展覧会遠征 徳島・香川編
近畿地方を中心にローカル線事情の視察を重ねてきた私だが、近くでありながら未だに空白区だったのが、海の向こうの四国である。四国に上陸したことはあるものの、鉄道で行ったのは高松まで、後はバスで徳島まで行ったことがあるくらい。
四国の鉄道の視察を行っていたなかったのには理由がある。通常はローカル線視察となれば青春18切符となるところなのだが、四国では青春18切符はまるで役に立たないのである。と言うのは、JR四国の路線はその大部分が単線非電化路線からなっており、運行本数が限定されることから、普通列車の運行本数が極端に少ない上、特急列車をやり過ごすための時間待ちが多く、普通列車を使用した場合には特急列車の3倍は時間がかかると言うのが四国の常識だからである。つまりは四国を鉄道で回るためには、特急列車を普通列車の感覚で使わざるを得ないということであり、これは旅費が大幅に増えることを意味する。これが四国視察の最大の障害となっていたのである。
つべこべ言わず、素直に特急を利用すれば良いんだが、それだけの財力はとても私にはない。となれば知恵で補うしかない。こういう時は情報を調べるに越したことはない。JR四国のHPその他諸々のサイトを綿密に調査した結果行き当たったのが、いくつかのトクトク切符である。中には「1100円で普通列車乗り放題」などという切符もあるが、先に説明したように特急を使えないことには始まらない。そのような諸条件を勘案した結果、今回は香川徳島フリー切符を使用することにした。この切符は香川徳島エリアの特急自由席が使用できて2日間有効で6000円という代物。とりあえず四国地域視察の最初としては、かって知ったる香川・徳島から始めようというところである。さらに綿密なる計画策定の結果、出発地点は徳島と決定され、徳島までは高速バスを使用することにした。
当日の朝はまず高速舞子まで移動、そこから徳島行きの高速バスに乗車する。時間がまだ早いせいか乗客は数人程度でかなり空きがある。ここから1時間以上のバスの旅だが、早朝出発の疲れのせいで淡路島に上陸すると間もなく眠りに落ちる。次に気が付いたのは大鳴門橋の手前だった。そこから30分ほどでバスは徳島に到着する。
徳島駅は一大ターミナル
徳島に到着するとそこで市バスに乗り換え。このルートはなぜか途中で乗り換えがあるために無駄な時間ロスがあるが、それでも30分ほどで目的地に到着する。
「大正ロマン昭和モダン展−竹久夢二・高畠華宵とその時代−」徳島県立近代美術館で6/22まで大正から昭和にかけては、いわゆる「モダン」な挿絵が流行った時代である。この時代にもてはやされた竹久夢二、高畠華宵を中心に、この時代を物語る挿絵作品を展示したのが本展である。
日本画には浮世絵の流れの美人画があり、いずれの画家もこの時代の画家はその流れの影響を受けている。竹久夢二の場合は特にそれが顕著だが、高畠華宵辺りになるとかなり洋画的要素が強まっているようである。その混淆度合いがいかにも昭和初期の空気を感じさせる。
本展はあくまで大衆アートであるので、よく言えば庶民的、悪く言えば下卑た雰囲気がある。それをどう捉えるか。単純にレトロムードを楽しむというスタンスでも間違いはないが。
とりあえず徳島地区の美術館を攻略すると、徳島駅までとんぼ返りして昼食に弁当を購入。さてここからいよいよ「鉄道で回る徳島・香川の旅」じゃなかった・・・「徳島・香川地域JRローカル線現状視察」の開始である。
まずは徳島から阿波池田までよしの川ブルーラインこと徳島線での移動。ここでは特急剣山を使用することにする。私が乗車した剣山は3両編成で、先頭車両と最後尾車両の一部が自由席。2両目に増結されたアンパンマン車両と最後尾車両の一部が指定席である。車両は回転クロスシートのキハ185型気動車。言うまでもなく全線単線非電化路線である。
転換クロスシート車両の特急剣山 乗客の少ない時間帯なのか、乗車率は2割以下という状況で、自由席でも余裕で座席を確保できる。運転席のフロントビューが見える窓際の席(前から2列目)という好位置を確保すると、いきなり先ほど徳島駅で購入した弁当(阿波地鶏弁当1000円)をあける。ちなみにこの弁当、私が購入したのはおかず付の方だが、おかずなしで800円のものもある。朝からコンビニおにぎりを2個ほど食べただけなので、すきっ腹に鶏飯が心地よい。味付け的にも濃すぎず薄すぎず、日本人ならしっくり来る味である。
阿波地鶏弁当1000円也 やがて列車はゆっくりと発車する。高架駅の佐古を通過するとそこで高徳線と別れて西進する。よしの川グリーンラインという名称から、吉野川沿いを走行するのかと思っていたのだが、実際には山を遠くに見ながら田園地帯を走行する路線である。途中からようやく右手に吉野川が見えてくるが、結構距離があって川の風景を楽しむという雰囲気ではない。
沿線風景は田んぼ・・・
そこで昼食パート2とすることにする。ここで私が取り出したのは、徳島駅の地下で購入した小鯛寿司(682円)である。どうやら徳島名物には鯖寿司などもあるらしい。ただ私は鯖があまり得意ではないので、小鯛寿司を選択した次第。適度に酢が効いていて心地よい。
小鯛寿司682円也
寿司を食い終わった頃から、ようやく線路が吉野川に近づいてきて、車窓の風景が楽しくなってくる。上流に近づくにつれて岩が多くなってきて、この川が大歩危・小歩危につながっているということを思い起こさせる。やがて右手に箸蔵山のロープウェーが見え、眼下に大きな集落が見えてくるとそこが阿波池田である。
ようやく吉野川が見えてくる
剣山はここが終着駅。ここで乗り換えである。ここからさらに吉野川上流に遡ると、奇岩の渓谷で知られる大歩危・小歩危に到達するが、阿波池田−大歩危間に季節限定で週末に1日2往復のトロッコ列車が運行されている。今回利用したフリー切符のエリアはちょうど大歩危までであり、この際だからトロッコ列車に乗っておこうという計画である。やはりローカル線の実力を測るには沿線の観光資源についても調査しておくことは不可欠である。私は決して軽々しい物見遊山にやってきたのではない・・・ということにしておこう。
トロッコ列車は二両編成。先ほどの剣山と同型車両であるキハ185にトロッコ車両を連結している。ちなみに下り方向では1両目がトロッコ車両になるので、このトロッコ車両には運転設備が備わっている。阿波川口までは2両目の客車に乗車し、阿波川口から指定席券を持っている乗客だけがトロッコ列車に移動できるという仕組み。今回の遠征について、数ヶ月前から綿密かつ完璧なスケジュールを組み立てている私は、当然のことながら事前に指定席券は確保済みである。トロッコ車両に移るとまもなく車掌が検札に回ってきて、乗車証明証を手渡ししてくれる。意外に乗客は少なく10人程度。青春18シーズンと違うせいか、いわゆる鉄道マニア風の乗客はおらず、普通のカップルの観光客が多い。
こちらが後ろ側 前側はこうなってます 阿波川口駅でトロッコ車両に移動 トロッコ車両は当然ではあるがふきっさらし。いきなり長いトンネルに突入するが、風が肌寒い。トロッコ車両は冬は運行が停止されるのだが、今更ながらその理由を痛感。今日は五月にしてはかなり暑い日であると思うのだが、それでもトンネルを出る頃には少々からだが冷えてしまった。
トンネルを抜けた途端に、乗客の間から「おーっ」という声が上がる。そこに見えるのは奇岩がゴロゴロした壮観な渓谷の風景である。山がそこに迫ってくるぐらい近く、見下ろす渓谷は呆れるほど深い。その急斜面や山水画の世界である。列車はビューポイントでは速度を落としながら風景を堪能させてくれる。
列車は次の小歩危駅で通過車両をやり過ごすために数分停車。これが乗客のカップルたちには格好の記念写真タイム。男の一人旅が記念写真を撮っても仕方ないので、私はもっぱら風景写真に専念。この辺りは観光開発も進んでいるらしく、ホテル類が多い。また温泉もあるようなので、いずれこのあたりで一泊してみても良いかも・・・。
なお一緒にトロッコ列車に乗ってくれる女性については募集中である。条件は年齢20〜40歳ぐらい、職歴・経験不問、「家付き、カー付き、ジジババ付き」でOKで貧乏に強い人。以下、些細な条件は要面談。われと思わん方はご連絡ください・・・って、こんな条件で希望者なんているかっての!
小歩危で後続の南風をやり過ごすと、再び列車は大歩危に向けて出発。途中で吉野川を越える橋などのビューポイントも通過する。ただ一つ問題点は、この路線は結構トンネルが多いのと、周辺に樹木が多かったりするなどして結構視界が遮られることが多いこと。障害物の間から断続的に風景が見えるというようなもどかしさがあり、また邪魔な電線もあったりなど、写真撮影は非常に困難である。やはりこの渓谷の絶景を堪能するには川下り船などが一番良いのかも知れない。
阿波池田から40分弱の列車の旅で大歩危駅に到着。ここで高松方面行きの南風に乗り換えて今来た道をUターンである。到着した南風はN2000系の気動車である。キハ185系と同様の回転式クロスシート車両。4両編成にもかかわらず乗車率は高く、なんとか座席を確保する。このN2000系は振り子機能を持っており、山間のカーブの多い土讃線を高速で走行するために設計されている。先ほどトロッコ列車でゆっくりと通り抜けた大歩危渓谷を高速で一気に走り抜けてしまう。最大5度まで傾斜をするとのことだが、車窓を眺めていると派手に上下に地平線が揺れまくる。阿波池田を抜けるとそこからは左右のカーブの多い山間地域なのだが、右に左に豪快に車体を傾けながら、高速で突っ走るN2000系は私のようなディーゼル車好きにはたまらないものがある。なかなか痛快である・・・っていかん、まるで鉄道マニアみたいなことを言い始めている。
大歩危駅 特急南風が到着 山地を抜けて平野部に出ると、今年の初めに訪問した琴平に到着。ここからは電化路線なので路線には電車も混ざってくるが、南風はそこをお構いなしで高松まで疾走する。もっとも私は今回は丸亀で途中下車である。先日琴平に訪問した際に強烈なインパクトを受けた丸亀城を是非とも今回は訪問しておきたいと思っていたのである。
麓から見上げる丸亀城は壮観である。やはりこれだけ高い石垣は見たことがない。丸亀城はそもそもはこの位置にあった山を利用して作られた平山城だという。ただこの山が完全に孤立した状態にあるので、まさに平地の中にそそり立って見えるのである。また石垣を作ることで自然の山にはあり得ない急な傾斜ができあがるから、余計にそそり立って見える。なお希に石垣は内部まで石を積み上げているかのような勘違いをしている者がいるが、石垣とはそもそもは土砂を積み上げた表面を石で覆うことで土砂の崩落を防いで、単に土砂を積み上げただけでは建造することが出来ない急斜面を作るものである(急斜面の方が防衛上好都合であるのは言うまでもない)。この丸亀城はまさにこの石垣の機能を最大限にうまく使っている。
見上げるような石垣
重要文化財という一の門を見学すると、いよいよ天守に向かって登山である。天守台に上る道は整備されているが、とにかく急な坂道である。身軽な状態なら良いのだが、生憎と一泊用の装備や図録を背負っている状態で、荷物だけで数キロはある。天守台まで登り切った時には息も絶え絶えである。とりあえず伊右衛門で水分補給。
天守閣に到着
当然ではあるが天守台もついでに見学する。ここの天守は非常にこじんまりとしているが、日本で数少ない木造の現存天守であり、重要文化財に指定されている。姫路城にしても松江城にしても、木造の現存天守はいずれもそうであるが、ここも階段が非常に急で恐い。しかもここまでの上り坂で足が完全に死んでしまってグラグラになっているだけに、余計に怖さが増す。転落しては洒落にならないので、手すりに捕まりながら一歩一歩慎重に上り下りすることになった。なおこじんまりした天守だけに、内部にはさして見るほどの展示もない。ただ石垣の高さ日本一と言われる城だけに、天守台からの眺めは抜群である。遙か先には瀬戸大橋や岡山まで一望できる。これは非常に気持ちがよい。
遠くに瀬戸大橋が見えます
丸亀城の見学をすませると、再び徒歩で駅まで移動する。それにしても気になるのは、丸亀駅前の寂れ具合である。特に駅前商店街は壊滅的状況で完全にシャッター街と化してしまっている。丸亀には丸亀城のようなすばらしい観光資源があるにもかかわらず、町の衰退を食い止められていないようである。このような地方の荒廃が各地で起こっているのである。やはり日本各地の活力を一人で吸い上げてはまるでガン細胞のように無秩序に巨大化している東京を、早急に解体する必要があるということを痛感するのだった。
惨憺たる有様の丸亀駅前商店街
丸亀駅に到着すると、アンパンマン塗装をした8両編成のN2000系車両が到着する。前の2両は高松行きの特急いしづち、後ろの6両が岡山行きの特急しおかぜで、次の宇多津で切り離しになるとのこと。私はこのいしづちに乗車して高松に移動する。なお予讃線は高松−伊予市間が電化されているので、特急いしづちには新鋭電車の8000系もあるはずなのだが、今回の視察では残念ながらこれを目にすることはなかった。
特急いしづち
高松駅に到着するとバスでホテルまで移動。今回宿泊するのは先週にオープンしたばかりというドーミーイン高松。ドーミーインの経営母体は温泉施設を経営しているだけあって、このチェーンのホテルは大浴場にこだわりがあるのが特徴だが、ここも人工温泉の大浴場があって一泊4900円。立地は繁華街のど真ん中で至便、また部屋にはシャワーはない(大浴場があるので不要)が一渡りの設備は整っている。また部屋の照明が明るいのと、洗面スペースがトイレとは別になっているのは私好み。料金が安いにもかかわらず、私のツボを非常に良く押さえたホテルである。
ホテルに入るとまずは大浴場で汗を流し、そのまま夕食のために街へ繰り出す。とは言うものの、夕食を摂る店については全く何の計画も情報もなしであり、ここは自分の嗅覚に従うのみ。結局、なかなかツボにはまる店がなく、高松の繁華街を南から北まで巡回してしまう羽目になるが、ようやく繁華街の北の端に近いところ(高松市美術館の近く)で、私の嗅覚にビビッとくる店を見つける。
今回夕食を摂ったのは「天麩羅の店天銀」。とりあえず天麩羅のコース(1500円)を注文する。まずは皿とご飯と漬け物(これがうまかった)としじみ汁(これもうまかった)が出され、後は天麩羅が一品ずつ出るという形式。魚介類がイカ、キス、穴子、エビ2本、貝柱、野菜類がシシトウ、ナス、レンコンといった内容。オーソドックスな天麩羅であるのだが、揚げ方が絶妙(貝柱の硬くなりすぎず生でもなくという具合は見事だった)で、揚げ油も東京などに多い下品なごま油と違ってさっぱりしている。
いかにもの店構えです
なおこの店は天麩羅がメインではあるものの、それ以外の料理もあるようである。天茶なんかもあるようで興味深いが、今回はコースを食べてしまっているのでそれはさすがに無理。そこで店主に適当に一品お任せでお願いする。
そこで出されたのが「白クラゲの酢の物」。私は今までクラゲなんて美味しいと思ったことはないし、酢の物もそんなに好きではないのだが、これについては絶妙。クラゲのコリコリとした食感が心地よい上に、またさっぱりとした口当たりが天麩羅を食べた後には非常にさわやか。中にはこれを指名で注文する常連もいると店主が言っていたことにも納得の絶品。これは良い店を見つけたものだと、私の嗅覚もまだ地方では通用するらしいことを確認した(どうも関東圏では惨々なのだが)。以上で合計2000円、納得の夕食であった。ちなみにどうやらここが高松では結構評価の高い天麩羅屋であるらしいことを知ったのは、私がホテルに帰ってからであった。
なおこのホテル、繁華街の近くという立地は申し分ないのだが、一点だけ難点は近所にコンビニが見あたらないこと。繁華街のど真ん中というのが災いしたか(コンビニは繁華街よりも住宅街の合間の方が多い)。もっとも四国はコンビニ自体が少ないという話も聞いたことがある。結局この後にコンビニを探してまたも高松市街をうろつく羽目になってしまった。この日は丸亀城登山と高松繁華街周遊ウォークで2万歩を超えてしまったのである。おかげで疲労が溜まって、この夜は「サイエンスZERO」を見ている最中に眠りに落ちてしまう。
翌朝は起床すると「目がテン」とNHKの「おはよう日本」をチェック(私の贔屓の首藤奈知子アナは、この春から週末担当に異動している)、その後は朝風呂を浴びに大浴場へ。朝から入る露天風呂(と言っても空が見えるだけだが)がまた格別である。
風呂をすませると朝食のために食堂へ。このホテルはありがたいことに4900円で朝食付きであり、この辺りも私のニーズにガッチリである。なお朝食のメニューはいかにも香川らしく讃岐うどん。温うどんと冷うどんを選べるが、温うどんのつゆがどうにも間に合わせなところもいかにも讃岐うどん(私の讃岐うどんに対する一番の不満点はこれ)。ただ朝食自身は結構うまく、朝から力が入る。実に私のツボを押さえたホテルである。美味しい和食の店があり、ニーズに合致したホテルがあり、これで私も高松にも拠点が出来たかな・・・と思ったが、よくよく考えると高松に宿泊することなんても、そんなにあるとは思えない。
この日はまずは高松市美術館を回る予定なので、開館時間に合わせて9時過ぎまでホテルでまったりしてからチェックアウトする。今までホテルのチェックアウトと言えば7時までというのが多い私(一番早いのは5時というのがあった)としては、いつもと違ってゆったりモード。やっぱりたまにはこんな余裕もないといけないな・・・。
「印象派の巨匠ピサロ ―家族と仲間たち― 展」高松市美術館で5/18終了印象派の中心画家の一人にあげられるカミーユ・ピサロ。彼は独特の明るい色彩の絵画で知られているが、彼の息子達も彼の影響で芸術の道を歩んでいる。そのピサロと彼の息子達の作品を展示した展覧会。
展示作の中にはピサロの点描作品もあるが、ある意味ではこの作品がもっとも印象派らしい作品のように感じた。色彩の鮮やかさが抜群である。ただこの技法は目の悪いピサロにはかなり負担だったらしく、以降の作品ではもっと普通の描き方になっている。そのような作品の場合、本展の冒頭部分に展示されているミレー、コローなどバルビゾン派の絵画の影響が顕著に現れることになる。こういうところを見ていると、ことさらに技法を追究した画家ではないようである。
なお彼の息子達であるが、確かに父の才能を受け継いではいるが、それを超えてはいないというのが正直な印象。特に長男の作品などは、父以上に保守的に見えた。
高松市美術館を訪問した次は、高松城を見ておいてやろうという気になる。そう言えば高松城の裏手に歴史博物館があったはず・・・と訪問したら、なにやら香川県立ミュージアムなる施設に名称変更していた。
「静かなる情熱−藤川勇造とロダンの美」香川県立ミュージアムで5/18まで高松出身の藤川勇造はロダンに師事して、彼の工房で助手を務めたことのある彫刻家である。その藤川の作品やロダンの作品、また日本の代表的彫刻作品などを展示してある。
正直なところ、藤川の作品以外は以前に「ロダン展」や「日本彫刻の近代展」で見たことのある作品が多く、あまり目新しいものはない。なお藤川の作品については確かに初期の作品においてはロダンの影響が顕著である。やがてそれを脱していくのであるが、そうなると今度は今一つ個性が希薄なところがあり、なんとなく印象が薄い。そもそも彫刻は守備範囲から若干ずれている私を唸らせるような作品は、残念ながらなかった。
香川県立ミュージアムではこれ以外にも歴史展示についても行っており、こちらは香川の原始時代から現代までを学べるようになっている。じっくり腰を据えて見て回ればそれなりに楽しめそうであるが(県立の歴史系博物館は大抵そうだ)、残念ながら今回はそこまでの時間はなかった。
香川県立ミュージアムを出た後は高松城を見学。高松城は瀬戸内海から水を引いて巡らした堀が防御の要の、典型的な水城である。かつての領域は今の高松市街の大部分に及んだとか。高松城城主は松平氏であったと言うことなので、親藩として四国の押さえについていたのであろう。高松の地が古来より瀬戸内の要衝であったことを証明している。なお天守については明治時代に老朽化のために解体され、残存していた門などもあのアホな戦争で焼失し(米軍による空襲によって実に高松市街のほとんどが焼失したという)、現在は城跡しか残っておらず、それらの領域は公園となっている。なお目下高松市では、天守の復元を目指して資料を収集中とのこと。もし往時の高松城天守閣の写真や図面等を所有している方がいれば、資料を提供したら喜ばれるだろう。なお私が訪問した時には、天守台の石垣の修繕とのことで大規模な工事中であった。
高松城の櫓 天守台は修復工事中 高松城の見学が終わった頃にはお昼前、次の目的地への移動のために高松駅に移動。列車の時刻までに余裕がないので、とりあえず昼食に弁当を購入して、徳島行きの特急うずしおに飛び乗る。ここから高徳線で出発点であった徳島に一端移動した後、鳴門線で最終目的地である鳴門に移動するというのが今日の予定である。
特急うずしお
特急うずしおは例によってN2000系車両。今回の遠征はつくづくこの車両と縁がある・・・というか、JR四国の特急用主力車両がこれであるからなんだが。3両編成の最後尾の自由席車両に座席を確保、後は徳島まで列車の旅・・・となったところで先ほど購入した弁当を取り出す。今回購入したのは「讃岐路牛めし(870円)」である。今回の遠征では2日続けて昼食が駅弁になってしまい、まるで「四国一周駅弁の旅」みたいになってしまっているが、実はJR四国でも駅弁業者の撤退が相次いでおり、今や駅弁が残存するのは数えるほどだとか。鉄道の廃線だけでなく、こういうところでも風情がなくなっていっているのは悲しい次第である。ちなみに私は、この四国の駅弁を制覇するつもり・・・なんて当然ながらさらさらない。私は鉄道マニアではないし、ましてや駅弁マニアでもない。今回はあくまで「移動時間を最大限優先し、食事の時間はなるべく短縮」という遠征時の鉄則と、特急列車での移動という条件が合わさった結果である(さすがにテーブルのない普通列車の中では弁当は広げにくい)。
讃岐路牛めし870円也 高松駅を出発した列車は、しばらく高松市街を一周するが、すぐに山間部に突入する。路線図で見た高徳線のイメージは海沿いの列車と思いがちだが、実際にはごく一瞬だけ海が見える部分があるものの、大半は山間部で、特に三本松をすぎた辺りからはかなり深い山岳部となり、振り子列車が左右に豪快に車体を揺らしまくるという状態である。そしてその山岳部を抜けて平地に出た頃には徳島はもうすぐそこである。
徳島駅に到着すると、ここで鳴門線の車両に乗り換え。先ほどの特急列車とはうってかわって、急に一両編成のワンマン車である。調べたところによると、キハ47系という70年代末から80年にかけて製造されたかなりの老朽車のようだ。内部はセミクロスシートであるが、JR西日本のローカル線でよく見るキハ120のようなレールバス系と異なるのは、車長がかなり長いこと。かなり大型な車両なので、これが一両だけ走るのは、近畿在住の私の感覚としてはどうも奇妙な光景である。
鳴門線は全線単線非電化路線。また実際の鳴門線は池谷からで、徳島から池谷までは高徳線を走ることになる。運行頻度は毎時1本程度だが、私が乗車した時には乗車率はかなり高く、多くの立ち客がいるような状態だった。鳴門−徳島間の輸送は既にかなりが路線バスに食われていると聞いていたが、それでもまだ需要はそれなりにあるようだ。
沿線はのどかな郊外という雰囲気で、四国内では見慣れた風景でありあまり珍しさはない。ただ池谷までの高徳線では特急の通過待ちが多く、やたらに停車時間が長い。確かにこの調子で運行していれば、特急の3倍の所要時間がかかるというのも納得。ややくたびれたロングシートの感触といい、今回の遠征では終始特急の回転式クロスシートばかりに乗車していたのに比べると、何となく落ちぶれたような気持ちにとらわれる。人間、生活水準の上昇は簡単に出来るが、その逆は落ちぶれたという気持ちにさいなまれて実に困難であると聞いたことがあるが、何となくその気持ちが分かったような気にもなる。
池谷をすぎるとそこから鳴門線だが、鳴門線本体自体はたった8.5キロの盲腸路線である。20分弱で鳴門に到着する。鳴門駅に到着すると西の方の小高い山(妙見山)の上に城のような建物が見える。そこが次の目的地である。駅前を徒歩で通り抜けると橋を渡って古い住宅街を突き抜ける。どことなく郷愁を誘うような街並みであり、昭和を強く感じさせる。ただ町全体としての活気が今一つ感じられないのが心配。やがて山の麓にたどり着くと、そこからは見上げるような石段が歓迎してくれた。どうも私の四国遠征は石段とは切っても切れない関係にあるようである。
またも石段がたちはだかる
ここは無理をせずにゆっくりと石段をアタックと思っていたのだが、思わぬ身体のトラブルがそれを許さない事態となってしまった。ここで急に尿意を催してしまったのである。周囲を見渡してもトイレらしいものはない。かといって、そこらに排泄するのは文明人たる私としてはしたくはない。山頂に行けば多分トイレがあるだろうと判断し、結局は最大スピードで石段を登る(と言っても、荷物も重いし体力もないしで、駆け上がるというわけにはいかないが)羽目になってしまったのだった。あの琴平とは比べるべくもないが、それでも目の前に次々と現れる石段に気が遠くなりそうになりながら、なんとか山頂にたどり着いて(トイレに駆け込み)人心地ついた時には、当然のように両足はガクガクになっていた。これは後でツケが来そうである・・・。
石垣に見えるが実は外から貼ってるだけ
麓から見えていた城のような建物は今は目の前に建っている。実はこれは鳥居記念博物館という博物館で、鳴門出身の人類学者・鳥居龍蔵の功績を記念して建設されたものである。内部には鳥居龍蔵による調査資料などが展示されているが非常にマニアック。はっきり言って人類学には興味が皆無の私には意味不明の資料ばかりである。最上階からは鳴門の風景を一望できるので展望台としての価値はあるのだが・・・。なおこの妙見山頂上にはかつては蜂須賀氏によって岡崎城という城が築かれていたのだそうだ(地形的に見て、この山頂に城がなかったはずはない)。ただしその位置は現在の博物館の位置と微妙に違うとのことだし、そもそも岡崎城には天守はなかったので、この建物の外観については歴史的根拠は皆無である。
なお現在各地にある天守閣の中で、一番ありがたみがあるのは姫路城や丸亀城の天守のように当時のものがそのまま残っているもので、これは現存天守と呼ばれて現在全国で12カ所のみ存在し、いずれもが国宝もしくは重要文化財に指定されている。なおこれ以外では、戦災などで失われた天守をなるべく往時の姿を再現するように再建した復元天守(名古屋城、岡山城など。多分高松城もこれを目指している)、また大阪城のように往時の姿とは異なるものの天守があったことが確実であるところに天守を建てたものを復興天守と呼ぶそうだ。なおこの岡崎城のようにそもそも天守なんてなかったところに天守を建てたものは模擬天守と呼ぶとのこと。口の悪い者なら「なんちゃって天守」などと言う場合もある。これよりすごいものとしては、そもそも城さえなかったところに城を建てる例。こういう「とんでも天守」についてはウィキペディアでは天守風建造物と分類してある。
なお誤解を招かないように言っておくが、私は城オタクではないが、城郭好きではある。城郭好きの私としては、この類の「なんちゃって天守」は実は勘弁願いたいところである。中には源平時代の城跡に戦国末期の形式の天守を建ててしまったなんていうとんでもない例もあり、ここまで来るともはや遺跡ではなくて単なるテーマパーク。歴史マニアとしては興ざめも甚だしいのである。
さてこの「なんちゃって天守」を後にすると、ようやく次が最終目的地。そこはこの天守から若干下った位置にある。
鳴門ガレの森美術館
アールヌーヴォーを代表するガラス工芸家であるエミール・ガレの作品を展示した美術館。ガレのデザインになるランプなどの作品が展示されている。
ガレの作品についてはある程度は工房において量産されていることから、実はガレの作品を展示した美術館は全国には数多い。その中では本館はどちらかと言えば小規模な方に入ると思われる。展示作品についても、以前に名古屋の大一美術館や長野の北澤美術館で見たものの方が印象的なものがあり、美術館としてもガレの陶芸作品にターゲットを絞った松江の北堀美術館の方が独自性を感じた。
私が訪問した時は他に入場者はいない状態で、果たしてこの美術館は大丈夫なのかと心配になったのだが、どうやらガラス工房などもあるようで、そちらが本業といった雰囲気。確かにそうでないと経営はしんどそう。これで今回の遠征のスケジュールはすべて終了した。後は来た道を引き返すと、先ほどの石段を今度は駆け下り、鳴門駅から路線バスで高速鳴門バス停に移動、そこから高速バスで帰宅の途についたのだった。なお先日の往路のバスはガラガラだったが、今日の復路のバスは日曜の夕方というせいか満員で、補助席に乗車する乗客も出るぐらいであった。往路のバスに乗った時には、これでこの路線の採算は合うのか心配になったのだが、どうやらトータルでは採算は取れているようである。
なおこの日はやはり妙見山ウォーキングが効いて16000歩を数えていた。そして私の予想通り、このツケは見事に翌日に私の両足に襲ってきたのであった・・・。
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