展覧会遠征 若狭編

 

 今週は先週に引き続いての一泊遠征となった。と言うか、そもそも本遠征のほうが先に立案されていたのだが、先週の遠征が日帰りの予定から急遽一泊になったために宿泊遠征が連続になってしまったというのが真実。さて今週の目的地であるが若狭方面である。敦賀にある金ヶ崎城などの諸城を回りつつ、舞鶴で一泊して帰路では天橋立に立ち寄ろうという計画である。

 

 しかしいざ当日となって予定外だったのは天候である。これだけはまさしく天命そのものであり、人の意志ではどうにもならない。昨日から荒れ模様の天候を土曜日にまで引きずっており、当日は断続的に雨が強くなるという悪コンディション下での遠征となってしまった。こうなるともう出たとこ勝負にするしかない。

 

 断続的に激しくなる雨の中を山陽自動車道と名神を乗り継いで米原方面目指してひた走る。米原で北陸自動車道に乗り換えると北上、木之本ICで高速を降りると国道365号をさらに北上する。最初の目的地は玄蕃尾城趾。柳ヶ瀬山にある城郭で賤ヶ岳の戦いの際に柴田勝家が本陣を構えた場所である。柳ヶ瀬トンネルを抜けたところにアクセス道路があるとのこと。

 

 柳ヶ瀬トンネルはかつての北陸本線の鉄道トンネルを自動車用トンネルに流用している。しかし単線トンネルのために内部はかなり狭く、車がすれ違うことが不可能なために信号機が設置されて交互通行になっている。私の到着時は信号が変わった直後だったのかかなり待たされることになる。ようやくトンネルに突入するが、薄暗いし実際以上に狭く感じられかなりの圧迫感がある。あまりのおどろおどろしさに、地元では「幽霊トンネル」と呼ばれているということも納得である。

 このトンネル出口のすぐ右側に「玄蕃尾城趾」に向かう山道があるのだが、あまりも出口すぐすぎて(信号待ちしている対向車の手前を曲がる形になる)通り過ぎてしまって先で引き返す羽目に。道は舗装はしてあるものの狭いうえに、茂みが道路の上にまで張り出してきていて、時々バサバサと葉っぱをかき分けながら走る羽目に。山道を突き進んだ一番奥に車を停める場所があり、ここから登山道が出ているようである。私の到着時には既に先客が二台停車している。ただこの駐車場スペースに到着した途端に雨がとんでもなく激しくなる。私は雨傘は持参しているが、雨合羽などのヘビーな装備は用意していない。見たところルートはかなり険しそうなので足元が滑る危険もある。ここに来て急に雨が強くなったのは「今回はやめておけ」という天意のような気もする。そこで玄蕃尾城趾探索は今回は見送ることにする。

左 道路の終点には先客が二台  中央 登り口  右 それにしてもひどすぎる雨

 引き返すことを決めてとりあえず次回に備えて周辺の写真を撮っていた時、上から雨合羽の一団が降りてくる。どうやら先客は団体だったようだ。完璧な装備でパーティーを組んでいて、お城マニアだとしたらかなりプロっぽい集団である。こちらはまるっきり「プロジェクトDに遭遇した地元の走り屋さん」状態。

 

 玄蕃尾城を諦めたところで、次はとりあえず敦賀の金ヶ崎城を目指すことにする。しかしその途中で私の安物カーナビが珍しくも城址の存在を示している(私のバーゲン品DVDカーナビはこの手のデータはほとんどない)のでそこに立ち寄ることにする。

 

 その城は「疋田城(疋壇城)」。朝倉氏が家臣の疋壇久保に築かせた城郭で、織田信長の朝倉攻めの際に援軍のない戦いの中で開城、浅井長政の離反による織田軍の撤退で再び朝倉氏の所有となるが、信長による再度の朝倉攻めで再び落城してその際に数千の将兵と共に城主も討ち死にしたと言う。

左 本丸遠景 手前のグランドが二の丸  中央 本丸  右 本丸右手には深い堀もある

左・中央 本丸上は完全に畑化している  右 堀の側には石垣らしきものも見える
 

 ナビに従って山間の小さな集落の狭い道路を抜けていくと、いきなりグランドのようなところに出る。後に調べたところによると曲輪の一部が小学校になっていたとのことで、恐らくその跡なのであろう。疋田城の表示と案内看板はその奥にあり、小高くなっているところが本丸跡らしい。本丸内部は現在は畑となっているようで入ることはできない。この本丸の西部にはJRの線路が通っており、東部には堀らしき跡がある。またその奥には石垣らしきものも見えたが、当時のものか、後に畑化された際に整備されたものかは私には判別しかねるところであった。ただ何にせよ、そんなに規模の大きな城郭には思えない。この規模の城郭では数千の将兵が立て籠もることが出来るとは思えないので、数千というのは周辺の城郭も含めた数だろう。

 

 それにしても小谷城でさえ表示しないというのにこの城を表示する私のカーナビのデータ選別の基準って一体何なんだろうという疑問を抱きつつ、次の金ヶ崎城を目指して車を走らせる。やがて敦賀の市街地が見えてくると、目的地はその奥の海岸寄りである。市内からは案内看板が出ているのでそれに従って走っていると、お寺の手前に駐車場が整備されている。

 駐車場 奥の山は天筒山城か 

 「金ヶ崎城」は古くは源平合戦の際に平通盛が木曽義仲との戦いのために築城したと言われている。その後、南北朝時代には新田義貞と共に京から落ち延びた尊良親王がここに籠もったが、足利尊氏による兵糧攻めで落城、尊良親王は自害したとのことで今でも尊良親王の陵墓と見られる遺跡が残っている。しかしこの城の名を圧倒的に有名にしているのは「金ヶ崎の退き口」のエピソードである。これは織田信長の朝倉攻めの際、浅井長政の裏切りによる全軍撤退において、殿を務めた木下籐吉郎こと後の豊臣秀吉と徳川家康がまずこの城を拠点として撤退戦を行ったことによっている。なお撤退戦における殿は最も困難な任務であることは当然であり、その働き如何では全軍総崩れとなってしまう。殿を務める指揮官は、恐怖に駆られる部下を叱咤しながら本隊が逃れるための時間稼ぎのために時には反攻もしつつ、頃合いを図って自らも撤退する必要があるのである。部下を完全に掌握している上に戦場の機微に長けた指揮官でないと成功は難しく、実際にこのような殿軍は本隊のための犠牲となって全滅することも多い。籐吉郎はこの困難な使命を無事に果たしたことで、さらなる出世へとつながるのである。

 

 現在の金ヶ崎城は公園化しており、内部には金崎宮が建っている。最初にここに立ち寄るがかなり立派な神社である。金ヶ崎城跡はこの神社のさらに奥の山上にある。

金崎宮

こんなところにまで萌えが進出

 本丸である月見御殿に登る途中に尊良親王の陵墓跡がある。この周辺は窪地のようになっていて、かつては池でもあったのかもしれない。そこからさらに登ると月見御殿跡は山上の一番端、その奥は海に面した断崖であり、今は下に巨大な火力発電所があるが、かつては三方を海に囲まれていたという。この方面からの攻撃は当時の兵器ではまず不可能であり、確かにそういう意味では堅城である。

左 城跡碑は神社の奥にある  中央 登城路を登る  右 途中で尊良親王の陵墓碑へ行く道が

左 尊良親王陵墓碑  中央 先に進んだ月見御殿の手前には古墳もある  右 この奥が月見御殿

月見御殿から振り返って

月見御殿から海側を見るが、こんなところから攻められるわけがない

 

海側にある火力発電所

 ここから尾根沿いに東に下っていくと、ところどころに曲輪跡のような削平地があり、それらの間には一から三までの木戸跡があり、堀切によって稜線を断ち切ってある。なお三の木戸の先には兵糧庫があったと見られ、焼米が出土しているという。

左 東側の尾根を進んでいく  中央 看板のあるのが三の木戸跡  右 三の木戸の堀切

左 さらに尾根筋を進む  中央 やや広い曲輪状の削平地に出る  右 ここが焼米出土地

左 ここからさらに下ると  中央 二の木戸跡  右 堀切は金崎宮へ降りる通路になっている

左 さらに尾根筋を進む  中央 一の木戸跡 この先が天筒山城へと続く  右 一の木戸の堀切
 

 かなり深い堀切を切られた一の木戸までが城域で、ここから先は尾根続きで天筒山城につながっているという。しかし今日では天筒山城跡は完全に公園化して遺構の類はほとんど残っていないとのことなので、ここで引き返すことにする。一の木戸から少し引き返したところに金崎宮に降りられる通路がある。

 

 小さな城だと思っていたが、いざ現地を訪れると意外に見所もある城であった。このような城が各地にあるのでやはり私の全国巡礼はなかなかやめられない。

 

 金ヶ崎城の見学で汗を流したところで次はやはり温泉としゃれ込みたい。今回訪問したのは敦賀きらめき温泉リラ・ポート。北陸トンネル掘削の際に湧き出したアルカリ性単純泉と地下1500メートルから汲み上げたナトリウム炭酸水素塩泉の2種類の源泉を有しており、アルカリ単純泉を高温浴槽にナトリウム炭酸水素塩泉を中温浴槽に使用している。

 

 アルカリ単純泉の方は若干ヌルヌルとした肌触りのやさしい湯。しかしさらに面白いのがナトリウム炭酸水素塩泉の方。こちらはヌルヌルの上にさらに肌にまとわりつくような感触がありなかなかに快適。正直なところプールもあったりするいかにもの施設だったのであまり期待していなかったのだが、その予想を覆す泉質の良さである。

 

 入浴を終えると施設内の食堂で昼食を摂ることにする。「料理長おすすめ御膳(1890円)」なるメニューがあるのでそれを注文。出てきたのは和食と中華の混成のボリューム御膳。何やらここのレストランが出せるメニューを詰め込んだという印象。味的には驚くほどのものでもないが普通に旨い。どちらかと言うと中華の方が印象に残るかというところである。

  ボリュームはかなりのものです

 入浴、昼食を済ませて土産物(福井と言えばやはり羽二重餅である)を買い込むと、小浜方面に向かって走る。次の目的地であるが、当初予定では国吉城を考えていたのだが、スケジュールが予定よりもかなり遅れ気味であるし(どうも私の当初の想定が甘すぎたようである)、金ヶ崎城訪問時には小降りになっていた雨が再び激しさを増してきたしということで、国吉城は次回に回すことにして、熊川宿をめざすことにする。

 

 雨の中を国道を走ることしばし、夕方手前でようやく熊川宿へと到着する。熊川宿は鯖街道の宿場町として繁栄した町で、かつては北陸方面と京都との中継地として商業が非常に発展したという。しかし現在では鉄道や幹線道路から外れた山間の閑静な集落となっており、今では当時の繁栄を物語る町並みが重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

熊川宿を車で通り抜ける

 熊川宿内を車で通行する。天候が悪いということはあるだろうが、それにしてもあまりに観光客が少ないのが気になるところ。なおかつての宿場町にして道幅がかなり広いが、これは後で聞いたところによると、最盛期に非常に荷車などの通行量が多かったことから道幅を広げてあるのだとか。確かに関宿などの倍ぐらいありそうである。

左 宿の南端にある熊川番所  中央 番所のお役人  

 熊川宿を一端南まで通り抜けると、そこにある道の駅に車を止めて徒歩で散策に向かう。熊川宿は風情のある建物が多いが、何となく生活感が薄いのが気になるところ。沿道では商売をやっている家もあるようだが、普通の住宅も多い。かつては各家が商売で生活できたとのことで、ここから多くの豪商なども誕生したそうだが、今となってはその面影はない。

右 熊川宿資料館は村役場の建物を流用

中央 白石神社  右 かつて川船用の荷を運搬したという御蔵通り

左 松木神社  中央 義民館  右 倉見屋

松木神社に祀られている義民・松木庄左衛門

彼は苦しい領民のために年貢の引き下げを訴えて、その代わりに磔になったという

 旧村役場を使用したという宿場館に立ち寄って現地の説明を聞く。この地はかつてはかなり繁栄し、北陸方面からはここに来れば京の品物が手に入ると多くが買い物にやって来ていたらしい。その時代には豪商が多くの蔵を並べていたとか。またこちらから京都などに出て商売で成功した人物も多く、日本で最も多くの社長を輩出している地だとのこと。しかしいずれも今となっては昔話であるように思われる。現在は空き家が増えているのが悩みだとか。所有者が遠くで住宅が老朽化してきた場合、勝手に壊したり修理したりも出来ないので問題になるとのこと。売りもしない(売りたくても売れない?)、壊しもしない、かといって修理もしないという住宅が増えて管理が困っているとか。この手の問題はいずこの地方でもよく発生していることである。つくづく改めて地方の再生が必要であり、そのための第一歩としての東京解体を進めるべきだと思われる。

 

 熊川宿の見学を終えた頃には夕方である。宿泊ホテルに向かうことにする。今日の宿泊予定ホテルは東舞鶴のビジネスホテルアマービレである。小浜から舞鶴若狭道に乗るとそのままひた走る。目的のホテルは市街の中にある。

 

 ホテルに到着すると部屋でマッタリする。今日一日でかなり走行したので疲労が溜まっている。よくよく考えると当初予定はこれに山城2つをつけるつもりだったのだから計画に無理がありすぎる。どうも運転での疲労を計算に入れてなさ過ぎたようである。

リラ・ポートで買い求めた餅入りどら焼きを頂く

 一息ついたところで夕食に行くことにする。私の宿泊プランには近くの居酒屋でのワンドリンクが付いているようなのでそこを訪問する。立ち寄ったのは「きらくや」

 

 ワンドリンクとしてノンアルコールのカシスオレンジを頼むと、後はセセリのサラダ、タルタルフィッシュ、サイコロステーキ、アオリイカの刺身を注文する。

 

 セセリのサラダは意外と食べ応えがあって良し。タルタルフィッシュはいわゆる白身魚フライだが、これも予想以上に量もあり味の方も良い。

   

 サイコロステーキはチェーンの居酒屋などなら下手をすると成形肉(クズ肉を粘着剤で固めたもの)などが出てくるところだが、ここのは本当に「カットしたステーキ」である。肉質もなかなか良い。最後のアオリイカはコリコリとした歯ごたえと甘味のある味わいが最高である。さすがに日本海。

   

 以上で支払いは2850円。なかなかのCPの高さである。

 

 ホテルに帰ると大浴場で入浴してマッタリ。しばしテレビを見てボンヤリなどしていたが、夕食がかなり早めだったこともあって夜中になってくると腹具合が少し寂しくなってくる。こういう時にドーミーインだったら夜鳴きそばがあるんだけどななどと思いながら町に再び出ることにする。

 

 立ち寄ったのは「塩ラーメン総本家」。塩ラーメンのバリエーションがいくつかあるようだが、「塩ラーメンのこってり(780円)」を注文。

 

 確かに塩ラーメンであるが、そこに獣脂などの浮いたコクのあるスープになっている。チャーシューが焼き豚でなくて鳥であり、獣脂も鶏系の味がする。この脂の味が臭みも伴うのでこれが好みの分かれるところか。細めのシャキッとした麺は私の好み。

   

 小腹を満たしてからローソンで飲み物を仕入れると、ホテルに帰って就寝することとした。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝はホテルで朝食を摂ると、チェックアウトまでしばしテレビを見てボンヤリ。9時前まで時間をつぶしてからチェックアウトすると、すぐそこにある赤煉瓦博物館に立ち寄る。

 

 赤煉瓦というピンポイントのテーマで、よくもここまで展示するものがあったものだと感心する博物館である。レンガは世界中で用いられている建築材料であるので、そのレンガに関する展示が中心。メソポタミアのレンガ建築などはなかなか興味深い。二階は国内のレンガ建築になり、東京駅など。個人的に興味深かったのは軍港舞鶴の生い立ち。東舞鶴の市街を見た時にかなり人工的な町という印象を受けたが、その通りに人工的に造られた町であったことがよく分かる。

   


舞鶴には赤煉瓦の建物が多い

 赤煉瓦博物館の見学後は西舞鶴に向かって車を走らせる。途中でレンガ建築の横などを通り抜けつつ山間を抜けていく。目的地は西舞鶴の田辺城。「田辺城」は細川藤孝が丹後を治める際に築いた城で、関ヶ原の戦いの際には藤孝はここに籠もって西軍の大軍を迎え撃っている。籠城戦は50日の長期に及んだが、古今伝授も受けている教養人である藤孝の戦死を憂いた後陽成天皇の仲介によって開城、藤孝は命を取り留めている。芸は身を助けるなどというが、その教養によって命を全うしたという戦乱の時代には珍しい事例である。なお田辺城は、江戸時代にこの地に入った京極高知が宮津城を本拠地にしたために、一国一城令によって破壊される。しかし高知の死後にその所領は遺言によって息子達で分割相続されることとなり、舞鶴藩の藩主となった次男の京極高三が田辺城を再興、後に領主が牧野氏に変わってそのまま明治に至ったという。

 西舞鶴は田辺城の城下町の面影が若干有り、明らかに東舞鶴とは町の表情が異なる。田辺城は市街地の真ん中にあり、近くの駐車場に車を預けると見学。市街地にある城の常で田辺城も明治の廃城後にはその遺構はほとんど市街に埋もれてしまったようであるが、かつての本丸跡が今日では隅櫓と大手門が建てられて一応城跡公園として整備されている。もっともこれらが現在建っている場所はそもそもは堀だったところだとか。

左 復元櫓と門  中央 復元本丸井戸  右 復元門内側から
 田辺城模型

 大手門の上及び隅櫓は資料館となっていて入場は無料である。まあいわゆる「なんちゃって」であるのだが、この周辺が一番城としての趣があるところではある。

内部は完全に公園化しているが、公園の脇に土塁址の看板がある

左 土塁址の巨石  中央・右 JR側に城跡碑と二の丸石垣と堀の痕跡がある
 

 内部は完全に公園化していて当時の面影はないが、公園の片隅に土居址の表示があって巨石が転がっていたりする。またこの公園を抜けて東のJRの線路の近くに行くと、「田辺城跡」の看板と共に低い石垣が残っているが、これがそもそもの二の丸石垣だったらしい。辛うじて石垣と堀の面影が残っている。

 

 さて田辺城の見学はこれで終了である。これからだが予定通り天橋立に立ち寄ろうかと考えている。天橋立は以前に訪問したことがあり、その際には天橋立ビューランドから眺めているのだが、今一つ天に架かる橋という印象がしなかったことが記憶に残っている。その後の調査で、天橋立を上から眺めるには北側の傘松公園という場所があり、ここから股のぞきで見る姿がまさに「天橋立」なのだと聞いたことから、一度そこを訪問してみたいと考えていた次第。

 

 天橋立までは海沿いのワインディング道路を走ることになる。この辺りは以前に北近畿タンゴ鉄道に乗って通ったルートとも被る。天橋立観光の拠点である宮津を過ぎるとそのまま北上、目指すは傘松公園へのケーブルカーがある府中。以前は天橋立周辺は渋滞がひどくて車が動かないことで有名だったが、新しい道路がいくつか整備されたおかげか、目的地までは順調に到着する。ケーブルの駅の近くの籠神社に駐車場があるのでそこに車を停める。

  籠神社

 山上へはリフトとケーブルカーがあるが、往路はケーブルカーで登ることにする。ケーブルカーは15分ごとに発車しているようだが、乗客はかなり多くてすぐに満員状態。ケーブルカーは2分程度で山上まで上る。

左 ケーブルカーの駅  中央・右 ケーブルカー

山上に到着するとキャラクターのかさぼうがお出迎え
 

 山上に上ると眼前に天橋立の光景が広がる。確かに視界を斜めに横切っており、真横から見る天橋立ビューランドからの風景とは違って、より橋っぽく見える。なおここではかわらけ投げもあり、そのための的まである。願い事を考えながらかわらけを投げ、見事に的の穴をくぐり抜けたら願いが成就するとか。しかしこれが挑戦者は多いのだがかなり難しく、ほとんど成功する者がいない(大抵は届かずに手前に落ちる)。私も挑戦したが見事に惨敗。これで私も生涯独身確定だろうか・・・。

やはり絶景である

左 股のぞき台  右 かわらけ投げ用の的

 確かにこうすると空に架かる橋に見えなくもない

帰りはリフトで下りてくる

 天橋立の風景を堪能すると帰りはリフトで降りてくる。復路はこの方が眼前に天橋立の風景が広がるので楽しめる。リフトで山から下りると、土産物屋街で黒豆ソフトを購入して身体をクールダウン、少し海岸の方の観光船のりばまでプラプラと行くが、観光船もモーターボートも何となく中途半端な気がしたので(観光船は時間がかかりすぎるし、モーターボートは時間が短すぎる)、そのまま帰途につくことにする。

 黒豆ソフトクリームを頂く

左 かさぼうがここにもいます  中央 遊覧船とモーターボート  右 マンホールもやはりこれ

 帰途は高速を突っ走って一気にだが、やはりこのまままっすぐに帰るのには早すぎる気がしたので、途中で寄り道をすることにする。立ち寄ったのは滝野温泉ぽかぽ。私の温泉巡りの原点のような温泉で、昔はよく行った記憶があるが久しぶりである。

   

 施設内の食堂で昼食を摂ってから入浴。ここは山の湯と川の湯があって男女交代なのだが、今日は男は山の湯のようである。泉質はカルシウム・ナトリウム塩化物泉。サラッとしたあまり特徴のない湯。かつては頻繁に通った施設であるが、今となってはあまり特別な魅力を感じなくなってしまっている自分に驚き。経験というものは過去の想い出をも脱ぎ去ることを意味するのだろうか・・・。

 

 こうして温泉でサッパリ汗を流すと自宅へとさらに車を飛ばすのであった。

 

 

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