展覧会遠征 房総編
さて今週であるが、久々の東京方面の遠征を実施することになった。これは現在、東京で興味深い展覧会がいくつか開催されているからである。ただわざわざ高い交通費をかけて東京まで行くのであるから、何か他の計画も併せて実行したいところである。この時に浮上したのが、以前からチラホラと計画にはあがっていたものの昨年度には実行されることのなかった房総半島周回プランである。本遠征の骨格はこの線で固まることとなった。その後、諸々の状況を勘案していったところ、結果としては三連休に収まらず、木曜出発の四泊五日の大遠征ということになったのである。
当日は早朝の新幹線で東京に向けて出発。本遠征の第一の目的は国立博物館で開催中の長谷川等伯展である。ただ会期の短さとそのネームバリューから混雑が予想される。そのためにわざわざ訪問日時を木曜の早朝というおよそ一番混雑しにくかろうと思われる時間帯に設定したのだが、それでも油断ならないのが上野の国立博物館である(ここでは今まで何度も痛い目にあっている)。とにかく行動には迅速さを求められる。
上野に到着するとただちにトランクをロッカーに放り込み、国立博物館を目指す。当然のようにチケットは事前にオンラインで購入済み、後は現地に到着するだけなのだが・・・。まだ開館時間前だと言うのにやけにそっち方面に向かう人数が多いのが気になる。そして博物館の入り口に到着した時に悪い予感が的中したことが判明。既に1000人レベルの観客が押しかけている。結局は入場制限がかかり、開館時間から20分ぐらい待たさせることに。ただこれでも良かった方であり、チケットを現地で購入の者はさらに窓口で待たされて、その間に行列はさらに1000人レベルで増加していた模様。やはり国立博物館恐るべしである。
既にこの状態です。
「没後400年 長谷川等伯」東京国立博物館で3/22まで
桃山時代を代表する画家で、幕府御用絵師の狩野派とも渡り合った巨匠・長谷川等伯の作品を集めた大規模な展覧会である。
展示はまず等伯の能登での修業時代の作品から始まる。その精細にして緻密な表現は若くして等伯が並々ならぬ技倆を有していたことを感じさせるに十分なものがある。その後彼は上洛するが、この頃の等伯は意識的にあらゆる画風を試してみていることが分かる。南画風に狩野派風、様々な試行錯誤の果てに自らの画風を確立しようとしていたりのだろう。
その後、彼は秀吉に重用されて一躍頭角を現すことになる。この頃の彼の作品は豪華絢爛な金碧障壁画であり、本来は狩野派が得意としていた領域に入り込んでいる。ただこれは彼自身の画風と言うよりも、明らかにどのような絵が権力者に好まれるかの綿密なリサーチの結果、意図的に作り上げた作品という印象が強い。一見華麗な装飾に目を奪われがちだが、むしろ彼の真髄はその影の緻密な描写に現れているように思われる。
しかし栄華の頂点に達した感のあった彼も、後継者で右腕でもあった息子の久蔵の急逝(狩野派による暗殺説があるが、確かにあり得る話ではある)以降、豊臣家の没落と徳川の天下への移行などの天下の情勢の変化などもあって、明らかに心境の変化が起こったことがうかがわれる。この頃から彼は水墨画作品が多くなり、牧谿に学んだぼかし表現などの探求を始めたようである。それが深いレベルで結実したのが代表作である「松林図屏風」であり、ここには何となく彼が感じていたと思われる無常観が漂っている。
長谷川等伯という巨匠について十二分に堪能できる展覧会で、実に中身の濃いものであった。惜しむらくは会場内の大混雑であるが、展覧会の会期の短さと内容の濃さを考えると仕方ないか。
とにかく入場客が多くて会場が一杯だったのが難儀であったが、それを避けつつ空いているところから見ることを心がけた(特に入口付近が異常に混雑する)ために「松林図屏風」などは十二分に堪能することが出来た。なお本展は京都にも巡回予定だが、そちらでも大混雑が予想される。実は私がわざわざ東京まで出張ってきたのは、こちらの方が器が大きいので、まだいくらかでも混雑がマシではないかと判断したためというのがある。
等伯を堪能した後は同じ上野地区の展覧会をはしごすることにする。
「フランク・ブラングィン展」国立西洋美術館で5/30まで
国立西洋美術館のコレクションの母体となっているのは、川崎造船所初代社長であった松方幸次郎による松方コレクションであるが、彼が西洋絵画をコレクションするにあたってその参謀となったのが、表題のフランク・ブラングィンである。いわば大原美術館における大原孫三郎に対する児島虎次郎の位置づけになる。ブラングィンは工芸装飾から絵画まで幅広く手がけるイギリスの芸術家であり、渡欧していた同年代の松方と意気投合して親交を深めることになったという。
なお松方は蒐集したコレクションを日本で公開するため、共楽美術館という日本初の西洋美術館の設立を計画しており、そのデザインなどをブラングィンに依頼、用地の買収などまで計画が進んでいたという。しかし第一次大戦後の造船不況と追い打ちをかけるような関東大震災の発生で、川崎造船所の経営は急激に悪化、美術館建設資金はなくなり、コレクションも宙に浮いたまま散逸やロンドンでの火災での焼失など悲劇に見舞われたという。本展ではブラングィンの芸術を振り返ると共に、この幻の共楽美術館についても最新技術による復元を行っている。
ブラングィンの作品についてだが、一見した印象としてはかなり保守的という感を受ける。また工芸デザインや壁画などを手がけていたと言うだけあって、装飾的であるという印象も受ける。かなり才能豊かな人と思われるのであるが、時代に突出するというタイプではないように思われる。ただそれだけに独善に走るというところがなく、壁画などのデザインで最も最大公約数的に受け入れられやすいタイプの芸術家であるとも言えそうだ。そういう点では、どことなく児島虎次郎との共通項が感じられるのであるが。
上野地区での予定を終了すると移動にかかる。東京での本遠征の第二目的は、国立新美術館で開催中の「ルノワール展」であるのだが、まだ時間的に余裕があるのでその前に一カ所立ち寄ることにする。それは山種美術館。日本画専門で高いコレクションレベルを誇る同館であるが、今までは展示スペースがかなり手狭である上に駅から遠いとかなり立地に恵まれていなかった。それがこの度、恵比寿駅から徒歩10分後に移転し、展示スペースもかなり広くなったとのこと。これはやはり是非とも訪問しておきたい。
JR恵比寿駅で下車すると、途中で昼食を摂ってから美術館に向かう。なおこの時に昼食を摂ったのは恵比寿駅近くの「十利久」。どうやら夜は酒がメインとなる和食店のようだが、お昼にはランチがあるというパターン。私が注文したのは「豚ロース焼き膳(945円)」。
なかなか普通に美味しいし、ボリューム的にも十分。圧倒的にCPが悪い店ばかりの東京ではかなり貴重な存在かも。ただ営業が平日のみという典型的なオフィス街などの店なので、今後は利用する機会はなさそう・・・。
美術館は駅から軽い坂を上っていくような位置にある。ただ上り坂は大したことがないが、途中でバリアフリー非対応の歩道橋を無理矢理に通らされる町の構造には呆れた。どうも人に優しくない町のようである。
目的の美術館はビルの地階に入っている。展示スペースは以前の倍ぐらいになっていてかなりゆったりしている。また一階にはカフェなどもあり(私は利用することはないと思うが)、以前に比べるとかなり環境が良くなった印象。
「大観と栖鳳−東西の日本画−」山種美術館で3/28まで
非常にレベルの高い近代日本画コレクションで知られる山種美術館だが、同館のコレクションから大観と栖鳳という東西の巨匠を中心に優品を集めた展覧会。同館の看板の一つである栖鳳の「斑猫」も展示されている。
一応客寄せのためか大観、栖鳳といったメジャー看板を正面に出しているが、実際には他の画家の作品がかなり多く、またそう言った中に秀品の数々があふれている。いずれ劣らぬ名品ばかりなので、近代日本画に興味のある者なら退屈することはないと断言できる。
山種美術館を後にすると、地下鉄を乗り継いで次の目的地へ。ここが本遠征主目的No2。
「ルノワール−伝統と革新」国立新美術館で4/5まで
優美な人物画で有名なルノワールの作品を集めた大規模な展覧会。彼の初期の作品から集めているので、彼の表現の変遷をも理解することが出来る。また展覧会として面白いのは、ポーラ美術館所蔵の数点に対して、X線や赤外線による科学的分析を行った結果に基づいて、彼の表現の変化などについて解説している点。晩年になるほど表現に迷いがなくなっているという点が興味深かった。
初期は印象派と行動を共にした彼だが、印象派的表現を突き詰めていけば行くほど人物の表現が曖昧になってしまうというジレンマに陥り、最終的には印象派的表現を棄てて輪郭線を甦らせている。ただその後も色彩をキャンバス上に並べて視覚合成することで光を表現するという印象派的手法は踏襲しており、特に背景の描写などにはそのような手法が用いられているのがよく分かる。
内外、特に日本国内の主立ったルノワール作品を集めているので、ルノワールマニアにはたまらない展覧会。私などの場合は、「あっ、これは○○美術館の、こっちは□□美術館」とかなりお馴染みの絵も多数あったという印象。これだけの作品を一堂に集められる機会というのはなかなかに貴重である。
ここまで4展をはしごしたが、いずれもかなり堪能できる内容の美術展で、久々に精神的に充実したという思いである。つくづく休みを取ってまでやって来て良かったと思う次第。仕事などで精神がくたびれてきた時には芸術的刺激に限る。
また夕刻前であり若干の時間があるので、最期にさらにもう一展だけはしごする。
「美しき挑発 レンピッカ展」BUNKAMURAで5/9まで
1920年〜30年代、アール・デコの潮流がヨーロッパを席巻していた時、時代の寵児として注目を浴びた女性画家がタマラ・ド・レンピッカである。ワルシャワに生まれて、ロシア革命でパリに亡命した彼女は、その自由な生き方によって当時の「解放された女性」の象徴として脚光を浴び、彼女の独特の感性を持つ絵画も世間に注目されることになる。その後、第二次大戦でアメリカに渡り、激動の時代の中で世間から忘れられていたのだが、近年になって再評価の気運が高まることになったという。その彼女の作品や人生を振り返る展覧会。
彼女の生き方については、多分に実像以上に虚飾された部分があったように思われたが、それは時代が求めたものなのだろう。同様に時代というものは彼女の作品に色濃く反映している。彼女は最初はキュビズムの影響を受けたとのことだが、彼女のいかにも無機物的で記号的にも見える人物表現には、そのキュビズムの影響の残滓が見られているように感じられた。なお人物を立体造形的に捉えている画風に対しては、非常に男性的という印象も受けた(人物が無機的に見えるという点ではキスリングなどと共通する印象)。これが彼女が当時世間にもてはやされた理由の一つか。
晩年には心境の変化からか作風が一変したようであるが、個人的には初期のシャープさをなくした彼女の作品にはあまり魅力を感じなかった。やはり時代に乗って、最後は時代に取り残された芸術家だったのだろうか。
なお最近は美術展の音声ガイドも凝ったものが増えているが、長谷川等伯展は松平定知アナで「その時、歴史が動いた」とやって、ルノワール展は松坂慶子でまったりと、レンピッカ展はナレーション夏木マリというのはさすがに吹いた。
これで今日の展覧会予定はすべて終了である。後は今日の宿泊予定である「ホテルNEO東京」に向かうだけであるが、その前に夕食を摂っておく必要がある。ただ正直なところかなり疲れたので、少し甘物が欲しくなった。そこで久しぶりに神楽坂の「紀の善」を訪ねることにする。
もちぜんざい
注文したのは「もちぜんざい(840円)」。ぜんざいというメニューに対する解釈が関東と関西では違うようで、こちらのぜんざいはあんころ餅のようなイメージ。どうやら関西風のぜんざいはこちらではしるこになるようだ。もし餡の質が悪ければ「こんな甘ったるいもの食えるか!」になるところだが、相変わらずここは餡の味が上品であるのでこれが非常に旨い。さらに夜食用の定番「抹茶ババロア」をおみやげに合わせて購入する。
こちらは夜食の抹茶ババロア
さて夕食だが、あまり重たいものを食べる気はしない。もう店を探すのも面倒なので近くを見回すと、ちょうど向かい辺りに「藪蕎麦」というそば屋を見つけたのでそこに入店する。
東京ではそば屋は夜は飲み屋になるというのが定番のようであるが(関西人の私にはどうもそば屋で酒を飲むという習慣にはなじめない)、ここも既にそういう客が中心となっている。とりあえずメニューを一渡り見回して、私は「カツ丼(850円)」を注文。
何ら特別のものはないが、普通に旨い。東京ではこういう店が実に貴重。今回は偶然ながらこういう「普通の店」に巡り会うことが出来た。私も大分東京に慣れてきたか。
この日はホテルに戻ると疲労と翌日の準備のために早めに就寝したのである。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時前に起床すると、買い込んでいたパンを朝食代わりに食べてからホテルをチェックアウトする。今日は大移動になる予定であり、早朝からの活動となる。
南千住から常磐線に乗り込むと我孫子で成田線に乗り換えて成田まで移動する。この経路は以前に東京遠征の時に辿っているが、我孫子までの常磐線沿線は住宅地なのに、成田線に入った途端に沿線が急に閑散とするという対照的な変化が印象的である。ちなみに成田空港へのアクセスルートとしては総武本線経由のルートとこちらのルートの二つが考えられるが、こちらのルートは大回りである上に我孫子−成田間が単線であることがボトルネックになるためか、空港アクセスルートとして想定されておらず、もっぱらローカル線イメージが強い。
出典JR東日本HP 成田に到着するとここから銚子行きの列車に乗り換えるが、ここでしばしの乗り換え待ちになる。常磐線から先に進めば進むほど運行本数が減っていくというイメージである。やがてホームに到着するのはこの地域でよく見かける青い113系。ボックスシートの古色蒼然とした車両であるが、本遠征では今後もこの車両とかなりの頻度でつきあうことになるだろうと予想される。なお我孫子−成田間の路線は成田線の支線という扱いであるが、我孫子方面から銚子方面に直結する列車はなく、すべて千葉方面へと直行している。我孫子方面から銚子方面に直行しようとするとスイッチバックの形になってしまうので、その意味もないし需要もないのだろう。
成田駅からは113系列車で 成田を離れると沿線はあっという間に何もない田んぼばかりの風景になる。こうしてこの辺りを走ってみると、成田は田んぼの真ん中に孤立している新興都市というイメージであるのがよく分かる。当然ながらその奥にある空港が不便極まりないのも当たり前。つくづく、なぜこんな馬鹿な立地にしたものかと日本の航空行政の無策さに呆れる次第。長年の利権優先政治の弊害であろう。
成田線は田んぼの中を北上すると、やがて大きく右にカーブして、利根川と一定の距離を取って併走するようになる。この辺りなどは完全にローカル線であり、東京近郊とは全く異なった風景が繰り広げられる。だから東京人間は千葉県民を田舎者と馬鹿にするようだが、これは都会人にありがちの愚かさでもある。都会人は往々にして都会が周辺の田舎を養っているかのような錯覚を起こすのだが、実は都会の方が周辺の地方に水・食料その他を含めて生活のバックボーンを頼っているのである。これを理解していない都会人の愚かさを体現していたような小泉政権の元での一連の地方切り捨て策の結果が、今日の日本の荒廃につながっているのは今更言うまでもない。だからこそ今のうちに何とかしないといけないのだが。
この沿線はとにかく延々と田んぼの風景であり、いくらか大きい集落は佐原周辺のみ。この佐原からは鹿島線が北方に出ているが、こちらの視察については本遠征の最終日に計画している。とりあえず今はこのまま銚子に向かう。
沿線風景 成田線は銚子の手前の松岸で総武本線と合流し、形の上ではここまでという事になるが、実際にはすべての列車が一駅先の銚子まで乗り入れている。実際、松岸周辺よりも銚子駅周辺の方が人口も多く、この辺りの地域の中心というイメージである。
銚子駅で降り立つとそのホームの先端の方に銚子電鉄の乗り場がある。これが別名「ぬれ煎餅電鉄」とか「桃太郎電鉄」などとも呼ばれるその世界では有名な路線らしい。実際、驚くほど古い老朽車両が運行されている。私もここまで来たからにはついでにこの路線も視察していくことにする。
銚子電鉄路線図 銚子電鉄は営業キロ数6キロ程度の小さな単線電化路線である。赤字経営のために車両の更新の費用が出せず、その費用を捻出するためにぬれ煎餅を販売して、その収益で車両を更新したことで知られる鉄道会社でもある。このぬれ煎餅は今でも同社の収益を支える大きな柱であると共に、この地域の観光資源にもなっているとか。またいかにも古色蒼然としたその車両などが郷愁と旅情を誘うことから、鉄道マニアのみならず一般観光客にも注目されており、またドラマや映画の撮影などに使用されることもよくあるとのこと。
かなり古色蒼然とした列車 シートにはツギが当たっています まあ確かに沿線はやたらにキャベツ畑が目立つのどかな風景であるし、運行される列車はシートにつぎの当たっているような老朽車両と言うことで、最近流行の昭和レトロの雰囲気が満載である。ただし沿線にはリゾート地化している犬吠埼とか意外と観光資源は多い。赤字路線という割には乗客が満員だと思ったら、犬吠埼への団体客が乗り合わせていた模様。地元民の利用もあるようだし、この路線も滅びるべき路線ではないという印象。
桃太郎電鉄とすれ違った 銚子電鉄は完全なパターンダイヤになっており、二両の列車が中間の笠上黒生で行き違いをして運行されている。運行されているのはこの老朽車両と、桃太郎電鉄ラッピングの車両である。なお銚子−笠上黒生間に車掌が乗車して乗車券の販売などを行っていた。私は終点までの往復乗車券を購入する。
外川駅の風景 犬吠埼で大量の乗客が降車すると、私を含めて数人が終点の外川まで。外川は終着駅と言っても特に何もあるわけではなく、唐突に線路が途切れているというイメージ。この先には漁港があるとのことだが、駅から見えるような範囲ではない。また犬吠埼駅からは本州最東端の犬吠埼の先端にたどり着くことも出来る。意外といろいろと沿線に興味を惹くところがあり、見学したい衝動に駆られるが残念ながら今日はそんな時間的余裕がないのですぐに引き返すことになる。帰りの列車に乗り込むと、先ほどここまで乗車していたメンバーのほとんどの顔が見える。例によって私以外は鉄道マニアであった模様。
そう言えば最近はごく一部の鉄道マニアのマナーのひどさが問題化しているが、ここでもそういう類が出没するのか、運転台のところに「ここで撮影しないで下さい」という表示が出ていた。運転士の邪魔になることも考えない輩がいるのだろう。よく問題になっているのがいわゆる「撮り鉄」であるが、どうもやはり「良い写真」を取ろうと思うと無茶なこともするし、傍若無人な振る舞いをする輩もでるのだろう。ただ個人的にはこれは鉄道マニアというよりも写真マニアの特性のように思われる。実際、鉄道系イベントで「撮り鉄」が起こしている大混乱って、プロの報道カメラマンが事件現場で起こす大混乱とそっくりだから。関係ない人間に「邪魔だ!」って叫ぶなんてのは、まさに報道現場そのもの。写真にこだわるとこうなってくるのだろう。ちなみに私は写真にこだわる気はないし、こだわっても仕方ないぐらいそもそも撮影センスがないし。私のは単なる記録写真ということなので、私のページを見た人ならすぐに分かるぐらいひどい写真ばかりです(笑)。アングルとかなんて考えてないし、関係ない人とか入りまくりだし。マニアだったら我慢できないような写真ばかりだろうな。なおネットなどで鉄道マニアがすべて非常識人間みたいに叩いている輩には病的なものを感じる。まあこういう奴は理由はなんであれ、他人を叩くことが目的なんだろう。ネットにはよくいる手合いの一番質の悪いユーザーである。実際に私は各地で鉄道マニアらしき連中を多数眼にしているが、今までにそんな目に余るという輩にはほとんど遭遇していないから。それともそういう危ない連中が集まる場所がどこかにあるんだろうか。
銚子に戻ってくると、ここからは総武本線で移動ということになる。車両はやはりお馴染みの113系である。松岸で成田線と行き違いしつつ分かれると、そのまま南下をしていく。最初の頃はまるで海岸の防風林の中のようなところを疾走するが、やがて広大な平地に出る。人家が多く見えだすのは旭から八日市場の間辺りで、この辺りが一番沿線人口が多そうで乗り降りも多い。以前にも来たことのある成東に到着すると、私はここで東金線に乗り換え。東金線は相変わらず乗客はそこそこおり、大学などが来ていたりするようだが、沿線の宅地開発は何となく中途半端な印象もある。
沿線風景
大網で乗り換えるとここからいよいよ外房線による房総半島一周に入る。と言っても、まずは茂原で途中下車。この辺りまではまだ比較的市街地が続いている印象。事実、この辺りまでは東京通勤圏に入るらしい(と言ってもとんでもない距離だとは思うが)。ただ駅間にはかなり閑散とした風景も広がり始める。茂原周辺は交通混雑を避けるためか高架化されている。
茂原で下車するとまずはロッカーにトランクを放り込んで身軽になっておいて、バスで目的地までいどうすることにする。目的地は茂原市立美術館。そうあくまで私の遠征は美術館遠征なのである。
茂原に到着
美術館最寄りという藻原寺バス停で下車するが、全く目的地の方向を示す表示などがなく、いきなり道に迷って辺りをグルグルする羽目になる。ようやく藻原寺の近くで美術館の方向を示す標識を見つけるが、それに従うと墓地の真ん中を延々と歩いていく羽目になり、本当にこっちであっているのか不安になってくる。引き返そうかと思った頃に次の標識を発見、さらに北上することになる。寺院のエリアを抜けるといかにも郊外の山間公園という雰囲気になるが、ここが茂原公園。目的の美術館はこの公園の西の端に位置する。なおHPではバス停下車徒歩10分と記載されていたが、やや道に迷ったことを差し引いて考えても軽く15分はかかっている。まるで駅前不動産屋の手口である。
茂原市立美術館
収蔵品は地元の画家の作品。私が訪問した時には、個人美術館かと思うぐらい鳩川誠一の作品ばかり並んでいた。ただ彼の作品については今一つ興味が湧かない。むしろ同時に展示されていた林功の作品の方が面白い。
ちなみに同館には郷土資料館も併設されており、そちらでは里見氏の興亡の歴史などが展示されており、これは今後のための予習として有意義。なおここの美術館は「自治体が経営しているので無料」とのことであり、これはなかなか太っ腹。なお施設はなかなか立派なのだが、その割には入館者が少なかったのが気になるところ。
茂原公園
美術館の見学を終えた後はプラプラと公園を散策しながら市役所最寄りのバス停まで移動(これがまた遠い)、運良くバス停に到着してすぐにバスがやって来たので、それで茂原駅まで帰還する。
茂原駅まで戻ってくるととりあえずの昼食代わりに駅でそばを腹に入れる。そして茶でも購入しようとキオスクの方に行くと、なんとここで銚子電鉄のぬれ煎餅を販売している。先ほどの銚子訪問では土産物を購入する暇がなかったので、ここで土産物を購入しておくことにする。
またこの車両
ホームでしばし待った後、安房鴨川行きの列車に乗車する。ここからは延々と田舎の風景。ただ千葉北部は田んぼの風景であるのに対し、こちらは海沿いの風景になってくる。途中でいすみ鉄道始発駅の大原に到着するが、ここは住宅はそれなりにあるが特に何もないところ、これはいすみ鉄道の経営がしんどいのも頷けるが、とりあえずいすみ鉄道視察はあさっての予定。ここを過ぎてしばらく進むとホテルなどが林立してリゾートムードが漂うのが勝浦周辺。ここら辺りからは車窓から海がチラチラと見え始める。乗換駅の安房鴨川周辺はちょっとした都会であるが、ここらが鴨川市の中心地区であると同時に外房地区の拠点の一つでもあるようだ。
安房鴨川で乗り換え
安房鴨川で乗り換えるとここからは内房線となる。と言っても車両的にも沿線風景的にも外房線とそう大きく変わるものではない。列車はしばらく南下すると、海を離れて山の中に入っていく。ここから房総半島の先端部を横断すると房総突端の都市である館山に到着である。ここも房総半島の拠点の一つの模様。遠くに館山城の天守も見えている。なお明日にここを訪問する予定であるので、乗り換えると先を急ぐ。
謎の建物
ここからは海と山が交互に来るような沿線風景。途中の安房勝山で駅を見下ろすような急峻な山頂に天守のような建物が見えるが、これは天守ではなくて展望台だとか。いわゆる天守風インチキ建物である。なお歴史的に見るとこの辺りには勝山城という城があったらしいが、この展望台がある場所とは違うらしい。この山、いかにも急峻な要害であって興味深いのだが、ただ城郭を作るには山頂部が狭すぎそうである。
海沿いをひた走る
さらに進んで、東京湾フェリーの発着地である浜金谷を過ぎるが、この辺りは海に近いところを走行する。ただ正直なところ、外房線から延々と列車乗り続けであるので、もうかなり疲労が溜まってきているし、単調な沿線風景にも大分飽きて来た。そして惨々に疲れ切って、日も西に傾いてきた頃にようやく目的地である君津に到着。ここが今日の宿泊地である。朝の7時前に南千住を出てから、途中で銚子と茂原でしばし途中下車はしたものの、後はほとんど列車に乗りっぱなし。さすがに鉄道マニアではない私にはこれはきつすぎる日程であった。
本日の宿泊ホテルはホテルクラウンヒルズ君津。例によって選択基準は大浴場付き朝食有りである。部屋が私の好みよりもやや暗めなのが気になったが、これはフロントで電気スタンドを借りて解決。その他に関しては特に不満もないホテルであった。
ホテルにチェックインしたところで夕食を摂りに出ることにする。店を探すのも面倒なのでホテルのちょうど裏手にある「いわし亭」に入る。注文したのは「いわし亭御膳(2100円)」。
左 鰯の刺身 中央 マグロのカマ 右 味噌和え
左 いわしフライ 中央 鯛のアラ汁と焼きおにぎり 鰯を中心とした魚系の料理ばかりだが、これがなかなかに旨い。鰯の刺身などや味噌和えの類も旨いが、やはり一番は鰯フライ。オーソドックスなのだが、どうしてどうしてこれが鰯の鮮度が良くないとさっぱり駄目である。このフライ一つでネタの良さが分かる。また私が一番感動したのは最後に出てきた鯛のアラ汁。これがシンプルなのだがその味の深さに心底感動。私の入店後もサラリーマンが続々と入店してきてかなりの人気店であることがうかがえたが、それも納得の内容。またこれでこの価格は明らかに安い。とにかくCP面で抜群である。
夕食を堪能した後はホテルに戻ってまったり。遠征記の執筆にかかったが、やはり疲労が強くてほとんど進まない。そこでさっさと風呂にはいると早めに床についたのであった。
☆☆☆☆☆
さて三日目である。昨日一日ほとんど列車に乗りっぱなしだったせいで朝から体に少々疲れが残っているが、そんな細かいことは気にしていられない。とりあえず6時頃に起床すると、ホテルで朝食を摂ってから直ちに出発する。今日の予定はまずは久留里線の視察、さらには沿線の久留里城の見学である。
内房線で隣の木更津駅まで移動すると、そこから久留里線に乗り換えである。久留里線は単線電化路線で、首都圏では珍しくディーゼル車が走っている路線になる。そのせいか、木更津駅からいきなり多くの鉄道マニアの姿を見かけることになる。
久留里線のディーゼル車
久留里方面からの車両は4両編成で到着したようであるが、それが木更津で2両編成に切り離されている。朝のせいか降車客はほとんど学生のようである。彼らと入れ替わりに乗車すると出発。
沿線風景
内房線から分かれた路線は大きく右にカーブし、ひたすら平原の中を突き進む。最初の二駅ぐらいは人家があるのだが、後はひたすら田圃の中を突っ走るという路線になる。いわゆる典型的なローカル線の風景である。またキハ38はいかにも鈍重なイメージ。私がよく乗るキハ120の軽快な加速と比べると月とスッポン・・・というよりもウサギと亀か。いかにも出足が遅くて速度が乗るまでに時間がかかる。やはり軽量コンパクトのキハ120と違って大型車両の限界だろう。
久留里駅に到着
このまま延々と平地を走行して、そこに山が迫ってきたところが久留里である。この地形を見ただけでこの地が要衝であることが分かる。「久留里城」は房総に勢力を張った里見氏ゆかりの城であり、かつては華々しい争奪戦の中心となったという。安房に勢力を張っていた里見氏とすれば、ここの城を押さえられてしまうと房総半島の先端に雪隠詰めになるし、逆にここを押さえるとさらに北方の肥沃な平野への進出の足がかりになる要地である。なお里見氏と言えば、「信長の野望」などのゲームでは北条氏に滅ぼされるための存在のような位置づけで、能力値パラメータの設定の低さなどから、同じく上杉か本願寺に滅ぼされるために存在している能登の畠山氏並に存在感が希薄である。しかし実際の里見氏は房総の支配権を巡って北条氏と互角に渡り合っており、ただの弱小大名とは違う。とは言うものの、最後は江戸湾の入り口に有力な外様大名がいることを懸念した徳川氏によって強引に国替えされ、その後事実上家系が絶えてしまっているなど、かなり悲惨な末路をたどっている。なお畠山氏と同様に家中での内乱の多さが評価が低くされている理由か。
左 車道を上っていく 中央 かなり高低差がある 右 どんどんと道が深くなっていく 久留里城であるが、久留里駅から2キロ程度離れた山頂にある。そこまで歩いていく時間もなければ、体力も残っていない私は(既に昨日までで足がほとんど終わってしまっている)無理をせずにタクシーで移動する。ただしタクシーで行けるのは麓の駐車場まで。実はここから二の丸にある資料館までは車道は通じているのだが、許可車両しか入れないことになっている。これはおそらく山頂が狭くて駐車スペースがないためだろう。ここでタクシーを降りると、尾根筋を開削して作ったと思われる車道をテクテクと登る。
左・中央 堀切の跡 右 薬師曲輪に到着
左 薬師曲輪から見下ろす久留里城下 中央 資料館 右 資料館内の久留里城模型 しかしこれが既に足が終わってしまっている私には重労働。しかも情けないほどにすぐに息が上がる。途中で深い堀切の跡があったりなどなかなかに楽しませてもくれるのであるが、基本的には難行苦行である。決して長いとは言えない急坂を10分ほどかけて登ったところでようやく二の丸の資料館に到着。ここには久留里城の模型や由来の品々があったりするが、これよりも一番の見所は、ここから少し下がった薬師曲輪跡から見下ろす久留里の町の風景であろう。三の丸を直下に見下ろすことが出来るが、とにかくここが戦略上の要衝であることが理解できる光景である。
左 さらに天守へと上っていく 中央 天神曲輪跡 右 井戸にはまだ水がある ここからさらに登ったところが天守跡になる。その途中に井戸があり、今でも水を湛えている。この城も山城に不可欠の水には困らなかったようだ。なお当時の天守台跡の真横に鉄筋コンクリートによる「なんちゃって天守」があるが、これの外観も資料がかなり怪しいようで、やはり限りなく「とんでも天守」に近い代物のようである。
久留里城天守
天守のとなりにあるのが本来の天守台
山頂まで到着したところで、怪しげな鼻歌が自然と出てくる。私の作詞による「おさかな天国」ならぬ「お城天国」である。
ますます素敵な姫路城。 大したもんだね松本城。
国宝 犬山、彦根城。 高知、松山、弘前 遠い。
すごい石垣、丸亀、備中松山。 渋い松江、丸岡、宇和島。
お城お城お城、お城を攻めると。頭頭頭、頭が良くなる。
お城お城お城、お城を攻めると。体体体、体に良いのさ。
さあさあ各地のお城を攻めよう。お城は僕らを待っている。
左 登城筋を下る 中央 途中にある火薬庫跡 右 さらに下の道 帰りは尾根筋の方のかつての登城筋跡などを見学しつつ下の駐車場まで降りてくると、PHSでタクシーを呼び出して(田舎に弱いPHSでは電波がかなりしんどかった)、久留里駅まで戻ってくる。結局は見学に費やした時間は1時間足らずであった。なお私は今回のスケジュールについては、久留里城見学2時間コースのプランAと1時間コースのプランBを用意していたのだが、このプランBの方を適用することとなった。プランBはとりあえず一旦久留里線の終着駅である上総亀山まで列車で移動してから、そのまま折り返してくるという単純なものである。
久留里駅では上総亀山方面の列車と木更津方面の列車が行き違いするようになっているが、やはり乗客は圧倒的に木更津方面の方が多い。なお上総亀山行きの列車に乗り込んだのは、数人の地元民と明らかにそれと分かる鉄道マニア連中。どうも都心近辺では珍しいローカル線ムードが鉄道ファンを引き寄せるのか、この路線は異様に鉄道マニア密度が高いようである。しかも私が見かけたのはかなり年季の入った年配マニアばかり。
沿線の風景 上総亀山までの行程はこれまでとうってかわっての山岳風景である。列車は途中で渓谷のようなところを越えたりしながらほどなく上総亀山に到着する。地元民はさっさと駅前から車で移動してしまうが、先ほどの鉄道マニア連中は車両の周りや駅の周辺で写真を撮りまくっている。しかも年配マニア軍団は車両の台車の写真を撮りながら何やら会議中。そのあまりの濃さに鉄道マニアではない私にはついて行けない世界。何となく来るところを間違ってしまったかという気もしないではない。
上総亀山駅に到着 列車は十数分で折り返すのでそれに乗車する。ちなみに先ほど没になったプランAとは、ここからコミュニティバスと高速バスを乗り継いで安房鴨川に抜けるというプランであった。なお計画立案最初期に組んでいたプランは、ここからコミュニティバスで近くの温泉宿に行き、昼食がてらに温泉を楽しんでゆったりしてから高速バスで安房鴨川に抜けるという優雅なものであった。しかし何と出発前日の最終確認で、高速バスのルートが落石によって変更になっていることが判明。温泉に寄っているとバスに乗れないことが分かってしまったという次第。その結果、ただ単に房総半島をバスで駆け抜けるだけの何とも味気ないプランに変更になってしまった次第である。とは言うものの、もしこの情報を見つけていなければ、当日になってバスの来ないバス停で呆然とする羽目になっていた可能性もあったわけで、最悪の危機は回避したとも言えるのではあるが。なおいざ実行の段になると、これよりもさらに味気ないとんぼ返りプランが採用になってしまった次第である。
帰りは行きの逆をたどるだけだから面白味に欠ける(だから私は盲腸線の往復は嫌いで、出来る限り一筆書きを描きたがるのだが)。ただその課程でちょっとした異変が。先ほど上総亀山で下車した時から感じていたのだが、風がかなりきつくなってきており、それが列車の運行にまで影響するレベルになってきたようである。結局、吹きさらしの渡河ルート部分が速度規制がかかって徐行運転になってしまって、木更津駅の到着は4分ほど遅れることになる。正直、次の乗り換えを考えるとかなりキツイのだが、こうなると成り行きに任せるしかない。
緊急事態発生
木更津駅には乗り換え列車の発車時間ギリギリに到着する。しかし・・・乗るはずの列車が到着していない。実は私はこの後、昨日通過した館山を訪問するつもりだったのだが、内房線のダイヤが強風のために滅茶苦茶になっており、館山行きの列車は30分以上到着が遅れていると言うのである。
こうなった時点で私が事前にくみ上げていた綿密な計画は音を立てて崩れていく。もうこうなると後は成り行きに任せるしかないと腹を括る。それにしてもここで先ほどにプランBを採用したのはラッキーだったとつくづく感じるのである。木更津で立ち往生するのと安房鴨川で立ち往生するのを比較すると、間違いなく木更津の方が何かと融通が利く。安房鴨川で立ち往生なんて事態は考えるだけでゾッとするのである。
目的の列車が到着するまで30分待ち。こうなるととりあえずは腹ごしらえでもしておくしかないが、かといってどこかの店に入っている時間的余裕はない。結局は駅前のコンビニでパンを買い込んでこれが今日の昼食となる。どうも昨日といい、今日といい、本遠征は昼食が滅茶苦茶になってしまっている。
30分以上遅れてようやく館山行きの普通列車が到着する。とりあえずはなるようになるしかないと腹を括ってこれに乗車するが、結局は途中で行き違いの待ち合わせなどでさらに遅れが拡大し、館山駅に到着したのは予定よりもはるかに遅れた時間であった。
ようやく館山駅に到着
しかし困ったのは館山駅に到着してからである。ここから館山城のある城下公園までバスで移動するのだが、館山駅の駅前の構成は複雑すぎて、そのバス停がどこにあるのかよそ者には全く分からない。いっそのことタクシーを使うことも考えたが、ダイヤの遅れの煽りを食った乗客がタクシー乗り場に行列を作っており、これではいつ乗れるか分かったものではない。結局は散々ウロウロした挙げ句にバス停はようやく見つけたものの、目的のバスが到着するまでにはかなりの時間を待つ必要があることが判明するのである。
目的のバスは予定の時間よりかなり遅れてバス停に到着した(バスの時刻表を読み間違ったかと思ったぐらいである)。これでようやく目的地に移動することになる。
「館山城」は里見氏が本拠地にしていた城郭である。しかし里見氏が徳川氏によってこの地を追われてからこの城は廃城になったという。現在は山頂に天守が見えるが、これも鉄筋コンクリートによる「とんでも天守」で、中身は博物館だとのこと(よくあるパターンだ)。なお麓にも博物館があり、入場券は共通となっている。とりあえずは麓の博物館の方から先に入場・・・なのだが、ここの公園の案内図が極めて分かりにくいものであり、危うく道を間違えかける。なお博物館の展示自体は里見氏の歴史と地元の民俗資料、さらには地元ゆかりの芸術家の作品といったよくあるパターンであった。
山の上の館山城とその麓の博物館 次は天守を目指すのだが、これがまた延々と上り坂を登るという苦行。完全に公園整備がされているので、山城を攻略するような困難さはないのであるが、その代わりに全く面白味に欠ける。江戸時代初期に廃城になった上に、後に完全に公園整備されてしまったせいか、当時の遺構と思われるものはザッと見ただけでは私には見つけられない。
館山城天守(博物館)
山頂の天守は飾りとしてはなかなか。なお中身は八犬伝にまつわる博物館となっている。とは言うものの、私はこの手にはあまり興味はないのでさっさと帰り支度することにする。
天守からは市街を一望 とりあえずバスで館山駅まで再び戻ってきたが、この時に事態は私の予測を超えてさらに悪化していることが判明する。とうとう強風のために内房線が運行停止になってしまったというのである。駅員に確認したが、とにかく運行再開の目処が立っておらず、今後どうなるかは分からない状態とか。上総湊−佐貫町間が強風で運行停止になったため、東京方面からの列車が全く来なくなってしまい、館山から上総湊まで運行しようにも館山以遠に車両がない状態になってしまっているとのこと。館山駅にはそろそろ帰宅予定の客が集まってきておりパニックになっている客もいる(「うそー、まさか歩いて帰るの?」という女子高生の声が聞こえていたりする)。その一方で、地元民らしき人の「あぁ、またあそこか」という声が聞こえていたりするところを見ると、上総湊−佐貫町間が強風で運行停止というのはよくあることのようだ。
駅では大惨事
東京方面に帰る予定の乗客たちは慌てて高速バスの乗り場に走っており、もう既にバスは満杯のようである。ただ君津に戻る予定の私としては、東京行きのバスはあっても君津行きのバスはないし、結局は腹を括ってここで待つしかないようである。館山に来た時点で今後は出たとこ勝負の覚悟は決めていたが、まさか最悪はホテルに戻れない可能性までは考慮していなかった。全くトラブルとはどこから舞い降りるか分からないものである。
やむなく駅でしばし待つことになる。もう今日の予定はこれで終わりという覚悟は決めているので、後はとにかく君津に戻るだけだから、最悪でも今日中には帰れるだろうと読んでいるが、気になるのはこれから明日にかけて天候は悪化する方向にあるということ。とはいえ今は様子を見るしかない。
夕方頃になってようやく強風で運休になっていた上総湊−佐貫町間がとりあえず通行可能になったとのことで、新宿行きの特急さざなみが間もなく発車するとの情報が入ってくる。こういう時にはとりあえず動く列車に乗るというのが鉄則。情報が錯綜する大混乱の中で駅前で待っていた乗客が一斉にさざなみに飛び乗っていく。私もとりあえずさざなみの自由席に乗車することにする。
大混乱の中、特急さざ波に乗車
さざなみは途中で停車したり徐行運転をしたりしながらも北上、途中の駅で次々と足止めを食らった乗客を拾って車内は満杯となる。問題の上総湊−佐貫町間(海沿いのところかと思っていたが、案に反して山の中の吹きっさらしであった)ではトロトロと徐行運転。しかし何とか君津まで到着したのであった。ちなみに青春18切符しか所持していなかった私は、君津駅で「館山から特急さざなみで帰ってきた」旨を駅員に告げたのであるが、大混乱の中での特例ということで駅員が現場裁量で認めてくれたようである。ありがたい話である。
結局は散々な目にあったが、それでも当初に計画していた予定のほとんどは消化することが出来た。また強風ではあったが天候は良かった(常に晴天で雨は降らなかった)のは幸いであった。結局この日は、ホテルの近くのラーメン屋で夕食を済ませ(「いわし亭」を再訪したのだが、残念ながら一杯であった)、風呂に入ってゆっくりすることになった。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時前に起床したが、テレビをつけると前日以上の大混乱であった。発達した前線の影響で朝から関東一円の鉄道は一斉に運行停止、ニュースはまるで大震災でも起こったかのような大騒ぎ。ふと、もし関西一円の列車が全面停止しても全国ニュースなんてほとんど騒がないだろうなということが頭をよぎる。どうしても東京人は、アメリカ=世界と考えているアメリカ人と同様、東京=日本というような考えが抜けないようだ。
とりあえずホテルで朝食を済ませるが、まだ外の天候は荒れているようであり、そのまましばらくホテルに缶詰になることを余儀なくされる。当初の計画では今日は小湊鐵道といすみ鉄道を乗り継いで大多喜を訪問するつもりであったが、いきなり前途多難。最悪は予定を全部中止かと考えながらしばしネットでの情報調査。
そのうちに外は雨もやんで明るくなってくる。気象庁のサイトにつないでレーダー映像を確認すると、雨雲はもう太平洋上に去っていきそうな気配。さらに小湊鐵道やいすみ鉄道のサイトにつないでも運休などの様子はない。私が恐れていたのは、昨晩の嵐によって倒木などが線路を塞ぐという事態であった。しかし両線共に既に朝一番の列車は発車済みであることから、両線は問題なく運行していると判断。JRのダイヤは滅茶苦茶であるものの、当初の予定を決行すべしと判断して直ちにホテルをチェックアウトする。
とりあえず君津駅でJR東日本のツーデーパスを購入する。この切符は休日の二日間有効で、関東周辺のJRと小湊鐵道やいすみ鉄道などに乗り放題というありがたい切符であり、私が今回の関東遠征を企画したのも一つはこの切符を当てにしてのものだった。
まだこの段階でJRは君津以南の内房線が停止しているという惨憺たる状況であった。ただ幸いにも君津から千葉方面への列車はダイヤは滅茶苦茶なものの運行されており、小湊鐵道との接続駅である五井には問題なく到着できた。五井では小湊鐵道のホームとJRの改札内で接続されており、そのまま小湊鐵道ホームに移動する。
千葉県内路線図 小湊鐵道は五井から上総中野を結ぶ単線非電化の路線である。上総中野から大原まではいすみ鉄道が通っており、この両路線を乗り継ぐことで房総半島を横断することが可能である。ただ旧国鉄線を第三セクター化したいすみ鉄道と異なり、小湊鐵道はそもそも最初から民間鉄道であったという。結局は国鉄は自身の久留里線ではなく、民間線の上総中野に接続という奇妙な形をとっていることになる。
小湊鐵道はキハ200型ディーゼル車の二両編成である。この車両は2ドアで内部はかなり長大なロングシートとなっている。久留里線と同様、最初はひたすら田んぼの中を疾走し、途中から山岳地帯に突入するという構成になっている。総じて沿線人口はあまり多そうでなく、特に山岳地帯に突入してからは沿線人口はかなり減る。とは言うものの、所々にある集落を縫うようにつなぐ(というか、駅を中心にして集落が出来ているというべきか)路線であり、この地域の貴重な足であるのは間違いなさそうである。とは言うものの、現在は全線を通しての運行は1日5本程度であり、これで利便性があるのかというと疑問ではある。
上総中野駅でいすみ鉄道に乗り換え 終点の上総中野駅では、いすみ鉄道の線路と隣接する形になっており、両路線のホームが並んでいる。駅に到着した時には、なぜか大量の鉄道マニアが待ちかまえており、彼らと一緒にすぐに到着したいすみ鉄道の車両に乗り込むことになる。いすみ鉄道は旧国鉄の廃止路線を第三セクターが引き継いだのであるが、経営が慢性的に赤字で常に廃線の論議が沸き起こっているという。そのために同社では増収策を練っているようだが、その一つがなぜかムーミンのペイント。車内にはムーミンのスタンプも設置してあり、そのスタンプは車両ごとに違うとか。このイベントが幸いしているのか、それともツーデーパスの威力か、はたまた単なる三連休のためかは不明だが、少なくとも私が乗車した今日に関して言えば、とても廃止が論議されている路線とは思えないほどの大盛況であった。それにしても先の広島遠征といい、なぜかにわかにムーミンとの縁が出来てきた。
山の中を抜けつつ大多喜に到着 軽量ディーゼル車のいすみ200型二両編成の列車は、上総中野から山を下っていく感じでウネウネと山の中を走る。こちらは沿線人口の少なさは小湊鐵道以上(そもそも線路の周辺に人家の見えない地域が多い)で、これでは赤字になるのも仕方のないところ。やがて前方に人家とその背後に城が見えてくると大多喜である。ここがいすみ鉄道沿線の最大の集落と言うことになり、同路線の唯一の有人駅でもある。とりあえず私はここで一旦下車する。
駅の中にはロッカーがなさそうだったので、駅の向かいに見えた観光案内所を訪ねると、どうやら有料で手荷物を預かってもらえる模様。そこで重たいトランクを預けてしまうと、ここから徒歩で大多喜城を目指すことにする。
「大多喜城」はそもそもは里見氏の勢力下にあった城だが、里見氏が秀吉によって上総を奪われてからは、徳川配下の本多忠勝が里見を睨む城として整備したという。しかしその後に里見氏は徳川幕府によって事実上の取りつぶし、大多喜の重要性は低下して城も荒廃したまま幕末を迎えたらしい。なお現在の天守は当然のように鉄筋コンクリートによる「とんでも天守」である。ただこの天守、大多喜の市街から見上げるとなかなか絵になっており、観光のシンボルとしては存在価値は非常に高そうに思われる。
何やらいわくありげな「三の丸食堂」
とりあえず天守を目指すと、途中で「三の丸食堂」なる何やら城と関係のありそうな名前の半ば廃墟と化した飲食店が見えるが、案内表示によるとこの横のメキシコ通りを回り込むことになっている。この道がグルリと背後から回り込む形になっているのだが、これがなだらかな上り道でとにかく長い。大多喜城はここから見上げるような崖の上に立っている。おそらく地図上の平面距離なら100メートルもないと思うが、垂直の高低差が数十メートルはあって直接登ることは不可能である。
大多喜城↑の標識に従って進むが、とにかく道は長く深い かなりクタクタになって大多喜城天守(正式には博物館である)に到着。とにかくかなりの大回りをさせられたということを博物館の受付のおじさんに言ったところ、実はショートカットの階段コースもあるという話を教えられる。これは隣接している高校に降りていくルートであり、そもそもは現在高校が建っている場所は本丸のあったところなので、これがかつての正規の登城ルートだったのだろう。ただし雨で足下が崩れて工事中なので注意とのこと。帰りにはこのルートをとることにする。なお博物館の展示物は本多忠勝ゆかりの品や城下町に関する資料など。これはどこでも同じようなものである。
大多喜城天守(博物館)
大多喜城の模型によると この高校が本丸跡 帰りはアドバイスに従って近道を進む。確かに「関係者以外立ち入り禁止」の看板が立っているが、お構いなしに前進。ただしこれを無視した以上は怪我などをしたらあくまで自己責任である。確かに足下がぐちゃぐちゃになっていて、いかにも工事中らしく重機が放り出してあったりするが、なぜか工事をしている様子がない。とりあえずその横を足下に注意しながら抜けていくと高校の駐車場に降りてくる。
行く手を阻む標識に負けずに突入したところは工事中。下を見下ろすとかなり高い。 この駐車場内には井戸の跡が残っており、また高校の入り口脇に移築した薬師門が復元されている。ついでにこれらも見学しておく。そして高校の入り口を抜けて降りていくと、先ほどの「三の丸食堂」の真横に到着したのであった。
高校の敷地内にある井戸と薬師門。そしてそのまま高校から下っていくと・・・ あの「三の丸食堂」に到着したのだった。 さすがに猛将・本田忠勝ゆかりの城と言うだけあって、大多喜城はかなり堅固な位置に構えられた城であったし、それなりの規模も持っていたようである。ただそれだけに、里見氏の脅威が去って小藩の支配下になってからは維持管理に支障を来したのも分からないでもない。戦時でこそこれだけの城が必要だが、平時になるとこの地域は陣屋で十分だったろう。
街道筋はなにやら風情のある建物が・・・。 右は重要文化財の渡辺家住宅。 大多喜駅まで戻ってきた時には昼頃。とりあえず旧街道筋の方まで出てから昼食を摂ることにする。とにかく今回の遠征では昼食が間に合わせのことが多すぎたので、今回はキチンと昼食を摂っておきたい。入店したのは「とんかつ亭有家」。街道筋の雰囲気に合わせてなかなか趣のある店内である。
ここもやはり店構えはこんな感じ
メニューはトンカツの種類で大名(ヒレ)、家老(ロース)、旗本(肩ロース)、大きさで松(160g)、竹(130g)、梅(100g)になっているようだが、私の注文したのは「家老の竹」。厚切りのロース肉が非常にボリュームがあるし、柔らかくてジューシィーなちょうど良い揚がり方になっており、なかなかにうまい。
昼食を終えると観光案内所に戻ってトランクを回収、いすみ鉄道で大原まで移動する。房総半島は菜の花が名物と聞いているが、確かにこの沿線は菜の花でまっきっきである。なお三連休のためかはたまたムーミン効果かは定かではないが、廃止が議論されている鉄道という割には乗客は非常に多く、特にムーミンショップが営業している国吉駅などは人であふれかえっていた。ただ沿線人口の少なさは小湊鉄道以上という印象を受けたことから(大多喜が沿線における最大かつほぼ唯一に近い集落)、確かに営業に関しては厳しい材料は多そうである。なお私が訪問したまさにその日、この観光案内所の建物内でいすみ鉄道の経営状況に関する発表があった模様で、地元テレビ局と思われるテレビカメラなどもやって来ていた。
大原に到着 大原に到着すると外房線に乗り換えて蘇我まで移動する。朝の段階では外房線も運休していたが、ダイヤは概ね復活している模様。今まで延々と田圃の中ばかりだった沿線風景が千葉市に近づくと激変する。千葉市民は「千葉都民」などとも呼ばれ、自分たちを千葉県民だと考えずに、東京都民と考えていると言われているが、確かに千葉市周辺は房総地域よりも東京に近い。だから自分が千葉県民であるのに、千葉県民をバカにしたりするらしい。まあ愚かな話であるが、神戸生まれの私にはその感覚は想像がつく。かく言う私自身が、神戸に住んでいた時には兵庫県民という意識は全くなく、あくまでアイデンティは「神戸市民」。同じ兵庫県の豊岡市民よりは、間違いなく大阪府民の方が同類と感じていたからである。
再び五井からやっぱりこの車両
蘇我に到着するとここから内房線に乗り換えてひとまず五井まで移動する。これで内房線も完乗である。なお外房線はほぼ正常復活していたが、内房線は未だに君津以南は不通状態のようだ。つくづく昨日よく館山から帰って来れたものである。
五井から折り返して千葉まで移動すると、そこからは成田線に乗車、成田駅で乗り換えると今日の宿泊地である佐原まで移動する。内房線沿線と違い、成田線沿線はとにかく何もない地域。千葉から離れると突然に山の中になり、家が見えたと思うと急に新興住宅地の雰囲気となってそこは成田。それを過ぎると今度はやはり田圃の中をひたすら走行になり、再び集落が見えたところが佐原である。
佐原駅に到着
佐原は水郷の町などと言っているが、駅前には特に何があるわけでもない。ここをゴロゴロとトランクを引きながらホテルまで移動。あまりの店の少なさに夕食をとる場所が不安になるが、どうやら佐原で一番賑やかなのは駅の反対側の国道沿いらしい。駅の南のこちら側は古くからの集落らしく何となくさびれた雰囲気。
とりあえずホテルにチェックインするとホテルで近くの飲食店の場所を聞く。すると「線路を渡って向こう側」とのこと。しかしこれが踏切でもあるのかと思えば、何と線路を横断していくらしい。確かに線路の脇にいくと鉄板を渡して線路内に入れるようになっている。ふと横を見るとJRの警告看板が立っているが「ここは鉄道の敷地内なので注意してください。危険ですのでなるべく他の道を渡ってください。」と何やら遠慮がちな表現である。確かに運行頻度もそう高くない単線路線であるが、さすがにこれは私にはカルチャーショックだった。
結局この日の夕食は国道沿いのうどん屋で、手打ちならぬ手延べうどんなるものを食べたが、関西人の私にはイマイチ。結局はこれだけだと少し腹が足らず、隣のケンタに立ち寄る羽目になってしまったのである。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時起床ですぐにホテルで朝食。身支度を済ませると8時前にはホテルをチェックアウトする。今日の予定はここから水戸に向かうつもり。茨城県立近代美術館で開催中の展覧会と偕楽園が目的である。偕楽園は以前に訪問しているが、その時は梅のシーズンをはずしていたせいで極めて殺風景な庭園という印象しか残らなかったため、やはり一度梅のシーズンに訪問している方が良かろうという考えである。
ただ水戸に行くと言っても、ここでフレッシュひたちにでも乗っているのだと面白味がない。ここはやはり鹿島臨海鉄道を使用してやろうという考えである。以前に水戸を訪問したとき、スーパーひたちを待っていたホームの反対側に到着したディーゼル車。これが鹿島臨海鉄道の車両であったが、電車ばかりで嫌になっていた私はこのディーゼル車に非常に心惹かれたのである。それ以来いつかはと思っていたので、この機会に視察しておいてやろうという思ったのであって、そのための昨日の佐原宿泊である。
鹿島臨海鉄道は、元々は鹿島臨海工業地帯用の貨物専業路線だったらしいが、ここに鹿島サッカースタジアム駅−水戸駅間の路線がくっついて現在の形態になったという。なお鹿島サッカースタジアム駅は試合のあるときだけの臨時駅であるので、事実上の運行は鹿島神宮−水戸間となっている。路線は単線非電化路線である。
佐原から鹿島神宮まではJRの鹿島線になる。佐原駅の0番線切り欠きホームから鹿島線は出ており、本遠征で散々見慣れた113系の房総カラーの4両編成が停車している。隣の香取駅で北に分岐するとそこからは高架線になって多くの川を横断していく。線形が良いので高速運転も可能と追われるが、そう特別に飛ばすわけではない。ただあまりに遮蔽物のない吹きさらし路線であるので風には弱そうで、実際に昨日は運行が停止されていたようだ。
0番ホームで待っていたのはまたこの車両
利根川を渡ると鹿島神宮駅。向こうに見える茂みが多分鹿島神宮。 やや住宅が密集しているのが鹿島神宮駅で、ここでホーム向かい側に停車している鹿島臨海鉄道の二両編成ディーゼル車に乗り換えになる。鹿島臨海鉄道の車両は古いというほどではないのだが、何となく古色蒼然としたイメージを抱かせるセミクロスシート車である。
やや古色蒼然としている
鹿島駅を出ると路線は大きく右カーブし、まもなく通過するのが鹿島サッカースタジアム駅。それにしても何もないところに突然にスタジアムがあるというイメージ。そしてこの駅を過ぎると「何もない」という状況はさらに進行し、まさに沿線には鬱蒼とした原っぱしかないという中をひたすら列車が走り続けることになる。
左 サッカースタジアムを抜けると 中央 最初は茂みの中 右 それを抜けるとやや高台 風景が変化するのは北浦湖畔駅ぐらいから、ここら辺りから高架線になり始め、風景も開けてくる。また沿線にも住宅が見えてくる。そして乗客の乗り降りも増えてくる。
やだらに長い駅名と意味不明の駅名表示 「さたつっこよん?」「かしよナた?」→正解は「きたうらこはん」「かしまなだ」 ただ乗客にやけに私服の10代の若者の姿が目立つことに気づく。何となくそれがローカル線の風景には違和感がある。制服を着た学生なら見慣れた光景なんだが・・・。なぜだろうと考えていた時に車内に吊ってあったポスターが目につく。「メイド列車運行」・・・? 水戸で開催されるコミケットにあわせて鹿島臨海鉄道ではメイド列車を走らせるらしい。「ドヒャー!」思わず声が出る。よりによってコミケの開催時に出くわしてしまったようである。大洗に到着すると列車の混雑はさらにひどくなる。しかも乗客の5割以上は10代で、服装を見るだけで明らかに「それ」と分かる連中もいる。
こ、これは・・・
そして高架線で大きく左にカーブしていくと水戸に到着。しかし久しぶりに訪れた水戸駅は目眩のする世界だった。駅前には「萌え」ワードが乱れ飛び、萌えパッケージの納豆カレーが販売され、向こうではメイド列車の乗客呼び込みが行われ、こっちではコミケ会場への案内チラシが配られている。このすさまじい光景を見ているうちに、私の内面にある感情が沸き上がる。それは「キモい」というもの。
水戸駅前で土産物を販売中
これは私にとっては正直なところ戸惑いが大きかった。と言うのは確かに最近の萌え全盛の風潮についていけずにこの世界から離れてしまったが、そもそもはアニメファンであった私は、彼らには比較的シンパシーを持っていると思っていたからである。しかし正直なところ、ここまで萌えを前面に出されると嫌悪感が湧いてしまうのである。生まれてから一度もたばこを吸ったことのない者よりも、むしろ禁煙をした者の方が強硬な嫌煙家になりがちだという。かつては彼らを陶酔させたはずのたばこの煙が、一端ニコチンの呪縛が解かれると不快で仕方なくなるのだという。もしかして私もそれに近い心境になってしまったのだろうか・・・。
水戸駅は大混乱であった。それでなくても偕楽園の梅が最終シーズンになっていて混雑するところに、それとは全く無関係なイベントの参加者が殺到しているわけだから、混雑しないはずがない。そしてその状況は見事に私にもしわ寄せがくる。ロッカーの空きが全くないのである。おかげで水戸では重たいロッカーを引きずりながら移動することを余儀なくされる。この時点で戦闘意欲喪失、正直もうさっさと水戸を後にしようかという気さえ起こってくる。
しかしここまで来た以上はやはり目的は達成しておくべきだろう。ロッカーを引きずりながら水戸駅の南口に出ると、近代美術館まではタクシーで移動することにする。
「アンソールからマグリットへ」茨城県近代美術館で3/28まで
ベルギー近代絵画はヨーロッパの主流派の流れと相互に影響し合いながら、独自の進化を遂げているのであるが、その流れをアントワープ王立美術館のコレクションにより概観しようというものである。
最初はいわゆるアカデミズム絵画から始まる。この辺りの絵画はいわゆる精密表現のフランドル派の流れを受けていて、私にも非常に好ましさを感じさせられる絵画ではあるが、明からさまに保守的ではある。それが時代が進むにつれて印象派の影響が現れるようになる。この辺りでアンソールの作品が登場する。
その先は象徴主義とプリミティヴィズムになるのだが、この辺りからインパクト勝負的な作品が登場し始める。ただ尖りまくっていたフランス絵画などと比べるとややおとなしめの印象か。そしてこの次に来るポスト・キュビズムや抽象の世界で登場するのが、マグリットにデルヴォーといったところ。ベルギー絵画はフランドルの頃から理屈っぽいところがあったが、彼らのまか不思議世界もやや理屈っぽく見えるのはお国柄というものか。
知名度の点でアンソールとマグリットを関しているが、展示点数における彼らの作品の数は意外に少ない。それよりもやはりベルギー絵画を概観すると言う方が主旨。それに興味が持てるかどうかが、本展の価値に対する分水嶺。
展覧会の鑑賞を終えた後はバスで水戸駅に帰還する。次の目的地は偕楽園となるんだが、大きなトランクを引きずってでは正直なところ見学どころでない。いっそ帰るかとしばし悩んだのだが、ここまで来た以上軽く一回りするだけでも仕方ないと腹をくくってバス乗り場に向かう。バス乗り場の横で偕楽園方面のバスの一日乗車券を販売していたのでそれを購入。しかしそのチケットを見た途端に再び激しい目眩がする。それがまた見事な「萌え」チケットなのである。確かに偕楽園に行くのにも使用できるのであるが、明らかに偕楽園行きの客を想定したとは思えない券面。偕楽園に向かう年輩客が全員このチケットを握りしめている光景は一種異様でもあった。
目眩のしそうなフリー切符
結局バスはコミケ会場の横を通り抜けて(会場は大混雑していた)偕楽園へと向かったのである。それにしても互いに相乗効果を見込めるイベントならともかく、ここまで見事に客層がかぶらない大イベントを同時開催するなんて、水戸市は一体何を考えているのやら・・・。それともコミケに来た客が偕楽園なんかに立ち寄ると思ったんだろうか? どうも最近は不景気のせいか、金遣いが荒いと思われているオタクをターゲットにしたビジネスが増えていると言うが、よく彼らが見落としているのは、何もオタクは金持ちな訳ではないということだ。確かに彼らは自分の興味のある分野には金に糸目をつけないが、それは裏を返せば「興味のない分野には一銭も金を使わない」という意味でもあるのである。ツボをはずしてしまうとオタクは一般人よりも財布の紐が堅いということを、よく理解していない者も多いようである。
コミケ会場の横を抜けて偕楽園に到着
偕楽園に到着したが、砂利道ではトランクを転がしての移動が極めてやりにくい。重たい上にキャスターが傷みそうである。それに梅もピークを過ぎたようであるし、そもそも梅は桜のような華やかさがないので、思っていたよりも地味な印象であり、正直なところさほど感銘は受けなかった。やはり私は花より団子なんだろうか。土産物を買い求めると、結局は10分ほどで引き返してきたのであった。
なお当初の予定では時間があれば「水戸城」を見学するつもりだった。確かに駅の北側に視線を転じれば、水戸城と思われる小高い丘が見えている。しかしトランクを引きずっている今の状況ではとても城郭見学は不可能である。いずれ水戸は再訪する(次回はコミケのない時に)と思うので、その時にリターンマッチをすることにして、駅内で手早く昼食にそばを食べると引き返すことにする。とにかくコミケの連中の帰宅ラッシュにかち合う前に行動するのが吉である。
この茂みが水戸城の一部のはず・・・ 予想通り上野行きの普通は満員(コミケにくるオタクが交通費に必要以上の金を使うわけがないので、特急などに乗るはずがない)なので、友部で途中下車すると水戸線の方に乗り換える。常磐線から水戸線に乗り換えた客もいるものの、水戸線車内はガラガラ。列車はこのままのどかな田園風景の中を突っ走る。以前に笠間から乗車した時に、東京近郊とは思えない田園風景だと思ったが、水戸線沿線は下館まではその調子で、急激に沿線が都会化するのは下館以西であり、ここから乗客も急増する。なお私は当初の予定では下館で途中下車して下館美術館に立ち寄るつもりだったが、この時点ではトランクを引っ張ったまま走り回った疲労でとてもそんな気力を失っていた。下館についてはいずれ再訪もあると考えている。
左・中央 水戸線沿線ののどかな風景 右 下館駅から見える関東鉄道の駅 小山に到着するとここから湘南新宿ライン直行の快速に乗車、ただ途中で思い立って大宮で下車する。よくよく考えてみると埼京線に乗車したことがないことを思い出したので、ついでだから埼京線視察。埼京線ホームは大宮駅の西のはずれの地下にあり、完全に地下鉄のイメージである。しかしすぐに地上に出ると高架化し、東北新幹線と併走することになる。高架のために見晴らしは良いが、都会の風景はさほど面白いものではない。赤羽から東北新幹線と別れて地上に降りるが、この辺りから車内は混雑し始めて、新宿に到着した時点では身動きもしにくいほどの大混雑になる。埼京線は通勤路線のために混雑するということは聞いていたが、夕方とは言え休日にこの混雑では、おそらく平日は殺人的なものであろうと推測される。新宿に到着するとここで中央線快速に乗り換え東京駅へ。このまま帰途へとついたのである。
大宮で埼京線に乗り換え
かなり列車で駆けずり回ったという印象の今回。確かに房総・茨城乗り鉄ツアーみたいになってしまい、鉄道マニアではない私としては少々不本意なところもある。東京地区はともかく、房総エリアにはめぼしい美術館はないので、どうしても城巡りのようにならざるを得なくなってしまった。それに今回は予算が乏しいということもあったが、とにかく食事が悲惨な遠征であった。昼食などはまともなものを食べたのは初日と四日目だけで、後はコンビニのパンや駅そばという惨憺たる状況、夕食もそれなりのものは三日目のいわし亭ぐらい。元々東京エリアは食に関してはほとんど期待できないエリアだが、さすがにこれは少々寂しいと感じずにいられなかった。やはりスケジュール編成にもっと余裕が必要なのだろうか。
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