展覧会遠征 瀬戸内編2

 

 この週末は岡山方面に繰り出すこととした。目的地は牛窓。以前にここの美術館を訪問した際、なかなか風情のある町並みがあることには気づいていたが、十分な時間がなかったことと車を置く場所がなかったことから十分な見学をしていなかった。そこで今回、改めて近所の美術館を訪問すると共に町並みの見学をしようと考えた次第。

 

 山陽自動車道を備前ICで降りるとブルーライン。しかしここでいきなり本線上でUターンしている大型バン(当然のように両車線を塞いで)を発見。岡山のドライバーが無茶をするのは有名すぎるが、それにしても命知らずな・・・。

 

 途中の道の駅で昼食に穴子重を食ってから、県道225号に出て牛窓に向かう。

 美術館は瀬戸内市役所の牛窓支所の4階。ここを訪れるのも1年以上ぶりである。今回の出し物は人気があるのか、結構大勢の観客がやってきている。

 


「生誕100年 緑川洋一展」 瀬戸内市立美術館で3/1まで

  

 地元出身の写真家・緑川洋一の展覧会。

 写真家には2つのタイプがあり、1つは植田正治のような芸術性優先で仕掛けのある仕込み写真、もう1つは土門拳などのリアリティを追求するタイプであり、緑川はその前者のタイプである。彼によると写真は引き算であり、まずは望遠レンズを使用して余計なものをフレームアウトする。さらに逆光で闇の中に消し去る。さらには特殊撮影で排除するというようなことも行うようである。

 彼の作品は煌めくような色彩のものが多く、これらの色彩はフィルターなども活用した意図的なものである。つまりは絵画的に設計された写真と言うことで、作品のインパクトは強い。

 なお彼はあらゆるテクニックを駆使してこのような画面を作成したのだが、現在ではそのようなテクニックを弄しなくても、デジタルカメラとフォトショップで大抵のことは出来る。彼はそのような時代が本格的に来る前の21世紀元年に没したのであるが、今日に生きていたら恐らくフォトショップを使用することに抵抗を示さなかったのではないかと思われてならない。


 写真とはドキュメンタリーで記録であると考えている私とは対極の立場の写真家の作品展だったが、それでも作品自体は確かに面白いものが多かった。ただここまで作為的だと、あえてこれを写真で行う必要があるのかというところには若干の疑問がある。

 

 美術館の見学を終えると牛窓の町並みの見学に移る。前回の反省から今回は車を置く場所は既に調査済みである。観光案内所の近くの無料駐車場に車を置く。

 

 牛窓は昔から瀬戸内航路での風待港として栄えており、江戸時代には朝鮮通信使が寄港する港でもあったという。現在ではかつての交通の要衝としての価値はなくなっているが、かつての面影を遺す町並みが現存するという。

 対岸の前島との間には今でもフェリーが行き交う

 牛窓の町並みは狭い道路に沿って海沿いに広がっている。建物は新しいものも多いが一部にはかつてを偲ばせるような建物もある。また港町でもいわゆる漁師町とは違って商家町の色彩が強い。実際にかつては貿易で財をなした豪商もいたようだ。ただ流通経路が完全に変化した現在では、町並みからはかつての繁栄の面影はうかがいにくい。

町並み全体にレトロ感が強い

その一方で表通りには巨大ホテルもあり、ギャップが激しい

 住宅は海の際に建っているが、背後にはすぐに山が迫っていて大抵そこには寺社や祠などがある。瀬戸内沿岸に津波が頻繁にあるとも思えないが、これらの寺院はもしもの時の避難場所も兼ねているのだろう。

山上の本蓮寺には絵になる三重の塔がある

背後の高台から町並みを見下ろす

 町並みを一回りし終えたところで旧警察署だったという海遊文化館を覗く。ここには秋の祭で使用される舟形の山車が展示されている。かつては牛窓ではさかんに和船が製造されており、その船大工の技術を生かして船型の山車が製造されたとのこと。しかし今では和船の需要もなくなったために船大工も高齢化が進み、これらの造船技術も絶える寸前であるとか。いずこの地方でもよくある構図である。単に「時代に必要でなくなった技術」と考えるなら消滅もやむなしだが、これを「地域に根ざした文化」と考えるならむざむざ消滅させるのは惜しいし害もある。牛窓でも後世に記録だけでも残そうと、新たに和船を3隻建造してその製造工程を映像記録に残したらしい。

元警察署の建物を使った海遊文化館には船型山車が展示されている

 海遊文化館の展示は山車以外では朝鮮通信使に関するものが展示されている。江戸時代を通じて朝鮮通信使は12回来日しており、風待港である牛窓にも上陸して岡山藩が接待したらしい。広島の鞆の浦と同じような位置づけである。

 朝鮮通信使の服装

 牛窓の見学を終えたところで次はリハビリの山城。この近くの山城と言うことで「砥石城」を訪問することにした。砥石城は宇喜多氏ゆかりの山城で、築城は浦上村宗の家臣宇喜多能家によって1520年代とのこと。しかし1534年に高取城主島村豊後守の夜討ちによって能家は自害して落城、砥石城は浮田大和守に与えられる。1547年には能家の孫である宇喜多直家が主君である浦上宗景の軍勢と共に浮田大和守を攻め落とし、直家の舎弟の浮田春家を砥石城の城主に任じる。その後、直家は主君である浦上氏を倒して戦国大名として自立、春家は亀山城に移り砥石城は部将に守らせたが、直家が備前を押さえたことで戦略的価値がなくなり、その内に廃城になったようである。

 砥石城遠景

 砥石城は尾根筋に存在するが、登山道としては複数存在しているという。私はこの中で本丸への最短ルートと言われる最も北側の先端にある登山道から登った。最初は急な道を登って墓地に出て、そこの先から本格的な山道になる。恐らくここが元々の大手筋だろう。

左 登山口  中央 墓地を抜けるとこういう山道  右 鬱蒼としすぎて曲輪は分からない

 本丸の北側には複数の曲輪があるとのことだが、鬱蒼としていて残念ながら構造がよく分からない。山上の本丸までは10分程度で到着するのだが、情けないことに今の私はこの程度でも息が上がってしまう。

 本丸

 本丸はそう広いものではない。比較的新しい瓦が散乱し、やけに綺麗な石垣が存在するが、これらは遺構ではなくて近年に神社が建設されたためらしい(ただし今では土台らしきものしか残っていないが)。西側を広く見渡すことが出来、この辺りを睨む要地であるのは分かるが、曲輪の規模から考えると大軍勢を置けるような城郭ではない。浦上氏の重臣の居城としては規模が小さすぎ、そもそもは番城だったのがそのまま能家の隠居所になったのだろうか。

左 砥石城見取り図  中央 真新しい瓦  右 この石垣は後世の改変だろう

 なお西側に別の尾根が見えるが、高取城はその尾根の上だとも、その向こうの山上だとも異説があるようだ。ただ向こうの尾根上だといくらなんでも近すぎるような気がする。弓矢や鉄砲でも届きそうに感じるような距離である。現地案内看板には「出丸」という表現がされているが、その方が正しいように思われる。

 その手前の尾根だとあまりに近すぎる

 南側に降りたところに出曲輪があるらしいが、そこまで降りていくのも面倒な上に、先ほどから雪がぱらつき始めたのでさっさと下山することにする。

 この先が出曲輪だろう

 砥石城の見学を終えた後は次の目的地へ。次は備前福岡。かつて宿場町として栄え、今もその面影をとどめていると言われる町である。なおここは黒田官兵衛の曾祖父である黒田高政が住んでいたとのことで、最近は大河絡みで盛り上がったらしい。なお高政の墓は今でもここの妙興寺にある。なお黒田官兵衛は筑前に移った際、この自身のゆかりの地である福岡の名にちなんで地名を改めている。しかしこれが「博多」っ子のプライドを逆なでして、未だに黒田官兵衛が福岡で人気が今ひとつの原因だとか。

 駐車場もある

 備前福岡も牛窓と同様に今では普通の家も多いが、その合間にかつての面影をとどめる住宅も複数残っている。また整然とした町並みはかつての宿場町としての町割の名残だとか。今でも黒田官兵衛絡みの旗差しが残っており、昨年の大河ではかなり盛り上げようとしたことが覗える。

 町並みを一回りしたら、市街の中にある妙興寺を見学する。ここには黒田高政の墓所と宇喜多直家の父・宇喜多興家の墓所がある。なかなかに立派な寺院である。

左 宇喜多興家墓所  右 黒田高政墓所

 なおここの河川敷には14世紀初めに築城されたという「福岡城跡」がある。中世においては吉井川沿いに市場が発展して城下は賑わっており、赤松氏と山名氏の間で福岡城の支配を巡って攻防が度々行われたという。福岡城は吉井川の中州に築かれていた水城だったようだが、その後に洪水で吉井川の流路が変わったりしたため、現在は本丸跡と呼ばれる小さな丘がゴルフコースになっている河川敷の奥にひっそりと一つ残っているだけである。なお現在丘の上は稲荷社になっている。

左 この丘が本丸跡  中央 城跡碑もある  右 今では稲荷社となっている

 備前福岡の見学後はやはり汗を流してから帰りたい。そういうわけで近くの長船温泉を訪問する。長船温泉とはおさふねサービスエリアにある温泉である。なおサービスエリアと名乗ってはいるが、高速道路ではなく国道2号線沿いの施設で、要するに「道の駅」である。1階はレストランと売店、2階には宴会場などがあってその奥が浴場となっている。

 泉質はアルカリ性の冷鉱泉らしい。イオンから見るとナトリウム塩化物泉だが、そう塩気が強い感じではなく、かすかなヌルヌル感がある。施設は内風呂だけのシンプルなものだが、高齢者を中心に結構大勢の入浴客が来ている。近場の銭湯という感覚なんだろう。

 

 さっぱりと汗を流したところで、下のレストランで牡蠣フライの単品(今は白米は食べ過ぎないように気をつける必要がある身である)を頂いてから帰宅と相成った。

 先週、先々週に続いてリハビリ第3弾というところだが、今までの中では一番楽勝な登山だったはずなのだが、情けないことに途中で明らかに息切れとスタミナ切れが発生した。これは体力の完全回復には思いの他の時間がかかりそうである。と言うか、寝込んで体力が落ちたのでなくて、もしかして単純に年齢で衰えただけなのか?

 

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