展覧会遠征 和気編

 

 今週も先週に続いての近場遠征とする。目的地としては以前から気になっていた閑谷学校。さらにはその近くの城郭及び温泉を絡めて計画立案。ん?美術館がない・・・まあ仕方ないか。

 

 山陽道を備前ICで降りると閑谷学校までは大して距離はない。沿道には表示も出ているし、それに従って走ると間違いなく到着する。

 

 閑谷学校は江戸時代に岡山藩主・池田光政が庶民を教育するために設立した学校である。藩士のための藩校はすでに岡山に設立されていたというので、当初から庶民を対象にしていたのみならず、広く他藩の師弟にまで門戸は開かれていたという。明治維新で廃校となったが、いくつかの建物が残存し、その中で講堂が国宝指定となっている。

 

 閑谷学校は運営資金捻出のための学田・学林を所有して藩財政から独立し、岡山藩が転封や改易にあうようなことがあって存続可能なようにされていたという。藩主・池田光政がいかに教育を重視していたかをうかがわせる。江戸時代には公立・私立の多くの学問所が存在し、当時の日本人の学力レベルは世界でも屈指で、特に文盲率の低さは欧米人を驚嘆させるに値するレベルであった。これらの底力が明治以降の急速な発展の礎となるのである。つまり池田光政は未来を見通していたとも言え、そのような人物がかつては日本にも少なからずいたのである。いつの間にやらこの国は、目の前の金儲けばかりに一喜一憂する守銭奴ばかりになってしまった。守銭奴が強くなると共に学問が疎かにされ、最高学府たる大学までもが守銭奴の原理でかき回されてしまっている日本の現状には危機感を抱く。

左 正門  中央 関谷神社  右 学問所にはつきものの孔子廟

 閑谷学校は山間の静かなところに建てられている。この場所はかつて池田光政がその閑静さを気に入って学校の建設を命じたのだという。今では観光地化していささか騒がしくはなっているが、それでもここに学校を建てさせたその気持ちはよく分かる。

 入場料を払って入場すると、最初にあるのは閑谷神社と孔子廟。学問所に孔子廟がつきものなのは足利学校と同じである。そして講義がなされた講堂がある。1と6の付く日にここで儒教の講義があり、5と10の付く日は休日だったとか。この建物には生徒達が茶を摂るための飲室なるものも隣接している。今で言うなら学食というところか。

左 講堂  中央・右 講堂内部

左 かなり良い木材を使っている  中央 ここがいわゆる学食  右 裏口

 講堂の西側に土盛がされているが、かつてはこの向こうに学舎や学房(寄宿舎)が建てられていたので、そこが火事になった時に講堂などに延焼することを防ぐために築かれた人工の山で火除山と呼ばれるらしい。学房跡には明治時代に中学校などが建造され、今日ではこの中学校の校舎が閑谷学校の資料館となっている。

左 この土盛が人工山  中央 その横を抜けていくと  右 かつての中学校が資料館

 足利学校を訪問した時にも感じたが、やはり学問のための環境が徹底して整えられているなという印象を受ける。この環境でも学問を出来ないとなれば、それは根っからのぐうたらであろう。それに比べると今日はあまりにも学問を妨げるものが多すぎる。それは守銭奴共が学童まで搾取の対象にしたということと密接な関係がある。そのことは結局、日本の学生のとんでもないまでの学力レベルの低下、若者の安易な金儲け志向という現象となって跳ね返り、この国の将来に暗雲を投げかけている。

 

 閑谷学校の見学を終えた後はさらに車を走らせて「天神山城」を目指すことにする。天神山城は戦国期に備前に勢力を張った浦上宗景が築いた山城である。天神山の尾根沿いに築かれた長大な城郭で、その縄張りは東側の太鼓丸城と呼ばれる前期城郭と西側の後期城郭に分かれる。宗景は当初は太鼓丸城に本拠を置いたが、西側の城郭が完成後にそちらに本拠を移し、太鼓丸城は東の砦という位置づけになったという。しかしこのような大勢力を張った浦上宗景も家臣から台頭してきた宇喜多直家に攻められて落城、天神山城を放棄して遁走する羽目になったという。なお落城時期及び廃城時期についてはまだ議論の余地があるようである。

 かつては下の登山口から直登する必要があったが、今は近くに「和気美しい森」なる施設が建設されたのでかなり訪問が楽になったとの話である。実際に山道づたいに和気美しい森まで走ると、そこは広大な駐車場を完備し、宿泊施設まで整っている自然レクレーション施設であった。天神山城にはここから歩いていける。

  

左 和気美しい森          右 天神山城入口

 道はほぼ平坦で歩いている内に曲輪らしきものが見えてくる。ただ周囲が鬱蒼としていて曲輪の詳細は判然とせず、説明がないとただの自然歩道である。

  

最初に土塁の表示に突き当たるが、辺りは鬱蒼として分からない

 さらに進むと堀切があり、そこから上がったところが郭になる。郭からさらに堀切を超えて進むとそこが本丸跡であり、鬱蒼とした森の向こうの下方に出丸の跡も見える。

左 堀切を越えると  中央 ここが郭  右 郭には池の跡もある

左 さらに奥に進むと  中央 また堀切があり  右 その上が本丸

左 本丸には巨石が転がる  中央 この茂みの向こうの一段下が出丸  右 巨石の間を進む

 この辺りから巨石がゴロゴロし始めるが、その中を先に進んだところが石門である。石門を越えて先に進むとまた巨石がゴロゴロしているが、これが軍用石。

左 本丸の端当たりは巨石がゴロゴロ  中央 その向こうにあるのが石門  右 石門を別角度から

左 あちこちに巨石が  中央 その先にある巨石の溜まりが軍用石  右 軍用石

 軍用石を越えた先が太鼓丸城跡になる。東側城郭のクライマックスと言っても良い。巨石が張り出した見張り台のようなものがあり、かなり視界が効く。確かに城の中心として格好のポジション。ただ平地の規模としてはそう大きくないので、大きな建物は建てられない。

太鼓丸に出る

巨石が見張り台状になっているが、目の眩みそうな光景である

太鼓丸から北方を望む

 さてここ辺りまでは起伏もあまりなく、道もそう悪くはないので楽勝であった。しかしこの城郭はここから本格的に牙をむくのである。ここからは岩がむき出しの急斜面を下っていく必要がある。ロッククライミングをしないといけないような道ではないが、それでも足を滑らしたら怪我は確実(悪くすれば最悪の事態もあり得る)という道。枯れ葉で滑る足下に注意しながら一歩ずつ進む。天神山城に向かっているところで登山杖をもってくるのを忘れたのに気づき、慌てて車の中に転がしたままにしていた一脚を持ってきたのであるが正解だった。杖のサポートなしで降りられるような道ではない。

太鼓丸から先は巨石の崖を越えていくことになる

 かなり下っていくと巨石がゴロゴロしている場所に出くわすが、それが上の石門。しかしここからさらに今まで同じような難所が続く。高度がドンドンと下がっているのが分かり、帰りのことを思うと「お願いだからあまり下がらないでくれ」と念じるのだが、無情にもそれを裏切るようにかなり下がったところでようやく下の石門。

左 ようやく先に巨石の群が  中央 これが上の石門  右 上の石門を下から

左 さらに崖を降りていくと  中央 ここが下の石門  右 道はいよいよ洒落にならないことに

 下の石門からはさらに難所を下っていく。惨々ヘロヘロになった頃に到着するのが亀の甲。ここからさらに念押しのように下がった最下層が水の手への通路の堀切である。

左 ヘロヘロになった頃に亀の甲へ  中央 最下段の堀切  右 水の手へのルートがあるらしい
 亀の甲から堀切を見下ろす。対岸が後期城郭への登り口

 ここからは西の天神山城に向かって上がっていくことになる。ただ上りは階段になっていて太鼓丸城のような通路の悪さはない。その階段を登り切って少し進むと南の段、その先には南櫓台、さらにそれからつながる馬屋の段がある。

左 南の段に到着  中央 この上が南櫓  右 馬屋の段

 ここから一段上がると飛騨の丸なのだが、ここでトラブルが発生する。枯れ葉で埋もれた穴に足が入ってしまい、左足首をひねってしまったのである。私のような単独行の登山で最も危ないのが怪我である。最悪、動けないような怪我をしてしまったら進退窮まって場合によっては命に関わりかねない。しかも左足首は以前に観音寺城で捻挫をして以来古傷のようになってしまっている。気を付けて左足首の様子を調べるが、どうやら幸いにして完全に捻挫をしてしまってはおらず、若干の痛みはあるものの行動には問題なさそうである。それを確認すると先に進むことにする。

左 馬屋の段の奥に進む(飛騨の丸下段)  中央 ここが飛騨の丸  右 かなり高い

 飛騨の丸から一段上がったところがいよいよ本丸になる。本丸には石碑が建っており、結構広いスペースである。こうして歩いてみると、天神山城は太鼓丸城に比べて明らかに標高は低く曲輪は大きいということで、より近代城郭となっていることが分かる。太鼓丸城は防御を地形の険阻さに頼っていたのに対し、恐らく天神山城は柵などの近代的防御施設を多数備えていただろうと思われる。実際、同じ縦陣状の配置でも天神山城の曲輪の構成の方が変化と工夫がある。

左 本丸の手前には天神社がある  中央 本丸  右 城跡碑

本丸風景

 本丸からは空堀を隔てて二の丸、長屋の段に続く。そこから先は若干の高低はあるもののそう険しくない高度差で広大な桜馬場に続いており、その先が三の丸である。この辺りはこの城の曲輪で最も広い。

左 本丸端から一段下がる  中央 ここが空堀  右 その先が二の丸

左 二の丸から先はダラダラと続き  中央 長屋の段に続く  右 振り返って

左 長屋の段から更に先へ  中央 桜の馬場、奥が大手門  右 さらに先が鍛冶場跡

左 そこから一段降りる  中央 先に進むと  右 三の丸に出る

 三の丸の下にはさらに西櫓台、下の段なども見えているが、城域的にはこれでどん詰まりである。三の丸には休憩施設があり、展望台のようになっている。

  

左 三の丸には休憩施設が     右 一段下に西櫓台が見える

三の丸からの風景

 こうして縦断してみると非常に規模の大きい城郭であり、浦上氏の当時の勢力の大きさを想像させる。いくら家臣の宇喜多直家が力を付けていたとしても、そう簡単に落とせる城とは思えないのだが、恐らく家臣団の中から直家に呼応する者が出たのではないかと思われる。これだけの勢力を確立した浦上宗景でも完全には家臣の心を掌握できなかったということか。

 

 さてこれで天神山城の見学は終えたが、問題はこれからである。あの岩場の道を通って出発地まで戻らないといけない。天神山城の城内を抜けるのは特に問題はなかったが、やはり問題は水の手の堀切からの登り。ただ実際に登ってみると、岩場の登りは下りに比べると心臓にはキツイが足にはむしろ楽であることを感じたのである(下りで踏ん張る方が足にはきつかった)。そこで身体が動く内にと一気に上の石門まで登ったのだが、そこで体力が切れてしまった。心臓の方が限界で心臓の鼓動がハッキリと聞こえる状態。挙げ句が胃袋がひっくり返りそうになる。それにしても甘く見ていた。装備も茶は持ってきているが食料やジュースは持ってきておらず、まだ昼食を摂っていなかったせいでどうやらガス欠になってきている模様。上の石門でしばし休息をとって呼吸を整えると、本格的に動けなくなる前に太鼓丸まで登ってしまうことにする。太鼓丸に登り切った時にはほとんど死にかけだったが、とりあえず私の体力もひねった左足首も何とか保ったのであった。

 

 ようやく車までたどり着いた時にはヘロヘロになっていた。結局は天神山城の見学に2時間以上を費やしており、これは私にしてはかなりの長時間。それだけ広大で険しい山城だったということである。

 

 最後はやはり温泉である。それに昼食も摂りたい。そこでここからそう遠くない和気鵜飼谷温泉を目指すことにする。鵜飼谷温泉は宿泊施設もある入浴施設で人気があるのか多くの車がやって来ている。まずは昼食と思ったが、レストランは2時〜4時までは休憩中とのこと。時間を見ると3時半。先に入浴することにする。

 温泉は露天風呂付のオーソドックスなどこでもあるような施設。しかし露天は広々とした印象で気持ちよい。ここでヘトヘトになった身体の疲れを癒す。ただ困ったことに足首の方は炎症を起こしかけているのか、温まった途端に痛みが強くなってきたような気がする。

 

 施設としては取り立てて特徴はない。泉質の方も単純アルカリ泉とのことだが、ことさらにヌルヌルする感じはなく印象は薄い。ただ施設の印象は悪くないので、コアな温泉マニアでなければそれなりには楽しめそう。

 

 入浴を終えるとレストランで昼食。しかし夜の部は宿泊者の夕食が優先になっているのか、メニュー数が非常に少ない。結局は「カツ丼(650円)」を頂くことに。味としては可もなく不可もなくというところ。

 これで今日の予定は終了、高速を経由して帰途についたのであった。帰りの高速はやや渋滞。するとこんな時に人間の品性が出る。無茶な割り込みをして前へ行こうとする車が。事故に巻き込まれたらたまらないので距離を置いて後ろで見ていたが、どうにかこうにか回りがかわしてくれてなんとか事故になっていないような状態。しかし往々にしてこういう馬鹿な運転をする輩に限って「俺は運転がうまい」なんて思っているからタチが悪い。そのうちに大きな事故を起こすだろう。願わくは死ぬ時は一人で死んでくれということ。巻き込まれる奴がいたら気の毒すぎる。やっぱり馬鹿は地球の裏側の馬鹿国へだな・・・。

 

 無事に家に帰り着いたが、結局足の方はその晩ぐらいから腫れて痛みが出てきて、翌日は杖を突いて会社に出る羽目になってしまったのである。油断大敵という奴である。

 

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