展覧会遠征 北陸・新潟編
以前から言っているように、本年度は「東海北陸方面強化年間」となっている。年の瀬も迫ってきた今回、この方針に従って訪問するのは北陸である。北陸はここ数年たびたび訪問しているが、その際は鉄道による訪問だったためにどうしても行動に制約がかかっている部分があった。そこで今回は鉄道では訪問しにくいポイントを重点的に攻略すると共に、今回初めて新潟に足跡を記すことにしたいと考えた。
今回は車での遠征であるので、鉄道遠征のような分刻みの緻密なスケジュールは立てない(と言うよりも立てられない)。大ざっぱに訪問しないといけないメインターゲットと、もし時間が余った時のオプションターゲットのみを設定し、後は出たとこ勝負というような計画になる。今回のネックになる可能性があるのは私の体力。全体的に城メインとなる今回の遠征では、それだけで体力的にはかなりキツイものがあるのだが、その上にかなりの長距離を運転し通しということになりそうである。残念ながらここは精神論で乗り切るしか仕方なさそうである。それともう一つの懸念事項は天候。この週末は低気圧の襲来で北陸地方は大荒れになる可能性があり、山沿いでは降雪の可能性もあるとか。まさかノーマルタイヤで走行不能なほどの積雪があるとも思えないが、城中心となるだけに天候が悪ければかなり行動が制約される恐れがある。これも現地の状況を見ながら出たとこ勝負にならざるを得ない。
目的地がかなり遠いことと、例の1000円渋滞を避けるためにとで、出発は早朝(と言うよりも未明である)となる。やや寝不足の眠い目をこすりながらの久しぶりの夜間走行である。しかしやはり年齢に伴う視力の低下のためか、やはり夜間走行はどうもスムーズさを欠く。どうしても予定よりも遅れ気味になり、一気に走破したにもかかわらず、金沢に到着した頃には予定よりも1時間近くの遅れとなってしまった。
金沢で一端北陸道を降りてから能登有料道路に乗り換える。この間の接続は一般道になるのだが、高規格の高架道路なので見た目は完全に高速道路。それにもかかわらず制限速度は40キロとはあまりにお間抜け。先頃警察庁が一般道も状況に応じて80キロ制限を認める方針を打ち出したが、この道路を見ていたら「当たり前だ」としか思えない。むしろ何を今まで怠慢していたのかと言いたくなる。
この「高速道路もどき」を抜けると能登有料道路に到達する。しかしこの道路、なんと今時「ETC不対応」。途中に関所が数カ所あり、そのたびにモタモタと料金支払いをさせられるのである。道自体は日本海の海沿いを走るなかなかに面白い道路であるのだが(天候が荒れている時はとんでもない気がするが)、いわゆる1000円高速には入らないので、結局は4カ所の関所で合計700円という今現在の相場から考えるとぼったくりとしか感じられない料金を取られる。
眺めは良いのであるが・・・
七尾の手前でこの道路を降りると後は七尾市街に向けて一般道を走行。一般道に降りてすぐに近くに見えるのが、先日にも訪問した七尾市美術館。ここには長谷川等伯の作品などが収蔵されているから常設展の類がある時に訪問したいが、残念ながら現在は県展の準備とかで閉館中。ちなみに全国的にどこの公立美術館も、冬の期間は「県展」とか「小中学校展」とかの類が多くなり、見るべきものがほとんどなくなる。やはり冬の期間は美術館の方もシーズンオフなのである。
今日一杯は天候はもつとの天気予報の通り、現地は非常に気持ちの良い晴天である。今日は格好の城巡り日和と言えよう。七尾の駅前を通り過ぎると、そのまましばらく南下、今回の第一目的地である「七尾城」を目指す。七尾城は戦国時代に能登に勢力を誇った名門・畠山氏の居城である。畠山氏は最終的には内部分裂がきっかけとなって上杉謙信の前に落城の憂き目にあうが、かの謙信でも力攻めでは落とせなかったという堅城である。現在も山頂付近に遺構が多数残っているとのことで、日本五大山城にも挙げられている
七尾城の入口付近には七尾城資料館があるので、そこで見学がてら七尾城に関する地図などの資料を入手する。これを見るだけでもこの山城がとんでもない堅城であったことは想像がつく。なお資料館と同じ敷地内には、懐古館という有形文化財に指定されているという元庄屋屋敷があり、この中にも名門・畠山氏を偲ばせる遺品が多数展示されている。ここは屋敷自体がいわゆる立派な古民家であるので、なかなかに見所が多い。ちなみに現地ガイドのおじさんが、謙信が七尾城攻めの際に吟じたと言われている「十三夜」を詩吟で聞かせてくれたのだが、それまではいかにも北陸人らしくボソボソと喋っていた彼が、突然にかなりの大声を張り上げることに驚いた。
七尾城資料館と懐古館 懐古館の内部 この資料館からはさらにハイキングがてらの登城コースもあるらしいが、目の前に見える七尾山を見上げると、山頂はかなり遠くにある模様。正直なところ、先週に予定外の本格的ハイキングをしてしまったダメージはまだ身体にかなり残っているし、この後も予定が目白押しであるので、とてもこのコースを上るだけの体力も時間もないということで、無理をせずに山頂付近まで車で移動することにする。
駐車場に向かう道と駐車場から望む七尾市街 かなり急な上にカーブのキツイ山道をしばらく走行すると、十数台が駐車できそうな駐車場に行き当たる。この駐車場は本丸下の調度丸のすぐ脇にあり、遠くに七尾の市街地が見えるが、既に標高がかなり高いことが分かる。ここからウッドチップを敷き詰めた歩道を進むと、この城の一番の見所でもある桜馬場の見事な石段が目に入る。
ウッドチップを敷き詰めた道を抜けると、突然に目の前に素晴らしい石垣が ここからは本丸にすぐに登ることが出来るので、桜馬場を横目に見ながら遊佐屋敷を経て本丸を見学して帰るというのが一番のお手軽見学コースになるのだが、さすがにそれではあまりに芸がなさ過ぎるし、これだけの城郭をそれで帰るのは失礼というものである。私はまずは本丸は後回しにして、桜馬場から温井屋敷を経て二の丸方向に進む。
二の丸の石垣と二の丸
二の丸はなかなかの規模であるが、印象的なのは石垣を一段ではなく、複数段重ねて高石垣にしていること。桜馬場でも同様の形式になっており、これがここの石垣の特徴であるようである。
二の丸と三の丸の間の空堀
二の丸を見学した後はさらに下って三の丸を目指す。三の丸に進むためには一端空堀の底に降りる形になるが、この階段がかなり険しく、足下に気を付けないと転落したら洒落にならないような険しさである。ここで大活躍したのが、山城見学が中心となるはずの今回の遠征に併せて新規購入したカメラアイテムである一脚である。三脚だと持ち歩きにかさばりすぎるが、一脚だとその点はかなり軽量になるし、しかもこのようなケースでは登山杖代わりにもなる。例によって私が購入したのはスリックの安物だが、十二分に登山杖として活躍してくれた。
三の丸と安寧寺跡
一端降りてから再び上がる形で三の丸に到着。各曲輪の中ではここが最大の広さを誇るという。大手筋の守備の要ともなる位置なのでなかなかに厳重である。さらに安寧寺跡や袴腰などを経て大手筋に至る。ここからさらに下がると番所跡などもあるようだが、さすがにそこまで下ると後が大変なので、ここからは大手筋を登りつつ駐車場方面に向かう。大手筋には城内の水源と思われる樋の水や、寺屋敷跡などを経ると先ほどの桜馬場の下に至る。桜馬場は最初に眼にしているのだが、こうやって下から上がってくると、突然に目の前に広がる大石垣が感動的でもある。やはり山城は麓から登ってくるべきものだとマニアなどは言うが、確かに体力と時間に余裕があったらその方が良いのだろう。
樋の水と門の跡
桜馬場に到着すると今度は本丸方向に向かって登る。本丸の石垣も二の丸などと同様で、石垣を三段に重ねて高石垣にしている構造になっている。本丸上は辺りを見晴らせるように木などが伐採されており、七尾城跡を示す巨大な石碑が建っている。この本丸から周囲を見回すと、ここがかなり深い山の中であることがよく分かる。確かに地方政権としては守備に徹するには堅固な城であるが、やはり天下をうかがう者の城というイメージはないと感じられる。なお本丸周辺を長氏や遊佐氏、温井氏などの重臣の館が固める形になっているが、最終的には親謙信派の遊佐氏と温井氏が、親信長派の長氏を襲撃して開城している。さしもの堅城も重臣同士が対立するようでは落城は避けられなかったと言うことである。城を守るのは物理的な要塞だけではないというわけで、そういう点では武田信玄の「人は城、人は石垣」というのも卓見と言える。
本丸の石垣と本丸上の石碑 左 本丸から望む市街 右 足下はかなり険しい 本丸を見学してから駐車場に戻ってくる。なかなかに見応えのある城であり、五大山城や100名城に挙げられるのも納得と言うところ。一度麓から登城してみたい気もするが、やはり往復するだけの体力はなさそう。麓からこの駐車場までのバスでも出ていれば良いのであるが・・・。車に戻ってきた後は、近くの展望台まで立ち寄ってから、下山することにする。展望台への道はかなり傾斜のあるワインディング道路なので、途中で助手席に積んでいたトランクが吹っ飛んで手元を直撃、危うく道路の端に脱輪しそうに。こんなところで擱座してしまったら身動きが取れなくなる。慌ててトランクを後部座席に移す。しかも山の中で高低があるせいか、カーナビは途中で現在地を見失うし(まあ一本道なので道に迷うことはなかったが)。ちなみにこの展望台は七尾城とは完全に異なる山の頂上にあるが、七尾城よりも位置的に高いようで七尾城本丸を見下ろすことが出来る。七尾城攻めの時にここに軍勢を置かれると嫌そうである。
展望台とそこから見える七尾城本丸
さて七尾城の見学を終えて市街地まで下ってくると、昼食のために七尾の食祭市場にやってくる。この食祭市場は道の駅であるが間近に七尾漁港があり、いわゆる海の幸を売りにした飲食モールとなっている。施設には巨大な駐車場が併設してあるが、既に車で一杯である。ここで一番の売りは、魚屋で購入したネタをそのまま浜焼きにして食べられるコーナーのようだが、こちらは既に満員、空くまで待つ気もしないし、そもそもこの手のコーナーはお一人様で行くような所ではないので、二階の飲食店街をプラプラ。結局「能登の味処漁師屋」という店に入店する。注文したのは「漁師屋地物魚丼(1380円)」。
いわゆる海鮮丼であるが、巨大な器に入ったあら汁が添えられている。ネタ的にはまあ普通。典型的な「観光地レストラン」のメニューというイメージで、はっきり言って漁港の飲食店というにはあらゆる点で驚きがない。ボリューム、味的にもあまりに普通で面白みに欠ける。これだと七尾漁港まで来なくてもどこでも食べられそうという印象である。
食事を終えると次の目的地に向けて車を走らせる。時間に余裕があれば和倉温泉に立ち寄るつもりだったのだが、朝から予定が遅れ気味のために時間がおしている。前回、のと鉄道視察のためにここを訪れた時も、スケジュール的に和倉温泉に立ち寄る余裕がなくて見送ったことがあるが、どうもこの温泉地は私とは縁がないのだろうか。残念ながら今回も和倉温泉は断念することにして先を急ぐ。次の目的地は富山県内のこれまた100名城に指定されている「高岡城」。高岡自体は以前に訪問したことがあるが、高岡城はその時に訪問していなかったので今回訪問することにした次第。
カーナビが示したルートに沿って走行すると、途中で山越えをすることになる。後で調べたところによると、実は海沿いにもっと広い道路があったようだが、私のカーナビは最短距離にこだわったようである。どうも私のカーナビは山道が好きなようで(以前に香川を訪問した時にも、とんでもない山道に誘導された)、今回もかなりのカーブの多い道をウネウネと走る羽目に。ようやく山道を抜けて都会に出てくると、そこは既に高岡の市街地であった。
高岡城は前田利長が建造した城で、高岡の町はこの城の城下町として整備されたという。1615年に高岡城自体は一国一城令によって廃城となり建造物などは破却されたというが、その際にも堀などは温存されており、密かに軍事拠点としての機能は残されていたという。その堀は今も残っており、城内は公園化しているが往時の面影をかなりとどめている。なおこの城郭も100名城に選定されている。
博物館の駐車場に車を停める
とにかく規模の大きな平城である。大抵の平城は明治以降に都市化の進行で堀が埋め立てられるなどで遺構が消失しているのであるが、ここに関しては往時の構えがほぼそのまま残っている。そのために余計に規模が大きいという印象を受ける。とりあえず博物館の駐車場に車を停め、博物館を見学の後に城内を一周する。
高岡城の平面図(現地案内看板より) 城郭自体は土塁と堀からなっており、幅の広い堀が堅固な守りを誇っている。本丸跡には今では、これまたお約束の神社とグランドや公園などが置かれており往時の面影はない。この本丸を取り巻くように二の丸、三の丸、鍛冶丸などの各曲輪が配され、それらは幅の広い堀を橋でまたいでつながれている。今日ではこれらの曲輪はかなりしっかりした橋でつながれているが、往時にはいざという時にはいつでも落とせるような木造の橋であったことは想像に難くない。
本丸跡には神社があり、その北方は広大な公園。そしてそこに前田利長像がある。
公園化している東側堀と三の丸に渡る橋。遠くに見えるのが三の丸。 左 二の丸跡にはホールが建っている 右 南側の堀はかなり広い 元々存在した堀などをそのまま利用して、今日では自然公園の趣をたたえている。これだけの都市の中心に存在しながら、ここまで遺構が残っているのはある意味では奇跡的なように思われる(平城の中には「○○城跡」という石碑が繁華街の片隅に建っているだけというところも少なくない)。今では格好の市民の憩いの場になっている模様で、私も存分に散策をする。
鍛冶丸から望む本丸
高岡城の散策が終わったところで、いよいよ本日の宿に向かうことにする。今日の宿は先日の高岡遠征でも宿泊した「ドーミーイン富山」。ドーミーインチェーンは私の位置づけでは高級ホテルに入るが、今回の遠征はかなりの疲労が予想できたので、ホテルに若干奮発したというところ。地下から汲み上げた温泉による大浴場と、充実した朝食が最大の売りであるホテルである。
とりあえず高速を突っ走って富山に到着、ホテルに一端チェックインする。しかし本日の予定はまだこれで終わりではない。まだまだ富山での予定はある。荷物を部屋に置くとそのままブラブラと徒歩で富山駅に向かう。
富山城
富山駅に向かう途中で「富山城」が目に入る。ここの天守はいわゆる鉄筋コンクリートの「なんちゃって天守」なのだが、写真に撮る場合には意外と様になる。やはり写真に撮る場合には何か建物がある方が楽だというのが本音で、例えば七尾城や高岡城は明らかにここよりは良い城なのであるが、建物がないために城を代表する写真が撮りにくいというのが頭の痛いところである。七尾城だとやはり桜馬場の石垣か本丸の「七尾城」の石碑あたりの写真になる所なんだろうが、高岡城の場合はそのような象徴もないので非常に写真の選定が困難になる。
路面電車の延長工事中
富山城をグルリと回ると市役所の通りに出る。ここでは路面電車の延長工事が行われている。大都会では地下鉄が交通の中心になっているが、この規模の街の場合は建設コスト及び運行コストの安価な路面電車が最適の交通機関である。それの拡充を目指している富山市は賢明と言えよう。
市役所前までやって来た時に、前方から列車が一両到着する。この先は工事中なのでここから引き返しになるはず。そろそろ足に疲れが出ていたので駅前までこれに乗車することにする。
富山駅まで到着すると、地下道を通って北側へ。これからの予定は「21世紀の地域振興と交通について考える市民の会代表(自称)」としてのサークル活動である。ここから岩瀬浜まで富山ライトレールという路線が走行しているので、それの視察が目的である。ディーゼル高速鉄道からなる地方路線と、路面電車を中心とした都市路線が21世紀の中核の交通網となるべきと提言している当会としては、この路線の視察は不可欠であったのであるが、今までどうしてもその時間が取れなかったという経緯がある。もう日が西に傾き始めているので視察を急ぐ必要がある。何しろ「単なる鉄道マニア」なら、どんな状態でもその路線に「乗る」ということだけで意味があるかもしれないが、あくまで「沿線視察」を目的としている私の場合、真っ暗になってからでは意味がないのである。
富山ライトレールは、元々はJR西が運営していた路線を引き継いだ第三セクターである。JR西からの移管後、LRT化すると共に運行本数を大幅に増加して利便性を増すことで利用者の増加を促し、現在は富山市北部の足として機能しているという。
始発の富山駅北には2両編成の車両が待機している。車体自体は高岡の路面電車で走行していたものと非常に類似している。また夕方のせいか利用客は非常に多く、既に車内は満員の状態。またダイヤは完全にパターンダイヤとなっており、15分に1本の運行となっている。富山駅付近の路線は、富山駅の高架化に伴って路面軌道に変更されており、富山駅の高架化終了後には富山地方鉄道の路面軌道線と接続する計画もあるという。それが実現すれば、格段の利便性の向上も期待できる。
車内は2×2シートと1.5×2シートが並んでいる 沿線は常に一定以上の住宅が存在しており、潜在的利用者は少なくないと思われる。実際に各駅での乗降はかなり多い。本数の大幅増加に伴う利便性の向上は、確実に利用者の増大を促しているようだ。また路面列車は高齢者などにとって非常に利用しやすい交通機関であるのみならず、冬期の積雪の多い富山では自動車や自転車よりも雪に強い交通機関という意味も持つという。
岩瀬浜ではバスとも接続している
終点の岩瀬浜に向かうにつれて乗客が減少する傾向にあるのは当然だが、最後まで一定以上の利用者はあり、この路線の有用性は非常に高いということが納得できた。なお終点の岩瀬浜では岩瀬浜港までの接続バスも走行している。
時代遅れと思われていた路面電車が一回りして最先端の交通機関となった典型的な例である。是非とも他の都市でもこの例に習うべきであると考えられる。拙速に自動車中心社会に移行して鉄道を廃止してしまった都市では、これから以降間違いなく禍根を残すことになると思われる(自動車中心社会が早晩崩壊するのは必然と私は見ている)ので、現在路面電車を有している都市は、くれぐれも未来を見通した対応をお願いしたいところである。
富山ライトレールの視察を終えて帰ってきた頃には既に辺りは真っ暗となっていた。再び地下道を通って富山駅南に戻ると、バスで総曲輪まで移動、夕食を摂ることにする。今回夕食を摂ることにした店は「新とんかつ総曲輪店」。「特選特大とんかつ定食(1800円)」を注文する。
特大と言うだけあって、出てきたトンカツはでかいし厚い。なお特選は良い肉が入ってきた時にだけ設けられる特別クラスとか。断面を見てみると比較的脂身の多い肉である。確かに豚肉とは脂身を楽しむ肉であり、本当に良い肉の場合はこの脂身がうまくなる。
非常に印象的なのはサクッと揚がった衣。口の中でそのままサクサクという音が出て非常に歯ごたえがよい。ただ問題はこのサクサクのためにかトンカツ全体が揚がりすぎている感じで、肝心の肉のジューシィーさが全くないこと。せっかく良い肉を選んだとしても、脂身からにじみ出る甘い脂が感じられないのでは意味をなさない。また衣がサクサクとしているだけでなく、全体的に重めで存在感を主張しすぎているため、明らかにトンカツ全体としてのバランスが悪い。あえて言うなら衣つきの肉を食べているのではなく、肉を添えた衣を食べている印象である。とんかつという料理において衣がメインではない以上、このバランスは首をかしげる。まあ人によっての好みはあるだろうが、私の好みには残念ながら少々マッチしていないというのが本音。
夕食を終えたところで近くのホテルに帰還、ホテルの温泉でゆっくりと疲れを癒して翌日に備えるのであった。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時に起床。夜中に体のあちこち(特に腰)が痛んで寝苦しかったせいがあって、あまり爽快な目覚めというわけにはいかない。それと気になったのは部屋の温度が暑かったこと。どうもこちらは冬が寒いせいか暖房を効かせすぎる傾向があるようで、暑いのが苦手の私にはむしろ辛い。このホテルも全館暖房がやや暑すぎるぐらいなので、部屋の個別空調は冷房に入れたぐらい。これでようやくバランスがとれた。
朝食はホテルで。ドーミーインのグループは大体朝食が充実しているところが多いが、ここもまさにそうである。これでこそ高価な宿泊料(私としては)を支払った甲斐があるというものである。これからの行動を考えると、ここでしっかりと燃料を補給しておく必要がある。
さて今日の予定であるが、天気予報によると今日の午後辺りから天候が荒れ模様とのことであるので、午前中の内に今回の遠征のメインターゲットの一つである春日山城を訪問しておくことにする。春日山城は今更説明するまでもなく、越後の虎こと上杉謙信が居城とした難攻不落の山城で、100名城及び五大山城に挙げられている。私としてはここの訪問は長年の悲願であった。
ホテルをチェックアウトすると富山ICから高速に乗り、そのまま一気に直江津まで突っ走る。天気予報を裏付けるかのように既に西側からは黒い雲が接近しており、その雲から逃げるかのようなドライビングになる。それにしてもこの道路、車の通行量もあまり多くないが、驚くのはその走行速度。走行車線が120キロぐらいで平気で流れているのである。北陸人はどことなくおっとりしているが、高速に乗ると人間が変わるのであろうか。ところで富山に来て私が感じたことの一つに「富山ネイティブの日本語のイントネーションは、韓国語に似ている」というものがある。昨日富山をウロウロした時、大阪あたりでよく耳にする韓国人の会話のようなものが聞こえたので、韓国人の観光客が来ているのかと思ったら現地民の日本語だったという次第。元々日本海側は古来より朝鮮半島との往来の盛んな土地柄であるので、言葉に何らかの類似性があっても不思議ではないような気はするが。
この辺りの北陸道は新潟が近づくにつれてトンネルの連続になる。また海の上を道路が走っている部分があったり(この部分は先日の富山遠征の折、北陸本線の車両から見ている)など、かなり地形の険しさを感じさせる。
上越JCTで北陸道から上信越道に乗り換えると上越高田ICで高速を降りる。ここからカーナビに従って春日山城の方向を目指す。しかし既にこの辺りから沿道には「天地人幟」があちこちに立っているので、まず目的地を間違うことはなさそうである。
これはお約束なんだろう
「春日山城」に登る前に手前の埋蔵文化財センターで「天地人」関連展示を見学。現在、上越市内で天地人展が開催されているらしいが、それの関連展示の模様。例によって「愛」の兜が置いてあったりするが、展示的にはさして見るものはなし(入場料も200円だし)、とりあえずは春日山城の地図を入手していよいよ現地を目指す。
春日山神社の駐車場に車を停めるとこの石段を登る。 現地の駐車場は春日山神社の下に数十台、上杉謙信像の前に十台程度が駐車できるようになっている。ちなみにGWには大混雑して、麓の駐車場からシャトルバスを出したと聞いているが、今日のところはそこまでは混雑していない模様。しかしそれでも謙信像前の上の駐車場にはスペースがなく、神社下の駐車場の方に駐車することになる。こちらに駐車した場合は、結構有名な神社の長い石段を登ることになる。私は車から杖・・・じゃなくて一脚を取り出すと、例によってこれを杖代わりに石段をトボトボ登る。
今回の遠征に併せて導入した新装備。登山用杖・・・じゃなくてカメラ用一脚。
息を切らせながらなんとか石段を登り切ると、神社に参拝をしてから登城にかかる。登城路は謙信像の横からずっと続いている。天候が心配だったが、幸いにも目下のところはまるで天気予報が嘘かのように綺麗に晴れ渡っている。
春日山神社とその入口にある上杉謙信像(なかなかに凛々しいが、阿部寛には似ていない(笑)) 見学は下から。舗装道路を歩くことしばし、途中で道路をそれて険しい階段を登るとそこはまずは三の丸。ここには景勝との後継者争いの「御館の乱」に敗北して最後は自害した上杉景虎の館跡もある。私はよく知らないのだが、何やら彼は漫画の主人公になったことがあるらしく、ファンが結構多いとのことで、今でも彼を偲んで参拝してくる者は少なくないとか。
下から望む本丸 ここが三の丸
ここからさらに階段を登ると二の丸に到着する。この辺りに来るとかなり風景が開けてきて、この城がとんでもない高地にあることを感じさせられる。そしてここからさらに登ったところに天守台がある。
左 二の丸手前の空堀 右 二の丸。ここから天守台が見える この天守台からの風景は圧巻そのもの。広く直江津から高田の市街までを見下ろすことができる。先日の七尾城と違い、これは天下をも目指せる者の城の風景である。二日連続の山城攻略で正直なところ既に体はかなりキツイのであるが、この一瞬だけはすべての疲れが飛んでしまう。まさにこの風景を見るためにここまでやってきたという感覚である。長年、来たい来たいと憧れていた城への初訪問である。万感の思いがよぎる。
天守台に到着
天守台からの風景は圧巻 この天守台と本丸の間には空堀があるが、そこを降りた裏側にあるのが大きな井戸。これだけ標高の高い位置にあるにもかかわらず、未だに水をたたえている。城郭建築の際に重要なものの一つに水の確保がある。特に山城の場合はそれが難しく、そのために巨大な天水桶を備えていたような城もあるが、やはり雨水にだけ頼るのはいざという時に不安がある。山城攻略の基本戦略の一つに、麓をぐるりと包囲して水を断つというものがある。人間は食料が切れてもしばらくは耐えることができるが、水を断たれると数日と持たない。ましてや戦の最中となると尚更である。それだけに水の確保は最重要事なのだ。この険しい高地にして井戸があるとは、まさに春日山は城郭になるべくして城郭になった山である。
井戸にはまだ水がある
この奥が景勝屋敷跡 なおこの井戸曲輪の奥には空堀を隔てて景勝屋敷跡があるが、ここは階段が壊れていて注意との標識があったのと、既に足腰にかなりガタが来ていることからそこまで行くのはやめておく。
本丸
後は謙信が常に祈りを捧げていたという毘沙門堂などを経て直江屋敷跡へ。ここは本丸への上がり口の途中にあり、単に重臣の屋敷というよりも守備のための要塞と言って良いだろう。直江屋敷跡の下には曲がりくねった虎口跡や、空堀、門の跡などがあり、この城の守りの堅さを思わせる。門の先は土塁でしっかりと守られているのだが、一カ所だけ土塁が切れている部分があり、そこが通路だと思って進んだ敵は沢に突き落とされる仕掛けになっている。実に考えられた防備である。
謙信が籠もったとも言われている毘沙門堂
直江屋敷跡に空堀の跡 これらの遺構を堪能しながら降りてくると、出発地の春日山神社の横手の道に出てくる。どうやらグルリと一周する形で見学コースになっているようだ。身体がカッカしているし、ややガス欠気味になっているのでクールダウン&燃料補給を兼ねて、ジュースやコシヒカリソフトクリームなどを摂る。ちなみに土産物屋もあるが、人気は「毘」の文字が入った旗(700円)と「愛」の文字が入ったTシャツ(2100円)の模様。さすがにこれは買わない(笑)。
天地人バス
一息つくと駐車場まで降りるが、朝に到着した時点ではまだ比較的余裕のあった駐車場が既に一杯。しかも観光バスまで多数到着している。中には天地人ツアーと書いたバスまであったり。完全に観光地モードが全開である。
ものがたり館と史跡広場
春日山城の見学を終えた後は、麓にある春日山城跡ものがたり館を訪問する。こちらでは上杉謙信にまつわるビデオ上映や、春日山城周辺の他の山城について説明したパネルが展示されている。入場料は無料だがかなり気合いの入った施設。またこのものがたり館の隣は史跡広場になっており、ここには土塁や柵が復元されており、中世城郭の原型をイメージすることが出来るようになっている。ここの広場は実際に発掘された史跡に基づいた復元をなされており、春日山城が単に山上の要塞だけでなく、麓のこのような陣地とも連携した巨大軍事施設であったことを実感させる。
史跡広場を一回りしたところで春日山城の見学は終了。空を見上げるとまだ晴天ではあるものの、西側から怪しい雲が押し寄せつつある。どうやら天気予報は的中しそうな模様であるが、本格的に天候が悪化する前にまだ立ち寄っておく必要があるところがある。とりあえず車に乗り込むと南方を目指す。
向かった先は「高田城」。春日山城は上杉謙信の拠点であったが、謙信亡き後にやがて上杉家は米沢に移封され、変遷の後にこの土地は家康の六男である松平忠輝が治めるところとなる。その際に交通の便の悪い春日山城に代わって、新たに居城として天下普請で建設されたのがこの城だという。城郭は土塁と堀からなっており石垣がないのが特徴であるが、これは周辺に適当な石材の産出地がなかったことと、大阪の陣を控えて完成を急いだためとも言われている。なお松平忠輝はその後に秀忠によって改易され、高田城は城主が何度か入れ替わって明治を迎えている。忠輝は徳川家では次男の結城秀康と共に剛の者で知られていたようだが、秀康と共に明からさまに冷遇されている。これについては家康が天下が定まった後にはこのタイプの者は不要と考えたとか、ボンクラ後継者として知られる秀忠が自分の脅威となり得る兄弟を排除したとか様々言われているが、私の見たところではそのすべてが真実だろう。
高田城のかつての縄張りと現在の状況(現地案内看板より) なお高田城は例によって明治に廃城となり、その後に陸軍の駐屯地となったために、東半分は埋め立てなどで旧状をとどめないまでに破壊されてしまったが、西半分は公園化されて残存しており、シンボルである三階櫓も復元されているとのことである。
車を走らせること10分程度で高田城に到着。ただし城郭の見学の前に城域内にある美術館の見学を先行させることにする。この城域内には小林古径美術館が上越市立総合博物館と合併した形で建設されている。まずはその見学である。
上越市立総合博物館&小林古径記念美術館
博物館の方はかつてこの地域を賑わせた油田にまつわる日本初のパイプライン建設に関する展示。かつてのこの地域の油田景気を偲ばせるが、今日では既に見る影もない。
小林古径美術館の方であるが、作品は多数展示してあるのだが、そのほとんどが「デジックアート」と銘打ったデジタル複製画であり、本物はスケッチなど限られた作品であった。所詮複製画はにじり寄って見ても、筆の跡ではなく印刷のドットが見えるだけで興ざめとしか言いようがなく、施設の立派さの割には見るべき作品があまりなかったのが残念。
小林古径邸及びアトリエ なお同じく施設内に小林古径の旧家とアトリエが復元展示されている。共に一般的な日本建築であるのだが、アトリエの方は大作の制作にも取り組めるように、かなり広い作業スペースが作られていたのが妙に印象に残った。
美術館の見学を終えると高田城の見学に移る。もうこの頃になると空がかなり暗くなってきており、いつ雨が降り出すか分からない状態。急ぐ必要がある。とりあえずは三重櫓に入場することにする。この櫓は再建建造物であるが、なるべく往事のイメージを再現するように配慮して建設されているとのことであり、木造のために外から見ると再建建造物にしてはなかなかの趣がある。もっとも内部に関しては全くの近代建築になっているので、こちらは興ざめ。まあ一般的な博物館である。
高田城三重櫓
本丸内は大部分が大学の敷地となってしまっており、本丸中央は附属中学校のグラウンドが占めている。このために遺構と言っても土塁と堀ぐらいしかないのであるが、それだけでも往事の威容を想像することは可能となっている。正直なところあまり期待していなかったにもかかわらず、実際に現地を訪れてみると想像以上に立派な城である。天下普請で建造したというのはダテではなかったか。
左 本丸周辺の堀 中央 西の堀 右 本丸跡は何もなく中学校のグラウンドが見える 高田城の見学を終えると直江津市街に向かって車を飛ばす。この頃になるといよいよ雨がポツポツと降り始めていた。途中で昼食にラーメン屋に立ち寄ると、そのまま直江津市内に突入。とりあえずは直江津で開催されている天地人博を見学しておこうと考える。天地人博は直江津屋台会館で開催中。かなり大きな駐車場があって警備員が交通整理をしている。ここに車を停めると会場に入場する。
天地人博会場は屋台会館
左 ここは本来は屋台を展示している所 中央 春日山城模型 右 毘沙門天像 展示はドラマに関するものがほとんど。撮影セットを再現した中で、衣装をつけて記念撮影などが出来るといういかにもそれ向き展示。歴史云々よりもとにかく大河ファン向けという色彩が強い。また物販部門もやけに充実していて、いかにも観光客対象。正直なところ私のようなものには、入場料の600円は少々高いなというのが本音(実際に見るべきものがほとんどなかった)。
外は豪雨
会場を出た途端に唖然とすることになった。入場前には雨がぱらついている程度だったのだが、今や完全に吹き降りの豪雨となっていた。とにかく雨量もさることながら、とんでもないのが風の強さ。私は折りたたみ傘を持参していたので、これで駐車場まで行こうとしたところ、突風の直撃を受けて私の傘はあえなく一撃に粉砕される。それも裏側から風を受けたのならよくある話だが、上側から風を受けたのに骨が瞬時に二本も折れてしまったのである。戦後になって女性とパンストは強くなったと言われるが、逆に男性と傘の骨は軟弱になってしまったようだ。
半分スクラップになってしまった傘を持って、びしょ濡れになりながら車に到着。もうこの時点で戦意喪失である。まだ3時なのだから、もう一カ所ぐらい訪問することは時間的には可能なのだが、これではどこかを見学するというような状況ではない。それに今日最低限こなさないといけないスケジュールはすべて完了している。今日はこれ以上の無理をすることはやめて、さっさとホテルにチェックインすることにする。それにしても改めて「春日山城訪問を今日の午前中にしておいて良かった」と思う。もし時間をずらしていたら本遠征の最大の目的が達成できないという状況になりかねない所であった。改めて自分の状況判断の的確さを自画自賛する。
今日の宿はルートイン上越。私がよく利用するホテルチェーンの中では中堅に当たる。当然のように大浴場付き、朝食付きである。
ホテルにチェックインして部屋に入った途端、急にとんでもない疲労が襲ってくる。さすがに二日連続での山城攻略は私の体力をとことん奪っていたようである。それに何しろ相手はあの上杉謙信でも力攻めでは落とせなかった堅城・七尾城と、その謙信の本拠地である春日山城である。この二城を立て続けに攻略なんてそもそも無茶だったと言うべきであろう。部屋に入るなりベッドの上に倒れ込むとそのまましばらく意識を失う。
再び目を覚ました時には6時前になっていた。とにかく夕食を食べに行く必要がある。徒歩で行ける範囲には飲食店はないので、車で駅前まで繰り出すことにするが相変わらず台風並の豪雨。おかげで町中は真っ暗で、駅前にも人の気配が全くない(まあ好きこのんでこんな時にわざわざ歩かないわな)。こんな中で私が訪問したのは「海の幸 味どころ 軍ちゃん」。地元の魚を食べさせるとかで人気のある店である・・・とのことだが、さすがにこの天候では店内もいささか閑散としている。注文したのは「海の幸味処膳(2625円)」。
まず珍味三点から始まり、海鮮丼に焼き魚、天ぷらにあら汁などてんこ盛りだが、圧倒されるのはそのボリューム。海鮮丼はたっぷりと盛ってある刺身から好きなものを選んで寿司飯に載せるのであるが、この刺身のボリュームがかなりあり、たっぷりと寿司飯に載せてもまだ余る。当然ながら魚の鮮度も良い。やはり漁港の魚定食はこうでないとという代物である。定食を食べてからまだ余裕があれば刺身でも頼もうかと思っていたが、この定食で完全に腹一杯になってしまった。
とにかく圧倒的ボリューム 夕食を堪能して人心地つくと、再び豪雨の中をホテルに帰還、大浴場で入浴を済ませると早々に眠りについたのであった。
☆☆☆☆☆
翌朝は起床するとまずはホテルで朝食。昨日よりも雨はやや小降りとなっているが、今朝はかなり肌寒い。嵐と共に冬まで突然にやって来たようである。朝風呂で体を温めてからチェックアウトする。
今日の目的地は長岡。長岡にある新潟県立近代美術館を訪問するというのが目的である。実はこれが今回の遠征の美術展方面での目玉。新潟県立近代美術館では現在、土田麦遷展が開催されているのでこれに行こうというものである。本展については興味はあったものの、訪問は無理だろうなとほとんど諦めていたのだが、この時期に北陸方面に遠征する計画が浮上したことでにわかに訪問が現実化したという経緯がある。
上越ICから北陸道に乗ると、ここから1時間弱の高速走行。目的地は長岡ICを降りてから少し走行したところにある。辺りは病院などがある郊外の雰囲気。美術館も非常に大きな建物である。
「土田麦僊−近代日本画の理想を求めて−」新潟近代美術館で11/3まで
常に新しい日本画の可能性を追求し続けた、佐渡出身の日本画の大家・土田麦僊の生涯の作品を集めた展覧会。
当初は円山派などの伝統的な日本画を学んだ麦僊は、京都で竹内栖鳳に師事してそこで才能を開花。新しい日本画を目指しての数々の試みを始める。その後、小野竹喬、村上華岳らと国画創作協会を結成、また渡欧してゴーギャンの影響を受け、さらには東洋美術への傾倒を深めるなどめまぐるしい変転を遂げる。
彼の代表作とも言われる「大原女」などは昭和初期に描かれたものであるが、この時期の彼は日本画の伝統的技法に西洋画的表現を取り入れたかなり野心的な画法を突き詰めていた時期であり、私の目から見てもこの時期の彼の作品がもっとも充実している。その後に東洋美術への傾倒が深まると共に、東洋美術によく見られる「簡略化」が彼の作品にも現れてくるのであるが、残念ながらこの時期の作品は私の目にはあまり面白くない。
彼は49才という非常に若い年齢で没したのであるが、作家としてみた場合に早熟に始まり急激に進化を遂げ、晩年には退化も現れていたように感じられる。そういう点で短い人生を早足で駆け抜けた芸術家であったのだと実感されるのである。
なかなかに見応えのある展覧会で、このために長岡まで出張ってきた価値は十分にあったと感じる内容であった。なお本館はヨーロッパ美術などのコレクションの方も水準が高く、こちらの方もなかなかに堪能できた。
当初の予定ではこの美術館の訪問は昨日で、今日は春日山城を訪問するつもりだったのだが、こちらに来てから天気予報などの情報からこれを急遽入れ替えたのであるが、改めてこれは完全に正解だったと感じる。昨日はタッチの差で好天の下での春日山城訪問となったし、今日も幸いにして現時点での長岡は雨は降っていない。
たださすがにかなり疲れている。美術館見学は山城攻略と別の意味で足にキツイ。予想外にへばっていることを感じた私は、この美術館の喫茶で一息ついてから次の目的地に向かうことにする。
この後は今日の宿泊予定地の金沢まで移動するだけ。ただこれではあまりに味気ないので、途中で富山近辺の未訪問の城郭を訪問しようと思っていた。しかしこの計画は途中で呆気なく吹っ飛ぶ。北陸道を西進していると、糸魚川辺りからほとんど台風並みの猛烈な豪雨に出くわし、高速道路を走行するのがしんどいような状況に直面したのである。何しろ、昼食のために途中で入ったサービスエリアで車から建物まで移動するのが大変なぐらい。ただの豪雨ではなくて風が非常に強いので傘なんかさせないし、下手すると車のドアまで勝手に開く状況。これではのんびりどこかを観光なんて余裕はない。この時点ですべての予定を断念して金沢に直行することにする。
水しぶきを上げながらほとんど水上走行のような様子。足下が怪しい上に猛烈な風なので、車が小刻みに揺れる。カローラ2のような小型車でこの状況なのだから、ワゴンなどならとんでもないだろう。心身をすり減らすような運転を続けながらようやく金沢に到着したのは3時前。さすがにかなり疲労してしまったのでそのままホテルにチェックインする。ホテルは私の金沢での定宿「ドーミーイン金沢」である。
ここでも先日同様、ホテルに到着した途端にしばらく意識を失ってしまう。通常の遠征なら目的地に着いたら現地の美術館へとなるところだが、今回の金沢は美術館がオフシーズンのために見るべき所はなく、本当に帰りに立ち寄るだけの予定になっている。さすがに新潟から一気に帰宅するのは体力的には無理だろうと判断しての中継地の設定である。ただ実際の疲労は当初の想定を遙かに超えていた。今回の遠征は立て続けの山城訪問の挙げ句に長距離運転の連続であるので、心身に対して非常に厳しい遠征となってしまっている。若い頃ならまだしも、やはり既に体力がかなり下降線を辿っているのだろうか。とにかく身体にキツイ。
夕方頃に意識を取り戻すが、やはり遠くに出ていく気がしない。金沢には美味しい店も多々あり、当初の予定では自由軒辺りに足を伸ばそうかとも思っていたのだが、疲労が強すぎるのかそもそも食欲があまり起こらない。結局はホテルの向かいにあるフォーラスにある「もりもり寿司金沢駅前店」に入る。
ここは回転寿司とのことだが、そこはさすがに金沢で、実質的には職人が握る寿司と変わらない。もっともその分は価格も高めということで、蔵寿司などとは対極の位置にある回転寿司屋である。
適当に目についたものを握ってもらうが、確かにネタに間違いはない。特にのどぐろの炙りは絶品。もっとも一貫で380円ということで値段も一流であったが、絶妙の甘味と塩加減には寝惚けていた目が覚めてしまった。結局は2800円ほど食べて店を後にする。
この日もホテルで温泉に入浴してゆったりと疲れを抜いてから、やや早めに床につくのであった。
☆☆☆☆☆
翌朝も6時頃に起床する。今日でいよいよ遠征最終日である・・・が、もう体にはかなりの疲労が蓄積している。今日の予定はとにかく「無理をしない」つもりであるから、まずはホテルで朝からゆっくりと露天風呂で体をほぐし、朝食を摂ってからもしばらくまったりと時間をつぶす。
ホテルをチェックアウトしたのは9時過ぎ。私としてはかなり遅めのチェックアウトである。今日の目的地は福井の「一乗谷朝倉遺跡」。織田信長に滅ぼされた朝倉氏の根拠地であった一乗谷の遺跡である。ここでは当時の城下町の遺跡の発掘が進んでおり、丸ごとの町並みが復元されつつあるとか。
一乗谷朝倉氏遺跡資料館
北陸道を経由して福井に向かう。昨日までは天候が大荒れであったが、今日は幸いにして天候は穏やかで格好の城郭散策日和である。福井ICで降りるとそのまま一乗谷方向を目指す。朝倉遺跡は結構広大な地域に広がるが、遺跡の入り口に当たるところには資料館が建っているのでそこで事前に情報入手。どうやら私がイメージしていたよりもかなり大規模な遺跡のようで、麓にある朝倉館だけでなく山上にもいざというときの徹底抗戦用の山城があったらしい。もっとも朝倉氏は、浅井氏を助けるための援軍を送った先で惨敗し、その後は織田軍の電撃作戦によってほとんど抵抗らしい抵抗も出来ないまま一乗谷も陥落しており、この城郭が有効に機能する余地はなかったであろう。なお最終的には朝倉家当主の朝倉義景は大野方面に逃走するが裏切りにあって落命、名門朝倉氏はここに滅亡している。
朝倉氏の城下町である一乗谷は信長の攻撃で灰燼に帰したわけであるが、近年の発掘によって大規模な集落跡が発見され、当時の武士や町民の暮らしをうかがわせる遺品が多数見つかっているという。現在では一帯は遺跡公園となっており、復元された町並みはそのもっとも南方の地域にある。遺跡は山間の谷間の川沿いに展開しており、現代の山村集落に隣接している。今では完全な田舎としか言いようのない光景であるが、当時は朝倉氏の庇護の元で一大文化圏を誇っていたはずである。
ここの駐車場に車を停めると、復元した町並みを見学。土塀の質素な建物群の中を現地ガイドと思われるコスプレイヤー(侍やら町人やら)が闊歩していて、雰囲気としては太秦映画村と言ったところ。実際にドラマの撮影などにも使用できそうである。もっともこちらは単なるセットではなく、一応は綿密なる歴史考証に基づいての復元であるが。
町並みの見学を終えると次は朝倉屋敷の見学に向かう。建物は全く残っていないが、土塁や建物跡が残っており、寺院にあったという唐門が移築されている。ちなみにこの門は朝倉時代のものではなく、後に秀吉によって朝倉氏を弔うために寺院に寄贈されたと言われているものである。この屋敷跡を見ただけでもかなり大規模な館だったことが分かるが、館だけでもただのお屋敷ではなくて一応は防御の構えをなしている。中世の館が単なるお屋敷ではなくて、軍事施設の一環であったのは武田氏館(現在の武田神社)などを見学した際にも明らかであるが、ここもやはり城郭に準じた守備はなされていたようだ。この辺りは他の重臣の館跡などもあり、これらが山の麓の要塞となっていたようである。
左 屋敷門からは武士が出陣中 中央 周囲には堀と土塁 右 上方から眺めた敷地 館跡の見学を終えると、そこから後方の山の方に入る。ここには朝倉敏景の墓所である英林塚がある。この横からは山頂に行く道があるのだが、現在はこの道は封鎖されており、「熊に注意」との張り紙がなされている。後で土産物屋で聞いたところによると、この館跡から山頂に登る道は以前の大雨で土砂崩れを起こし、それ以来修復がされずに放置されているとのこと。山頂に登ろうと思うともっと北側の現在集落がある辺りから回り込むしかないようだ。ただこの時期はまだ熊がウロウロしている可能性があるので、熊除けの鈴が必需とのこと。また所要時間は往復でざっと3時間とか。
左 営林塚 右 ここから山上に登る道は閉鎖されていました。 南門跡 奥は中の御殿跡 ここまで聞いたところで山頂まで行こうという気は完全に失せてしまう。ヤブ蚊ならともかく、さすがに熊では相手が悪すぎる。私は熊殺しを目指す格闘家ではないので、森の中で熊さんに出会ったというのは御免願いたい。しかも往復3時間となれば時間がかかりすぎるし、そもそもそれだけの長時間山道を踏破する体力はもう残っていそうにない。とりあえずここで無理をするのはやめることにする。
一乗谷の山城はこの山の奥にあります。
山頂の訪問をあきらめたところで昼食にする。近くの休憩施設にあったそば屋「朝倉亭」で「義景膳(1400円)」を頂く。いわゆる一般的なそば定食。内容的には特別なところは全くないが、添えられているおろしそばはうまい。
おろしそばは後から出てきました 昼食を終えると帰途につくことにする。まだ時間は早め(昼過ぎぐらいである)であるが、帰りに高速1000円渋滞なんかに出くわしたらたまらない。早々に引き上げるのが賢明と言うところだろう。幸いにして天候も完全に回復しており、何らドライブに問題点はない・・・はずだったのだが、実際に帰途につくとこれが思った以上に大変だった。やはりこの四日間で思った以上に体力を消耗していたようで、途中で意識がうつろになりかける。結局は往路では休憩無しに一気に走り抜けたルートを、途中でSAでの休憩を2回挟んでようやくフラフラになりながら自宅へと帰り着いたのであった。今から思えば、一乗谷の山登りなんて考えるだけ無理だった。もし実行していたら、途中で体力が尽きて今日中に帰り着いていなかっただろう。やはりもう自分の体力を過信してはいけないようである。
途中のSAで抹茶パフェで一息。さすがに疲れた・・・。
とにかくフラフラになるぐらに疲労困憊した今回の遠征であるのだが、その分だけ中身は充実していた。確かに天候の影響で予定をすべてこなしたというわけにはいかなかったが、それでも絶対にはずせないところは完全に網羅しており、いずれも微妙なタイミングで晴天に恵まれていたということは非常についていたと言うべきであろう。
今回、初めて新潟に足跡を記したのであるが、今後東北地域が具体的な遠征目的地に浮上することになると(来年度は「東北・九州地域強化年間」になりそうである)、新潟も一つの拠点として今後はたびたび訪れることもあるだろう。それに今回は新潟県と言ってもその南端をかすめた程度で、新潟中心部の美術館などは未訪問である。また新潟には100名城に含まれている新発田城も残っている。まだまだこの方面でなすべきことはいくらでもあるのである。とは言うものの、こうも大型遠征が予想されると、いよいよもって予算が逼迫を通り越して既に破綻の域に・・・。何か良い金儲けの方法はないものであろうか。やはり何事も先立つものは予算である。民主党の事業仕分けよろしく、無駄な出費を切り詰めて遠征費の捻出なんてことを考えたが、家計簿をチェックすると可処分所得の8割方が既に遠征に投入されているという、戦時日本並みの財政破綻ぶりが明らかになっただけであった。
さらに予算と共にもう一つ私の頭を悩ませているものが交通手段である。今までは鉄道と車の併用できたのであるが、今後目的地が遠隔地となると共に、予算・時間の双方の面から飛行機の利用が必然となるのであるが、未だかつて我が一族には空を飛んだ者が一人もいないのである。さてどうなることやら。
戻る