展覧会遠征 大山・広島編

 

 8月も最終週である。学生などは宿題が気になる頃だろうが、社会人にとっては長期の夏休みはない代わりに宿題もない・・・はずなのだが、どうもここのところ仕事の上での宿題が多すぎてストレス満杯である。

 

 さてこの週末だが、広島に出向こうと考えた。ひろしま美術館で版画展があるというのでそれを見学しようかと考えたのが第一。尾道市立美術館で気仙沼のリアスアーク美術館の東日本大震災関連の写真展があると聞いたのが第二。ただこれだけだとわざわざ出かけていくというほどでもないので、行きがけの駄賃代わりに最近重伝健に指定された所子を見学しようかと考えた。

 

 しかし所子まで出向くとなると、さすがに広島に行くついでというにはいささか遠い。となると近くで宿泊したいところ・・・と考えたところで、今まで訪問したことがない湯原温泉に行ってみたいという気持ちがムラムラと湧き上がってきた。しかし温泉で宿泊となると土曜日はまずは妥当な価格で一人宿泊をするのは絶望的と考えても良い。となると必然的に湯原温泉宿泊は金曜の夜・・・ということで諸々を勘案した結果、金曜日の午後休みを取得し、その日のうちに所子を訪問してから湯原温泉で宿泊、翌日に広島に向かって広島で宿泊というところで計画がまとまった。

 

 金曜日の午前の仕事を終えると中国道と米子道をのりついで所子をめざす。所子は米子ICから山陰道に乗り換え、大山で降りたすぐのところにある。所子は最近になって重伝建指定された地区であり、鳥取県では倉吉に続いて2ヶ所目になる。所子は純然たる農村集落であり、普通の農村が重伝建指定されるのは初めてだとか。

 

 最初は集落南端にある美甘家住宅を見学する。ここは立派な庭園を有する住宅だが、家人(17代目御当主だそうな)の話によると富士山から運んだ溶岩を使用しているらしい。普通の日本庭園にしてはやけにワイルドだと感じたのだが、溶岩と聞いて納得。なお美甘家は元々はこの辺りのほとんどの土地を有していた大地主だったので、富士山から溶岩を運んでくるような財力があったようだ。

左 美甘家住宅  右 富士溶岩を用いた野趣溢れる日本庭園

 美甘家の駐車場に車を置かせてもらって集落の見学をする。いかにも農家の町並みだが、一軒ごとが非常に大きい。また主屋の手前に通りに面して物置小屋のような建物を建てて、そこに入り口をつけた長屋門形式の住宅が多いのが印象的。その上に基本的に板塀で囲われているので、一般的にイメージする開放的な普通の農家と違って守備力が高そうな印象を受ける。

美甘家住宅のあるカミ地区

門脇家住宅のあるシモ地区

 集落の中心が門脇家住宅。他の家屋は今は瓦葺きになっているが、ここだけは未だに茅葺きで残っている。現在は12代目の御当主が居住中とか。なおこの門脇家の周囲には、東門脇家と南門脇家があり、この集落は門脇一族が有していたということか。

茅葺きの門脇家住宅

 農村集落なのだが、板塀に長屋門でしっかりと囲った住宅が多いために、まるで武家屋敷街のような雰囲気もある独特の町並みであった。この辺りが重伝健に選ばれた理由か。なお美甘家御当主の話によると、重伝健に指定されたということで、現在は諸々の整備中とのこと。もしかしたら数年後にはもう少し観光地化しているかも。ただ観光地化しすぎて風情をなくすようなことにはならないで欲しい。

左 周辺は田んぼだ  右 集落はずれの賀茂神社

 所子集落の見学を終えた頃には夕方近くになっていた。今日の宿泊地を目指して米子道を戻る。今日は湯原温泉に宿泊するつもりである。湯原ICで米子道を降りると国道313号を北上、途中で湯原温泉の看板があるのでそちらに降りる。

 

 湯原温泉は川のほとりに広がる温泉郷。鄙びたというよりも、寂れたと言った方が良いような雰囲気がある。宿泊ホテルは湯原国際観光ホテル菊之湯。湯原温泉では大手になるホテルである。川原の駐車場に車を止めるとチェックイン。

 部屋は川の見えるなかなか良い部屋。なお私の宿泊プランは平日用の夕食なしビジネスプラン(別名貧乏人プラン)であるので、部屋には既に布団が敷いてある。ただこの方がいきなりくつろげて具合がよい。

 

 部屋に荷物を置くとまずは入浴。このホテルには屋上露天風呂に内風呂が2つあるが、この時間は屋上の露天風呂と内湯は錦繍の湯が入浴可能。露天風呂は屋上で展望露天風呂となっているが、周囲の壁が結構高いのでダムの上ぐらいしか見えない。錦繍の湯は陶板画で飾った浴場。どうやら元は女湯だったらしいが、昨今の男女平等にあわせて入れ替え制になったようだ。泉質はアルカリ単純泉。ヌルヌル感はそう強くなくあっさりした湯。

錦繍の湯

入浴を済ませると町並み見学及び夕食に繰り出す。最初は共同浴場の砂湯の場所を確認しておく。今の時間は結構大勢入浴している模様。とりあえずここを訪れるのは後にする。

共同浴場の砂湯

 湯原温泉の町並みはやはりどことなく寂れているのを否定できない。今一つ活気に欠けるようである。古手の温泉街には現在はこういう状況になっているところが少なくない。

左 湯原温泉街  中央・右 「千と千尋」のモデルの一つになった油屋

左 足湯もある  中央 共同浴場の交流センター  右 湯原温泉遠景

 町を一回りしたところで夕食にすることにする。入店したのは「居酒屋やっこ」。境港から直送したという「白いかの定食(1200円)」を頼む。

  

 いかの刺身は確かにうまい。また添えてある豆腐も良い。ただおすましについては・・・永谷園?

 

 夕食を終えると駐車場から車を出して近くのセブン−イレブンに買い出しに。とりあえず夜のおやつと飲み物を買い込む。

 

 ホテルにいったん戻ると砂湯に繰り出すことにする。砂湯は川原にある混浴の共同浴場である。湯は足下から湧いているらしい。開放感抜群だが、丸見えでもあるのでタオル及び湯浴み着可と言っても女性は入りにくかろう。またこれ見よがしに露出しているおっさんもいるみたいだし。なお私の訪問時は夜の7時というちょうど夕食時のせいか入浴客はほとんどいない。

 

 脱衣所にはかごがあるだけでロッカーなどはないので盗難に注意。実際に盗難事件は決して少なくはなく、車で来た者などは車のキーが盗まれて車内が荒らされるという被害が多いらしい。最近のキーは遠隔操作になっているので、勝手に車の場所を教えてくれるのでこの手の泥棒には好都合だという。私は荷物はすべてホテルに置いてタオルだけ持って来ている。そもそもこの手の共同浴場は本来は地元民のためのものである。

 

 浴槽があるのは川原なので石がゴロゴロしていて歩きにくい。しかも薄暗くなってきているところにメガネを外しているので足下が見えないから危なくて仕方ない。しまった!この状態だともし向かいに絶世の美女が入浴してきても何も見えない・・・。

 

 浴槽は3つほどあり、湯温が異なる。一番下にある美人の湯はかなりヌル湯で、一番上にある長寿の湯は一番高温(とは言っても熱湯というわけではない)。今の時期は美人の湯でゆっくり長湯できるが、冬になるとつらそうである。なお浴槽の底が砂利なので、体重が過剰の私の場合は足が痛くて長湯不可。結局は早々に出てくることになってしまった。

 

 地元の有志によって管理されている共同浴場だが、近年はマナーの低下にも困っているらしい。掛かり湯もろくにせずにいきなり上手からドボンと飛び込む輩とかもいるとか。また盗難の問題やのぞきのためにやってきている出歯亀野郎もいるらしい。なおこういう出刃亀野郎のことを、湯に潜んで女性客を待ち伏せる習性からワニと呼ぶらしい。日本人の劣化も著しい。

 

 ホテルに戻ってくると内風呂の神庭の湯に入浴。ここが元々は男性浴場でいわゆる大浴場のようだ。大きな浴槽にはその名の通り神庭の滝をイメージしたと思われる人工滝がある。これで3カ所の浴場すべてに入浴したことになるが、源泉はいずれも同じはずだが、錦繍の湯が微妙に泉質が良いように感じられた。湯の投入率の違いだろうか? あそこが一番派手にオーバーフローしていたように見えたが。

 

 風呂から上がるとこの原稿を打ったり、テレビで放送中のEva劇場版を見たり。それにしてもこの展開からどうやって第3作につながるんだ? シンジの性格はまた逆戻りしちゃってるし、状況もあまりにつながってないし・・・。あまりの唐突な展開に第3作を劇場で見た時にキョトンとした記憶があるが、こうやって改めて第2作を見てみるとやはりつながりが悪い。ストーリーのつながりもさることながらキャラクターの連続性がない。4作で完結とのことだが、また最後で破綻しそうな嫌な予感がある。なんせ庵野秀明という人物は、作品のディテールには特異な才を発揮するが、こと作品をまとめきるという点では失敗が多いだけに。

 

 Evaが終わったら瀧本美織がヴェネチア映画祭で云々という番組を放送していたので、「あれ?この娘って何かメジャーな映画に出たっけ?」と思っていたら「風立ちぬ」だった。うーん、女優・瀧本美織って強調してたけど、これだと声優・瀧本美織だよな・・・。

 

 そろそろ夜も遅いので明日に備えて寝ることにする。何やら足がだるくて太股が張っている。おかしいな、今日はほとんど歩いていないはずなのにと思っていたら、翌日確認したら1万1千歩歩いていた。所子と湯原で気づかぬうちに結構歩いていたらしい。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時半に目覚める。とりあえず朝風呂で目を覚ますと朝食へ。朝食は普通の和定食だがなかなかうまい。私ももう少し金があったらここで夕食も摂りたかったのだが・・・。

  

 チェックアウトしたのは8時過ぎ。さて今日の予定であるが、まずは新庄に向かうことにする。新庄は出雲街道の宿場町として栄え、今でも往時の面影が町並みに残っているという。新庄までは県道55号を通って40分程度。県道55号は起伏はあるが、道幅は十分の走りやすい道である。新庄に到着すると、出雲街道沿いの道の駅に車を置いて、対岸の宿場町の見学に向かう。

 道の駅

 大山の南に位置する新庄は出雲街道の宿場町として繁栄した。現在でも本陣跡などが残っており、往年の繁栄の面影をとどめてはいるものの、今日では完全に普通の住宅地となっている。ただ、今では普通の住宅となっている家の表に「○○屋」という看板が残っており、これらの住宅はかつては旅籠だったのだろうと推測される。

左 風情のある町並み  中央 脇本陣  右 こちらは本陣

左・中央 路地にも風情あり  右 水路に鯉を飼っている

 また住宅の前には水路が引かれており、そこでは鯉が飼われている。これはかつての生活用水だろう。近江八幡などにも同じ構造があるが、鯉は残飯などをさらえてくれて水路の水質を保つことに貢献しているのである。なお今では静かな住宅地となっている新庄だが、街路の両脇に植えられたがいせん桜は有名で、桜のシーズンには多くの観光客で賑わうという。

がいせん桜の町並み

 メルヘンの里なる道の駅といい、妙にメルヘンな村役場の建物といい、観光立地を目指しいるのだろうことは分かるのだが、その割には妙にツボを外しているような気配が・・・。変にメルヘンを持ち出さなくても、単に旧宿場町でも良いように思うのだが、なかなか難しいところである。ちなみに新庄村は「日本で最も美しい村」連合にも加盟している。

 これが村役場

 さて新庄村の次の予定だが、実は昨日まで全く考えていなかった(笑)。そもそも当初にプランを立てた時には、今日は所子を訪問するつもりだったのである。それが諸々で予定が完全変更になったので結構バタバタとしている。そんな中で訪問を思いついたのは新見の西にある鍾乳洞の白雲洞。そこで調べていたところ、そもそもこの辺りは帝釈峡と呼ばれる渓谷であるということが分かった次第。それならついでに渓谷見学してやろうと考えついた。

 

 目的地を帝釈峡に指定してカーナビに従って進めば、途中でとんでもない山道に誘導される。一応この道は県道58号線とのことだが、あからさまにいわゆる険道である。こんなところを通り抜けるのはごめんなので、途中で引き返して国道181号から県道84号に抜けるルートで目指すことにする。結果としてはこれで正解だった。対面二車線が時折1.5車線になってしまう県道84号でも、先ほどの58号線と比べるとハイウェイみたいなものである。ちなみに帰宅後に岡山県道58号を調べるとウィキにさえ「国道181号以南は未改良区間が多く、大型車の通行も出来ないため、真庭市蒜山地域から真庭市北房地域間の国道313号の代替ルートとしては、推奨できない。」と明記してあった。どうやら結構有名な険道らしい。

左 険道58号線  右 県道84号線狭隘区間

 長い山道を抜けるとようやく中国道が見えてくる。とりあえずガソリンを満タンにしてから北房ICから東城ICまで突っ走る。中国道は起伏とカーブが多いので結構走りにくい道路である。救いは山陽道よりも車が少ないこと。

 

 東城ICで中国道を降りるとそこからは山に向かって走行することになる。ちなみに帝釈峡は北部の渓谷地域と南部のダム湖地域に分かれており、それぞれに駐車場があるようだ。この間を車で移動も出来るようだが、どうも道はあまり良くなさそうであるし、恐らくそれぞれで駐車料金を取られることになろう。なお北部地域から南部地域に徒歩で移動する自然歩道もあるようだが、ザクッと片道で2時間程度かかるようなので、ハイキングが目的でない私としてはそんなに歩く気はないし、そもそも片道だけでなくて車を取りに戻る必要があることを考えると「無理」の一言。昔は自転車で移動できたが、今はその通路は落石で通行不可で、先の自然歩道は急峻で自転車の通行が出来ないルートだとか。なおこれらの両区間を迂回しながらつなぐシャトルバスもあるようだが、運行は秋の紅葉シーズンだけの模様。

 

 結局はダム湖を遊覧船で周遊しても仕方なかろうという考えで、鍾乳洞のある北部帝釈峡に向かうことにする。帝釈峡入口手前にある観光駐車場に車を置いて徒歩で渓谷観光に向かう。

帝釈峡

 なかなかの清流の急流である。周辺は石灰岩なのかかなり浸食地形が見られる。少し歩くと白雲洞につくが、立ち寄るのは帰路にすることにして先を進むと、鬼の唐門なる巌門が存在するが、これはそもそもは鍾乳洞だったものが崩落によってその入口だけが残ったものだとか。なおこの近くには鬼の供養塔なる地面から突き立った巨岩も見ることが出来る。

左 鬼の唐門  右 鬼の供養塔

 さらに進んだ先にある雄橋がこの上帝釈のメインステージとも言うべきスポット。巨大な岩盤が渓流によって浸食されて出来た天然橋で、スイスのプレビッシュトアー、アメリカのナチュラルブリッジと並んで世界三大天然橋とのことなのだが、これが本当に世界的に認められているのかは定かではない(例によって勝手に言っているだけという気もしないでもない)。ただ世界三大かどうかはともかくとして、圧倒させるような雰囲気があるのは事実で、地元では信仰の対象でもあったというのも頷ける。本来の宗教とはこのような自然に対する畏怖に基づいたものが多いのだが、それをいろいろな野心家が個人に対する崇拝に結びつけた頃から宗教がどんどんと不純になり、人類にとっても害悪となってしまった。

さらに帝釈峡を下っていく

雄橋

 雄橋の見学を終えたところで引き返す。この先には雌橋もあったらしいが、今では道路の崩落で到達が不可能とのこと。勿体ない話である。引き返してくるとと白雲洞に入洞。

白雲洞に入洞

 白雲洞はさして長い洞窟ではない。入口は狭いが内部は広い空間になっている。ただ鍾乳石の発達はそれほどでもない。

 これで帝釈峡の見学は終了。とりあえず駐車場脇の土産物屋でそばを昼食に食べる。典型的な観光地食堂。

 軽く腹を満たしたところで広島まで長距離ドライブとなる。今回の目的地の一つであるひろしま美術館を訪問。ただしこの美術館、とにかく駐車場が狭いのが難点。結局は駐車場が満車で空きがなく、近くの市営駐車場に止めることになったので駐車場代が余計な出費。

 


「東広島市立美術館所蔵 版−技と美の世界−」ひろしま美術館で8/31まで

  

 東広島市立美術館が誇る日本近現代版画コレクションから、多様な版画作品を展示。

 版画はそもそもは大量出版のために開発された技術で、欧米の銅版画は出版物の挿絵などのための技術、日本の木版画はカラー作品の量産のためという側面が強かった。しかし写真製版技術などの登場によって、今日では版画の初期の目的は失われており、いかに芸術としての側面を生かすかが問われている。

 本展での展示は明治期以降の創作版画から始まり、銅版画、さらにはシルクスクリーンなど多様な版画技法による作品が展示されている。展示品も有名どころの版画作家の作品を網羅しており、近代における日本の版画界の潮流を概観するのに適した展覧会となっている。

 個人的に興味が湧くのは精緻な木口版画など。川瀬巴水などの浮世絵の流れを汲む大正版画も私は好きなのだが、残念ながらこの方面の展示はほとんどなかった。シルクスクリーンになってくると、最早単なる印刷の一技法という感覚が強いので、この手法であえてどのような芸術展開を行うかは難しいような印象も受けた。多様性の一方で完全に方向性を失っている現代芸術の状況は、やはり版画界でも同様のようである。


 これで今日の予定は終了、今日の宿泊地の西条まで移動することにする。当初は広島市内での宿泊を考えていたのだが、なぜかホテルに空きがなくて西条まで移動することにした次第。宿泊するのは山陰地方のホテルチェーン、グリーンホテルモーリス東広島。ただ途中で山陽自動車道が急に渋滞するので何があったのかと思ったら、トンネルの中で乗用車が一台ひっくり返っていた。

 ホテルにチェックインするとまずは大浴場で汗を流す。風呂から上がると新庄で買い込んだささもちをつまみながらテレビを見て一服、夕方になったところで夕食に繰り出すことにする。

 夕食をとる店だが、面倒くさいのでまたも「一久」でとんかつ。ここはとんかつはそう特別でもないのだが、妙に食べ応えのあるサラダバーが一番の特徴である。とにかくガッツリと食える店である。

 ホテルに戻るとテレビを見ながら一服だが、やはり体が結構疲れている。この日はかなり早めに就寝することとなった。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝はゆっくりとした起床。今日は大して予定はない。目覚めるとレストランで朝食。ごく普通のバイキングだが、ここの朝食は妙にパンがうまいのが特徴である。和洋両様でタップリと頂くと、朝風呂を浴びてからチェックアウトする。

 

 さて今日の予定だが、白市を訪問するつもり。白市は牛馬市で栄えた町で、同時に交通の要衝として宿場町としても栄えたという。現在も往時を偲ばせる町並みが残っているとか。

 

 観光駐車場に車を置くと町並みを徒歩で散策する。住民の方に伺ったところによると、ここは本来は白山城に拠点を置く毛利氏配下の平賀氏の城下町として発祥したとのこと。しかし関ヶ原後に毛利氏は転封となり平賀氏もこの地を去る。その後、平賀氏の家臣の木原氏は商人となってこの地に残り、その屋敷が現在も残る木原家住宅である。また江戸時代になってから牛馬市が行われるようになり、元々交通の要衝だったこともあって大いに賑わったのだという。かつては芝居小屋などもあったらしいが、近年では流通の変化などもあって完全に普通の住宅地になってしまっている。

 町のはずれには養国寺という歴史のある寺院がある。本堂は江戸時代のものらしいが、欄干の浮き彫りや廊下の装飾天井が見事である。

 木原家住宅はいかにも巨大な商家。ただここも現在では家自体が没落してしまって、倒壊寸前の廃屋となって放置されていたものを復元工事したらしい。ただそのような状況なので、建物は復元されたが残念ながら家財の類いはほとんどないらしい。おかげで内部はガランとしている。

左 木原家住宅  中央 内部はガランとしている  右 奥の倉跡

 木原家で地元の郷土史研究家の方の話を伺う。この周辺には平賀氏ゆかりの城郭として、「白山城」、御薗宇城、さらに頭崎城などが存在するという。一番近いのが白山城(市街からそこに見えている山)であるが、残念ながらここは荒れ放題で道もないために登ることはまず不可能とのこと。また頭崎城については登山道があって登るのは1時間半ぐらいとのこと。ただし登山道がややこしいので、地図もなしに登っても迷う可能性が高いとの話。また車道もあるのはあるが、急傾斜の砂利道の林道であり、昨今の豪雨でどういう状況なっているかは不明であり、一人で行くのはお勧めできないとのこと。

 白山城はこの山上

 この話から白山城と頭崎城は諦めて御薗宇城の見学に向かうことにする。なお後で確認したところによると、頭崎城に向かう車道はそもそも砂利道の林道以前にそこにアクセスする県道348号線自体がとんでもない険道(急カーブ連続の0.9車線の上にほとんど放置された廃道に近い道)で有名な道であり、私の判断は賢明であったことが判明する。

 

 「御薗宇城」は県道351号線をしばし進んだ先にある住宅地の裏山にある。南以外の三方は土塁(というよりも山を削り残している)で囲まれ、南に一段低いところに曲輪を構えるが、基本的に単郭構造に近いシンプルな城郭で、中世の豪族の屋敷ならともかく戦国時代の城郭としては守備力に不安がある。そこで平賀氏は拠点をここから白山城に移したのだという。白山城は全山に防備をこらした要塞だったらしいが、南にあった鏡山城が落城したのを見て、さらに防御の高い山城として建造したのが頭崎城とのこと。頭崎城はこの地域では毛利氏の吉田郡山城に次ぐ規模の大城郭とのことだが、本格的な整備を望みたいところである。

左 御薗宇城遠景  中央 入口  右 主郭手前の曲輪

左 主郭虎口  中央 主郭  右 奥は土塁というよりも削り残しの山

 御薗宇城の見学を終えると白市を後にする。なお白市では郷土史研究家の方とすっかり話し込んでしまったのだが、やはり日本の将来を考えた時に地方の再生という課題は重要であるとの共同認識に至った。そのためには日本人はもっと農林水産業について本気で考える必要があるということも。そもそも安ければそれで良いみたいに危険な輸入食品に頼る現状は明らかに間違っている。今のうちに手を打たないと手遅れになってしまう危険がある。

 

 最後の目的地は尾道。尾道市立美術館で宮古のリアスアーク美術館の東日本大震災関連の展示が行われている。先の震災ではこの美術館も被災したのだが、震災直後から町の状況を調査するために調査員が気仙沼の市街に入って多くの記録写真を残したそうで、それらが展示されている。

 


「東日本大震災の記憶」尾道市立美術館で8/31まで

  

 東日本大震災の発生時、気仙沼のリアスアーク美術館も被災するが、それと同時に地域の復興に活用するために震災被害の実態についての記録を開始する。その調査活動で集めた写真、被災物などを展示。

 がれきの写真が大半なのだが、すべての写真には状況の説明及び冷静に分析した教訓が含まれている。例えば津波発生時においては車の渋滞が避難にとって致命的になったこと、さらに津波に巻き込まれた車はそのまま爆弾になってしまったこと。またコンクリート製の建物は比較的残ったが、鉄筋建造物はひとたまりもなかったこと。さらには道路が津波の通り道になってしまったことなど、実際に震災の現場を調査したから判明した教訓などが多数解説されている。

 ただ痛切だったのは、この地域の津波被害は初めてではなく、過去にも同様の教訓は発せられていた。その結果として集落の高台移転なども行われたのだが、時と共に再び集落が海沿いまで降りてきてそこで大被害を受けるの繰り返しが行われているのである。なぜ人間は過去の教訓を生かし切れないのか。人の愚かさと無力さについても同時に思い知らされる感があった。


 いつもの美術館の雰囲気と違い、観客は結構多かったのにもかかわらず、誰もが完全に沈黙してしまって会場が静まりかえっていたのが印象的であった。実際に私自身も、普通の展覧会などなら時々ブツブツと独り言が出る時があるのだが、本展の展示については衝撃のあまり全く言葉を失ったという状態になってしまった。ひたすらがれきの写真が続いているといっても良い内容なのだが、そこにかつては普通の暮らしがあり、多くの人が暮らしていたことを考えると、その惨状に対しては言葉を失ってしまうのである。私自身としては広島の原爆資料館を訪問した時以来の衝撃であった。

 

 なお腹立たしいのは、先日に三陸を訪問して目にした現地の状況は、まだここからがれきを取り除いただけという状態だったことである。現政権は口では地方活性化などと言っているが、実際には三陸を放置して東京利権オリンピックに邁進である。原発推進で国土を回復不能に汚染し、TPPと集団的自衛権で日本をアメリカに売り渡す。中央政府がこういう目の前の利権優先の政治を続けていると、その内にこの国は滅びる。

 

 この日の予定はこれで終了。山陽道経由で帰途についたのである。

 

 美術館を2カ所回ったが、どちらかと言えば重伝建を中心とした町並み見学がメインとなった本遠征。活気を失いつつある地方の姿、さらには見捨てられた三陸の現状、諸々の要因が日本の将来図についていろいろと考えさせる。しかし私が吠えたところで単なるごまめの歯ぎしり。何の影響力も実行力もないのに歯がみするばかり。野々村のような馬鹿でも地方議員になれるのなら、いっそ私もなんて考えもよぎるが、実際は日本においては地盤も看板もない私が選挙に当選するのは絶望的であるし、万一当選したところで有象無象の議員のたった一人では日本に対して何を出来るでもない。己の無力さを痛感させられる次第。せめて何とか動きを作っていけないかと考えることしきりである。

 

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