展覧会遠征 岡山編5
さて今週の遠征は岡山を目指すことにした。交通手段であるが、青春18シーズンももう終わっているし、岡山だとスルッと関西も関西1デイパスも使えないと言うわけで、適当な切符が全くないことから車で行くことにした。となると車でないと行けないようなところも目的地に加えようと考えるのが合理的発想というものである。
しかし計画は最初から頓挫。土曜日の朝に出発したと思ったら、途中から猛烈な雪。岡山市内で積もるなんて事はないだろうが、途中の高速が危ない。私は一応チェーンは持っているが、これはほとんどお守りみたいなもので実際に使う気はさらさら無い(これを使うような時は非常事態である)。諦めて途中で引き返して翌日に順延となった。
さて翌日曜日であるが、これは見事な晴天。そこで改めて出直しとなった次第である。
まずは高速に。なお現在、私のETC車載器は内蔵スピーカーが死んでしまったらしく、ゲートを通ってもウンともスンとも言わないどころか、電子音さえ全く鳴らない状態。一応機能自体はしているようだが、とにかくキチンと認識されているのかどうかは料金所の方の表示を見るしかないので不便でしょうがない。と言っても、補助も何もない状態での車載器本体の価格は洒落にならないぐらい高いし、そもそもETC自体が今後どうなるかは全く不透明だし(まさか廃止はないだろうが、ETC割引自体がなくなったり大幅に縮小される可能性はある)、こんな時に車載器の買い換えなんてしたくもない。結局はこのまましのぐしかないのだが、そのうちに本体の方が死んでしまったら、いつかゲートに衝突しないかと心配である。
とりあえずは無事に山陽自動車道に乗ると、岡山JCで岡山道に乗り換えて有漢で降りる。今回は久しぶりに洞窟に潜るつもりであり、目的地は備中鐘乳穴。ちなみにこれは「びっちゅうかなちあな」と読む。よく鍾乳穴「しょうにゅうけつ」と間違うのであるが、よく見ると字が違うので注意。ちなみに私も最近まで間違いに気づいていなかった(笑)。
順調に有漢まで到着したが、有漢の出口で降りるのは前にも後ろにも私の車しかいない。「もしかしてここは行ってはいけないんだろうか?」などと不安を感じつつ出口を抜けると、左手の方に何やら天守閣のような建物が見える。とりあえずそれが気になったので、目的地に行く前に寄り道をすることにする。
グルリと回り込んでついたところは「うかん常山公園」というところで、石の風車などという奇妙なモニュメントが建っている。また道路から見えた天守閣は展望台であり、中には化石を展示してあるとのこと。この地には確かに有漢常山城という城が昔にあったとのことだし、地形的にも城があっても不思議ではないところだが、そもそも現在天守が建っているところとは場所が違うし、当時こんな天守があったはずもないので、これもいわゆるインチキ天守に属することになる。観光目当てのハコモノのようであるが、日曜だというのにガラガラの駐車場に開店休業状態の売店を見ると、お世辞にも成功しているとは言えないようだ。また展望台ことインチキ天守も、「ご自由にご覧下さい」状態であり、何と訪問客が自分で照明のスイッチを入れて見学するシステムになっている。ただ驚いたのは、これだけインチキ度満載の天守にもかかわらず、どうやら木造であるということ。こんな中途半端なものを作るのなら、徹底して歴史資料にこだわって当時の城を復元すれば良かったのに・・・。
左・中央 内部はこんな感じでこれがなんと木造。 右 謎の巨大スッポン 本来の有漢常山城があったのはこちらの方向 石の風車のある公園 一渡りの視察を終了すると、いよいよ目的地へ。しかしこの道が意外と難儀な道。二車線の整備された部分と車の行き違い不可の未整備部分がまだらになっており、どうも中途半端な道。しかも前日の雪が、日陰になっているところではまだ残っていたりする。つくづく昨日計画を中止したことは正解だったと思いつつ、慎重に運転する。
周辺には雪が残っている
山道を通り抜けてようやく目的地に到着。しかしチケット売場を見ると人影がない。現在下にいるので後で料金を払ってくれと貼り紙が。とりあえず洞窟まで降りていくと、途中で管理人に出会う。この先は路面が凍結しているし、これから上に戻って照明をつけるから、足下に注意をしてゆっくり下に降りてほしいとの旨を伝えられる。
慎重に歩いて入口に到着
確かに見事に足下が凍結しており、これは急いで行ってくれと言われたとしても不可能な状態。杖代わりに一脚を使いながら慎重にトロトロと降りていくと、洞窟の入り口に来た頃には照明が点っていた。
洞窟内は意外に広い。また演出のために緑や黄色などの着色照明が使用されており、かなりショーアップされた洞窟という印象だ。ストロボも持参していたが、これを使用すると折角の照明演出が無意味になるので、カメラの感度を上げた上で一脚で支えつつ、スローシャッター中心の撮影となる。
幻想的な世界なのだが、残念なことによく見ると馬鹿による落書きもある
そんなに奥行きのある洞窟ではないのだが、空間の広さと演出のうまさでなかなかに楽しめる。鍾乳石も多彩であるし、初心者が楽しむのにもっとも適した洞窟という印象を受けた。なおこの洞窟で実は一番難儀なのは帰りの行程。かなり登らないといけない上に、足下が凍結している状況では、体力不足の私にはかなりの難行苦行であった。
鍾乳洞の見学を終えると、車で北房まで移動、そこから中国道、岡山道、山陽道を経由して岡山市内に向かう。このドライビングは至って順調で、あっと言う間に岡山出口に到着。しかし最大の難関はここから待っていた。高速を降りて市街に入った途端に大渋滞で車がほとんど進めなくなってしまう。岡山は完全な車社会であるにも関わらず、道路整備が貧弱なのか市街は慢性の渋滞であり、これに引っかかってしまったのである。まさに岡山ダンジョン。岡山は道がわかりにくいだけでなく、こんなトラップも用意されているのである。
結局は市街に突入してから30分ほどを要してようやく今回の第二の目的地である後楽園に到着する。本来の目的地は県立美術館であるが、その前に久しぶりに後楽園と岡山城を見学しておいてやろうという考え。
とりあえず後楽園の無料駐車場に車を置き・・・と思ったのだが、駐車場は車でいっぱい、河川敷に車を停めることになる。車を置くと入場ゲートまでかなりの距離を徒歩で移動。ゲートに到着すると、とりあえず入場の前にそこにある博物館に入場しておく。
博物館へ入場
博物館では特別展として出雲歴史博物館収蔵の銅鐸や銅剣類を展示してあった。ただこれは出雲歴史博物館を訪問したことのある私には「何を今更」である。どちらかと言えば面白かったのは地元にまつわる展示物の方。特に刀剣類に興味深いものがあった。
後楽園入口
博物館の見学を終えると後楽園に入場。これが二度目の来園になるが、確か以前の来園は夏だったはず。冬の後楽園は何とも殺風景である。また黒々とした地面がその殺風景さに追い打ちをかけているが、これは春に備えるための芝焼きがつい先々日に行われた直後であるためのようである。どことなく荒涼とした印象の庭園の背後に岡山城が見えている。
後楽園内は何となく殺風景 庭園を通り抜けると南口を出て、橋を渡って「岡山城」に向かう。岡山城は元々宇喜多氏が築いた城を、後に小早川氏、池田氏が整備したもので、徳川幕府の西国統治の拠点の一つであった。しかしそもそも最初にこの城を築いた宇喜多秀家は秀吉の後継者にも目されていたという人物であり、それだけに最初から規模も大きく豪奢な城として建設された。かつての城域は現在の岡山市の大部分を占め、今日では外堀のほとんどは埋め立てられてしまっているが、今でも町並みに当時の面影を見ることが出来る。また城域自体は本丸から南西方向に広がる形になっており、北東方面の守りが弱い縄張りになっていることから、それを補うために旭川の流路を変えて広大なる外堀にしたと言う。また本丸の北東に位置する後楽園は、いざというときには曲輪の役をなすことも考えられており、そのために堀で囲まれているようである。
北方より望む天守
黒塗りの天守を誇り烏城とも呼ばれたこの城も、戦前まではその天守が現存していたにもかかわらず、例によってあのアホな戦争で焼け落ちてしまい、今日立っているのは鉄筋コンクリートによって復元された「なんちゃって天守」である。この天守、遠くから見る分にはなかなかに格好がよいのであるが、なぜか近くで特に日が直接に当たる南側から見ると、塗装の関係か黒ではなくて青っぽく見えてしまってイマイチである。また例によって内部は完全に現代のビルであるので、以前に入場した時にゲッソリした記憶がある。
左 廊下門 中央 月見櫓(現存) 右 発掘中の表書院に展示されている宇喜多時代の石垣跡 北側から復元された廊下門をくぐって表書院に上がる。ここは以前に訪問したときには大規模な工事中であったのだが、現在は工事が終了しており、当時の屋敷跡などが平面復元されている。また現存建造物である月見櫓を北西の隅に見ることが出来る。また発掘調査の際に発見された宇喜多時代の石垣の跡が保存されており、それを直接に観察することも出来る(江戸時代にこれらの石垣を埋めて本丸が改修されたようだ)。これを見ると、当時から巨石を使用したかなり立派な石垣であったことが伺える。これもまた復元された不明門をくぐると正面に天守閣が見える。ただ先ほども述べたように、どうもこの角度から見る天守の姿はあまり好きではない。やはり岡山城は北側の後楽園側から見る方が美しいように思われる。
不明門をくぐって南方より 天守の周辺を一回りすると、鉄門跡を抜けて降りてくる。この辺りは本丸の正面に当たり、石垣が一番その威容を誇るところである。また南には幅の広い内堀が残存しており、いかにも城郭の風情をたたえている。
左 鉄門跡 中央 表書院の石垣 右 本丸を囲む内堀 あのアホな戦争で失われた天守は実に多い。それは特に市街地にあった城郭は米軍による住民虐殺のための無差別爆撃の餌食になっているし、軍隊の駐屯地になっていた城郭も多いから、そういうところは徹底的な攻撃を受けている。有名なところでは名古屋城があの戦争で消失しているが、福山城も同様であり、広島城に至っては原爆でなぎ倒されている。なお姫路城も軍隊の駐屯地があったために空襲を受けており、実際に天守の中に爆弾が飛び込んでいたらしい。幸運にはその爆弾は不発だったために姫路城天守は今日にまで残存し、現在は世界遺産となっているが、一つ間違えば灰燼と帰していた可能性もあったのである。
戦争で貴重な城郭建築を失ったのも痛いが、さらにそれに拍車をかけたのが戦後の安易な復元である。当時はなんと建築基準法が妨げとなって木造による天守の忠実なる復元が不可能であり、結果として安っぽい鉄筋コンクリートによるお手軽復元天守が乱立する羽目となってしまった。岡山城、名古屋城、福山城、広島城のいずれもそのお手軽復元であり、最近になってようやく始まった出来るだけ当時の技法に沿った木造復元天守(大洲城など)と比較すると見劣ること甚だしい。名古屋城などもあまりの情けなさに(何しろエレベータが外付けになっているのだから、訪れるとゲッソリする)、河村市長が木造復元をなんて言い出したらしいが、下手にお手軽天守を建ててしまっているだけに建築費用だけでなく解体費用もかかることを考えると、あまりにハードルは高いだろう。
この岡山城も、つくづくかつての天守が現存していたらと悔やまれる城の一つである。つくづく戦争とは貴重な資源と人命の浪費である。しかしごく一部の権力者や野心家にとっては、実に旨みの多い儲けのチャンスだけに(あの日本中が焼け野原になったように思われる戦争でさえ、日本国内でぼろ儲けしていた輩はいるのである)、未だに戦争をやりたがる奴が特に権力中枢に多い。つくづく人間とは愚かなものである。
岡山城の見学を終えると林原美術館を訪問する。林原美術館では平成版玉虫厨子の展示を行っていた。これは正倉院宝物で有名な玉虫厨子を復元するプロジェクトの一連の成果のようだ。説明によると2種類作成し、1つはオリジナルに忠実な復元、もう1つは現代の感性を取り入れてアレンジしたもので、これが「平成版」ということになるらしい。玉虫厨子という題材は蒔絵師の創作意欲を刺激するものらしく、使用した玉虫の羽の量も当社比数十%増量となっているらしい。
林原美術館
正倉院の玉虫厨子はすでに経年劣化で往事の輝きを完全になくしているが、さすがにこちらはキンキラキンであり、まさしく仏教本来の世界を体現している。以前から何度も言っているが、本来の仏教寺院などは朱塗りに碧に金箔といったキンキラキンの世界であり、わびさびとは無縁の世界である。仏教の描く極楽浄土とはまさにキンキラキンなのである。そう言う意味ではこのキンキラキンの世界を忠実に体現しているのは、伝統仏教系よりも新興宗教系に多いが、そういうところは概ね教祖自体が成金趣味であり(と言うか、そもそも集金目的で宗教を興している)その下品さを反映しているだけだったりする。
林原美術館の展示品はこれ以外にも工芸品系の凝ったものが多く、いずれもそれなりに楽しめた。ただ私の場合、ただ単に感心するだけで今一つ感動とは違うのだが。
今も町中に残る石垣跡
林原美術館の見学を終えた後は昼食を摂るために県庁通りまでしばし歩く。よく見ると、この辺りの街角の随所に岡山城の石垣などの遺構が残っている。現在の岡山の町並みに岡山城が与えている影響を垣間見ることが出来る。
県庁通りまで出てくると昼食を摂るための店を目指す。今回昼食を摂ることにしたのは「元祖とりそば太田岡山本店」。注文したのは「とりそば大盛(800円)」と「鶏飯(260円)」。
とりそばとは要は鶏ラーメンと言うべきものなのであるが、鶏らしくやや甘めの味付けになっているのが印象に残る。また焼き豚ならぬ焼き鳥がなかなかにうまい。甘めの味付けの麺と言えば、食べているうちに飽きが来そうなものなのだが、ここの麺の場合はバランスの取り方がうまいのかそういう事がない。「うまい、うまい」と言いながら一気に食べきることが出来る。また鶏飯の方も単独では弱いがとりそばに対する合わせ物として考えるとほどよいバランス。あまりに味が強すぎないのがかえって良い。
今まで岡山市内での食事については今一つ当たりがなかったのであるが、今回は久々に当たりを引いたと感じた。場所的にも便利であるし、これはこれからも重宝しそう。
さてこれからの予定だが、そろそろ「21世紀の地域振興と交通について考える市民の会」のサークル活動の方を開始することにする。岡山市内の路面電車は今までたびたび乗車しているが、実は未だに全線を乗り通したことがない。そこで今回は岡山電気軌道線全線視察を実行したいと考える。
出典 岡山電気軌道HP
まずは県庁通駅から東山方面に向かって移動することにする。やって来たのは新鋭の低床式タイプの車両。各地の路面電車でバリアフリー対応の新型車両として脚光を浴びているタイプの車両であるが、岡山のものは内部は木調のデザインとなっており、MOMOの愛称がついている。これで終点の東山まで移動する。
今流行の低床型車両で、内部は木を使用したデザインになっている。 東山駅には車庫もある 終点では一日乗車券を購入して下車。東山駅の奥には車庫があり、数種類の車両が停車している。またここには小高い丘となった東山公園があり、その丘の頂上辺りには玉井宮東照宮という神社がある。ついでであるからそこを訪問しておく。神社は急と言うほどではないがそれなりに長い石段を登ったところにある。ここの上から周辺を見渡せる高台となっており、岡山城の東方を守る位置でもあることから、かつてはいざという場合には兵の立てこもる砦になった可能性もあるのではないかと思われる。そもそも古代において寺院とは往々にして要塞であったという事実もあるし。
東山駅を見下ろす位置に神社が建っている 一渡りの見学を済ませると、東山から岡山駅前まで移動。これで東山線は完乗である。ここで今度は清輝橋線方面の列車に乗り換える。こちらは柳川で東山線と別れるが、次の郵便局前で大半の乗客が下車する。その後も列車は南下を続け、終点の清輝橋は大きな交差点の手前。少し歩いたところに岡山大学の医学部があり、病院なども辺りにあるようだが、特に何があるというような場所ではなく、何となく中途半端な位置にあるという印象を受ける駅である。とにかくこれで岡山電気軌道線全線視察完了である。
清輝橋駅は特に何もないところ 岡山の路面電車は市民の足として非常に有効に機能しているというのは常々感じているところであるが、正直なところを言うとさらに積極的に路線を拡張して欲しいような気もする。例えば城下駅から北上して、美術館の前を通って後楽園の入口までといった延長が出来れば、さらに観光客を取り込むことが出来るのではないかと思うのであるが。どうも経路が中途半端であって、観光客にとっては一番美味しい部分が通っていないという不満があるのである。それでなくても無駄に道路の混雑の多い岡山であるから、いっそのこと中心地域の交通を全面的に路面電車中心に切り替えてしまうような大胆な施策があっても良いように思われる。
鉄道視察を終えたところで遠征の本来の目的の方に立ち返って県立美術館を目指す。驚いたことに美術館に客が殺到している。正直なところ今までこの美術館がこんなに混雑しているところを見たことがない。
「華麗なるオーストリア大宮殿展」岡山県立美術館で2/21まで
オーストリアを支配したハプスブルク帝国のコレクションを、絵画、彫刻、家具、宝飾品など多岐に渡って展示紹介する。また合わせてシェーンブルン宮殿やベルヴェデーレ宮殿などの建築物についても紹介。
正直な印象は、現在京都国立博物館で開催中の「THE ハプスブルク」よりも、こちらの方がよほどその名にふさわしい展覧会であるなというもの。あちらは「ウィーン美術史美術館展」に近い色彩が強かったが、こちらは宝飾品や豪華なドレス、さらには食器や調度など、より一般に分かりやすい形で、ハプスブルク家の豪奢な宮殿生活を示している。それだけに明らかに一般ウケしやすい内容であり、多くの観客が詰めかけている理由も納得できる。
最も芸術サイド優先の私の場合は、豪華な食器やドレス類などを見ても「ふーん、すごいね」で終わってしまうので、個人的には今一つ印象は強くないのであるが。
これで本遠征の目的は終了。時間が余ったら後楽園に再入場しようと思っていたが、なんだかんだで時間を取ったためにその余裕はなくなってしまった(岡山ダンジョンでの渋滞ロスが実は一番大きい)。土産物のきび団子だけを買い求めると、駐車場で車を拾って帰途につく。ただ今日は散々歩き回って汗もかいたので、帰りに岡山ICの北にある桃太郎温泉一湯館に立ち寄って汗を流して帰ることにする。
ここは以前にも来たことがあるが、ラドン含有の天然アルカリ泉である。加温のために循環はしているが、循環濾過ではなくてあくまで加温のみであり、源泉は常に別途追加されていることから源泉かけ流しということになっている。やや硫黄臭のある肌当たりの良い湯で、ゆっくりと浸かることが出来る。施設的には休憩室があるだけのシンプルなものだが、ここの露天風呂はゆっくりと疲れを癒すのには最適である。岡山・兵庫地域は実にレベルの高い温泉が多いから侮れないのである。
久しぶりに温泉でゆったりとすると、高速を突っ走って家路につくのであった。
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