展覧会遠征 小倉・萩編
いよいよ年末に向かって慌ただしくなってきたが、今年最後の大型連休となるこの週末は、中国地区の最後の総仕上げを行うこととした。今まで三年以上をかけて中国地区をコツコツと攻略してきたが、未訪問のまま残った地域が一カ所ある。それは萩周辺である。山陰本線沿線において、出雲市から益田にかけての地域と下関から長門市にかけての地域は既に訪問済みであるが、それに挟まれた萩地域だけは未訪問のまま残ってしまっていたのである。そこで今回はこの地域を中心として訪問するついでに、来年度以降に向けて九州地区に初めての足跡を記しておくということにした。ちなみに萩地区の訪問がここまでずれ込んだのは、本来はSLやまぐち号と絡めた遠征にしたいと考えていたからなのだが、今回もやはり一ヶ月前に申し込んだにも関わらず座席の確保に失敗。本年度のやまぐち号乗車は諦めて、萩訪問だけを先行させることにしたというのが実態である。
さて交通手段であるが、当然のようにJRである。青春18シーズンでもないので、無理をせずに往復には新幹線を使用することにする。さらにここで使用するのが津和野・萩ゾーンを含む周遊切符。正直なところ、今回の行程ではこの周遊切符での採算性は低いのであるが、綿密な旅費計算の結果、往復のアクセス券の2割引まで含めると辛うじて周遊切符の方が安上がりと判明した次第である。ちなみにこの周遊切符で最も採算を取りやすいのは以前に私が行った山口訪問のようなパターンなのだが、残念ながら当時はこの切符の存在を知らなかったばかりにかなり高い行程となっている。やはり世の中は情報のある者だけが得をするようになっているわけで、つくづく悔しい限りである。さらに日程であるが、当初は三連休に合わせて二泊三日のつもりであったのだが、それだとどう考えても萩での見学時間がまともに取れない。悩んだ挙げ句、結局は金曜日に有給休暇を取得しての三泊四日の日程となった。
さて当日だが、毎度のパターン通り今回も早朝の出発である。まずは新幹線で周遊エリアの入り口である新山口まで移動となる。この区間はエクスプレス予約で指定席を確保してある。早朝出発で腹が減ったので、車内で弁当を購入。「六甲山縦走弁当」という、高校生時代に学校行事で無理矢理にヒーヒー言いながら六甲縦走をさせられた私にとっては、悪夢のようなネーミングの弁当である。ちなみにその時の苦しい体験が今日の山城訪問で生きている・・・ということは全くない。
弁当を食べている内にもう岡山を過ぎている。さすがに新幹線は楽である。福山なんていつも在来線で行っている時はかなり遠く感じるのだが、新幹線を使えばあっという間である。これは気をつけないと堕落してしまいそうだ。そうこうしているうちに新山口に到着。ここでこだまに乗り換えて新下関に向かう。
新下関で在来線に乗り換え。在来線ホームには懐かしのみすゞ潮彩の乗り場がある。ただ今回はこれに乗りに来たわけではない。下関行きの普通列車に乗ると下関に向かう。
下関に到着すると向かいのホームに小倉行きの普通が待っているのでこれに乗り換え。関門海峡のトンネルを抜けるといよいよ九州初上陸(厳密に言うと、中学生時代に修学旅行で一度九州上陸はしている)になる。関門トンネルをくぐると門司駅に到着、ここで門司港行きの列車に乗り換えると、数分で門司港駅に到着する。
門司港駅のレトロな駅舎
門司港駅は港の終着駅ということで、駅の雰囲気は高松駅に近い。ただ門司港駅の駅舎はかなり歴史のあるものだし、駅周辺は高松よりはかなり田舎である。ちなみに古くからの歴史を誇る門司港には煉瓦造りの建造物なども多々あり、現在は「門司港レトロ」と銘打って観光の目玉にしているようである。とりあえず私にとっては中学校の修学旅行以来の30年以上ぶりに人生二度目の九州上陸である。感無量のものがある。
門司港駅内部は完全レトロ空間。 とりあえず身軽になるために駅のコインロッカーにトランクを放り込むと移動にかかる。まずは最初は関門海峡を一度渡ってみようというつもり。関門大橋は門司港西部の和布刈公園のところから出ているが、ほぼ同じルートを海底トンネルも通っており、そこには人が渡れる人道トンネルもある。そこでそれを経由して下関に移動・・・するつもりだったのだが、生憎と現在はトンネルが工事中で閉鎖である。といってもただ閉鎖だと困る者が多いので、代替バスが大橋経由で運行されている。そこでそれに乗ってやろうという考え。
次のバスの発車時刻は10時であるが、問題はその時間までに和布刈に到着する路線バスがないこと。歩くには遠すぎるし、ここは無理せずタクシーを利用する。
和布刈の人道トンネル入り口はちょうど関門大橋のたもとにあり、かなり近くに橋が見える。中学生の頃にこの橋を初めて見た時には、当時のアジア最長という巨大さに圧倒された記憶があるが、明石大橋や瀬戸大橋を見慣れてしまった今となっては、やはり小さな橋に見えてしまう。人は日々進化するものなんだなということをかみしめる。
関門大橋が間近に見える
なおここの東方沖がいわゆる源平合戦最後の地である壇ノ浦に当たるのだが、こうして海岸から眺めるだけでも潮の流れがかなり速いことが分かる。案内文によると約10ノットの速度があるとか。これは確かに義経によって「漕ぎ手を射る」という掟破りをされてしまった平家の軍船は、流れに翻弄されるしかなかったであろう。この沖には安徳天皇を始め、多くの命が散っていったのである。
人道トンネル入口は閉鎖中
そのような歴史に思いを馳せつつ、たっぷりと海の風景を堪能すると代替バスの方に乗車する。観光バス車両を使用しているようで、間に合わせのバスにしては比較的良いバスである。乗り込んだのは10人弱程度。なお人道トンネルは自転車も通行可能であるが、自転車の場合は同時に運行されるトラックに積み込まれることになる。
代替バスは観光バスを使用
バスはここから門司港駅方面にぐるりと大きく迂回してから関門大橋に向かう。こんなところまで戻るのなら、いっそのこと門司港駅から乗せてくれたら楽なのにと思うが、このバスはあくまで人道トンネルの代わりのバスであるから、バスの運行許可の関係でそうもいかないのだろう。和布刈公園周辺をグルリと周りながら関門大橋に乗る。
関門大橋からの眺めはなかなかのものである。ただ瀬戸大橋を走行した経験のある者としては、やはり短い橋という印象を受けてしまう。なおトンネルが閉鎖されているせいで、日頃はトンネルと橋の二つに分かれている車の流れがすべて橋に集中した結果、橋の出口は大渋滞してしまっている。それにも関わらず出口ゲートの半分ぐらいは閉鎖されているので、これは道路公団が怠慢しているのじゃないかと感じたが、橋を出た先のアクセス道路も混雑しているので出口だけをどうこうしても根本解決にはつながらないようである。結局はトンネルが通行可能になるまでの我慢と言うことか。
左 人道トンネル下関側入口 右 振り返って仰ぎ見る火の山 バスは30分程度で人道トンネル下関入り口に到着する(渋滞がなければ20分もかからない距離だと思う)。ここで降りると間近に見える火の山を目指す。この火の山は関門海峡を望む戦略的要地であり、源平合戦の折りもここに陣城が構築されたと言う。また近代でもこの山には砲台が建造されており、戦後になるまで一般人は入山が禁じられていたとのこと。戦後は公園として解放され、山頂アクセスのためのロープウェーも建造されたが、近年になって山頂までの道路が開通すると共にロープウェーの乗客は減少、さらにはこの道路が無料化されるに至ってロープウェーは壊滅的な打撃を受けて、ついには閉鎖に追い込まれたという。しかし最近になってこのロープウェーが再び下関市運営の元に再開され、現在は季節運行されている(春から秋にかけて)とのこと。これはやはり視察しておく必要があろうというものである。ロープウェーの駅までは距離はそうないが、かなり急な斜面を登る必要がある。駅に到着した頃にはヘロヘロのクタクタ。つくづく自身の体力のなさが情けない。
ロープウェーは15分に1本の割で運行されている。ただ今日は平日のせいか利用客は多くない(私を含めて4人)。ロープウェーからは関門海峡を眼下に見下ろすことが出来るが、残念なことにゴンドラの窓がかなり汚れていて視界が明瞭でない。また全体的に設備がかなり老朽化していることは否めず、果たしていつまで運行が続けられることやら・・・。
左 ロープウェイ山上駅 中央 展望台 右 展望台より望む関門大橋 山頂に到着すると展望台へと向かう。この山頂駅から展望台までの間はスロープなどが整備されて完全バリアフリーとなっているが、そもそもの斜面がきつい分、スロープもかなり長大であるので、介護者にはかなりの体力が必要となるだろう(もしくは車椅子利用者自身がかなり頑健な上半身を持っているか)。
弾薬庫?防空壕?謎の遺跡
展望台近くにはかつての軍事施設(弾薬庫跡?)と思われる煉瓦造りの壕が存在している。もう少し歩いたところには砲台跡も残っているそうだが、私は中世の城には興味はあるが、近代の陣地には興味はないのでそこまでは足を伸ばさず、展望台から関門海峡を眺めるだけで終わらせておく。それにしてもこれはかなり絶景。海岸際にあるかなり標高の高い山だけに、海峡を一望することができる。これは確かに軍事的要地であるのは間違いない。もっとも中世の合戦ならともかく、近代戦においてここまで攻め込まれるような状況になれば、もうほぼ戦いの趨勢は決してしまっているが。
ロープウェーで再び山を下りてくると、バスで唐戸まで移動する。ここからは門司港行きの連絡船が出ているのでこれで門司港に帰ろうという趣向。連絡船はちょっと大きめのクルーザーといった感じの船で、よく遊覧船などに使用されているような数十人乗りの高速艇である。門司港まで10分程度のクルージングだが、船が小さいのと海流が速いのとでよく揺れる。私は船酔いしやすいたちというわけではないので良かったが、船酔いしやすい者ならこれは結構つらそうだ。とりあえずこれで橋の上からと山の上からと海の上から関門海峡を視察したことになる。
唐戸港からクルージング
門司港に戻ってくると、レトロロマンをたたえる街並みを見学。ただ、神戸出身の私にはこの手の風景は正直なところあまり珍しくない。レトロな洋館などを眺めつつ、街並みのはずれまでプラプラと歩いたところで、今日の目的地の一つにたどり着く。
左の橋は大型船が通過する時には跳ね上がるそうです。
「日本美術の女神たち」出光美術館(門司)で12/20まで日本の美術作品に描かれてきた「女性」に注目した展覧会。
一番の目玉は小杉放菴の「天のうづめの命」の作品。アマノウズメとはアマテラスが岩戸に籠もって世界が真っ暗になった時に、裸踊りのどんちゃん騒ぎをしてアマテラスを岩戸から誘い出したと言われている神話に登場する日本最古の踊り子である。一般的にはエロティックな扱いをされることが多いこの物語を、放菴は無邪気でのどかな絵画に仕上げており、これはなかなかに面白い。
女性を描く際には、エロティックさを秘めつつもいかにそれが下卑た印象にならないかというバランスも芸術作品においては重要である。その辺りのバランスに苦労しているのがうかがえる作品なども見られて表現の面白さを感じた。ただ結果として、上村松園の凛として気品のある女性画が群を抜いて存在感があるというのは皮肉なことだが。
なお出光美術館には美術品だけでなく、創業者・出光佐三氏の偉業を称える展示などもあった。なお出光では彼のことをなぜか「店主」と呼んでいるようだ(どうも出光商店の頃の名残のようだ)。なお私はこの手の「偉人伝」的展示は苦手である。と言うのは、いくら偉人の偉業を辿ったところでそれを真似できるわけでもなく、むしろ彼らは私の年齢の頃には既に頭角を現していたことを見ると、この年になって結局は大したこともなしていない己の無力さを思い知らされるからである。私もこれでもかつては夢もあれば大志もあったが、悲しいかな世の中に無力に流れるだけでこの年齢になり、もう自ずと先が見えてきたということもある。若い頃に信じていたほどには自らに特別な能力などなかったという現実を痛感させられるのである。劉表の元に身を寄せていた劉備玄徳が髀肉の嘆をかこっていたのも40代頃だというが、それまでに彼は黄巾討伐で活躍するなどそれなりの盛名は得ており、関羽・張飛・趙雲などの彼を慕ってついてきている豪傑たちもいたわけである。こういうベースがあった上で、彼は諸葛孔明に出会うことによって自らの運命を切り開いて蜀の皇帝にまで上り詰めるのであるが、そのようなベースが全くない上に諸葛孔明に出会うこともない私の場合、先は完全に見えていると言うしかないだろう。当たり前と言えば当たり前なのだが、そのことに直面するとやはり一抹の悲しさはある。そしてこういう考えを抱いてしまうことに、自らの「老い」を感じてもしまうのである。
美術館を出た時にはもう昼をはるかに過ぎている。そろそろ昼食を摂らないといけない。すると目の前に「元祖焼きカレー」の看板が立っているのが目に入る。門司港の名物は焼きカレーと以前に聞いており、やはりここは一応食べておく必要があるかとその看板の店「ユキ」に入店する。あまり大きくない店内は、ごく普通の喫茶店である。注文したのは当然のように「焼きカレー(800円)」。
事前に「少々時間がかかりますが」と言われていたが、確かに10分以上経ってからようやくカレーが登場する。どうやらカレーライスの上にチーズを置いてオーブンで焼いたもののようである。見た目はカレーとピザの中間のようなイメージ。食べてみると予想外に和風のあっさりしたカレー。チーズは香ばしくてなかなかにカレーによく合う。またチーズの下には玉子も入っており、これがさらにまろやかさを増すことになる。正直なところピザはあまり好きでなく、和風のカレーもあまり好きではない私だが、不思議なことにこの焼きカレーはうまい。あっさり目のカレーにチーズのコクが加わってバランスが良くなっているのだろうか。焼きカレーも店によって微妙に仕様が違ったりするとのことだが、ここのはかなりオーソドックスな方なのだろう。ちなみに後でこの店についてネットで調べてみると、「インド人直伝のスパイシーなカレー」との説明がある。しかし私の舌にはカレーうどんなどによくある和風なカレーに思えたのだが・・・。私の舌がいい加減なんだろうか。まあこれは各人に直接判断してもらうしかない。
昼食を済ませると再びプラプラと門司港駅に帰ってくる。とりあえず門司港は明日も立ち寄る予定であるので、今日の所はこのぐらいにして、トランクを回収すると次の目的地の小倉に向かうことにする。
小倉までは十数分で到着する。かつては門司港が九州の玄関口だったのだろうが、今日ではこの小倉が実質的に九州の玄関口となる。ここは新幹線を始め、多くの路線が集まる交通の要衝であり、私が予想していたよりもかなり大きな都市である。表玄関である小倉駅は大きな駅ビルに入っており、駅前にはバスターミナルなど多くの交通機関がここに集積している。
まずは最初の目的地は北九州市立美術館である。しかしそこは路線バスと美術館のシャトルバスを乗り継いでいかないと行けないかなりの辺鄙。結局は片道で40分以上を要してようやく美術館へと到着する。美術館のあるのは完全に郊外の小高い山の上である。この美術館は建物もかなり独特であり、地元では「眼鏡」などとも言われているとのことだが、私には大砲に見える。
北九州市立美術館私が訪問した際には常設展のみ開催。収蔵品の中には東山魁夷の作品やルノワールの作品など、かなり興味深い高レベルの作品もあり目を惹く。ただ展示物の過半数はいわゆる現代アート系で私の興味の範疇外。
かなりデザインに凝った建物だが、名のある建築家によるものだとのこと。実際のところ、この建物自体が一番の作品のようだ。なお何となく見たことがあるような・・・という印象を受けたが、この美術館はデスノートの映画の撮影が行われたとか。私はその映画は興味が全くないし、見たこともないが、宣伝などで目にしたのだろう。かなり斬新なデザインのため、この手の映画のロケが結構多いらしい。確かに斜面をうまく利用したデザインでもある。
美術館内にある光の庭 確かに何やら見覚えがある
美術館の見学を終えると、再びバスで駅前に戻ってくる。とりあえずは荷物を置くためにホテルにチェックインしておくことにする。今日の宿は西鉄イン小倉。例によって例のごとくの大浴場付きのビジネスホテルである。とりあえずチェックアウトを済ませて荷物を部屋に置くと、身軽になって再び街へと繰り出す。
次の目的地は「小倉城」である。小倉はそもそも小倉城の城下町で、最初は毛利氏が城を築いたのであるが、本格的に整備されたのは江戸時代に入ってから細川忠興の時代だという。その後、城主は小笠原氏に代わったが、この城は九州を押さえるための要地として譜代大名によって支配されており、幕末の長州攻めの際にはこの城が幕府軍の拠点となったという。ただこの戦いは幕府軍の敗北となり、小倉城は撤退の際に焼却された。現在の天守は昭和に入ってから鉄筋コンクリートで外観復元されたいわゆる「なんちゃって天守」であるが、見栄えを良くするために、本来はなかった破風を加えるなどかなりオリジナルのデザインを損なう改変をしているので、マニアには「とんでも天守」扱いされる場合もあるらしい。
小倉城天守
天守西側には庭園と紫川 天守北側には堀の跡の背後に巨大な商業施設 城は紫川のほとりにあり、この川を東の守りに使用した縄張りとなっている。本丸周辺の堀などは残存しているので、「なんちゃって天守」でも外から見る分にはそれなりの趣はある。ただ大手門の石垣跡などは一部残っているが、全体的に公園整備がされすぎており、そのことによって遺構が逆に完全に破壊されているような印象を受ける。なお例によって天守内部は完全な現代建築であり、かなり本格的な博物館となっている。というわけで、この天守も外から眺めている方が良い類のものである。またこの天守のすぐ北側にかなりぶっ飛んだデザインの商業施設の巨大ビルが建っており、これが見事に天守の姿を隠してしまうようになっている。元々平城で天守の標高が低いために目立ちにくい城であるが、小倉駅前にも巨大ビルが林立しているため、とにかく周りから見えにくい城である。こういう点は大垣城などに近い(周辺の遺構の残り具合は大垣城よりはマシなように思えるが)。
左 大手門跡 中央・右 本丸跡には何もない 小倉城の見学を終えると、その北側の「ぶっ飛んだデザインの商業施設」に向かう。ここはリバーウォークなる商業施設で、ここの6階には北九州市立美術館の分館があるとのことなので、それが目当て。やはり本館があまりにド辺鄙にあるので、もっとアクセスの良い地に分館を開いたということか。
ただその前に非常に腹が減ってきた。これだけ派手に動き回っていると、やはり焼きカレーだけでは昼食が軽すぎたようである。そこで地下のフードコートに立ち寄り、「かしわ屋くろせ」で「鳥カツ丼(並)550円」を一杯かきこんでおく。なお(並)などのランクは質の意味ではなく、単に量の意味であるらしい。やや甘めの味付けであるが、ふわりとした卵とサクッとしたカツのバランスが良くてなかなかにうまい。
とりあえずの空腹を抑えたところで目的の美術館へ入館する。
「彩華 讃岐うるし三人展」北九州市立美術館分館で11/29まで
北岡省三、松原弘明、廣田洋子の三人の作家による漆工芸品の競演。讃岐漆芸の伝統を汲みつつ、そこに新しい感性を持ち込んだ作品を展示。
工芸品は完全に私の守備範囲外なのであるが、不思議と陶器などよりも見ていて面白味を感じた。やはり漆独自の深い色彩が興味を惹く。いずれの作家もその漆の本来の色彩を生かしつつ、そこにさらに微妙な色合いを加えることで多彩なデザインを展開しており、そこに美を感じさせられた。
美術館の見学を終えた後は、買い物がてらにさらに小倉の市街をプラプラとする。小倉は私が行った都市の中ではかなり大都市の部類に入る。東京・名古屋などには到底及ばないが、広島・金沢には匹敵する規模があるだろうし、松江・岐阜よりは大きそうである。正直なところ、私にとってはもっともしっくり来る規模の都市でもある。百貨店などをウロウロしつつ、地下で夜食の仕入れなどもしておく。
夜のおやつに仕入れた小倉銘菓「鶴乃子」
ブラブラしているうちにかなり時間がたった。そろそろ夕食を摂る場所を探す必要がある。とは言うものの全く当てがない。小倉は大都市なので飲食店はいくらでもあるのだが、かえって選択の基準がない。そこで繁華街をウロウロしながら、勘で店を選ぶことにした。とは言うものの、なかなかピンと来る店はない。そうこうしているうちに駅前を通り過ぎて繁華街のはずれの方まで来てしまう。その時、私の「うまいものセンサー」にビビッと来る店が現れた。その店は「一椿」。創作料理の店と書いてある。ただ残念ながら今日は予約で一杯だとのこと。諦めて他の店を探そうと思ったところで、姉妹店の「舞」のカウンター席が空いているとの紹介を受ける。料理のメニューはこちらと同じとのことなので、そちらを訪問することにする。
姉妹店の方は通りを一本ほど隔てた先にあり、確かにカウンター席に空きがあるとのことでそちらに案内される。さて何を注文しようかとメニューを見た時に「ふぐ」という文字が目に飛び込んでくる。すると途端に今まで私の中の抑圧されていた感情がほとばしる。門司から下関にかけての一帯は完全にふぐの制圧下にあり、思えば今日一日あちこちで散々に「ふぐ」の看板を目にしていたのである。門司港では町のあちこちにふぐの幟が並び、下関に至ってはバスのシートまでふぐの柄である。これはまさしく洗脳効果と言っても良い。この時、いきなり私の脳内でSEEDがはじけたかと思うと、突然にバーサーカーモードが発動してしまったのである。出発前には「今回の遠征は予算不足だから、出費を抑えないと」と考えていたはずなのだが、こうなってしまうと私には月末の支払いも今月の赤字も考える余地がなくなる。私は迷うことなく「鮑付きふぐコース(5500円)」を注文していた。
最初には三点盛りの前菜が登場するが、特別な器に入っており、何となく登場から高級なムード。これからの料理に対する期待が高まる。
二点目はいきなり「ふぐ刺」。これは文句なくうまい。思わずうっとりする一品。
次に登場するのはふぐの皮入りの茶碗蒸し。何の変哲もない茶碗蒸しが、ふぐの皮が入っただけでこんなに深い味になるとは・・・。
四点目にはふぐの唐揚げ。雰囲気的には鶏の唐揚げに似ているが、鳥の唐揚げからあらゆる嫌みを取り去った感じ。以前に別の店でふぐの唐揚げを食べた時には、そう特別にうまいとも思わなかったのだが、ここのは極めつけにうまい。
次に鮑の酒蒸しが登場。これは見ている目の前で鮑が酒蒸しされる。その鮑をステーキ的に食べるのであるが、鮑の歯ごたえと適度な磯の香りが美味。こうして食べると鮑っておいしいんだということを感じる。
六点目がお約束のふぐちり。これがうまい。やはりふぐの味が違うんだろうか。どうも私が以前に食べたことがあるふぐとは根本的に違うような気がする。以前の時はふぐちりはそう大した料理ではないと感じていたのだが、ここで食べるものはどうしてどうしてかなり大した料理である。ふぐのアラまですすってしまう。
この次に登場するのが当然のように雑炊なのだが、これが私が今までに食べた雑炊の中で一番の美味。もう既にこの頃になると腹がかなり重いのだが(つくづく、あの時に鳥カツ丼なんて食べるんでなかったと後悔していた)、困ったことにこれだけうまい雑炊だと残すのが勿体なくて必死で全部食べてしまう。
最後の締めは黒糖プリン。あっさりとしながら濃厚な風味で、気持ちがサッパリとする。デザートとしてはこの上ない一品。この時に気づいたのは、私はあまりにうますぎるものを食べると思わず笑いが出るということ。ここに来てからはもう料理が出るたびに笑いっぱなしである。いい年をしたオッサンが、料理屋で一人ニヤニヤしながら飯を食っているのだから、それを見た者は不気味かもしれないが、出てしまうものはどうにもならない。
結局のところ、来月のクレジットの支払いに不安を感じつつも、思いっきり夕食を堪能してしまったのである。何の情報もないままに飛び込みで選んだ店であったが、これが大正解だった。私の「うまいものセンサー」もまだまださびついてはいないようである。このままホテルに帰還すると、この後はホテルの大浴場でしっかりと疲れを癒す(この日はさすがに2万歩以上歩いている)。そしてさあ早めに床に就くかと思いつつテレビをつけると「ラピュタ」を放送していた。結局は最後までこれに見入ってしまったのである・・・。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時起床。「ラピュタ」に完全に見入ってしまったせいで、正直なところ若干の寝不足。無理矢理に目を覚ますと、まずはホテルで朝食。このホテルはおにぎりやパンなどの簡便な朝食を用意している。内容的には少々寂しいものがあるものの、一応は必要十分なレベルとは言える。
朝食を終えるとチェックアウト。さて今日の活動の最初は「21世紀の地域振興と交通について考える市民の会(代表)」としてのサークル活動である。小倉には郊外の企救丘とを結ぶモノレール(北九州高速鉄道)が建設されているのでその視察である。
小倉駅ターミナルビルの中にモノレールの駅が モノレールは小倉の駅ビルの中間から飛び出しているような構造になっている。10分に1本のパターンダイヤでかなりの多頻度運転。車両自体は大阪モノレールのものと類似している。始発駅の小倉と次の平和通の間には切り替えポイントがないので、この両駅では企救丘方面行きの列車はホームの左右から交互に発着することになる。
車両自体はかなりオーソドックス 路線は小倉の市街地をグルリと回るという経路であり、利用者もかなり多い。小倉ではこのモノレールとバスが市民の足となっているようである。終点まで20分程度だが、その間も乗客の乗り降りは結構頻繁である。モノレールは都市交通としては輸送量は地下鉄とバスの中間、建設コストは地下鉄よりは大幅に安くて路面電車よりは大幅に高いというところだが、小倉の都市には合ったレベルのような気がする。ちなみにこの路線はかつては小倉駅に乗り入れていなかったために、利便性の悪さが祟って巨額の赤字を抱えることになったのだが(この再建の過程で北九州市に買収されるような形になったらしい)、小倉乗り入れが実現してからは利用者が大幅に増えたとか。やはり交通機関には乗り換えアクセスが重要である。
左 JR志井公園駅 右 そこで振り返ると近くに企救丘駅が見える 企救丘に到着するとここからJRの志井公園駅まで歩く。志井公園駅はJR九州の日田彦山線の駅である。この駅自体は出来たのは比較的最近で、乗客がとられることを懸念した九州高速鉄道と一悶着あったらしいが(小倉までの運賃はJRの方が安い)、単線で運行本数が1時間に1本程度の日田彦山線では勝負になっていないような・・・。実際のところ、運行車両も単両もしくは二両編成のワンマンカーで、輸送力も全くない(というか、利用客数が限られているのだろう)。私の見立てではモノレールに対しては全く脅威になっていないと思われる。
志井駅で慌てて乗り換え
とりあえずこれで小倉に移動・・・のはずだったのだが、間違って逆方向行きの列車に乗り込んでしまい、次の志井駅で慌てて折り返す羽目に。正直、この時は焦ったが、無事に志井駅で乗車予定だった列車に乗り込むことが出来、なんとかスケジュールの破綻は免れる。
途中の日豊本線との合流駅である城野までは非電化単線路線で沿線も閑散としている。城野辺りから急激に沿線が都会化すると共に複線電化路線に変じる。ここからは小倉市をグルリと回り込むような形で、南小倉、鹿児島本線との合流駅である西小倉を経て小倉に到着する。所要時間は20分程度でこれもモノレールとあまり変わらない。
小倉駅で乗り換えるとそのまま門司港駅を目指す。今日は門司港駅で平成筑豊電鉄の門司港レトロ観光線に乗車する予定になっており、これの指定席乗車券は既に確保してある。だから志井公園駅で乗車列車を間違えた時にかなり焦ったのである。
門司港レトロ観光線とは、かつてのJRの貨物路線を利用して、その名の通り観光目的のトロッコ列車を週末だけ走らせている観光鉄道である。車両自体はかつて島原鉄道で使用されていたものとのことで、いわゆる中古機材の有効活用である。これが金曜日も運行していたら昨日で全部済ませておくところだが、昨日は運行がなかったために今日再び門司港を訪問することになった次第である。
潮風号車両(先日撮影)
門司港駅のロッカーにトランクを放り込んで身軽になると、駅南の九州鉄道記念館駅に向かう。どうやら指定席は団体客がいるようで満員の模様。むしろ自由席の方が人数が少なそうだったので、これは指定をわざわざとる必要がなかったなと感じるが、まあこれは今から言っても仕方のないところである。
車両はトロッコ列車といってもガラス張りであり、雨が降っても運行可能なようになっている。門司港駅を出発すると列車はかなりゆっくりと走行する。この路線は最高速度15キロ程度とのことなので、バスどころか自転車よりも遅いぐらいである。そこはやはり交通機関ではなく、観光路線であるということか。確かに沿線は門司港の風景が眺められて風光明媚。出光美術館駅を通過し、次のノーフォーク広場駅を過ぎると山の下をトンネルでくぐることになる。この時に、天井には電光表示でこの地域の海の生物などが表示される。ここで一気に盛り上がる団体客。
車内では記念撮影&トンネル内での電光表示 トンネルを抜けると終点の関門海峡めかり駅に到着する。全行程たった10分程度の列車の旅である。ここからは徒歩5分ほどで人道トンネル入口に到着できるロケーション。ただこちらは先日訪問しているので、今日は「めかり絶景バス」の方に乗車する。このバスは展望台のあるめかり公園を25分で一周してくる観光バスで、潮風号のダイヤと連携している。こちらのバスも先ほどの団体客が押しかけてきて満員状態で出発する。
バスに乗り換え
バスは山の周囲を回りながら登っていく。そもそもこのめかり公園のある山は、かつて「門司城」のあった場所で、一応山頂には門司城址の碑が立っているとのことだが、城の遺構は全く残っていないらしい。ここも対岸の火の山同様、軍の砲台が設置されて軍の管理下になっていたとのことなので、その過程で古城の跡など完膚無きまでに破壊された可能性が高い。山腹を巡って途中の第二展望台でバスはしばらく停車。バスに同乗したボランティアガイドによる解説などを聞きながら、ここでは下車してしばし風景を楽しむことが出来る。火の山展望台に比べると標高はないが、関門大橋にはもっと近いので橋を楽しむには最適である。
第二展望台の壁には壇ノ浦の合戦の壁画があり、関門大橋はすぐそこに見ることが出来る。 25分で関門海峡めかり駅に戻ってくると、私はそのまま潮風号で門司港駅に引き返すことにする。先ほどの団体客はここから別の方面に向かうらしく、今度の列車はかなり空いた状態で静かに乗車することが出来た(団体客はかなりうるさかった)。
門司港に戻ってくるとトランクを回収。駅前で簡単に昼食を済ませ(焼きカレーは時間がかかるので、焼いていないカレーを食べた)ると次の目的地まで大移動となる。次の目的地は萩。本遠征のそもそもの主目的地である。
JR九州の快速811系電車
萩には長門市駅経由で至るルートをとるが、その長門市までが下関から山陰線経由ルートと美祢線経由ルートの二つが考えられる。どちらでも所要時間は似たり寄ったりなんだが、下関駅に到着した時間の関係から結局は山陰線ルートを選択することにする。
このルートは以前に「みすゞ潮彩」に乗車して通ったことがあるが、かなり長いルート。所々で海が見えるところがあるが、実際は意外と山の中の部分が多い。観光列車の「みすゞ潮彩」ではそういうところで退屈しないように、紙芝居など車内イベントを用意してあるが、当然のことながら今回乗り込んだ普通列車ではそのようなものはないので、ひたすら退屈な長い行程を延々と乗車し続けることになる。この辺りは非電化単線路線であるから、運行車両は二両編成のキハ47形。車重の割に非力なことで知られているこの車両は、走行もなんとなくけだる気で私はあまり好きではない。下関近郊ではかなり乗車率の高かった車両も、途中でのすれ違い待ちなどを経て先に進んでいく内に徐々に閑散としてくる。そして私がウトウトとし始めた頃に乗換駅の小串駅に到着。ここで向かいのホームに到着しているキハ40形の単両ワンマンカーに乗り換える。どうやらここで運行が分かれており、下関−小串間はキハ47形の2両編成が往復、小串−長門市間はキハ40形の単両編成が往復ということらしい。ただ乗換駅の小串駅自体は特に何があるわけでもなく、単なる田舎の駅である。
小串で乗り換え
小串駅を出るといよいよ沿線には海が多くなってくるが、それは路線周辺の人口が減ってくることも意味する。車内はいよいよ閑散としてきて、ワンマン単両車が運行されている意味が分かるような状況になってくる。それにしても高速1000円の影響などもあり、いよいよ地方の鉄道が危機に瀕している状況がヒシヒシと感じられる。今のうちに何とかしておかないと、後々まで禍根を残すことになりかねない。
沿線はお約束の海
下関から2時間ほどを要して長門市駅に到着。次の乗り換えまで十数分の余裕があるので駅前に出てみるが、はっきり言って何もない。正直なところ寂れたムードが漂っている。実のところ、今回のプランを練る段階で長門市宿泊のケースも考えたのだが、どうにもまともなビジネスホテルが見つからないと言うことで没になったということもあったりするのである。以前に通過した時も「寂れたところ」という印象があったが、こうして駅前に降り立つといよいよもってその感が強くなる。
なおここからは仙崎方面や湯免温泉方面へのバスも出ている。仙崎には金子みすゞ記念館があり、湯免温泉には香月泰男美術館があるのでそれらを訪問することも考えたが、いずれも萩への到着が遅くなりすぎるので(だから長門市宿泊のパターンが考えられた)、この日は立ち寄ることは断念した。実際に萩で観光にどれだけの時間を要するかがまだ全く読めない状態なので、とりあえずは萩に急ぐことにする。
定番キハ120形
やがて益田行きの列車が到着。これは美祢線経由で来た車両のようで私の好きなキハ120形である。やはり車重の割にエンジンが強力であるこの車両は、キハ47形などに比べると走りにメリハリがあって私好み。ただその分、エンジンの音は少々うるさいが。いよいよここからが山陰本線最後の未視察地域である。
長門市駅を出ると仙崎方面行きの支線と別れ、路線はすぐに山の中へと入る。この辺りはかなり海のそばを通っているはずなのだが、それにも関わらず沿線は山の中ばかりで、山陰では山が海の際まで迫っているということがよく分かる。次の長門三隅駅は完全に奥深い山の中で、それを抜けて次の飯井駅までは時々トンネルの合間から海がチラチラと見える状態。沿線はその後はしばらく海と山を繰り返し、集落が見えるのは萩の西にある玉江駅から。ここから路線は萩の市街をグルリと回り込むような形で通り次の萩駅に到着する。この萩駅は名目的には萩の正面玄関で、観光案内所などもあるのであるが、萩の中心部にはむしろ次の東萩駅の方が近い。私も次の東萩まで乗車する。
東萩に到着。駅前では萩城天守(笑)が迎えてくれる 東萩で下車すると、トランクをゴロゴロと引きつつまずはホテルに向かう。萩では二泊する予定だが、二泊とも違うホテルになる。これは意図的にそうしたわけでなく、予定の変更などが相次いでいるうちに宿泊予定のホテルが一杯になってしまったというのが実態。この三連休は行楽客が多いのか、小倉でも萩でもホテルの確保にかなり苦労した。
一日目の宿泊ホテルは萩トラベルイン。大浴場も部屋でのインターネットもないということで、私の条件からはかなりはずれるホテルであるが、今日はここしか空いていなかったというのが実際のところ。とりあえずホテルにチェックインを済ませ、荷物を置いてから再び出かけることにする。
移動は市内を循環するコミュニティバス「萩循環まぁーるバス」を利用する。これは東回りコースと西回りコースがあって、ホテルの最寄りを通るのは西回りの方。最初の予定ではこれから美術館の方に行こうかと思っていたが、美術館に行くにはかなり大回りをする必要があるようなので、「萩城」の訪問を先にすることにする。
萩城は毛利氏が根拠にしていた城だが、毛利氏のそれ以前の根拠地はそもそもは広島城であった。しかし関ヶ原の合戦において日和見を決め込んだ毛利氏は、三成に加勢さえしなければ本領は安堵するとの約束を一方的に反故にした家康によって、大幅に領地を減らされ、本拠地であった広島城を追われることになる。新たな居城を建造する必要に迫られた毛利輝元は、幕府に対して萩・山口・防府の3カ所を候補に挙げてお伺いを立てたところ、幕府が選択したのが萩だという。萩の地は確かに防御は堅固であるが、山口・防府に比べると明らかに交通の便が悪い遠隔地であり、毛利氏を地方に押し込めてしまおうという幕府の意図が露骨に見える。
萩城大手門跡地にある毛利輝元の像
この萩の地に建てられたのが萩城であるが、指月山の麓に山を囲うように建てられている。萩自体が河口の三角州の町であり、周囲を川に囲まれた要害であるのだが、この三角州には何重にも堀が築かれており、萩城はその最深部に位置することになる。しかも背後の指月山の山頂には詰丸が建造されており、有事の際にはここに籠もって最後まで徹底抗戦が出来るようになっている。何となくこの城の造りを見ていると、家康の露骨な悪意に対して、最悪の場合には玉砕覚悟の徹底抗戦も辞さずという輝元の意地がうかがえるような気がしてならないのである。もっともそれだけの意地があるなら、なぜ関ヶ原の戦いでもっと積極的に動かなかったんだと言いたくもなるが、恐らくそれをしなかったことに対する輝元の後悔もあるのではなかろうか。
左 大手門跡 右 本丸入口 萩城手前は観光の拠点にもなっているようで、観光客向けの駐車場も設置されている。この辺りはかつての二の丸の跡のようで、目の前にかつての大手門の跡と思われる石垣がある。それを抜けてクネクネと進んでいくと、突然に目の前に広がるのが本丸の堀と石垣。建物は全く残っていないが、遺構の保存状態はかなり良いようで思わずゾクゾクとしてくる。ここまで遺構が残っているのはやはり長州の城だったというのが大きいのだろうか。戊辰戦争で賊軍側にされた城は廃城後に徹底的に破壊されたとの話もあるし。
萩城
入場料を払うと本丸内の散策。本丸内には建造物の類は一切残っておらず、お約束の神社があるだけ。ただ石垣の類はほとんどそのまま残っており、天守台などもかなり立派なのが残っている。この上に立って見下ろすと、本丸の構造がよく分かる。
左 本丸石垣城から望む天守台 中央 天守台風景 右 振り返る指月山の上に詰丸がある 本丸を一渡り散策したところで詰丸への登り口のところまで到達する。さて悩んだのがこれから詰丸を見学するかどうかである。実のところ、ホテルを出た時には萩城を訪問する気がなかったので、登山用の一脚を持参していない。また時刻を見るともう午後4時を回っており、日没までには1時間あるかないかである。見上げる登山道は鬱蒼としており正真正銘の山道。足下が満足に整備されていないし、当然のように街灯などは全くない。もし山中で日が暮れるようなことがあったら下山道さえも見分けることは不可能で、進退窮まってしまう可能性がある。しかし天気予報によると明日は雨とのこと。足下には枯れ葉がつもっているような状況であるから、もし雨でも降れば滑ってとても登れるものではないだろう。ここで決断する。「えい、とりあえず行けるとこまで行ってやろう。」
詰丸への道はかなりの悪路
しかし登り道はかなり急ですぐに息があがる。山頂まで時間をかけてゆっくり登るつもりなら良いのだが、今は烏の鳴き声にせかされるように急ぎ足で進んでいるので疲労が倍加する。進むにつれて道は険しさを増し、その一方で足下はさらに怪しさを増してくる。また日は次第に西に傾いてゆき、心なしか山の中が薄暗くなってきたような気がする。そろそろ勇気ある撤退を図った方が良いだろうかという考えも頭をよぎる。もう完全に足に来てしまってさすがに限界かと思った頃に、山頂から降りてくる人とすれ違う。彼によると山頂はもうすぐとのこと。ここでとりあえず登れるところまでは登ってしまうということを決断する。
ヘトヘトになった時にようやく入口が
確かにそこから5分とかからずに山頂に到着した。山頂にはやはり建造物は一切ないが、石垣の類と一部城壁が残っている(ただこの城壁はバカの落書きだらけで残念だったが)。山頂の詰丸には二の丸と本丸があるが、本丸の方には大岩があり、その周辺が貯水池として堀込まれている。山城では水の確保がまさに生命線となるのだが、ここに水を溜め込んでおくのだろう。なお登山道の入口に「この先、展望台はありません」との表記があったのだが、確かに山頂は鬱蒼としているせいで眺望はあまり良くない。ただそれでも木々の隙間から萩の市街地を遠望することは出来る。
左 虎口 中央・右 二の丸跡にも本丸跡にも何もない 左 貯水池の岩 右 本丸から二の丸方向を望む 結局は登山に10分ほどを費やしている。やはり時間が気になるので山頂を手早く見学すると早速下りにかかる。とにかく足下が暗くなる前に降りてしまわないといけないが、かといって急ぎすぎるのは自殺行為である。登山における重大事故は登りよりも下りでの方が発生しやすいのである。既に登りでかなり足にガタが来ているのに、足下は極めて怪しいので、一歩一歩気を付けて進まないと転倒・転落の危険がある。実際、これだけ注意していても、途中で以前から痛めている左足をひねって危うく捻挫をするところであった。もしここで捻挫で動けなくなったら完全にアウトである。やはり登山は夕刻が迫ってからするものではないとつくづく思う。今回はスケジュールを焦って、日頃慎重な私にしてはかなりの無茶をしたが、今後はこういうことはなるべく避けるようにしないと。
ようよう下の本丸まで降りてきた頃には、辺りが薄暗くなり始めていた。とりあえず今日中にこなすべき所はこなしたので、循環バスでホテルに帰ることにする。とは言うものの、このバスの一番の難点は一方通行であること。ホテル最寄りのバス停に到着するには1時間近くバスに乗り続けるしかないのである。しかしもう今日の予定は完全終了しているし、萩市内を一回り視察するにはむしろ都合がよいと判断し、そのままこのバスに乗り続けることにした。
萩駅の内部は鉄道博物館のような雰囲気(写真は翌日に撮影) 途中で文化遺産でもある萩駅を見学したりしながら、バスに揺られること1時間近く。大体萩の町の規模や構造は把握できた。これによると見学するべき場所は意外と狭く密集していること、また本当の意味での萩の中心地は萩駅でも東萩駅でもなく、むしろ萩バスステーションが最寄りであることなども大体把握した。これは明日の見学スケジュール立案のための重要なデータである。やはり何事も地の利がなければ始まらないのである。
ホテルに帰還するとまず夕食である。私は萩到着の一日目は多分バタバタしていて夕食を摂るための店を選ぶのも大変だろうと予測していたので、夕食付きのプランを最初から申し込んでいた。ホテルの夕食は向かいの飲食店の「萩心海」で摂ることになる。この店の外観は建物の上に灯台が建っているというとんでもないものだが、内部も巨大な生け簀がデンと構えているというとにかく派手な造り。とりあえずカウンター席に通されると、ホテルで受け取った夕食券を差し出して夕定食を頂くことにする。
夕定食は刺身や天ぷらに煮魚と言った魚介中心のオーソドックスな定食。ごく普通に旨いし、魚の鮮度も良い。ただこれを食べながら目の前の巨大な生け簀を見ているうちに、ムラムラと新たな欲求が盛り上がってきた。「イカが食べたい」。実は昨日小倉でふぐを堪能している時、隣の席の客はイカの活け作りを注文しており、それが非常に旨そうだったのである。店員に「一人分、小さめの一匹いくら?」と聞いてみると「2000円ぐらい」とのことなので、イカの活け作りを追加で注文する。
生け簀でイカが泳いでいる
出てきたのは透き通るようなイカ。胴の部分と足の一部が刺身になっており、ヒレや頭などの残りの部分は後で天ぷらにするという。まずは刺身を頂く。これが甘くてコリコリとして、言い様のないほどの美味。思わず「くぁーっ」という声にならない声が出る。
イカの活け造り。身が透き通っている。
さらに驚いたのが後から出てきた天ぷら。これが今まで食べたことのないような美味。甘くて柔らかくて旨味があって。これは思わずうっとりする味。さすがに今朝届いたイカと言っていただけのことはある。先日に続いてもう私は笑いっぱなし。たっぷりと夕食を堪能したのであった。
これが絶品のイカの天ぷら
この後はホテルに戻り、風呂で汗を流してから翌日のスケジュールを練る。なおこのホテルはロビーでのみ無線LANが使用できるはずだったのだが、私の部屋がロビーに近かったためか、試しに無線LANカードを刺したらつながったのでそのまま使用。結局はフルにインターネットを駆使しての作戦立案が出来たのであった。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時過ぎに起床。手早く入浴など身支度を済ませるとホテルで朝食を摂った後、ただちにチェックアウトする。そのまま東萩駅に移動、トランクを駅のロッカーに放り込む。実は今日は一端萩を離れるつもりである。
と言うのも、先日に萩を巡回バスで一周したところ、見学対象として一番強敵である萩城をもう攻略した上は、残りの部分の見学は半日で十分と判断できたからである。こうなったところで午前中のスケジュールとして再浮上したのが、先日に訪問を断念した湯免温泉の香月泰男美術館と仙崎の金子みすゞ記念館。この際だからバスで長門市方向に戻りつつ、これらの未解決課題を解決し、この地域での宿題をなくしておこうという考えである。
まずは湯免温泉経由青島行のバスに乗車する。東萩からはこのバスは約2時間に1本程度の割で出ている。私の周遊切符では、東萩から秋芳洞行きのバスは乗車できるが、このバスは乗車不可であるのが残念。JRと競合する区間だからJRに乗れという意味なんだろうが、そもそも湯免温泉はJRでは訪問不可能である。この辺りがJRの周遊切符は微妙に使い物にならないと言われる所以なんだろう。
バスは萩の市街地を横断すると、ひたすら山の中へと向かっていく。湯免温泉はかなりの山手であり、そこまで行く道はかなり山道で傾斜もきつい。また冬になると路面が凍結することがあるらしく、道路脇に「ご自由にお使い下さい」と書いた凍結防止剤が積んであったりする。これは昔はかなり往来が大変だったろうな想いを馳せることしばし。
山を抜けて盆地のようなところに到着するとそこが湯免温泉であった。その間およそ50分。温泉地としては地元ではそこそこ名前は通っているようだが、見渡したところ温泉ホテルが一軒と比較的最近出来たと思われる日帰り温泉施設があるだけのひなびた集落である。目的の美術館はその集落の一角にある。
香月泰男美術館香月泰男と言えば、シベリア抑留の経験に基づいた一連のシベリアシリーズが真っ先に連想され、そこに表現された暗くて重くて沈鬱な世界が連想される。しかし本来の香月泰男その人の作風は本来はそうではないのだというのが理解できるのが本館の展示である。
ここで展示されている初期の彼の作品は、色彩に富んでおりカラリスト的傾向を示している。またこの美術館の最大の特徴は、彼がアトリエで制作していたという木の玩具が多数展示されていることであり、そこには彼の遊び心のようなものが現れている。
中庭にあるオブジェは彼の玩具を元にしている
それだけに彼にとっての戦争の傷跡というのは非常に大きかったのだと感じさせられるのである。シベリアシリーズについては「どうしても残さないといけない」という使命感に駆られて描いたようなことを確か彼が語っていたと思うが、その意味について考えさせられるのである。
美術館の見学を済ませると再びバス停にとんぼ返りする。もう少し時間に余裕があれば、日帰り入浴施設にでも立ち寄りたいところだが、残念ながら今日はその余裕がない。青海行のバスが到着するのでそれに飛び乗って、次は仙崎まで移動する。
長門市からは仙崎まで山陰本線の支線があり、ここは以前に「みすゞ潮彩」で乗車しているのだが、この路線は一日に朝夕の6本程度しか通らない超閑散路線で、長門市から仙崎までの移動は事実上はバスに頼るしかない。バスは長門市の駅前を通過するとそのまま仙崎に向かう。こうしてバスから見ていると、長門市の中心は明らかに駅前から外れて郊外化しているのが分かる。山陰では浜田や益田など他の都市でも似たような傾向があるが、モータリゼーションの進行によって、1時間に1本あるかないかの不便な鉄道が敬遠されて、道路の周辺に人口が移動しているのである。それが鉄道の収益をさらに悪化させて運行本数が減少、さらに利用客が減少という破滅へのスパイラルを進んでいるようである。今のうちに手を打っておかないと、これは後の世に禍根を残す。
仙崎駅前でバスを降りると、徒歩で金子みすゞ記念館に向かう。仙崎は特になんと言ったところのない漁村であるが、金子みすゞでの町おこしでも考えているのか、沿道は金子みすゞ一色である。金子みすゞ記念館はその一角にあり、彼女の生家である金子文英堂が再現されている。
金子みすゞは若くして才能を発揮しながらも、男尊女卑の時代の犠牲になった感のある悲運の女流童謡詩人である。金子みすゞ記念館ではそんな彼女の生い立ちについての展示、ゆかりの品々、彼女の作品に関する展示などが行われている。ただ残念ながら文豪系の博物館にはあまり興味のない私としては、殊更に興味を感じる展示はなし。手早く見学を済ませると再び駅前に戻ってくるとバスで長門市駅前まで引き返す。
左は郵便局 仙崎の町中は金子みすゞだらけ。 長門市駅からは再びJRで萩に戻る。今回は東萩ではなく萩駅で下車する。萩駅前は循環バスの拠点の一つになっており、このバスを使用する場合にはここからの方が便利なのである。ここで西回りのバスに乗車するとまずは萩美術館を目指す。
「フランスの浮世絵師 アンリ・リヴィエール展」萩美術館で12/6までアンリ・リヴィエールはジャポニズムの影響を深く受けた画家であり、日本の浮世絵版画の影響から自ら独学で木版画の制作まで至ったという人物である。また晩年においてはジャポニズムの影響から脱し、独自の叙情溢れる水彩画などを制作している。そのアンリ・リヴィエールの作品を集めた展覧会。恐らく彼に注目して、その作品をここまで集めた展覧会は初めてであろうと思われる。
展示の最初はジャポニズムの影響を受ける以前の彼の版画作品から始まるのだが、実はもう既にこの頃から彼の銅版画には後に浮世絵木版画に共感するのは必然と思われるような志向の類似が見られている。そしていよいよ本格的にジャポニズムの影響を受けた頃から彼は木版画を始めるのであるが、これが初期には影響を通り越して模倣と言った方が良いのではないかと言うほど、構図や表現に影響を受けており、パリの風景が北斎の版画に見えてしまうような状況になっている。
しかしそれが徐々に彼の内部で消化されていったのか、水彩画を始める頃にはあからさまなジャポニズムの影響は画面上から消えていく。しかし技法上の類似はなくとも、風景を描く精神においてはかつての流れがかいま見られており、かつてのジャポニズムは既に彼の血肉と化したのではないかと感じられる。
浮世絵版画展の類を見慣れた観客なら、元絵が分かるほどのオマージュ作品があるが、本展でも元絵と思われる作品を並べて展示していたりなど、彼のジャポニズムへの傾倒ぶりを伺えるような展示にしてある。多かれ少なかれ、この時代のパリの芸術家はジャポニズムの影響を受けていることから、当時の世相を垣間見ることが出来る展覧会でもある。
萩美術館はそもそも浮世絵展示に力を入れている美術館であるので、それと合致したテーマと言うことだろう。ちなみに彼の木版画は後の川瀬巴水などの大正版画と非常な類似が見られており、浮世絵の影響が世界を一回りしているのではないかという印象も受けた。
展覧会の一回りを終えるとかなり空腹になってきたが、昼食を摂る店を探すのも面倒だったので、この美術館のレストランでパスタランチ(1000円)を頂く。菜の花とベーコンのクリームスパにドリンクと菓子がついたメニューで、味の方はまずまずだったのだが、やたらに待ち時間が長かったのが閉口。正直なところ無駄に時間をロスしてしまったという印象が強い。
萩の城下町の風景 左 木戸孝允の出生地 右 重要文化財の菊屋家住宅 美術館からは博物館方面にかけてプラプラと散策する。この辺りは昔の城下町の町並みが残っているエリアがあり、一番の観光の目玉になっている。狭い路地に多くの屋敷がひしめいている光景は、いかにも江戸時代そのままである。中には住宅内を公開しているようなところもあるが、そのたびにチマチマと入場料が必要になるからそれは注意。
城下町エリアと武家屋敷エリアの間には堀のような水路がある
これらの城下町エリアとは堀を一本隔てて、かつての武家屋敷エリアに移動することになる。恐らく有事の際にはこの堀が防衛戦の一端になるのだろうと思われるが、萩の城下にはこのような防衛ラインが何本か引かれている。恐らく同様の構造はかつては多くの城下町が有していたと思われるが、その後の都市開発でそのほとんどが消滅した地域が多いのだが、この萩では当時の状況がほとんどそのまま残っているのが貴重である。
萩博物館と復元隅櫓
武家屋敷エリアの端に萩博物館が建っているのでここを見学。ここも観光名所となっているらしく、多くの大型観光バスが駐車している。博物館の展示自体は萩の城下町の歴史などと言った一般的なところ。ちなみに博物館のエリア内に隅櫓が復元されており、これも見学することが可能である。
左・中央 武家屋敷エリアをブラブラ 右 武家屋敷エリアと萩城の間にも海につながった水路がある 博物館の見学を終えると、かつての武家屋敷地域をブラブラと萩城方面へと歩く。この辺りもかつての風情が残っており、いかにも歴史のありそうな門構えの家なども多い。またこの地域でやたらに目につくのが夏みかんの木。萩の名物が夏みかんらしきことは、こちらについて初めて知ったのであるが、確かにやけに夏みかんの木が多い。ただもう冬が近いこの時期に夏みかんとはこれいかに。
毛利家長屋と萩城の模型
散策する内に昨日もやってきた萩城前に到着する。萩城は昨日見学を済ませているので、この近くにある萩史料館と旧厚狭毛利家萩屋敷長屋を見学。史料館の方はかつての萩の城下の図などがあり、これを現在の地図と比べるとほとんど変わっていないのに驚く。旧厚狭毛利家萩屋敷長屋はかつての屋敷跡に鎧などの展示物を置いてあるが、ここには萩城の模型もあり、これはかつての萩城の構造を知るのに参考になる。ちなみにここの入場券は萩城と共通になっている。
萩史料館
これで萩での見学スケジュールは終了である。ホテルに戻ることにする。東萩までの移動だが、これを直接に行ける良い手段がない。そこで結局は循環バスを使うことに。萩城前で西回りの循環バスに乗り、萩駅前で東回りルートのバスに乗り換えるとこれで東萩駅まで移動する。このバスは途中で海際を通るので海岸の光景が見える。つくづく萩は川と海に囲まれた島のようなところだということを感じる。かつては萩市街に渡る橋は二本だけだったと聞くので、それを落としてしまえば萩は町ごとがまさに天然の堀に囲まれた水城だったわけである。
東萩駅に到着するとトランクを回収。そのまま駅前のホテルにチェックインする。今日宿泊するのは萩ロイヤルインテリジェントホテル。大浴場付きの私好みのビジネスホテルである。部屋は広くて設備も充実しているのに、フロントの人件費などを削減して宿泊料を安価にしたホテルである。建物自体は結構年季が入っているにもかかわらず、内部はかなり綺麗。どうやら以前に倒産した駅前ホテルを買収してリニューアルした模様。最近はこの手のホテル再建が増えている。大抵は旧態依然とした経営のホテルが行き詰まった時に、人員を大幅に削減して、サービスを必要最小限のビジネスホテル形式にして再建することになる。熱海などはこの方式が大分増えているようだ。これも時代の変化に合わせたトレンドなんだろう。
部屋に荷物を置いて一息つくと空腹が身にしみてくる。夕食を食べに行かないといけないが、この近所にはあまり飲食店はなさそうである。その時、このビルの2階に料理店があるのを思い出す。
2階までエレベータで下りてくると、半分はゲームセンター、残りの半分が飲食店という妙な構成のフロアになっている。とりあえずは飲食店「だいにんぐまめた」に入店。やまぐちの地産地消を謳っている店である。まずはお膳メニューが無難であろうということで「萩八景膳(2500円)」を注文する。
極めてオーソドックスなお膳なのだが、内容がとにかく盛りだくさんなのが特徴。刺身や天ぷらなどと言ったところは定番で頷けるのだが、これにウナギまで付いて来るというのが意味不明である。またご飯が白ご飯ではなく、赤米でも使っているのかそれとも五穀米の類なのかは不明だが、なぜか赤く着色している。もっとも膳の構成は意味不明であるが、その内容としては魚類を中心としてなかなかうまい。これだとわざわざ町中に繰り出す必要もなさそうだと判断、さらに追加を注文することにする。
基本的なお膳に天ぷらとうなぎまでついてくる 追加は「金太郎の刺身」と「あん肝のポン酢和え」。刺身の方は小さな魚であるがかなりしっかりした味。また皮を軽くあぶっているのかなかなかに香ばしい。驚いたのはあん肝の方。和え物の小鉢でも出てくると予想していたら、ざっくりと切ったあん肝にポン酢が添えられて登場。驚きのボリュームである。またこのあん肝が濃厚にして芳醇。あん肝はフォアグラよりも上と言う者もいるというが、それも何となく納得できる代物である。あまりにうますぎて思わず笑いがでる。この遠征は三日続けて笑いっぱなしである。山陰グルメツアー大当たり・・・ってなんか当初の目的と完全にずれているような・・・。
最後は「ふぐ刺(800円)」で締め。本当はまだ腹具合には余裕があるが、懐具合の方に余裕がないのと、この頃になると店内が混雑してきてとにかく注文品を待たされる時間が長くなってきたため、ここらが潮時だろうと判断した次第。以上トータルで4540円である。
この後はホテルの大浴場でくつろぐ。ちなみにここの大浴場には露天風呂があるのだが、その入り口に「男度胸の露天風呂」と書いてあったので意味不明だなと感じていたら、ここの露天風呂は立地上、近くのビルから見えてしまうからということらしい。もう日が暮れていたので丸見えということはないが、確かにのぞこうと思えばのぞけるだろう。もっとも私の裸体なんて醜悪なものは、とても世間に公開するようなものではないし、見たいと思う者もいるとは思えないが。なお露天風呂と言っても、野外に風呂桶を三つ置いてあるだけであり(バラ風呂などのいわゆる薬湯系)、果たしてこれを露天風呂と言うべきかも微妙であるが。
風呂でくつろいだ後は、リラクゼーションルームのマッサージ器で体をほぐし、部屋に帰ってからまったりする。このホテルは設備面では全く不足はないのだが、一番の問題点は周囲にコンビニがないということか。これはこのホテルの問題と言うよりも、萩の町全体の問題である。バスで一周したときにもとにかくコンビニが見あたらないということは気になっていたのである。実のところこれは萩に限らず、山陰地域全域において同様の状態がある。これは一重にこの地域の人口密度の低さを物語っている。
結局この日は「天地人」の最終回などを見ながら(それにしてもこのドラマ、当初から脚本がひどいとは思っていたが、さすがにこの最終回のホームドラマ的大甘展開には絶句した)、この夜はのんびりと更けていったのである。
☆☆☆☆☆
翌朝は7時頃起床。今日は9時台の列車に乗れば良いだけだし、このホテルは駅のド真ん前だしでかなり余裕のスケジュールである。遅めの時間に朝食に繰り出してからゆっくりと身支度し、列車発車の20分前頃にチェックアウト(と言っても、このホテルの場合は鍵をフロントのボックスに放り込むだけである)、東萩駅に入場する。
到着したのはキハ120形のロングシート単両編成。先日来散々乗車しているタイプの車両である。東萩から乗り込んだ乗客が多く、意外にも車内は満員である。列車はしばらくは二日前に乗車したと同じような「海のそばの山の中」を走行する。途中で再び海のそばにでて、そこからしばらく走ると奈古に到着。ここで大部分の乗客が一斉に降車する。どうやらこの駅の近くの高校で何らかのイベント(学園祭?)が行われているようで、それに関連した乗客が大半だった模様。ここからは車内はかなり閑散とした状況になり、そのまま相変わらずの海のそばと山の中を交互に繰り返すことしばし、益田に到着する。
東萩−益田間は海のそばが多い。 これにて山陰本線は完乗ということになるが、あまり特別な感慨はない。そもそも私は鉄道マニアではないし、この辺りの山陰本線はあまりに風景の変化に欠けるという印象。それにやはり「鉄道だと無駄に時間がかかる」というのが正直な感想で、萩への主要アクセスがバス路線になるということも頷ける次第。せめて特急でも走っていたら、交通費削減を至上課題にしている私はともかく、一般観光客にとってはいくらかは利便性の向上も期待できると思うのだが、運行されているのは普通列車のみ。このままではこの地域の路線は座して死を待つだけのような気がしてならないのだが。
益田で山口線の車両に乗り換えることになる。運行されているのは2両編成のキハ40形でややかったるい走りになる。当初は西に向かって出た路線は、途中で大きく左カーブして山陰本線と分かれると、ここからひたすら南下することになる。すぐに沿線風景は山岳地帯となり、風光明媚ではあるものの沿線人口のかなり少ない地域を抜けていくと、山間の津和野の町に到着する。
津和野に到着
津和野駅で降り立つと駅前のレンタル自転車屋に荷物を預けると共に自転車を借りる。津和野を回るにしてもやまぐち号を追いかけるにしても自転車が一番便利であろうことは、かつての二回の津和野訪問で感じていたことである。さすがに三回目の訪問ともなると、私も津和野については既にかなり土地勘がついている。
何だかんだをしつつふと時計を見ると、もう既にやまぐち号の到着まで30分ほどになっている。とりあえずは撮影ポイントを選択しておいた方が良いようだ。鉄道写真上級者の場合、例えば鉄橋の上などいわゆる絵になるポイントはいくつかあるようだが、撮り鉄マニアではない私としては、まず「確実にやまぐち号を撮影できる」ということを最優先に考える。そうしたところから撮影ポイントは必然的に津和野駅の手前ということになる。
自転車でブラブラと撮影ポイントを物色していたら、 踏切の東方の駐車場の手前辺りに防護柵が線路側にせり出しているところがある。ファインダーをのぞくと、標識などの類が邪魔にならないでもないが、大分先の踏切からやまぐち号が接近するところを狙えそうである。とりあえずここに陣取ることにする。
今日が今年の最後のやまぐち号の運転とのことなので、もっと人手が出ているかと思ったのだが、今のところ周りに人影はない。とりあえずは場所確保をした上で、アングルの確認などのカメラテストをしておく。
やまぐち号到着の10分前。突然にどこから湧いてきたのかと思うほどのカメラを持った大群があちこちから現れる。気がつけば辺り一面カメラの森である。とりあえずは先行者の権利としてカメラの射線を邪魔されないようにだけは目を配っておくが、そこは御同輩の仁義というか、さすがにカメラの前に割り込んでくるような非常識な輩はいないようである。というか、周りを見渡すと私が持っているカメラが一番ごついことから、どうも私は筋金入りの鉄道マニアだと誤解されており、邪魔をしてはいけないと周りが感じている模様。いや、そうではないのであるが。
時間が迫るとともに現場に緊張感が漂い始める。やがて遙か遠くで踏切の音が聞こえると「来るぞ」という声がどこからとなく上がる。
さしてやまぐち号は突然に現れた。カメラの砲列が一斉にシャッター音を上げる。私も夢中でシャッターを切りまくる。腹の底に響くような重低音を上げながら、やまぐち号が私のすぐ脇を通り抜けていく。それを追いながらさらにシャッターを切る。
一斉にシャッターの砲列 その間、多分1分もなかったはずだ。しかし現場を張りつめるような緊張感と、渦巻くような興奮が支配した。そしてやまぐち号が駆け抜けた今、それが一気に弛緩状態へと遷移する。どこからともなくため息が漏れたが、私も思わず大きなため息をつく。そして何と鳥肌が立っていたことに気づいたのである。
祭りの後よろしく、集まっていた観衆が三々五々に散っていく中、私は自転車に飛び乗ると駅の方向に向かって進む。とりあえず駅に停車しているところロングでもよいので、正面からの写真を撮りたいと思ったのである。
しかし正面に回り込めたのは駅からかなり離れたところになった。ここだと望遠をいっぱいに使ってもかなり遠い写真にしかならない。ポジションを間違えたかと移動しようとしたのだが、気がつけば周りにカメラを持った面々がゾロゾロと集まってきている。しかもその顔ぶれは先ほどとは違って、明らかにかなりの鉄道マニアだと一見しただけで分かるような面々。これは何かあるに違いないと考え、しばらくその場で待ちかまえることにする。
すると突然にやまぐち号が大きな汽笛を上げたかと思うと、こちらに向かって進んできたのである。どうやらホームを変更するためにスイッチバックする模様。周りのマニアの面々はこの瞬間を待ちかまえていたようである。私も彼らと一緒にシャッターを切りまくる。
再び大撮影大会 ここまでで大体1時間を要していた。多分マニア連中は、この後の機関車の切り離しから転車台を用いての方向転換、さらには折り返しの発車まで待つのだと思われるが、別に鉄道マニアではない私はそこまでつきあうつもりはない。現場を後にすると昼食のために移動する。
駅の構内でも撮影大会 駅前では観光客向けのイベントが 昼食をとったのは毎度のように「遊亀」。この遠征での最後の食事となるであろうメニューに私が選んだのは「鯉定食(2300円)」である。
この遠征では散々魚を食べ続けた私だが、鯉はまた海の魚とは違って野性味があって鮮烈である。特にその鯉の風味を直接に感じられる洗いが美味。またやはり鯉の甘露煮は鱗付きでないと偽物である。
昼食を終えるともう帰りの特急スーパーおきの発車時刻が迫っていた。気持ちとしてはやまぐち号を見送りたい気があるのだが、それだと帰宅がかなり遅くなってしまう。また今回は津和野の見学をほとんどする暇がなくて、結局はやまぐち号を追っかけるだけになってしまった。正直なところ未練は多々あるが、どうせ津和野には最低でも後一回はやってくるはず(やまぐち号にはやはり乗りたい)なので、今回のところはこれで引き上げることにする。
レンタルサイクルを返却すると、荷物類を回収して特急スーパーおきで帰途についたのである。ちなみにスーパーおきの自由席は満席に近い状態だったが、幸いにして津和野で降車する乗客と入れ替わりに席に着くことが出来た。パワーではスーパーはくとにも匹敵するというキハ187の力強い走りを楽しみつつ、新山口に到着。ここで大混雑の改札を抜けて新幹線に乗り継いで帰宅することと相成ったのである。
何やら「山陰グルメツアー」の様相を呈してしまった本遠征であるが、今回は九州に足跡を記すと共に、中国地方JR完乗と相成ったわけである。これでJR西で残るのは北陸地域(大糸線など)のみである。決して鉄道マニアではないつもりの私であるが、多分JR西の完乗は来年度中には達成するであろう。
それにしてもやはり予算が苦しい。特に今月は前半に新潟遠征、後半に今回の遠征と大型遠征が相次いだため、月次予算に埋めようのない大穴が空いてしまった。やはり大型遠征は1ヶ月1回以下には抑えないと財政的に破綻してしまう。今後遠征先がさらに遠隔地となり、一回あたりの遠征予算が跳ね上がることは必至と思われることから、いよいよやりくりに頭が痛いのである。
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