展覧会遠征 名古屋・三重編

 

 さてこの週末であるが、金曜日に大阪方面で仕事があったことから、そのまま大阪で宿泊(新今宮の安ホテルである)して翌日から遠征に繰り出そうと考えた。目的地であるが、大阪周辺にはめぼしいイベントがないことから、名古屋方面まで出張ると共に、以前より懸案の一つである近鉄沿線視察も併せて実行しようと考える。とりあえず、金曜日のうちに近鉄の「週末フリー切符」を購入しておく。

 勤勉なる平サラリーマンの私は、金曜日は一日大阪で仕事に全力で励んで、想定以上の成果を得たところで今週の仕事はこれで終了。さてここからは一個人にモードチェンジである。大阪で定宿にしている安宿に転がり込むと早めに入浴を済ませ、インターネットで明日の予定を練りつつ、翌朝の早朝出発に備えて早めに床に就く。

 

 翌朝は早朝にホテルを出ると鶴橋へ移動。先日に買い込んでいた「週末フリー切符」を取り出すと、特急券を購入。そこから近鉄特急で一端津まで移動する。近鉄特急に乗車するのは久しぶりだが、やはり昔に抱いた印象通り「かったるい」。線形の悪さと途中の傾斜のきつさは如何ともしがたく、新幹線と比較するのは無理があるにしても、新快速と比較しても明らかにスピードが遅い。前半の大阪近郊は狭い軌道をトロトロと走っている印象だし、中盤の山岳地帯はエッチラオッチラと必死で山を越えているという様子である。

   車内風景と沿線風景

 速度が上がってくるのは三重に入ってからだが、速度が上がって来たと思う頃には津に到着する。とりあえず津で一旦下車すると、重たいトランクを宿泊予定のホテルに預けて身軽になっておく。宿泊ホテルは例によってドーミーイン津である。

 ホテルに荷物を預けると再び駅に戻って、今度は改めて急行で名古屋まで移動する。この辺りからは近鉄も線形が良いのでかなり速度が上がり、急行は順調にかっ飛ばす。確かにこれでは単線非電化のJRには勝ち目はないというものである。1時間少々で名古屋に到着する。

 

 さて名古屋にやってきた目的は、まずは名古屋ボストン美術館での展覧会だが、その前に久しぶりに「名古屋城」を訪問しようと考えている。というのも、名古屋城は随分前に一度出張のついでに立ち寄ったことがあるのだが、鉄筋コンクリート造りの天守に外付けのエレベーターが付いているのにショックを受けて、それ以来足が遠ざかっていたという経緯がある。しかしあの頃に比べると私の城の見方も変わってきているので、いかに天守が安作りであろうとも、それ以外に見るべきところがあるのではなかろうかと思い直した次第である。

 現地看板より縄張り図

 地下鉄を乗り継いで市役所前で降りると、名古屋城のすぐそばに出てくる。昔行った時にはほとんど意識しなかったのだが、改めて見てみるとかなり大きな城である。また水こそ張っていないが、かなり幅の広い堀もあり、さすがに構えは堂々としたものがある。やはりこの縄張りの規模は徳川御三家の城だけのことはある。

駅を出るといきなり出くわすのがこの東門と幅の広い外堀

 二の丸東門で入場料を払って場内に入ると、そのまま本丸方面へ。工事中の表二之門をくぐると本丸内へ。戦前まではこの本丸内に天守や御殿などが残っていたのだが、例によってあのアホな戦争において米軍の空襲によってすべて焼失してしまった。戦後に天守が鉄筋コンクリートで再建されたが、これが問題の代物である。なお名古屋城では現在本丸御殿を再建中とのことで、その作業場を見学できるようになっている。資金は市民の寄付などで集められたというから、建設の過程もなるべく透明化する必要があるのだろう。工期はざっと10年はかかるという大事業だが、近年の復元の例に従って極力従来工法を用いてのものになるという。入口でヘルメットを借りると内部の見学通路へ入場できる。私が覗いたときには入り口部分の土台を作っていたところで、まだ本丸御殿の形さえない。ただ立派な木の柱が数本横たえてあり、かなり気合いの入った再建であることがうかがえる。

左 東南隅櫓と天守  中央 加藤清正像  右 近くで見る東南隅櫓と内堀

左 表二之門は工事中  中央 西南隅櫓と内堀  右 東二之門もこれまた工事中

本丸工事現場内はまだ土台を設置している段階

 本丸御殿を抜けるとそこに天守が見えるのだが、間近で見るとやっぱり「安っぽい」という印象を否定できない。こうして近くで見上げるといかにも古い鉄筋コンクリート建造物という印象しか受けず、しかも外付けにされたバリアフリー用エレベーターがその安っぽさに拍車をかける。河村市長が名古屋城天守を木造で建て直すとぶちあげたと聞くが、確かにこの天守を見るとそうしたくもなるだろう。まあ予算的に実現可能性は薄いが、もし実現すれば、復元本丸御殿と共に名古屋の正真正銘の誇れるシンボルとなろう。

 

 この方向から天守を撮ると、どうしてもこのマヌケなエレベーターが写る

 天守内部は例によっての展望台兼博物館。最上階までエレベーターで上がれるので「車椅子でも攻略できるやさしい城」である。最上階からは名古屋市街を一望できるが、つくづくこの城の縄張りの大きさを堪能できる。

天守からの風景だけは抜群です

 天守から降りてくると裏手の不明門を抜けて深井丸の方へ向かう。途中で天守台の石が放置されていたりするが、これは鉄筋コンクリートの天守を作る時に、従来の天守台が重量に耐えられないために天守台に手を加えた時のもののようだ。わざわざここまでしてあの安普請の天守を建てるなんて・・・。そもそもあんな鉄筋コンクリートの安普請しか建てられなかった理由が「建築基準法」だっていうんだから、日本の役人がろくなことをしないのは今日に至るまで変わっていないところである。

 天守炎上時の記録写真が残っています。どういう気持ちでこの写真を撮ったかを思うと胸が詰まる

 本丸の裏側に当たるこちらは庭園があるようなのだが、現在は本丸御殿建設のための木材加工場がその大部分を占めている。ちなみにここも見学できるのであるが、特に何があるというわけではない。

 これが宣伝写真では絶対撮らない一番醜悪なアングルです

 ここから西の丸方面にプラプラと歩く。ちなみに名古屋城天守の写真を撮る場合には、本丸側から撮ろうとすると、手前の樹を使って最大限エレベータを隠そうとするわけだが、どうしても見えてしまう。例のエレベーターが写らないように考えると、撮影は事実上こちらの角度からに限定される。そう言うわけで名古屋城天守の写真は似通ったものばかりになってしまう。一番絵になる角度に醜悪でマヌケなものがぶら下がっているのだからたちが悪い。

 エレベータを避けようとするとこの角度になってしまう

 西の丸にたどり着くと正門を通って場外に。そこはかつての三の丸だと言うが、ここら辺りは完全に都市化しているので城郭の面影はない。後は地下鉄の駅に戻るのに外堀沿いにグルリと歩いたが、つくづくこの城の巨大さが身に染みる・・・というよりも足に染みるのであった。何とか地下鉄の駅にたどり着いた時にはかなりの疲労が足に来ていた。

   

正門と謎のキャラクター

 さすがに100名城。かつて訪問した時には、私は「城=天守閣」というレベルの小学生並みの認識しか持っていなかったため、あの外付けエレベーターを見ただけで嫌になって早々に退散したが、改めて回ってみると天守閣を抜きにしてかなりの見所があることがよく分かったのである。立派な石垣に掘などはそれだけで十二分に堪能できるものであった。となると、やはりエレベーターで嫌気がさして大昔に一度訪問したきり行ったことのない大阪城も、いずれ再訪する必要がありそうである。よくよく考えてみるに、近年まで私の頭の中では普通の城の基準が姫路城であったということが悲劇ではある。これはまるで野球選手と言えばイチローみたいなものだと思いこんでいたみたいなものであり、これだと他のほとんどの選手がヘボに見えてしまうのも道理。世の中をよく知らないとこういう愚かな思いこみをしてしまうという例である。そういう意味では旅は見聞を広めるというのは事実か。部屋にこもってばかりで世間を知らないと、現実と乖離したアホな考えに染まってしまうというわけでもある。

 

 名古屋城を見学した後は、本来の目的地である名古屋ボストン美術館に向かう。一体ここに来るのは何回目だろうか。

 


「ザ・風景−変貌する現代の眼」名古屋ボストン美術館で9/12まで

 

 風景は多くの芸術家達にインスピレーションを与え、古今東西多くの芸術家達がそれを絵画の形に作品に取り入れてきた。そのような歴史的素材である風景に対して、20世紀から現代にかけての芸術家達がどのように取り組んできたかという展覧会。

 一概に風景画といってもいろいろある。当然のように最も古典的で最も王道なスタンスは、目に見える風景をそのまま描写するというスタンスである。ただ、この「目に見えるそのまま」という点に奇妙なこだわり方をするのが現代アートの大きな特徴の一つである以上、そこは一筋縄でいかない。ある者は風景全体ではなくその一部を拡大投影しているし、ある者は自分の内面を投影するし、ある者は「目に見えるそのまま」を描こうとすると、「目に見えてない」はずのものばかりを描いていたり・・・。

 現代アートというのがどういうスタンスにある芸術なのかというのを体感するには面白い。それが作品として感銘を受けるかは別にして。

 


 

 予定ではこの後は津方面に戻るつもりだったが、美術館内で気になるポスターを目にしたことで予定が急遽変更になる。それは「ヤマザキマザック美術館開館」というポスターである。どうやら企業による新しい美術館が最近になって開館した模様。収蔵品は「ロココからエコール・ド・パリまでフランス美術200年」と銘打っている。どういうレベルのコレクションかは分からないが、この情報を見る限りでは私の好みにジャストミートである。場所は地下鉄新栄のそばとのことなので、ここから乗り換え一回で到着できる。私の遠征が「展覧会遠征」である以上、これは行かないわけにはいかないというものである。

 

 目的地はポスターに記述していたとおり、新栄駅の出口のすぐそばのビルにあった。

 


ヤマザキマザック美術館

 

 ビルの2フロアを使ってフランス絵画及びアールヌーヴォーの家具・調度、さらにガラス工芸品など多彩な展示を行っている。

 絵画については5階のワンフロアを使って、ロココからエコール・ド・パリまでの作品。ブーシェ辺りから始まって、ドラクロア、さらにはクールベが登場して、モネ、ルノワール、ピサロといった定番どころ。そしてヴラマンクにユトリロ、シャガール、キスリングにローランサン、ピカソにデルヴォーまでと実に多彩。いわゆるビッグネームをかなり網羅してある。

 4階はこれまたアールヌーヴォーの家具の類を大量展示してある。展示の最終盤がガラス工芸品だが、ガレを中心に多数展示してあり、これも小さな美術館の展示規模に匹敵するレベルである。


 

 全く想定外の訪問だったが、期待以上に堪能できた美術館であった。圧倒的な物量にもっとも驚かされたのだが、5階、4階のそれぞれで十二分に単独の美術館となりえるレベルであった。ヤマザキマザックなる企業は正直私は全く知らないのだが(工作機械メーカーらしい)、その会長の個人コレクションを展示したものらしい。よくまあこれだけの代物をコレクションできたものであると感心することしばし。今の日本は目先の金であくせくして、こういう風流人は減ってきたものである。残念ながら私の同世代ではこういう風流人は出そうにないような気がする(サラリーマン経営者や単なる守銭奴が多いので)。

 

 これで名古屋での予定はすべて完了。当初に計画していたスケジュールからは大幅に時間が遅れたが、予定の行動に移ることにする。折角の近鉄フリー切符なので、この際だから近鉄沿線を視察しておこうという考えである。まずは四日市まで移動、そこから内部・八王子線を見学しておこうというのが最初の予定。四日市で急行を降りると乗り換えホームを探すがない。一体どうすれば良いのかとウロウロしていたら、内部線は改札を出てから陸橋を越えて40メートル先という表示が目にはいる。どうやらホームが別になっている模様。「?」と思いながら陸橋を越えて内部線の改札をくぐると初めてその理由が理解できる。線路幅があからさまに狭い。近鉄のこの辺りの路線は標準軌だが、ここの線路は狭軌でさえない。いわゆる軽便鉄道規格というやつである。その時に私の頭の中に、今は三岐鉄道が運行している北勢線のことが蘇る。あの路線もそもそもは近鉄の路線で、西桑名駅は桑名駅と離れたところにあった。その形態と酷似している。

 

 実際にホームには見覚えのある小さな車両が停車している。ここの車両は三両編成だが、両端の二両と中間車が明らかに異なる形式になっており、両端はクロスシート車両で中間車がロングシート車両である。ホームは一面二線式になっており、八王子行きと内部行きがそれぞれ左右交互に発着するようで、私が駅に到着した時に停車していたのは八王子行きだったので、これに乗車する。

    

 路線は住宅地の中ののどかだが狭っ苦しいところを抜けていく。軽便規格なのでスピードは全く出ないがやはりよく揺れる。途中の日永駅はV字型ホームになっており、ここで内部方面からの車両と待ち合わせると、次の駅が終点の西日野駅である。八王子線は単線路線だが、短いために途中で行き違いはなく、単編成が往復をしている模様である。ちなみにかつてはこの西日野よりもさらに先の伊勢八王子までつながっており、それが八王子線の名称の由来だが、1974年の豪雨で西日野以遠が不通となり、そのまま廃線になったという。

  西日野駅

 西日野駅前はまさに郊外の古い住宅地という趣。かつてはこの辺りには造り酒屋が多くあったと聞いているが、いかにもそのような風情のある町である。このまま引き返しても良いのだが、一カ所立ち寄るところがあるので駅を出る(と言っても無人駅である)。風情のある町の路地をうねうねと抜け、10分ほど歩いたところにある古寺・顕正寺。ここには鈴鹿にあった神戸城の大手門が移築されているという。神戸城は織田信長の三男・織田信孝(神戸信孝)の居城であったが、プライドの高かった信孝は権力者となった秀吉に刃向かって自刃に追い込まれている。その後、神戸城自身は城主を替えて明治まで存続したが、廃城後に解体され、その際に大手門がここに移築されたという。確かに寺の規模を考えると立派に過ぎるという感のある山門であり、信孝のかつての居城の大手門としてふさわしい威風がある。

  神戸城大手門

 大手門の見学を終えて駅に戻ってくると、1時間に2本の列車をしばし待つことになる。ようやくやって来た列車に飛び乗ると、今度は日永で下車、となりのホームで内部行きの列車を待って乗り換える。内部線も八王子線と同様に単線だが、距離があるので二駅先の泊で行き違いがある。この路線は二編成が入れ違いで運行されているようである。

    日永で乗り換え

 終点の内部は特に何があるというところではない。ここから先へはバスも出ているようだが、特に興味もないのですぐに引き返す。こちらの路線の方が八王子線よりは利用客が多いようで、夕方という時間帯もあるのかもしれないが、車内はそこそこの混雑をしている。ただご多分に漏れず、この沿線もモータリゼーションは進行しているし、三重交通が四日市からのバスも走らせており、この路線の前途も洋々とはとても言い難い状況にありそうではある。

    内部駅

 四日市に戻ってくると急行で伊勢若松まで移動、ここからは鈴鹿線の視察である。鈴鹿線は標準軌の路線であるので名古屋線と同じホームで接続できるが、運行自体は鈴鹿線内で完結しているようである。鈴鹿線のホームに移動すると待っていた車両に乗車、まずは終点の平田町まで。そもそも伊勢若松周辺自身が大きな町ではないので、沿線はすぐに田んぼの中といった光景になる。何もない無人駅の柳駅を過ぎると、目の前に立派な高架が見えてくるのが伊勢鉄道。まさに田んぼの中を一直線に突っ切っている。こんなところを通っているのだから、沿線での乗り降りが多いわけがなく、あくまでショートカットコースとしてのみ大きな意味がある路線なのに、この路線を切り離してしまった国鉄ってやはりかなりの馬鹿としか思えない。

    平田町に到着

 伊勢鉄道の高架をくぐった辺りから民家が増え始め、ちょっとした町になった辺りが鈴鹿市駅。ここはかつての神戸城の城下町でもある。ここからは沿線には一応住宅が続くようになり、終点の平田町は内部や西日野よりはかなり立派なターミナルとなっているし、一応は駅前に商店などもある。

  鈴鹿市駅で途中下車

 特に平田町には用はないので、平田町で引き返すと鈴鹿市駅で途中下車する。ここからは「神戸城」を調査しようという目的。鈴鹿市駅から神戸城の方向を目指して歩くが結構距離がある。町にはかつての水路の跡などもあり、寺社が結構多いなど、何となくかつて城下町の面影は残っている。路地を縫いながら神戸城には歩くこと20分弱で到着。かつての城域のほとんどは今では高校の敷地になっており、本丸の一部のみが公園となってひっそりと残っているだけである。かつての堀跡によると思われる水路もあるものの、これも後世に手を加えられたものと思われ、明らかに往時の堀よりは幅も狭くて浅いものである。

  神戸城縄張り(現地案内看板から)

 本丸の石垣上は広場のようになっており、案内看板が建っているだけであるが、周辺には石垣や当時の土塁と思われるものが残存しているし、本丸隅には天守台の跡も残っており、往時の威容の片鱗をうかがわせはする。ここの城主であった織田信孝は、秀吉に対する恨みにはらわたを煮えくりかえらせながら切腹を遂げたという。その辞世の句は「昔より主討つ身の野間なれば 報いを待てや羽柴筑前」と伝えられている。秀吉に対する恨みがストレートに現れた句であるが、たださすがにここまで露骨すぎると本当の話とは思いにくく、おそらくは後世の創作だろう。信孝がいかに強烈な恨みを秀吉に抱いていたかは容易に推測がつくことから、後世の人間がそのことに思いを馳せたのであろう。

左 本丸西側の水路  中央 その奥に本丸石垣が見える  右 近くで見る本丸石垣

左 本丸上は広場  中央 その隅に天守台がある  右 天守台上

左 石垣はかなり無骨  中央 本丸東部は高校の敷地になってしまっている  右 本丸南部の土塁跡

 神戸城の調査を終えると、再び鈴鹿市駅に歩いて帰ってくる。しかしこれは明らかに私の体力的には限界を超えていたようである。駅に戻ってきた頃に完全に足が終わってしまう。この後、津まで移動したものの、夕食を食べに繰り出す体力も気力もなく、結局はホテル近くのラーメン屋で夕食を終えると、この日は早めに床に就いたのであった。

  

☆☆☆☆☆

 

 翌日は生憎の雨。と言うかかなりの広範囲に渡って豪雨の模様である。今日も予定をいろいろと考えていたが、これはかなりの見直しを余儀なくされそうである。とりあえずホテルで朝食を摂るとやや遅めの出発。しかしホテル前からいきなりの豪雨で駅前ホテルであるにも関わらず、駅に到着するまでにずぶぬれになる。

 

 津からは鳥羽行きの急行に乗車する。今日の予定はとりあえず賢島まで行こうというもの。以前に鳥羽には行っているものの賢島までは行っていないし、近鉄も松坂までしか乗ったことがないから沿線の視察も兼ねている。

 

 鳥羽行きの急行はかなりの混雑。ただ伊勢中川に到着すると半分ぐらいの乗客が下車する。さらに松坂に到着すると八割方の乗客が下車。そこから先は車内は閑散とする。

  車内は閑散としている

 松坂でJRと分かれると、そこからは伊勢にかけて田んぼの中を走行する。伊勢の手前でJRと再会すると今度は山の中へ。そしてもう一度JRと再会した時が鳥羽の手前である。松阪に伊勢と沿線に拠点は抱えるものの、沿線自体の人口は決して多くはなさそうな路線である。

 鳥羽で急行を下車すると、同じホームの先端まで移動して賢島行きの普通列車に乗り換える。しかし雨はやむ気配もなく降り続いているし、足の方は歩くだけで激痛が走る状態と、たったこれだけの作業が予想外の重労働になってしまう情けなさ。

  豪雨と体調不良で惨々である

 賢島行き普通は二両編成のワンマンカー。途中の無人駅では車内で改札をすることになるが、そもそもそれらの駅では乗り降り自体がほとんどない。さすがにこの悪天候では観光客はもちろん、地元民の乗車もほとんどない。

 鳥羽駅を出るとすぐに右手に岩山が見えてくるが、そこは鳥羽城だった場所である。鳥羽城は水軍で知られる九鬼氏の本拠の城で、大手が海側を向いていたことで知られている。実際にこうして目にしてみると見上げるような断崖で、この上に城郭を築いたことは実に自然なことのように思われる。なお最近になって地元がこの城跡の三の丸を再整備したとの情報を入手していたが、実際に列車からちらっと見えた印象でもかなり格好良くなっているようである。これはやはり訪問の必要がありそうだ。

 鳥羽−賢島間は志摩線ということになるが、その名前からイメージされるような海の風景は全く見えず、ひたすら山の中を走る路線である。沿線には所々に集落はあるが、やはり人口がそんなに多いという印象はない。やはり賢島への観光がメインの路線であるようである。特急の運行も多く、途中で特急に追い越されたりすれ違ったりなどが数回あり、なんだかんだで40分ほどを要して賢島へと到着する。

 

 賢島はいかにも観光地の駅。何やら人だかりが出来ていると思ったら、水族館からペンギンが一日駅長としてやって来ている模様。ただ彼はタマ駅長ほどには任務に慣れていないと見え、フラフラと終始落ち着かない様子である。

  ペンギン駅長

 本来なら駅の周辺を見学したり、遊覧船に乗るという手もあるのだが、今日は生憎の天候である。外をうろつく気もしないのでさっさと鳥羽にまで戻ることにする。普通列車の発車時間を見るとかなり先だし、あの長い行程をちんたら帰るのも精神的にしんどいしということから、特急で一気に鳥羽まで移動することにする。

   

 乗車したのは名古屋行きの特急。いかにも眺望を意識して大きな窓を持っているが、残念ながら今の天候では眺望は皆無。また志摩線は線形の悪さもあって速度も出ず、特急でも30分ぐらいはかかることになる。

 

 鳥羽駅で下車するとトランクをロッカーに収め・・・ようとしたのだが、近鉄のロッカーはJRのロッカーよりも微妙に小さいのか、いつも入れている300円のロッカーだとトランクが収まらず、400円のロッカーを使わないといけない。せこいぞ近鉄。

 

 とりあえず身軽になると、「鳥羽城」を目指す・・・つもりだったのだが、駅を出た途端にとんでもない嵐に遭遇する。横殴りの風で傘をまともにさせない状況。以前の北陸遠征で強風のために傘を一撃で粉砕されたことに懲りて骨の強さに重点を置いて新しい傘を購入していたので、今度は傘が粉砕されることこそなかったが、なんにせよこの状態では傘などは役に立たない。これは諦めた方が賢いかという考えが頭に浮かぶが、列車の中から見た風景が頭をよぎると、やはり好奇心の方が勝ってしまう。結局は腹をくくってずぶ濡れになりながら山を登っていくことになる。鳥羽城は海辺にそそり立つ山だけに海から吹き付ける風が半端ではない。途中で傘をさすことを断念して雨を浴びつつ前進。

左 北側に階段が出来ている  中央 上がると曲輪跡と思われる広場  右 奥の遊具になっている部分をさらに登ると

左 その上も多分曲輪跡  中央 前方に本丸が見えてくる  右 左を見ると七段石垣が

左 その石垣の下が三の丸広場  中央 本丸虎口と思われる部分  右 本丸跡は小学校のグラウンドになっている

 北方から整備された階段を上ったところは公園になっており遊具などが設置されている。どうやらここは曲輪跡のようである。さらにもう一段あり、ここからでもかなり海の方を見渡すことが出来るが、前方を見るとかなり小高い部分があり、その上が本丸のようである。そこでとりあえず本丸を目指してさらに登る。すると左方に複数段になった石垣が見えてくる。この辺りが最近に整備された三の丸と七段石垣のようである。この上に本丸があるのだが、雨はいよいよひどくなってくる。本丸上はかなりのスペースがあり、現在は小学校のグランドになっているようである。かつてはここに天守台もあったようだが、その痕跡は残っていない。ここまで登るとかなりの高台であり、伊勢湾を見下ろすには良い立地となっており、伊勢湾を支配する九鬼水軍の本拠としては格好の城郭であると言って良いだろう。

 

 やはりここからが一番絵になるか

 ただ雨はますますひどくなるし、風も吹き止む様子がない。さらには足下までぬかるんできて怪しくなるしで、これ以上の滞在は不可能と判断して撤退することにする。とりあえず七段石垣の横に整備された階段を下り、三の丸でしばし雨宿り。ここに立つとまさに見上げるような断崖。

 

 駅方面に引き上げると、とりあえず昼食のための店を探す。最初に目についた店は有名なのか行列が出来ている。しかし私には昼食のために行列を作るという価値観はない。それにある程度以上の規模の都市の場合、行列をする店に並ばなくても、大抵はその近辺にその店と同等かそれ以上の店があるという法則がある。つまりこのような場合は、近辺でそこそこ昔からやっているような店を選べばそうはずれもないのである(駄目な店だとさっさと淘汰されている)。大体行列店なんてのは、大抵は「るるぶ」に載っていたとか、何かのテレビ番組で紹介されていたなんてだけで、味も分からない野次馬が殺到しているだけという場合が大抵である。地元民などからすれば「なんであんな店があんなに混むの?」という例が実に多いとか。

 

 で、私が目をつけたのは「天びん屋」という店。注文したのは「エビフライと手こね寿司のセット(1900円)」

 

 さて料理を待つ間に改めて自分の格好を見てみるとひどいものである。雨宿りの間に少しは乾かしたと言っても全体的に濡れ鼠だし、カメラなんかも半水没状態でフォーカスリングのゴムがふやけて伸びかかっている状態。最近は日頃の酷使に疲れ果てたのか、オートフォーカスが狂うなどの不調が頻発しているだけにやや心配である。それに今の山登りが最終的なとどめとなって、足が完全に終わってしまっている。

 

 そのうちに料理が運ばれてくる。まずエビフライは(小)と言っていた割にはなかなか大ぶりで立派。エビの質も良し。寿司の方は中にも刻んだ漬けマグロが入っており、意外にボリュームがある。味付け的に私の好みよりは酸っぱいのが難だが、総合点としてはまずまず。ここでふと隣のテーブルを見ると貝焼きの盛り合わせを食べている。これが非常にうまそうだったので、「焼大アサリ(1000円)」を追加注文する。

 

 これが実に美味。貝からにじみ出たエキスがえも言えぬ旨味を湛えており、まさに恍惚の世界。やはりこういうシンプルな料理の方がもろに素材の善し悪しが出る。

 

 十二分に海の幸を堪能すると、再び雨の中へ。しかし事態は好転するどころかさらに悪化の一途を辿っている模様。結局はあまりの荒天の上に、足が動かない状態ではこれ以上どうしようもないと判断。とりあえず土産の赤福だけを買い込むと、当初の予定をすべて破棄してこのまま近鉄特急で帰途につくことにしたのであった。

 

 結局は予想を超える悪天候と、私自身の身体のもろさのせいで、またしても予定のすべてをこなすことなく途中撤退となってしまった。そういう点ではいくらか後悔の残る遠征となってしまった。とは言うものの本遠征で三重方面の宿題はかなり解決を見たことになる。また近鉄の遠方の支線を中心に視察を終わらせたことで、近鉄も残るは南大阪線系の狭軌ゾーンと半独立路線の田原本線を残すのみとなり、完乗もかなりそこに見えてきた・・・って、私は鉄道マニアではないはずなのだが・・・。 

 本題に戻ってみると、全く予定外でありながら一番堪能できたのはヤマザキマザック美術館であった。ここの訪問などまさにハプニングに近いものであるのだが、ある点では本遠征の一番の目玉であったと言って良い。こういうことが起こるから遠征を止められないのである。

  

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