展覧会遠征 愛知編3

 

 今週は名古屋まで遠征することとした。目的は愛知県美術館で開催される円山応挙展。当初は新幹線で日帰りで美術館だけ立ち寄って帰ってこようと考えていた(青春18切符での往復も考えたが、さすがにこの年になるとしんどすぎる)。しかしじゃらんの期間限定ポイントが1000ポイントほど入ったことから、それならどこかで一泊しようかということになり、さらに一泊するなら周辺の城郭調査も加えてとなり、城郭に立ち寄るならやはり車でないと動きが取れないだろうということで計画の全貌がほぼ定まった。

 

 しかし前夜になって体調が最悪となった。夕方から異常なだるさに襲われたかと思うと、夜には手足が冷えて全身に震えが来る状態。私にとっては2月は「魔の2月」で、毎年のようにこの時期になると風邪をひいて数日寝込む羽目になっていた。今年は風邪をひかずにすんだと思っていたのに、3月になった途端に風邪をひいてしまったか・・・。場合によると予定を変更する必要があるかも。そう考えつつとにかくその晩は早く寝ることにした。翌朝は激しい頭痛とともに起床。しかし熱がある様子はない。そこでしんどいながら起きだして朝食。すると症状が治まってきた・・・ということはもしかして低血糖か。そう言えば昨晩は夕食が異常に遅くなった上に量も少なかった。

 

 とりあえず体調が持ち直したので予定通り出かけることにする。愛車ノートで山陽道と名神、さらに第二名神と乗り継いで名古屋まで突っ走る。車の運転中に低血糖発作でも起こしたら洒落にならないので、荷物にお守りがわりのブラックサンダーを入れて、途中でもいつもよりも多めに休憩を取りながらの行程である。幸いにして体調の悪化も全くないまま無事に最初の目的地へと到着する。

 


「円山応挙展」愛知県美術館で4/14まで

 

 精密な写実に力を入れ、後に円山派の祖となった日本を代表する画人の展覧会である。

 応挙の作品については今でも賛否両論があるのだが、当時から既に賛否両論があったようで、当時の応挙に対する評が面白い。賛辞は彼の技倆に対するものであり、否定的な見解については「事物を写し取るだけでは芸術家の意志が見えない」という類のもので、「素人にはうけるだろうが、作品の深みがない」というところであったようだ。現在の評も大体似たようなものだと思われる。

 しかし実際の応挙はそのような評などどこ吹く風であったのだろう。古典の技法を踏まえつつ、独自の絵画の追究を行っており、あの精密写実はその過程で出てきたもののようである。当時の絵画は画家の主観で誇張が入るのが普通であり、応挙のように写実に徹するのはむしろ斬新な表現であった。とにかくリアルを追究したのが応挙の姿勢であり、彼が積極的に遠近法なども作品に取り入れていたことが分かる。そういう点では彼は日本画の伝統を了解しつつ、洋画的な描き方をしているのである。

 またリアルを追究する点で、屏風の屈曲をうまく利用しているのには感心させられる。屏風の張り出し部分に近景を、引っ込んだ部分に遠景を配することで画面の奥行きを強調している。これは屏風絵ならでは巧みな表現である。

 とにかく伊達に日本画の第一人者と言われていないことは納得させられる。実に見応えのある展覧会であった。


 これで名古屋での目的は終了。後はオプショナルツアーとなる。まず最初の訪問予定地は足助。足助は以前に足助城を訪問しているが、今回の目的は足助市街。旧宿場町の足助は重伝建に指定されている。以前の訪問時には時間に余裕がなかったことと、当時は町並みに対してはあまり興味がなかったことからパスしたので、今回改めての訪問である。

 

 途中、名古屋高速で分岐を間違えて再び高速に乗り直すなどのトラブルがあったが(これで750円のロス)、足助には1時間程で到着する。足助は山間の町だが、近くに紅葉の名所の香嵐渓があるので観光がメインの町のようである。観光駐車場として解放されている市役所の駐車場に車を止めると町並み散策に出かける。

 

 足助市街には多くの観光客が訪れている。ちょうど雛祭りのシーズンということで、各家がひな人形を展示して披露しており、それの見学が目的の観光客が結構いるようだ。この時期は香嵐渓がシーズンオフなので、観光のためにはうまいイベントである。元々は宿場町のせいか商売をしている家が多く、町並み保存をそのまま観光と商売につなげており、町並み保存がそのまま地元のメリットとして跳ね返っている好例である。

 町並み保存の難しさは、このように商家が多くて観光客の増加がそのまま地元の利益につながる場合は進めやすいが、地元がただの民家などで観光客が増加してもメリットがない(どころか逆に鬱陶しい)場合などは地元民に町並み保存に対する熱意が湧かないことだ。だから商家町などでは比較的うまく進むものが、武家町や農村集落などではうまく進まないことになる。こういった町並み保存が地元の利益に結びつくシステムも考えていく必要がある。でないと、地元民にとっては町並み保存は生活に制約がかかるだけでメリットがなくなってしまい、結果としては貴重な町並みが失われることになってしまう。

 市街に着いた頃にはかなり疲労が溜まっていたので、燃料補給のために途中の店でそばがきぜんざいを一杯頂く。餅とは違って粘りが少ないそばがきの食感が独特。しかし結構旨い。

 餅のように見えるのがそばがき

 ひな人形などを見つつプラプラと市街を端まで往復する。途中で「足助陣屋跡」を通るが、町役場になってしまったために今では看板が立っているだけ。

 足助陣屋跡

 町並みを散策した帰りに「井筒亀」で昼食にする。ここはうなぎと猪鍋の店らしい。猪鍋御膳(2100円)を注文する。

 猪鍋は赤味噌で足助も名古屋文化圏であるということを感じさせる。ただ赤味噌は関西人の私にはどぎつすぎて、やはり以前に篠山で食べた白味噌の繊細な猪鍋の方に軍配を上げてしまう。

  

 昼食を済ませると香嵐渓を少し見学に行く。なかなかにダイナミックな渓谷だが、やはりこのシーズンは殺風景。渓谷沿いの飲食店もすべて休業中である。ただ売りに出されているホテルなどもあり、シーズンとは無関係に寂れてきている雰囲気がある。

香嵐渓の風景

 しばし渓谷沿いに歩いたところに三州足助屋敷なる施設があるのでついでに見学している。ここは昔の茅葺きの農家などを復元した施設で、中には手漉き和紙や機織りなどの手工業の実演がある。作品の販売や体験教室などもあるようで、博物館などの実演展示と観光用の土産物屋が一体となった印象の施設である。

三州足助屋敷は田舎の村を再現したテーマパークのようなもの

 香嵐渓をプラプラと散策した後は駐車場まで戻ってきて足助を後にする。次の目的地は「大給城」。今回の城郭巡りのメインイベントである山城である。大給松平氏ゆかりの城で、地元の豪族の城を松平乗元が整備したらしい。その後、周辺の松平一族との抗争を繰り返すが、徳川家康の関東移封で廃城になったとか。

 松平ゆかりの地ということで、この周辺は松平が付く地名などが多い(そもそも伊勢湾道のICが豊田松平である)。国道301号線を東進すると、途中で案内看板があるのでそこを右折する。山道ではあるが整備されているので大給城までは問題なく走行できる(ただし大給城を通り過ぎた途端にとんでもない山道になるので注意)し、手前に駐車スペースも確保されており、地元が観光施設としてかなり気合いを入れて整備しているように思われる。

 登り口

 駐車スペースに車を置くと、案内に従って登山道を登る。若干の登りの後で10分程度で城域の東端にまで到達する。ここでいきなり立派な堀切が迎えてくれる。

   城跡碑と堀切

 ここを抜けると巨大な虎口に出くわす。それをくぐってから右手にあるのが2郭。二の丸というところだろうか。土塁に囲まれていてそこそこの広さがある。城域の東北側を守る位置なので、かつては防御用の施設などがあったと思われる。

左 最初の虎口  中央 虎口を抜けた先にさらに虎口  右 これが二の丸虎口

二の丸風景

 ここから南西の位置の一段高い曲輪が主郭。虎口らしき構造を抜けて登ると、左右に曲輪がある。右手の曲輪が物見台などもある主要部で、ここには天然の巨石が崖に張り出した物見台がある。とにかくこの城の一番の特徴は、天然の巨石がゴロゴロしていることで、これが自然の石門などを形成していて圧巻である。この巨石の上には多分建造物でも建てられていたのだろう。石の表面に数センチ角の穴が残っている。ここに立つと遥か西方が見渡せて壮観。

左 二の丸奥に本丸への登り口が  中央 虎口に石垣が見られる  右 虎口をくぐったところ

左 左手の曲輪  中央 右手側は本丸  右 本丸奥に城跡碑とベンチ

左 見張り台の巨石  中央 かなりの壮観  右 石に穴が開けてある

 主郭の南側には数段の曲輪が広がっている。この間には巨石が並んでいて、傾斜もかなり急。ルートを見つけて下まで降りたが、途中で積もった枯れ葉に足を取られて見事に転倒。なかなか攻略の大変な城である。この南の曲輪の最大のものが、かつての領主屋敷跡らしい。

左・中央 本丸南手の風景  右 自然の石門と言っても良い巨石がゴロゴロ

左 とんでもない巨石  中央・右 下に降りると数段の曲輪がある

 主郭の北側にあるのは水の手曲輪。ここに雨水や地下水を蓄えていたらしい。山城ではとにかく重要なのは水の確保。当然ながらそういう点も抜かりはないということらしい。

本丸北部の水の手曲輪

 現地はよく整備されているし、なかなかに見所も多い城郭であった。全国にはまだまだこのレベルの知名度が低い城郭が無数にあるようだ。

 

 大給城の見学を終えると刈谷市まで移動することにする。立ち寄ったのは刈谷市美術館。ここは以前にも立ち寄ったことがあるが、規模としてはそう大きな施設ではない。現在は収蔵品展を行っていた。なおこの施設、その形態から何か他の施設を流用したのかと思っていたのだが、どうも最初から美術館として建てられた模様。

 刈谷市美術館見学の後は、ここよりやや西にある「刈谷城」を見学に行く。刈谷城は1533年に水野忠政が築城、その後戦乱の中で城主が転々としつつ最後は土井氏の元で明治の廃藩を迎えたという。明治以降は公園として整備されたが、戦時中に高射砲陣地がおかれてその際に老松などが伐採される。戦後は放棄されて荒廃した状態だったらしいが、再び公園整備されて今日に至っているとか。

 刈谷城と堀

 私の訪問時は公園工事中で北側からは入ることが出来ず、グルリと南側まで回る必要があった。本丸との二の丸の一部が残っているとのことだが、現在では完全に公園化してかつての城としての名残はほとんど残っていない。ただかつての堀らしき水路は立派であり、この城が河川を外堀として活かした水城だったことは伺える。

左 本丸南手の入口  中央 本丸内は公園化している  右 城跡碑が立っている

左 本丸一段下の曲輪にはケージがある  中央 堀の脇にある立派な城跡碑  右 その脇に二の丸跡の碑

 なお現在刈谷市では歴史公園として整備する計画が持ち上がっていて寄付金を集めているとか。ただその計画図を見ると、かなりインチキ臭い城壁や櫓を築くものなので、果たして良いのか悪いのかの判断がしかねる。

 正直なところかなりインチキ臭い

 これで本日の予定は終了。今日の宿泊予定ホテルであるドーミーイン三河安城に向かうことにする。しかしこの行程が渋滞で一苦労。また名古屋では赤信号になっても3秒は通行可能というローカルルールがあると聞くが、まさにそれを目の当たりに目撃してしまった。名古屋の3秒ルールと大阪の見切り発車が競合する岐阜では、交差点での出会い頭衝突が多いと聞くが、それもさりなん。

 

 かなり時間を要したがようやくホテルに到着すると、まずは夕食へ。ところで三河安城を訪れるのは20年ぶりぐらいだが、以前の時には何もないところに新幹線の駅だけがあって「なんでこんなところに駅を作ったんだ?」と思ったものだが、今では周りに結構建物が増えている。

 

 夕食を摂るために入店したのは「北京本店」。ここの名物だという北京飯(550円)を注文する。

 天津飯なら良く聞くが、北京飯とは初めて耳にする。北京飯とはご飯の上に豚の天ぷらの卵とじをのせた丼で、ここの店のオリジナルだとか。B級色が漂うメニューだが、これが安城市民のソウルフードだという話もある。

 私の感想としては、悪くはないのだがちょっと脂がしつこく感じたのと、もう少し何らかの味付けをしても良いように思った。確かにいろいろな意味でB級メニューである。

 

 夕食を終えると例によってコンビニで野菜サラダを購入してから帰還。部屋でサラダをガツついてから大浴場へと繰り出す。車にばかり乗っていたような気がするが、今日はそれ以外にも結構歩いている(1万6千歩越え)。その疲れをタップリと抜いておく。

 夜はサラダをガツつく

 風呂からあがってネットでマッタリしているとすぐに眠気が襲ってくる。明日も予定があるのでさっさと寝ることにする。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は目覚めるとまずは朝食。ここのホテルの朝食はきしめんを中心としたメニューで、ドーミーイン系列の中ではやや簡便な内容。きしめんは嫌いではないが、小麦粉系の麺は食べすぎるとすぐに血糖値に跳ね返るので要注意。

 

 朝食を終えると朝風呂に行ってからしばし休憩。今日は愛知の城郭の掃討戦を行ってから、時間的余裕があれば京都に立ち寄ろうと思っているが無理はしないつもり。ややゆっくり目にチェックアウトすると、最初の目的地である東条城に向かって車を走らせる。

 

 「東条城」は鎌倉時代に足利義氏が築き、三男の吉良義継氏をここに入れたことから始まったと言われている。その後、300年に渡って吉良氏はこの地を治めるが、戦国時代になって織田氏と結んだ徳川軍によって攻められ、桶狭間以来衰退した今川氏の援護もないまま落城、吉良氏はここに滅亡したという。しかし江戸時代になって吉良家は再興され、その末裔が有名な赤穂騒動の吉良上野介である。東条城は落城後は徳川家のものとなったが、家康の関東移封によって廃城になったという。

  

城跡碑と明らかに後世に建てられた冠木門

 現在の東条城は、中世城郭の遺構を残す遺跡として遺跡公園になっており、復元された櫓門や櫓が建っている。またやや離れたところであるが駐車場も完備されている。

左 二の丸にある八幡社  中央 三の丸  右 本丸の復元門と櫓

 現地は川沿いの住宅地の中の小高い丘の上であり、かつては周辺は沼地だったのではないかと思われる。復元櫓の建つ本丸と、今は八幡社がある二の丸、それらを取り巻く三の丸などからなる比較的小規模な城郭である。

左 本丸門  中央 本丸奥からの風景  右 本丸搦手口

 標高はそう高くないのだが、周辺が低地ばかりのせいで本丸からは結構見渡せる。なおせっかくの櫓は立ち入り禁止になっている。もし馬鹿が転落でもしたらややこしい(今は自己責任という言葉さえ理解できないクレイマーが増えている)からだろう。

 

二の丸からの風景

 当時の建造物の詳細な資料なんかが残っているはずもないので、いわば「なんちゃって復元」なのであるが、中世の城郭に白亜の天守閣をぶっ建てるような大馬鹿復元ではなく、歴史考証を踏まえた上での復元であるので雰囲気は出ている。

  

二の丸下の帯曲輪と登城口

 東条城を見学した後は、次の目的地に立ち寄る前に途中で見かけた黄金堤に立ち寄る。黄金堤は吉良上野介こと吉良義央がこの地の洪水を防ぐために作られた言われており、吉良上野介名君説の根拠にもなっている。ただあまりに悪役にされてしまった吉良上野介について領民としてはあまりに忍びなく、意図的に打ち上げた話という説もあって実際は定かではない。なおどちらにしても江戸に常駐していた吉良上野介が陣頭指揮を執るわけもなく、陣頭指揮を執ったのは地元の家来であるのは間違いない。なお浅野と吉良の抗争についてはどっちもどっちというところが多く、浅野内匠頭もかなり精神不安定でヒステリーであったというエピソードは残っている。そのことから私が取るのは浅野内匠頭乱心説。彼はあくまで「乱心ではない」と主張したとのことだが、そもそも精神病患者の場合は病識がない場合が多く、大抵は「自分はまともだ」と主張するという。結局のところは誰が一番悪いかと言えば、これはハッキリしていて明らかに綱吉である。浅野内匠頭が乱心なのなら浅野家は当主を取り替えるだけで終わりだし、浅野と吉良のケンカなら両家が取りつぶしになるのが筋である。それを浅野家だけが取りつぶしで吉良にはお咎めなしという明からさまに不公平な裁定をしてしまったのが間違いの元。多分、大事な母親の叙位のための根回しの接待をぶち壊されたマザコン綱吉が、怒り心頭で滅茶苦茶な裁きをしてしまったのだろう。何にせよ、幕府の失態のツケで死ぬことになってしまった浅野家と吉良家の家臣が一番の被害者である。

左 黄金堤  中央 すぐ近くの鎧ヶ淵古戦場の碑  右 吉良義央像

 黄金堤を一回りした後は「西尾城」に立ち寄ることにする。西尾城は築城年代などは定かではないが、16世紀末に酒井重忠や田中吉政によって近代城郭として大規模整備された城郭で、江戸時代以降も譜代大名が治めたということから、西を押さえる要衝として認識されていたのだろうと思われる。明治になって廃城後は建造物はほとんど破壊され、今では城域の大部分も市街地に沈んでしまっているが、本丸の一部などが歴史公園として整備されているという。

左 復元鍮石門  中央 復元丑寅櫓  右 旧近衛邸

 西尾城歴史公園は市街地の真ん中に唐突に現れるという印象。門と丑寅櫓が復元されている。復元建築ではあるものの、木造で建造されているために見た目にはなかなか絵になっており、堀越に見る丑寅櫓の姿は格好がよい。

  丑寅櫓はなかなか絵になる

 本丸の土塁は当時のものだろうか。今は本丸内は西尾神社になっている。その脇のかつての本丸表門跡の石碑がある石垣の上に丑寅櫓が建っている。木造の櫓は復元建造物ではあるがなかなか趣がある。またこの辺りは平地なので、櫓に登ると辺りをかなり遠くまで見渡すことが出来る。

左 本丸と二の丸の間の堀と土塁  中央 本丸内の西尾神社  右 本丸表門跡(丑寅櫓はこの石垣の上)

左 丑寅櫓  中央 木造でなかなか趣有り  右 辺りを見渡せる

 近くの西尾市資料館をザッと一回りすると次の目的地を目指すことにする。次の目的地は「大野城」。衣浦トンネルを潜って知多半島に上陸すると西進する。大野城のあった山は今は住宅地に埋もれているが、城の中心部分は城山公園として整備されており、公園の北部に駐車場も完備しているのでそこに車を停める。

左 駐車場から登る  中央 随所にある削平地は曲輪の名残か  右 展望台に登る道は雰囲気があるが

左 やはり近くまで来てしまうと安っぽい  中央 遠くにセントレアが見える  右 名古屋方面の風景

 城域は完全に公園整備されてしまっているので、どこまでが往時の遺構かは不明な点があるが、公園となっている削平地は恐らくかつての曲輪の名残であろうと推測される。本丸らしきところには櫓をイメージした展望台が建っており、いわゆる典型的ななんちゃって天守である。ここに登るとセントレアまで見ることが出来る。また本丸の隅には小高くなっている部分があり、ここに佐治神社跡の碑があるが、構造的には櫓台のように思われる。

  

本丸脇の小高い部分には佐治神社跡とある

 今では城郭の主要部分の一部が残っているだけだが、それなりの規模の城郭だったことは伺える。かつては伊勢湾を押さえる城として重視されていたのだろう。

 

 大野城は1350年頃に三河守護の一色範氏の子の範光が伊勢湾を支配するために築いたという。しかし将軍足利義政と対立した一色氏はその後に衰退、大野城は土岐氏の支配下となり、その家臣の佐治氏が治めることとなる。しかし四代目の佐治一成が豊臣秀吉と対立して追放され、その後にこの地に入った織田長益が大草城に移ったことで廃城となったという。

 

 なおこの佐治一成が江と結婚していた(江の最初の結婚である)ため、現地では大河ドラマにあやかって「江ゆかりの城」という幟があちこちに立っていた。しかし当のドラマがあまりの出来の悪さに今やNHKの黒歴史化している状況では、悲しさのみが漂っていた。実際に私も「江」という幟を見るたびに上野樹里の顔が浮かんで不快な気持ちになってしまうのは否定できない。

 

 大野城の見学後は近くの「大草城」を訪ねる。大草城は川縁の湿地帯の中にあり、ここが水城であったことが伺える。織田長益が居城を大野城からこちらに移したのも、水利を重視してのことだと言うから、ここは完全な水城だったのだろう。先ほどの大野城と違って平地に存在するので防御施設としては堀と土塁だけだが、その土塁はなかなかに高い。これと河川を利用した多重の堀を組み合わせれば守備力は十分だったろう。ただこの城が完成する前に長益が摂津に国替えになったため、この城は未完成のまま放棄されたという。確かに現地を訪れても、高い土塁と堀で厳重に防御を固めた北部に対し、南部の方があまりに無防備な印象を受ける。恐らくこの城は完成していれば、最外郭は海に接する海城となっていたであろうと思われる。

左 鬱蒼とした堀  中央 土塁が残っている  右 土塁上を歩けるがかなり高い

左 内部から見た土塁、かなり立派  中央 唐突に現れるなんちゃって天守  右 周りは平地なので見晴らしはよい

 なおこちらの城にも櫓風の展望台が建っている。愛知はこういうなんちゃって天守を作るのが好きなのか? 西尾城も東条城も復元櫓が建っていたし、刈谷城も櫓と塀を復元する予定らしいし。そこはハデ婚の名古屋地域なんだろうか。

 

 これで愛知での予定は終了である。時間によっては帰路で京都に立ち寄ることも考えていたが、予定よりも時間が遅れているし、何よりも既にかなり疲労しているので今日はこのまま帰ることとする。

 

 なお帰途の東名阪道で危険な車と遭遇。後ろから追い越しをかけてきたと思ったら、並んだ途端にいきなりウインカーを出して幅寄せ気味に車の角をこするように私の車の直前に割り込んできた(私の前にもそいつの前にも他の車はいないのに)。ケンカを売ってきたのかと思ったが、見ていると他の車にも同様の割り込みをしていた。頭がおかしい奴か、当たり屋かのどちらかであろう。日本もおかしくなってきて、こんなおかしな奴が公道に出てくるようになったのかと思わず溜息。日本のためを思うと、こんな馬鹿はどこかで一人でガードレールにでも自爆してさっさ死んでもらいたいところである(巻き込まれる者が出たら気の毒すぎる)。

 

 今回の遠征は第一目的は円山応挙展であったが、結果としては愛知地区の中小城郭を巡る旅となった。土地柄愛知は城郭の非常に多い地であるが、これで宿題のかなりの部分は解決となった。 

 

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