展覧会遠征 岐阜編

 

 最近本業の仕事が洒落にならない状況になってきている。重要プロジェクトが複数同時進行という非常にストレスが大きい状態。ストレスで精神が崩壊する前に夏休みに繰り出したいと考える。目的地であるが、以前から泊まってみたいと思っていた地がある。それが下呂温泉と郡上八幡。下呂温泉は言わずとしれた伝統ある古湯。一度は訪問したいと思いつつも未だにその機会がなかった。また郡上八幡は何度か訪れていて、その風情ある町並みに心惹かれていたが、今までスケジュールの関係で一泊したことはない。そこでこの際だから郡上八幡で一泊し、ついでに有名な郡上踊りを見学したいと考えた次第。

 

 当初は週末の一泊二日を考えていたが、下呂温泉にも宿泊したいと考えると二泊三日になる。さらに週末の温泉地は割増料金になるか一人客お断りのところが多いことを考えると、下呂温泉宿泊は平日の金曜日にしたいところ。そんなこんなや、ついでだから岐阜県立美術館のパスキン展や滋賀県の美術館にも立ち寄り、さらに滋賀・岐阜地域の宿題の残っている山城も視察して・・・などと考えていたら、木曜の夜に前泊しての計画となった。さらに最初は木曜日の仕事を終えてから移動を開始するつもりだったが、夕方に動くととにかく渋滞にかかりやすいのは今までの経験から明らかである。初日の宿泊予定はルートイン彦根だが、夜遅く到着では明日がしんどい。結局はもう夏休みだと割り切って木曜日は午後半休を取ることになり、結果としては三泊三日半の計画となったのである。

 

 木曜の午前の仕事を終えると高速を突っ走る。ここのところ暑い日が続いていたが今日も暑い。毎回渋滞に巻き込まれて散々な目に遭う西宮付近をスムーズに通過すると、途中の大津SAで昼食を摂り、そのまま彦根方面に向かう。さて今日の予定であるが、基本的には今晩の宿泊地である彦根に移動するだけなのだが、折角半日休を取ったのだから、ホテルに入る前に一ヶ所立ち寄っておきたい。以前から気になっていた山城が一つある。

 

 目的地は「鎌刃城」。築城年代は明らかではないようだが史料に初登場するのは1472年とのことなので、かなり築城年代の古い城郭のようである。戦国期においては京極氏、浅井氏、六角氏などの勢力争いの中で何度も戦いが行われたようである。堀氏が治めていた時代に織田氏に下っていた堀氏が浅井長政の攻撃を受けたことが記録に残っており、この時は木下籐吉郎(豊臣秀吉)の救援によって浅井軍を撃退している。

 米原ICから南下すると山中に入っていく舗装林道が続いている。林道の入口には「危険なので関係者以外は入らないように」との旨の表示はあるが、別に通行禁止にされているわけではない。ただ道路自体はそれなりに険しく、すれ違い困難な箇所もあるので、山道に慣れているドライバーならなんてことないが、町乗りしかしたことのないようなドライバーは入り込まない方が無難である。なお何カ所か崩落箇所があり、路面上に土砂が落ちている箇所が多々あるので、雨の後などは要注意である。

左 進入注意の看板  中央 道は狭いがしっかりしている  右 ただし斜面が崩れてきている箇所はある

 林道をしばし走ると案内看板が出ているところがあり、近くに車を止められるスペースがある。ここに車を置いて徒歩で見学することにする。

  

看板のあるところに出るので、車を置いて歩く

 案内に従って進むと、尾根筋伝いに鎌刃城を目指すことになる。このルートは途中にはいくつか深い堀切があるし、尾根自体も細くて険しい道なので足下に注意が必要である。まかり間違って足を滑らせるとただではすまないのは明らかである。また林道に崩落箇所がいくつもあったことから推測できるように、あまり岩盤が強固な山ではなく、足下が土混じりでかなり脆い。それだけに気をつけて歩かないと足下がいきなり崩壊するという危険もある。起伏が結構激しいこともあり、かなり気を使った行程になる。

左 最初の堀仮  中央 尾根筋は幅が狭くて急  右 岩が剥き出しの箇所も

 尾根筋をしばし進み、深い堀切を超えるとようやく城の本体に到着する。最初に到着したのは南2郭。全体の構造から見ると二の丸というべき主要曲輪。この険しい山上にしてはそこそこの面積がある。

左 最後の堀切をよじ登ると  中央 南2郭に出る  右 背後には土塁がある

 ここから削平地沿いで進んだ先の一段高いところが主郭。背後の側は土塁で守っており、いかにも城の中心部らしい面積を持つと共に、枡形入口の石段が残っている。この石段は結構立派であるし、辺りに手頃な大きさの石がゴロゴロ転がっている現状から推測すると、この主郭の周囲は石垣で固められていたようである。

左 削平地沿いに奥を目指す  中央 一段高い主郭  右 主郭に出た

左・中央 石造りの枡形入口  右 かなり見晴らしが良い

 この石段の先に数段の曲輪が残っている。一番上の段は高さの差もある上に足下が脆いので注意しないと足下が滑る。その先はいくつもの曲輪群という印象。ここは数段に分かれてはいるが、一つの大きな細長い曲輪のようでもある。これらをまとめて三の丸と考えても良いかもしれない。なおこの曲輪の先には展望台のようなものが建てられている。地元の有志が鎌刃城祭りを開催したようなことがHPに記載してあったことから、それに関連した施設のようである。

左 本丸枡形入口を下から  中央 結構高低差がある  右 曲輪が続く

左 見張り台が建てられている  中央 ここにも石造りの枡形入口  右 曲輪の先端
 

 この曲輪群の先にかなり深い大堀切がある。どうやらここまでが城域のようである。この堀切はかなり深くて10メートルぐらいの深さはあり、足下が整備されていなかったらまず降りられないところだ。ここに降りると曲輪群の脇を回り込むように移動して、大石垣の見学に向かう。ただこの行程、獣道のような通路があるだけなので足下が危なっかしい。なお大石垣はそう大きくない石を積み上げた結構地味な構造。曲輪の脇はかつてはこの手の石垣で固められていたのだろうか。ただ斜面がかなり脆い山なので、大部分が崩れてしまっている可能性もある。なおこの山肌の脆さは建造物を維持する上では問題だが、斜面から登ってくる敵からの防御という点では有利かもしれない。

左 曲輪先端から大堀切を見下ろす  中央・右 大堀切

左・中央 大石垣  右 曲輪を見上げる
 

 南2郭からも曲輪群が伸びているらしいが、上から見ると大分下の方に水場らしきものが見える。降りて行くにはかなり険しそうで、こちらの見学に向かうともう既にかなりダメージの来ている足が終わってしまう可能性がある。足の終わってしまった状態であの尾根道を戻るとなると思わぬ不覚をとりかねない。無理はやめて車に引き返すことにする。再びあの尾根筋を神経と体力を使いながら通り抜け、車のところに到着した時にはかなり足腰が疲れた状態であった。

左 二の丸に戻ってきた  中央 下の方に水場のある曲輪が見える  右 やけに近代的な水場

 この尾根筋ルートは本来の登城筋であったとは考えにくい。いざという時のための緊急脱出ルートと考えた方が良さそうだ。本来の大手筋は主郭の下の曲輪群の先端辺りからつながっていたと考えるのが妥当だろう。険しい山上の割には曲輪の面積が意外とあり、拠点の城郭としては十分な規模である。それだけに往時には壮絶な争奪戦になったであろう。

 

 鎌刃城の見学を終えた頃にはもう夕方である。宿泊ホテルに向かうことにする。今晩宿泊するのはルートイン彦根。大阪空港の場合のクライトン新大阪、北陸方面の場合のルートイン長浜と共に、私の東方向の遠征の際の定番前泊ホテルになっている感がある。

  窓からの風景

 チェックインするとまずは大浴場で汗を流し、先ほどの登山でドロドロになったズボンとシャツの洗濯も行う。こういう土はすぐに落としておかないととれなくなる。汗と土を流すとしばし冷房を効かせた部屋でマッタリ。

 

 夕食はどこにするか悩んだが、土用の丑のことだしうなぎでも食うかと漠然と考える。調べたところ近くに「しる万」なる店があるらしい。料理旅館の経営するそば屋らしい。「上せいろ(3240円)」を注文。

 うなぎはなかなかうまい。ただせいろ蒸しのうなぎは関西人の私にとってはいささか柔らかすぎる感もしないではない。やはりうなぎは蒲焼きの方が良いか。なおCPとしては・・・。うなぎにこだわらず、素直にそばでも注文しとけば良かったか。ただこれからそば地域に遠征するだけに、今からここでそばを食べるのにはいささか心理的抵抗があったのは事実。それならいっそのこと、洋食とか全く異なるジャンルを探す手もあったのだが、そっちの店は適当なのが見つからなかったということもある。

 

 ホテルに戻るとしばしテレビを見ながら時間をつぶすが、登山の疲れもあったことだし早めに就寝する。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時半頃に起床すると、シャワーで汗を流してから朝食、8時過ぎにはチェックアウトする。今日はかなり長距離ドライブになる予定なので行動に迅速さが要求される。

 

 今日の予定はまずは「小谷城」の訪問。小谷城は以前に一度訪問しているのだが、それはちょうどあの暗黒大河ドラマ「コメディお江でござる」が放送中の時で、現地では混乱を避けるために一般の車による登山を禁止しており、現地ガイドのバスツアーに参加するしかなかったため、本丸までしか見学できなかったということがある。今回はその奥の山王丸などを見学しようと考えた次第。ほとぼりが冷めるのを待っていたのである。あれから大河ドラマも「平清盛」「八重の桜」と来て、現在は「軍師官兵衛」。「江」は完全に大河ドラマの黒歴史として忘却の彼方に追いやられた。そろそろ時節到来だろうという判断である。

 現地に到着すると、当時大河ドラマ館があった場所がまだ公園のようにして残っている。当時現地では浅井三姉妹博などで盛り上げようとしたが、当のドラマ自体が浅井に関しては第一話でチョロッと出てきただけで、その後は江達が浅井三姉妹であるにも関わらず浅井の名は全く出ずに信長の姪という立場だけが強調される大馬鹿展開(彼女たちは信長の姪というよりもあくまで浅井の姫であり、当然ながら江が秀吉に上から目線でため口たたくなど言うことはあり得ない)に、地元もかなり複雑な気持ちを持ったということである。

左 登山口  右 道路は整備されている

 この先に山上に登れる車道がある。当時はここが一般車立ち入り禁止になっていたが、現在は規制はなくなっている。道幅は狭いが整備されていて走りやすい道なので何の問題もなく小谷城の入口手前まで乗り付けられるが、入口の前には駐車スペースがない(駐車禁止である)ので、そこから少し戻ったところにある簡易トイレなども設置された広場に車を停める。

左 番所跡  中央 御茶屋跡  右 御馬屋
 

桜馬場

 一番手前にあるのが番所跡。ここから数段に渡って曲輪が続いている。この辺りの構造は以前に来た時の記憶が残っている。そう特別に険しい構造でもないし、本丸までは十数分で問題なく到着する。ただ今日は朝から暑さが半端ではない。この時点で既にかなり汗だくになってしまう。

左 大広間跡  中央 奥が本丸  右 本丸

 さて今回の目的はこの奥である。本丸から一端降りて裏手に回り込む。本丸裏手の深い堀切を過ぎると、その先が中丸と御局屋敷。本丸の裏手を守るための曲輪である。

左 本丸裏手へ回り込む  中央 御局屋敷跡  右 大堀切

左・中央 中丸  右 刀洗池
 

 その先にあるのが京極丸に小丸、さらに一番奥が山王丸となる。この辺りは結構スペースがあり、建物なども多く建てられていたのだろうと思われる。小谷城の攻防戦では、浅井長政が本丸に父の浅井久政が小丸に籠もったようだが、間道を通って山上にたどり着いた羽柴秀吉の軍勢によって京極丸が落とされ、小丸の久政と本丸の長政の連絡が絶たれることになり、孤立した久政は先に切腹して果てている。縦深陣の構造になっている小谷城の側面という弱点を突かれたことになる。

京極丸へと
 

 浅井氏の滅亡に関しては、先を見越して織田信長と結んだ長政と、それまでの朝倉氏との誼を重視した久政の間に対立があり、最終的には長政が押し切られて滅亡につながってしまったというように言われている。これだけ見ると長政が弱すぎというようにも見えるが、実際には家臣も大部分が朝倉側を支持したのだろう。またあそこで長政があくまで同盟者として信長に付き従っていったとして、その後の浅井氏が幸福になれたかも疑問なところがある。同じく同盟者であったはずの家康に対する扱いを見ても想像がつくように、その内に実質的に家臣扱いになり、散々酷使された挙げ句に使い捨てにされるという展開が想像がつく。特に信長は最初から近江地域に拠点を置くことを考えていたことからすると、長政がいずれこの地を追われる可能性はかなり高いような気がする。あそこで信長と対立しなくても、いずれ滅亡覚悟で独立を貫くか、あくまで生き延びるために臣従するかの二者択一を迫られた可能性が高い。何にせよ、織田信長というのは仕えるのには難儀な主君である。よく理想の上司などに名を挙げられることもある織田信長だが、私などの場合は間違っても上司にしたくないタイプとして考える人物である(確かに革新的ビジョンは持っているものの、癇癪持ちで独善的なのは上司としては致命的)。

小丸から山王丸へ

山王丸
 

 奥の最高所が山王丸になる。ここも三段構成ぐらいで結構面積のある曲輪。単に見張り台というレベルではない。奥の尾根筋を経由しての攻撃を受けた場合にそれを食い止める場所になる。

  向こうに見えるのが大嶽がある山

 この奥の尾根筋を降りていくとさらに六坊、その先の山上に大嶽があるらしいが、大嶽のあるらしき山はかなり遠くに見えるし、先ほどからさらに上昇し始めた気温のせいでかなり体力は削られているしなので、これ以上の無理はしないことにする。当初想定していた目的は達成しているので、先を急ぐ方が賢明だろう。

金吾丸
 

 番所のところまで降りてくると、向かいにある金吾丸を見学。ここは入口を固める独立曲輪だが、内部は結構鬱蒼としていてあまり詳細な構造は分からない。

 

 これで小谷城の見学は終了。次の目的地を目指すことにする。次は長駆して岐阜県美術館を目指す。本遠征の主目的の一つである。

 


「パスキン展」岐阜県美術館で8/24まで

 

 エコール・ド・パリを代表する画家、ジュール・パスキンの作品を集めた展覧会。

 パスキンと言えば淡い色彩の独特な油絵で知られるが、本展では彼の修行時代のアカデミズムに沿って描いた作品や、風刺的な素描など珍しい作品も展示されている。

 彼は油絵画家としては途中で自身の限界を感じたという旨の紹介があったのだが、確かに彼の色使いはそもそも油絵よりも水彩画的であるし、何より彼の本領はその繊細で巧みな描線によるものであるのは作品からも明らかである。だから描線のみで仕上げた版画や素描の方がむしろ彼らしさに満ちているように思われる。

 個人的にはパスキンという画家についてのイメージを今ひとつ把握していなかったのであるが(個人的にはドガと同系統の画家だと思っていた)、本展でパスキンという画家の傾向と本質を感じられたような気がした。なかなかに有用であった。


 美術館の見学を終えると東海北陸自動車道経由で高山方面を目指す。今日の宿泊予定地は下呂温泉なので直行するならもっと近い道があるのだが、今から下呂温泉直行は少々時間が早すぎる。その前に一カ所立ち寄っておきたい。

 

 東海北陸自動車道は以前の白川郷方面の遠征の時に走っているが、とにかく山深い中をトンネルで抜けていくすごい道である。名古屋方面から富山方面へのショートカット道路であるが、観光地である白川郷へのアクセルルートというニュアンスの強い道でもある。白川郷の観光シーズンには周辺は渋滞が発生することもあるとのことだが、今日は平日の金曜日であることもあってか飛騨清見ICまで順調に到着、ここから高山清見道路で高山方面に向かって走行する。

 

 高山に到着すると、市街には向かわずに国道41号線と県道89号線を経由して東進する。目指すは丹生川。この地にある尾崎城が目的地。中世の古い城郭でその由来などは定かではないが、現在は城跡公園として整備されているらしい。中国製の陶磁器や大量の中国銭が発掘されたこともあり、中世期の飛騨の繁栄の様子を伝える城郭であるとのこと。戦国期に塩屋筑前守秋貞が築城したという伝承があるらしいが、平成6年から3年ががりの大規模な発掘調査が行われた結果では、出土した大量の陶磁器片は15世紀前半のものであり、塩屋秋貞による築城年代と合致しないとのこと。またこれらの陶磁器片の多くに強い火力を受けた跡があり、15世紀半ば以降に戦乱によって焼失したことが考えられるという。何にせよ、まだまだ多くの謎を秘めた城郭らしい。

 

 「尾崎城」は丹生川中学の裏手の山上にある。国道158号沿いの農協のやや先のところに南の山側に入る道があり、そこを進んでいくと途中で小高城に向かう山道があって、小さな案内看板が立っている。後はその道を進んでいくと城内にたどり着ける。道は狭いが舗装された道路であり、途中で対向車に出くわさない限りは運転には不安はない。

案内に従って山道を進んでいくと尾崎城にたどり着く
 

 城内は駐車場もある手前の郭と、奥の広い郭の二つからなり、その間は二重の堀切で分かたれている。現在はほとんど埋まって浅い溝になってしまっているが、往時にはもっと深くて険しいものであったのだろう。

左 公園化されている本丸跡  中央・右 二重堀も今ではほとんど埋まっている

左 二の丸跡  中央 周辺には土塁と腰郭  右 下からの登り口
 

 奥の郭はかなり広い曲輪で、周囲には土塁を巡らせていた跡があり、その回りには帯曲輪が取り巻いている。山の比高などを考えると城塞としての堅固さにはやや疑問はあるが、かなりの面積があることを考えると防御を施した館してのレベルの機能は十分であったと考えられ、そういう点ではそもそもは中世の城郭であったと思われる。戦乱に巻きこれて焼失して荒廃していた跡地を、16世紀に塩屋秋貞が戦国城郭として再整備したということだろうか。地方豪族クラスの拠点城郭としては十分な規模だと思われる。

二の丸

 ただあまりに完全に公園整備されすぎているせいで、今ひとつ城郭としての遺構がハッキリしない。特に手前の主郭回りの地形はかなり改変されている可能性があるように思われる。ただそこまで気合いを入れて整備した公園の割には、人の気配が全くないというのはどういうことだか。それとも週末ならもう少し人出もあるのだろうか?

 

 それまでは天候は良かったのだが、尾崎城の見学を始めた頃からたまに雨粒が頭に当たるようになり、遠くでは雷鳴が聞こえてくるようになった。現在、台風12号が接近して西日本では大雨のところがあるらしい。この辺りにも少々影響が出てきつつあるようである。

 

 尾崎城の見学を終えると山を下りる。当初予定ではこのまま下呂温泉に向かうつもりだったが、まだ時間に余裕があるし、途中で「飛騨大鍾乳洞→」という標識を見かけたのが気になったので、そちらに立ち寄ることにする。

 

 国道158号を東進すること十数分で飛騨大鍾乳洞に到着する。現地はレストランなどもある観光地になっている。そう言えば今日はまだ昼食を摂っていなかったことから、とりあえずそこにあったレストラン「鍾乳堂」で昼食を摂ることにする。

 

 注文したのは「とんかつ定食」。観光地レストランであると言うことを考えると、随分まともな方だと思う。普通にうまい。ただ、この店の子供と思われる小学生ぐらいの男の子が店内をドタバタと駆け回り(床が弱いからそのたびにかなり揺れる)、挙げ句の果てには厨房にまで出入りしているのはどうにも。さすがにこれについては客商売としてどうなの?

 

 昼食を終えると鍾乳洞に入洞することにする。ここの構造は鍾乳洞に入る前に大橋コレクション館なる美術品などを展示した展示館を見学することになる。ここはこの鍾乳洞を発見した大橋外吉のコレクションを展示しているらしい。100キロの金塊の展示もあるのだが、この金塊、以前に強盗による被害に遭ってニュースになったことがある。後に犯人は捕まって金塊も戻ってきたのだが、金塊を強奪した犯人は溶かしてばらして処分しようとしていたらしく、金塊はバラバラになった状態で展示されている。

  

 展示品は壺や石仏など種々様々。大括りで言うと美術工芸品ということになるのだが、コレクションに一貫したポリシーがあまり見えず、先ほどの金塊の展示といい言葉は悪いが「田舎の成金コレクション」という趣が濃厚。

  鍾乳洞入口

 大橋コレクション見学後は鍾乳洞に入洞する。飛騨大鍾乳洞は第一洞から第三洞までが接続されており、全長800メートルあるらしい。

第一洞

 鍾乳石が一番発達しているのは第一洞。ここでは様々なタイプの鍾乳石や定番の海百合化石なんかも目にすることが出来る。

第二洞及び第三洞

 ここから川の地下をくぐっていく第二洞では洞窟内の滝などもある。内部はかなり急な登りなどもある。第三洞も第二洞の続きという印象。とにかくやたらに登った気がする。

  洞窟出口

 外に出てきたらかなり登っていたことがハッキリする。入口は遙か遠くの下の方にある。日頃から山歩きをしてるような者ならなんてことないが、インドア派にはツラいかも。

 

 鍾乳洞の見学を終えた頃にはそろそろ夕方。下呂温泉に向かうことにする。国道41号線を延々と南下することになる。ここら辺りは山間をひたすら走る長い道。ただ道は整備されているし、車の通行量も多い。

 

 下呂温泉には5時過ぎに到着。今日の宿泊ホテルは大江戸温泉物語下呂。大江戸温泉物語の施設は使用するのは初めて。人件費を減らすことでコスト低減を図っているという印象の宿である。

 

 チェックインするととりあえず最上階の展望大浴場へ。自家源泉所有とのことだが、泉質はアルカリ単純泉。ややぬめりのある肌当たりの柔らかいお湯だ。加温・循環・塩素消毒ありとのことだが、塩素臭については気になるレベルではない。思いの外泉質は良好という印象である。

 

 入浴を終えると夕食まではしばしマッタリと過ごす。正直なところ、大江戸温泉物語にはあまり期待していたわけではなく、伊東園ホテルよりましなら上々という認識であったが、滑り出しはまずまずである。後は夕食次第。

 

 夕食時間なったのでレストランに出向く。夕食はすき焼き+会席料理。大江戸温泉物語はバイキングのところが多いように聞いていたのだが、ここはホテルの規模があまり大きくないからだろう。

 すき焼きについては私が割り下を使うタイプの関東風すき焼きに慣れていなかったので、鍋を加熱しすぎて大変なことになるなんてトラブルがあったが、肉はなかなか良好なものであった。後の懐石については予想以上にうまい。当初に考えていた「伊東園ホテルよりマシなら上々」なんていうのは、比較するのも失礼なぐらいである。

 

 今日は7時から何やら祭りがあるらしいので、夕食を終えたところで外出する。祭りの会場は市街の白鷺橋。現地に近づくと大勢の人だかりの向こうから太鼓と鐘の音が聞こえてくる。地元の若手が蛇踊りの祭りをやっている模様。

かなり気合いの入った祭である

 この手の祭りは各地にあるが、ここのはとにかく演出が派手。光はピカピカ、炎は上がり、爆竹が爆発し、竜が雄叫ぶ(ただし鳴き声がゴジラにしか聞こえないが)。これを見ていたら、祭りが若者のアピール及び発散の場というのが頷ける(参加者の中にはもう既に若者とは言えない年代の者も少なくないが)。実際に観客席からも地元の女の子らしい集団の「○○がいる!」「どこ?」というような声が聞こえてきていて、そういう点でのアピールの場も兼ねているようだ。吊り橋効果ではないが、こういう派手な演出で盛り上げる祭りの場合、そういう方面での盛り上がりも期待できるだろう。よくよく考えると、現代社会は男が男らしさをアピールできる場は減ってきている。

暗いし動きは速いし、写真がぶれまくり

 写真を撮っていたが、途中でストロボが電池切れ。先ほど鍾乳洞内でも酷使したせいか。ストロボは滅多に使わないので充電を怠っていた。どっちにしてもストロボを使っても広い場所なのであまり写真はうまく撮れないし、かと言って低速シャッターだと動きが激しすぎてぶれてしまうということで、途中で写真撮影は諦めて見学に徹することにする。

 祭後の花火

 祭りは2時間近くに及ぶ。ほとんど走りっぱなしの参加者も大変である。確かにこれはかなりのアピールになる。実は祭りのことはここに来るまで全く知らず、こちらに来て初めて聞いたのだが、なかなかに良いタイミングであった。面白いものが見れた。

 

 祭りが終わるとホテルに戻り、もう一度入浴してから就寝することにする。それにしても今日は結構疲れた。やはり暑かったことで体力を消耗している。今日一日で果たして伊右衛門を何リットル飲んだだろうか。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時過ぎに目覚めるとまずは朝風呂。それから朝食に行くことにする。朝食はバイキングだが、内容はまずまずである。自分で焼くパンケーキなんてのが面白い。

  朝食バイキング

 昼食を終えるともう一度入浴してからチェックアウトする。今日は郡上八幡に向かう予定。ただ郡上八幡に直行するなら1〜2時間程度だが、その前に立ち寄り先が多々あるので大回りすることになる。

朝の下呂温泉

 昨日南下した国道41号線を今日は北上する。最初の目的地は高山市北部にある「広瀬城」。室町時代に広瀬利治が築城したと言われている城郭で、家臣の田中与左衛門が城主であったという。しかし広瀬氏は三木自綱に滅ぼされ、落城した広瀬城は三木自綱によって大改修される。だがその2年後、三木自綱は飛騨に侵攻した金森長近に破れて広瀬城も廃城となったとのこと。

 

 広瀬城があるのは飛騨国府駅の対岸の南の方角にある山上。案内看板(小さいので見落としそうになる)に従って、お寺の横の狭い道を進んでいくと、文化財保護センターがあるのでその付近で車を置く。ここから徒歩で進むと標識があるのでそれに従って進めば谷間の水場に出る。

左 正面の山が広瀬城  中央 ここで右折  右 山に向かう

左 案内に従って徒歩で左へ  中央 山道を進む  右 水場に出る
 

 水場の脇には案内看板と縄張り図が立ててある。これに従って山上を目指す。登城路の入口には動物除けのフェンスが作られているので、ゲートは開けたら必ず鍵をかけておくように。これがあるということは、猿かイノシシかはたまた熊か何かは分からないが、何かの獣が出ることがあるのだろう(フェンスの雰囲気からするとイノシシか)。

左 動物除けゲートを超える  中央・右 左手の尾根筋には曲輪と堀切が
 

 登城路に沿って進むと、左手に見える尾根上には曲輪があることは分かる。途中にはかなり深い堀切も見られる。道は途中で分岐するので、左に進むと1郭の近くに出てくる。

左 分岐を左折  中央 登っていく  右 正面が1郭
 

 1郭は手前の高台にある曲輪。石製の城跡碑がある。それなりの面積があり見晴らしも良い。かなりの高さがあることが分かる。

左 1郭  中央 城跡碑  右 高度はかなりある

 ここから奥に進むとさらに高い2郭がある。城全体の中心に当たる位置にあり、面積も大きいことからここが主郭と考えるのが妥当だろう。ただ先ほどの1郭を主郭にする手もないわけではない。

左 2郭へ向かう  中央 この上が2郭  右 2郭

左 2郭の南の郭  中央 西に進む  右 堀切を上から

 ここからは放射状に曲輪が出ているが、西に進むと5郭を経て3郭に至る。この間にかなり深い堀切があり、深さは10メートルぐらいはある。階段をつけてあるが降りるのが怖いぐらい。実際に足を滑らせたら洒落にならない。この堅固な防御を考えてもやはりここが主郭か。

左 2郭西の堀切下から  中央 5郭を進む  右 左手奥が3郭
 

 3郭は西側の防御の拠点。周囲が一面畝状竪堀群で囲まれているのが一番の特徴。戦闘時には最前線になることと、この周囲は若干傾斜が緩くなっていることに対する対応か。なかり大規模な構造になっている。

左 3郭  中央 3郭西の堀切を上から  右 3郭周囲の畝状竪堀
 

 4郭は5郭から一段降りた位置にあり、ここも周囲に畝状竪堀群があるらしいが、今までの曲輪と違って鬱蒼としてとても踏み込めず。

  4郭はこの有様で進めず

 北側に水場を抱え、南東方向を正面にした城郭である。西方に高堂城があり、これと連携して守備することを考えていたから、戦闘正面が南東方向ということなのだろう。かなり技巧的な造りになっているのは三木氏の再整備によるものなのだろうか。だが結局は三木自綱は金森長近の攻撃の前にまともに抵抗も出来ずに京都に落ち延びてしまうことになる。三木自綱の経歴を見ていると、弱小国である飛騨にいながら諸勢力を天秤にかけてしたたかに生き抜いてきた野心家ということで、真田昌幸などとも通じるところを感じるのであるが、晩年になると最早かつての覇気はなくなっていたのであろうか。実際この少し前から弟や息子が自分の地位を狙っているとして謀殺したりと、内部のゴタゴタ、もしくは本人の判断力の衰えのようなものが見えている。

 

 広瀬城の見学を終えるとさらに北上、次は飛騨古川を目指す。飛騨古川には重伝建指定はされていないが趣のある町並みが残っているという。

 

 駅の北側に大きな観光用無料駐車場があるのでそこに車を置いて市街見学に向かう。それにしても暑い。伊右衛門を手放せないが、冷たいのを買ってもあっという間に生暖かいヌル茶になってしまう。

 

 ちょうど駐車場の隣に美術館があるからまずはそこに立ち寄る。展示室が2つ程度の小規模な美術館であり、典型的な地方都市の市立美術館。

 


「Sato Onの世界」飛騨市美術館で8/17まで

 

 飛騨市の佐藤温氏の幻想絵画。サイバーでメカニカルなモチーフを用いた作品で、いかにも現代的。昨今のアニメやイラストでよく見かけるようなイメージの作品で、よく芸術系専門学校なんかの宣伝で出てくるようなタイプの作品である。

 個人的には感想は「今時だな」という一言。まあそれなりに面白くはあるが、そこまで。


 

 飛騨古川はそもそもは金森氏の城下町であり、そういう点で高山と同じ発展の仕方をしてきた町であるという。現在の町並みについては、飛騨の匠の土地だけに新しい建物を建てる際にも地元の大工のこだわりがあったことと、地元民の町並み保護に対する高い意識によって維持されてきたものだという。確かに今でも多くの住民が実際に居住している「生きた町」でありながら、高山ほど観光地化していないということが風情につながっている。

飛騨古川の町並み
 

 飛騨古川の中心は壱之町、弐之町、三之町と呼ばれる地域。特に瀬戸川に沿っての白壁土蔵街が最も風情のあるメインステージとして有名である。また町並みの随所に祭り屋台を納める屋台蔵があるのも特徴。これらの屋台は古川祭りで活躍するらしい。

 町内には観光客を対象にした飲食店などもあり、適度に観光地としてこなれている。この辺りのバランスも良い。昼時になったので私も町並み内のそば屋「蕎麦正なかや」で昼食を摂ることにする。小さな店であるが、なかなかに店内も風情のある店である。

 注文したのは「飛騨おろしそば(中)」。夏は決してそばには良いシーズンではないが、サッパリした大根で頂く冷そばがうまい。恐らくそばのシーズンならさぞかしというところ。ついでにデザートに数量限定という「そば茶プリン」も注文する。これもサッパリしていてなかなか。

  

 昼食を堪能したところで、再び灼熱地獄の中に繰り出していく。それにしても趣のある町並み。この手の町並みに付きものの造り酒屋などもある。こういう時は私はアルコールを一切受け付けないのが少々恨めしくなる(もっとも、だからこそこんなところに何の抵抗もなく車で来ることが出来るのであるが)。

 町並みの見学の後は、町並みからはずれたところにある増島城跡を見学する。「増島城」は金森長近が高山藩主となった後、養子の可重がこの地に築いたものだという。築城年代が新しいことから、本格的に鉄砲戦に対応した広大な水堀を有する城郭だったらしい。一国一城令後には古川旅館と改称されたが、1692年に金森氏が出羽上山に移されて飛騨が天領になった際に破却されたとのこと。

  増島城

 今ではかつての城域の大部分は学校の敷地などになってしまっているので、往時の威容を忍びようはないが、それでも本丸櫓の石垣と堀の一部などが残って面影をとどめている。もうろくに見るべきものは残っていないのではと思っていたのだが、この本丸櫓の石垣が思いの外立派であり、石垣フェチの私としては十二分に堪能できる。多分往時には堀幅は今よりも広かったのだろう。しかし今でもこの堀脇に立つと、本丸櫓から狙い撃ちされるような気持ちになる。

左 登り口  中央 本丸は神社になっている  右 間近で見上げた石垣
 

 これで古川の見学は終了。次の目的地に向かうことにするが、古川の町並みを散策していた2時間ちょっとぐらいの間に車の中は灼熱地獄。車の中に置いたままになっていたNexus7は高温すぎて起動もしない状態。エアコンの直風を当てて冷やすことに。

 

 この後は南下して高山を目指す。このまま郡上八幡を目指しても良いのだが、どうせ通り道なので高山に立ち寄ろうという考え。以前の高山訪問で高山の重伝建地区の散策はしているが、その時は三町の方が中心で、下二之町大新町の方はあまり回っていない。そこで今回はこちらを中心に回ってやろうというつもりである。

 

 川沿いの市営駐車場に車を止めると町並みの散策に入る。観光客が大挙して竹下通り化している三町に比べると、下二之町の方はもっと落ち着いた佇まいである。

下二之町の町並み
 

 下二之町のはずれに桜山八幡宮があり、そこに屋台会館があるので見学する。ここには高山祭りで使用される屋台が展示されている。また隣の桜山日光館ではなぜか1/10の東照宮の模型を展示中。大正時代に制作されたという模型の詳細さには呆れるほどだが、この日本の匠の技を今に継承しているのは海洋堂か。

桜山八幡宮と屋台会館に日光館

 町並みの見学を終えると門前のそば屋「甚兵衛」「冷やしぜんざい」で一服。暑すぎるとどうしても喫茶をしたくなる。ダイエットには大敵なんだが・・・。

 

 高山の見学を終えたところで郡上八幡を目指すことにする。今日はちょうど昨日たどった経路の逆を走っていることになる。非常に非効率的な回り方なのだが、各地の見学するべきポイントをつないでいったらこうなってしまった次第。どうも今回の遠征は行き当たりばったりが強すぎるようである。まあ行き当たりばったりでどうにかなるのが車での遠征の醍醐味と言えなくはないのだが。何しろ鉄道での遠征の場合は分単位でのタイムスケジュールに従っていくことになるので、まるで仕事の出張のように堅苦しいものになってしまう。先の三陸遠征がまさしくこれで、結構プレッシャーがキツくてしんどかった。今回の遠征は仕事がハードな中での休息というニュアンスが強いので、これで良いのかも。とは言いつつ、内容は体力的に結構ハードで、とてもではないが休息とは正反対のものになってしまっているが。

 

 郡上八幡には4時頃に到着する。とりあえず今日の宿泊予定のみはらや旅館に車と荷物を置くことにする。しかしこの旅館の駐車場が狭い上に、前の道が細い道路の割には車がひっきりなしに通行するので、とにかく車を入れにくい。

 

 ようやく車を置いてチェックインの手続きを済ませると、部屋に荷物を置いて散策に出る。郡上八幡の市街も重伝建指定されている。

 

 散策したのは以前に回らなかった北部地域。大手筋からこの辺りにかけてが昔の町並みが一番残っているところである。ここも城下町なので、基本的には今日各地で見てきた町並みと非常に類似している。

 町並みを一回りした後はやや早めだが夕食にしたい。夕食を摂る店は既に決めている。入店したのは「美濃錦」。うなぎや郷土料理の店である。以前に郡上八幡を訪問した際にここに立ち寄るつもりだったのだが、その時はやたらに観光客が押しかけていたので諦めたことがある。今は夕食時には若干早いせいか店内には十分な空きがある。

美濃錦ではこの井戸水を使用してうなぎを立てているとか
 

 注文したのは「鯉のあらい」「鰻重(3400円)」。しばし待った後に鯉のあらいが出てくる。氷に盛られた鯉の引き締まった身がうまい。やはり私は川魚の鮮烈な味が好みのようである。本当に鯉はうまい魚だと思う。鯉のことを泥臭いなんて言う輩は、一体どんなひどい鯉を食べたんだろう。

  

 次に出てくるのが鰻重。ウナギの焼きはパリパリとした関西式。焼きが絶妙で非常にうまい。今まで食べたウナギの中で一番うまいのではないかというぐらいうまい。うなぎは1.5匹分で、ご飯の下からさらにうなぎが登場するのはなかなかゴージャス。価格はそれなりにするが、それだけの中身はある料理である。

  

 夕食を堪能すると旅館に戻って入浴。しかし風呂が小さいので先客がいて待たされることに。風呂は岩風呂となっているが、実際は岩の中に埋め込まれたステンレス風呂。やや大きめの家庭風呂というところである。元よりこの宿に風呂は期待していないのでこんなものか。

夕闇迫る郡上八幡市街
 

 夜は郡上踊りの見学のために出かける。踊りは8時からとのことだが、まだ時間が早いので市街の見学。こちらは城下町と違って昭和レトロの風情が混じっている。これもこれで情緒がある。

新町通は昭和レトロ感たっぷり

夜の郡上八幡

 8時前に会場の城前広場に到着する。8時頃には人がゾロゾロと集まってきて踊りが始まる。最初は見ているだけだったのだが、写真を撮ってもあまりうまく撮れないし、そのうちに見よう見まねで踊りに参加。確かに踊る阿呆と見る阿呆なら踊らにゃソンソンである。ただ私は根本的に踊りの才能がないので周りと明らかに動きが違っているのだが、そんなものを気にしていたら始まらない。とりあえずノリでごまかす。

郡上踊りに参加
 

 ただ踊ってみると結構ハード。郡上踊りは意外にステップが多い。これを下駄をカラコロ言わせながら踊るのがポイントのように思われる。予定では11時まで続くらしいが、私の体力では1時間が限度。雨がぱらついてきたし疲れてきたしで宿に帰ることにする。

 

 宿に戻って来た途端にかなりの疲労がこみ上げてくる。灼熱地獄の中での山城見学や町並み散策でかなり体力を消耗していたところに郡上踊りがとどめになったようだ。敷いてあった布団に横になるとすぐに意識を失ってしまう。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時半に起床。両太股が異常にだるい。郡上踊りは想像以上にハードだったようだ。とりあえずは朝風呂に行こうと風呂をのぞきに行くが、生憎と先客が使用中。仕方なくしばし待つことに。

 

 入浴を済ませた頃に朝食が運ばれてくる。典型的な旅館飯だが、朝食にしてはやや豪華か。なかなかにうまい。設備面ではいろいろとある旅館だが(とにかく施設は古い)、料理は悪くないか。ただ現在はオンシーズンなので宿泊費がやや高め。やはりこの地域の宿は、郡上踊りのシーズンに一年分の収益を上げるんだろう。

 

 朝食を終えると8時過ぎ頃にはチェックアウトする。昨晩からぱらつき始めていた雨がやや本格的に降り出している。それにしても昨晩の踊りのせいで靴が土で真っ白になっている。足だけでなくて靴にもダメージが来ているようだ。郡上踊り恐るべし。

 

 さて今日の予定だが、当初計画では帰途に滋賀県の美術館に2カ所立ち寄って終わりのつもりだった。しかしその後の調査により、三重県立美術館で興味の湧く展覧会が開催されていることが判明。ここまで出てきたのだから帰りについでに立ち寄ろうとなった次第。ついでと言うにはあまりに遠回りな気もするが、かと言ってこのためだけに再び三重くんだりまで出てくる気にもなれない。

 

 雨がぱらつく東海北陸道をひたすら南下する。その後は名神、名古屋高速を乗り継いで東名阪へ。結構疲れたが目的地へは2時間ぐらいで到着する。


「生誕140周年 中澤弘光展−知られざる画家の軌跡」三重県立美術館で9/7まで

   

 明治から昭和期にかけて日本の洋画壇で活躍した中澤弘光の展覧会。東京美術学校で黒田清輝に師事した彼は、洋画家として順調にキャリアを重ねると共に、本の装丁などのデザイナーとしても活躍している。

 当初の画風はそのまま黒田調であったのだが、渡欧後には同時期の日本人画家のお約束どおりにセザンヌなどの影響を受けて一時的に色彩や描き方が変化した時期もある。ただ数年後には本来の自分らしい静かで緻密で穏やかな色彩の絵画に復帰した。

 本の装丁などは当時流行していたアール・ヌーヴォー様式を取り入れている。この辺りはいかにも美麗なものが多く、基本的に彼は「美しい」絵を描く画家であるということが改めて感じられる。

 基本的に私は明治期の「真面目に描いた日本人洋画」は好きなのであるが、その中でも特に個人的に好みに合致したタイプの画家であるということを感じる。それは彼の作品が流行などを取り入れつつも基本的には保守的なところのある作品であるからかもしれない。


 

 予想以上に印象に残る作品の多い画家であった。かなりの遠回りにはなったが、ここまで来た価値はあったというものである。

 

 三重での予定を終えると安濃SAで昼食を摂ってから、新名神を経由して滋賀を目指す。新名神は走りやすい道路だが、要注意は横風の強さ。次の目的地は草津田上ICで降りたすぐ近くである。


「手塚治虫展」滋賀県立近代美術館で8/31まで

   

 日本の漫画界の中心人物で、日本アニメーションの草分けでもある巨匠の展覧会である。今日のストーリー漫画のスタイルを確立したのは彼であり、彼の存在なくして現在の日本の漫画文化は存在しなかった。

 

 本展では手塚の年譜を追いながら、代表的作品などを紹介していっている。それに従って見ていくと、彼が手がけた作品の幅の広さには呆れてしまう。少年漫画、少女漫画、青年漫画、SF漫画、冒険活劇にメルヘンに社会派作品、ビジネス漫画に歴史漫画等、今日の漫画のほとんどのジャンルは彼の作品に網羅されている。その多様性と先進性については、確かに漫画界において神の如くに語られるのもさりなんと思える内容である。常に新しい世界に挑戦していったチャレンジングな精神には唸られるばかり。


 

 彼の死が昭和天皇崩御のドタバタと重なってしまったせいで国民栄誉賞をもらうことがなかったというのがどうにも未だに納得できない。漫画家では後に長谷川町子が国民栄誉賞をもらっているが、長谷川町子がいなくても今日の日本漫画界は存在するが、手塚治虫なくして今日の日本漫画界が存在しないとを考えると、今からでも彼に国民栄誉賞を授与すべきではないかと思われる。まあ所詮は日本の政治家には文化に対する見識がないということだろう。

 

 美術館を後にすると最後の目的地に向かう。しかし現地に到着すると、なぜかかなり離れた位置にある臨時駐車場に車を誘導される。おかげで美術館までかなり歩く羽目に。しかも美術館に到着すると、普通に美術館前の駐車場に車が入っていっていた。やられた・・・。


「北斎とリヴィエール 二つの三十六景と北斎漫画」佐川美術館で8/31まで

  

 北斎の富嶽三十六景については今更説明するまでもない傑作であるが、この北斎の傑作に強烈にインスパイアされたのが、フランスのリヴィエールである。彼は当時建ったばかりのエッフェル塔に魅せられて、エッフェル塔三十六景を制作している。しかもその作品は浮世絵技法を用いた版画であり、構図の取り方や題材の持ってき方などまで悉く北斎作品の影響が顕著である。

 特に面白かったのは、エッフェル塔が大アップになってその鉄骨の一部が見えているだけだったり、逆に遙かに遠景で背後にチラリとだけ見えているような構図の作品が含まれていること。これは北斎作品に同様な構図があり、リヴィエールがどれだけ北斎に傾倒したかということが覗えて興味深い。


 

 これで本遠征の全予定が終了。後は琵琶湖大橋、湖西道路を経由して京都東ICから名神で帰宅・・・のはずだったが、湖西道路で大渋滞に出くわした挙げ句、バケツをひっくり返したような雨になり、気を使う帰路となったのである。ああ、疲れた。確か今回は休息のはずだったのだが・・・。

 帰りは滅茶苦茶な豪雨に

 以前から気になっていた下呂温泉を訪問し、さらには以前から悲願であった郡上八幡宿泊を実行したのが本遠征。基本的にはこの2点にパスキンを絡めただけの慰安旅行のはずだったのだが、気がつけばガソリンを2回も満タン補給しないといけないぐらいの長距離走行に。しかも本格的山城に灼熱下での町並み散策ということで思いの外体力を消耗してしまった。正直なところ、この肉体的なツケは後にまで残る羽目になってしまったのだが、どうしても私の遠征はいつもこのパターンになってしまう。やはりもう少し枯れた遠征をすべきなのか・・・。

 

 

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