山陰編

 

 先週の週末は、泊まりがけで山陰地方の美術館を一回りしてきたので報告する。ルートは山陽新幹線から岡山駅で特急やくもに乗り換え、伯備線経由で島根に至るという極めてオーソドックスなものである。例によって旅費の欠乏に苦しむ私は、なんとか安上がりなルートがないかと事前調査に悪戦苦闘したのだったが適当な方法はなく、結局は極めてオーソドックスなルートになってしまった。

 

 当日は岡山始発のやくもに乗車する。当初の予定では2本目のやくもに乗車して、11時に安来に到着する予定だったのだが、週末の降雪状況をギリギリまで調査していた私は、宿泊予約を入れるのは3日前、チケットの予約に至っては2日前という状況だったせいで、計画していたやくもの指定席券の入手に失敗してしまったのだった。その結果、指定席を取れたのは始発のやくもということで早朝の出発を余儀なくされてしまったのだ。自由席を使用することも考えたが、振り子列車の中で立っていく危険を冒す気は起こらなかった。「石橋を叩いても渡らない」というのが行動原理に私としては、これは最大限の安全策だった。

 幸いにして電車酔いもなく、私は前日の睡眠不足もあって爆睡したまま島根に到着した。週末は暖かくなるとの予報通り、島根は小雨模様ではあったが、雪は降っていなかった。とりあえず胸をなで下ろしながら安来駅に降り立つ。ここで30分、美術館からの無料送迎バスを待つ。

典型的な田舎の駅という安来駅

 

 足立美術館へは送迎バスできっかり20分、山の中の静かなところであるがつい最近隣に安来節演芸館なるものがオープンしたとかで、にわかに土産物屋などが増えて、少々落ち着きがなくなりつつあるのが懸念されるところ。なお足立美術館は地元の財界人である足立全康が設立したもので、横山大観コレクションと、アメリカの日本庭園ランキングで3年連続1位に輝いたという庭園を誇る。庭園についてはカメラ撮影可であるので、早速私は最近購入したKISSデジタルのテストにいそしんだのである。

足立美術館はすばらしい日本庭園を持っている


「橋本関雪展」足立美術館

 明治末から昭和にかけて活躍した日本画家橋本関雪は、当初は京都画壇の四条派に属するが、やがてそれと決別、新南画と呼ばれる独自の画風を確立するに至った画家であるという。彼の作品は動物を主題にしたものが多いが、本展でも猿・犬・鳥など様々な動物を描いた作品を見ることが出来る。

 動物における描写のうまさと精密さは、明らかに彼が四条派の流れを汲む画家であったことを感じさせるが、時代を追うに連れて、単なる描写の域を超えて動物に託した精神性のようなものが垣間見えてくるようになる。例えば一連の夕顔に動物を配したシリーズなどは、描写の精密さではむしろ初期の作品よりも劣って見えるのに、画面全体に漂う張りつめた緊張感のようなものには、息をのまされる。何らかの意味をその画面に込めているように感じられるのであるが、残念ながら浅学なる私にはその意味までは理解できなかったが。


 足立美術館では特別展示以外にも、竹内栖鳳や川端龍子の絵画の展示などもあるし、また売りである横山大観常設展示も行われている。なお地元出身の河井寛次郎の陶器や、北大路魯山人の展示室などもあり、非常に見応えのある展示物が多い。入館料は2200円とやや高めであるが、決して損をしたとは感じさせない充実した内容である。

 足立美出館を出たのは昼頃、前のそば屋で出雲そばを食べてから、無料バスで安来駅に移動、次なる目的地の松江に向かう。アクアライナーなるワンマンのローカル快速が旅情を誘う。

 松江に到着後はバスでの移動となる。まず向かったのは松江城の北堀地域、ここで田部美術館、武家屋敷、小泉八雲記念館、北堀美術館などを見学する。


田部美術館

 松江藩第7代藩主松平出羽守治郷は茶道を究めた人物であり、江戸後期の大名茶人・石州流不昧派の祖として知られているとのこと。松江ではその影響で茶道が盛んであり、この美術館は不昧公ゆかりの茶道具などを展示している。

 茶の湯のわびさびなどを解する風流人ではない私にとっては、不昧公の茶道具と言われても猫に小判状態である。いくら茶さじの名品を見せられたところで、単なる竹ヘラにしか見えない体たらく。ただそれでも黒茶碗の質感のすばらしさには魅入られるものがあった。わびさびの情緒を解する高尚な風流人を自認する者なら訪問する価値はあるのだろう。


松江北堀美術館

 エミール・ガレはアール・ヌーヴォーの時代を代表するガラス工芸品でよく知られているが、実際は彼の工房はガラス製品だけでなく、陶芸品も多く制作していた。この美術館はガレの陶芸作品を中心に展示している。

 先ほどの渋くて重々しい日本の陶芸に比べると、ガレの陶芸はなんと奇抜で軽妙なことだろうか。ガレのお得意のトンボをモチーフにした作品などもありガレワールド全開である。またミュシャのポスターなども展示してあり、館内はアール・ヌーヴォーの空気がプンプンしている。美術館としては小規模だがこの雰囲気を楽しめる者なら訪れる価値はあるだろう。


 北堀地域をウロウロした後は、松江城へと向かう。松江城は400年前の城がそのまま残っているとのことで、鉄筋コンクリート製のインチキな城ではなく、正真正銘の木造の本物である。黒を基調とした外観に落ち着いた風格を感じさせる。ただ本物の城ということは、当然ながらエレベータなどの親切な設備はついていないということで、天守閣に登るには狭くて急な階段を登り降りする必要がある。これが荷物を抱えている状態では、特に下りは恐怖を感じるぐらいであった。足腰が弱ってからではとてもここを登ることは不可能なので松江城は若いうちに訪れておくべき場所だろう(笑)。

これぞ本物の城という趣のある松江城

 

 松江城を見学した後は、タクシーで宍道湖大橋を渡り、島根県立美術館へと移動する。宍道湖のすぐ脇に立地するこの美術館は、最大の売りの一つが宍道湖に沈む夕日なのであるが、残念ながら悪天候のために夕日を見ることは出来なかった。


「スイス・スピリッツ―山に魅せられた画家たち」島根県立美術館

 スイスと言えばやはりアルプスの山々を連想するが、本展はこのアルプスに触発された作品を取り上げて、18世紀から現代に至るスイス美術を紹介しようというものである。

 山岳絵画はまずヴォルフに始まるとのことだが、彼の絵画自体は非常に古典的なものであり、芸術作品と言うよりも科学的記録のような趣がある。やはり芸術性が正面に出てくるのは20世紀初頭のセガンティーニ以降であろう。本展の目玉がこのセガンティーニの作品であるのだが、印象派の点描技法を独自に発達させた光学分割の技法で描かれた光のきらめく画面には思わず唸らされた。正直なところ、これを見るためだけでも島根くんだりまで出てきた価値があるというものである。

 もっともセガンティーニ作品は、実は本展の最大の目玉であると言うよりは唯一の目玉といったのが実態である。これ以降の作品はマティスを連想させるようなフォービズムの作品なども登場するが、あまりオリジナリティを感じさせるものはない。ましてや現代アートのセッションに至ると、お決まりの一発ネタだけに頼ったかくし芸レベル作品のオンパレードで、残念ながら面白味は感じられなかった。


 県立美術館を後にした時には既に夕暮れ時となっていた。私はバスを乗り継いで今夜の宿に向かうことにした。旅費を最大限節約することを至上課題にしている私の遠征では、使用するのは当然ながらビジネスホテルである。しかし今回のビジネスホテル、宿泊料は5000円以下と格安なのに、これで朝食と温泉つきというありがたいホテルである。宿に着いた私は早速温泉へと繰り出し、ゆったりと身体の疲れを癒しながら、行楽気分に浸るのだった。やっぱり日本人にとって風呂は重要だと痛感する次第。これが窮屈なユニットバスでわびしくシャワーでも浴びるのだと、こういったくつろいだ心境にはなれないだろう。

 

 翌朝、ホテルの窓を開けた私は絶句した。辺りは真っ白な別世界になってしまっていた。今回の遠征では当初の計画よりも早い時間のやくもを利用したことで、こちらに到着してからの時間に余裕があったため、当初の予定では2日目に回る予定だったところも昨日のうちに回ってしまっていた。そこで今日は出雲あたりまで遠征しようと昨晩計画を練っていたのだが、そんなプランはこの天候で見事に吹っ飛んでしまった。万一帰りの電車が止まってしまえば帰られなくなるとの不安が頭をもたげる。「すみません、島根から帰られなくなりました」なんて情けない電話を明日会社にかけることになんてなりたくない私は、瞬時にすべての予定を中止することを決断し、早急に撤退することにしたのであった。

窓の外はいきなり真っ白       帰りの駅と特急やくも

 

補足

 世間では島根は美人の産地などと言われているが、確かに今回の遠征ではそれを感じさせられることが多かった。美術館の窓口でも、移動の列車の中でも思わず目を奪われる美女が数人はいた。島根、侮りがたし。

 

戻る