兵庫県立美術館

臨海開発地の近代的建物

公式HP

美術館規模 大

専用駐車場 有(有料)

アクセス方法

 阪神岩屋駅から徒歩8分 JR灘駅から徒歩10分

お勧めアクセス法

 駐車場料金が結構高いので、それを節約するなら電車。ただし最寄駅がマイナー(阪神岩屋は特急が停車せず、JR灘は新快速が停車しない)なことや、美術館周辺がだだっ広いことなどから、心理的距離は実距離以上に遠い。結局私は車を使用している。

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展覧会レポート

 

「ピクサー展」 2006.12/2〜1/14

 「トイ・ストーリー」から最新の「カーズ」に至る一連のアニメーション作品で有名なのが、アメリカのピクサーアニメーションスタジオである。本展は創立20年を迎えることを記念しての巡回展とのこと。展示品は同社の作品のスケッチやキャラクターの立体造形、さらに同社の映像のクオリティの高さを示す映像作品も上映されている。

 ディズニーのアニメーションが手工芸の至宝だとすると、同社の映像技術はCG全盛時代の賜物である。本展でも各キャラクターが三次元データで起こされていることが示されており、そのデータに基づいて構築されている立体造形は極めて生々しい。またプロモーション的に流されていた映像作品のレベルの高さには絶句した。とにかくこの映像を見れば、人間のいい加減な視覚に立体感を感じさせるためには、偏光めがねなど必要ないと言うことを体感させられる。

 個人的にはもっとも感心したのは、展示の最後にあったゾーエトロープ。これは回転台の上に人形を配置して、台の回転とストロボの明滅をシンクロさせることで、あたかも人形が動いているかのように見せるという、アニメーションの原理を立体化したものである。しかし理屈は分かっていても、目の前でウニウニと動き回る(ようにしか見えない)キャラクターには圧倒される。正直なところ展示品があまりにマニアックに過ぎ、私には興味のないものが多かったのだが、この展示には心底感心した。 

 

「エコール・ド・パリ展−素朴と郷愁−」 2006.10/18〜12/17

 20世紀の前半、世界中からパリに芸術家達が集まってきて、そこで作り出した潮流がいわゆるエコール・ド・パリ(パリ派)と呼ばれる流れである。本展はそのエコール・ド・パリに属する画家達の作品を集めて展示している。

 エコール・ド・パリには名だたる多くの画家が属するため、エコール・ド・パリ展と銘打った展覧会はどこでもよく開催されるが、本展が異色なのはアンリ・ルソーの作品から始まっていることか。ルソーについては一般的にはあまりエコール・ド・パリの画家としては分類されないのだが、本展の観点はルソーに代表される素朴派のプリミティブアートが、エコール・ド・パリの流れを作っているというものである。その流れに乗って、アンドレ・ドラン、キスリングなどの作品に重きを置いており、モディリアーニをその流れにつながる画家として位置づけている。実際、本展展示作品の最大の目玉はモディリアーニの数点である。

 私の解釈ではエコール・ド・パリの百家争鳴の中の一つの流れに過ぎないと考えているプリミティブアートを、メインストリームとして位置づけている本展の構成には疑問を感じないでもないが、そんな細かいことは置いておいて、本展に展示されているモディリアーニやキスリングはなかなかに素晴らしい。また作品数の少ないルソーの作品を数点まとめて見られるのもなかなか貴重。この時代の絵画に対するアレルギーがないのなら、出かけてみても損はない。

 

「アルベルト・ジャコメッティ展」 2006.8/8〜10/1

 ジャコメッティは「見るがままに表現する」ということにあくまで固執し、独自の彫刻作品などを残した作家である。本展ではそのジャコメッティの絵画と彫刻の両方を展示してある。また彼と親交があり、彼の作品の多くのモデルにもなっている日本人の哲学者矢内原伊作に関連する作品や、手紙なども集めて1つのコーナーにしている。

 「見るがままに表現する」ということに強くこだわったあまり、かなりひどいスランプに陥ったことがあるというジャコメッティであるが、彼の絵画を見ていると何となくそれが分からないでもない。視覚というのは人によって微妙に傾向が変わるのだが、彼の絵画を見る限りでは彼の視覚は遠近感をかなり誇張して捉えるものであったようである。だから二次元の絵画ならともかく、その「見たまま」を立体である彫刻で再現しようとしたら物理的に破綻してしまうのは当然のように思われた。彼の「見たまま」というのはあくまで主観的なものであるので、主観と客観の対立というものだろう。その結果が端的に現れているのが、まるでカジキマグロのような人間の顔の像である。彼の人物像はだんだんと細長くなり、最後には針金人間のようになるのだが、彼の視覚特性と物理空間が折り合いをつけようとしたら、こうならざるを得なかったのではないかというのは、なんとなくだが感じられた。

 と言うように、展覧会に出かけたにもかかわらず、私は美術的見方よりも解剖学的見方になってしまったわけだが、そうならざるを得なかったのは、私的には彼の作品が面白くなかったということでもあったりするのだ。

 

「台湾の女性日本画家 生誕100年記念 陳進展」 2006.6/3〜7/23

 陳進は日本統治下の台湾の裕福な家庭で育ち、日本の女子美術学校で鏑木清方、伊藤深水らに師事した女流日本画家である。本展はその彼女の作品を集めて回顧すると共に、同時代の日本画家の作品を集めて展示したものである。

 彼女の作品については、「典型的な日本画」ということ以外にはあまり強烈な印象がない。比較的おとなしめの画風であり、取り立てて強烈な個性が感じられない。彼女は戦後、日本画と中国伝統絵画の対立の間で苦しんだとのことだが、晩年の絵画についても画題に台湾的なものが増えるが、そう大きく画風が変化したという印象はない。

 とにかく印象が薄いというのが一番強く感じられたのだが、併せて展示されていた同時代の画家達の作品を見ることで、その感覚はさらに強められた。明らかにこれらの画家の作品とよく似ており、私のような素人には特別な個性が見えないのである。結果、悪印象は抱くことはなかったが、残念ながら記憶にも全く残らないということになってしまった。

 

「アメリカ ホイットニー美術館展」 2006.4/4〜5/14

 アメリカのホイットニー美術館に収蔵されている20世紀の現代アート作品を展示したのが本展である。ウォーホルやリキテンスタインと言った定番作品を始めとして、いわゆる典型的な現代アートが展示されている。

 代表的な現代アート作品が展示されているので、現代アートに興味のある者ならそれなりに楽しめるかもしれないが、やはり現代アートに対してはかなり否定的な私の目から見れば、どうしても同じような作品ばかりに見えてしまうのは如何ともしがたい。ちなみに本展を回りながら私が発した言葉は以下のようなものである。「うーん、幼稚園の頃にこんな絵を描いたな」「これは小学校の夏休みの宿題だ。」「うわっ、便所の落書き」

 

「山田 脩二の軌跡−写真、瓦、炭…展」 2006.2/4〜3/19

 山田脩二は1970年代から80年代にかけて、都市や地方の様々な光景をとり続けた写真家である。しかし82年に瓦産地の淡路島・津井に移住し、カメラマンならぬカワラマンとしての活動を開始、さらに90年代には炭焼きを始めるなど様々な活動の変遷を遂げた人物である。本展はその山田脩二の活動の遍歴を追って、前半部分は写真の展示、後半部分は瓦や炭を中心とした創作の展示を行っている。

 前半部分の写真の展示については、写真の趣味のない私としては個々の写真の善し悪しはあまり分からず、どちらかと言えばありふれた記録写真といった印象しか受けない。ただ大小の写真を織り交ぜて広い空間に展示した構成の面白さはなかなかに目を惹く。

 後半の瓦の部屋については、正直なところホームセンターの木工コーナーのような印象を受け、そのような場所に出入りすることが頻繁である私には妙な親しみを感じずにはいられない。作品としては特別に感心するようなものはないが、木の柔らかい質感にはなんとなくホッとさせられるし、木材を組み上げた建築作品には、かつての子どもの頃の秘密基地的感覚を甦させられる。

 ちなみに私が一番興味を持った作品は、備長炭を一面に敷き詰めた「炭の間」である。シックハウス症候群に良さそうだななどと、芸術的感慨とは全く異質の感情を抱かされたのである。

 

「アムステルダム国立美術館展」 2005.10/25〜1/25

 オランダのアムステルダム国立美術館に所蔵される17世紀オランダ絵画コレクションを展示したのが本展である。レンブラントやフェルメールが目玉となっており、フェルメールの「恋文」を見ることが出来る。

 さて17世紀のオランダといえば、まさに技巧を尽くした精密絵画が全盛の頃であり、イタリアのルネサンス絵画のようなドラマチックさはないが、技術的にしっかりした作品が多い。またレンブラントの作品に見られるように、光の表現に技巧を尽くした例が多いのが印象に残る。

 フェルメールの「恋文」もなかなか面白い絵画だが、やはりフェルメールなら「画家のアトリエ」の方が印象的だった。どちらかと言えば、本展ではレンブラントの「青年期の自画像」の方が作品としては面白味を感じた。光源の位置からその光の質までうかがえるような絵画で、その逆光の表現の面白さにはなかなか魅せられる。さすがと言おうか。

 

「新シルクロード展」 2005.8/13〜10/10

 現在、NHKスペシャルで新シルクロードが放送中であるが、本展はそれとリンクした企画展である。本展では幻の都と言われている楼蘭近郊の砂漠で発見された小河墓地の出土品や、仏教国ホータンのダンダンウィリク遺跡から出土した仏教壁画など、シルクロード西域の文物及び当時の国際都市であった西安(長安)の工芸品などを見ることが出来る。

 小河墓地の出土物として乳児のミイラが展示されていたのには驚いたが、中国とヨーロッパが入り交じったシルクロード諸国の出土品はなかなかに興味深い。鮮やかな模様を織り込んだ織物などには、高い技術と共に中国の影響を受けながらも中国とは異なる文化の特徴が見られる。その一方で、いかにも唐時代の美人らしいふっくらとした俑に中国の影響が現れているなど、似て非なるが、全く異なっているわけでもないというところが妙味である。

 展示品点数自体はそれほど多いとも感じないが、各々の展示品の背景にドラマを感じるので、なかなかに楽しませられる。その辺りは番組提携企画らしい見せ方のうまさのようなものがあるようである。また松平アナのナレーションによる音声ガイドもなかなかに雰囲気を盛り上げてくれるので、本展に出かける者には是非とも利用をお勧めする。

 

「ギュスターヴ・モロー展」 2005.6/7〜7/31

 モローは19世紀のフランス象徴主義を代表する画家である。歴史画家を目指したモローは神話や聖書を題材にした絵画を描いており、そこには象徴主義に特有の強い神秘主義志向が現れている。本展ではモローの死後にそこにあった作品と共にアトリエを丸ごと美術館にした「モロー美術館」が所蔵する油彩画や水彩画などを展示している。

 本展の大きな特徴の一つは、制作過程を伝える素描などが多く展示されていることである。そのために絵画の心得のある人なら、モローの製作工程がつぶさに理解できるだろうと思われるのだが、残念ながら画才が皆無の私にはそのような技はない。それどころか、粗めのタッチでザクザクと描いていっているタイプの画家であるだけに、私にはどれが完成作でどれが未完成作かも分からないという体たらくで、かなり戸惑ったのが正直なところである。例の有名な生首が浮かんでいる「出現」などのかなり有名な作品でも分かるように、彼は画面の劇的構成にうまさを感じさせるのだが、現物を見るとその独特のタッチのせいで、個人的には興ざめしてしまう部分がかなりあった。

 下手な絵でもないし、悪い絵でもないとは思うのだが、とにかく趣味に合わないとしか言いようがなかったのが率直な感想である。どうも全体に靄がかかったように見える画面は、私には無意識にストレスを溜めるものであった。

 

「ドレスデン国立美術館展―世界の鏡」 2005.3/8〜5/22

 16世紀、ザクセン公国の首都であったドレスデンは、ポーランド国王も兼ねたアウグスト強王の元で華々しい文化都市へと変貌を遂げる。この時代の美術品や工芸品が大量に収蔵されているのがドレスデン国立美術館であり、本展はその収蔵品の一部を日本で公開したものである。

 構成として面白いのは、第一部がいきなり科学技術関連の展示になっていること、当時の国王は科学技術も芸術と同レベルの扱いで庇護したらしい。面白いのは巨大な反射鏡で、この鏡で太陽光を集め、金属を融解したり(1000度ぐらいは出せたらしい)して研究が行われたという。この研究の成果は、後にマイセンにおける磁器の生産につながったとのこと。なおここに展示されている測定機械などはあくまで道具であるにもかかわらず、それなりの装飾が施されているのが、いかにもこの時代らしい。

 第二部以降は、オスマン帝国・イタリア・フランスなど各国の美術品・工芸品や、それを模して国内で生産した品々である。ここで圧巻はアウグスト強王が身につけたというダイヤモンドの装飾品である。かつてベルサイユ宮殿に滞在したことがあり、ルイ14世を尊敬していたという彼は、そのような装飾品もルイ14世式の趣味にあわせたらしい。大粒のダイヤをふんだんに使った華麗な装飾には、目を引きつけられずにはいられない。

 絵画の方は前半はイタリアの流れを汲んだ精密な風景画が、後半はレンブラントを中心としたオランダ絵画が展示されている。ここで登場するのが本展の目玉の一つと言えるフェルメールの絵画である。この絵は永らくレンブラントの作品と言われており、この絵がフェルメールの作品であることが明らかになったことが、近年におけるフェルメール再発見につながったという。フェルメールらしい光の表現に巧みさを感じる作品であるが、今まで日本で公開されたことのある他の作品に比べると、やや地味な印象も受ける。個人的には去年に見た「画家のアトリエ」の方がインパクトは強かった。

 絵画あり、工芸品あり、果てはトルコ風の武具までありといった、良い意味での何でもありの展覧会であり、なかなかに楽しめる。週末の1日をつぶすだけの価値はあるだろう。なおこの美術館、駐車場料金がやたらに高いので、出来ることなら電車で出かけた方が費用の節約にはなるだろう。

 

「ルイ・ヴィトン 時空を超える意匠の旅」 2004.10/2〜12/25

 高級ブランドとして有名なルイ・ヴィトンは、1854年に彼がパリで開いた旅行鞄専門店から始まっている。本展はその頃からの同社の鞄類を一同に展示すると共に、時代の影響を与えたとされるアール・ヌーヴォーの工芸作品や日本の文様装飾なども合わせて展示し、独自の展示空間を作り出している。

 ヴィトン社の鞄をずらりと並べると、実用性本位の機能的な鞄から発祥していることがよく分かる。初期の同社の鞄などは、私の目から見ても「これは使ってみても良いのではないか」と感じられるものがある。ただ後年になるにつれてファッション性を意識しだしたのか、装飾過剰な傾向が現れ始めているのは個人的には気になったところ。

 なおただ単に鞄を並べているだけで1200円といったかなり高めの入場料をぼったくっているのには「さすがブランド」と妙なところで感心してしまった。個人的には「小磯良平大賞」の入場料200円の方が数倍値打ちがあるように感じられるのだが、当時の場内は満員状態で、よだれを流さんばかりに鞄に食い入っている女性の姿も多数見られた。結局のところ、私のような無粋な輩には女性の心理は永遠の謎というところか。

 

「チャイナ・ドリーム」 2004.7/24〜8/29

 清朝末期から今日の中華人民共和国の成立に至るまで、中国は西洋の文化の影響を受けつつ近代化の歴史を歩んできた。その過程において中国の庶民文化なども西洋の影響によって激変している。当展覧会は、特に海外との窓口としていち早く西洋の文化の影響を受けた広東・上海における近代美術に焦点を当てている。

 ここで言う近代美術とは、いわゆる芸術作品ではなく、西洋人向けに描かれた輸出用絵画や写真、さらには商業用のポスターなどであり、当時の庶民レベルの文化の証言者達である。

 まず清朝末期においては西洋人向けに中国の風物や夫人などを描いた絵画が輸出される。これらの作品は精巧ではあるが、明らかに西洋人の好みを意識した極めて作為的なものであり、芸術性は低い。なお後にこれらの絵画は写真に取って代わられていくことになる。

 中華民国の成立後は、資本主義化によって多くの商業ポスターが制作されるが、ここでもてはやされたのがいわゆるモダンガールである。この時代のポスターは、時代の先端を行くモダンガールがにこやかに商品を宣伝しているというパターンのものばかりであるが、よく考えると同様のポスターはかつての日本においても大量にあったものであり、漢字が用いられていなかったら、日本のものと区別がつかないのではないかと思われる。

 次に中国が社会主義化すると共に、かつてのモダンガールは農村における勤労夫人に変身し、社会主義スローガンを掲げるものに一変する。かつての自由な雰囲気はなくなるが、それでもなるべく明るい印象を保つように配慮されているのはポスターからも見て取れる。

 いわゆる大衆文化に根ざした展示であるので、堅苦しさがなく、肩の力を抜いて楽しめる内容である。西洋人はいわゆる異国趣味に魅入られたのだろうが日本人にとっては「どこかで見たことがある」という印象が非常に強く、外国の作品という気はあまりしなかった。中国云々というだけでなく、日本の過去に対しても思いを馳せてみても良いかもしれない。

 

「東山魁夷展」 2004.4/3〜5/23

 東山魁夷氏の作品を初期(画学生の頃)から晩期まで一堂に集めており、この展覧会を一覧するだけで氏の画風の変遷をたどることが出来る。

 初期の氏の画風は極めて写実的で奥行き感のハッキリした絵である。そこには卓越した技術は感じるが、確かに精神的深みはまだない。しかし氏の出世作と言える「道」あたりから、作品に写実性よりも幻想性が現れてくる。この頃から氏の描く風景は現実の風景に触発された精神世界の光景となってくる。それと共に画風も単純化されてデザイン的な表現になってくる。

 氏の代表作である北欧のシリーズでは、モノトーンの中に北欧の空気を表現するという西洋絵画に日本の水墨画の感覚を取り入れた作品となっており、この世界は特に日本人には強烈にアピールするものである。

 また圧巻の一つは会場に再現された唐招提寺の障壁画。これには私は思わず息を呑んでしまったものである。

 氏の作品については「日本人に好まれそうな題材を綺麗に描いただけで、作品世界の深みがない」という批判もあるようであるが、確かに氏の作品は卓越した技術に裏打ちされた美しさがあるが、ただの綺麗だけという絵ではないことは実際の作品を目にすれば感じられることである。一見の価値があった。

 

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