展覧会遠征 九州周遊編
さていよいよ大型連休となった。以前にも言ったように、今年は九州・東北地方強化年間となっている。ただこれらの遠隔地域を攻略しようと考えると、必然的に長期大型遠征とならざるを得ない。今まではGWは混雑が必定だからと遠出を避けてきた私であるが、勤勉なうだつの上がらないサラリーマンである以上、やはりこれらの大型遠征を実行しようと考えると、どうしてもGWなどの大型連休の時期に限られてしまう。そこで今年の大型連休は懸案の九州大型遠征を実行することと相成ったのである。
とは言うものの、薄給の身では例によって交通費の削減は至上課題である。そこでGWでも関係なく使用できる方法として周遊切符を利用することと相成った。今回は九州全域に渡っての移動を行う予定であるため、九州ゾーンの切符を利用することにした。これで九州全域の特急を利用可能であるが、気がかりは自由席しか使用できないこと。去年のシルバーウィークでの特急しなのでの悪夢(去年9月の長野・高崎遠征参照)が頭をよぎる。多くの帰省客が未だに1000円の高速に流れてくれることを祈りつつ、後は運を天に任せるしか仕方ない。
さてGWを目一杯活用するため、例によって29日の早朝出発である。早朝の新幹線に乗り込むと、一気に小倉まで移動する。さすがにGWだけあってレールスターの指定席はほぼ満員である。
早朝出発の疲れでウトウトしているうちに小倉に到着する。小倉からは特急ソニックでまずは大分まで移動である。ホームに乗客がズラリなんて状況だったら嫌だなと思っていたが、幸いにしてそう多くの乗客はいないようである。しばらく待った後に青ソニックこと883系が到着する。ソニックは白ソニックこと885系もあり、こちらは先の北九州遠征で乗車しているので、これで両タイプのソニックに乗車したことになる。設備的にはやはり新鋭の白ソニックの方が良いようであるし、走りについても青ソニックの方がギクシャクした印象がある。
883系ソニック
ソニックに乗車すると車内販売でソニック弁当(1000円)を購入。スケジュール的に今日は昼食をとれない可能性が高いので、早めの昼食兼朝食である。ソニック弁当はごく普通の幕の内弁当でこれという特徴が皆無。まずいとは言わないが、特にうまいとも感じない。少なくとももっとご当地色を出した方が良いと感じる。
ソニック弁当
前回訪問した中津を過ぎると、ここから沿線はいよいよのどかな雰囲気になってくる。柳ヶ浦を越えて次は宇佐神宮で有名な宇佐。なお宇佐神宮は道鏡の御神託事件など歴史にも絡む有名な神宮であるが、その名称から「うさうさ神宮」と呼ばれて萌え神社にされてしまったり、「USA神宮」と書かれてアメリカの神社にされてしまったりなど、なにやらおちょくられることが多い。
宇佐を越えると国東半島の根本を横断するので沿線は山の中である。それを抜けると城下町杵築に到着。特急停車駅なので大都市かと思っていたら、山間の小集落というイメージなので驚く。杵築には杵築城があるはずなのだが、それがある城下町はこの駅からはかなり距離があるよう。やはり車でないと訪問はしんどいか。
杵築を過ぎて山間部を抜けるといよいよ別府湾が見えてくる。この辺りまで来ると突然に南国ムードが漂い始めて辺りもにぎやかになり始める。別府はいかにも古い観光都市というイメージで、賑やかであるが雑然として猥雑なムード。ここで大半の乗客が下車すると、列車はそのまま大分を目指す。私は大分と別府は陸続きというイメージがあったのだが、実際には海と山に挟まれた隘路で遮断されており、両市街地は完全に分離しているようだ。
大分は典型的な地方都市というイメージ。私としては嫌いではない雰囲気である。ただ今日の目的地はここではない。ここで普通列車に乗り換えると臼杵を目指す。今日の宿泊予定地は宮崎であるが、鉄道マニアではない私としては、このまま日豊本線を延々乗り続けなんてのは性に合わない。そこで臼杵城を見学してやろうという考えである。
大分で普通列車に乗り換え
臼杵駅に到着すると、向こうに小高い台地のようなものが見えている。あれが「臼杵城」のようである。今では市街地の中に孤立している印象だが、当時はここは海に浮かぶ島だったという。九州の覇者・大友宗麟が晩年の居城を構えたのがこの地である。下から見上げるだけで断崖に囲まれた要害であることがよく分かる。キリシタン大名である宗麟は、この地にキリスト教徒の楽園を建設しようとしていたと言われているが、台頭してきた島津氏に圧迫され、最後は秀吉に泣きついてようやく豊後一国を保つところまで衰退してしまう。果たして晩年の宗麟の胸中にはいかなる想いが飛来していたろうか。ちなみに大友家衰退の原因に、宗麟がキリスト教に入れ込みすぎたことによる家中の対立があることは皮肉である。残っている記録でも宗麟は収集癖があったことなどが知られており、推察するにいわゆる「オタク」型の人物だったように思われる。キリスト教に対してもオタクの特性(凝りだしたらきりがなくて極端)で深入りしすぎたのではないかと私は見ている。
臼杵駅前にある仏像
ロッカーにトランクを放り込むと、駅に近い卯寅口の方から本丸に登る。当時はこちらは海側のはずだから、裏手の船口だったのだろう。物資の搬入及びいざという場合の逃走ルートとしての使用が考えられる。
左 臼杵城遠景 中央 間近から見上げる断崖 右 神社の参道筋の入口 卯寅口は右側 卯寅口 こちらはいわゆる船口の模様 卯寅口門脇櫓の横を抜けて本丸に登ると、お約束通りそこは神社になっている。本丸はそこそこの面積があり、天守台跡も残っている。西側の二の丸との間には深い空堀が掘られてあり、石垣が見られる。この辺りはなかなか壮観である。
左 本丸入口の門跡 中央 本丸と二の丸の間の空堀 右 天守台 左 二の丸 中央 二の丸から見下ろす町の風景 右 大手口の櫓門 二の丸跡は広大な公園になっており、ここにも神社がある。また大友宗麟が所有していた大砲・国崩しのレプリカも展示されている。島津氏の包囲下で宗麟はこの大砲を抱えて徹底抗戦したということだが、現実にはどの程度の威力があったのかは不明である。
国崩しのレプリカ
大手門側は櫓門などが復元されており、一番城らしいところ。またこの先にある武家屋敷とともに観光整備を進めようとしているのか工事中であった。なかなかに立派な城であるので、これは方向として正しいだろう。
大手門周辺は整備工事中
徒歩でプラプラと臼杵駅に帰ってきた時には1時間後。予定通りである。ロッカーからトランクを回収すると、特急にちりんで宮崎を目指すことにする。にちりんは3両編成の485系電車。そこそこの混雑だが、難なく座席を見つけることができた。485系のにちりんは、やはりソニックと比べると旧型車両という印象は拭いがたい。また走行速度も特急にしては遅く、途中停車をしないという意味しか持っていない。それに概ね複線区間である小倉−大分間を走行するソニックと違い、にちりんが走行するのは日豊本線の単線区間。そのために無闇矢鱈に行き違い待ちが多く、そのことがさらに遅さ感に拍車をかけることになっている。
特急にちりん
にちりんは長いトンネルを抜けると津久見、しばらく走行すると佐伯に到着。実はここにも佐伯城という山城跡があるので訪問したいところだが、駅から遠くてアクセスの便が皆無なので、ここは車で訪問しないと無理。これも杵築城などと共に将来の課題である。
佐伯からは内陸部の山の中になる。ただ沿線の山が細い杉の木が密集しているのが気になる。多分、戦後に植林後に放置されたままなのだろう。実際に表土ごと崩壊したと思われる斜面が数カ所あったが、それも放置されたままであった。日本各地で見られる山の荒廃である。やはり農業と共に林業の再生も必要である。
リニア実験線の高架
山から出て都会になったと思えばそこは延岡。ここにも延岡城があるが、これも今後の課題。路線はここから海沿いをひたすら走ることになる。ただ単線であるために行き違い待ち多くて、やはりかなりかったるい印象の運行である。美々津からはリニア実験線跡の高架が線路に併走する。この辺りからは南国ムードがいよいよ強くなってくる。やがて都会に到着したと思えば宮崎である。なお今日の目的地は宮崎であるが、ついでだから宮崎空港までこのまま乗車する。宮崎を過ぎると次の南宮崎で日南線に入るが、この辺りは沿線はギリギリまで民家が接近しておりかなり狭苦しい。次の田吉ですれ違い待ちを行うと、ここから宮崎空港線に入る。と言っても次の駅が宮崎空港駅。この路線は日本で一番短い路線となっている。
宮崎空港駅はバスターミナルの反対側
宮崎空港駅はターミナルビル前の西端にあり、改札を抜けて階段を下りるとそこはターミナルビルの真ん前である。空港内はかなりの混雑。特急で小倉から大分まで1時間半、大分から宮崎まで3時間以上、これを考えると宮崎県民の空港利用が多いのも頷けるというものである。確かにここは空港は不可欠だ。宮崎県民の移動は、九州外には飛行機で、九州内は高速バスというのが定番だとか。確かに大分−宮崎間をもう少し高速化しないと、鉄道はかなり分が悪そうである。
宮崎空港にはいずれまた来ることもあると思うが(恐らく再び宮崎を訪問する場合には飛行機利用になるだろう)、今回は空港には用はないので、ここからバスで宮崎に戻ることにする。宮崎市街の中心部であるデパート前で下車すると、ここでバスを乗り換え、宮崎県立美術館を目指すことにする。目的の美術館は、図書館や文化センターが隣接している文化公園内にある。
宮崎県立美術館
私の訪問時には常設展のみであり入場は無料であった。
新収蔵品では瑛九の作品などが多数あったが、私の印象に残ったのは久野和洋の「二本の樹」。端然と伸びている樹木の姿が存在感がある。
収蔵品展示の方ではマグリットの「白紙委任状」「現実の感覚」の二種が存在感あり、また山内多門の端正であるが力強い日本画が私の好みに合致。コレクションになかなか良品ありと見た。
美術館の見学を終えると再びデパート前まで戻ってきて、ホテルにチェックインすることにする。今回の宿泊ホテルは「ホテルマリックス」。例によって選択基準は安価な宿泊料及び大浴場である。とりあえずホテルにチェックインして人心地着く。
今日はかなり早めの昼食代わりにソニック弁当を食べただけで、やはり実質的には昼食抜きに近いためにかなり腹が減ってきた。ここらで夕食にすることにする。調査するとホテルの近くにフレンチ店があるというのでそこを訪れることにする。訪ねたのは「レストラン花こよみ」。ディナーコース(3900円)を注文する。
まずはオードブルからこれは海老、生牡蠣に生ハムのクリームチーズ、サーモンのクレープ巻である。いずれもなかなかにうまいが生牡蠣がうれしい。
スープはカボチャのスープのカプチーノ風。口当たりが柔らかくて甘みがあるスープが美味。
メインの一皿目は魚料理。これは地元の魚であるオオニベを使用しているらしいが、これが白身の魚でそれでいて味に力があり非常に美味。またかけられているソースから添えられている麦までバランスが最高でうっとりするうまさ。
メインの二皿目は肉料理。宮崎産黒毛和牛のステーキ。肉が最高なのは言うまでもないが、添えられている野菜類がこれまたうまい。トマト嫌いの私がトマトのうまさに舌を巻いたのである。
デザートは自家製アップルパイとプリン。これもオーソドックスにしてうまい。
宮崎の夜はフレンチを堪能したのであった。ボリューム的にはやや少なめだが、例によって「優れた洋食ボリューム以上の満足感を与える」ということで空腹を感じることはない。
夕食を終えるとホテルに帰還、大浴場で疲れを癒す。今日はそんなに歩いたつもりはないのだが、それでも1万3千歩。まだまだ先が長い遠征であるので、明日まで疲れを残すわけにはいかない。旅行記を手早く執筆すると床に就く。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時に起床するとホテルで朝食を済ませてから外出する。今日の予定は日南線による大隅半島巡回である。ホテルを出ると宮崎駅を目指す。宮崎駅は市街からやや離れた位置にあり、デパート前近辺が宮崎市の中心街だとすると、やや辺鄙なところにある。また宮崎駅に向かうバスの本数も決して多くはなく、到着時間が読めないために早めにホテルを出たら到着が早くなり過ぎ、しばし宮崎駅で待つ羽目になる。
しばらく待った後に到着したのが二両編成のキハ47。日南線は単線の非電化路線なので、古色蒼然とした気動車である。なお日南線では南郷まで観光特急の海幸山幸が運行されているが、行きでこれに乗ったのでは飫肥への到着が昼頃になって時間がかかりすぎるので、往路は通常車両に乗ることにしたのである。
乗車率30%程度の車両は南宮崎で日豊本線と分かれると南下していく。途中で遠足らしい小学生が一斉に乗り込んできて車内が混雑したりもしたが、彼らが途中の子供のくにで下車すると、車内は再び閑散とする。彼らは小学生にしては比較的乗車マナーが良かったように思われたが(キチンと事前に躾られているのだろう)、それでも乗り降りは大混乱であった。遠足に列車を使う場合は引率の先生も大変である。だんだんと学校の遠足が貸し切りバスが中心になってきたわけが頷ける。
日南線路線図(出典JR九州HP) 沿線は典型的なローカル線である。乗車以前には日南線は海沿いを走る路線というイメージがあったが、案に反して沿線は山岳地帯が多い。海が見えたのは内海を過ぎた頃、しかしそれもまたすぐに山の中に入ってしまう。
最初の目的地は飫肥。ここには100名城の一つである飫肥城がある。1時間ちょっとを要して到着した飫肥は山の中の盆地と言った場所。駅前でレンタサイクルを調達する予定だったのだが、管理人不在とかで不可だったのでやむなくタクシーで飫肥城の大手門前まで移動する。
飫肥駅
「飫肥城」は戦国時代を通じて島津氏と伊東氏の間で争奪戦が繰り広げられた城である。伊東氏は一旦没落し、飫肥城は島津氏の支配下に落ちたものの、その後に伊東祐兵が羽柴秀吉に仕えて九州征伐に参加した功で飫肥が再び伊東氏に与えられ、関ヶ原で東軍についたことで伊東氏は幕末まで飫肥の領有を全うしたという。合戦では負けたものの、その後の政治的判断がうまかったということか。
飫肥城大手門
この辺りが一番風情がある
飫肥城は私が想像していたよりも立派な城。復元された大手門の威風もなかなかだが、その前の空堀も存在感がある。大手門をぬけると復元されたと思われる城壁が正面から迎えてくれる。本丸はかなり広大であり、現在は小学校となっている。その西部に本丸よりも高い位置に松尾の丸と旧本丸がある。旧本丸とは下の本丸ができるまで本丸だったところとか。ただしシラス地盤のこの辺りの土地は非常に脆く、旧本丸も地震で何度も崩れたり亀裂が入ったりしたので、下に新しい本丸を作って移転したのだとのこと。確かに戦時には上の本丸の方が堅固であると思われるが、太平の世になると堅固さは必要でなく、むしろ下の方が便利が良かったろう。
松前の丸と復元された御殿
松前丸には復元された御殿が建っているが、旧本丸跡は鬱蒼とした杉林になっている。裏手には門があって、そこをくぐると下まではかなりの高さがある。またこの旧本丸の石垣が切り込みハギの高度なものであり、この石垣と杉林の調和が一種の独特の空間を生み出しており、聖域的イメージさえ漂っている。にも関わらず、城の本丸跡ではお約束のような神社がなかったのがむしろ不思議に思えたぐらい。
左 この上が旧本丸 中央 旧本丸の入口 右 旧本丸内は鬱蒼としている 左 旧本丸の北の門 中央 そこから見下ろす風景 右 この学校が本丸 飫肥城の見学を終えると城下町をプラプラ。飫肥城下には家老屋敷だったという豫章館、ポーツマス条約締結で活躍した小村寿太郎の記念館と復元生家、さらには商家屋敷などもあって趣がある。観光バスでやって来たらしい団体客もウロウロとしており、そういう意味では「定番観光地」の雰囲気がある。飫肥は「日向の小京都」と呼ばれているとか。そう言えばこの小京都って、全国に何カ所あるんだろうか? 萩や津和野も小京都を名乗っていた気がするし。
小村寿太郎記念館と武家屋敷
さて駅に戻るのだが、バスの便はないし、タクシーを呼ぶと高いしということで、結局は飫肥駅までは徒歩で戻ることにする。駅から飫肥城までは公称徒歩15分ということになっているが、私の足では15分以上かかった。ちょっとした運動である。それにしても最近はこの「行きはタクシー、帰りは徒歩」というパターンが多くなっているような。
飫肥での滞在時間は結局1時間半ほど。飫肥駅まで戻ってくると、日南線をさらに奥に向かうことにする。まもなく志布志行きのキハ40型二両編成が到着、それに乗車する。車内は結構乗客が多いが、そのうちのかなりの部分が次の日南駅で入れ替わる。
油津を抜けるとまた南郷までは海が見えるようになる。私は特急海幸山幸がなぜ南郷までなのかが引っかかっていたのだが、この風景を見ると何となく納得する。もし飫肥までなら海幸山幸ではなく、ただの山幸である。
沿線の風景
南郷を過ぎると再び深い山の中に列車は入っていく。それを抜けて平地に出ると串間。ここがちょっとした町で、残りの乗客のほとんどはここで下車して車内はガラガラになる。ここから再び海の近く(と言っても海がずっと見えるわけではない)に出てしばらく走行すると終点の志布志である。志布志は港で有名なところであるが、特に何があると言うような場所ではない。ここから垂水方面にバスが出ていて、垂水から船で海を渡って鹿児島入りすることも可能だが、私にはそのつもりはない。なおこの乗り換えのバス停は駅からかなり離れた場所にあるので要注意。私は実際に歩いてみたのだが、私の乗ってきた列車では乗り換え時間はギリギリであり、途中でモタモタしていたら乗り換えは不可能であった(元より乗る気はないのだが)。しばし辺りをウロウロしたが特に目的もないので、30分後に乗ってきた車両で引き返すことにする。
志布志駅からすぐに引き返してくる 南郷に到着すると途中下車。ここからは特急海幸山幸に乗り換えるつもりである。行きの海幸山幸は出発時間が遅すぎて(飫肥に到着するのが昼過ぎである)、これに乗っていると志布志まで行っている余裕がないので見送ったのだが、帰りの分に乗ってやろうという考え。乗り換え待ちは1時間。その間に食事でも・・・と思っていたのだが、南郷の駅前がこれまた全く何もない。開店祝いの花輪を飾ってある飲食店があるのに、昼休み中なのか「準備中」。海の方角に向かってテクテクと歩いたが、途中で菓子屋はあったものの飲食店はなく、あるのはセブン−イレブンだけ。やむなくセブン−イレブンでパンとコロッケを購入して急場をしのぐことに。悲しすぎる・・・。
南郷で途中下車
結局どうしようもなくなってトボトボと南郷駅に戻ってくると、もう既に海幸山幸が入線しており、車両の脇では南国美人のアシスタントが控えている。40過ぎの独身者としては思わずひるんでしまうような華やかさである。もう乗車できるとのことなので、殺風景な駅舎の中で待つよりはマシと考え、かなり早いが車内で待つことにする。ちなみに海幸山幸には自由席が6席だけあり、かなり競争率が高いと聞いていたのだが、これだと指定席を取らなくても自由席でも楽勝だった(まあ宮崎発の便ならこうは行かないだろうが)。最終的に南郷で乗り込んだのは10人程度。
左 海幸山幸外観 中央 海幸車内 右 山幸車内 左・中央 海幸後部のフリースペース 右 記念乗車証 車両は改造車両でキハ125と記載されおり、JR九州が好きな木をふんだんに使用した内装となっている。元々は廃線になった高千穂鉄道から譲渡されたTR400型だったらしい。シートは1+2のクロスシートで、2の方が海側になっている。車内を見学したりしながらしばし時間をつぶしたところでようやく発車時間。列車は結構揺れるが、シートが良いので往路とは疲れがだんちに違う。列車は南郷を過ぎた海沿いをあえてゆっくりと走って写真タイム。その後に油津に到着するがここで乗り込む乗客はほとんどいない。
油津でかなり長時間のすれ違い待ちをして、次の日南でも乗降客なし。飫肥では20人ぐらいが一斉に乗り込んでくるが、まだ車内にはかなり空席が多い。予約を取るのが困難なくらいの混雑と聞いていたのだが・・・。団体のキャンセルでもあったのか? 今日は一応は平日だからなのか?
左 七つ岩 中央・右 鬼の洗濯岩 海幸山幸はその後も各地の観光要所などを紹介しながら走行、1時間以上かけて宮崎に到着する。観光特急らしく南方系美人のアシスタントによるイベントなどがあったり華やかであるが、記念グッズなどの物販にも力を入れており、かなり商売熱心であるという印象を受けた。綺麗なお姉ちゃんにのせられていい気になっていると、知らない間に財布が軽くなるというのはどの世界でも共通である。なお宮崎駅に到着してから判明したのだが、どうやら今日の海千山千・・・じゃなかった、海幸山幸は帰りの便だけが特異的に乗客が少なかったらしい。今日の便でも行きは満席だし、明日以降の便もほぼ満席の模様。やはり帰り便よりも行き便の方が混雑する列車のようだが今日は特別だったようだ。運が良かったと言うべきだったんだろうか。
宮崎駅に到着すると明日のための調査としてホテルまで歩いて移動。どうやら徒歩で20分ほど必要であることが判明したところで、宮崎に里帰りしている同僚のH氏に電話で連絡を取る。
この後はH氏の車で青島や堀切峠などの日南海岸の名所及び宮崎版バブルの搭ことシーガイアのホテルを案内してもらったのだった。日南線の本数がもう少し多ければ、途中下車してこれらの観光名所(シーガイアは少し違うか)に立ち寄ることも可能だが、やはり1時間に1本あるかないかというダイヤではそれは困難(JR九州もそのことは分かってはいるらしく、海幸山幸と同時にバスを運行して連携した観光を提案しているが)。宮崎も地方都市の例に漏れず、車社会化がかなり進行していることを痛感したのである。青島、堀切峠ともに風光明媚なところだが、晴天にもかかわらず景色がかなり煙っていたこと(黄砂が原因らしい)、もう既に夕闇が迫りつつあることで、H氏によれば「残念」な状態だったらしい(私は十分に堪能したが)。
なおこの日はH氏の実家で冷や汁や地鶏などのご当地メニューをご馳走になったのであるが、既に身体に疲労が溜まりすぎていて食欲がイマイチ。昨日はほとんどが列車に乗っていただけなので1万3千歩だったが、今日は飫肥訪問などが効いたのか1万7千歩も歩いていてかなり身体に負担が来ていたようだ。残念ながら早めにお暇してホテルに帰還、入浴後はバタンキュー状態になってしまったのである。
☆☆☆☆☆
翌朝は5時過ぎの起床。朝6時からホテルで朝食を摂ると、7時前に早めのチェックアウトをして駅に向かう。昨日はここでの所要時間を計るためにわざわざ宮崎駅から徒歩でホテルに戻ったわけであり、予定通り特急きりしまが到着する時間以前に十二分な余裕を持って駅に到着する。
きりしま3号は三両編成。車両は一昨日に乗ったにちりんと同タイプである。GW突入で車内はそこそこ混雑しているが、それでも難なく座席は確保できる。乗車率としては50%といったところか。
列車はそのまま南宮崎で日南線と分かれると都城方面を目指す。ただこの辺りは深い山でトンネルの連続。車窓風景的には見るものはない。
出典 JR九州HP ようやく山岳地帯を抜けるとまもなく都城。なおきりしまは隣の西都城にも停車するが、明らかに市街の中心はこっちの模様。また西都城を過ぎると線路のすぐ北側に城郭風の建物が見えるが、これは都城歴史資料館。建物自体はいわゆる「とんでも天守」のようだが、敷地自体は実際に「都之城」があった場所で、ざっと見ただけでも地形的に城があるのは当然と思われる場所である。ここを訪問するとすればこれも次回以降の課題。
都之城
都城を過ぎると後は再び延々と山の中で、またも視界が塞がれる。途中で霧島神社を過ぎて再び視界が開ける時には国分に到着。ここと次の隼人からは乗り込み客が多く、あっと言う間に乗車率が100%に達する。
桜島が見えてくる
ここからは路線は鹿児島湾沿いを走行することになる。桜島が車窓との相対位置を変化させながらドンドンと大きくなっていく。ふと併走道路を見ると、鹿児島方面行きの車線が延々と渋滞になっている。今日からGW本番でとんでもないことが起こっているようである。
列車は間もなく鹿児島駅に到着。一応日豊本線はここまでということになるが、この列車の終点は隣の鹿児島中央駅である。実際、鹿児島中央駅の方が鹿児島市街の中心にあり、鹿児島駅は辺鄙で寂れている印象。私も鹿児島中央まで乗車する。
鹿児島中央駅に到着
鹿児島中央駅に到着するとロッカーにトランクを放り込んで鹿児島市街に繰り出すことにする。駅前は晴天であることもあって南国ムード一色。さてこれからの予定であるが、鹿児島も「路面電車がある街」である。やはりこれを視察しない手はないだろう。一日乗車券を購入するとまずは路面電車の視察から。
鹿児島市電路線図
鹿児島の路面電車は、鹿児島市交通局が運営している市電であり、東は鹿児島駅前から西は谷山までを結んでいる。高見馬場と郡元の間は鹿児島中央駅を回るルートと交通局を回るルートの二重になっている。まずは谷山を目指して郡元行きの列車に乗車する。
車両はパターン通りの路面車両。最近は高齢化対応を考えて低床タイプの車両を入れるところが多くなっており、鹿児島市電でもそのタイプの導入を始めているようだが、今回の私の視察ではそれらの車両には遭遇しなかった。
郡元で乗り換えるとすぐに路線は専用軌道へと突入する。専用軌道に入ると共に車両の速度が増すのだが、路盤があまり良くないのかかなり揺れるので正直なところ乗り心地が良いとは言えない。こちら方面の乗客は先に行くにつれて急速に減少し、終点の谷山到着時には数人になる。
谷山駅
谷山はターミナルになっているが、特に何があるというところではない。ここで折り返すことにするが、こちら方面の車両はいきなり立ち客が出るぐらいの満員御礼である。結局は鹿児島一番の繁華街である天文館通、いづろ通に到着するまではこの状態。逆にそこを過ぎた途端にガラガラになり、最終的に鹿児島駅前に到着した時には、私を含めて乗客は3人であった。
こちらは鹿児島駅
再び折り返して今度は市役所前で下車すると次の活動に入る。次は「鹿児島城」の見学である。鹿児島城は言うまでもなく島津氏の居城であり、100名城にも選定されている。
鹿児島城は山の手前に横に広がっている。その中で一番北側が本丸に当たるところで、ここは石垣と堀の一部が残っており一番城らしいところ。しかし本丸内部は今は歴史資料館が建っていて何もない。また南側の二の丸に当たるところは図書館になっており、ここも遺構はあまり残っていない。
左 大手口 中央 背後の山が要塞だったとのこと 右 二の丸との間の石垣 全体的に九州の雄藩たる島津氏の居城にしてはこじんまりした印象がある。なおこの手の山の手前に構えた城の場合、手前は館で山上に後詰めの城がある場合が多く、鹿児島城の場合も背後の山は要塞となっているとのこと。ただそれでもそう守備力の高い城とは思えない。鹿児島城がこじんまりとしているのは幕府に恭順の意を示すためと言われているが、さらにそもそも島津氏はこの城に籠もって戦うつもりはなかったのではないかと私は推測している。おそらく島津氏は一朝事あった時には鹿児島に通じる峠を軍勢で塞いで防御するつもりで、城下まで攻め込まれたような時には既に負け戦であると覚悟を決めていたのではないか。実際、島津勢は野戦での強さでは定評があったし、鹿児島は峠を封鎖することで国全体を要塞に出来るような地形でもある。
鹿児島城の見学を終えると、これもかつての鹿児島城二の丸内と思われる位置に建っている美術館に入場。
鹿児島市立美術館
私の訪問時には常設展を開催中。コレクションは西欧絵画に日本洋画、さらに地元ゆかりの芸術家の作品。西洋絵画コレクションについては、非常に教科書向きというか、モネ、ピカソなど有名どころの典型的な作品が一渡り揃っているという印象。なかなかコレクションのレベルは高い。また日本洋画も同様に黒田などの有名どころを押さえている。
地元ゆかりの芸術家作品については、私にとってはあまり知った名前はなし。また特に印象に強く残る作品もなかった。
美術館の見学を終えると西郷像などを見てから路面電車で鹿児島中央駅に戻る。これで鹿児島市電も完乗である。本来は鹿児島で昼食を摂るつもりだったが、路面電車視察などで予定以上の時間を要したためにどこかの店にゆっくり入っているだけの時間的余裕がなくなったので、駅で弁当を購入してから先を急ぐことにする。一周しただけで何となくこの町との相性の良さを感じたので名残惜しいが、本遠征では今日中に熊本まで移動するつもりである。鹿児島周辺には未視察地域も多いので、ここはいずれまた改めて訪問することになろう。
鹿児島といえばこの人
鹿児島からは九州新幹線つばめで移動。6両編成の車両である。鹿児島のあまりの混雑ぶりに警戒して到着時に指定席を取っていたのだが、指定席はガラガラ(客が数人)、自由席待ちの客もそう多くないようだったので、完全に無駄な出費になってしまった。内装は木のシートといういかにもJR九州らしい車両。またシートの背もたれが高いので、着席すると完全に視界が塞がれて個室的印象がある。ところでこのシートどこかで見たことがあると思ったら、背もたれの高さこそ違うが、昨日乗車した海幸山幸とそっくりである。
走り始めると驚くのは、とにかく「トンネル アフター トンネル」の状態なこと。鹿児島中央駅を出るや否や10秒もしない内にトンネルに突入し、後は延々とトンネル。途中でまるで息継ぎのように数秒地上に顔を出すだけである。シールド工法によって長大トンネルが掘れるようになって始めて完成できた路線と言えよう。テクノロジー万歳。とは言うものの、さすがにこれではまるで地下鉄。乗車の面白味が皆無である。合理性を追求すると趣味性は犠牲になると言うか、そもそも趣味というのは無駄を楽しむことであるとも言う。今の時代には真の趣味人は育ちにくいと言うことか(趣味人ではなくオタクばかりである)。
仕方ないので鹿児島駅で昼食に購入した黒豚弁当を食べつつこの原稿執筆。この弁当、九州駅弁ランキング3位と書いてあったが、確かにうまい。豚の味噌焼きが旨いのはある意味で当然かもしれないが、高菜が予想外にうまい。
ようやく開けたところに出てきたと思えばそこは川内駅。ここで数人が乗り込んでくるが指定席は相変わらずガラガラである。そして川内を過ぎると再びトンネルに突入する。で、次に地上に出るのは出水駅を通過する時、そして再びトンネル。ここら辺りからは息継ぎの間に海が数秒チラチラ見えるが、とても景観を楽しむというものではない。
左 新八代での乗り換え 中央 新八代駅の在来線入口 右 振り返ると新幹線の新八代駅 やがてまたトンネルから出ると新八代に到着である。新八代では隣のホームにリレーつばめが待ちかまえており、乗客はここで乗り換えになる。自由席ではこの時に席取り合戦が勃発するらしい。ただ私はここで在来線の方に乗り換えなのでこの混乱を尻目にさっさと出口に向かう。在来線の新八代駅は一端改札を出た外にあり、全く別の駅。今から将来に在来線を切り捨てて第3セクターにする時の用意をしているように思われる。
出典 JR九州HP 新八代からは隣の八代に移動する。この時に新八代にたまたま九州横断特急が到着したのでこれに一駅だけ乗車。この列車には明日乗車の予定であるが、事前視察のような形になった。
八代に到着するとロッカーに荷物を放り込んで身軽になる。わざわざ八代にやってきたのはここで「八代城」を見学するため。当初はバスで移動するつもりだったが、バスの時刻まで間があるのでさっさとタクシーで移動することにする。タクシーをつかまえて「八代城まで」と言うと、タクシーの運転手から「何もないところですけど良いんですか?」との質問が。「いや、何もない城はそれはそれで趣があるんです。」などと言いつつ現地に移動。やがて八代城が見えてくるが予想外に立派な石垣が目に飛びこんでくる。思わず「おお、これはすばらしい。」という声が出る私。「そうですか。」となぜかうれしそうな運転手さん。
北門(廊下橋門)と天守台
この八代城もかつて城主が転々とした城である。現在の八代城は加藤氏が建設したものだが、その後に加藤氏が改易になると(当主の加藤忠広の統率力不足によって家臣団に内紛が起こったためとされているが、実際は幕府による有力外様大名潰しの一環であるのは間違いない)、細川氏の支配下に収まったようだ。
左 小天守台 中央 天守台入口 右 天守台上 左 南門方面 中央 本丸内は神社 右 南東方向より 元々はかなり大規模な水城だったようだが、市街地にある城郭の常で、周辺部は埋め立てられてしまって往時の姿は残っていない。現在は本丸部分が神社となっており、これが残存している。なお神社の正面入り口になる南口は明らかに後世に作られたものであり、本来の本丸入り口は東口の方である。また私が入場した北口が裏口になるようだ。
縄張り図(現地看板より)
面白いのは全く何の柵もない石垣の上に上がれること。石垣上をグルリと散策できるわけだが、かなり高い石垣なので若干怖い。天守台などはそのまま残っており、高度もかなりあるので町の眺望を楽しむことが出来、ベンチなども置かれているので、のんびりと休憩中の高齢者の姿なども見かける。この天守台は小天守台を伴う立派なもので、往時には五層の大天守が鎮座していたという。天守台を見るだけで何となくその姿がイメージされる。
見学の心得
なお登り口には「参拝者は足下に注意してください」との記述が。つまりは石垣に登って落っこちて怪我しても、あくまで自己責任でという意味であろう。そもそも当然過ぎるほど当然なことではあるのだが。
本来の大手であった東側には入口の跡があって、今でも橋が架かっている。こちらは大手らしく枡形や櫓門の跡がある。
八代駅 肥薩おれんじ鉄道ホーム
左 博多方面列車 中央 内部は木調 右 この辺りの線形はかなりまっすぐ 一回りの石垣の見学を終えるとバスで八代駅に帰還。ここから本日の宿泊地である熊本に向かうのだが、その前にまたも寄り道。一端三角線を経由してやろうという考えである。三角はかつて島原方面へのフェリーが出ていたところで、観光の拠点の一つとして賑わっていたと言うが、熊本に新港が出来て島原行きフェリーがそちらに移ってからはかなり寂れつつあるとか。
宇土で乗り換えた車両は満員
宇土で鹿児島本線から三角線の普通車に乗り換える。三角線は単線非電化路線なので熊本からディーゼル車がやってくることになる。到着した車両はGWということで二両に増結しているようだが、日頃は単両のトイレなし車両が運行されているようである。増結しているにも関わらず、車内は既に熊本方面からの乗客で満杯であり、三角までの立ち続けを余儀なくされる。三角線は三角半島の北岸に沿った路線だが、沿線は海と山が交互に現れる変化の多い路線。海は有明海らしくかなり遠浅なのが印象的。また途中での乗降はほとんどなく、大半の乗客が終点の三角か一つ手前の波多浦まで乗り続けである。
三角駅の真ん前がフェリー乗り場
三角駅前はすぐにフェリー乗り場と隣接している。と言っても今から海を渡る予定もないのでさっさと引き返す。
熊本に到着した頃には夕方になっていた。路面電車でホテルまで移動すると(宿泊ホテルは例によってドーミーイン熊本である)、チェックインを済ませて熊本市街に繰り出す。まずはやはり「熊本城」。前回の訪問の際には熊本城の東部の石垣を下から見上げるということをしていないので、是非ともそれをしておきたいという考え。路面電車で市役所前まで行ってそこからプラプラ歩くが、こちらの方面は堀が幅広くてかなり立派。石垣も高くていわゆる「扇の勾配」というのを間近に体験することが出来る。つくづく石垣の美しい城である。
もう熊本城の入場時間を過ぎているので、外から見学を済ませると夕食のために町に繰り出す。ただGWのせいでやたらに人が多く、予定していた店はことごとく予約で満員。仕方なので裏通りをプラプラしながら目に付いた店に入店する。
入店したのは「風林火山」という居酒屋。一応地産地消を掲げている。魚類が中心で普通にうまい店。ただ特別な驚きもないと言うのが本音。しばらく刺身などをつついていたが、だんだんと店が込んできて注文品が届くのが遅くなってきたので適当なところで切り上げて店を出る。
ホテルに帰るとしばしまったり、インターネットで明日の戦略を立てたりしながら、原稿の執筆にかかろうとするが、今日は既に二万歩越えでかなり疲労がたまっており集中力を維持できない。さっさと諦めて入浴のために大浴場に出向く(このためのドーミーインである)とこの日は早めに床につくことにする。
☆☆☆☆☆
翌日はかなりの早朝出発となった。今日の予定は熊本駅から九州横断特急で大分方面への移動である。実のところ、熊本からこの特急に乗るだけならそんなに急ぐ必要はないのであるが、念のための事前の根回しである。と言うのは、サイバーステーションでこの列車の指定席の予約状況を調べたところ、かなり早々に指定席は満席となっており、かなりの混雑が予想されたからである。ここで取るべき手は早めに熊本駅に行って自由席乗り場で列車を待つということだが、やはりGWをなめてかかるとと痛い目に遭うおそれがある。さらに万全を期すことにした。この特急は人吉方面から出発して熊本でスイッチバックして別府を目指す。熊本の一つ手前の停車駅は松橋である。そこでそこまで列車を迎えに行こうという考え。こういうことが可能となるのは偏に私が所有している切符が周遊切符だからこそ。さすがに通常切符だとこういう料金の無駄はできない。
出典 JR九州HP 熊本から八代行の普通列車に乗り、松橋で下車する。駅員に九州横断特急の到着ホームを聞くと、そこで列車の到着を待つ。しばらく後に列車が到着。昨日、新八代から八代まで一瞬だけ乗車した車両である。この時点では車内はガラガラ。とりあえず熊本から指定席となる1号車を避けて3号車に座席を確保する。
熊本駅に到着するとやはりというか予想通りホームは列車待ちの乗客で満杯。ここでスイッチバックなので座席をひっくり返すが、その作業中にあっと言う間に車内はほとんど100%の乗車率となる。その後も熊本市内の停車駅で乗客を拾い続け、とうとう乗車率は100%を超える。
左 だんだんと標高が上がってくる 中央 ここにも風力発電があるようです 右 立野のスイッチバックでさらに標高を上げる 乗客を満載した特急列車はひたすら阿蘇の外輪山を目指す。途中で有名な立野のスイッチバックで一気に標高を上げての山越えである。やがて山岳地帯を抜けると、左手に外輪山、右手に阿蘇五岳という風光明媚な風景に出くわす。阿蘇観光の拠点・阿蘇駅で乗客の半分以上が下車し、列車はさらに阿蘇山を抜けていく。こちら側は長大なトンネルで一気に外輪山を突き抜ける。
晴天だが生憎と黄砂のせいでかなりもやっている 阿蘇を抜けて少し走った山の中が豊後竹田駅である。ここで特急を下車すると「岡城」を見学することにする。岡城は堅固な山岳の上に建造された山城で、その発祥は古く源平時代に源頼朝に追われた源義経を迎えるために緒方惟栄が建造したとされている。その後、南北朝時代を経て戦国時代にかけては志賀氏によって拡張され、豊臣時代に中川秀成が移封されてからさらに拡張整備が進んでその形態で明治を迎えたとのこと。例によって明治に廃城となって建造物はすべて破却されたが、堅固な山上にそびえるその立派な石垣は未だに人々を惹きつけており、100名城にも選定されている。また滝廉太郎の荒城の月のモデルになった城としても知られている。
駅でロッカーにトランクを預けると、岡城まではかなり距離があるのでタクシーで移動することにする。城の麓の駐車場のところが入場券売場になっており、入場料を払うと巻物状の案内図をもらうことができる。ここからこの案内図を参考にしながら徒歩で登っていくことになる。
上の地図はこの巻物からです
まずは登城口を登っていくと、大手門跡に到着する。ここを抜けるとかなり広大な空間となっているが、この辺りは家臣の屋敷や御殿などがあった地域になるようである。そこをさらに奥に進むと三の丸になるのだが、この三の丸の石垣が絶壁にそそり立つ威容で、ここの写真がよく岡城を代表する風景としてあげられるところである。
登り口から大手門にかけて 三の丸の石垣
西中仕切を通過して太鼓櫓跡の脇を抜けていくと三の丸に入ることになるが、この三の丸はさらに奥の二の丸ともつながっており、この二の丸に滝廉太郎の像が立っている。この二の丸は突き出た形になっていて辺りの山々を見下ろすことが出来るが、柵などの類がないので少々恐い。そしてこれらの曲輪からさらに一段高い位置にあるのが本丸である。
左 太鼓櫓の横の門を通って 中央 二の丸へ 右 二の丸からの風景 二の丸の滝廉太郎 本丸への階段 本丸は辺り一面を見渡すことが出来るまさに絶景。ただしここも二の丸同様に柵などはないので注意。なお岡城はいかにも堅固な城郭であるが、これらの曲輪自体は特別に大きなものではない(山上なので当然といえば当然だが)。
左 本丸風景 中央 この奥に三階櫓があったとか 右 本丸からの絶景 本丸を降りるとさらに奥に向かう。しばらく進むとこちらにもかなり空間があり廟所や倉跡などがあるが、大半の観光客は本丸で引き返すのか人影もまばらで、また鬱蒼として奥までは立ち入れない状態。またこの辺りはハチなどもかなり飛んでいて要注意。さらに奥に進んで下原御門に到着すると城域はここまで。なおここは今では裏門になっているが、志賀氏の時代にはこちらが大手門だったという。中川氏が新たに現在の大手門を作り、さらに竹田の城下町を整備したのだという。
左 本丸石垣を横に見ながらさらに進む 中央 米倉跡 右 先は何やら鬱蒼としてくる 左 廟所跡 中央 鬱蒼とした中をさらに進む 右 東のどん詰まりの下原御門 下原御門から引き返すと、今度は西の丸の方に向かう。家老屋敷の跡などを見学して西の丸へ。ここら辺りからは、ちょうど三の丸の石垣が向かい側に見える。西の丸跡は呆れるぐらいにだだっ広い広場。ここは藩主の隠居所として作られたのだが、やがてこちらが政務の中心となっていったとか。戦時でなく平時なら、位置的にそれは理の当然であろう。
左 二の丸から西の丸方面を眺める 中央 西の丸方面に向かう 右 西の丸方面から見た三の丸石垣 左 家老屋敷跡 中央 西の丸はただっ広い 右 近戸門跡 西の丸を抜けると七曲がりを一端下り、そこから再び駐車場まで登ってくることになる。これはかなり足へのダメージが大きい。駐車場に到着した時にはヘロヘロである。とにかくこの城は上へ下へと歩く部分が多いので足にはかなり堪える。まさに体力勝負の城であった。
岡城の見学を終えると城下町の散策を兼ねて徒歩で降りてくる。しかしこれは既にかなり足の負担が増えている状態では賢い選択とは言えなかった。イメージしていたよりも駅までは距離があり、下りにも関わらず結果としてはかなりのダメージとなったのであった。
左 歴史街道を抜けて 中央 滝廉太郎記念館 右 こちらは滝廉太郎トンネル 駅までの途中で滝廉太郎記念館と近くの滝廉太郎トンネルに立ち寄る。滝廉太郎トンネルは彼が少年時代によく遊び場にしていたという短いトンネルだが、現在はセンサーを組み込んであり、人が通ると「荒城の月」などの滝廉太郎の曲が奏でられるようになっている。
一応竹田で押さえておくべきポイントを押さえた後は、駅の方向にプラプラと歩きつつ、途中で見かけた「ひらた食堂」で昼食にカツ丼をかき込む。典型的な田舎の喫茶店という雰囲気で特筆すべきもののない店だが、カツ丼自体は私好みの味付けで意外とうまかった。
豊後竹田駅の背後は断崖絶壁
駅に到着するとここで九州横断特急が到着するのを待つ。この特急は朝、昼、夕、夜の1日4本運行であるので、必然的に朝来て昼に帰るか、昼に来て夕に帰るというパターンになる。ちなみに私は前者になる。やがて特急が到着。自由席は乗車率30%といったところ、難なく座席を確保するとそのまま終点の大分まで移動である。沿線は今までの阿蘇の風景に比べると変化に乏しい山間風景でやや退屈。疲れが出てきた頃にようやく大分に到着する。
大分駅は現在高架化のための工事中。ここでの予定はまず大分市美術館の訪問だが、これがまた町からはずれた山の中という辺鄙な立地で、しかもアクセスバスは1時間に1本という「本当に利用して欲しいのか?」と疑うような施設。バスの時刻表によると私が大分駅に到着してすぐにバスが出てしまっていることになっているので、まずは先にホテルにチェックインしようとバス停を通り過ぎたところに突然にバスが到着する。どうやらバスが遅れていたようだ。そこでこれ幸いとそのバスに乗り込む。
美術館は大分市街を見下ろす高台にある。昔なら城でも建てるような立地である。ただとても歩いて登ってくるような気にならないところ。こんなところに施設を作ることから見ても、大分はかなりモータリゼーションが進行しているのだろうと推測できる。
「銅版画の巨匠 駒井哲郎展」大分市美術館で5/16まで
浜口陽三等と日本銅版画家協会を設立して、銅版画の技法を開拓してきた銅版画界の巨匠の展覧会。
初期の作品はかなりオーソドックスな精密銅版画だったのだが、途中から抽象要素の入ってきた意味の分かりにくい作品になっていっている。浜口陽三の銅版画も以前に別の機会に見たことがあるが、どことなく相通じる空気も感じないではない。ただ私にはどちらかというと浜口の作品の方がまだ面白い。
美術館の見学を終えると、次のバスの到着を待つ気にもなれないのでタクシーを呼ぶことにする。タクシーでホテルに直行するとチェックイン。今回の宿泊ホテルはコモドホテル。例によって朝食、大浴場付きのホテル。しかもここは駅前の立地にも関わらず温泉大浴場だという。
ホテルに荷物を置くと再び大分市街に繰り出す。大分駅前は典型的な「田舎の大都市」。デパート前がバスターミナルになっているので、そこからバスで移動する。
目的地はかなり市街のはずれにある。ホールなどとの複合施設のようだ。大分には県立美術館が存在しないので、ここが実質的に県立美術館ということになるようだ。それにしても先ほどの市立美術館といい、とにかく大分の美術館は立地が悪すぎるように思われる。なお当の大分県自身もこの事態には問題を感じているのか、ネットを調査したところによると県立美術館の設立を検討するための委員会なども行われているようだ。
「福田平八郎の素描と新収蔵品」大分県立芸術会館で5/9まで
日本画家・福田平八郎の素描作品を中心に展示。
福田平八郎は独特の観察眼を持った「奇妙なリアルな絵」で知られている。彼の作品はとにかく色遣いや描写など一見すると明らかに変なのだが、よく見ていると実はそれがリアルな描写であるのではという気持ちが湧いてくるのである。本店の展示作品でもそのような彼の特徴があちこちで現れているが、素描というダイレクトなものだけに余計に露骨にその傾向が見られるような感も受けた。
施設自体が手狭であるし、いかにも一時代前の施設という印象で、美術館という落ち着いた雰囲気が今一つ欠ける施設であった。予算的な問題はあるだろうが、これは県立美術館を新規に建設すべきであると私も考える。
次の目的地へ移動しようとするが、ここはアクセスバスの本数が少なく、しかもタイミングの悪いことに私の目の前でそのバスが出てしまったので、バスの多い国道まで歩いて移動。そこでバスを拾うと市役所前で下車。その向かい側が次の目的地である大分城である。
大分城、別名「府内城」はこの地域を治めていた府内藩の藩庁だった城である。建物の大部分は明治期に破却されているが、一部の櫓が現存しており、本丸の石垣なども残っている。また最近では大手門や廊下橋などが復元されており、100名城にも選定されている。
復元された大手門や廊下橋などはいかにもそれらしい風情をたたえているし、堀越しに見る天守台や櫓もなかなか良い。ただ本丸内にどっかと鎮座している文化会館が興醒め。正直なところ、鹿児島城と並んで100名城としてはどうかなという疑問も若干ある城。鹿児島城は島津氏の本拠という歴史的価値を重視したんだろが、純粋に城跡としては臼杵城や八代城の方が上に思えるし、この府内城にしても微妙なところ。100名城の選定については、観光配慮で各県最低一つにしたことによって「?」な城が挙がっている例があるが、さらに県庁所在地の城についてはやや審査が甘いという傾向もあるような気がする。まあこの手の選択はマニアの数だけ異論があるものだから、あちこちで「私撰100名城」みたいなのが出ているみたいである。ちなみに私も「続100名城」みたいなものを考えている。なおこれは100ヶ所の名城を選定するという意味ではなく、100名城に継ぐ城を選定するという意味である。目下のところ臼杵城や八代城は米子城や苗木城などと共に選択されている。
左 復元大手門 中央 天守台から望む人質櫓(現存) 右 本丸から見た東丸着到櫓(再建) 左 山里丸と廊下橋 中央 山里丸から望む人質櫓と天守台 右 廊下橋 府内城の見学を終えると夕食。と言ってもクタクタで食欲も今一つなら、店を選択する気力もない。適当な店に入ってオムライスを食べて帰ってくる。
ホテルに戻ると温泉入浴。このホテルは大浴場から非常階段を登って出た屋上に露天風呂の浴槽がおいてあり、ここが地下から汲み上げた温泉。やや褐色を帯びた本格的なナトリウム泉で温まる湯。これにじっくり浸かってからこの日は早めに床についたのだった。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時頃に起床するとまずは朝風呂。やはりこういう温泉だと朝風呂したくなる。入浴後に朝食を摂ると直ちにチェックアウトして大分駅に。とりあえずロッカーに荷物を入れて置いてから、列車で別府を目指す。
別府は典型的な「古い観光地」。こういうコテコテのところではコテコテの観光をするに限る。駅前からバスに乗り込むと、別府観光の定番「地獄巡り」と洒落込もうという考え。まずは鉄輪温泉方面行のバスで海地獄前で下車すると、そこで地獄巡り手形を入手する。
左・中央 山地獄は噴煙地獄 右 海地獄 山地獄は入場した途端に象などがいて、この臭いが激しい。硫黄臭と動物臭が混ざって悪臭地獄である。そこを通り抜けると有名な青い温泉の海地獄。硫酸鉄の色だとのことだが、青いと言うことは三価でなくて二価か?
左・中央 鬼石坊主地獄 右 かまど地獄 左・中央 鬼山地獄(別名ワニ地獄) 右 白池地獄 血の池地獄 竜巻地獄 海地獄の後は鬼石坊主地獄、かまど地獄、鬼山地獄、白池地獄などといったお約束コースをブラブラと巡りつつ鉄輪温泉のバス停まで降りてくる。とにかく湯煙と硫黄の臭いが強烈な地区で、体に硫黄の臭いが染み着いたような気がする。バス停に到着すると、残る血の池地獄と竜巻地獄へはバスで移動。血の池地獄は定番の赤い熱湯だが、竜巻地獄は間欠泉。大体の噴出時間が決まっているので、その時間まで観客が取り巻いている状態。さんざん待ったあげくに、意外と吹き上がりが少ないのでため息のようなものが観客席から漏れる。
地獄巡りを終えるとさらにバスで移動。今度は海沿いの別府市美術館を訪問する。遠くに見える美術館の建物をみた途端に強烈な違和感を感じたのだが、実際に建物を目にするとその違和感の正体が判明。どう見ても建物が古いホテルなのである。入場の時にそのことを確認したら、やはりホテルの建物を流用した模様。美術品は昔ホテルの大広間とかだった場所に展示されている。
別府市美術館の建物は明らかにホテル
これから先、日本が人口減少の方向に向かうことを考えると、このように建物もリユースしていくのが普通になっていくのではないか。そう考えると、これから建てていく建物は、手を加えながらリユースしやすい設計という観点も必要なように思われる。となると、まずは耐久年数の短い水回り系や電装系を構造本体から分離して、後で手直ししやすくすること。構造壁を減らして外壁と階段回りなどの壁とで強度を持たせる構造にして、間取り変更の自由を増やすことなどが考えられる。
なんにせよ、今時の「勘違いデザイナー」が設計した自称斬新なデザインのビルなんか、すぐに無用の長物&資源の無駄使いになりそうである。しかしなぜかそういうくだらない建造物の方がもてはやされるのが現状だったりする。
別府市美術館の展示は、地元ゆかりの画家の作品などと民俗的展示が同居している。美術品の方は比較的地味であるが、時々良品も見受けられた。
以上で別府の見学を終えると、ここから列車でさらに北に移動する。次の目的地は暘谷である。暘谷には暘谷城と呼ばれる城があるが、この海際にある城の近くの海中では清水が湧いており、この海で育つカレイが城下カレイと呼ばれて高級食材として珍重されているという。このカレイの旬が5月とのことなので、ここは一つ城郭見学を兼ねて昼食でも摂ろうという考え。
暘谷で下車するとまずは昼食から。私が向かったのは「能良玄家」。注文したのは昼食用メニューの「城下かれいミニセット(3675円)」。
まずは城下かれいの刺身から。特製のポン酢が出てくるので、これに肝を溶いてからつけて食べる。やや肉厚でかれいとは思えないほど味に強みがあって美味。
まずは刺身
次は煮物と揚げ物。この煮物はホックリとしたかれいの身が味わい深く、揚げ物の方はいかにも白身魚という印象だが、やはり普通のかれいよりは味が強いことを感じさせる。
煮物に揚げ物
最後は椀ものです
印象としては通常のかれいよりもかなり濃い味の魚だというもの。かれいは一般的に味が淡泊なものだが、淡泊な中に強味があり、そのバランスが良い。ただ美味とは言うものの、やはり食材としてのCPとなると・・・ウーン。所詮は私のような貧乏人には贅沢すぎるものらしい。
城下かれいを堪能した後は「暘谷城」の見学。建造物自体は全く残っていない。本丸跡は小学校になってしまっており、当時の大手門と裏門に当たる場所が、そのまま小学校の入口になっている。ただ建物は残っていないものの、見事な石垣が残っており、また堀も水こそないがそのまま残っている。
暘谷城縄張り図(現地案内看板より) 手前が東 城の回りをグルリと海側に回り込むと高石垣がそそり立ち圧巻。ここの下の海で城下かれいが捕れるわけである。なお天守台は残存しており、小学校の敷地の南東部にある。学校関係者にことわって見学させてもらおうかと思ったが、何しろGWで教師はおろか生徒も誰も人っ子一人いない状態。やむなくそのまま失礼する。天守台の上に登ると遥か下に海を見下ろすことが出来る。またこの天守台のそばに時鐘楼があるが、これは再建建造物らしい。なお城の東側には藩校・致道館跡も残っている。
東側の石垣(奥が天守台)
左 かつての大手跡は小学校の正門 中央 北西側の石垣と堀 右 東側から南方に回り込んで海 左 下から見上げる天守台石垣 中央 天守台 右 天守台から見渡した海 左 時鐘楼 中央 本丸西南方向の高石垣 右 藩校・致動館 一般的には全く無名に近い城であり、実は私もこの城は地図をパラパラと繰っていて偶然に見つけたのだが、どうしてどうしてなかなかに見所の多い城でなかなかに堪能できた。やはり九州の城郭は全体的にレベルが高い。私の「続100名城」に該当する城がゴロゴロとありそうである。特に西国の城は石垣を多用しているので、たとえ建造物が残っていなくてもそれだけでなかなかに魅せる。
暘谷城の見学を終えたところで今日の予定は終了。大分に戻ってくると、ここから次の宿泊地である博多への移動。ここで効率を重視すると小倉経由のソニックになるのだが、正直言ってそれでは面白みにかける。そこでここはあえて久大本線を経由して博多を目指すことにする。久大本線は以前の遠征で久留米−日田間は乗車しているのだが、日田以西が未踏である。そこでこの部分を調査しようという考え。
出典 JR九州HP どうせ久大本線を経由するならやはり「ゆふいんの森」に乗車したい。しかし難儀なことにこの列車は全席が指定席である。そこでやむなく指定席券を事前に購入している。車両は三両編成で、眺望を重視した高床式車両。ただ床をあげたことが災いして、入り口からは階段を登る必要があるし、天井が湾曲してきているせいで網棚が狭く、トランクを載せると1/3ほどがはみ出すので落ちてこないかと少々不安。また車内に凸凹があるせいで車内販売のワゴンなどは使えないらしい。このためか新型の車両の方には「渡り廊下」がついているとか。車内販売がないのでビュッフェがあるが、これ以外にも車内にはロビーのようなフリースペースがあり、自由にウロウロできる。だからこその全席指定なんだろう。自由席車両があれば、こういうスペースが一番先に埋まってしまいそうだ。かつて新幹線に食堂車があったときも、自由席の乗客が食堂車に陣取って長時間粘るといったことが問題になったことがある。実はこの辺りが食堂車廃止の理由の一つにもなっている(当然ながら、販売不振、食堂車がゴキブリの巣になってしまうなんてのも大きな理由にあるが)。
左 正面から 中央 座席はこんな感じでやや天井が低い 右 シートはまずまず 左 連結部に階段あり 中央 フリースペースのラウンジ 右 しかし網棚は狭い ゆふいんの森は大分駅の新造の高架ホームに到着する。大分から乗り込む乗客は定員の半分ぐらい。列車は大分駅を出ると大きくカーブしながら湯布院方面に向かう。この辺りは沿線は山岳風景で風光明媚。まさにこの列車の真価が発揮されるところである。
由布山が見えてくる
湯布院は山間のリゾート地という雰囲気のところ、ここから大量の乗客が乗り込んできて、車内の乗客密度が一気に上がる。湯布院には温泉のみならず美術館も多数あるとのことなので私としても興味あるところだが、今回は立ち寄っている時間的余裕がないし、こんなところで宿泊する金銭的余裕もない。いずれまた時を改めて訪問することもあるだろうが、この地の宿泊料の高さを考えるとたぶん日帰りだろう。
伐株山
湯布院を抜けるとさらにしばらくは山間の風景。やがて南側に山頂が平坦な非常に印象的な山容の山が見えてくるがこれが伐株山とのこと。地質学的に言えば浸食によって生成したテーブル台地でビュートと呼ばれるそうな。地形的にいかにも城郭が築かれそうなという気がしたのだが、後で調べたところによると、やはりかつて南朝方の拠点として玖珠城なる城が築かれたことがあるとか。なお、今日はその地形からハンググライダーなどの基地になっているとのことで、この時も上空を旋回しているパラグライダーの姿を見ることができた。
さらに進むと沿線がだんだんと開けた感じとなってきて、川筋に出てくるとまもなく日田に到着である。以前の遠征では日田以西を視察済みなので、これで久大本線は全線視察完了である。なお日田にもいくつかの小城郭跡があるようだが、それも今後の課題である。
日田を過ぎると沿線は平野部に出てきて、その中を久留米まで疾走する。久大本線は久留米で終了、列車はその後は鹿児島本線へと入って博多へ向かうことになる。
博多に到着した時にはもうヘトヘトだった。結局なんだかんだで3日連続2万歩越えになっている。疲れた身体に鞭打って、ここからホテルまで徒歩で移動。今回の宿泊ホテルは「ホテル法華クラブ福岡」。選択基準は例の通り。ただ立地が意外と駅から遠く、たどり着いた時にはかなりヘロヘロ。これから夕食に出かけないといけないのだが、とても遠出する気力はない。しかし夕食を摂る店は実は既に内定していた。ホテルに来るまでの道のりで一軒、私の旨いものセンサーにビビッと来る店があったのである。それが「うお蔵長兵衛博多駅前店」。ホテルからも近いし、とりあえずここで夕食を摂ることにする。
注文したのは本日のお勧めというごま鯖とムール貝、それにこの店の名物というとり天、これにご飯とあさり汁をつけた。しばらく待った後、料理が一斉に出てくる。とり天からいただくが、思わず「うまい」という声が出る。なんて事のない鳥の天ぷらなんだが、サクサクで鶏肉の旨味があって美味。ムール貝もシンプルながら良い味。また驚いたのは名物というごま鯖。かなり濃い味付けなのだが、それが嫌みでなくて魚の味を引き出している。直感だけで選んだ店だったのだが、正解だったようだ。
ホテルに戻るととりあえず入浴。もう疲労がかなり積もっていて明日の予定を確認するのがやっと。旅行記執筆などとても無理な状況なのでさっさと床に就く。
☆☆☆☆☆
翌朝はホテルで朝食を摂ると早朝出発。今日は唐津方面まで足を伸ばす予定。とは言うものの、私の足の方はほとんど壊れかけ。足の裏にはマメが出来て痛む上に、ひざから下は力が半分抜けたような状態になっている。果たしてこの状態でどこまで保つやら・・・。今の私を支えているのは好奇心と貧乏性だけである。
出典 JR九州HP 博多から地下鉄で唐津を目指す。JRの筑肥線は福岡地下鉄と接続しており、相互乗り入れの形になっている。またこの路線は構成がややこしく、姪浜−唐津間が筑肥線なのは良いとして、そこから飛んで山本−伊万里間も筑肥線となっている。そして両者をつなぐ西唐津−唐津−山本の路線は唐津線になるのだとか。非常にややこしいので便宜上は前者を筑肥東線、後者を筑肥西線と呼ぶという。
左 地下鉄の博多駅から 中央 筑肥線沿線には海が見えます 右 唐津城が遠くに見える 西唐津行きの快速列車が到着したのでそれに乗車。快速は地下鉄区間を各駅停車で走行、姪浜で地上に出るとそこから快速走行。当初は沿線に市街が見えるが、直に海沿いや田んぼの光景に転じる。特に佐賀は田んぼが多いのが印象的。やがて唐津が近づくと遠くに唐津城が見えるようになる。だが今回はとりあえず終点の西唐津まで乗車する。
西唐津駅に到着
西唐津駅はターミナルとは言うものの小さな駅。ここで降車するとバスで唐津に戻る。唐津のバス拠点である大手口で下車するとそこは唐津の中心部(市役所の真ん前である)。ここはその名の通り、かつての大手口だったようで、市役所周辺にも石垣と堀の一部が残存している。
市役所前は旧大手門前
さてここからまずは唐津城を目指すのだが交通の便がない。ループバスがあるはずなのだがコースと時刻がよく分からない。結局は「歩こう」という判断になる。これで壊れかけた足をさらに痛めつけることになる。とは言うものの、いざ市街探索を始めると興奮からベータエンドルフィンでも出まくっているのか、足の痛みはやや遠のいていく。そしてランナーズハイ状態のまま、とりあえずは最初の目的地に到着する。
河村美術館
青木繁などの作品が中心の美術館。その一方でビアジョッキのコレクションなど、なかなかに収蔵品の傾向が面白い。全体的に西洋絵画が中心であるのだが、意外に日本画のコレクションに秀品あり。
美術館からさらに歩くと高取屋敷という表示が見えてくる。ここはかつて石炭で財を成した高取伊好の屋敷で、彼は私財を投じて学校を設立したり、芸術家のパトロンとして保護したりなどの名士としての活動を行った人物らしい。彼の屋敷は今は国の重要文化財とのことで、修復・復元を行って公開することになったらしい。明治期から昭和期にかけて何度も増築されたそうだが、内部に能舞台まであるというかなり立派な屋敷であり、高取伊好が芸術面の造詣もあったのでないかと思わせる。
高取屋敷は和洋折衷
高取屋敷からさらに西に歩くと「唐津城」である。唐津城の一帯は舞鶴公園という公園になっており、その頂上に鉄筋コンクリートによる「なんちゃって天守」が建っている。毎度のことであるが、この手の天守は内部に入るとゲッソリするが、外から見る分にはなかなかに見栄えがするし、頂上から見渡す唐津の風景はなかなかのもの。また舞鶴公園は藤で有名とのことで、ちょうど今が見頃らしく、途中で満開の藤が出迎えてくれた。天守閣を登った後は、本丸にある茶店で「いきなり団子」で一服。いきなり団子は餡を芋で挟んで小麦の衣をつけたような独特の半生まんじゅう。これがなかなかいける。ただこれは熊本の名物と聞いていたんだが、なぜ唐津に?
城内では藤が満開 風景を楽しみながらいきなり団子で一服
ひこにゃんのように見えますが、このキャラクターは唐津城の唐ワンくん・・・パクリっぽいな
唐津城の見学を終えると大手口まで再び徒歩で帰ってくる。ここからバスでさらに名護屋城を目指そうという考え。名護屋城は朝鮮侵攻のために秀吉が築かせた城で、100名城にも含まれている。ただ何しろ九州の突端であるので交通アクセスが悪く、唐津からのバスの便しかない(それも一日に数本)。実のところ、今日の予定はそちらの方が本命なのだが、予想以上に唐津が見るところがあったので、バス停に到着した時にはバスの時間ギリギリになっていた。
バスは呼子を抜けて名護屋に向かうのだが、呼子のはるか手前でバイパスと合流したあたりから渋滞に巻き込まれてトロトロとしか進まなくなる。GWの洗礼をこんなところで受ける羽目になってしまったのだが、呼子はこんなに多くの車が殺到するほどの大観光地なんだろうか。いささかなめてかかっていたようである。
大渋滞に遭遇
結局は名護屋に到着したのは予定よりも10分以上も遅れての事となった。とは言うものの、元より現地滞在予定時間は3時間ぐらいあるはずなので見学には十分である。城の方を見上げるとかなり大規模な石垣が目にはいる。そっちに飛んでいきたくて気持ちがはやるが、まずは城の手前の博物館に入館して城に関する情報の入手から始める。
名護屋城博物館
博物館内には日本と朝鮮にまつわる展示、秀吉の朝鮮出兵に関する資料、さらには名護屋城の復元模型などがある。これを見てもやはりかなり大規模な城であったことが分かる。ここで大体の縄張りのイメージを頭にインプットすると、いよいよ「名護屋城」に向かう。
名護屋城模型
名護屋城の大手跡を抜けると東出丸の横を抜けてまずは三の丸に出る。名護屋城は徳川政権下において、再利用を恐れたことと朝鮮に対して国交正常化の意志を示すために徹底して破却されたと言う。確かに石垣には破壊の跡が見られ、特に要である角に当たる部分は徹底して崩されていることが分かるが、それでもかなり高さの石垣が残っており、往時のこの城の規模をうかがわせる。
名護屋城縄張り図
左 大手口 中央 三の丸の石垣 右 東出丸 左 門の跡を通り抜けると 中央 広大な三の丸 右 石垣の角の部分は徹底的に破壊してある 広大な三の丸を抜けると、ここからは馬場を抜けて奥の二の丸に行くルートと本丸大手を抜けた本丸に上がるルートがあるが、とりあえずはまず本丸に向かう。本丸はこれまたかなり広大なスペースだが、途中でさらに規模が拡大されたらしく、埋められた石垣の跡も残る。本丸隅に天守台があり、当然のように今日では建造物は全くないが、それでもここから見下ろす風景は絶景である。秀吉はここから遠く朝鮮半島を越えて中国にまで思いを馳せていたのだろう。
左 三の丸から本丸へ上がる 中央 本丸入口 右 櫓跡 左 天守台と下に見えるのが遊撃丸 中央 天守台 右 天守台より望む本丸全景 なお秀吉の朝鮮出兵に関しては、耄碌した秀吉の愚行というのが一般的な解釈だが、耄碌しての暴挙と言うよりも、それまでの社会システムを変革できなかった秀吉の限界を示すものと言うのが実態だろう。秀吉の治世は莫大な戦争投資に伴う高度成長拡大路線の時代だったのだが、日本全体が秀吉の支配下に治まったことによって戦争の余地がなくなり、それまでの社会システムの変革が迫られていた。ここから安定成長路線に切り替えるには、必然的に大規模な社会変革が必要。特に兵農分離によって非生産的な職業軍人になっていた武士の大量のリストラが不可欠だったのだが、譜代の家臣も少なく、完全な独裁権力体制を確立しているとも言い難い部分があった秀吉政権ではそのような「痛みを伴う改革」は現実的には不可能だったのだろう。となれば、今までの社会システムを維持するためには海外にでも討って出るしか仕方なかったというわけである。結局のところ、安定成長路線へのドラスティックな変革を成し遂げたのは家康の時代であり、この時代には大量に武士がリストラされ(大名の取りつぶしが異様に多かった)、残った武士は官僚へと変貌を遂げることになる。
なお今日のグローバル経済も既に地球の限界に行き当たっているので、この体制を続けるのならそれこそ地球外にでも進出していくしか仕方ないだろう。もし安定成長路線にドラスティックな転換を遂げるというのなら、それこそ肥大化しすぎた非生産部門である金融界を大幅にリストラする必要がある。
話が横道にそれてしまったが、この城を見ているだけで秀吉がいかに派手な人物だったかがよく分かると共に、それこそが秀吉の権力の維持基盤だったのだろうということもうかがえる。そもそも名護屋城は大陸進出の後方基地であって、ここに逆に大陸から攻め込まれる事態は想定していないのだから(後方攪乱のための小規模なゲリラ戦程度ならあり得るが)、ここまで大規模な要塞が必要かどうかは疑問である。どちらかと言えばこの城は、従軍している大名達に対するアピールとして必要だったのだろう。
左・中央 水手口から降りていく 右 貯水池跡? 本丸の見学を終えると三の丸方向に戻らずに、水手口から北方に出る。こちらには水手曲輪があるところ。この大規模な城の泣き所は、その規模故の水不足だったという。そのために雨水なども貯蔵して使用していたらしい。かつてこちらの方向には貯水池などもあったという。城郭としても急激に高度が下がっていくところだ。
左 再び上がっていくと 中央 二の丸に出る 右 長屋跡 左 本丸の石垣に沿って戻ると 中央 遊撃丸 右 水手郭は遊撃丸の奥にあった 一端北側に降りてから、再び上がっていくような形で船手口の方に回り込むと、まずは見えるのは二の丸。ここも広大な空間で長屋跡が平面復元されている。ここからさらに本丸寄りに移動したところが遊撃丸。船手口正面に当たるこの曲輪は、まさに万一にこの城が攻撃を受けるような場合には戦闘の拠点になるだろう。なお海側のこれらの曲輪は本丸とは直接はつながっておらず、後方の三の丸などを経由して本丸と連絡するようになっている。
左 弾正丸 中央 搦手口もかなり堅固 右 三の丸へと続く馬場 二の丸の奥は三の丸につながる馬場と搦め手口を守る弾正丸である。ここも搦手口とはいうものの、もし海側から攻撃を受けた場合には正面になる側であるので、かなり堅固な門となっている。
一回りして大手門まで戻ってきた時にはかなり疲労が溜まっていた。ゆうに見学だけで1時間以上をかけているので、ざっくり見て回るタイプの私にしてはかなり所要時間が長く(小さな城だと30分もかけないこともある)、これはそのままこの城の規模の大きさを示しており、そのまま壊れかけている私の足へのダメージに直結している。それによく考えるともうとっく昼を過ぎているのにまだ昼食を摂っていない(当初の予定では唐津で注し良くを摂るつもりだったのだが、唐津城などを見て回っているうちにその時間がなくなってしまったのである)。とにかくどこかで一服がてら食事が必要と考え、駐車場近くの食堂でカツ丼を一杯とソフトクリームを頂いて一服する。ありゃ?また竹田に続いてカツ丼になってしまった・・・。
食事の後はバス停まで降りてきて、バス停に隣接している道の駅でバスの到着時間まで暇つぶし。ここにはかなり車が駐車していて、現在もまだ車が続々とやって来ている状態。当然ながらこれらがすべて名護屋城目当てというはずもないのだから、この地域は他にも観光資源があるということだろうか。
ようやく到着したバスに乗車すると、このバスで唐津まで移動。帰路もやはり渋滞に引っかかって予定よりも時間を要したが、私が疲労でうつらうつらしているうちにバスは唐津に無事到着。往路同様に筑肥線と地下鉄を乗り継いで(といっても列車自体は乗り換えはない)ホテルに戻ってくる。
さて夕食であるがもう何も考えたくない心境。結局は昨日と同じく「うお蔵長兵衛博多駅前店」で済ませることにする。今回はまずコーラを一杯飲み干すと、「ヒオウギ貝」に「海坊主サラダ」「穴子の天ぷら」「イカ刺し」「刺身三点盛」にご飯と具だくさん赤だしをつけるといった大量の注文をしたのだが、500円割引券をもらっていたこともあり、支払いはたったの3835円。魚の鮮度も良いし、CPが抜群な店である。これは良い店を見つけた。
この日はしこたま食べました 夕食を済ませてホテルに戻ると、まずは大浴場で入浴。今日は洗濯でもしておこうかと思っていたのだが(明日の着替えはあるが、帰宅してからの分を考えて)、とてもそんな気力も起こらない。結局はインターネットで軽く明日の予定を練り直してから、旅行記を執筆する気力も起こらないのでかなり早めに床に就いたのであった。
☆☆☆☆☆
さてこの大型遠征もいよいよ最終日である。と言ってもとうとう足が完全に死んでしまった。やはり昨日の名護屋城がとどめになったようだ。左右の足にマメが出来、特に右足はかかとが痛くて踏みしめられない状態。自然に歩き方がおかしくなるから膝に負担がかかるというどうしようもない状況である。とは言っても最終日の今日も予定は目白押しである。今日は体力と相談しつつの耐久レースになりそうな模様。
まずは博多市内巡回から。ただその前に一つだけやっておくことがある。トランクをロッカーに放り込むと新幹線のホームに向かう。といっても当然であるが帰りの新幹線ではない。実は博多駅から博多南線として新幹線が一駅運行されている。本来は新幹線の車庫へ向かう路線であるのだが、それが沿線などの要望によって旅客輸送もされることになった線である。これを視察しておくのが目的。
博多南線は新幹線が走るものの新幹線ではないという微妙な路線である。私がホームに上がると待っていたのは500系新幹線。居住性を犠牲にしてまでストイックに速さを追求した車体なのだが、今ではこんなところでロートル運転とは涙を誘う。この時間帯に博多から博多南に向かう乗客はほとんどいないと見られて列車は閑散としている。
左 500系新幹線 中央 一応特急券と乗車券が必要です 右 博多南駅はかなり簡素な造り 博多南駅にはすぐに到着する。しかし駅前に出たところで何があるという場所でもないのですぐに引き返す。この路線は通勤路線になっているらしく、博多南から博多に向かう乗客は結構いる。
左 本当に何もない駅です 中央 帰りの切符は小型サイズ 右 車庫には新幹線がそろい踏みなので鉄道マニアは喜びそう 博多まで戻ってきたところでいよいよ本題に移る。前回に博多を訪れた際は、やはり足が終わってしまったせいで予定の半分もこなせずに撤退やむなしに至った苦い経験がある。その時の宿題を解決するというのも今回の遠征の目的の一つである。
市内の移動だが、前回は市内バス路線が全く把握できず、そのために移動がスムーズに行かなかったという失敗をしている。そこで今回はその傾向と対策についてはしっかりと調査済みである。各種調査の結果分かったことと言えば、とにかく博多のバス路線は天神地区が拠点となっているので、ここを中心に行って帰ってを繰り返せば市内どこでも行けるということである。後は目的とする施設か天神の何番乗り場の何系統のバスで行けば良いかを調べておくだけである。またこういうバスの乗り方で問題となるのは料金だが、それについては一日エコ乗車券が500円で販売されているので、これさえ購入しておけば料金は気にしないで済むという仕掛けである。
まずは前回の遠征で立ち寄ることが出来なかった「福岡城」から。福岡城は黒田氏の居城であるが、かなり大規模な城で100名城にも選定されている。前回は城内の市立美術館までは行ったものの、とても城見学が可能な体調ではなかったために見送らざるを得なかったので、今回はそのリターンマッチである。
大手口でバスを降りるとそこから城内を目指す。幅の広い堀で囲まれた区域がかつての城内である。今では大手口の横を車道がかつての城内を分断する形で通っているが、一応その横に大手口の門が復元されており、城郭らしい風情をたたえている。大手門脇には潮見櫓が建っているが、これは別のところに移築されていたものをさらに移築したものだとか。そこを抜けると車道を渡った側がかつての二の丸である。とにかく広大な広場であり、今ではこの城内には競技場などの施設が出来ている。道の手前のこちら側が三の丸に当たり、ここの西には現在は大濠公園という公園があるが、これ自体がそもそも沼地を利用した自然の堀であったのだとか。
左 二の丸へと上がっていく 中央 二の丸はかなり広大なスペース 右 さらに本丸へ上がります 二の丸の南側に石垣で一段高くなった区域があり、ここがかつての本丸跡である。ここはとにかく広大。またこの本丸跡の北東隅にあるのが祈念櫓。説明版によると本丸の鬼門封じに1860年に建造されたものとか(かなり幕末だ)。その後に寺院に移築されていたものを、1983年に再移築したとか。ただ寺院に移築した時にかなり改変されているらしいとのことで、現在は板壁だが元々は白漆喰壁だったらしい。確かに他の建造物との調和を考えた時にその方が自然である。
左 本丸も広場になっている 中央 本丸隅にある祈念櫓 右 本丸南方にある小天守台 左 小天守台は大天守台とつながっている 中央 天守の入口の鉄門跡 右 門をくぐったところ 左 こちらは天守の埋門跡 中央 天守台に上る 右 天守から見下ろす博多市街 さらにこの本丸の南方に一段高くなった天守台がある。なお福岡城は天守閣がなかったというのが通説となっていたが、近年の研究によると天守閣の存在をうかがわせる文書が出てきており、天守閣を建てた後に幕府の疑念を避けるために取りつぶしたという説が出てきているとか。この天守台は複数の台と連なっているので、ここに小天守などを連ねた五層の巨大な天守がそびえていたとしたらかなりの威容である。今日でも天守台に登っただけで市街を見渡すことが出来るのだから、当時は天守の最上階からはまさに城下町を一望することが出来たであろう。この規模の城郭にさらに立派な天守があれば、それは必然的に幕府の疑念を呼ぶ可能性が高く、後で取りつぶすということもあり得る話である。
左 多聞櫓 中央 曲輪が広場になってます 右 下から見上げる多聞櫓 本丸から西方に降りてくるとそこにあるのが現存の多聞櫓。この櫓がある曲輪は公園のようになっている。なおこの多聞櫓は国の重要文化財とか。
福岡城の見学を終えると隣の市立美術館を覗くが、どうやら全館で日展が開催中とのこと。私は日展には興味がないし、前回にコレクション展を鑑賞しているので、今回は見学はやめにしておく。ただ次の目的地に動くには先ほどの福岡城見学で完全に足が死んでしまったので、美術館内の喫茶でしばし抹茶フロートをいただきながら足の回復を待つ。市立美術館があるのはかつての三の丸に位置するところであり、ここの喫茶からは大濠公園が見える。池には白鳥ボートなんかが浮かんでいてのどかな雰囲気。
喫茶室窓から見える大濠公園はいかにものどか
10分ほど喫茶でまったりして、ようやく足が動くようになったのを確認すると、ここからバスで次の目的地へと移動することにする。次の目的地は前回の遠征で見送りとなってしまっていた県立美術館である。まずはバスで一端天神まで戻り、ここから県立美術館方面のバスに乗り換え。天神は博多一の繁華街らしいが、とにかく大混雑である。
県立美術館は公園の北側にある。書道展を行っていたようだが私は書には皆目興味がないのでそれはパスして、常設展のみを見学する。
「虹を渡る田淵安一」福岡県立美術館で6/20まで
極彩色のかなり華やかな絵画を描く画家という印象。色彩的には面白い感覚もあるのではあるが、当の作品自体は・・・。
県立美術館の見学を終えたところでちょうど昼前ぐらい。今日の帰りの新幹線は7時だからまだまだ時間がある。ここで事前に用意していた数種のプランを頭の中でパパッと思い浮かべると次の行動計画を瞬時に決定する。「佐賀に行こう。」
実はこの佐賀プランというのは、用意していた数種のプランの中で一番意欲的かつ身体の負担の大きいものである。正直なところ既に身体は限界なのだが、いざプランを選考するとなるとどうしても私の行動原理の大きなものを占める貧乏性が頭をもたげ、一番意欲的なプランを選択してしまうことになりがちである。この時ももう限界に達している足のことを無視して貧乏性が勝利をおさめてしまったのである。
バスで天神経由で博多駅まで移動すると、佐賀へ向かう前にとりあえず博多駅の地下で昼食を摂ることにする。「まるとく食堂」で「いわしフライ定食(780円)」を頂く。駅の地下という立地にしてはCP面で不満のない内容。博多は意外と食文化のレベルが高いのか? 東京だととてもこうは行くまい。
昼食を終えると佐賀に向かうことにする。ホームに上がると湯布院行きのゆふDXが停車が入ってくる。先頭部分のサロンがなかなかに良さそうだ。これもまた機会があれば乗ってみたい車両である。ゆふDXを見送ると、その後に到着した普通列車で鳥栖まで移動。鳥栖で長崎本線の普通に乗り換えて佐賀を目指す。長崎本線は先の遠征で吉野ヶ里公園まで乗車しているが、相変わらず沿線は延々と田んぼである。結局は吉野ヶ里公園を過ぎても延々田んぼで、建物が見え始めたのは佐賀駅到着の直前。佐賀はまさに田んぼの中に浮かんでいる都市というイメージで、こうしてみると確かに佐賀は田舎かもしれない。今回は長崎以外の九州各県の県庁所在地を回ったが、その中では佐賀市が最も規模が小さいのも明らか。はなわが自嘲気味に佐賀をネタにしたわけである。佐賀を一言で表現すると「田んぼ」これにつきる。ただ勘違いしてはいけないのはこれが悪いことではないということ。むしろ人の営みを考えた場合、東京なんかの方が歪で異常なのである。田んぼを田舎と馬鹿にするのは愚かな都会人がやることだが、これはいわば身長130センチの者が身長170センチの者を「ノッポ」と馬鹿にするみたいなもので、愚かの極みである。
ゆふDXの先頭の展望車 佐賀駅に到着するとここからはバスで移動であるが、駅前に出てもバス停がないことに戸惑う。惨々ウロウロした挙げ句に判明したことは、佐賀駅では改札からかなり東に行ったところに大きなバスターミナルがあるということ。佐賀はここからバスで移動するのが基本のようだ。なおこの佐賀市の南方の田んぼの沖合に佐賀空港があるが、ここへのアクセスバスもここから出ている。ただ佐賀空港まで35分かかるとのこと。佐賀から福岡空港へ特急を使用すると40分程度であるということを考えると・・・無用の長物を体現したような空港になるのも道理である。この空港も「アメリカでは各州に空港があるのだから、日本も各県に空港があっても良い」と、土建脳の政治家が言い出したことに起因しているとか。日本の政治家は地図の縮尺も分からないような馬鹿が多いらしい。彼の頭の中ではアメリカ大陸は日本の本州と同じぐらいの大きさなのだろう。
また話が横道にそれたが、佐賀にきた目的はまずは「佐賀城」見学。佐賀城はそもそもは龍造寺氏の居城だったらしいが、江戸時代に幕府によって佐賀藩主に任じられた鍋島氏(元々は龍造寺氏の家臣であった)の居城になり、そのまま幕末まで至ったとのこと。現在では100名城に選定されている。
佐賀からはそのものズバリの「佐賀城跡行き」バスが出ているのでこれに乗車。なお今日はノーマイカーデーとのことで、免許証を提示するとバスの料金が半額(最低は100円)ということになっていた。これは私のような県外からの旅行者でも適用とのことなので、私も100円でバスに乗車した。これから見ると、やはり佐賀はかなり車社会化が進行しているようである。
川のように見えますがこれが外堀
県庁手前で大きな川のようなものを越えるがこれが実は佐賀城の堀。この堀の中がかつての二の丸になるのだが、スペースが広大で今では内部が完全に都市化しているので、事前に城跡だということを認識していないと気づかない可能性大。なお本丸はこの二の丸の南東隅にある。かつては堀で二の丸と隔てられていたとのことだが、その堀はもう埋められている。
佐賀城鯱の門(現存)
左 門手前のこの辺りは本来は内堀だったとか 中央 門の西方に天守台が見えます 右 門扉には銃弾の跡も生々しい 佐賀城跡で下車すると目の前に立派な石垣が見える。さらに立派な門があるがこれが鯱の門。貴重な現存建造物である。なおこの城は江藤新平が佐賀の乱を起こした時に反乱軍が占拠したのだが、その際の戦闘による弾痕が門扉に今でも生々しく残っている。
左 本丸御殿外観 中央 本丸御殿内部 右 本丸御殿模型 本丸内の建物はこの佐賀の乱の際に焼失したそうだが、現在は本丸御殿の一部が復元されており入場することが出来る。かなり気合いの入った立派な建物。なおここでは入場料を取らず、建物の維持管理のための協力金を寄付して貰うという形態を取っている。私も建物になかなか感心したので、幾ばくかの寄付を行っておく。
左 天守台入口 中央 天守台へと登る 右 上から見るとこういう具合 左 天守台上 中央 天守台より南西方向を眺める 右 南西隅のこの櫓跡は復元でしょうね 本丸御殿を見学した後は天守台に上る。天守台はそう高いわけではないが、回りが平地なので高層建築のなかった昔だと、これで見晴らしは十分だったろう。この天守台が面白いところは、本丸とは接続されておらず、二の丸側から上がるようになっていることである。どういう意図かは私にはよく分からない。なおこの城は低湿地にあるため、いざという時には川をせき止めて城下一帯を水没させることも可能であるために「沈み城」と呼ばれているとか。水没防御とはまたダイナミックである。まさに秘密基地だ。
佐賀城の見学を終えるととなりの佐賀県立美術館に向かう。佐賀県立美術館と佐賀県立博物館はなぜかHPが一体になっているのだが、実際に現地に行ってみると建物もつながった構造になっている。なるほど道理でと妙なところで納得。
佐賀県立博物館・美術館手前が博物館、奥が美術館
博物館内はいわゆる自然科学系展示から民俗展示、さらには美術系展示と多岐に渡っている。自然科学系展示はどこでも同じようなものだが、さすがに佐賀だけあって吉野ヶ里出土品に関する展示が目を惹く。また民俗展示もどこでもある民俗資料館的なもの。美術系展示については佐賀藩時代の作品が展示されていて特に印象には残らなかったもののそれなりには面白かった。
美術館の方は「記憶に残る佐賀の美術家たち」と銘打って佐賀県ゆかりの芸術家の作品を展示。特別にインパクトのある作品はなく、全体的におとなしめの印象の作品が多いのは土地柄か。なお絵画だけでなく陶芸作品などもあったのもやはり土地柄。
美術館の見学を終えるとバスで引き返すことにする。なお美術館前を経由するバスは1時間に2本程度しかないが、佐賀のバスは駅から南下しつつ各地に分岐していくルートになっているので、一つ北の佐賀テレビ前まで行くとバスの本数が増え、さらに北上して県庁前に行くとさらに増えるという構造になっている。私も佐賀テレビ前でバスに乗車する。
特急は大混雑
佐賀駅で鳥栖方面行きの普通列車を待つがホームが大混雑している。何があったのかと思えば、博多行きの特急が遅れているらしい。やがて特急がホームに到着するが乗車率がとんでもない状態。結局はホームに待っていた客は押し合いへし合いしたものの最終的には全員は乗り込めずに積み残しの出たまま発車。どうやらこの乗降の大混乱が特急が遅れている原因の模様。GWも今日で最終日、帰宅の混乱が始まっているようである。これは大変だと覚悟を決めたのだが、私が乗車した普通列車は閑散とした状態。佐賀からは特急に乗らない方が正解?
鳥栖に到着すると福岡方面の列車に乗り換え。実は体力と時間にさらに余裕がある場合のプランとして、ここからさらに久留米に足を伸ばして石橋美術館を再訪するというものもあったのだが、さすがにもう体力的にも時間的にも無理と判断、素直に博多に戻ることにした次第。
博多には5時過ぎぐらいに到着。既に駅前は帰宅を待つ乗客で大混雑している。私の乗車する新幹線にはまだ時間があるので(本当は5時台の新幹線を予約したかったのだが、7時台の便しか予約できなかった)、土産物を買ったり、夕食を摂ったり、さらには最後は駅ビル外のケンタで時間をつぶし、ひかりレールスターで家路についたのであった。当然のように帰りの新幹線は乗車率100%を越えており、自由席は車内販売が入り込めないほどの大混雑、あふれた乗客は指定席車両の連結部にまでやって来ていたのであった。
GWを目一杯使って、六泊七日という前代未聞の超大型遠征となった今回だが、それだけに内容はかなり充実したものであった。九州各地の美術館攻略も有意義だったが、さらにそれ以上に鮮烈な印象を残したのは九州各地の城郭の立派さ。特に100名城に選定されていない中にかなり立派な城が多々あったことが印象的であった。前回の遠征の時にも感じたが、やはり私は九州とは相性が良さそうである。また前回には大都会と印象が今一つだった博多の印象も良くなった(単にうまい店を見つけただけの気もするが)。今後も九州とは縁がありそうである。
今回の反省点はスケジュールにかなり無理が多かったことから、昼食抜きに近いような滅茶苦茶な状態での強行軍が多かったこと。さすがに最早若いとは言い難い私にはこれはかなりの肉体的負担となった。また前回の反省から足をつぶしてしまわないように警戒していたにもかかわらず、結果的にはやはり足をつぶしてしまい、帰宅後数日は足を引きずりながら歩くという羽目になってしまった。
なお今回の大遠征で九州のかなりの部分を押さえたが、まだ長崎が未踏であるし、鹿児島方面も今回の遠征では通過しただけである。これらは今後の課題となろう。なお今年は「九州・東北方面強化年間」であるので、本年中にもう一つのターゲットである東北方面への遠征も計画している。ただ問題は、私の体力とそれ以上に私の財力である。今回の大遠征は私の体力を大幅に削ることになったが、実はそれ以上に財力の方のダメージが大きく、遠征費用の捻出がかなり大変になっている。これはいよいよ遠征費捻出のための耐乏生活がひどくなりそうである・・・。
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