展覧会遠征 愛知編4

 

 この金曜日は名古屋に出張となった。目的は名古屋で開催される某研究機関の発表会。早朝からの出発はしんどい上に本番に集中力が切れそうであることから、例によって自腹で前泊。さらにはそのまま週末も名古屋に滞在して私的な用件の方も片づけようかと考えた次第。

 

 しかし直前になって状況に大きな変化。まさに「風雲急を告げ」ではないが、7月には前代未聞の規模という台風8号が直撃することになってしまった。しかもこの台風、移動速度などがコロコロ変わるので直撃の時間が全く読めない。下手をすれば移動時に直撃で新幹線が動かないという可能性もある。当初予定では午後の仕事を終えた夕方に移動するつもりだったが、新幹線が動いている内に行動するのが賢明だろうと考え、昼過ぎには名古屋に移動してしまうことにする。

 

 既に在来線にはダイヤの混乱が起きつつあったが、幸いにして新幹線は平常運行していた。名古屋にはダイヤ通りに到着する。到着した名古屋は風は強いが雨はあまり降っていなかった。

 

 とりあえず遅めの昼食を摂ることにする。名古屋飯と言えばやはりひつまぶし。名鉄百貨店内の「まるや本店」「上ひつまぶし」を食べることにする。以前にここに来た時は夕食時だったせいで大行列で入店を諦めたが、今は昼食時と夕食時の中間のせいで待ち客はほとんどいなかったのでスムーズに入店できる。

 パリパリとした食感のウナギは関西風の焼きだろう。タレは濃厚ではあるがしつこくない比較的あっさりした風味。名古屋飯にしてはさっぱりした方に入ると感じる。店によってはもっとこってりした味付けにしている場合が多い。関西人の私には良いバランス。

 昼食を終えたのでホテルに入ってしまおうかと思ったが、私が予約していたのが廉価プランだったため、チェックインは午後6時から。まだ2時間以上つぶす必要がある。天候がまだ大荒れという状況でもなかったので、名古屋市博物館に立ち寄ることにする。

 

 名古屋市博物館は地下鉄桜山駅の最寄り。以前に訪問したのは10年近く前になるだろう。その時は駅からかなり遠いという印象があったのだが、改めて訪問すると駅からそう遠くはなかった。当時は今よりも体力がなかったのと、あの時は図録を5冊ほど背負っていたのがやけに遠く感じた原因か。なおやけに大勢の高校生と途中ですれ違ったことから、公立学校は退校指示が出たのかもしれない。

 


「幽霊・妖怪画大全集」名古屋市博物館で7/13まで

   

 水木しげるのお化けの漫画が大人気だが、昔から日本では多くの幽霊や妖怪などの姿が絵画に描かれてきた。しかもその姿は単に恐ろしいものだけでなく、なかには美しい幽霊や、妙にひょうきんで愛らしい妖怪など多種様々であり、そこには昔の人々の想像力の豊かさが垣間見られる。本展はそのような幽霊・妖怪画を集めたいかにも夏向けの企画。

 最初に登場するのは幽霊画。幽霊画については円山応挙がいわゆる「美人の幽霊」の絵を描き、これが一つの定番にもなったが、その流れを汲む美人系幽霊から、いわゆる本当に不気味で怖いタイプの幽霊まで種々様々である。通常の人物画などよりも画家の個性が強烈に現れていて面白い。なかにはやはりお化けや幽霊と言えば外せない河鍋暁斎の作品も展示されている。

 幽霊画の次は幽霊を演じている歌舞伎役者の絵もある。これは庶民の生活にまで事細かに制約を課した寛政の改革などで「役者絵は風紀を乱すので禁止」とされたことに対する抜け穴らしい。要は「これは役者絵ではなくて幽霊の絵です」というわけ。昔から庶民に理不尽な規制をかけたがるお上と、それをかいくぐろうとする庶民の駆け引きはあったのである。この辺りの絵画は普通の役者絵に近い。

 幽霊の次はお化け。いわゆる百鬼夜行から始まって、付喪神の類、さらには猫又など動物をベースにしたお化けなどが次々と現れて、こちらは美術展と言うよりはお化け博覧会の趣が強くなる。昔は闇の中にはお化けが潜んでいたのである。この辺りはその想像力を楽しめば良い。


 予想していたよりも随分と面白かった。しかも知らない間に私自身がかなり妖怪の類に詳しくなっていたことに驚いた。私は水木しげるの漫画は好きではないので読んだことはない。どうやら最近「鬼灯の冷徹」にはまってコミックを読んでいたせいのようだ。知らない間に地獄や妖怪に随分と馴染みになっていた。提灯お岩なんて笑わずにはいられない。

 

 博物館の見学を終えるとホテルのある伏見へ。雨が降り始めているが、まだ雨量はそう多くない。ただ風が強いので折り畳み傘がすぐに裏返ってしまうので鬱陶しい。6時まではまだ少し時間があるので夕食を摂ってからホテルに向かうことにする。

 

 立ち寄ったのは「五城」。どうやら味噌煮込みうどんの店のようである。当然のように味噌煮込みうどんの定食を注文する。この暑い最中に味噌煮込みうどんもどうかと思ったが、この店は寒いぐらいに冷房を効かせており、万全の味噌煮込み体制。冬の最中に暖房をガンガン効かせてアイスを食べるのがモスクワっ子なら、夏に冷房をガンガン効かせて味噌煮込みうどんを食べるのが名古屋人である。エコなんて知ったもんじゃない。何しろ全国が享保の改革で質素倹約一色だった時代に、唯一積極財政を取った土地柄である。

 熱々のうどんが運ばれてくる。ここのは具に大量の白菜が入っているのが特徴か。そして麺はとことん堅い。味付けは基本的に赤味噌中心で、関西人としてはもう少し出汁を利かせても良いのではと感じる配合。典型的な名古屋味である。

  

 夕食を終えるとホテルにチェックインする。宿泊ホテルは名古屋クラウンホテル。安価な宿泊料金と温泉大浴場がポイントのホテル。

 ホテルにチェックインするとまず入浴。地下から汲み上げた温泉は単純泉とのこと。加温循環塩素消毒ありなので若干塩素の臭いがするのは仕方ないところ。しかしそれでも露天風呂もある大浴場は快適。

 

 入浴を済ませると一気に疲れが出てくる。明日は仕事もあることだし、かなり早い時間に床につく。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は8時頃に起床。まずは朝食を摂りにレストランへ。朝食は名古屋飯バイキング。結構たっぷりしっかりある食べ応えのある内容。朝食を終えると朝風呂。体を温めたところで外出する。

 名古屋飯の朝食

 今日は仕事であるが、仕事は午後からなので午前はフリー。そこで午前中に美術館を訪問することにする。

 

 台風一過で今朝は晴天だが、まだ風が強くて台風の余韻が残っている。ただ既にかなり気温が上がりつつあり、これは日中にはかなりすさまじいものになりそうな気配がある。美術館は駅からすぐのところ。ここを訪問するのは二回目である。

  

晴れてはいるのだが、まだ風が強い


「ポール・デルヴォーとベルギー近代絵画」ヤマザキマザック美術館で9/23まで

  

 シュルレアリスムを代表する画家の一人であるデルヴォーの作品を中心とした展覧会。本展の目玉は彼が手がけたベルギー・サベナ航空社長ジルベール・ペリエ邸客間の4点の扉絵が初めて再会を果たすことになったこと。ペリエ邸が人手に渡った時に、これらの作品のうちの3点は姫路市立美術館に、1点がヤマザキマザック美術館に収蔵されたのであるが、本展ではこれら4点が一堂に会すると共に、室内装飾の下絵及び当時の写真などが展示される。

 正直なところ私はデルヴォーの作品はあまり好きではない。いかにもマニアック感の漂う建物の描写などは良いのだが、どうしてのあの人物画がしっくりこない。というわけで、個人的にはマグリットの超現実絵画やクノップフの幻想系絵画などの方が面白かったりする。


 ヤマザキマザック美術館の神髄は宮殿を思わせるような展示室に展示されたバロック絵画。これをゆったりと眺めていると、なぜか妙にリッチな気分になってくるから不思議。結局この日の午前は美術館でゆったりとくつろいだのである。

 

 美術館見学の後は栄で昼食。昼食はラーメンを食べることにする。入店したのは「麺屋豚神」。注文したのは豚神に餃子とご飯のセット

 ラーメンは豚骨の細麺でいわゆる博多ラーメン系。しかし器の底に特別な辛み系タレが潜んでいるらしく、食べているうちに味が変わってくるという趣向のラーメン。全体的にこってり系なので、その辺りが評価が分かれるか。ハッキリ言って若向けのラーメンであるので、客層も学生など若いところが多かった。私的にはここの味は嫌いではないが、さすがに胃がもたれるので替玉は無理。

  

 昼食を終えると近くの喫茶で宇治金時で体を冷やしてから仕事に臨むのであった。

 このやけにバランスの悪い宇治金時は次の瞬間に大崩落を起こす

 

 

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 無事に夕方に仕事を終える。仕事の方もなかなかに充実した内容であった。

これからは完全に自由時間。ホテルに戻る前に美術館に立ち寄ることにする。今日は金曜日なので夜間開館がある。立ち寄ったのはホテル最寄りの美術館。


「挑戦する日本画:1950〜70年代の画家たち」名古屋市美術館で8/24まで

  

 江戸時代以前からの歴史があり、明治以降に洋画が導入されてからも日本の伝統を汲みつつ生き延びてきた日本画であるが、戦後になって激動の社会の中で「日本画滅亡論」が登場するまでになった。その中で革新を目指して新しい取り組みを行った画家たちがいた。そのような現代日本画確立の過程で活躍した画家たちの展覧会。

 展覧会の主旨からか、かなり尖った作品が多い。例えば杉山寧や徳岡神泉などの作品の中でも、特に尖ったものを選んだという印象。そのために個人的には違和感全開で、たまに東山魁夷や平山郁夫の「普通の」日本画があればそれが展示の中では浮いてしまう状態。

 日本画家たちの試行錯誤はよく分かる。ただ様々な試みの後に確かに日本画は生き残ったのであるが、結果としては洋画との違いは単に画材の違いだけで、画題も画法も洋画との違いがなくなってしまったという感が強い。果たしてこの方向が正解であるかは、個人的には大いに疑問である。


 美術館の見学を終えると夕食を摂ってからホテルに戻ることにする。ただひつまぶしも食ったし、味噌煮込みうどんも食ったし、もう名古屋飯のバリエーションがない(笑)。結局はホテル近くの「手打ちうどん浅田屋」味噌カツ定食を食べることにする。

 うどん屋で味噌カツもどうだろうと思ったのだが、これが存外に良い肉で、さらに味噌だれも嫌みでなくてなかなか良い。正直なところ面倒になって全く何も期待せずに選んだ店だったのだが、意外に正解だった。

  

 ホテルに戻るとまずは入浴。その後は今日の仕事の報告書をまとめてから就寝することにする。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時半に起床。目覚ましがなる前に自動的に目が覚めたのだが、正直なところいささかしんどい。とりあえずまずは朝食。メニューは昨日と似たようなもの。どうしても連泊の場合、朝食にバリエーションがなくなるのがつらいところ。

 

 ホテルをチェックアウトすると東海道線で三河安城に移動する。今日はここでレンタカーを借りて豊橋北部の城郭を回るつもり。

 

 レンタカーで貸し出されたのは三菱のミラージュ。しかし運転してみるとこれが難儀な車。まずマーチと同様にアイドリングストップなる大馬鹿機能が付いていて鬱陶しいが、このせいでそもそも出足が悪いところに40キロぐらいまでのトルクが極端に細いせいでとにかく出足の加速が絶望的に悪い。あまりの出足の重さに、思わずサイドブレーキを引きっぱなしだったんじゃないかと確認してしまったぐらい。低速域でのトルクの細さはデミオでも感じたことがあるが、それを100倍ぐらい強調したのがこの車。おかげで町乗りの場合には非常にストレスが溜まる。同じ非力な車でもヴィッツの方が特性が素直で運転しやすいと感じる。またエンジン音も結構うるさい。これがこの車種の特性なのか、それともたまたま私が乗った車の単体のクセなのかまでは判然としないが。

 

 言うことを聞かない車を宥めながらの走行。おかげで速度は全く上がらないので安全運転には良いかもしれないが、後ろの車の迷惑になっていないかを注意しながらの走行である。目的地は作手。この周辺にある城郭を視察するのが目的。安城から国道1号線で岡崎の市街を抜けると県道37号で山岳地帯へ。県道37号線は最初は道幅も広い良い道だったが、山間部突入と共にセンターラインが消失し、急傾斜のワインディング道路へと変貌する。こうなるとミラージュの低速トルクの細さは致命的。極めて運転しにくい中を走行することになる。ようやく峠を越えて作手に出てきた時にはすっかり疲れてしまった。ちょうど国道301号線と出会ったところに道の駅があるのでそこで休憩。

 

 それにしても暑い。台風一過で今日は灼熱地獄である。体にまとわりつくような暑さ。これは水を欠かさないにしないと命に関わりそうだ。とのあえずお茶を購入しておく。

 

 作手地域にある城郭は古宮城、亀山城、川尻城、文殊山城、石橋城、賽之神城の6つ。これらがこの周辺に散在しているようである。まずは一番近くにある亀山城に向かうことにする。亀山城は道の駅の北東にある小山上にある。国道301号を北上すると案内看板があるので、それに従って進むと駐車スペースが確保されている。

 「亀山城」は1424年に奥平貞俊が築城した城で、川尻城からここに拠点を移してから奥平氏五代の居城となった。奥平信昌が武田に属したことで一時は武田支配下となるが、その後信昌が徳川の支配下に移行したことで徳川方の城郭となる。関ヶ原の戦い後には松平忠明の作手藩の本城となるが、1610年に彼が伊勢に移封されたことで廃城となった。ちなみにこの時に松平忠明が移った先の城も伊勢の亀山城であるのだが、この亀山城がこれまた丹波の亀山城と間違われて天守を解体されてしまうという目にも遭っている。亀山城という名前が多い故の混乱である。一般的に平地に亀の甲羅を伏せたような形の山があれば「亀山」と呼ばれることが多く、それ故に「亀山城」という名前は結構ありふれた名前ではある。

左 亀山城遠景    右 武家屋敷跡

 駐車場から少し進んだ先は武家屋敷跡の表示があり、城の本体は小高い山上にある。案内に従って登ったすぐ脇が東曲輪で、その向こうに大手跡の表記がある。

左 登城路を登る  中央 東曲輪  右 その先の大手址

 脇の本丸は高い土塁によって守られており、奥の二の丸を経由して回り込むようになっている。

高い土塁の向こうが本丸、右手が二の丸

 二の丸はそれなりのスペースのある曲輪で、ここから作手の町を見下ろせる。この脇が土塁に囲まれた本丸。

二の丸

  

左 二の丸からの風景  右 本丸虎口

 本丸は城内で一番広大なスペースで、ここに案内看板なども建っている。実質的にはこの城はほとんどこの本丸のみの城に近く、周辺の施設がこれを守るという形態になっている。

左 本丸城跡碑  中央 本丸風景  右 本丸土塁

本丸から市街を望む

 二の丸との反対側には搦め手口らしき出口があり、その先は西曲輪につながっている。こちら側は傾斜があまり急でないので、複数の帯曲輪らしき構造で守りを固めている。

左 本丸西口  中央 その先にある西曲輪  右 西曲輪の先端

左 向こうに腰曲輪が見える  中央 本丸西口の土橋  右 その先は堀や土塁で囲われる

さらに先の緩斜面は多数の腰曲輪などで防御している

 土塁などで防御の構えは固めているが、元々そう高くて険しい山でもないので防御力としては限定されているという印象である。ただ世の中が定まった江戸期に城下町を治めるには適した立地であるため、もし作手藩が存続していたら藩城が続いていくことになったであろうと思われる。

 

 亀山城見学後は、ここからさらに北方にある「古宮城」を訪問する。古宮城は武田氏が奥平氏を監視するために建造した城郭と言われており、亀山城とは指呼の間にある。こんなところまで侵攻されたのなら、奥平氏が一時期武田氏に属したのもやむを得ないことであろう。田んぼの中の小山にあるが、恐らく往時には周辺は沼地だったのだろうと推測される。現在は神社の裏山となっている。

 

 神社の前に車を置くと裏山に登る。城は大きく東西に分かれており、街道に面している西側が正面で東側が奥になる。神社の裏には大ひのきが生えているが、その奥が東の曲輪になっている。東の郭は土塁で東西二つに分かたれていて、周囲は高い土塁で囲まれている。周辺の斜面には多数の帯曲輪らしき構造を見ることが出来る。

左 白鳥神社  中央 神社の奥を登る  右 東本丸入口前の大ひのき

左 東本丸と二の丸の間の土塁  中央 北側の帯曲輪  右 西側の帯曲輪群

 西の曲輪との間は土橋でつながれ、その両側には深い堀切で完全に分かたれている。最悪は正面の西の曲輪が落ちることがあっても、ここで東の郭への侵攻を完全に妨げることが出来る構造になっている。

左 西の曲輪と東の郭をつなぐ土橋    右 間の堀切はかなり深い

 西の曲輪の内部はこれも東の曲輪と同様に土塁で東西に分かたれている。またさすがに正面だけあって、周囲は高い土塁と堀切で囲まれており、かなり厳重な防御の構えを見せている。

西二の丸

左 西二の丸脇の第一空堀  中央 奥が西本丸  右 西本丸

左 西本丸の西の空堀  中央 西本丸土塁上を歩く  右 西三の丸方向

左・中央 西三の丸  右 西三の丸から東本丸の方向を望む

 やはり武田氏の築いた城だけあって、先ほどの亀山城と比較すると山の高さとしてはそう大差ないように思われるにも関わらず、防御の厳重さにおいては数段上である。なお遺構の保存状態も非常に良く、実に見応えのある城郭である。

 

 古宮城の次はさらに北側の「川尻城」へ。ここは奥平氏が亀山城の前に本拠としていた城郭である。現在は本丸部分が神社になっていて、模擬冠木門なんかも設置されている。基本的に単郭構造の単純な城郭で、周囲の険しさは亀山城よりも険しいが、山上のスペースは亀山城よりも小さく、手狭な城という印象である。奥平氏がこれでは本拠としては不十分と判断して亀山城へ移動したのも納得できる。

左 川尻城遠景  中央 城跡碑  右 本丸

 城郭を三連荘し終わった頃にはお昼時になっていた。再び道の駅「つくで手作り村」に戻ってくると昼食を摂ることにする。注文したのは地元食メインの「手作り村定食(900円)」。野菜の天ぷらにこんにゃくの刺身、小鉢に炊き込みご飯という野菜中心のかなりのヘルシーメニュー。

 あまりの肉気のなさは少々ツラいが、これはこれで結構うまい。やはりどこでも食材は地元産に限る。

 

 食後はソフトクリームでクールダウン。地場食のトマトソフトなんてのもあるらしいが、そもそもトマトが嫌いな私はさすがにこれに手を出す気にはなれなかった。

 腹がふくれたところで残りの城郭視察である。今度は山上にある文珠山城と賽之神城に立ち寄るつもり。途中で歴史民俗資料館に立ち寄って資料を入手すると、この近くから出ている林道へ入る。林道はかなり荒れた砂利道の上に登り坂。非力なミラージュだと途中で砂利をはじき飛ばしてタイヤが滑ってるのが分かる。このままだとその内にスリップして登れなくなるのではと心配になった頃にようやく舗装道路に変わる。後はそのまま山頂まで登ると文珠山城の近く。

 

 「文珠山城」は奥平氏が武田氏との和睦の証に築城することになっていた城だが、奥平氏がいつまでも築城を引き延ばしたのでついには武田から強談されて、あわてて一夜で築城したと言われている城である。

左 文珠山城はこの上  中央 城跡碑  右 物見櫓

 確かに見晴らしの良い山上には建っているが、単郭構造のシンプルな城郭で、山頂をチャッチャと削平しただけという印象。どことなくやっつけ仕事感が漂う城郭で、武田に迫られた奥平氏が慌てて嫌々築城したということもありそうである。ただ見晴らしは良いので、現在では物見櫓が建っている。

  

櫓城からは亀山城も見える

 ここから尾根沿いに下っていくと賽之神城にたどり着けるとのことだが、25分ほどかかるとのことなので、車で登山道を一端引き返し、途中から尾根筋にとりつくことにする。このルートだと賽之神城へは10分程度で到着できる。

 ここから右に進むと奥の尾根筋にとりつくことが出来る

 「賽之神城」はその来歴が明らかでなく、武田氏によって奥平氏との和睦の際に築城されたとか、奥平氏が作手に来る以前にこの地にいた米福長者の時代に既に存在したとか諸説あるようだ。ただその普請の程度の差から、二時期にわたって構築が行われているとの指摘もあるとか。

 賽之神城にたどり着くと一番最初に出くわすのが大きな堀切。それを登った先が二の曲輪と言われている削平地である。

左 尾根筋を進んでいくと  中央・右 大きな堀切に到着する

それを登り切ったところにある二の丸

 ここから先に進むと、いくつかの小曲輪の横を登っていくことになり、虎口を抜けて本丸にたどり着く。本丸はそう広いわけではないが、土塁で厳重に囲われて、ここから東側や南側の斜面にはいくつかの曲輪らしき構造を見ることが出来る。先ほどの二の曲輪の単純な構造に比べると明らかにかなり凝ったものであり、これが普請の程度の差と言われているところか。

左 さらに先を登っていく  中央 いくつかの小曲輪を抜ける  右 本丸虎口

本丸

左 先には小曲輪が連なる    右 土塁で囲われた小曲輪

 いかにもやっつけ仕事感のあった文珠山城に比較すると、かなり凝った作りの城になっており、これは武田氏が本気で作った城ではという気がする。武田氏はここを拠点の一つとして徳川領の制圧を目指していたのだろうが、結局は長篠での敗戦でこの城郭はその役目を終えないまま放棄されたらしい。武田の野望の跡と言うべきか。

 

 山城の見学を終えると最後は「石橋城」。しかしここは城というか館レベルの城郭である。初代城主は奥平二代貞久の次男の久勝で、近くの地名から「石橋」と称して、三代貞昌の家臣となったという。しかし久勝の子の繁昌の時に主君への謀反が露見し、四代貞勝の命を受けた土佐定勝に屋敷を攻められて敗北、郎党40人余りが討ち死にしたとのこと。後年に繁昌と一族の死を哀れんだ徳岩明和尚が貞勝に願い出て、屋敷跡をもらい受けて石橋山慈昌院を開いたという。この慈昌院は今でも道の駅の向かいにあり、ここが石橋城跡である。

左 石橋城  中央 内部はお寺で奥には土塁がある  右 敷地の半分はゲートボール場

 手前は切岸(往時には堀があったかも)で、後は土塁で防備した厳重な館であるが、所詮は大兵に攻められるとひとたまりもなかったであろう。なお現在は寺の敷地の一部がゲートボール場になり、地元の老人が試合開催中であった。

 

 これで作手での予定は終了である。次の目的地を目指してくるまで移動する。次の目的地は新城。この道程は下りになるので、非力なミラージュでも比較的楽に走れる。

 

 「新城城」は長篠の戦いで戦功のあった奥平信昌が長篠城に代わって新たに建造した城で、豊川を背にして手前を堀と土塁で防御した城であったという。城下町の建造を意識しての立地になっているが、豊川を背にした防御陣は明らかに長篠城の形式を踏襲している。その後、奥平氏は家康の関東移動について富岡に移住し、その後新城城は何人かの城主を経て1645年に廃城となったが、跡地に旗本の菅沼定実が陣屋を構え、そのまま幕末を迎えたとのこと。

左 小学校のグランドになっている  中央 城跡碑  右 ここは櫓台らしいが・・・

 新城城の本丸跡は現在は新城小学校の校庭になっている。校庭の南西部にある鉄塔の建っている土台がかつての櫓跡とのことだが、鬱蒼としている上に「まむし注意」の看板が気になったので近寄っていない。これ以外には特に遺構らしきものはなさそうだ。

 

 新城城の次はこの少し西にある「野田城」に立ち寄る。野田城は徳川配下の菅沼氏の城で、武田の三河侵攻の際に武田の大軍に包囲されることになる。この時の徳川氏は三方原の大敗で後詰めが出来る状態でなく、菅沼氏は寡兵で立て籠もって抵抗するものの、信玄が呼び寄せた金山衆によって掘られた地下道によって井戸の水が抜かれてしまい、やむなく降伏する。しかしこの後に武田軍は甲斐に撤退したことから、この戦いで美しい笛の音に誘われた信玄が狙撃されたとの伝説も残っている。

 野田城は両脇を淵に囲まれて街道側から曲輪を3つ連ねた並郭構造の小規模な城郭である。現在は二の丸のところからが整備されており、二の丸と本丸の間の堀を見ることが出来るが、かなり深い堀切であり、両側が淵で守られていたことを考えると、規模の割には堅固な城郭である。

左 二の丸にある入口  中央 本丸との間の堀  右 奥が本丸

 本丸には伝説にちなんだ地元の祭りらしい「笛の盆」の旗が多数立っており、どうやらここの本丸跡が何らかの会場になるらしい。また本丸には「信玄狙撃地点」の看板と井戸の跡が残っている。井戸は結構大きなものだが、今は水はない。

左 本丸  中央 祠がある  右 城跡碑

左 本丸奥の井戸  中央 井戸の中に水はない  右 信玄狙撃地点

 これで当初予定していたコースは終了。しかしまだ4時だし、レンタカーは8時まで借りられる。どこかの城郭に立ち寄りたいところ。静岡にいくつか候補はあるのだが、さすがに今から静岡では1時間半ぐらいはかかるので見学している時間がない。そこでパイオニアのカーナビにお伺いを立てたところ、最近のカーナビは意外と城跡のデータも入っている。愛知県内で調べたら、30分程度で到着できそうな城郭は2カ所。伊奈城と上ノ郷城。そこでまず近い伊奈城に立ち寄ることにする。

 

 「伊奈城」は現在は公園として整備されている模様。カーナビに従って運転しているととんでもない路地に誘導される。どうやら現地は田んぼの真ん中。かつては恐らく湿地帯の中に浮いていたのだろう。

左 伊奈城遠景  中央 伊奈城公園  右 模擬櫓

 伊奈城は「三葉葵の紋」の発祥ゆかりの地との表記がある。伊奈城は本多氏の城郭である。城主の本多正忠が松平清康の吉田城攻略で武功を上げ、伊奈城に清康を招いての祝宴で城内の花ヶ池にあった水葵の葉を敷いて酒肴を出したところ、清康は大そう喜び、「立葵は正忠の家の紋なり、此度の戦に、正忠最初に御方参て、勝軍しつ、吉例也、賜らんと仰ありて、これより御家紋とはなされたり。」とのこと。これ以来松平家の家紋が「立葵の紋」になったとのこと。この「立葵の紋」が徳川時代に「三葉葵の紋」に変化したらしい。

 

 とは言うものの、城跡自体にはこれといったものは何もなく。なんちゃって櫓が建っているだけ。当時の遺構と言えるものはわずかに土塁だけという次第。

 

 次は「上ノ郷城」に立ち寄る。上之郷城は中世城郭跡で蒲郡市の指定史跡になっているという。戦国期の城主は鵜殿氏で今川氏に属していたが、桶狭間の戦いで今川義元が討たれた後、三河統一を目指す徳川家康に攻められて落城、城主の鵜殿長照は討ち死にしたとのこと。なおこの戦いでは甲賀忍者が活躍したと言われている。

 上ノ郷城についてはネットで検索したところ、地元の「上ノ郷城を愛する会」なる団体のHPにたどり着いた。アクセスを調べたところ、上ノ郷城周辺の道路は狭いようで、近くの中央公園の駐車場に車を置いて、徒歩でのアクセスを勧めているのでそれに従うことにする。城郭見学の鉄則は、地元の人の迷惑にならないことである。

左 上ノ郷城遠景  中央 赤日子神社  右 案内看板の奥に上ノ郷城が見える

 蒲郡周辺の道路が大渋滞で、中央公園にたどり着いた時には予定よりも遅い時刻になっていた。駐車場から遠くに見える小高い丘が上之郷城らしい。日が西に傾いていく中をまずは赤日子神社に向かう。神社の脇に上ノ郷城の案内標識があり、それに従って進んでいくとミカン畑の先に上ノ郷城跡のでかい看板が見えるので、案内標識に従って、畑に入らないように注意しながら進む。

左 奥が本丸  中央 土塁の上にあるのが城跡碑  右 土塁上を歩く

 上ノ郷城は本丸とそれを取り巻く堀跡と土塁が残っており、堀跡は今はミカン畑のようである。本丸は草を刈って整備されており、先ほど見えた大きな看板が立っている。どうやら「上ノ郷城を愛する会」が整備にがんばっているのだろう。整備状況は良好である。このように地元有志ががんばっているのは心強い限りである。なおこの本丸では発掘調査も行われて、土師器や飾り金具なども多数発見されたらしい。現在は発掘跡は埋め戻されたらしく、本丸の一部が土盛りで小高くなっている。

左 建物跡があったという曲輪  中央 本丸虎口  右 本丸の看板

本丸風景

 鵜殿長照は周囲がすべて徳川方に寝返って孤立する中で、徳川方の攻撃に耐えて持ちこたえていたとのことだから、現在残っているだけの小規模な城郭とは思いにくい。恐らく往時には現在住宅やミカン畑になっている辺りから赤日子神社までも含んだ大規模な城郭だったのではないかと思われる。

 

 これで今日の予定は完全終了である。後は今日の宿泊予定地である豊橋まで車を走らせる。しかしこの行程もやはり蒲郡周辺が渋滞で時間を食う。ようやく豊橋に到着してレンタカーを返却した時には7時頃になっていた。

 

 今日の宿泊ホテルはニュー東洋ホテル2。数年前に飯田線の視察の際に宿泊したホテルである。大浴場完備で安価な宿泊料がポイントのホテル。駅から結構距離があるのが難点である。

 

 ようやくホテルに到着するが、チェックインの時に一騒ぎ。どうも予約が入っていないという。まさかと思って確認してみると、なんと私がじゃらんで予約した日付が1日間違っている。幸いにして部屋に空きがあるということで事なきを得たが、下手すると宿泊場所がなくなるところであった。とんだミスである。次からは予約の日時をキチンと確認しておかないと。

 

 チェックインするととにかく腹が減っているのでまずは夕食。豊橋周辺は以前に良い飲食店がなかった記憶があるのと、多分疲れ切って飲食店を探すのが面倒になっていることが予想されたので夕食付きプランにしている。

 夕食は特に凝ったものでもない普通のメニューだが、ボリュームの点で申し分ないし、味も悪くない。日替わりメニューになっているようでいかにも連泊向き。CPが良くていかにも普段使いのホテルという印象。

 

 大浴場は男女入れ替え制で、女性タイムが8時〜9時なので、その前に入浴しておくことにする。大浴場は普通の風呂だが、手足を伸ばしてくつろげる風呂は何より。とにかく今日は一日で10カ所の城郭を回った(一日での立ち寄り数としては今までの最高記録である)ので体中に疲労が溜まっている。それを十分に癒やしておく必要がある。

 

 入浴を済ませると部屋でマッタリ。しかしさすがに原稿を書く気力もないのでボーッとするだけ。テレビを見ながらボンヤリしていると10時前になったので、もう一度大浴場に入浴に行ってから就寝することにする。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時半に起床。今日は別件での用事があるので、昼過ぎには帰る必要がある。さっさと朝食を摂るとシャワーで汗を流す(朝風呂がないのがこのホテルの難点)とチェックアウト。

 

 新幹線で帰る前に豊橋市美術博物館にだけ立ち寄っておきたい。豊橋駅から路面電車に乗ると豊橋公園前で下車、美術館があるのは豊橋公園こと吉田城内。まだ美術館の開館時間の9時まで10分ちょっとの時間があるので、その間に久しぶりの吉田城散策。

 豊橋の路面電車

 「吉田城」は江戸時代に吉田藩の政庁とされた城郭で、最初の築城は16世紀初頭の戦国期だが、17世紀初頭にこの城に配された池田照政が大改築を始め、それが完成したのは照政が姫路に移封された後である。東海道を押さえる要地であるため、譜代大名が次々と城主に任命されて頻繁に国替えがあったという。そのために「出世城」と呼ばれていたというが、この城の城主になったから出世したというよりも、正確には「出世するような者がこの城の城主に任命された」である。

左 本丸周囲の堀  中央 本丸裏御門  右 鉄櫓

 現在は城のほとんどは公園化されているが、一部土塁や堀などが残っていて往時の城の雰囲気を伝えている。また本丸跡には模擬の鉄櫓が再建されている。

 

 吉田城の見学を終えてから豊橋美術博物館に入館する。

 


「安野光雅「旅の絵本」の世界展」豊橋市美術博物館で8/17まで

  

 安野光雅が世界の風景を描いた一連の絵本作品の原画を展示。淡い色調でメルヘンチックでユーモラスに描かれた独特の絵画は、どことなく懐かしいような表現しがたい魅力を持つ。

 エキゾチックな世界の風景も良いのだが、個人的にはやはり日本の風景が一番心に響く。特に彼の出身地である津和野の風景は、なぜか余所者の私にも心の原風景と共鳴するのである。


 彼の作品を見ていると、やはり「地方が元気になってこそ正しい日本」という意識が強くなるのである。何とかして地方再生の方法を考えないといけないのだが、如何せん、国会議員でも何でもない一介の市民である私には何とも術がない。某「ののちゃん」こと、あんな大馬鹿野郎でも県議が務まるのなら、私もまず県議選にでも出てやろうかという気になってくる。私なら彼のような城崎、佐用の繰り返しでなく、本当に各地の視察に出向いてキチンと報告書と提案書を提出してやるのだが・・・。もっともどさくさに紛れたとしても、私のように地盤・看板・鞄のいずれもない者は当選はまず不可能だが。

 

 これで全予定が終了である。後は新幹線で帰宅することとなる。

 

 出張で名古屋に行くことになったのに絡めて、プライベートの美術館巡りと城郭巡りをドッキングさせたのが今回の遠征。それにして最近はやたらに忙しくてとにかく出張が増えている。私はそんなに出張に出歩く必要があるほど偉い立場ではないはずなのに・・・。

 

 仕事をこなしつつ、美術館を4館、城郭を10カ所駆け回った遠征であり、公私共に非常に収穫の多い遠征ではあった。ただその分、疲労も洒落にならないレベル。やはり台風一過の炎天下でかけずり回ったのは体にかなり応えた。そろそろ年も考えないと。

 

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