展覧会遠征 中央日本編

 

 いよいよ大型連休である。今年の年初方針は「宿題を片づける」。現在多くの宿題が残っているのは信州から関東にかけての地域である。この地域には多数の訪問すべき城郭や重伝建なども残っている。そこで今回、この宿題を一気に片づけるべくプランを練った。結果としてできあがったプランは、信州から関東を回り、再び信州を抜けて北陸経由で帰還するというGWをフルに活用した大遠征である。

 

 出発は金曜日の夜。仕事を終えると山陽自動車道を突っ走る。しかし西宮の手前で車が全く動かなくなる。どうやらこの先で事故があったとのこと。それでなくてもこの地域は慢性的な渋滞なのに事故なんてあったらどうしようもない。結局はこの渋滞で1時間以上をロス(何しろブルックナーのくそ長い交響曲がまる一曲終わったぐらい)。宿泊予定のルートイン彦根に到着した時には8時を回ってしまった。それにしても鉄道ならあまりに時間が遅れたら特急料金が返ってくるのに、高速道路はいくら時間がかかってもあのくそ高い料金をまるまるボッタクるのはなぜだ? しかもこの4月から割引がなくなったので異常と言っても良い価格になっている。

 ようやくホテルに到着した時には空腹状態。とりあえずホテル内の飲食店「花茶屋」上田カツカレーを夕食に頂く。カレー自体は悪くないが、ややルーが少な目である。

 夕食を終えたもののまだ腹が寂しい。かといってこれ以上食べたら食べ過ぎ。結局はコンビニでサラダを調達してこれを食べることに。

 夕食を終えると入浴。ルートインによくある人工温泉大浴場である。渋滞のせいで右足がつりかけているのでそれを癒す。風呂上がり後は部屋でマッタリ。しかし明日が早いことだし11時前には就寝する。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時半に目覚ましで起床。以前から左肩が四十肩で痛んでいたが、最近は右肩にまで同じ症状が出ており、どうも昨晩の夜中にその右肩をさらに悪くしたようだ。朝には右肩がドヨンと重くなっている。と言ってもそんなことに構っていられない。今日も予定は目白押しだ。

 

 ホテルで朝食と朝風呂を済ませると8時前にはさっさとチェックアウトする。今日の予定はまず馬籠宿までの移動。名神から中央自動車道に乗り継いで快調なドライブ。しかし恵那IC手前まで来たところで車の流れがストップ。どうやら事故の模様。昨日といい、今日といい、やはりGWは普段に車に乗らない下手くそドライバーがいきなり長距離走行するので事故が多い。おかげでしばしの時間のロス。しかもこういうトロトロ運転をしていたら、普段動かしていない車はトラブルを起こしやすいもの。道路脇に停まっている故障車らしき車までいる始末。

 

 予定より遅れてようやく馬籠宿に到着。馬籠の観光用駐車場は馬籠下と馬籠上にあるようだが、手前の馬籠下の方に車を置いて徒歩で散策に出る。

 馬籠宿は斜面の町である。ここからは馬籠の町並みの見学は斜面を登っていく形になる。なかなか風情のある町並みであるが、ただよく見ると建物自体はそう古くはないように感じる。どうやらここの宿場町は、この地形から火事などの延焼が起こりやすく、今までに何度か丸焼けになっており、近いところでは明治になってからも焼けているらしい。だから「残念ながら江戸時代の建物は残っていない」とのこと。この辺りが隣の妻籠宿が重伝建なのに対し、馬籠宿が重伝建でない理由なのだろう。

 多くの観光客が訪れているが、よく聞いていると韓国人や中国人が多い。なお中国人の団体は通路の真ん中に居座って、通行人が通りにくそうにしていても意に介さない。この辺りが中国人の団体客がいろいろ言われる一因なのであるが。

 

 町並み散策しながらやはり腹が減る。見つけた「槌馬屋」栗ふくを頂く。結構あっさりした栗あんがうまい。

 宿場町のはずれまで来ると展望台から風景を楽しむ。ここから2時間ほどで妻籠宿まで歩けるとのことだが、私の目的はハイキングでもウォーキングでもないのでそれはやめておく。

 栗きんとんソフトを食べながらの帰り道は下りなので楽である。脇本陣資料館や藤村記念館などに立ち寄ってから駐車場に戻ると、近くにあるという「馬籠城址」に。しかしそこは看板が立っているだけで何も残っていない。地形的にもさほど堅固にも感じられないし、館レベルの城郭だったのだろうか。

 馬籠城址は看板だけ

 馬籠宿を後にすると妻籠に向かう。馬籠から妻籠までは10キロ程。車で走るとそれほどでもないが、歩くとなるとアップダウンもあるしでしんどい距離である。昔の人間はこれを徒歩で移動していたのだからかなりの健脚である。

  妻籠宿はこの橋を渡った先

 妻籠に到着すると中央駐車場に車を置いて町の散策に向かう。妻籠宿はかなり古い建物も残っており、町並みとしての完成度が極めて高い。本陣や脇本陣が博物館として妻籠の歴史を解説しているが、要は中央線が妻籠からはずれたところを通ることになったことによって宿場町としての妻籠は完全に寂れてしまい、そのことが逆にかつての町並みがそのまま残る原因となったとか(住民は貧困化して大変だったらしいが)。そこでその残った町並みを活かして観光での立地を考えることにしたのだという。その結果として、妻籠は日本で最初の重伝建となっている。

とにかく驚くレベルでの町並みの完成度の高さである

本陣

脇本陣には天皇のために用意したトイレ(結局は未使用)まで残っているとか

 そろそろ昼時なので妻籠宿で昼食を摂ることにする。「吉村屋」というそば屋を見つけたので入店。季節メニューという「葉わさびそば(1050円)」を注文する。

   

 ピリッと辛い葉わさびがアクセントになったそば。まあ普通にうまいのであるが、ただやはりあからさまに観光地価格ではある。まあ観光地で食事の場合、CP云々を言うこと自体がナンセンスなのであるが。

 

 町並みを散策しながら町の外れまでやってきた。このまま「妻籠城」の見学に向かうことにする。妻籠宿の町のはずれにある小高い山上にあるのが妻籠城である。ここでは秀吉と家康が激突した小牧長久手の戦いで、秀吉方の木曽義昌がこの城に籠もり、寡兵で徳川方の大軍を食い止めたという実績があるという。

 この完全包囲下で持ちこたえたらしい

 登山口手前までは車道が通じており、そこからは整備された山道を10分程度で山上の主郭にまでたどり着ける。規模は小さくて縄張りも主郭を二の丸が取り囲むだけの単純なものだが、周囲は切り立っていて堅固な城郭であり、寡兵で立てこもるには適した城郭である。徳川方が攻め倦ねたのも当然ではある。

左 登城路入口  中央 土橋を渡った先が城内  右 城内

左 本丸を帯曲輪が取り囲む  中央 堀切もある  右 虎口構造か
 

本丸風景

本丸から妻籠宿を一望

 妻籠城の見学を終えると妻籠宿を後にする。今日の宿泊予定地は木曽福島。中山道をひたすら北上する。沿道はどんどんと山深くなっていく。1時間弱で到着した木曽福島は山間の谷間に広がる宿場町。

 

 福島の関所が復元されているので、そこの駐車場に車を置いてまずは関所の見学。以前に訪問した箱根関所に比べると小規模な印象である。

左 関所の門  中央 関所跡  右 こうなっていたらしい

左 隣に復元された関所の建物  中央 内部  右 福島関所復元模型

 木曽福島は谷間の町で、市街地が上下二段に分かれた構成になっている。その上の段に往時の風情をとどめる町並みがあるというので見学に出向く。完全に往時のままの町並みと言うことではなさそうだが、なかなかに風情のある町並みが残っている。なおこの町並みに晴明神社もあり、これなんかは今流行のパワースポットなんかになりそうだ。

左 上の段に上がる  中央 上の段  右 街道沿い

左 晴明神社  中央 宿場の入口付近  右 高札

 町並みの見学を終えた頃にようやく宿のチェックイン時間になるので宿に向かうことにする。今日宿泊するのは「萬蔵の宿むらちや」。かつての宿場宿の風情をとどめる民宿である。

 

 案内された部屋は一番奥の和室。今日は地元の中学の相撲クラブの団体の宿泊があるので少々やかましいかもとのこと。まあそれは仕方のないところ。とりあえず団体さんがやってくる前に入浴を済ませておくことにする。風呂は家庭風呂レベルの風呂だが、それでもユニットバスよりははるかに良い。

 

 入浴を済ませてテレビを見ながらしばしマッタリ(つまりはこの原稿を打っている)していると夕食の用意が出来たとの連絡が来るので食堂へ。メニューとしてはそう特別なものはないが、量も十分で味も良い。腹一杯堪能する。

普通の料理だが五平餅が特徴的

 腹が膨れると部屋に戻ってこの原稿打ち。しかしかなり疲れているのでさっさと布団を敷いて横になってしまう。そのうちにテレビで「テルマエ・ロマエ」が始まるのでそれを鑑賞。前半は原作のダイジェストみたいで今一つだが、原作から離れてオリジナル展開を始める後半の方が面白い。それにしても、原作ではケイオニウスを女たらしで皇帝には頼りないが決して悪い奴ではないという描き方だったのだが、映画ではケイオニウスを明らかに悪党として設定していたのが大胆。しかし短時間勝負の映画ではこの方が話にメリハリがつくだろう。

 

 テルマエが終わった頃には11時を回っているのでそのまま就寝することにする。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時半頃に起床。7時に目覚ましをセットしていたが、外が明るくなってきたし(部屋にカーテンがない)、他の部屋がドタバタし始めたしで自然に目が覚めた。

 

 とりあえず朝風呂を浴びると朝食は7時半。しっかりした和定食でなかなかうまい。

   和定食でうまいが、納豆だけは食えない

 朝食を終えると8時にはチェックアウトする。今日も予定は目白押しである。まず最初の目的地は安曇野。風光明媚な土地で知られているが、美術館なども多い土地である。まずはここの美術館に立ち寄ろうという考え。

    

 中山道を突っ走ると、塩尻から長野道に乗って安曇野まで。安曇野は背後に日本アルプスの山々を控えた絶景の土地。今日は天候が良いので日本アルプスが風景に映えている。山と言えば六甲山のような中途半端な山ばかりを見て育った神戸出身の私に新鮮な風景である。

 

 まず最初に立ち寄るのは豊科近代美術館。何やら中世の建築物のような味わいにしてある。


「生誕百年 高橋節郎展」豊科近代美術館で6/1まで

   

 漆を題材に自由な芸術作品を作り上げたのが高橋節郎である。

 その作品は実に多彩。伝統工芸の流れを汲んでいるような作品もあるが、基本的には感覚は現代アートである。光沢のある漆面に金箔などを使用して装飾的で記号的なデザインを施してある。抽象絵画的な作品から琳派を思わせるような装飾的なものまで幅広い。

 工芸も現代アートも完全に守備範囲外の私だが、不思議なことに彼の作品には魅せられるものがあった。漆の光沢というのは芸術表現にここまで適しているとは。


 この美術館の常設展は近代彫刻の高田博厚の作品や画家の宮芳平の作品を展示している。高田博厚のの作品については有名人の肖像彫刻などが多数。うまいなあとは思ったが、特別な印象はあまりない。宮芳平は私の苦手な絵の具厚塗り系絵画。

 美術館周辺には様々な花を植えた花壇があり、これがなかなかの見物。カメラを持ってウロウロしている観光客も数人いた。

 

 豊科近代美術館の次は高橋節郎つながりで、その名も高橋節郎記念美術館へ向かう。高橋節郎記念美術館は安曇野の中心からやや離れた閑静な一角にある。

 

 美術館の展示品は当然のように高橋節郎の漆作品。漆パネルの大型作品などが多い。

 

 美術館内に高橋節郎の生家が保存されているのでザクッと見学する。いわゆる普通の田舎の農家である。

 高橋節郎記念美術館の次は碌山美術館へ。ここは近大彫刻家の荻原守衛の作品を中心に展示した美術館。教会風の建物を中心に、複数の展示棟に多数の彫刻作品が展示されている。荻原守衛の代表作である「女」などもここに展示されている。確かにこの作品は一目見ただけでも「おおっ」という声が出る作品。

 

 美術館を一回りすると美術館の前のそば屋「寿々喜」で昼食にする。「中ざるそば(1000円)」を注文。

   

 中盛りで1000円という価格設定は「観光地だな・・・」と思っていたのだが、出てきたそばの量を見て値段の理由が判明。大盛りにしなかったのが正解だった。腰のあるあっさり目のそばでまずまず。

 

 昼食を終えたところで次は田淵行男記念館に立ち寄る。ここは彼の山岳写真を展示してあり、私の訪問時には北アルプスの雪形を展示。雪形をいろいろなパターンに解釈していたのは面白い。なお図鑑の作成を目指して描いていたという蝶の精密画も展示。写真だけでなくて画才もあったようだ。

 

 安曇野の美術館を一渡り見学し終わったところでこれからどうするか迷う。安曇野はかなり風光明媚な地なのでもっと風景を楽しんでも良いのだが、正直なところ私はせっかちで飽きっぽい性格なので、ボケーッと風景を眺めているだけというのは退屈で性に合わない。それにルートの関係で本遠征中に安曇野はもう一度立ち寄る予定になっている。考えた挙げ句、明日の予定の一つを繰り上げることにする。明日の予定は当初からかなりタイトになっているので、一つ消化しておいた方が明日の行動が楽になる。

  美しい風景に若干の未練はあるものの・・・

 高速道路で次の目的地へと移動することにする。次の目的地は重伝建の海野宿。北国街道の宿場町として栄え、明治になって宿場町としての機能を失って後は、養蚕の地として繁栄したという。

 

 海野宿までは結構長い移動になる。長野自動車道を北上、長野市近くの更埴ジャンクションで上信越道に乗り換えて南下する。そのまま上田を過ぎて東部湯の丸ICまで。

  海野宿

 ICを降りるとそこから海野宿はそう遠くない。町のはずれにある市営駐車場に車を置くと徒歩で町並みの見学に繰り出す。海野宿の街道は中央に用水路があるのが特徴。また建物はうだつと格子戸が特徴的。また屋根の上には気抜きと呼ばれる小屋根があるが、これは養蚕のために建物を暖房する際の煙抜きらしい。海野宿の建物は元々は旅籠が多かったのだが、その旅籠の二階の大部屋がそのまま養蚕のための空間になったらしい。

ここもとにかく町並みの完成度が非常に高い

 町並みを一回りすると福嶋屋くるみおはぎを頂く。大根おろしと醤油の2タイプを頼んだが、これがなかなかうまい。大根おろしはさっぱりと醤油はコッテリとで風味が違って良い。

 町並みは風情があるのだが、今でも街道の名残があるのか結構車が通るのが気になるところ。道幅が狭いので片側がトラックなどならすれ違いに苦労していた。しかしこれでも昔の街道に比べると明らかに拡幅がされているのだろう(用水路はかつては街道の中央にあったらしいが、今は端に寄っている)。町並み保存の意識がなかったら、この用水路はとっくに埋め立てられて道路になっていたのではと思われる。現地には観光客も多く、観光客を相手にした店も結構あるので、町並み保存が地元振興につながっているのだろう。

 

 海野宿の町並みと名物を堪能すると上田に移動する。ついでに上田の柳町の見学。ここも北国街道の宿場町としての面影が残っているという。町並みの完成度も規模も海野宿とは比べるべくもないが、ここもこれはこれで風情のある町並みである。なお現地の観光客相手のビジネス化は海野宿以上。多くの観光客目当ての店が連なっている。私はとりあえず夜食用のまんじゅうを入手。

上田市柳町の町並み
 

夜食用の菓子を購入

 柳町の見学を終えると今日の予定は終了である。上田を後にすると南部の山岳地帯に向けて車を走らせる。今日の宿泊地は一山超えた先にある山間の温泉地である。

 

 今日宿泊するのは鹿教湯(かけゆ)温泉のこくや旅館。鹿教湯温泉はその名の通り、鹿が教えたという伝説のある温泉である。傷ついた鹿がここの湯で傷を癒していたのだとか。この手の伝説のある温泉は多く、寸又峡温泉は傷ついた猪が傷を癒していた湯だと言われているし、湯田温泉は白狐が教えたという伝説がある。

   

 宿泊するのはこくや旅館。見るからに建物が古びており、正直なところ「失敗したかな」と感じたのだが、案内された部屋自体は想像よりは綺麗であり安心する。

 

 チェックインすると早速浴場へ。内風呂一つのシンプルな施設だが、浴槽へは湯がかけ流されている。泉質は無色無味無臭(微苦味と微硫化水素臭とのことだが)の単純泉。残念ながら別所温泉ほどには強烈な湯ではないが、それでもくつろげる湯である。

  宿の裏手の桜は満開

 風呂から上がるとゆったりと休憩。夕食までこの原稿を打ったりテレビを見たりで過ごす。夕食は6時過ぎに部屋に運ばれてくる。鯉などが中心のメニューで素朴でありながら意外に豪華でうまい。

   

 夕食後はもう一度入浴してからかなり早めに就寝する。長距離運転の疲労は確実に体に残っている。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 早く寝過ぎたせいで3時頃に一旦目が覚めるが無理矢理に再就寝、何だかんだで6時頃に起き出すと朝風呂。朝食は8時からなのでまだまだ時間がある。とりあえず空腹をこらえながら原稿執筆。

 ようやく8時になって朝食を摂るとすぐにチェックアウトする。今日の予定の一部を昨日にこなしたので、スケジュールには若干余裕がある。とは言うものの、キビキビと予定をこなしていかないと何が起こるか分からない。

 

 まず最初の立ち寄り先は「戸石城」。村上義清がこの地域の拠点としていた堅固な山城で、この城を攻略しようとした武田信玄が戸石崩れと呼ばれる惨敗を喫したことで知られる。なおその後、戸石城は信玄家臣の真田幸隆が仕掛けた調略工作によって落城している。

案内に従って進むと駐車場に誘導される
 

 現地に到着すると手前からしっかりと案内看板が出ており、案内看板付きの駐車場も整備されている。どうやら最近に宝くじ助成の事業として城跡の整備がなされたようだ。入口部分には明らかに某ゲームのイメージを引きずっていると思われる真田幸村の幟の立ったなんちゃって城門まで建てられており、登城路も通常の山城の登城路に比べるとハイウェイに感じられるぐらいの整備のされようである。

左 現地案内板  中央 なんちゃって城門  右 明らかに某ゲームの影響が濃厚な真田幸村像

 ただ一つ気になるのは、あちこちに真田真田と真田だらけで、村上義清の「む」の字もないこと。これが人気の差というものだろうか。確かに「真田ゆかりの城」の方が「村上義清ゆかりの城」よりもキャッチコピーとしては強いのは認めるが、あまりに村上義清が不憫でもある。しかもそれどころか、武田の名さえもどこにもないのはなんたることだろう。あの時代は真田は武田の家臣だったはずなのだが・・・。

 もっともこれは戸石城に限らず、上田全域がそうである。上田のあちこちで見かけるのは真田の六文銭で、上田城なども真田の城としてのPRばかりがされている。しかし実際には真田氏は関ヶ原の西軍の敗戦で上田から追い出され、その時に上田城は徹底的に破却されており、今日の上田城を築いたのはその後に入った仙石氏なのだが、仙石氏の「せ」の字も上田城で見たことがない。また上田城址にある神社は、明治に建立された時には仙石氏の後にこの地の領主になった松平氏を祀った「松平神社」だったのだが、それもいつの間にか「真田神社」になってしまった。これも真田というビッグネームの後に来てしまった不幸か。ちなみに徳川方に組したことで生き残った信之の家系が真田家を存続させるのだが、その信之が治めていた松代も現在は「真田の郷」を名乗っている。

 

戸石城縄張り図 出展:余湖君のホームページ

 整備された登城路を上っていくと、米山城と砥石城の分岐に突き当たる。戸石城は手前の出城の米山城、砥石城と奥の本城、さらに奥の枡形城からなる城郭である。

左 十二分に整備された登城路  中央 正面の山が砥石城か  右 砥石城と米山城の分岐にさしかかる

 とりあえずはまず砥石城に向かうことにする。ここからはかなりの急斜面を登ることになるが、城跡の再整備の際にコンクリート丸太で階段がつけられたようでキツくはあるものの登りやすくはなっている。昔にこの城を訪れた先人の記録では、かつては急斜面をロープを頼りに登る状態で、砥石城に到着した時には完全に死んだとあったのだが、再整備のおかげで何とか私の体力でも頂上までたどり着いた(とは言うものの、それでもかなり疲れた)。

左 階段が整備されている  中央 途中でこういう箇所も  右 尾根筋をひたすら登る

左 虎口か  中央 砥石城  右 上田市街を一望

 砥石城自体は山頂の小さな削平地で、せいぜいが櫓レベルに思われる。やはりこの奥の本城こそが城の本体で、砥石城はそれを守るための櫓及び見張り台だったのではないかと考えられる。

左 一段下にも曲輪があるようだ  中央 裏手を降りる  右 切岸はかなり険しい

 砥石城の裏側には堀切が切ってあり、その先に数段の曲輪が連なる本城がある。ここは明らかに各曲輪の規模が大きく、さらには東側の斜面には帯曲輪らしき構造も見える。配備できる兵の数も多く、ここが戸石城の中心であることが分かる。

左 尾根筋を進む  中央 大手口の先に本城が  右 東斜面に帯曲輪

左 虎口か  中央 数段に分かれている  右 本城

 

本城の石垣

本城から振り返って

 本城の先は再び尾根筋を登った頂点に枡形城がある。こちらも砥石城と同様に山頂の小さな削平地で、やはり見張り台レベルのものに思われる。つまりは本城のある尾根筋の北側を枡形城で、南側を砥石城で守っていたのだろう。そして本城の東側は複数の曲輪で守り、西側は断崖、これはかなり堅固な城であり、確かにこれを力攻めするのは無謀と言うもの。戸石崩れは若き信玄が血気にはやった大失敗と言うべぎだろう。

左 本城の奥を降りる  中央 切岸と堀切  右 矢竹も生えている

左 尾根筋を進む  中央 枡形城の枡形  右 枡形城

左・中央 奥には見張り台のような構造が  右 見晴らしが良い

 再び分岐に戻ってくると、今度は米山城に登る。こちらは砥石城ほど高くはないのだが、階段が整備されていないのでロープを頼りに急斜面を登らないといけないのでかなりキツい。なるほどこれを砥石城のあの斜面でやったら死ぬわ・・・。

左・中央 ロープを頼りに急斜面を登る  右 米山城

左 三段に分かれている  中央 虎口らしき構造  右 裏手の切岸

 米山城は三段の曲輪が連なり、一番下の曲輪の先には虎口構造が見られ、戸石城の本体から独立した出城であったことが伺える。

 

 とにかくかなりの規模で見応えのある城郭で、余裕で続100名城Aクラスである。正直なところこの城郭のためだけでもここまで出張ってきた価値はあったというものである。

 

 戸石城の見学後は近くの真田氏歴史館へ。真田関連の資料が展示してあり、真田本城の模型などもある。真田氏の歴史を学べるようになっている。それにしてもNHKの真田太平記のポスターが貼ってあったのは驚いた。

 そろそろお昼にしても良い頃なのだが、残念ながら適当な店が全くない。仕方ないので隣の真田庵でお茶とおはぎ(クルミ味とごま味)を頂いて一息つく。

   

 歴史館の近くには真田屋敷跡もある。現在は神社になっているようだが、回りを土塁が囲んでおりかなり堅固である。

神社となっている真田屋敷跡の周囲には土塁が残る

 真田屋敷跡を見学した後は、近くの「真田本城」に向かう。ここは真田氏が本拠にしていた城郭とのことだが、その真偽については定かでないそうだ。山からつきだした尾根筋に建造された城郭で周囲は結構切り立っているので、尾根方向を堀切などで防御したら堅固な城郭ができあがるという地形である。

 途中の道は結構狭い

 真田本城へは結構狭い道路を上っていくことになるが、手前まで車で行くことが出来、駐車場スペースもある。なお観光客もかなり来ており、団体のバスまで上がってきていた。

   

左 真田本城到着  右 団体バスも来ている

 案内表示を過ぎて進むと、最初は広大ななだらかな台地になっている。ここは建物を建てられるぐらいの広さがあるが、本来なら堀切や土塁などの防御施設があるべき場所である。どうも現状は後の耕作地化などによって遺構が破壊された跡のように思われる。

  本城手前の平地

 その先に櫓台になりそうな小山があり、その反対側に削平地が尾根筋に沿って連なっている。削平地は三段になっており、手前から本郭、二の郭、三の郭とのことだが、いずれも面積としてはそう大きくないので、多くの兵力を配した城郭とは思いにくい。まあ地方豪族の決戦時のお籠もり城としては妥当な規模ではあるが。

左 この小山の先が城の本体  中央 回り込む  右 本丸

左 数段の曲輪が続く  中央 三の丸  右 周囲は急峻

 三の丸の先はかなり急な崖になっており、防御は堅い。またこの斜面に帯曲輪的なものがあるようだが、それは上からはハッキリとは分からない。

 

 真田本城を後にすると真田の郷ともお別れである。今日の宿泊地の草津温泉に向かうことにする。ただしその途中で重伝建である六合赤沢に立ち寄るつもり。

 

 これは山間国道を長距離走るかなりしんどいドライブになる。国道144号を通って長野原草津口を経由して国道292号を北上。道は決して悪いということもないのだが、とにかく距離が遠いし傾斜はキツいし、途中でトロトロ運転の軽トラなんかが渋滞を引き起こしたりでストレスと疲労が溜まる運転が続くことになる。

 

 かなり疲れた頃に六合赤岩に到着する。六合赤岩は山間の養蚕集落であるが、いざ現地に到着するとどうも普通の山里という印象で、これといった特徴が見えない。また重伝建ということでの観光開発もあまりなされていないようで、商店などはなくごく普通に住民が生活しているという印象。町並みはそれなりなのであるが、正直なところあまり見所がないというようにも感じられる。どうも万事が中途半端なのである。

 

遠目には絵になるが、近づくと普通の山村という印象しかない

 町の外れには長英の隠れ湯なる日帰り温泉施設も作られているし、町の手前には観光バス用の駐車場も用意されているようなので、観光開発の意図が皆無ではないと思われるのだが、その割にはイマイチぱっとしない。何か思惑が空回りしているような印象を受けた。観光立地を目指すのか、それとも単に普通の山村で良いのか、住民の間で意見がまとまっていないのだろうか?

 

裏山よりの光景

 実際のところ、住民がどう考えているかというのがハッキリしない重伝建というのは決して少なくはない。妻籠宿のような「没落した地元を観光で再生」というように住民の方向性が統一されているところは良いのだが、住民ごとで思惑が違ってくるということはよくあることなのだ。。概して元宿場町や商家町といった商人主体の町では、観光客の誘致がそのまま自分たちの利益につながるのでもろもろの運動が活発になるのだが、武家屋敷や農村などといった非商家が大半の地域では、観光客の誘致はうるさくなるだけで大半の住民にメリットがないので、運動も盛り上がらないという。町並み保存などに取り組もうとしても、甚だしきは「観光客なんか来たら鬱陶しいだけだから、住宅をぶっ壊して観光客が来ないようにしろ」という住民がいるような地域もあるとか。また悲しいことに、ゴミをそこらに投げ捨てたり、大声を上げて大騒ぎしたり、勝手に個人の住宅内に入り込んだりする迷惑極まりない観光客もごく一部にいるのも事実である。

 

 今まで訪問した重伝建の中でも、若い層は観光客を誘致して商売をしようと考えているのに対し、高齢層は「静かに普通に暮らして、自分たちが亡くなった後は町は朽ちてしまっても仕方ない」と考えているというところが多かった。実際にカメラを持ってウロウロしていたら、住民から不審者を見るような目つきで警戒されたような地域もあった(私の風体はどうもフリーのカメラマンか記者に見えるらしいので、それが不審感を増幅したのかもしれないが)。町並み保存にしても、里山などの整備にしても、そこに住民に対するどのようなメリットを導き出すかが非常に難しいところである。確かに私自身も、経済的メリットでもなかったら、中国人団体観光客などは来ても迷惑なだけであると感じる。

 

 実を言うと昼食を摂る店ぐらいはあるだろうと思っていたのだが、全く何もなかったのは想定外だった。仕方ないので草津温泉に移動することにする。

 

 ここから草津温泉へはこのまま国道292号線を北上するのだが、この道路は決して酷道ではないのだが、それでもかなりワインディング道路で傾斜もキツいので走るのは結構しんどい。ノートの非力なエンジンだとしょっちゅう悲鳴のようなエンジン音が上がることになる。なおこの行程での道路脇でいろいろと風情のある風景も広がっていたことから、六合赤岩に関しては、赤岩集落に限定するのでなく、この一帯も含めての評価をするべきなのかもしれないと感じた。

   

こんな調子の道がひたすら続く

 急カーブ連続の山道を抜け、ようやく道がまともになってきた頃に草津温泉に到着である。硫黄の匂いが漂っているのがいかにも温泉地。以前に訪問した時もこういう感じだった。なんだか懐かしい。

 

 とりあえず宿泊予定の旅館たむらに向かう。しかしカーナビに従って道を進んでいくと、とんでもなく急傾斜の狭い道に突き当たる。「本当にこれを登れるのか?」と道端で戸惑っていたら、後ろから来た救急車が全くためらうこともなく急坂に突入していく。救急車が通れるのならノートも通れるだろうとついて行ったが、実際にはこの道はもし雪でも降ろうものなら絶対に登れないような道である。草津温泉にはこういう道が多い。

  旅館たむら

 旅館に車と荷物を置くと徒歩で散策に出る。たむらの隣には共同浴場の地蔵湯があるが、ここは後で立ち寄ることにしてとりあえずは湯畑に向かう。

     

 久しぶりの湯畑は相変わらず豪快でそれでいて風情があって良いところである。そして相変わらず観光客が多い。それとやけに目立つのが阿部寛と上戸彩。どうやら公開中の映画「テルマエ・ロマエ2」のロケ地がここだったらしく(原作では登場するのは伊東温泉だったはずなのだが、映画は草津温泉らしい)、あちこちでポスターやポップの類を見かけることに。

熱々の温泉まんじゅうを購入
 

 湯畑の周りをウロウロしていると腹が減ってきた。考えてみると今日は昼食がまだである。近くに「上州うどんしたつづみ」といううどん屋を見つけたので、かなり遅めの昼食にする。

   

 内部はカフェのような洒落た店で、サラダバーがついてくる。私が注文したのは天ぷらうどんの定食。上州うどんがいかなるものかはよく知らないが、関東圏のうどんにしてはうどん自体は至ってまともで関西人の私にも抵抗はない。味付けが薄味でやや淡泊に過ぎるところが気になるが、関東で一般的な醤油でだだ辛い味付けよりは良い。ただ如何せん、これで1706円というのは明らかに観光地価格であることは否定できない。CPを考えるとツライものがある。

 

 昼食を終えると温泉饅頭を食べながら辺りの散策。ついでに近くの共同浴場白旗乃湯に入浴していくことにする。

  白旗乃湯

 草津にはこの手の無料の共同浴場がいくつかあって、白旗乃湯もその一つ。内部は熱湯と温湯の二つの湯船があるが、熱湯の方は熱すぎて私にはとても入れず、温湯の方でも熱すぎるぐらい。内風呂だけだが、天井が塔状になっていて高いので蒸さなくて具合がよい。

  観光客向けの有料の入浴施設もあるようだ

 旅館の近くまで戻ってきたついでに隣の地蔵湯にも入浴。こちらは湯船が一つだけのかなりシンプルな浴場。温度は先ほどの白旗乃湯よりも低いので私には入りやすい。ここもやはり天井が高いので蒸さないのは良い。

左 地蔵湯はたむらのすぐ隣  中央 名の由来の地蔵  右 源泉が湧いている

 旅館に戻ってくると、しばし部屋でマッタリしてから旅館の大浴場にも行ってみる。小さな浴場だが、内風呂に露天風呂がある。露天風呂はやや温度が低いので私好み。酸っぱい湯にゆったりと浸かる。

 

 湯巡りを終えてからしばしマッタリ。いや、かなり疲労が来ているので、マッタリよりもグッタリが現実か。その内に外が薄暗くなってきた頃に夕食が部屋に運ばれてくる。夕食は一般的な会席料理。特別なものはなかったがうまかった。地サイダーの浅間山サイダーを頂きながらくつろぐ。

 

 夕食を終えてしばらく休憩すると、思い立って夜の湯畑に出かけることにする。夜の湯畑はライトアップもされて一種幻想的な光景。

   

 湯畑を堪能して帰ってくると、寝る前にもう一度入浴。さっぱりしたところで就寝する。

  

夜のおやつもやっぱり温泉まんじゅう

 

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時過ぎに起床するとすぐに朝風呂。温泉が心地よい。朝食が部屋に運ばれてくるのは7時半。和定食をガッツリと頂くと早めにチェックアウトする。今日は天気が悪くなってくるとのことだから、雨が降る前に行動しておきたい。

 

 まず最初に向かうのは「岩櫃城」。真田氏がこの地域の拠点として用いていた城郭である。武田勝頼が新府城を落ちたとき、真田昌幸が逃れてくるように奨めたのがこの城郭であるが、勝頼は結局は小山田氏の岩殿城を目指し、小山田氏の裏切りによって自刃して武田氏は滅亡している。

 

 岩櫃城がある岩櫃山は岩殿城と同様の岩盤がむき出しの凄まじい山容であるが、岩櫃城の本体は実はこの山頂でなくその東側の斜面にある。そういう意味では要塞性は岩殿城の方が高い。ほとんど手勢を失ってしまっていた勝頼が、岩殿城の要塞性に頼りたい気になったとしても不思議ではない。

左 岩櫃山登山口  中央 山頂方面と城跡方面の分岐  右 城跡方向に進む

 現地は駐車場も整備され、登山道なども完備している。案内に従って登山路を進むと、最初は畑のようなところを歩くことになるが、すぐに城址と岩櫃山との分岐がある。お約束のような熊出没注意の看板も立っているが、これを気にしていたら山歩きは出来ない。意を決して城址の方を選ぶと、直にいかにも城郭らしい雰囲気のところに出てくる。

左 いくつかの段がある  中央 中城跡の表示が  右 中城跡

 城の遺構か後に開かれた畑かが判然としない削平地をいくつか抜けると、中城跡の碑が建つところに出てくる。ここは開かれた山の斜面であり、曲輪だったんだろうが傾斜はかなりキツい。

左 かなり急斜面である  中央・右 脇の堀底道を登っていく

 中城跡の奥が堀底道になっており、これが竪堀として主郭部の手前まで続いている。まっすぐに上がると小さい曲輪に出るが、これが案内看板によると二の丸。

左 本丸の堀が見えてくる  中央 手前が二の丸  右 本丸に登る

 その隣に堀にしっかりと囲まれた大きな曲輪が本丸ということになるらしい。本丸は二段になっており、手前には櫓台と言うべき小高い部分もある。風景などを見ると既に結構標高はあるようだが、正直なところここまではあまり険しいという印象はない。

左 二段になった本丸  中央 竪堀  右 櫓台上にある城跡碑

櫓台上から振り返って

 本丸の奥には虎口構造があり、ここまでが一応城域ということのようである。しかし正面を見上げると岩櫃城の山頂があり、ここに何も城の施設がないということも考えがたいので急な山道を登ってみることにする。

左 本丸奥に進む  中央 虎口らしき構造を経て  右 山頂への登り口に達する
 

 案の定、山頂付近には削平地があり曲輪構造になっている。ただしあまり広いものではないので、大きな建物を建てられる雰囲気ではない。いざという時の最後のお籠もり場兼見張り台というところか。

左 山頂付近の削平地は狭い  中央 巨岩が露出する  右 山頂には建物を建てるスペースもない

 その奥はまるで関所のような天然の巨大岩があり、その先には尾根筋の道があるが、この道は狭いのでここから攻めようとしても一列縦隊にならざるを得ず、先ほどの関所岩から完全に狙い撃ちである。攻撃はまず無理だろう。どちらかといういざという時の脱出ルートの方がありそうだ。

  山頂から尾根道を見下ろす

 山頂の見学を終えると本丸の裏手を通る登山道経由で帰ってくる。そんなに険しい印象のなかった主郭部だが、裏側から見上げるとかなりの断崖で、こちら側からの攻撃はまず不可能に思われる。確かに真田昌幸が要害と言っていたのは嘘ではない。

 

 歴史にifは付きものだが、もし勝頼が岩殿城ではなく岩櫃城を目指していたらというのもよく語られるところである。勝頼を擁して北条や上杉を天秤にかけつつ暗躍する真田昌幸なんていうのもワクワクする話である。当時はまだ武田の残党も多かったし、本能寺の変がまもなくであることを考えると、昌幸の謀略を持ってすれば武田が復活する目もなくはなかったもしれない。もっとも表裏比興の者とも言われた昌幸であるから、あっさりと勝頼を売り渡す可能性もなきにしもあらずだが、そうしていたらしていたで後世の真田氏に対する評価がかなり変わっているだろう。

 

 岩櫃城の見学後は「名胡桃城」を目指す。この名胡桃城は戦国時代の終結に関わる大きな事件に絡んだことで有名な城郭である。この地はそもそも真田氏と北条氏の間で争奪戦が続いていたのだが、豊臣秀吉の裁定によって利根川西岸の赤谷川南岸は真田の領土ということになり、名胡桃城は真田氏に所属、沼田城は北条氏の所属と決した。しかしこれは北条氏には不満の残るものであり、後に北条氏が名胡桃城を策略によって乗っ取る事件が発生、この行為が秀吉の北条討伐につながる。この事件が一般的に名胡桃事件と呼ばれている。

 こうしてみると北条氏の軽挙妄動のようにも見えるが、そもそも当初から豊臣秀吉は北条討伐のための大義名分を欲していただけで、名胡桃城はそのための餌だったのではという考えもある。実際に現地に立ってみると、名胡桃城から沼田城は指呼の間であり、名胡桃城は沼田城攻略のために打ち込んだ楔のようなものである。そんなところに元より沼田に野心満々の真田氏が入ったとなれば北条にとっては目の上のたんこぶどころのものでない。遅かれ早かれこうなることは秀吉としては織り込み済みで、その裏には真田の計略もあったかもしれない。

  

 名胡桃城は利根川上流の河岸の断崖に張り出したような城郭である。現在はすぐ脇を国道17号線が通っており、案内看板に駐車場、さらに案内所まで完備されている。県の指定史跡と言うことで、発掘及び整備が積極的に続けられているようだ。

 案内所を覗くと、地元ガイドの方が案内してくれるというのでお願いする。名胡桃城はそもそもは沼田氏の城であり、その配下の名胡桃氏が入っており、その時の居館は現在は駐車場になっている般若郭だったという。その後、北条氏により沼田氏が追放され、名胡桃城は北条配下の城となる。上杉謙信の関東攻めで上杉支配下となるが、謙信の死亡後に再び北条氏支配に戻る。しかしその後、武田氏配下の真田昌幸が進出してきて攻防戦が繰り広げられることとなり、この地は真田の支配下となる。現在の名胡桃城はこの時に真田昌幸が整備したものだという。その後に名胡桃事件が発生して北条氏が滅亡、沼田は真田昌幸の治めるところとなって名胡桃城も廃城となったという。

左 丸馬出の先が三の丸  中央 三の丸から堀を隔てて二の丸  右 二の丸の堀はかなり幅広い

左 二の丸は広大だ  中央 帯曲輪らしきものも見える  右 さらに堀切を経て本丸へ
 

 突き出した河岸に手前から三の郭、二の郭、本郭と連郭状になっている。さらに本来の城域は現在の国道の反対側にまで続いており、そちら側に水の手や外郭などもあったとのことで、かなり大規模な城郭である。廃城後に畑化された際に土塁等は撤去されたらしいが、現在復元されている堀跡を見るだけでもかなり大規模であることが分かる。この上にさらに土塁を積まれると容易には突破は出来ないだろう。

 

本丸風景

  

左 城跡碑がある  右 周囲は断崖そのもの

 また川側はまさに断崖そのもので、こちら側からの攻撃はまず不可能である。この崖などはあまりに急すぎるので、整備をしないと崩れてしまう危険があるとか。

左 本丸奥のささ郭  中央 土塁が残っている  右 ささ郭よりも先にある物見

ささ郭よりの風景

 本丸の奥にはさらにささ郭と呼ばれる小曲輪があり、さらにその先には物見郭と呼ばれる部分がある。物見と言うには本郭からかなり低い位置にあるのに疑問を感じるが、ここは最も崖が突き出しているところなので、ここからちょうど沼田城を見ることが出来るらしい。そういう意味では確かに物見があったのかもしれない。

 

 河岸の台地状に連郭的に並べた城郭ということで、武田氏による遠江の要塞・諏訪原城を連想する縄張りである。武田氏配下の真田昌幸が整備した城郭と言うことで、やはり武田式築城法に従っているのではないかと思われる。実際、武田式の馬出の跡なども見られたとのことである。

 

 近くを国道が通っているとのことだし、もう城域もかなり破壊されているのではと思っていたが、案に反して保存状態は良好で、さらには地元の整備に対する意欲もかなり高いようで、見応え満点の堂々たる城郭であった。文句なく続100名城Aクラスに該当する城郭であると断言する。

 

 名胡桃城を見学すると、この少し北方にある「小川城跡」を見学していくことにする。地元ガイドの話によると、小川城は北条方の城であり、十根川の支流である赤谷川を挟んで名胡桃城の北側に存在する。北条方はこの城と十根川対岸にある明徳寺城、沼田城などで名胡桃城を包囲する形で睨んでいたらしい。小川城は国道291号線脇にあり、名胡桃城と同様に川に突き出した台地状にある。現在残っているのは本丸であり、二の丸は道路と畑で破壊されてしまっているようだ。

 

 現地は小川城跡の派手な幟が多数立っているのですぐ分かる。本丸前の堀切が残っていて、かなり深いものである。

左 本丸上はそう広くはない  中央 城跡碑  右 二段になっている

左 その先は断崖だ  中央 石垣らしきもの  右 ここは櫓台跡か

 本丸はそう広いものではない。隅にある小高い部分は土塁跡か。本丸のさらに先端に一段低い曲輪がある。規模は小さいものの名胡桃城と非常に類似した構造になっている。ただ残念ながら城域の大半は既に破壊されているようで、かつての規模を忍びようはない。

 

 これでこの地域の城郭見学は終わり、次は富岡地区まで長駆することにする。そう言えば以前に富岡製糸場を訪問した際は、町中には「富岡製糸場を世界遺産に」の看板が目立っていたが、先日ついに富岡製糸場が世界遺産に内定したとのことで、地元はかなり盛り上がっているとか。もっとも私の目的地は富岡製糸場ではなく、その北方の松井田城である。

 

 月夜野ICから関越道に乗ると、そこから藤岡JCTを経て上信越道の富岡ICまで長駆することになる。昼食がまだであることから、途中の赤城高原サービスエリアで昼食をとることにする。サービスエリアの駐車場はゴールデンウイークらしく多くの車でいっぱいである。どうやらここのサービスエリアは外部からも利用が可能なようである。サービスエリアというよりもどこかのショッピングセンターのようである

 

 昼食のレストランはイタリアンレストランのようである。注文したのは「シャンゴ風スパゲティー(1020円)」。シャンゴなる店のことは全く知らないが、高崎市のイタリアンの老舗だとのことで、そこの看板メニューだとか。シナモンが効いたデミグラス調のミートソースが極めて独特。正直なところシナモンは得意ではないのだが、意外と嫌みがなくてこれならいける。ただこのデミグラス調のミートソースは好き嫌いが分かれるところか。

 

 とりあえず腹がふくれたところで目的地を目指すことにする。富岡ICの手前は車が多く、早くも世界遺産効果があらわれているようだ。しかし私は富岡製糸場は素通りすると、そのまま山間部を北上する。ただし松井田城に行く前に一か所立ち寄ることにする。今まで訪問する機会のなかった美術館である。

 


「あなたの知らない大川美術館展」富岡市立美術博物館で5/18まで

   

 日本近代洋画のコレクションで知られる大川美術館の所蔵品を展示。松本竣介の作品などが印象的。

 なおあくまで洋画が中心でありながら、日本画のコレクションもあったというのは非常に意外。これらは大川美術館では展示されることがなかなかないものらしい。上村松園や奥田元宋などの秀品があり。

 展覧会の案内には「大川美術館に足を運んだことがある方でもきっと楽しんでいただける」とあったが、確かにその通りであった。


 

 郊外の意外と規模の大きい美術館であった。ただ立地的に車でないと訪問が不可能な場所。どうも足の便があまり良くなさそうであるのが気になる。

 

 美術館を後にするといよいよ「松井田城」を目指すことにする。松井田城は松井田駅北方の山中にある。しかし現地に到着すると登城口が分からない。しばし山道を行ったり来たりする羽目になる。散々迷った挙げ句に、山道のピークから大分下がったところで案内看板と西側に入る山道を見つける。その狭い山道を走って行くと、行き止まりに駐車スペースと登城路がある。ただこの頃になるとかなり空模様が怪しくなってきたことが気になる。一応は念のために傘を持参することにする。

左 道路脇にひっそりとある標識を見つけると  中央 狭い山道を走り抜ける  右 突き当たり左手に駐車場
 

 松井田城は築城年代はハッキリしないが、東山道や中山道などの街道を押さえる交通の要衝だけに古くから主を変えつつ築城が続けられていたようである。安中氏の時代に度々武田信玄の攻撃を退けているが、1564年についに落城、その後は滝川氏、北条氏と所属が変わり、北条氏の時に城主の大道寺政繁が松井田城の大改修を行ったとのこと。しかし秀吉の小田原征伐で松井田城は前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの軍勢に取り囲まれる。持久戦となったが1ヶ月後についに大道寺政繁が降伏、松井田城は廃城となったとのこと。

 

 登城路は谷筋を登っていくことになる。左手の尾根上には曲輪があるらしいが、鬱蒼としていてよく分からない。さらに進むとようやく大手門跡にたどり着く。

左 山道を進み始めるとすぐに出会う堀切跡  中央 さらにしばし進むと  右 門跡がある
 

 大手門跡を抜けると二の丸と本丸の間の堀切に出る。まずは本丸に登るが、本丸は鬱蒼とした森林になっていて、櫓台のようなところに祠が建っている。

本丸は鬱蒼としていてわけが分からない
 

 二の丸は結構大きく、土塁などもあるようだがやはり鬱蒼としていて全貌をつかめない。

左 馬出を過ぎ  中央 堀切を渡ると  右 二の丸虎口

二の丸には土塁があったりするが、全貌は鬱蒼としてハッキリしない

 これ以外にも連続竪堀などもあるようなのだが、とにかく鬱蒼としすぎで私には何が何やらよく分からなかった。しかも空模様がいよいよ怪しくなってきて周囲は薄暗くなってくるし、かなり規模の大きい山城らしいことは分かったが、残念ながら城址と言うよりはただの人の気配の全くない山である。結局は全体を把握できないまま下山を余儀なくされてしまった。

  連続竪堀の表記はあれど・・・

 これで今日の予定は終了である。今日の宿泊地は松井田駅の隣の磯部の磯部温泉。宿泊ホテルは「かんぽの宿磯部」。磯部温泉は碓氷川沿いの鄙びた温泉街で、かんぽの宿磯部はその対岸に建っている。やや古びた感のある大きなホテルで、いかにもかんぽの施設という印象がある。

 

 チェックインを済ませるとまずは入浴。磯部温泉はナトリウム塩化物泉のようだが、特に強い浴感はない。ただし風呂の設備は充実している。

 

 入浴を済ませると早めに夕食へ。夕食は会席料理なのだが、正直なところ可もなく不可もなくというところ。あまり高い料金プランではないのでメニューがかなりシンプルだ。

 

 夕食を済ませて部屋でしばしテレビを見ていると布団を敷きにやってくる。やはり今日はお城4連チャン(しかも2つは本格的山城)でかなりハードな内容だったので、体の疲労が相当やばいレベルまで来ている。敷いてもらった布団の上でテレビをぼんやり見ながらゴロゴロしている内に知らない間に気を失ってしまう。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 昨晩10時前に就寝してしまったせいで、今朝は6時前に自動的に目が覚めてしまう。とりあえずは朝風呂にに行ってからしばしテレビでも見て時間をつぶす。朝食は7時15分からでバイキング。正直なところ昨晩の夕食よりもむしろ満足度は高い。

 

 8時過ぎにはホテルをチェックアウト。今日は関東地域の城郭巡りなのだが、生憎昨晩からの雨が激しさを増してきている。状況によっては予定の変更もしないといけないだろう。

 

 今回の遠征では比企城館群を回るつもりである。比企城館群とは埼玉県比企郡地域に存在する菅谷館・松山城・小倉城・杉山城の4つの城館を指し、一括して国の史跡に指定されている。この中で松山城は以前の遠征の際に訪問しているが、他の3つが未訪問であるのでまとめてこの際に宿題を解決しておこうという考えである。

 

 まず最初に一番手前の「杉山城」に立ち寄ることにする。杉山城は関越自動車道嵐山小川ICのすぐ近くにある小山に築かれた城郭で、築城主は不明であるが、戦国城郭の特徴をよく伝えるものとして知られている。

 

 案内に従って大手口に向かうと手前のお寺に車を停められるようになっているので、そこから徒歩で見学に向かう。なおこの杉山城の土地はすべて私有地であり、所有者の好意によって公開されているものであるので見学においてはマナーを守るようにとの看板が出ている。なお私有地であろうが公有地であろうが、見学ではマナーを守るべきなのは言うまでもないことである。

左 大手入口の案内標識に従って進み  中央 お寺のところに車を置いて進むと  右 大手口にたどり着く

 杉山城は城郭としての規模は決して大きくはないが、それが故にかえって凝った縄張りのすべてが把握しやすい。小山に複雑な曲輪と堀を配し、全山を要塞と化している。地形としてはそう堅固な地形ではないが、各曲輪が相互に連携して巧妙に防御し合う構造になっている。そのような仕掛けを体感で学ぶことが出来るので、城郭見学の教科書のような場所である。

 

外郭から馬出郭と南三の郭を望む

左 馬出に渡る(ここはかつては木橋があったらしい)  中央 南三の郭に登る  右 南三の郭

左 さらに南二の郭に登る  中央 南二の郭  右 南二の郭東虎口

南二の郭から東の郭及び本郭方向を望む

左 東二の郭  中央 その先にある東三の郭  右 本郭

本郭北虎口

左 北二の郭  中央 北二の郭虎口  右 北二の郭と三の郭の間の堀切

左 北三の郭  中央 北三の郭先端部(搦手口)  右 本郭南虎口から井戸曲輪(かつては木橋があったらしい)

本郭から見た井戸曲輪

左 南二の郭西虎口から井戸曲輪方向  右 井戸曲輪から西方向

左 南三の郭西虎口  中央 井戸跡に向かう  右 井戸跡

 驚くのは保存状態のすばらしさ。私有地と言うことは所有者の理解が得られているのだろう。今後もこのような素晴らしい状態で保存されていくことを願うのみである。間違っても無意味な都市開発などで破壊されないことを祈る。

 

 杉山城の見学の後は「菅谷館」に直行する。杉山城から菅谷館までは10分とかからない。菅谷館は鎌倉幕府の御家人だった畠山重忠の館跡であり、中世有力武士の城館の構造を伝えるきわめて貴重な遺跡となっている。現在は国の史跡として管理・整備されており、かつての三の郭の一角に博物館が建設され、出土品の展示などと共に当時の武士の生活の様子を伝えている。

    

 博物館の駐車場に車を置くと、博物館の見学後に館跡の見学に移る。

 

 博物館裏にある広場のようなところが三の丸で、その奥の今では通路になっているところが堀跡だったらしい。そこから先は二の郭で、三の郭からは二の郭を経て本郭に通じるようになっていた。また本来の入口は現在の場所よりももっと西で、複雑な虎口構造を経てから本郭にたどり着くようになっている。

左 博物館裏手は三の郭  中央 この通路はかつての堀跡  右 虎口付近の堀が一部残っている
 

 本郭は高い土塁に囲まれた広大な空間で、東側の奥に生門跡がある。これはいざという場合の緊急脱出口だったのではないかと思われる。落城も免れないという際には、ここから夜陰に乗じて脱出をはかるのだろう。

左 現在の本郭の入口は後付け  中央 本郭周囲の堀は巨大  右 本郭内はかなり広大

左 本郭は高い土塁に囲われている  中央 生門跡  右 本郭から南郭に移動する
 

 本郭の南には南郭と呼ばれる曲輪があり、細長い曲輪が本郭の南を固めている。この先は崖になっており、ここから南の防御線だったようである。この崖の先はそのまま都幾川となっているので、天然の外堀である。

左 南郭  中央 南郭の南側は崖のようだ  右 南郭最西部、右手の一段高いところが二の郭
 

 南郭はそのままグルリと西に回り込んでおり、その北側は一段高くなって二の郭である。二の郭は本郭を取り囲む広大な曲輪で、建物跡なども発見されているらしい。本郭を守るための重要な拠点であると共に、本郭はここから広い堀と高い土塁で隔離されているので、万一この郭が落ちることがあっても、さらに本郭で防御できるようになっている。

左 南郭から二の郭に上がる  中央 二の郭  右 本郭周囲の堀切

左 本来は本郭入口はこの出枡形のところにあった  中央 出升形、奥が現在の入口  右 二の丸の門跡
 

 二の郭の北側が三の郭で、こちらは戦闘の際には最前線となる。現在博物館の入口がある部分は搦手口跡で、大手門は西の郭を経て西側にあるらしい。西の郭との間にも高い土塁と堀で分けられており、とにかく防御はきわめて堅い。

左 土塁上の畠山重忠像  中央 土塁から三の丸方向を見る  右 三の丸は広い

左 三の丸西の土塁  中央 これは入口の目隠しのための蔀土塁  右 西の郭への木橋

左 木橋で堀切を越えて西の郭へ  中央 西の郭も広い  右 西の郭西端部の大手門跡

 天然の川を外堀として背後に控え、複数の曲輪を堀(そもそもは水堀のはずだ)で区画した上で土塁で防御し、有機的に配している。先ほどの杉山城が平山城の教科書だとしたら、まさに平城の教科書のような城郭である。保存状態が良好であることと、城郭の規模が全貌を直感的に把握出る大きさであることが都合が良い。

 

 菅谷館の見学後は「小倉城」である。杉山城は平山城、菅谷館は平城であったが、今度は歴とした山城である。小倉城は菅谷館の西方、都幾川の上流の湾曲した部分に突き出した尾根状に築かれている。

 

 ここの登るには麓の大福寺のところから登る登城路が大手道だと言われているが、もっと南側の林道の途中からアクセスする搦め手口とも言うべき通路がある。こちらからだとヒーヒー言いながら山を登る必要がないので、登山が目的でない私はこちらからアクセスすることにする。

  小倉城西登城口

 狭くて急ではあるが舗装はされており走行に不安はない(ただし対向車が来たら少し嫌だ)な林道を進むと、途中で案内看板が立っており、車1台程度を駐車可能なスペースがあるのでそこに車を置いて山中を進む。雨は若干激しさを増してきているが、山道はキチンと整備されているので、傘を片手の登山でも足下に全く不安はない。山道をしばし進むと道は上りになり、その先が城郭西端の4郭である。

左 山道を進む  中央 4郭にたどり着く  右 4郭の先の堀切、上が2郭

 4郭の先は堀切を経てさらに続くが、左手に一段高くなった2郭が見える。ここは規模といい、防御の堅さといい重要な曲輪であると考えられ、いわゆる二の丸であろう。

左 2郭に登ってみる  中央 奥には土塁がある  右 かなり広い
 

 2郭の先にさらに一段高くなった曲輪があるが、ここが1郭。いわゆる本丸であったと思われる。ここは三方に虎口があり、南虎口が2郭につながる側、北虎口は城域の北部を守る腰郭につながっている。東虎口の先には3郭がある。

左 2郭の奥の一段高いところが1郭  中央 1郭の西虎口  右 1郭内部

左 1郭奥は一段高くなっている  中央・右 その奥にあるのが東虎口

1郭奥から振り返って

 3郭は周囲を石垣で囲われた曲輪であり、こちらから伸びている大手口を見下ろす位置にあり、大手口を守るための拠点である。最前線に当たる曲輪であるため、これだけ厳重な防備となっているだろう。

 

3郭下の石垣

 そう規模の大きな山城ではないが、山城を構成する要素には事欠かない城郭で、まさに山城の教科書のような城郭である。首都圏地域の城郭初心者マニアはこの比企城館群の杉山城、菅谷館、小倉城を回れば、一日で城郭というものはどういうものであるかを学ぶことが出来るであろう。そういう意味で存在意義の非常に大きな城郭である。

 

 これで比企城館群の見学は終了。いずれもかなり見応えのある城郭であった。さて問題はこれからどうするかなのだが、まだ昼過ぎなのでホテルに入るのにはあまりに早すぎるし、かといってこの雨天である。山城を攻めるのはかなりキツい。当初予定では八王子の浄福寺城を攻めるつもりだったのだが、調べたところによるとかなり厳しい山城のようで、こんな雨の中では無謀というものであろう。明日の予定で近いところとなると津久井城。津久井城は公園整備されていて遊歩道なども完備されている模様。雨の中でもどうにか登ることは可能かもしれない。とりあえず今日津久井城を攻略し、明日雨が上がったなら浄福寺城を、もし明日も雨天のようなら浄福寺城は後日に回して山梨方面に移動するというところでプランを決定する。

 

 津久井城に移動だが、その前に近くで見かけたベイシア電気に立ち寄る。現在Kissデジに搭載している16GのSDカードがそろそろ容量が一杯に近づいており、スペアのSDカードを用意した方が良いことに気づいたからだ。16Gなら2000枚ぐらい撮れるので、これを買った頃は十分な容量だと思っていたのだが、だんだんと訳の分からない写真を大量に撮るようになったせいで、最近では長期遠征になると容量が厳しくなっていた。思えばあの頃に比べてSDカードも大幅に安くなっている。結局は32Gのものを購入。これで4000枚程度撮影可能である。

 

 昼食もそろそろ済ませておきたいところだが、どうも適当な店が見当たらない。そこで昼食は成り行きに任せることにして津久井城に移動することにする。東松山ICから関越道に乗ると、そのままひたすら南下、高尾山ICを目指す。

 

 高尾山ICで高速を降り、さらにひたすら南下。国道413号をしばらく西に走行しているとようやく前に「津久井城」のある城山が見えてくる。「まさかこれか?」思わず声が出ると同時に津久井城を甘く見ていたことを後悔する。いくら地図を丹念にチェックしてもどうしても実感できないのが土地の高低である。今までも地図上ではほんの近くだと思っていた場所が、実際にはかなりの高低差があってヒーヒー言う羽目になったことが何度もあった。私は津久井城についても、城山の低面積がそんなに大きくないように感じたのと、ハイキング用の登山道がある公園になっているというようなことから、大して高くない山だと想像していた。しかしいざ湖の側から見上げると、のしかかってくるような急傾斜の高山だったのである。

 津久井城はこの上

 しかももう一つの計算違いは、埼玉の方ではさして大雨でもなかったのが、南下するにつれて雨が激しさを増し、八王子を過ぎた頃からかなりの激しい雨になっていたこと。合羽は持参していないので傘を差しての登山にならざるを得ず、これはいろいろな点で不自由でもあり体力の消耗もある。そもそも登山の場合は傘ではなく雨合羽を使用するのは常識のようなものであるが、私の場合は元より登山が目的ではなく城郭見学が目的なので、傘を差して登れないような状態なら見学を断念するというスタンスである。それにもし雨合羽を持参しても、その状態ではカメラをまともに使用することが出来ない。

 

 最初はサクッとハイキング気分で登ってから昼食をと考えていたのだが、これは体の方も事前に準備しておく必要がありそうだ。仕方ないので近くのガストで昼食を済ませることにする。

  バークセンター

 さて登り口だが、裏手の根小屋地区にパークセンターがあって駐車場もあったはずなのでそこを目指す。パークセンターへはかなり登っていくことになる。ここで車で高度を稼げるのは山頂に行くことを考えるとありがたいこと。なおこのパークセンターの高度も地図からは理解できなかったところ。私が以前に津久井城を訪問しようと考えていた時は、本数の多い湖側のバスを利用して、そちらから根小屋に歩いて移動しようと考えていた。しかしこれを実際に実行していたら、山頂どころか根小屋につくまでに消耗してしまっていただろう。今から思えば、あの時に雪のせいで津久井城訪問を断念せざるを得なかったのはラッキーだったと言うべきなのかもしれない。

  パークセンターに展示されていた津久井城の模型

 パークセンターの隣に観光客用の大きな駐車場があるのでそこに車を停めると、津久井城に登る前にパークセンターに立ち寄って登山道の地図を頂く。今から山頂まで登るということを告げると、パークセンターの方からは雨が強くて足下が危ないので無理はしないようにと言われるが、元より雨の山道の危険性は了解しているし、雨でずぶぬれになる覚悟も出来ているのでということであくまで「自己責任」で登山を決行することにする。

左 麓の屋敷跡  中央 おとこ坂を登る  右 足下がだんだんと怪しくなってくる
 

 津久井城登山には緩やかだが回り道のおんな坂と近道だが急なおとこ坂の二種があるという。私は迷わずおとこ坂の方を選ぶ。雨は結構きつくなってきていて足下はぬかるみ始めているが、山道自体はかなり整備されているので目下のところは足下に大して不安はない。とは言っても片手に杖で片手に傘を差しているという不安定な格好。これ以上雨が続いて足下がさらにぬかるむとその限りではない。今のうちにとりあえず一気に登ってしまおうとかなり急ピッチで山上を目指す。息切れはしたものの、とりあえず20分が目安の行程を15分程度で駆け抜ける。

  宝ヶ池方面を目指す

 山上にあがると宝ヶ池方面と山頂方面の分岐に当たり、ちょうどそこがおとこ坂とおんな坂の合流点でもある。主郭があるのは山頂方向だが、まずは宝ヶ池方面から見学しておくことにする。

左 この上が飯綱曲輪  中央 祠がある  右 この先は狼煙台だとか
 

 こちらには小高くなったところに祠があり、ここを中心とした一角が飯綱曲輪である。本来ならここから絶景が眺められるはずなのだが、もう既に辺りは靄っていて視界はゼロである。

  展望台の視界は0

 ここの下にある井戸が宝ヶ池。今まで水が涸れたことがないと言われており、今でも若干白っぽい水が溜まっている。このような水の手に事欠かないのも、この山に城郭が建設された理由であるという。

  宝ヶ池には今でも水がある

 この近くには大杉と呼ばれる樹齢900年で高さ30メートル以上の大木があったらしいが、残念なことに数年前に落雷で焼失し、現在は無残に炭化した基部が残っているだけである。なおこの先には狼煙台跡もあるらしいが、足下も怪しいしそこまで行くのはやめて引き返す。

  大杉は完全に炭化してしまっている

 先ほどの分岐の先に進むと、最初にある平場が太鼓曲輪。この先に堀切を経て本郭曲輪があるが、この間にはかつては引橋が設置されていたらしい。

左 太鼓曲輪  中央 ここに引橋があったらしい  右 さらに進む

左 主郭の手前の曲輪  中央 もう一段上に登る  右 主郭に到着

 ここから登った先が本郭。本郭は中心の曲輪を複数の曲輪で取り囲んだ単純な構造。これも晴天時ならダム湖などを見下ろせたはずなのだが、残念ながら辺りの視界はゼロ。

主郭の周囲にはグルリと曲輪がある
 

 地形を生かした堅固な城郭ではあるが、各曲輪の面積がかなり狭いのでそう大軍を配することができたとは思えない。根小屋地区の屋敷跡と思われる部分の広大さに比べて、山上の曲輪はあまりに狭小である。普段は根小屋地区の屋敷に居住し、いざという時に籠もって援軍を待つための城郭だったのだろう。

 

 津久井城の見学を終えて帰途につくことにする。本郭の見学中も雨は激しさを増しつつあったが、ぬかるみ始めていた足下はいよいよ水が流れ始めている状態で、これは用心しないと足下をすくわれかねない。実際、山道は登りよりも下りの方が危ないことは経験的に了解している(今まで遠征で怪我をしたのはすべて下りでの転倒事故である)。足下の状態を考慮して、帰路はおんな坂を下っていくことにする。

  緩やかだが長いおんな坂

 おんな坂は確かにゆるやかであるが、私の予想以上に回り道であった。なるほど、これは城マニアは迷わずおとこ坂を選ぶだろう。最終的に根小屋まで降りてくるのには20分程度を要したと思われる。

 

 津久井城の見学を終えてパークセンターに戻ってきた時にはずぶぬれになっていた。とりあえずパークセンターの方に無事に戻ってきたことを報告して新たに津久井城の資料を頂く(出発前に受け取った地図は、ものの見事にボロボロの紙屑と化してしまっていた)。山上が煙っていて風景が全く見えなかったことを報告すると、残念そうであった。天候が良ければ湖なども含むすばらしい風景が見られたのだろう。どうやらここの観光の大きな売りの一つはそれのようである。

 

 何とか津久井城の見学は実行したが、想像以上に消耗もしてしまった。雨は強さを増しているし、もう既に夕方になっているし、体力的にも状況的にももう今日はこれで限界である。今日の宿泊予定地に向かうことにする。宿泊地には来た道を戻る形になる。

 

 途中で渋滞に巻き込まれたりしたものの、ようやく5時過ぎに今日の宿泊ホテルである「プラザイン羽村」に到着する。埼玉周辺で大浴場・駐車場付きで手頃な価格のホテルということで選んだホテルである。

 

 チェックインすると最初にすることは洗濯。長期遠征の際は日数分の着替えを持参することは不可能なので、旅先での洗濯は不可欠なのだが、ここまで温泉旅館での宿泊が続いたので洗濯が出来ず、着替えの在庫がなくなってしまっていたのである。しかも今日は頭から雨に降られているので、今日着ていた服はびしょぬれの上にズボンもドロドロで洗濯をしないととても再び着れたものではない。こういう時にはビジネスホテルは便利である。

 

 洗濯物を洗濯機に放り込むと大浴場へ。普通の風呂だが手足を伸ばして入浴できるのが一番。特に今日は体を酷使した上に雨にも降られているので体をよく暖めてほぐしておく。

 

 風呂からあがって一息つくと、洗濯物を乾燥機に放り込んでから夕食のために出かける。しかし町に出て痛感したのは「ここは既に東京文化圏だ」ということ。駅前にろくな店がない。あるのは魚民にケンタにマクド。チェーンか犬の餌しかないという状況では選択の余地がない。結局は某和食店に入店して鴨そばを注文したが、これがまた絶望的な内容であった。私が今まで体験した中でもトップクラスに属するお粗末さ。今後私はこのチェーンを利用することは二度とないだろう。

 

 ホテルに戻って洗濯物を取り入れると部屋でボンヤリ。しかしすることもないし、とにかく疲労が半端ではないので早めに就寝することにする。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は起床するとホテルで朝食。朝食はやや簡素であるが、宿泊料がかなり安いホテルなのでこんなものだろう。なおここは大浴場はあるのだが、朝風呂がないのが残念である。シャワーで軽く汗を流すとチェックアウトする。天候が懸念されたのだが、雨は朝方にはほとんど上がっており、日が差し始めている。今日の予定の実行には問題がなさそうだ。

 

 最初に立ち寄るのは「浄福寺城」。諸勢力によって拡張が続けられた城郭であるらしいが、北条氏照が拠点にしたこともあり、八王子城が築城された後も有力な出城として残存したという。

 

 城郭は首都圏中央道のすぐ脇の浄福寺の背後の山上にある。浄福寺手前の駐車場に車を置くと、浄福寺の墓地の背後から登山にかかる。

  浄福寺

 急な山道をしばらく登ると観音堂に出る。ここが西側の尾根筋の曲輪の最先端らしい。本格的にキツいのはここから。ここから尾根筋状に何段かに分かれた曲輪があるのだが、それがほとんど尾根筋直登。しかも昨日の雨で足下がまだ緩くて滑る。登りにくいこと極まりないのである。

左 浄福寺の裏手から登る  中央 祠がある  右 祠の裏からさらに登山道が

左 尾根筋を登る  中央 虎口的な構造もある  右 主郭に到着

 途中には虎口的な構造もあったりするが、基本的には同じような小平地の繰り返し。疲れ切ってやや退屈した頃にようやく山頂の本郭にたどり着く。

 

 ここには櫓台らしきものもあるやや広めの曲輪だが、それでも大きさはたいしたことはない。

 

 ここから東側に急斜面に沿って何段かの曲輪がある。しかしここは高低差が大きく、やや緩めの足下の状況では進むのがなかなか困難。しかも深い堀切などもあって進みにくくしてある。

左 東側の尾根には堀切がある  中央 尾根筋を進む  右 また深い堀切

 ここの尾根上にはそこそこのスペースがあり、ちょうどこの城の背骨の位置に当たっている。西に進んだ先にはやや下方にかなり広そうなスペースが見られ、城址などではよく馬場跡などと言われるスペースかと思われたが、そこまで降りるのはしんどいのでやめた。

左 尾根筋の曲輪に降りたが  中央 途中で道を見失う  右 そしてついにはこの状態に

 浄福寺城の山頂部分の見学を終えたので、東に延びる尾根の部分の見学に向かう。堀切から横に降りていくとBの曲輪には何とかたどり着く、ここから何段かの曲輪を降りて先端までたどり着く。ここから次に5の曲輪を目指したのだが・・・完全に道に迷ってしまう。結局は斜面を沢筋に向かってズルズルと降りてしまう羽目に。などとこう書くと私が冷静に淡々と進んで行ったように聞こえるが、実際は泣きたい気分である。自分が今どこにいるのか、どっちに進めば下まで降りられるのか分からない状況で不安で仕方ない。はっきり言って完全に遭難してしまったのである。斜面を降りる際に足下が滑って転倒して、あわや下まで滑落という危機もあったし、沢筋まで降りてしまったせいで、倒木などに行く手をふさがれて四苦八苦する事態になったしで散々な目にあったのである。そしてこれ以上はとても進めそうにないと思った時点で金網フェンスを発見、それを乗り越えて金網沿いに進むことでようやく民家のあるところまでたどり着いた次第。その時には数度の転倒で全身ドロドロの上にぬかるみを歩いた靴は異臭を放ち、また持参した伊右衛門とタオルは途中のどこかで落としてきてしまっていた。完全に遭難者のスタイルである。こんなスタイルで幼稚園の近くをウロウロしていたら、不審者として通報されかねない。

  ようやく民家の気配にたどり着く

 散々な有様で車まで帰り着くと、ドロドロのベタベタになったシャツとズボンを着替える。何しろこのままでは車のシートにさえ座れない。これらは今日宿泊のホテルで洗濯する必要がありそうだ。それにしても大失敗だった。やはり「単独行では山道をはずれるな」という原則を破ったのが失敗の元である。元来た道を帰るつもりであれば良かったのだが、登ってきた西尾根もかなり急傾斜の上に足下が悪かったので、あそこを降りていくのは嫌だなと考えたのが墓穴を掘った。やはり足下に不安がある時に登るべき山ではなかったということである。つくづく昨日津久井城を訪れた選択は正解だったと思う。昨日こちらを強行していたら、命を落とすことにもなりかねなかった(まあ登る前に断念したと思うが)。

 

 反省することしきりであるが、とにかく次の目的地に向かうことにする。次の目的地は甲府の「要害山城」。武田信玄のいざというときのお籠もりのための要塞である。よく信玄は「人は城、人は石垣」と考えていたので本拠は躑躅ヶ崎館に置いて、城郭を構えなかったなどと言われるが、慎重なことで知られる信玄は実はそんな大胆なことはしていない。いかに家臣を大事にしても突然裏切られることはあるし、また他の国から奇襲で攻め込まれることもある。実際はいざというときのための要塞は用意していたのである。

 

 甲府へは中央道で1時間半ほどで到着する。要害山城への登山道はホテル要害の手前から出ている。急な山道ではあるが、キチンと整備されているので足下に不安はない。先ほどの浄福寺城比べるとハイウェイみたいなものである。だから私もサクサクと登って・・・というわけにはいかなかった。連日の足腰の酷使の上に先ほどの浄福寺城での遭難で完全に足が終わってしまっていた。とにかく足が前に出ないのである。おかげでかなり四苦八苦して登る羽目になった。

左 登山口  中央 途中に石垣がある  右 土塁も
 

 息も切れ足を引きずりながらようやく門跡にたどり着く、ここからが城内のようである。城内は何段にも分かれており、本丸にたどり着くまでにいくつもの曲輪を抜けないといけない重厚な防備になっている。

左 この門跡からが城内  中央 その奥の曲輪  右 この手の曲輪が続く

 山上の主郭部分はかなりのスペースがある。背後にはさらに尾根筋に向かう道があるが、こちちからの攻撃を防ぐために主郭の背後に曲輪があり、堀切と土塁で主郭と明確に区画してある。

左 不動尊のある曲輪  中央 門跡  右 この手の門がいくつもある
 

 さすがに名前に恥じない要害であった。いざという時の籠城戦には十分な城郭である。ただ勝頼は織田に攻められた時にこの城郭に籠もることは考えていなかったようであるが、その理由がよく分からない。防御的色彩の強い要害山よりも、より攻撃的色彩の強い新府城を拠点に考えていたからだろうか。しかしその新府城は未完成の上に、当時の勝頼には既に新府城に籠もるに十分な兵がいなかったことから、結局は小山田氏の岩殿城に落ちようとして、それが結果として勝頼の最後につながってしまった。要害山城の場合、籠城に要する兵数は新府城よりも遙かに少ないと考えられるのだが、勝頼の時代には要害山城は使用できる状態ではなかったと言うことだろうか?

左 主郭にたどり着いた  中央 奥の方に出口がある  右 その先にも曲輪が
 

 要害山から降りてきた時には汗だくである。そこで積翠寺温泉要害で入浴していくことにする。

 

 積翠寺温泉は若干黄色みを帯びた弱アルカリ泉。ただヌルヌル感はそれほど強くはなく、感触としては新湯とそう変わらない。甲府盆地を見下ろせる露天風呂が売りだが、見晴らしが良すぎて下から丸見えの湯でもある。 

 

 入浴後は着替えてサッパリ。今日二回目の着替えになる。今日は洗濯が忙しそうだ。

 

 さてこれからどうするかだが、正直なところ足の方がかなりキツい。もうこれから城攻めはとても無理なのは明らか。疲労も全身に来ているから正直なところさっさとホテルに入って寝たいというのが本音だが、さすがにまだ2時過ぎではそういうわけにも。また明日以降のことを考えるとやはり何か予定はこなしておく必要がありそうだ。そこで明日に予定していた重伝建地区の赤沢見学を今日に回すことにする。

 

 赤沢へはまず中部横断道を走ることになるが、その前に双葉SAで昼食にする。注文したのは「煮カツ丼(1000円)」。CPはともかくとして、とりあえず普通にうまい。

 

 昼食を終えると双葉JCTで中央道から中部横断道に移って南進。中部横断道は対面二車線のなんちゃって高速道路だが、通行量も多くないので走行はスムーズ。雄大な山容を眺めながら進むことになる(それにしても日本離れした風景だ)。

 

 終点の増穂ICで降りると、そこからは国道52号線を南進することになる。これは長い疲れる道のりだが、道が悪くはないのだけが救い。ただ通行量は結構多い。

 

 身延山が近づいてきた辺りで県道37号線に乗り換え。この辺りから道幅が狭まると共に傾斜もキツくなってくる。「赤沢宿」はそもそもは身延山参拝の講中宿として栄えたのだが、身延山に車道が開通して参拝者の流れが変わったことによって寂れ、結果として当時の町並みがそのまま残されることになったという。その辺りは妻籠宿と状況が似ている。ただ妻籠宿は寂れたとは言え元は街道の宿場町なので、交通的に極端に隔絶された土地ではなく、その点で観光客の誘致はかのうなのであるが、赤沢宿は山中の隔絶された地域にあるため、観光客を誘致するのは困難であろう。

 

 県道37号線を西進し、トンネルを抜けた川の手前で赤沢宿の案内看板が出ている。しかしそこから先の道は「ここを進んで大丈夫なのか?」と疑問を感じるほどの山道。とにかく道幅が狭く、もし対向車が来たら私のノートでもすれ違いは困難であると考えられる状況。対向車が来ないことを祈りつつひたすら進むだけである。

赤沢宿への道は車のすれ違いも困難な山道
 

 山道を走行すること10分弱。幸いにして対向車に出くわすこともなく赤沢に到着する。現地は完全に山間の秘境。平家の隠れ里などと言われそうな地である。

 寺の近くに観光用の駐車場があるのでそこに車を止めて町並みを見学する。かつては旅館などが多かったと言うが、今では営業しているところはほとんどないとか。住民の姿はたまに見かけるが、彼らが現在何で生計を立てているのかは不明。観光立地をするにも、私の訪問時はもう既に夕方近くになりつつあるということを考慮に入れたとしても、私以外に観光客が一人もいないという状態。農業にも適さず、国内林業が壊滅状態である現状を考えると、残念ながらこの集落の将来に明るいビジョンが描けない。

 

 赤沢宿を一回り見学すると、そのまま今日の宿泊地である甲府まで長駆する。この行程の長さがこの地がいかに周辺から隔絶されているかを悟らせる。

 

 とにかく疲れて甲府に戻ってきた時には5時過ぎだった。とりあえず甲府での私の定宿であるドーミーイン甲府にチェックインすることにする。部屋に入るとまずは洗濯と入浴。ドロドロの汗だくになった衣類をすべて洗濯機に放り込んでから大浴場で入浴である。ドーミーイン甲府の大浴場はナトリウム塩化物炭酸水素塩泉の弱アルカリ天然温泉である。ヌルヌルした肌触りの柔らかいお湯。とにかく手足がガタガタになっているので、それを出きる限り癒しておく。それにしても特に足のがたつき具合が想像以上だ。何しろ湯船に入ろうとしたら足下がふらついて転倒しかけるぐらい。

 

 洗濯物は案の定一度の洗濯では泥が落ちきっていないので、もう一度洗濯することに。その間に夕食に出かけることにする。と行っても遠くまで行く気は毛頭ない。立ち寄ったのはホテル近くの「銀座江戸屋」

 

 まずは甲府に来たら何よりこれは絶対食べないとということで「猪豚ほうとう」を注文。さらに「ホッキ貝の刺身」にやはり甲府と言うことで「鳥モツ煮」を追加。

 ほうとうのもっちりした風味がたまらない。これもたまに食べたくなるメニューである。またホッキ貝のあっさりした風味。私は貝類ではこの貝が一番好きである。そして鳥モツ煮がたまらない。何しろ本来はレバー系は苦手な私が、この料理に関しては純粋にうまいと感じるのだから驚き。こくがあるに嫌味や臭味がない。これも以前にここで初体験して衝撃を受けたメニューだ。以上にウーロン茶をつけて支払いは税込み3348円。まずリーズナブルなところである。ところで私は以前から甲府名物の煮貝を食べてみたいと思っているのだが、さすがにアワビは高く、2000円以上するので手が出せずにいる。いつかは体験したいものだ。

 

 食事を終えて帰ってくると、洗濯物を乾燥機に放り込んで夜のマッタリタイム。汗をかきまくって体が脱水になっているのかやたらにのどが渇く。

 

 洗濯物を回収したついでにもう一度入浴してから22時頃には就寝する。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は7時前まで爆睡していた。警戒していたとおり手足に痛みが残っており、特に両太股がパンパンに張っている。これは今日の行動に制約がかかりそうである。

 

 今日はまずは山梨県立美術館に立ち寄るつもり。開館が9時なので、遅めに朝食をガッツリ食ってから、入浴も済ませてチェックアウトする。ここのところ強行軍が続いているので、たまにはこのくらい休養しないと体が持たない。

 


「動く!光る?魔法の芸術 キネティック・アート」山梨県立美術館で6/15まで

 

 1950年代後半から60年代にかけてヨーロッパを中心に流行したのが「動く芸術」であるキネティック・アートである。電動仕掛けなどで本当に動く作品から、目の錯覚を利用して動いているように見える作品まで内容は様々である。本展はそのようなキネティックアートの作品を展示した展覧会である。

 私が以前より言っている「現代アートとは遊園地のアトラクションのようなものだ」という言葉に一番合致しているように思われる作品群である。芸術的感銘を受けるかは別として、モーターなどで動いて時々刻々と変化する作品は、単純に面白くて興味は引く。もっともこの手の作品は、ことさらに芸術家を名乗らなくても私自身も子供の頃には似たようなものを作っていたような気もするのだが・・・。


 

 山梨県立美術館を見学した後は美術館の梯子。高速をひとっ走りすると茅野市立美術館に立ち寄る。この美術館は茅野駅と直結している美術館で、以前に中央線で通った時からずっと気になっていたのである。

 

 茅野市立美術館はJRの茅野駅と接続されている。駅をまたぐ陸橋がちょうど建物の入口と接続、内部は広くて斬新な空間になっており、その一角に美術館はある。

 

 私の訪問時には富永直樹氏の彫刻作品を展示していた。何となく作品の質感が妙だなと感じたのだが、一般的な彫刻作品はブロンズや大理石などを用いることが多いのに対し、彼の作品は樹脂製作品が多数あることが原因だったようだ。工業デザインなども手がけたという人物らしく、作品は写実的で変に芸術を意識して奇をてらったところはない。そういうところが作品として好ましかったりする。

 

 どうも安曇野からこの方彫刻系の展覧会ばかりである。ただやはり彫刻は私の守備範囲から少々ずれる。どうしてもザクッとした見方しか出来ない。

 

 美術館の見学ついでにレストランで昼食も済ませてしまうことにする。お昼のランチが700円。こういう施設のレストランにしては至極まとも。

   

 美術館を回ったところで次は城郭見学に移りたい。が、その前に靴屋に立ち寄る。というのも一昨日の雨と昨日の遭難の挙げ句の沢歩きで湿った靴が明らかに異臭を発しており不快極まりなく、さすがにこれ以上とても履いていられないからだ(履いていると足まで臭くなる)。以前にも沼地状態になっていた城郭に入り込んだ時にやはり後で靴が臭って困ったのだが、どうもこういう山系の湿地はとかく悪臭の原因となる。昨日リセッシュをかけておいたのだが、それだけだとどうも臭いが完全にはとれない。丸ごと水洗いしてから完全に乾燥させて、それでも臭いが落ちないならもう捨てるしかなかろう。

 

 靴を履き替えたところで目的地へ向かう。最初の目的地は「上原城」。諏訪氏が居城としていた城郭である。

 

 手前から山肌にデカデカと上原城跡の看板が立っているので、登る山を間違う心配はない。永明寺山を車で山道を登っていくと、上原城諏訪氏城館跡の石碑が建っているが、この辺りが麓の城館地区。それなりの広さがあることは分かるが、今は完全に畑化していて特にこれという遺構があるわけでもない。

左 ドデカい看板  中央 館跡の石碑  右 館跡にはこれという遺構はない
 

 城の本体はここからさらに車でしばし登ったところにある。案内看板が出ているので、そこに車を止めてしばし水平に歩くと神社のある曲輪に出る。ここからは参道筋の石段が下に伸びているが、これを降りる気はない。ここからはかなり見晴らしが良い。手前は堀切などで防御してあり、こちら側は断崖であるので確かに防御は固い。

左 上原城入口  中央 ここを進む  右 左手は急崖

左 鳥居が見えてくる  中央 曲輪には神社がある  右 鳥居の向こうには絶景

 ここの手前には物見岩と呼ばれる巨石があるがとても登れそうな雰囲気はない。そこから背後に一段上ったところが主郭跡。そこそこの広さの曲輪ではある。私の訪問時には地元の小学生と思われる団体がやってきていて大騒ぎしていた。どうやらこの山は地元のハイキングコースになっているようだ。

左 神社の裏の登り口  中央 物見岩  右 その奥が主郭

主郭には小学生の団体が

 上原城の見学を終えると桑原城に向かう。こちらも諏訪氏がらみの城郭で、武田信玄の攻撃を受けた諏訪頼重が上原城を捨てて籠もったのがこの城郭である。結果として諏訪頼重はこの戦いの後自刃し(というか、実質的に信玄に殺されたのであるが)、諏訪宗家はこの時に滅びている。

  桑原城の看板が前方に見えてくる

 桑原城があるのは先ほどの上原城よりも北西にある山。ここも山肌にデカデカと桑原城の看板が立っている。ただ車で進む場合はさらに北に回り込むことになる。途中から砂利道の登山道があり、車で登ることも可能・・・とのことなのだが、道幅は極端には狭くはないものの、思ったよりも急な坂道である上に下が砂利なので、私のノートでは砂利を掘るだけで全く前に進めないので車は麓において歩いて登ることにする。途中、車道を横切るかなり広めのオープンな排水溝があったり、いかにも滑りやすそうな金属蓋なんかもあったから、車のパワーと運転の腕に自信がない場合には無理をしない方が無難そうだ。

左 桑原城の登り口  中央 急な砂利道だ  右 ノートでは地面を掘るだけで登れない
 

 20分弱で林道を終点まで上ると、そこから城内に進む山道がある。そこから城域に到着するのは10分もかからない。空堀跡を超えるとそこに曲輪跡がある。

左 砂利道の終点から城内  中央 空堀を越えて登る  右 小さな曲輪がある
 

 さらに進むともう一段上に曲輪があり、そこには首塚と表示された小山がある。その奥には一段高い曲輪があるが、そこに登るには先に回り込む形になる。

左 さらに一段上の曲輪  中央 首塚  右 主郭の裾を回り込む
 

 グルリと回り込むと、一段高くなった二つの曲輪の間の空堀に出る。台地先端側の曲輪からは遠く諏訪湖を望むことが出来る。

左 主郭の奥にもう一つの曲輪  中央 風景が良い  右 振り返って主郭
 

遠く諏訪湖が見える

 台地奥の方の曲輪は大きく、こちらが主郭だろうか。それなりの面積はあるものの、城全体としてはさして大規模なものではない。

    主郭に登る

主郭の風景

主郭から東方を眺める

 さて武田氏の攻撃を受けた諏訪氏は上原城を捨ててこの桑原城に籠もったのだが、桑原城を上田城と比較したところ、そうこちらの方が防御力が高いとも思われない。確かに上原城は小規模な城であるが、さりとて桑原城にしても大規模な城とは言いがたい。

 

 考えられるのは、上原城が現在の状況よりもさらに防御力の低い城だったか(当時は麓の城館しかなかったとか)、大兵力を有していたと言いがたい諏訪氏が兵を二カ所に分けるわけにもいかないので桑原城に集中させたかという辺りか。諏訪氏は諏訪神宮とゆかりの深い一族であるので、諏訪湖が見える桑原城で諏訪神宮の加護にすがろうと考えたか。何にしろ、あえて桑原城を選択するべき必然というものは感じられなかった。

 

 これでとりあえず諏訪地域での宿題は解決である。中央線からあのデカデカとした桑原城跡という看板を見せられた時から非常に気になっていたのだが、ようやくこれでスッキリすることが出来た。

 

 上原城の見学を終えると最後にもう一カ所、「有賀城」に立ち寄ろうと考える。有賀城があるのは江音寺の裏の山。江音寺の駐車場に車を置いて江音寺裏の墓地に回ったところ、墓地の脇に有賀城の登城口がある。

左 江音寺  中央 江音寺山門  右 背後のこの山上が有賀城
 

 丸太の段が作ってあるのだが、それを登るのが思いの外足に堪える。もう大分足のダメージが洒落にならないレベルになっているようだ。足が上に上がらない。しかもその内に丸太の段が消失する。どうやらここから先は斜面を直登する必要があるようだ。しかし足下は枯れ葉が積もってやや怪しく。しかもそれ以上に私の足下がグラグラである。しかもここに来て伊右衛門を忘れてきたことを思い出した。強行するか一瞬迷ったが、もう今日はここで限界と判断して断念することとする。体力の限界であることもあるが、やはり先日浄福寺城で遭難しかかったことでやや気弱になっているような気もする。ただやはり単独行では慎重にあるに越したことはなかろう。有賀城はいずれ日を改めて捲土重来を期すことにしよう。何か宿題を一つ解決したと思ったら、また新たな宿題が出来てしまった・・・。

左 家老墓地  中央 その奥に登り口がある  右 しかし丸太の段は途中でなくなる
 

 もう体が疲労の極致に達しているので、宿泊地まで直行することにする。今日宿泊するのは松本市街のはずれにある浅間温泉。公立学校共済組合の宿である浅間温泉みやま荘を予約している。道後温泉に続いて公立学校共済組合の宿の使用ということになる。私は教師とは全く無縁であるのに・・・。

  みやま荘

 浅間温泉は松本の中心部からかなりはずれた山の手前辺りである。みやま荘はその浅間温泉の中心部からもやや離れた位置にある。チェックインするとまずは大浴場に直行。泉質はアルカリ単純泉とのことでヌルヌル系の湯だが、ヌルヌル感はそう極端に強くはない。ここの浴場は小ぶりであるが、露天風呂が付いていてゆったりと出来る。とにかく疲労が半端でないので体をほぐすことと疲れを抜くことに重点を置いてゆったりとする。

 

 入浴を終えると夕食までに近くのセブンイレブンまで車で買い出し。夕食はレストランで会席だが、和洋両様系で量はそう多くはないが満足度は比較的高いものであった。

 

 夕食後は部屋でテレビを見ながらボンヤリ。原稿入力でもしたいところだが、もう既にそのための集中力を保つことが出来ない。とにかく今日も早めに就寝することにする。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時半に起床。しかしとにかく体が重い。特に足にはかなり来ていたので、昨晩は太股に湿布を貼って寝たのだが、両太股にかなりの痛みがある。

 

 動きの鈍い体にむち打って、7時に朝食に出かける。朝食は和食中心のバイキング。特別なものはないが品数や味の面で不満なし。朝からたっぷり燃料チャージである。

 

 朝食後には入浴して一息ついてからチェックアウトすることにする。今日は長躯魚津まで走行する必要がある。プランの立案時からここが一番ハードな行程になることが予想され、体力が続くかが懸念されたところであるが、とりあえず進むしかない。今のところとにかく体にかなりの疲労感はあるが、特に体調が悪いというわけではなく、計画の実行に問題はない。

 

木崎湖周辺

 ホテルをチェックアウトすると一端安曇野方面に向けて走行する。安曇野からは国道147号線をひたすら北上する。車の通行量が多い路線であるが、道路の整備状態が良いことと、風光明媚であることが精神的な救い。

 

 山間の風光明媚なところを抜けながら体力的にはかなりキツいドライブが続く。途中で今までの山間の風景が変わって賑やかになったきたと思ったら白馬村に到着である。本当は松本から魚津まで移動などというきついスケジュールではなく、途中のどこかで宿泊したかったのだが、この地域にはホテルがほとんどなく、白馬村周辺にスキー客目当てのペンションがいくつかある程度だけだったので断念したのだが、確かにこうしてここを走行してみたらそれが改めて納得させられる。風光明媚ではあるのだが、途中でどこかに立ち寄るという観光地が特になく、必然的にホテルなどもないのである。とにかくひたすら深い山の中であった。

 

 白馬村についたところで寄り道になる。さすがにひたすら魚津まで走り続けるだけだと体力もさることながら、何よりも精神が持たない。適度な気分転換は必要である。白馬村の重伝建である青鬼立ち寄ると共に、この近くの城郭見学もする予定。

 信濃森上駅

 青鬼を目指すのに途中で国道148号を右折する。信濃森上駅の近くへ来たところで、ここの近くに城郭があったことを思い出したので、そちらの見学を先にする。

 

 立ち寄ったのは「塩島城」。街道の要衝であるこの地は、上杉・武田の勢力争いの余波で戦乱の絶えない地であった。塩島城の築城年代は不明であるが、塩島祐輝が城主の時に武田信玄配下の小県昌景によって攻められて落城したとのこと。

   塩島城登り口

 塩島城は信濃森上駅の南東の川の畔の小山の上にある。城跡は現在は遊歩道が通っており、容易に見学することが出来る。

 手前の駐車場に車を置くと遊歩道に沿って見学。内部は何段かの曲輪があったらしい跡があるが、その構造は今ひとつハッキリしない。ただ周囲はそれなりに切り立っており、本丸北側などはかなり急であることから、小規模ながらもそれなりの防御力は有していたとは思われる。なお落城後のこの城がどうなったかは定かではないが、街道の要地であることを考えると、主を変えながらも城は存続したのではないかと思われる。

左 かなり鬱蒼としている 中央 日光寺跡  右 一段上がる

左 さらに進む  中央 もう一段上がる  右 第2ベンチに到着

左 さらにもう一段  中央 ここが主郭か  右 すぐそばに第1ベンチ

ここから降りていくと中央出口方面、ここは馬場というところか

山から下りた途端に眼前に広がる風景

 塩島城の見学を終えると青鬼地区を目指す。青鬼は細い山道を登っていった山間にある山村。ただ道は狭いものの道路は整備されており、赤沢よりは観光地の雰囲気がある。観光用の駐車場は車が一杯で、カメラを持った観光客が大勢ウロウロしている。

整備された山道を走り抜けると集落にたどり着く
 

 観光客相手の商売をしている家も何軒かあるようだが、あまり観光地している様子ではないのが風情として良い。とは言うものの、この状況で地元にメリットがあるのかどうかについては少々疑問もある。

 青鬼の見学を終えると魚津までの長距離ドライブである。国道148号線はここからはさらに険しい山間の道路となり、トンネルなども多くなる。しかも北上して富山に近づくにつれて空模様が怪しくなり、糸魚川に出た時には雨が降り始める。

 

 ここからは魚津まで北陸自動車道を走るだけ。しかし疲労が強いのと雨風が強いのとで思った以上に走りにくい。かなり疲れた頃に魚津に到着する。

 

 非常に疲労が強いので気分としてはこのままホテルで寝たいところだが、まだ昼過ぎ頃でホテルに入れる時間ではない。それにやはり今日中にこなしておかないといけない予定もある。

 

 まず向かったのは「松倉城」。越中三大山城の一つと言われている城郭で、以前の北陸遠征の際に立ち寄りたかったのだが、ルートの関係で断念した山城である。そもそもは中世の城郭で、南北朝以後椎名氏の居城として栄えたが、椎名康胤の時代に上杉氏から武田氏に寝返ったことで上杉氏の攻撃を受けて落城、その後は河田長親が入ったものの織田氏の攻撃で落城、その後に廃城になったらしい。

 

 朝から飯も食わず乃走り続けなのでそろそろかなり体がツラくなってきた。松倉城に立ち寄る前に昼食を摂りたいところだが、辺りに全く店がない。どうやら有磯海SAが高速外からも利用できるらしいので立ち寄るが、GWの影響でSA内の飲食店には長蛇の列。こんなところでとても待ってられないので、結局はSA内のパン屋で白エビバーガーを買って急場をしのぐことに。

 

 松倉城に行くには角川ダムを目指して走行すれば良い。途中で山道があり、松倉城の案内看板が出ている。ただこの山道。路面は走行に不安のあるものではないが、狭い急カーブの山道を延々と登っていくことになるので、もし途中で対向車と出くわしたら非常に怖い場面もある。またガードレールのない断崖なんて言うのも普通にあるので、くれぐれも走行は慎重を期する必要がある。10分ほどこの山道を登り切ると、駐車場のあるスペースにたどり着く。

途中からすれ違い困難な狭い山道を走行、突き当たりに駐車スペースがある
 

 この駐車場から本丸へ直登できる。松倉城主要部は山頂の尾根筋に曲輪が水平に並ぶ構造になっており、各曲輪間はかなり深い堀切で分かたれている。またその回りはかなり険しい断崖であるので、地形をフルに生かした堅城である。

 

 かなり険しい山上であるが、各曲輪は結構な面積がある。椎名氏が長年居城としていたのも頷ける。しかしこの城が二回も落城しているわけだから、やはり城を守るのは地形だけではない。

左 本丸と二の曲輪の間の空堀  右 本丸に登る

左 本丸奥に進む  中央 剥き出しの巨岩がある  右 向こうは出丸か

本丸からの風景

 本丸の先端部は天然石がゴロゴロむき出しの状態になっており、向こうには祠の建っている出丸城の部分がある。見張り台とでも言うべきところか。

二の郭へはかなり下ってから再び登る
 

 かなり深い堀切を経た先に二の曲輪がある。二の丸もかなりの広さがある。

二の曲輪の裏はまたかなり下って平たい曲輪があり

そこから進むとさらに一段上がって三の曲輪
 

 この二の曲輪からまた深い堀切を経た先が広い三の曲輪。進むにつれて尾根筋に沿って少し高度を下げながら曲輪が続くが、その間は悉くかなり深くて広い堀切で分かたれており、下の曲輪から上の曲輪は見上げるような構造になっている。下の曲輪が落ちてもさらに上の曲輪から攻撃が出来るという構造になっている。

四の曲輪も同じような調子
 

 この調子で四の曲輪まで曲輪が続き、この先にも何やらあるらしいのだが、ここから先は鬱蒼としてきて構造が不明確になるし、特別に凝った構造もなさそうであるので見学はここまでにして戻ってくる。

 

 城の主要部はここであるが、実際には各地の山上に出城のネットワークのようなものが存在していたらしい。確かに越中三大山城と言われるだけの大規模な城郭である。城の主要部だけでも結構見応えはあったが、ただ構造的には主に地形に防御を頼る中世の城郭だなという印象で、意外に凝ったものは感じなかった。

 

 松倉城の見学を終えたところで魚津市街に戻る。今日の宿泊予定ホテルはルートイン魚津。本格的なGWに突入して、各ホテル共にGW特別料金になったり、そもそも部屋の空きがなかったりという状況下で確保したホテルである。北陸地域となるとドーミーインが良いのだが、最近のドーミーインは休日には特別料金を取って異様に宿泊料が高くなるという良からぬ傾向が現れており、どうしても利用が遠のいている。いよいよもって「困った時のルートイン」という状態に拍車がかかっている。

 

 ホテルの近くまで来たところで、昼食を摂っていなかったことから近くのラーメン屋で昼食を摂ることにする。入店したのは「らーめん世界」「半ちゃん+ラーメンのセット(890円)」を注文。

 

 特にどうということのない炒飯だが、私の好みに合っていてなかなかうまい。ラーメンはコク系スープに縮れ麺の組み合わせ。にんにくを加えているのだが、これがなかなか合う。こってりしていても嫌みのないなかなかにうまいラーメンである。

 

 昼食を終えるとホテルにチェックイン・・・しようかと思ったのだが、まだチェックイン時間になっていない。そこでチェックインの前に一カ所立ち寄ることにする。

 

 立ち寄ることにしたのは「魚津城」。そもそもは松倉城と共に椎名氏の城郭であったが、椎名康胤の上杉からの離反によって上杉勢の攻撃を受けて落城、以降は河田長親が城代として上杉の拠点となる。しかし織田氏の上杉攻略が始まり、1582年には魚津城の戦いとして知られる激戦が繰り広げられる。魚津城は3ヶ月の激戦の後に上杉勢の守将13人が自刃して落城となるが、直後に本能寺の変が発生して織田軍は撤退、魚津城は再び上杉の治めるところとなっている。しかしその後、再び佐々成政の攻撃を受けて落城、その後は前田氏の支配下となるが、一国一城令で廃城となっている。

今では小学校の一角に説明板と碑があるのみ
 

 現在は小学校の敷地となっていて遺構は全くといっていいほど残っていないという。確かに現地を訪れてみたが、小学校の校庭の一角に魚津城跡の碑は立っているのだが、城らしい遺構は皆無である。あえて言うならこの辺りの区割りにかつての城の縄張りの痕跡が見られるぐらい。市街地の中の城跡の宿命と言えるようものである。

 

 魚津城の見学を終えた頃にはホテルのチェックイン時間を過ぎていたのでホテルに戻ってチェックイン。部屋に荷物を置くととりあえずは風呂に入って汗を流す。今日はかなりの長距離走行なのでとにかく疲れている。

 

 風呂上がり後はテレビでも見ながらしばしマッタリ。その内に夕方になってきたので夕食に出向くことにする。とは言っても全く何の当てもなく車を走らせるだけ。その内にホテルの近くで回転寿司屋「おすしやさん」を見つけたので入店する。

 

 人気があるのか次々と客がやってきて店内は満員状態。しばし待たされることになる。私の後も次々と客が訪れており駐車場も一杯。寿司の方なのだが、確かに悪くはない。少なくても一般的な回転寿司のレベルは超えており、この辺りはさすがに富山。これだけ食べて2580円というのはCPも良い。ただ私としては特別に驚くとか感動するというレベルでもなかったのも事実。

 

 それにしても異常に疲れている。夕食を摂り終えてホテルに戻ってくるとどっと疲れが押し寄せる。ホテルに戻ると寝る前に再入浴するつもりだったのだが、とてもそんな気が起こらない。部屋に入ってベッドの上に倒れ込むと、そのまま意識を失ってしまった。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 昨日は8時過ぎに寝てしまったようだ。部屋の電気をつけたまま意識を失っており、気がつけば夜中の2時になっていた。部屋の電気を消すとそのまま寝る。次に目が覚めたのは6時前だった。

 

 大浴場に出向くのもしんどいので部屋のシャワーを浴びると、6時半にレストランに出向く。しかしレストランの前には長蛇の列。結局はレストランに入場するのに20分近くかかる羽目に。あまりの状態に「間に合わない」と叫んで朝食を諦めて出かける家族も。列車の時間などが決まっていたら、確かにこれでは間に合わない。

 

 ようやく朝食を終えたときには30分以上経っていた。これ以上ホテルにいても仕方ないし、GWの渋滞が気になるので早々とチェックアウトすることにする。

 

 今日の最初の目的地は「守山城」。松倉城、増山城と並んで越中三大山城と呼ばれる城郭である。ただその築城経緯などは明らかでなく、戦国期には神保氏の勢力下であったが、上杉謙信の攻撃によって落城したとのこと。

 

 山頂までは二上山万葉ラインなる道路が通っているので容易に登ることが出来る。ただこの道路によって城の遺構が破壊された可能性もあるようだ。

左 守山城本丸入口  中央 向こうに観音像が見える  右 完全に公園化されている

左・中央 下を見ると曲輪らしきものがある  右 小矢部川蛇行

 山頂の駐車場に車を置くと徒歩で見学。山上の削平地が本丸跡のようだが、ここには今は観音像が立っていて完全に公園化されている。

左 下に降りてみる  中央 帯曲輪?  右 下にまだ曲輪がある

左 振り返って  中央 さらに下に降りる  右 放送施設がある
 

 ここの端から見下ろすと南の方に数段の曲輪らしき構造があり、テレビの電波塔が立っている。この電波塔が立っている曲輪跡の南西に延びる尾根上にも曲輪のような構造が見えるが、鬱蒼としていて踏み込めそうな感じではない。

道路沿いに曲輪っぽい構造が見えはするのだが・・・
 

 確かにかなりの高い位置にある山城なのだが、三大山城と言われても、昨日訪問した松倉城や以前に訪問した増山城に比べると見劣りするという印象は拭えない。

 

 守山城見学後には「末森城」へ向かう。末森城は加賀と能登をつなぐ交通の要衝にある城郭で、元は畠山氏の城郭であったが、前田利家の支配下となり佐々成政の侵攻を退けたりしたが、後に一国一城令で廃城になったとのこと。

左 道路沿いのこの看板で右に  中央 進んだ先のこの路地に入る  右 ここからは車を止めて徒歩
 

 現地に近づくと末森城跡の巨大な看板が出ているので、それに従って車を進めていくと、入口手前の駐車場にまでたどり着く。橋で国道を越えて進んだ先の山上が末森城になる。

 

 巨大な城郭であるので結構歩くが、それほど険しい山岳という印象ではない。登城路が整備されており、道を間違いそうな分岐点には案内看板が立っているので迷わずに本丸までたどり着ける。通路脇の鬱蒼とした竹林が武家屋敷らしい。

左・中央 要所要所には案内看板があるので迷わない  右 ここが大手門跡
 

 本丸手前には大手門跡があり、その脇に若宮丸がある。大手門の脇には三の丸もあるがここは鬱蒼としていて踏み込めず。三の丸の反対側には馬掛場と呼ばれる平地が下の方に見える。

左・中央 大手門脇の若宮丸  右 鬱蒼とした先にある馬掛場
 

 三の丸からさらに進んだところが二の丸でここは結構広い。さらにこの一段上が本丸。かなり広いスペースになっており、ここからは日本海も見える。

左 さらに進むと二の丸  中央 奥の一段高い先が本丸  右 二の丸振り返って
 

二の丸

左 本丸に登る  中央 本丸  右 日本海が見える

 本丸の先にまだ曲輪があるが、この辺りから鬱蒼としてくる。この曲輪の先は鬱蒼としていてとても進めそうにないので引き返してくる。

左・中央 本丸先にも曲輪があるが  右 その先は鬱蒼として進めず
 

 末森城はかなりの規模の城郭であった。この地域の拠点にふさわしい規模である。

 

 末森城の見学の後は能登半島に向かってひた走る。これから重伝建の黒島地区に立ち寄る予定である。

 

 能登半島をひたすら北上、途中でのと里山海道に乗り、西山で降りると国道249号をさらに北上する。正直なところ体に疲労もあるのでかなりキツい。国道249号で海岸に出る手前で巌門の表示があったので、気分転換と休憩をかねてそちらに立ち寄ることにする。

 

 巌門は日本海の荒波で岩に穴がうがたれたいわゆる奇岩。東尋坊などのような日本海岸に散在する景勝地の一つである。現地は観光用の駐車場なども完備され、多くの観光客が訪れている。巌門を船で見学することなども出来るそうだが、今日は海が荒れているのでツアー船は欠航の模様。そこで徒歩で見学することにする。

  荒々しい日本海

 岩がゴツゴツした海岸で、そこに荒波が押し寄せる様はそれだけでかなりの見物。リアル東山魁夷の絵画世界が展開する。こういう海岸や、冬山などの風景を見ていると、確かに日本の風景を表現するのに水墨画ほど適した手法はないと感心したりするのである。下手にゴテゴテと色を使うより、モノトーンの水墨画の方がしっくりくる。春の華やかさや夏の生命力を表現するのは水墨画では厳しい点があるが、冬の厳然として清澄なる空気を表現するにはあれを超える手法はない。去年訪問した冬の兼六園なんかも見事に水墨画の風景となっていた。そして、薄曇りの中の荒々しい日本海岸の風景もどちらかというと水墨画テイストである。

岩のトンネルを抜けた先が
  巌門

 岩に打ち寄せる日本海の荒波を見ていると、何やら地平線の彼方から三角形に入った「東映」の文字が飛んでくる幻覚を見そうである。とりあえず日本海の風景を堪能してから本来の目的地へと向かう。

とにかく絵になる風景の連続
 

 黒島はここからさらにしばし日本海岸を北上したところにある。そもそもは北前船で栄えた町で、北前船のオーナーのお屋敷などがあったのだという。そういう点でちょうど加賀橋立とそっくりである。ただ町並みの風情自体は加賀橋立とは若干趣が違う。加賀橋立は赤瓦の町並みだったのに対し、黒島は黒瓦で質素な板壁の町並みなので非常に渋い印象を受ける。

黒島の町並み
 

 かつての大廻船問屋であった角海家の住宅が資料館として公開されているのでそれを見学する。今では子孫は金沢で生活しており、黒島に戻る予定がないということで建物を寄付したらしい。いかにもかつての大商人と住宅という印象で、敷地内には複数の倉があり、とにかくすごい木材を使用している。こういう辺りも加賀橋立で見学したお屋敷と類似。

角海家
 

 町並みの統一感は加賀橋立よりもむしろ上。ただ北前船が廃れてからは住民は漁業中心で暮らしていたとのことで、どことなく商家町というよりも漁村の雰囲気を感じてしまうところもある。全体的に地味な町並みである。

 

 黒島地区の見学を終えると能登半島を横断して穴水に向かう。能登半島の背骨になっている山岳地を横切るルート。GWのためかツーリングのバイクの集団が多い。

 

 穴水では「穴水城」を見学するのが目的。穴水城は畠山氏の重臣であった長一族の祖である長谷部信連が築城した城郭である。200年に渡って長氏の居城であったが、上杉の畠山攻略によって城主が転々とし、前田利家が能登に入部して後はその支配権下に組み込まれたとのこと。1583年まではその存在が確認されているが、その後に廃城となり、現在は城跡は公園となっているとか。

 

 城跡公園はハイキングコースにも組み込まれているらしく、遊歩道などが整備されている。また主郭近くまで車でたどり着くことが可能(道は結構狭いが)。

 

 主郭とそれを取り巻く帯曲輪(二の丸か?)が残っているようだ。公園整備で手が入っている分、かつての構造が明確ではない。ただ主郭を見る限り、それなりの規模の城郭ではあったようである。

左 帯曲輪  中央 背後の一段高いところが主郭  右 主郭
 

 穴水城の見学を終えると今日の宿泊予定地である七尾へ移動することにする。その前に既に遅れすぎている昼食を摂ろうとIC近くの寿司屋に入るがハズレ。軽く食事を済ませるとさっさ七尾に移動して夕食を早めに摂ろうと考える。ただホテルに入る前に最後にもう一カ所立ち寄る。七尾市街にある小丸山城である。

 

 信長の命で能登を治めることになった前田利家は当初は七尾城に入ったものの、七尾城は要害ではあるが山奥で政治・経済の両面から不利であるため、より利便性の高い「小丸山城」を築き、そこに移り住んだとのこと。この頃から既に城が単なる戦闘用要塞としてではなく、城下町経済の中心としての機能が強まっていたことを示す例である。後に利家が金沢城に移ってからは前田安勝が居住したが、一国一城令によって廃城になったとのこと。

 

 現在は小丸山公園として花見の名所になっているらしい。小丸山城のある小丸山は川のすぐそばにある小山で川を天然の堀として利用している。現在も周辺にいくつかの寺院があるが、これも有事の際には軍事的防御点として利用するために築かれたものだという。

左 小丸山公園入口  中央 本丸は完全に公園化  右 城跡碑

左 何やら庭園もある  中央 ここは櫓台跡か  右 本丸からの風景

 完全に公園整備されてしまっていて旧状が伺いにくい。本丸跡には大河ドラマを意識したと思われる利家とまつの像が建っている。そうそう利家のためにまつがへそくりで馬を買ったシーンだな・・・と思ったところで、それは山内一豊の妻の間違いだったことに気づいた。そう言えば高知城にそのものズバリの山内一豊の妻と馬の像があった。どうもこの両者、同じような頃に大河ドラマになっているので紛らわしい。こっちは仲間由紀恵の方ではなくて、松嶋菜々子の方だった。どちらも美人だが、私は仲間由紀恵の方が好みだ。

   

左 小丸山城の「利家とまつ」  右 (参考資料)高知城の山内一豊の妻

 現地案内看板によると、本丸、天性丸、宮丸、大念寺山の4つの独立曲輪からなっていたらしいが、公園となっているところが本丸と天性丸のようである。この間の堀切は今日でも明瞭に残っている。また本丸隅の日像上人像のある小高い部分は櫓台跡のように思われる。となると現在は土俵のあるところが宮丸か。大念寺山は今日では住宅地に埋もれて消失したと考えるしかないようである。

左 橋を渡って天性丸跡へ  中央 この橋が架かっているのはかつての堀切跡  右 こちらも完全に公園化

左 川がすぐそこにある  中央 これは虎口跡か  右 本丸一段下の土俵

 防御力はそれなりにある城郭だが、柴田軍団の一将帥である前田利家の居城としてならともかく、太閤秀吉の下で北陸の雄となった前田利家の居城としては小規模に過ぎるだろう。結局は前田利家がこの城にいたのは2年足らずのようである。

 

 これで今日の予定は完全終了である。ホテルに入ることにする。今日の宿泊ホテルはルートイン七尾駅東。例によっての「困った時のルートイン」である。チェックインを済ませると夕食のために町に繰り出す。夕食に何を食べるか困ったが「手打処雅亭」なるうどん屋(そば屋?)を見つけたのでここに入店。「カツ丼(930円)」を注文。

   

 取り立ててどうというところのない内容だが、普通にうまく、内容に不満はない。価格もリーズナブル。典型的な普段使いの店である。こういう店は町には貴重。

 

 夕食を終えるとしばし町中を散策。七尾駅に立ち寄るとのと鉄道の駅に何やらペイント列車が。どうも何かのアニメのラッピング列車であるが、後で調べたところによると「花咲くいろは」なるアニメ作品らしい。この作品のことはよく知らないが、どうやらこの沿線の温泉地が舞台となったようだ。別に聖地巡礼する気なんて毛頭ないのに、なぜかこの手のものに各地で出くわしてしまうこの因縁。ちなみにこの作品には全く興味がないが、正直なところこの絵柄は結構好みだったりするな・・・。

めまいのしそうなラッピング車両
 

 町を一回りしてホテルに戻ってくると入浴してからマッタリ。しかしやはりここのところは疲労が半端ない。原稿を書こうにも集中力皆無。今日も早めに就寝することにする。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 朝は6時頃に目が覚める。しかし今日の朝はゆっくりする予定なのでそのまましばしマッタリ。朝食を摂りに行ったのは7時過ぎ。食堂は混雑のピークは過ぎたようだが、それでもまだ結構混雑しているし、食材によっては補充が間に合っていないものも。それにやはりルートインの朝食は2日続くと苦しい(メニューがほとんど同じ)。

 

 朝食を終えるとそのまま9時前まで部屋でマッタリと休憩。今日は最初に七尾市美術館に立ち寄るつもりで、開館時間9時に行けば良いのでかなりゆっくりしたチェックアウトになる。体の方に相当な疲労が蓄積しているのでこれが正解である。

 


「長谷川等伯展〜その多彩な画業〜」七尾美術館で6/1まで

   

 長谷川等伯の作品をその初期の作品から多岐にわたって紹介。肖像画、仏画など結構珍しい作品も展示。

 キャッチコピーが「なんでも描いた なんでも描けた」なのであるが、確かにまさにその通り、等伯が非常に多彩で器用な画家であることがよく分かる展覧会。修業時代からその天才ぶりは際立っていたというが、確かに初期の作品からして圧倒的な技量に唸らされる。


 努力なくして才能は開花しないが、才能なくして一流にはなれないというところだろうか。私のような凡人には厳しい話だ。かつては私も何かの特別な才能があるはずという中二病的思考にとらわれていたが、いろいろと人生を積み重ねるごとに自分の限界というのが見えてきて、結局は自分も凡人の一人であるということを認めざるを得なくなってきた。そしてそうであることがすなわち自身の人生の否定でもないということも。ただこのまま私が朽ち果てると、この世に私が生きてきた証を何一つ残せないということには一抹の寂しさを感じる。

 

 展覧会は意外と体にダメージを与える。結構疲れ切ったので喫茶で一服することにする。抹茶アイスで一息。本当は宇治金時でもガツつきたいところだが、今日はやや寒めだし、そもそもここのメニューにかき氷はない。

 

 美術館の見学を終えると次の目的地へ移動。当初予定では金沢に立ち寄ることを考えていたのだが、現在は金沢の美術館であまり良い出し物がないことと、それでなくても車で走りにくい金沢がGWの混雑でどうなっているかと考えると、それだけでゲッソリしてしまうので金沢はパスして小松に向かうことにする。目的は小松城の見学。

 

 無料開放されているのと里山海道を南下、対面二車線のなんちゃって高速なので途中で渋滞などもあったが、とりあえず白尾ICまでは一応順調に到着する。しかしここから北陸自動車道に乗り換えるのに一般道に降りた途端に大渋滞に出くわす。まだ金沢市街に入っていないのにこのざまとは・・・。金沢をパスしたのは正解のようである。渋滞を抜けて北陸道に乗るとようやく車はスムーズに流れるようになる。疲れたのもあって途中の徳光PAで休憩と昼食。今日の昼食はカツカレー。悪くはないが、ルーにもうひと味の深さが欲しいところ。

 

 徳光PAを出ると小松ICはすぐ。小松城はICからそう遠くはない。

 

 「小松城」は今の小松市街にあった城で、そもそもは一向一揆勢の城だったが、柴田勝家、村上氏、丹羽氏などと城主が転々とした後に一国一城令で廃城、しかし加賀藩の2代藩主である前田利常の隠居城として再築されたという。ただ隠居城としてはかなり大規模な城郭で、水堀や石垣を巡らした堅固な城郭であったという(金沢城よりも規模は大きかったとか)。現在は城域は市街や学校の中に埋もれてしまったが、天守台と内堀の石垣の一部がまだ残っているという。

 

 高校のグランドの横に突然に四角い石垣が現れるが、これが天守台らしい。非常に堅固な石積みで、角度がほとんど垂直に近いのが印象的である。また道路の脇にも2メートル程度の高さの石垣が残っているが、この下には3.5メートルぐらいの石垣が埋まっているはずとのこと。

左 道路脇に残る石垣  中央 その一段上が天守台  右 天守台登り口

左 かなりしっかりと積んである  中央 いろいろな色の石がある  右 残存するのはかつての城域のごく一部だけ

 城の規模を偲ばせる遺構がほとんど残っていないのが寂しいが、天守台の立派な石垣は、石垣フェチとしては堪能できる。

 

 さて今はまだ1時頃だ。このままホテルに向かうのも少し早い気がする。この近くでどこから立ち寄るところと考えた時に頭に浮かんだのが、以前に山中で迷って撤退を余儀なくされた「岩倉城」。リターンマッチとすることにする。

 

 以前と同じ駐車場と車を停めると、前回に通ったのと別の道を登ってみるが・・・やはり途中で道がない。どうもおかしい。一度出発点に戻って考え直した時に違う山に登っていたことに気づく。岩倉城があるのは道路の反対側の山であった。ごく初歩的なミスだが、駐車場の背後にいかにもそれっぽい山があったので勘違いしていたのである。

左・中央 道路の反対側に案内表示を発見  右 動物よけネットが張ってある
 

 道路の反対側に渡ると遊歩道が見つかる。しかし遊歩道は途中で動物除けのネットが張られている。どうも何やら獣が出るようである。

左 山道を進むと  中央 岩倉城跡表示はあるが  右 こ、これは・・・
 

 しばらく進むと看板のあるところに出る。しかし横を見ると巨大な檻が。これは猪を捕まえるものだろうか? と思ったところで昨日の夜のニュースで白山でハンターがクマに襲われたという事件があったことを思い出した。まさかこの山ではないだろうが、白山と言えばこの近くではある。それに先ほどからずっと気になっていたのだが、明らかにこの山は何かの獣の気配を感じるのである。

 

 入口から少し進んでみたがいきなり道が分岐しておりどっちに進むかが分からない。しかも雨が激しさを増してきて足下が怪しさを増すと共に辺りは薄暗くなってきている。さらに先ほど向こうの山をうろついたので足が完全に終わっている。道を確認するためにウロウロしている体力も時間もなさそうである。ここに至って撤退を決定する。

 

 結局岩倉城は二回に渡って私の攻略を退けたのである。歴史には岩倉崩れとでも記載されることになるか。何という堅城であろう(笑)。これはいずれ機会を改めて捲土重来したいところである。

 

 岩倉城を断念すると今日の宿泊地の敦賀まで車を飛ばす。しかし走ってみると小松から敦賀までは意外と距離がある。今日は七尾から走り詰めなので結構疲れが溜まっており、気合いを入れないと漫然運転になりそうになる。しかも敦賀の手前から交通集中による渋滞でさらに神経がすり減る。

 

 ようやく渋滞を抜けて敦賀に到着すると、グッタリした状態でホテルに向かう。今回宿泊するのはマンテンホテル敦賀。マンテンホテルは北陸に展開するローカルホテルチェーンである。大浴場付きというのが私のコンセプトに合致している。なおチェックインしてみると感じたのは、いろいろな点でドーミーインに似てるなということ。こちらがドーミーインを意識したのか、ドーミーインがこちらを意識したのか。北陸のドーミーインは他地域のドーミーインよりもグレードが高い傾向があるのだが(ドーミーインは結構地域差があり、一番グレードが低いのが関東地域)、もしかして北陸にはこういうローカルホテルが競合相手にあったからか。

 

 部屋に荷物を置くと空腹が気になってきた。しかしこの辺りの飲食店が夕食の営業を開始するのは17時かららしいが、まだ16時半である。仕方ないので空腹を抱えたまま入浴に行くことにする。

 

 大浴場はラジウム人工温泉であり、風呂の作りその他がルートインとそっくりな印象。どうにも初めて来たような気がしないホテルである。

 

 入浴して一息つくと夕食に繰り出す。特に店のあてはなかったが、ホテルを出るとすぐ目の前に「鮮魚料理うおさき」という店があるのを見つける。今日の気分は魚だったのでうってつけだし、何よりも店の雰囲気からピンとくるものを感じたので入店する。

 

 まずは観光客の定番「海鮮丼(1500円)」を注文。組み合わせは季節や仕入れで変わる模様。私の時はこはだ、ひらまさ、鯛、サケ、イカ、たこ、マグロの盛り合わせ。観光客を意識した妙な演出はなく、そのものズバリに刺身を盛ってある。しかしこれが食べた途端に驚き。うまい。鮮度が抜群に良い。海に近いところで育ったせいで少々の魚では驚かない私が思わず唸る内容。

 

 これでこの店の実力は分かったので、「コアジの南蛮漬け」「いかめし」「鯛の卵の煮付け」と小鉢メニューを次々と頼む。コアジは頭から丸ごといただけてさっぱりとうまい。いかめしはあえてこの大きさのイカを自家製で調理しているとか。もっちりしたもち米とイカの風味が最高。最後に唸ったのが鯛の卵。ネタの良さもさることながら、味付けが絶妙。やはり敦賀は関西文化圏なのか、味付けが北陸地域よりも私の舌に合う。

 

 しっかりと夕食を堪能して、以上で2900円。CPも抜群である。これは思わずまた来たくなる店。こんな店が駅前にあるとは敦賀恐るべし。

 

 夕食後は伊右衛門とおやつの仕入れのために平和堂まで散歩がてらにプラプラ歩く。平和堂ではおやつにわらび餅を仕入れてホテルまで戻ってきたのだった。

 

 夜は再び風呂にはいると小腹の空いた頃にラーメンのサービスがあるので食堂へ。どうもこのサービスもドーミーインと同じだ。ラーメンは意外と本格的。食堂は大勢の親子連れでごった返している。これは明日の朝食が心配だ。

 

 夜食で小腹を満たすと部屋に戻ってしばらくテレビを見ていたが、やはりかなり体が疲れている。さっさと就寝することにする。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は7時頃までしっかり寝ることにした。今日の予定はもう何もなく、後は帰宅するだけである。

 

 ニュースを見ていると、能登半島にツーリングに来ていたライダーが一人、トレーラーの横転事故に巻き込まれて死亡したとのこと。昨日能登半島を走行していた時かなり大勢のライダーを見かけたし、ルートイン七尾にも中年ライダーが団体で宿泊していた。もしかしたら死亡したライダーとはどこかですれ違っているかもなどということが頭をよぎる。諸行無常である。

 

 軽くシャワーで目を覚ますと朝食へ。混雑のピークを外したので食堂は混雑しているが席はいくらか空いている。朝食は比較的簡素なものであるが、一応和洋両対応でホタルイカなどの現地食もあるというもの。やはりどことなくドーミーインを連想させるホテルである。

 

 チェックアウト時間ギリギリまで休んでも良かったが、あまり遅くなりすぎてGWの帰省ラッシュに巻き込まれてもたまらない。9時頃にはチェックアウトして直ちに帰途についたのである。幸いにして渋滞に巻き込まれることもなく、昼過ぎには無事に自宅に帰り着くことが出来た。

 

 結局は12泊12日という過去最大規模の大遠征となったのが今回。24の城郭を巡り、6カ所の重伝建と2カ所の町並み保存地区を回ったというかなり慌ただしい内容となった。これで中部から関東にかけての宿題はほぼ終了というかなり意欲的な遠征であったが、それだけに財布と体力に与えたダメージも甚大なものがあった。年齢から来る体力の衰えと、金持ち優遇の庶民いじめが政策目標となっている安倍政権の諸悪政による財力の衰えを考えると、ここまで無茶な遠征というのはやはり今年で打ち止めにしておかないと、今後は財力的にも体力的にも無理であろう。私も気がつけば、そろそろ「老後」のことも考えないといけない年齢にさしかかっている。嫁も子供もいない確実に将来の孤独死が待ち構えている男にとって、最後に頼りになるのは残念ながら金だけである。なお私と共に生活してくれる女性については継続的に募集中であるが、正直なところもう絶望的であることは認めざるを得ない。

 

 今後であるが、後は大きな宿題は東北の三陸地域、そして九州に一部残っている。これらについては今年中に目処をつける予定。正直なところ、最近は私も生き急いでいるというか、どうも今年中に何とかけりをつけておきたい気になっている。来年以降はもう隠居生活か。と言っても楽隠居できる身分でもないしな・・・。

 

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