公開中の鯱 まずは天守の中を見学。これはどこのなんちゃって天守でも同じで内部は博物館。中には白虎隊隊士の肖像画なんてものもあるが、これにじっくりと見入る者がいるのか、なぜかこの展示部分だけは「じっくり見たい人は前に、次に急ぎたい人は後ろに」という二重構成になっていた。なお今日ではなぜか白虎隊はジャニーズということになっているようだが、実際の隊士達は軟派なジャニーズとは似ても似つかない昔の素朴な少年達である。
天守を出ると現在公開中の鯱を見学、金箔にダイヤモンドなんかが入っていてなかなかに派手。ちなみにこの鯱、名古屋城にあるものと兄弟関係にあるとか。後は外郭石垣の上をグルリと見学してから、本丸にある茶室麟閣を見学することにする。外郭をグルリと眺めるだけでかなり堅固な城であることがうかがえるが、いかに堅固な城と言っても、援軍を望めない絶望的な籠城戦に追い込まれた藩士達の心情やいかにと思われる。
左 本丸鉄門と天守(工事中) 中央・右 攻城の月碑 本丸内をグルリと見回してから、まずは一回り。本丸南部には石垣が積んであり、そこには荒城の月碑をはめ込んである。「荒城の月と言えば岡城では?」と思ったのだが、あちらは作曲家滝廉太郎ゆかりで、こちらは作詞家の土井晩翠のゆかりらしい。要は作詞家と作曲家で「荒城」と言われた時に違う城を連想していたと言うことである。ちなみに私は城と言われると姫路城を直ちに連想するが、これは荒城とはとてもほど遠い。やはり「荒城」と言われた場合に連想するとしたら、竹田城であろうか。
左・中央 月見櫓跡 右 茶壺櫓跡
左 茶壺櫓跡から望む東側石垣 中央・右 茶室麟閣 なおこの荒城の月碑の横から石垣城に登れば、月見櫓跡や茶壺櫓跡がある。この辺りはかなり石垣も高い。また本丸内には茶室麟閣もあるので合わせて見学。
左 西出丸方向に向かう 中央 鐘撞堂 右 西出丸の先は駐車場
左 北出丸より望む本丸と二の丸の堀 中央 北出丸石垣 右 大手門跡
左 二の丸の土塁と堀 中央 二の丸と三の丸の間の堀 右 三の丸にある博物館 帯曲輪の方に出て西出丸の方向を見学、こちらも門の跡が残っているが、西出丸自身は今は駐車場になっている。これを見学してから次は北出丸の方に戻る。ここから東方にグルリと回り込んで、本丸と二の丸の堀を外から見学、そのまま三の丸に達してとりあえず福島県立博物館を見学。博物館は歴史博物館と自然科学博物館と民俗資料館を合体させたような施設で、考古学的展示から歴史展示、さらに会津の民俗資料など豊富な展示を行っている。ここもやはり東北の施設の例に漏れず、とにかく規模が大きい。単純に規模だけなら国立博物館に準じるぐらいの大きさを持っている。とてもではないのでじっくりと見学している時間も体力もないので、やや駆け足での見学となる。
二の丸と本丸を結ぶ廊下橋
博物館の見学を終えると、三の丸から二の丸を抜けて本丸へ向かう。二の丸と本丸の間には廊下橋がかかっていたようだが、現在も赤い欄干の橋がかけてある。ここから見る本丸石垣の様子も圧巻である。そのまま枡形などを見学しつつ、再び北出丸の方に抜ける。かなり歩き回ったので、この辺りでもう体力的には限界である。ちょうどその時、やって来たタクシーが乗客を降ろしていたので、そのタクシーでそのまま駅まで戻ることにする。
駅で土産物を買い求めると会津若松を後にする。天守閣の姿を見ることが出来なかったが、それ以外の遺構だけでも十二分に楽しめる城郭であった。たださすがにこれだけ立派な城であるだけに、余計にあの立派な石垣に映える天守の姿を見たいような気がしてきた。また会津若松自体にもまだまだ見所は多々ありそうだが、もう体力も時間も限界である。いずれこの地を再訪することを誓いつつ、郡山行きの快速に乗り込む。
帰りのルートも風光明媚。また往路と違って、今度は磐梯山の姿がハッキリと見えていた。梅雨を思わせない気持ちの良い天気。これはついていたと感じる。しかし郡山の一駅手前に来た時点で天候が急変、郡山に到着した時には駅から出られないぐらいの豪雨に出くわす。何とも極端な天候である。そこでそのまま駅の隣のビルで昼食を摂ることにする。
帰りは磐梯山がハッキリと見えた
昼食を終えてビルから出てきた時には雨はほぼ降り止んでいた。やはり最近の降雨はつくづく熱帯型になっていると痛感する。再び郡山駅に入ると、今度は磐越東線に乗車することになる。磐越東線は非電化路線であるので、運行しているのはディーゼル車のキハ112形の二両編成。内部は1+2型のボックス型セミクロスシートである。昨日、この車両を見た時に、異常に混雑していたことから警戒して、早めに乗車したのであるが、今日は日曜のせいか乗車率は低くて閑散としていた。ただ2+2でなく、1+2タイプのクロスシートであることを考えると、やはりかなり混雑する時もあるのだろうと推測される。
磐越東線は郡山といわきを結ぶ路線であるが、近年は高速道路の開通に伴う高速バスとの熾烈なる競争にさらされており、もう既にその勝敗は決しているという。実際、この路線を全線通しで運行される便は少なく、この便を逃すと次は夕方ぐらいまで次の便はない模様。どうも路線内の短距離輸送が主になっているようで、全線乗り通そうなんてのは私のような物好きしかいないようだ。地形的位置づけとしては、常磐線沿いの太平洋岸と東北本線沿いの地域を結びつける重要な位置だと思われるのであるが・・・。
沿線に洞窟がある模様
列車は甲高いディーゼルサウンドを響かせながら重々しく出発する。車両のパワーは十分にあると思われるので、結構速度の出る区間もあるのだが、傾斜がキツいのか線形が悪いのか、一転して速度ががた落ちする区間も存在している。沿線には一応集落はあるのであるが、そう大きな集落もなく、途中で山岳地帯に入り始めると一層沿線人口は減少する。また一見しただけでも沿線のモータリゼーションも進行しているようであるし、磐越西線と違って沿線が特に風光明媚というわけでもない。正直なところ明るい未来図が今一つ描けない路線である。
いわき駅に到着
1時間半近くかかっていわきに到着する。いわきは典型的な地方都市というイメージだが、私が想像していたよりは大きな都市のようである。とりあえず一端トランクをロッカーに放り込むと帰りのスーパーひたちのチケットを確保しておいてから街へと繰り出す。次の目的地は駅から若干離れた位置にある。
「野村和弘/東島毅 みることをかんがえる」いわき市立美術館で7/4終了
視覚と知覚の関係を問う現代アートというところなのだろうが、近くににじり寄らないと描いてあるものが全く見えない作品とか、ただ単なる巨大な看板(よく見ると色むらが若干あるようだが)とか、正直なところ「現代アートって目に悪いな・・・」という感慨しか抱けなかったのが本音。
美術館を出た時にはほぼ足が限界に達していた。あの行程を駅までテクテクと歩くのは無理と判断、タクシーを拾うと駅まで乗車する。
いわきからはスーパーひたちで上野まで帰還することにする。先程指定席を押さえていたのだが、どうやらスーパーひたちのこの便はいわき始発だったらしく、別に指定席を押さえなくても自由席でも良かったことに気づく。金を無駄遣いしてしまった・・・。当然のようにこの時点では指定席はガラガラ。スーパーひたちは接続の列車が遅れたとかで、予定よりも数分遅れでいわきを出発する。
いわきから水戸までの常磐線は私の未体験エリアである。いわきを出たスーパーひたちは最初はほぼ各駅停車ペース。途中で先発していた普通列車を追い越すとようやく特急らしい走りになるのだが、今ひとつ爽快にかっ飛ばしているというイメージはない。また常磐線は太平洋岸沿いの路線というイメージがあるが、実際には海から結構距離があるので、海が見えることはほとんどないし、むしろ沿線には山の風景が多い。沿線には常にある一定の人口は存在するようであるが、そのことは裏を返せば風景に変化が乏しいと言うことも意味する。正直なところ、磐越東線よりもさらに沿線風景に面白味がない路線とも感じられる。
住居、工場の類が急増するのは日立についてから。後は勝田、水戸で大量の乗客が乗り込んできて、指定席車内もあっという間にほぼ満席になる。水戸からは上野まではノンストップ。この区間は今まで何度も通ったことがあるところなので沿線風景には見覚えがある(延々田んぼが多い)。そのうちに疲れが出てきてウトウトとしてくる。次に気がついたときにはもう北千住あたりまで到着していた。
上野で下車すると東京まで移動。駅で弁当を買い込むと、新幹線で帰途につくこととなった。ちなみに今回は締めの6月ギリギリになってエクスプレス予約のグリーンポイントが貯まったので、グリーン車での帰還である。こういう疲労困憊しているときにはグリーン車の広いシートはありがたいと感じずにはいられなかったのである。
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