展覧会遠征 鳥取編3
ここのところの天候不順のせいか、先週末に完全に風邪をひいてしまって丸四日間寝込むことになってしまった。週も半ばになってようやく社会復帰したのであるが、その時に一番驚いたのは、予想以上に体力が低下してしまったこと。何しろベットから起きあがって仕事に出るだけで異常な疲労を感じる始末。老人が骨折などで一週間寝込むと寝たきりになってしまうという話を思い出してしまった。結局、これでは話にならないと、週末に予定していた東京遠征は繰り延べすることになったのである。
しかし週末が近づいて来るにつれ、心境に変化が現れた。というのも、私の想像以上に体調の回復が早かったからだろう。その内に「このまま週末寝てたらいっそうなまってしまうのではないか・・・」という考えが浮かび始めてきたのである。そうなった時に私の頭の中に閃いたのが鳥取。現在、鳥取県立博物館で興味深い企画展が開かれており、これは出来れば行ってみたいと思っていた。また鳥取城の山上の本丸が未訪問であったことが常に頭の中に宿題として残っていた。これは体力の回復度合いを測るためにもちょうど良さそうである。以上から急遽予定が決定した。
今回は車を使用した。今まで鳥取は数度訪問しているが、すべて列車を使用したものであったため、今回は列車では行きにくいところを中心に訪問することを考えたということがある。姫路バイパスを降りると、そこから一般道で北上する。
夏のスキー山などの山間部の道路を突っ走ることしばし、既に老朽化で足回りにヘタリが見られる私のカローラ2にはかなりキツイ道程であったが、ようやく無事に若桜に到着。若桜はかつての宿場町の面影をとどめる集落。はっきり言って小集落なのだが、ここまで山の中ばかり走ってきた目には、結構大きな集落に見える。この若桜にやってきた目的は鬼ヶ城の訪問。鬼ヶ城はこの地の豪族であった矢部氏によって築かれた山城である。その後、山名氏の勢力下に入ったり、一時期は山中鹿之助らがここに籠城したこともあるという。秀吉の鳥取城攻めの拠点の一つになったようなこともあるが、江戸時代初頭に一国一城令で廃城となったという。
前方の山頂に見えるのが鬼ヶ城
鬼ヶ城の手前までは林道が通っていて車で行ける・・・はずなのだが、ここのところで混乱が生じる。かつての宿場町の町並みは道路が狭く、どの道を行けば目的地にたどり着けるのかがサッパリ分からない。しかも頼りのカーナビはこんな地方都市では詳細表示がない。結局町内を二回りほどしたところで若桜駅に到着。一旦そこで車を止めて案内看板を確認。とりあえず若桜小学校を目標に路地を進んで行けばよいことを確認して再出発する。
林道を進む こっ、これは!! 若桜小学校の横を抜けると一本の林道が続いている。探していた鬼ヶ城の案内表示はこの道路に入ってから登場する。後はこれに従って林道をひたすら登っていくと、どん詰まりに車が駐車できるようになっている場所に到着する。ここで車を止めて、さあ出発と前を見ると「熊に注意」の看板が。一瞬びびるが、日本の山の中は多かれ少なかれ熊に遭遇する危険性は必ずあり、いちいちそれを気にしていたらハイキングの類は一切出来なくなる。山城見学となると必然的に山中に入り込んで行く必要があるのだが、その場合の危険で大きなものはスズメバチにマムシ、そして最大のものがこの熊である。とりあえず音を立てながらにぎやかに進むことにする。
現地案内看板より 現地は人の手が入っているようで、下草などは刈り込まれている。実はこれが大きな事で、下草が刈り込まれているだけでマムシの危険は劇的に減少する。山城初級の私としては、さすがに下草ボウボウのところに分け入っていく度胸はない。
左 馬場跡を抜けると 中央 森の中を進む 右 ホオヅキ段の石垣に突き当たる 開けた道を少し進むと馬場跡に出る。ここから先はは森の中を進むような感じになるが、下草を刈るなどの手入れはされている模様で進むことに困難は全く感じない。しばし進むと目の前に石垣が見えてくる。これが本丸下のホウヅキ段の石垣の模様。ここで道は三の丸に続く右側ルートと二の丸に続く左側ルートに分かれるのだが、右側ルートの方は通行禁止の看板が出ており、前方を確認すると崩落があった模様であるので、左側ルートの方を進むとする。
左 本丸石垣の横を抜けて進んでいくと 中央 搦手の門の跡 右 二の丸 左 二の丸から振り返った多段石垣 中央 二の丸よりも一段低い三の丸 右 三の丸脇の大手門跡 左 大手門跡に降りると 中央 先の道は立入禁止になっている 右 確かに大規模な崩落があった模様 やがて見晴らしが良くなると、前方に二の丸と左手に門の跡らしきものが見えてくる。二の丸は広い空間であり、何やら小屋が建っているが、スタンプを置いてあるだけで荒れ果てている。ここからさらに奥の一段低くなったスペースが三の丸で、大手門の跡らしき石組みも見える。二の丸の手前側にあたる一段高くなっているスペースが本丸である。虎口跡と思われるところを登っていくと、さらに奥に天守台が見える。天守台自体は大きくはないので、天守があったとしても小振りのものだと思われるが、そもそもここの標高自体が高いので、そんなに大型天守が必要ではなかったであろう。
二の丸から見た本丸虎口
左 本丸に上がると前方に天守台が 中央 近くで見た天守台 右 天守台上には礎石らしきものが 山頂からの見晴らしは抜群である。全体的に小振りの城であるが地形を最大限に利用して、かなり堅固な城であったろうと思われる。若桜街道を扼する要地だけに、このような要塞が必要なのであったろう。それにしてもこの城は全国的にはほとんど無名に近く、私が訪問した際にもついぞ人一人見かけることがなかったのであるが、石垣などの残存度合いも良いし、適度に手を入れた管理がなされている上、山頂からの眺めなどの追加要素もあることから、この城も私の選定する「続100名城」にふさわしいものと感じられた。
鬼ヶ城の見学を終えて山頂から降りてくると、次の目的地に車を飛ばす。次の目的地は「河原城」。ただここは城とは言うものの歴史的には鳥取城包囲の際に秀吉が陣を張ったという事実が残っているぐらいで、実際には城跡ではない。竹下政権による元祖ばらまきの「ふるさと創生一億円」で建てられたという天守風建造物が存在するが、当然のように史跡的価値はない単なる「インチキ天守」である。
前方に河原城が見えてくる
若狭鉄道に沿って車を飛ばすと、やがて前方の小高い丘の上にいかにも新しい天守が見えてくる。地形的には確かに城があっても不思議ではない地形であり、秀吉軍が陣を張ったというのも頷ける。ただ何の防御的遺構も見えない丘の上に天守だけが建っているのは非常に不自然であるし、丘全体を城郭として考えた場合には、何となく天守が大きすぎてバランスが悪い。その違和感からだけでもこの天守がインチキ天守であることはすぐに見当がつく。
河原城 丘の頂上には駐車場があり、数台の車が止まっている。天守は展望台とのことで入場は無料。中はいわゆる地元の歴史関係の展示で、場所柄オオクニヌシに関する展示が多く、オオクニヌシとヤガミ姫のエピソードなどの映像展示がある。要はこの地域にヤガミ姫という美女がおり、八十神(いわゆる八百万の神様なんてのと同じで、多くの神様)が彼女を嫁にしようとするが、彼女のハートを射止めたのがパシリとして連れて行っていたオオクニヌシだった。そこで八十神は「オオクニヌシのくせに生意気だぞ!」とばかりに彼を殺そうとするのだが、ぶち切れたオオクニヌシが逆に八十神をバッタバッタと切り伏せて、とうとうヤガミ姫と結婚してしまいましたというお話。一見おとなしそうに見える男も、ぶち切れたら何をするか分かりませんよという教訓物語である・・・ってちょっと違うか。
オオクニヌシとヤカミ姫との出会いの像もあります
しかしこうして展示を眺めていると、いわゆる鉄筋コンクリートの「なんちゃって天守」の内部と極めて類似している。結局はどこに行ってもこの手の建物は全部一緒なんだなと妙なところに感心してしまう。
河原城の見学を終えると、ここからは建設中の鳥取自動車道で移動。鳥取市は全国の県庁所在地の中で唯一高速道路が通っていない市というありがたくない肩書きで知られており、その汚名を返上するためか「誰が利用するんだろう?」と陰口を叩かれつつ建設が進んでいる高速道である。現在は建設途中ということでか無料開放されているのだが、完成しても有料化されたらどれだけの利用者がいるのかは「?」。これは開通早々、民主党政権による高速道無料化の対象にされるのでは。なおこの道路、当然のように私の特売カーナビの地図には載っていない(何しろ新名神もないのだから)。地図データを更新したいところだが、その予算がなかなか出せない・・・。
鳥取で高速を降りると、次の目的地は今回の遠征の主目的たる鳥取県立博物館及び鳥取城。ただその前に昼食を摂ることにしたい。当初の予定では鳥取駅周辺の店に行くつもりだったが、鳥取道を降りてまっすぐ走ると鳥取港方面に向かっていたので、そのまま鳥取港まで行ってしまうことにする。鳥取港は比較的大きな漁港。カニのシーズンにはかなり賑わうと言うが、今はシーズンオフなので車は少ないとは言わないがそう多くもない。とりあえず漁港内の「市場料理 賀露幸」に入店。「いか三昧定食(1980円)」を注文する。
イカ刺しにイカの天ぷら、イカの塩辛などのオーソドックスな定食。鮮度などには申し分ないのだが、ただ正直なところ驚きがない。どうも各地を転々として漁港なども行き慣れてしまったせいか、ごく普通の観光地化した漁港の飲食店という印象。イカの天ぷらなどもこれで十分に美味しいはずなのだが、あの萩での鮮烈極まる天ぷらを食べた後ではどうしてもインパクトがない。これで価格がもう少し安ければまた印象も違うのだろうが。
昼食を終えると目的地へ直行・・・したいところだが、既に結構疲れていると感じていることと、少し用事を思い立ったことから近くのイオンに入店する。まずはスルッと関西2DAY切符を入手のために、ここにテナントとして入っているJTBに入店。すると「手数料が必要ですが良いですか?」との話。スルッと関西2DAY切符を購入する場合、店舗によっては旅行業務取扱料金をとられることがあると注釈がついていたことを思い出す。岡山のkntでは手数料が無料だったどころか、無料駐車券まで発行してくれたというのに・・・。「しまった」と思ったが、とりあえず使用予定が来週なので仕方ないのでここで購入することにする。それにしても地元民に使わせたくないのか(実際、使わせたくないのだろう)、近畿(三重を含む)では発売しないという変な規則のせいなのであるが。
切符を購入した後は、店内の茶屋で「茶屋パフェ(945円)」で一息。ようやく少し身体が癒えてくる。さらに現地が予想外に暑いことから、イオンで替えズボンと帽子を購入しておく。私は地方に行った時も、買い物でイオンを利用することが多いのだが、これは便利なのだが旅情が一気に削がれてしまうという副作用もある。正直なところこの時も、{私は鳥取まで来て何をしているんだろう?」という虚しさも感じずにはいられなかったのである。それにしても辺りを見渡すとかなり多くの車が来ている。鳥取も地方都市の例に漏れず、車社会化と郊外化がかなり進んでいるようである。この辺りの活気のある雰囲気が、あの駅前の寂れた雰囲気と対照的である。この町も車で来るのと鉄道で来るのとで町の印象がかなり異なる。
イオンでのミッションを終えた時には2時頃になっていた。ここからいよいよ本題に戻る。まずは鳥取博物館までの移動だが、これは車でならあっという間に到着する。正直、あまりに近すぎて気づかずに通り過ぎてしまったぐらい。さて博物館の駐車場に車を入れようとしたのだが、満車とのことでやや離れた法務局の駐車場に誘導される。駐車場が満車になるぐらい大盛況なのだろうかと驚いたのだが、いざ入館してみると入館者はそれほど多くない。
「楊谷と元旦 −因幡画壇の奇才−」鳥取県立博物館で6/20まで
長崎生まれで、鳥取藩主池田定常にみいだされて藩につかえた絵師の片山楊谷と、江戸生まれで鳥取藩士・島田図書の養子となり、池田公の求めに応じた作品を数々残した島田元旦。江戸時代後期に活躍した鳥取ゆかりの二人の絵師の作品を集めた展覧会である。
片山楊谷についてはかなり作品に独自性が強いように感じられた。作品のベースには円山応挙などの四条派的な精密描写があるのであるが、その枠に収まらない非常な力強さが作品からみなぎっている。例えば応挙の描いた虎の絵は、どうしても単なる大きな猫に見えるのに対し、片山楊谷の虎の絵は確かに迫力的には虎である。
これに対して島田元旦の方はというと、のびやかな気持ちよさのようなものが画面から伝わってくる。彼が得意とした作品は極彩色を使った大型作品だったとのことだが、そういう派手派手さを嫌味でなくサラリとこなしてしまうのが彼の真骨頂だったのではないかと思われる。
正直なところ一般的には共にそうメジャーではない絵師だと思われるのだが、それにも関わらずその作品のレベルはかなり高い上に独自の個性も光っている。まだまだすごい芸術家はいたものであると感心することしきり。これだから展覧会は面白い。
博物館の見学を終えたところで向かいの仁風閣に入館、内部を見学する。先の二度の鳥取訪問では共にここを見学する時間的余裕がなかったためにこれも今回の宿題の一つである。この建物は明治時代に皇太子の山陰訪問の際の宿舎として建設されたという洋館で、いかにも当時のモダンな雰囲気を伝える建築である。内装などに当時ヨーロッパで流行のアールヌーヴォーなどの影響が見られるが、特に面白いのが支柱のない螺旋階段。堅いケヤキをつなげて支えているとのことだが、この生物的な曲線がいかにもアールヌーヴォー的である。
さて宿題を一つ片づけたところで、いよいよ数年来の大きな宿題を片づけることにする。「鳥取城」の山上本丸訪問である。仁風閣の裏手から二の丸に上がると、先の鳥取城訪問では引き返した登山口を意を決してくぐる。しかしこれからが難行苦行だった。
左 二の丸を抜けて 右 天球丸の横を曲がる 左 登山道にはまたも例の表示が 右 かなり険しい山道 下から見上げただけでも標高がかなりあるのを感じていたが、何よりも上りが急である。しかも足下は階段というような高級なものではなく、崖よりはマシという程度の代物。足下が悪くて、一段一段気を付けながらという登山に近いもの。しかもかなり暑いので体力の消耗が激しい。
現地案内図より 結構登ったかと思った時に目の前に見えた看板に「一合目」と書いてある。これを見た途端に思わず心がくじけそうになる。しかもここに来て装備に根本的な誤りがあったことに気づく。水筒を持参していたのは良いが、朝から中身を補充していなかったため、残量が半分もないことを思い出したのである。しかも先ほどまではそれほどに思っていなかった鬼ヶ城攻めの時の疲労が、この状態になって一気に襲いかかってくる。一歩進むたびに確実に足を持ち上げるのが厳しくなってくる上に、身体が脱水状態で消耗していくのを感じる。これは想像以上の難行苦行である。上からは涼しい顔をした登山客が悠々と降りてくるのだが、こちらはもう情けないほどフラフラの状態。ようやく五合目の社のところに到着した時にはしばしへたり込んでしまう。とにかく水が欲しい。
左 五合目の社 右 ここまででもかなりの高度がある 鳥取城と言えば秀吉による兵糧攻めが有名である。食糧の尽きた城内では死肉を食らうほどの地獄絵図に陥ったという。そのような地獄とは比較するべくもないが、つくづく人間は飢えと渇きには弱いものだと思い知る。
しばし休憩をとるが、この状態では休憩だけでは体力の完全回復は無理と判断した私は、意を決して再び上りに挑戦する。さらに厳しさを増すのが八合目を過ぎてから。もう既に足は上がらなくなっているし、道は険しさを増してくるし・・・。限界を超えている身体を好奇心と貧乏性だけが突き動かして、どうにかこうにか山頂に到着した時には30分以上かかっていた。二の丸のところにあったベンチにへたり込むと、持参していた茶を完全に飲み干してしまう。
左 二の丸跡 中央 二の丸よりも一段低いところに三の丸 右 三の丸 山頂は天守台を有する本丸を初め、少し低い位置にある二の丸、さらに低い位置にある三の丸といった構えになっており、想像していた以上の規模がある。なおこの三の丸からさらに下がった位置にかつてのロープウェーの駅があって、今日では廃墟になっているとのことだが、廃墟マニアではない私には関係ないし、そんなところまで行く体力など残っていない。それよりもあの上りのキツさを考えると「なんでロープウェーを残してくれなかったんだ!」と言いたくなる。
左 本丸 中央 本丸車井戸 右 天守台 左 天守台上 中央 笑っちゃう絶景 右 砂丘も見えている 本丸からはかなり見晴らしがよい。またこの高度にもかかわらず、本丸には井戸もあるようである。いざという時の最後の詰めの城であったのだろう。いくら頑健な戦国武者であっても、まさか毎日あの山道を登りたがるとは思えない。江戸時代以降にはこの山上本丸は放置状態になり、天守も落雷で焼失したまま放置されていたというのも頷けるところである。本丸の隅に天守台がある。天守台からは鳥取市街を一望することが出来、遠くには砂丘も見えている。
出丸跡もあるのだが、そこに行く道は通行禁止だった
これだけの険しい山の上にもかかわらず、訪問客は結構多く、常に人の姿がどこかしこにある。中にはトレーニングのためか山道を駆け上がってくる運動部の猛者も。私にはとても真似できません・・・。
見学を終えると山を下りるが、これがまた登山とは違った意味の苦行であった。既に足下がかなりぐらついているので、注意しないと転落してけがをする恐れがある。杖代わりの一脚を駆使しながら、慎重に一歩ずつ降りていく必要がある。とにかく山での重大災害は登山時よりも下山時の方が多いのである。一段がかなり高いので、そのたびに半ば飛び降りるような動きになるので、必然的に膝の負担も大きく相当に足にダメージがある。ようやく下に降りてきた時には脱水症状も相まって、もう朦朧としかかっている状態。ようやく自動販売機を見つけるとカルピスソーダ500ミリリットル缶を一気飲み。これでようやく人心地つく。足のダメージもさることながら、実際は脱水症状の方が限界に近くなっていたようである。運動時における水分補給の重要性を今更ながら思い知る。もっと夏本番なら熱中症になっていた可能性が高い。
この山を登ってきたわけである
これで今日の鳥取での予定は終了である。とりあえず博物館に一端戻って図録だけ購入すると、駐車場から車を出して今日の宿泊ホテルである鳥取グリーンホテルモーリスへと向かう。ホテルの選択基準は例の如くである。ホテルモーリスは山陰地区を中心に展開しているローカルホテルグループだが、今まで益田、出雲において利用したことがあり、この地域においては私はドーミーチェーンより高く評価している(そもそも山陰にはドーミーチェーンのホテルはない)。なおこの鳥取グリーンホテルモーリスは最近にオープンしたもので、その案内が来たことも私が鳥取に目を向けた一因であったりする。
車を契約駐車場(大丸契約駐車場を夜間に使用するようだ)に置くとチェックイン。まずは部屋に入ってしばしまったりとする。夕食を摂るためにホテルを出たのは7時頃。このホテルは大丸の真裏だが、何しろこの大丸を初めとして鳥取の駅前商店街は7時頃にはほとんどの店が閉めてしまうという難儀なところである。既に結構閑散とした雰囲気になっている。
さて夕食を摂る店だが、当初は鳥取だから和食を考えていたのだが、昼食に和食を摂ったことと、とにかく異常に疲れたことから、気分としては「フレンチが食べたい」という気持ちになっていた。近場のフレンチ店と言うことで調査の結果見つけた「ビストロフライパン」に入店することにする。ロートレックのミニポスターを飾った洒落た店内には先客はカップル一組。とりあえずディナーコースは4種ほどあるのだが、その中で「フルコースディナー(5000円)」を選択する。
まずはオードブル3種盛だが、生ハムなどの定番どころに鳥取らしく海産物の二品。まずはなかなかにうまい。
次に出てきたのがエスカルゴフライパン風。私はエスカルゴは初体験である。イメージからサザエのような硬めのものを想像していたのだが、案に反して柔らかくて旨味がある。正直なところ「カタツムリ」と言うことで少しひるんだが、実際に食べてみるとかなり美味しい貝というイメージ。また和洋風の味付けも絶妙。
スープは空豆のスープ。緑の彩りが綺麗が、淡泊な味も抜群。
メインの一つ目は海産物の白ワイン煮込み。鳥取らしい地場ものを活かしたメニュー。これが感動するほどにうまい。正直なところ、昼に魚だったので夜はもう魚はいらないと思っていたのだが、そんな考えが一瞬にして吹っ飛ぶうまさ。これはうっとりする内容。皿に残ったソースまでパンでしっかりと頂く。
メインの二つ目は牛肉の赤ワイン煮込みのパスタ添え。超高級なミートスパと言ったところか(笑)。これもかなりうまい。ただ料理としての感動は先ほどの魚の方が上。
最後はデザート。これも例によって「優れた洋食屋はデザートも素晴らしい」の法則通りにかなり楽しめる逸品。苺のソルベが甘酸っぱくて心地よい。人を幸せにする素敵なデザートである。
ほとんど思いつきで選んだ店であったが、実に堪能できた。あまりの疲労に少々キレ気味で予算オーバーのコースを頼んだのだが、価格分以上に十二分に堪能した。思い出してみると山陰と言えば、益田でも素晴らしいフレンチ店に出会ったことがある(あの時も宿泊はホテルモーリスだった)。うーん、山陰フレンチ侮り難し。やはり素材が良いのかな。
夕食を堪能してホテルに帰還すると、大浴場で入浴。足に疲れがかなり来ているのでそれを風呂でほぐしてから、無料のマッサージチェアで全身疲労除去(マッサージチェアが無料なのも、私がホテルモーリスを高く評価するポイントの一つ)。部屋に戻ってしばしまったりすると、やや早めに床に就いたのであった。
☆☆☆☆☆
翌朝は比較的ゆっくりした予定だったので、7時に起床するつもりだったのだが、悲しいことに6時前に目が覚めてしまった。実のところ昨晩は、足がダルい上に身体が火照ってよく眠られなかったのである。夕食の帰りに飲み物を買い込んでいたので、それを寝る前にしこたま飲んでいたのだが、鳥取城で脱水状態になりかけたツケが来ていたようで、この夜はやたらにのどの渇きに苦しめられたのだった。
今から寝ても中途半端になるので意を決して起き出すと、とりあえずシャワーで汗を流してから、今日の予定の再チェック。そのうちに朝食時間になったのでレストランの方に向かう。このホテルの朝食はお約束通りバイキングだが、これが和洋両対応のかなり優れもの。これが私がこのホテルチェーンを高く評価している大きな理由。ドーミーチェーンも朝食は結構充実しているが(朝食の充実度はドーミーチェーン>ルートインチェーン>スーパーホテルチェーンである)、ここはそれをCP面で圧倒的に凌駕している。また今日はとりわけご飯がうまい。またここは不思議とパンもうまいのである。今日も結構厳しい日程になることが予想されることから、十二分に燃料を補給すると一休みして9時頃にホテルをチェックアウトする。
まずは最初の目的地は湖山池沿岸の「防己尾城」。防己尾城は因幡の国人であった吉岡氏の城で、秀吉の鳥取城攻めの際には3度に渡って秀吉軍を退け、その際に秀吉の馬印千生瓢箪を奪い取ったとされる。鳥取城を包囲する秀吉軍の背後を惨々攪乱したが、秀吉の兵糧攻めによってついには落城、降伏した吉岡氏は帰農したとか。
城は湖に半島状に突き出た山の上にある。北側の山に本丸と二の丸が、南側の山に三の丸があったとのことで、本丸跡と三の丸跡は公園整備されている。
本丸へ至るルート 本丸跡に登ってみるとそう大きな城という印象ではないし、特別に要害というほどの地形でもない。ただ半島状の地形だけに、陸地側に堀切を切って兵力を集中して防御した上で、船などを使って後方からゲリラ戦を仕掛ければ、力攻めでは被害が無視できなかったのだろう。
左 三の丸方面へ上がるルート 中央 三の丸突端 右 湖が一望 左 同じく湖の光景 中央 三の丸広場 右 振り返ってみるとこんな感じ 本丸から岬の方を回って三の丸の方に行ってみる。こちらの方はあちこちに曲輪をなしていたのではないかと思われる平坦地があり、当時はここが居住区だったのだろうと思われる。ここから眺める湖の風景はなかなか美しい。ただ湖水の汚染が進んでいるのか、アオコが発生しているように見られるのが気がかり。
防己尾城の見学を終えると次の目的地を目指す。次の目的地は「鹿野城」。鹿野城はそもそも因幡の国人・鹿野氏が築いた山城だが、秀吉時代にこの地を治めた亀井茲矩が大規模に改修したという。亀井茲矩は朱印状貿易を手がけた「国際派」であり、この城に仏教思想に基づいた「王舎城」の名を付け、さらに「朝鮮櫓」や「オランダ櫓」などの櫓があったという。ただ亀井茲矩の子の政矩の代で国替えがあり、その後にこの城は廃城になったとか。
現地の観光駐車場に車を止めると城の見学をする。外堀などが残っているが、外堀内のかつての城郭部分は今は鹿野中学校となっている。ただ中学校手前の部分に小高い土盛があり、ここはかつての櫓跡ではないかと思われる。また内堀内は駐車場やグラウンドになっている。
左 外堀越しに見た中学校 中央 中学校手前にある櫓跡らしきもの 右 内堀 山上部分は神社や公園として整備されており、かつての曲輪跡と思われるものが残存しており、山頂天守台にまで至る登山道も整備されており、比較的容易に登ることが可能である。とは言うものの、標高はそれなりにあるので体力はそれに応じて必要。
左 登城口の入口 中央 途中の曲輪跡、何故に紅葉? 右 一番大きな曲輪・西御殿跡 途中の曲輪跡には神社があったり、タンクがあったり、展望台があったり(樹が鬱蒼としすぎていて何も見えないのだが)など「普通の山」になってしまっている。石垣などもあるのだが、中には明らかに最近に整備されたものも混ざっており、どこまでが当時の遺構かは判別しにくい。
左 三の丸と思われる場所には展望台 中央 さらに上には神社 右 二の丸に到着 左 二の丸の上が天守台 中央 天守台 右 天守台からの眺望 山城連チャンで大分足に来ているので、水分を十二分に補給しながらかなりゆっくり登ることになったが、それでも山頂の天守まで15分程度で到着する。天守からは回りの山を見晴らすことが出来るが、すぐ隣にもここと同じぐらいの高さの山がある。あちらには防御施設はないんだろうかなんてことが頭をよぎる。
下まで降りてくると鹿野町の街並み見学。鹿野町はいわゆる城下町であり、今でもその風情は残っている。途中の幸盛寺には山中鹿之助の墓があるので見学。
駐車場まで戻ってくると昼食へ。この近くにそば道場があるのでそこで昼食。ここはそば打ちなども出来るようだが、私はそれには興味ないので普通にそばを頂く。注文したのは「そば定食(980円)」。さすがにそばの腰は強くなかなかに美味。
昼食を済ませると、鹿野町を後にして山の方に向かう。県道21号線をひたすら三朝温泉方面に向かって走る。険しい山の中のとんでもない道だが、道自体は綺麗に整備されている。次の目的地は三朝温泉北部の羽衣石城だが、その前に途中の三仏寺にある国宝の投入堂を一目見ておこうという考え。峠を越えてしばらく走ると「投入堂遥拝所」という表示があるので付近に車を停めて見上げると、遥か遠くの絶壁に投入堂が見えている。投入堂とはよく言ったもので、確かに岩場にお堂を投げ入れたみたいな造りである。一体こんなものどうやって作ったのかと考えるとゾッとする。とにかく私のような高所恐怖症の人間には想像のつかない世界である。なお近くの三仏寺からはこの投入堂のそばまでいける参拝ルートがあるそうだが、運動靴に軍手必須という本格的登山ルートで、万一転落事故が発生しても当寺は一切責任を持ちませんからそのつもりでという世界らしい。実際、過去に転落事故もあったとかで、日本でも有数の危険な観光地である。
さて問題の「羽衣石城」なのであるが、ようやく羽衣石城がある山の近くまで来たのだが、情報不足でアクセス道路がどこにあるのかさっぱり分からない。三朝温泉手前で県道29号に乗り換えてずっと北上したのだが、結局は羽衣石城に関する表示は一切なし。そのうちに東郷池までやって来てしまう。仕方ないのでさらに西にしばらく走ると、小さな川を越えたところでようやく羽衣石城の表示を発見する。どうやら川沿いの狭い路がアクセスルートのようである。
後はこの狭い道をひた走るだけ。途中で2カ所ほど分岐があったが、そこにはキチンと表示があるので道を間違う心配はなかった。やがて前方に羽衣石城の模擬天守が見えてくる。意外と標高の高い山の上にあり、もしこの山をそのまま登るのなら体力的に無理だなという考えが頭をよぎる。とりあえずどの辺りまで車で接近できるかがポイントである。やがて道は登りに転じて急な坂をひたすら登っていくことになる。山の中腹ぐらいで道はどん詰まりになって、そこに駐車場がある。どうやらここからは自分の足で登っていくしかないようである。
山の頂上に模擬天守が見える
羽衣石城は元々は室町時代に南条氏が築いた城だが、戦国時代以降は尼子、毛利、織田、豊臣などの巨大勢力の狭間で翻弄され、その度ごとに南条氏はあっちについたりこっちについたりを余儀なくされ、この城も奪われたり奪い返したりを繰り返したらしい。最終的に10代目の南条元忠が関ヶ原で西軍に与したことで改易(羽衣石城もこの時に廃城)、大阪の陣では豊臣型に馳せ参じたが、徳川に内通したとして切腹というまさに最後まで巨大勢力の争いに翻弄されたままに終わってしまっている。何やら哀れを誘う話である。
大手口ルートと搦手口ルート 案内看板を見ると15分の搦手ルートと20分の大手ルートがあるようである。せっかちな私は搦手ルートの方を選ぶことにする。とりあえず装備の確認。登山用一脚を用意し、水筒にはリッターボトルで買い込んだ伊右衛門をフル充填、手足や顔には虫除けスプレーを塗り込んで準備完了である。恐らくここが本遠征最後の山城攻めとなるだろうが、問題は私の体力がもつかである。正直なところ、昨日の鳥取城攻めのダメージは想像以上に大きなものがあるし、先ほどの鹿野城でもかなり消耗することになった。もうこうなると自身の限界への挑戦となる。
左 登城ルートは険しい 中央 所々石垣も存在する 右 途中で休憩 幸いにして山道は鳥取城のものに比べると随分と整備されていて、足下の危険は少ない。ただつづら折りの階段がひたすら続いており体力的にはかなりキツイ。明からさまに足が上がらなくなってきているので、途中の休憩所で休んだりしながらスローペースで登っていくことになるが、息は上がってしまうし、何よりも自分の心臓の鼓動がハッキリと聞こえているような状態(ドクンドクンという音が明らかに耳に聞こえてくる)。かなり体力的な限界が近いことを感じずにはいられない。クライマックスは羽衣石のところの急坂。ここは自然の大岩を利用して、搦手口を守る関所にしているようである。この辺りだけはロープを頼りに登る部分がある。それを過ぎた時に突然に現れる平地が、主郭を取り巻く帯曲輪である。そこには展望台が建てられており、その背後には一段高い主郭に建てられた模擬天守が見える。しばしこの展望台で風景を楽しみつつ休憩及び水分の補給を行う。
左 羽衣伝説のある岩 中央 ようやく帯曲輪に到着する 右 裏手には模擬天守が見える 展望台からの風景 休憩後、虎口らしいところを抜けて本丸に上がると、背後に二の丸が、正面に模擬天守が見える。なおこの模擬天守は二代目で、以前には南条氏の末裔が建てたというトタン貼りの天守が建っていたらしいが、さすがにあまりにあれだったもので、その後に例の「ふるさと創生1億円」で再整備されたとか(その時に麓の駐車場までの道なども整備されたらしい)。なお現在の天守はやや独特のデザインであるが(あえて強引に説明を付けると、層塔型三層三階天守となるか)、現在の天守のデザイン自体は初代に似ており、そもそもの初代のデザインの出所は明らかではない。ただ何にせよ、元々羽衣石城に天守はなかったのであるから、どうこけてもとんでも天守には違いない。ただこの山上にあえて天守を建設した熱意には敬服する(資材の運搬にはリフトでも使用したのだろうか?)。しかも実はこの天守、木造だったりするんだよな・・・。妙なところでとんでもと本気が入り交じっているのである。
左 虎口は右手 中央 主郭に到着 右 主郭奥に模擬天守が 本丸の見学を終えると大手口ルートで下りにかかる。しかしこちらのルートも搦手ルートに負けず劣らずの険しい道である上に悪路。階段などはむしろ搦手ルートの方がよく整備されていたぐらい。本丸の案内には搦手ルートの方を「下山口」と書いてあったが、確かに降りる時はあちらの方が正解かもしれない。一脚を駆使しつつ、足下に気を付けて進んでいくのであるが、やはり足にかなりガタが来ているので危なっかしい。そのうち、足場のブロックがいきなり動いたせいで転倒、幸いにして大きなけがはしなかったが、数カ所すりむく羽目に。
自然の関所跡
ルートの途中には自然の石垣を利用した関所跡などもあるが、基本的には単なる山道といったところ。ようよう駐車場まで降りてきた時には、もう足は完全に限界に達していた。
結局はこれで体力的な限界を感じたことと、予定よりも遅れ気味になっていることから、直ちに帰宅することにしたのだった。本当は三朝温泉にでも立ち寄りたかったのだが、それは今後の課題としておくことにする。帰りは一端鳥取市まで戻って、鳥取自動車道を使用するルートをとったのであった。
病み上がりのリハビリのつもりの一泊二日の小遠征だったのだが、リハビリというにはあまりに過酷すぎる遠征となってしまった。そもそも二日で6つの城郭を回るというのが無茶だが、さらにその内の4つがかなり本格的な山城だったというのはあまりに無謀だった。特に鳥取城の険しさは完全に私の想定を越えていた。帰宅した頃にはだるい感じだった両足が、翌日には見事にふくらはぎがパンパンに腫れてしまって、歩行に困難を来すことになってしまったというのは情けない次第。
長年の懸案事項の一つを解決すると共に、無名ながらも立派な城郭はまだまだいくらでもあるんだというのを感じたのが今回の遠征。また最近は鉄道を使った分刻みのスケジュールを淡々と仕事をこなすようにクリアするタイプの遠征が多かったところを、久しぶりの車によるアドリブ満載の自由な遠征を堪能したのであった。やはり城中心で行く時は車でないと機動力的に不利であることを痛感せずにはいられない。中国山地周辺には山城は多数あるので、これらはこの形式で攻略していくことになろう。最も問題は、それに耐えるだけの体力があるかどうかだが。
本題の美術展の方は一カ所だけだったが、これも予想外に実り多いものであった。ただつくづく感じるのは美術館と城と鉄道というのは互いに両立しにくい関係があるということ。これを一緒くたにやってる私って・・・。馬鹿?
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