展覧会遠征 沖縄編

 

 家族の白い目と破綻寸前の財政状況を後目にほとんど暴走気味に全国展開を続けてきた私の遠征であるが、さていよいよ満を持しての沖縄遠征である。私にとっては日本最後の未踏県であり、ここを攻略してこそ初めて全県制覇の達成と相成るわけである。

 

 例によって万全の準備の元に半年以上前から計画は練りに練られ、当然のように航空券もスーパー旅割で事前に安価に確保、すべては極めて予定通りに思われた。しかし実行直前になって大トラブル発生。慣れない雪国行脚が体に堪えたのか、遠征一週間前にして風邪をひいて38度以上の高熱でダウンしてしまったのである。

 

 このままでは計画の実行が危ぶまれる。しかしここに来てのキャンセルは航空券など多大な損害を被る上に、改めて再計画となると次の機会はいつになるやら分かったものでない。そこで私は自身の貧乏性が赴くままに最終解決を図ることにした。つまり「何が何でも遠征日までに無理矢理に風邪を抑え込む」ということである。そのためにとった非常手段が「培養室お籠もり」。つまり空調と加湿器で高温高湿にした部屋(だから培養室なのである)に籠もって布団をかぶってひたすら汗をかきながら寝続けるという手段である。一応理論としては「体の免疫系は体温が高いほど活性化する」という根拠があるのだが、実際にはかなり乱暴な方法で、水分摂取に気をつけてないと脱水症状で命を落としかねないし、また体温が上がりすぎて暴走すると今度は脳がやられる危険があるというあまり一般にお勧めできた方法ではない。とにかく航空券を無駄にできないという赤貧プロレタリアートの極限の闘争である。立て万国の労働者・・・ってかなりラリってきた。

 

 しかしこの滅茶苦茶な方法で何とか遠征の3日前にはフラフラながらも熱は下がり、翌日からは仕事にも出られるようになったのである。まだ体力の回復に心許ないものがあるが、こうなると淡々と計画を実行するのみである。

 

 沖縄出発は神戸空港の早朝便。例によって無理をせずに神戸で前泊する事にする。仕事を終えるとすぐに移動、以前にも利用したポートアイランドのクオリティホテルにチェックインする。それにしてもポートアイランドの寂れっぷりは相変わらずだし、明日からの沖縄を意識してやや薄着で来ているので心身共に寒風が吹き抜けるような感じがする。

 

 部屋の風呂で体を温めると(このホテルの難点は大浴場がないことだが、その代わり洗い場付きの風呂が付いた部屋がある)、体力温存のためにも早めに床につく。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時頃に起床。初めての沖縄に緊張感があるのか、どうもよく眠れなかったような気がする。ややボンヤリした頭に無理矢理カツを入れ、すぐにホテルをチェックアウトするとポートライナーで神戸空港を目指す。

 

 久しぶりの神戸空港である。とりあえず空港内のうどん屋で軽く朝食を摂ると搭乗ゲートへ・・・と思ったのだが、何やら「使用機体到着遅れ」との表示が出ている。どこからの便が回ってくるのかは知らないが、到着予定が遅れているようである。いきなりのトラブル発生である。さし当たっては出発時刻が30分遅れるとの案内が出ているようだが、実際にはどうなるやら分からない。仕方ないので搭乗手続きを済ませて出発ゲートで待つ。問題の機体は本来の出発時刻ギリギリぐらいにようやく到着する。これから乗客を降ろして荷物を入れ替え、さらには整備点検に燃料補給となるわけだから、果たして出発は一体いつになるのやらと頭が痛くなる。

 かなり遅れることを覚悟していたのだが、沖縄便は予定通りに30分遅れで出発する。機体の空港滞在時間は30分。時間的には新幹線の折り返し並。かなり凄まじい準備である。最近はローコストキャリアの就航などが話題となっているが、その低コストのポイントの一つは機体の空港滞在時間を短縮しての回転率上昇だと言う。これを見ているとANAでも回転率を上げようと思えばまだその余地はあるようである。ただそうしてしまうと、一つダイヤが狂った時の調節余地がなくなってしまう。そう言えばローコストキャリアでは出発遅れなんて日常茶飯事だと聞いたことがある。

 

 さて、いざ飛行機が空港を飛び立つと沖縄まではとにかく長い。狭苦しい飛行機のシートはかなりの拷問でもある。飛行機が空に上がってしまうとすることはないし、退屈していると知らない間にウトウトしてしまう。気流の乱れで機体が揺れて再び気がついた時には那覇空港への着陸態勢に入っていた。

 

 那覇空港に降り立った途端にモアッとした熱気が顔に吹き付ける。暑い。沖縄が暑いだろうことは当然分かっているので、家を出る時には「これ以上薄着にしたら風邪をひく」というレベルの服装で来たのに、それでもこちらでは有り得ないような超厚着だった。とにかく季節がまるで違う。今まで冬だった地域から急に夏の地域に来てしまったという印象。とりあえず慌てて上着を脱ぐ。

  

 那覇空港からは沖縄都市モノレール「ゆいレール」で移動する。那覇空港から首里までを接続する路線であり、那覇の市街を突っ切る都市路線となっている。また日本最南端の鉄道路線ということにもなる。二両編成のワンマンカーが走行しており、内部はロングシート。大阪モノレールと似たタイプの車両だが、かなりこじんまりして見える。なおゆいレールでは一日乗車券を販売しているのでこれを購入したのだが、面白いのは最初に改札を通過した時刻が印字され、それから24時間通用すること。つまりは今の時刻からだったら、明日の午前中もこのチケットを利用できるということである。これだと夕方から一日乗車券を使用しても良いわけであり、なかなかに合理的なシステムのように思われる。

 出典 ゆいレールHP

左・中 車内風景  右 一日乗車券

 発車時刻には車内は満員状態になる。満員の車両は那覇の繁華街を横切りながら進む。高度がかなりあるので見晴らしは良い。車窓から見る那覇の町はかなりの大都市という印象を受ける。風景としては東京や大阪のものに近い。明らかに実際の規模以上の大都市に見えるのだが、その原因は異様なまでの高層建築の比率の高さ。大抵の都市は市街中心部でさえ一般住宅の低層建築が目に入るのだが、那覇では見渡したところその手の建築物が見えない。そのためにビルばかりの風景になり、東京や大阪の中心部のような錯覚を起こすのである。

  

おもろまち駅に到着

 20分ほど乗車して、おもろまちで下車。ゆいレールは典型的な都市交通システムであり、全区間を通じてかなり乗降が多い印象を受けた。この乗降客数に比べると、二両編成の車両はいささか小さすぎる気もしないではない。なお、発車メロディがユンタなのはいかにも沖縄。

 

 おもろまち辺りは新都心として開発が進んでいる地域らしく、駅前から大型ショッピング施設などが建っている。それにしても暑い。明らかに町の空気が南国のもの。この空気だけは現地に来て見ないと分からないものである。

 

 町の空気も本土と異なるが、町の人々の顔立ちも明らかに本土と異なり、目鼻立ちの派手ないわゆる「南方系」の顔。俗に南方系の顔は「超美人か怪物しかいない」などと言われるが、派手なパーツがピッタリとかみ合った時には新垣結衣や比嘉愛未系統の美女(仲間由紀恵も沖縄だが、彼女は南方には珍しい地味系美女)が誕生するが、微妙にかみ合わなかったときには悲惨なことになるという意味である。また同じ南方系でもやはり九州とは傾向が違う。九州の顔は「濃い」顔であり、沖縄の顔は「派手な」顔である。街角を歩いているだけでそのことは実感できる。

 

 これから市内見学の予定だが、その前にまずは宿泊ホテルに立ち寄ってトランクと上着を預けて身軽になる。今回宿泊するのは法華クラブ那覇。最近、ドーミーチェーン、ルートインチェーンについでよく使用するホテルチェーンである。

 

 ホテルに荷物を預けて身軽になると、最初の目的地はここからすぐのところにある。

 


「沖縄近代彫刻の礎 玉那覇正吉−彫刻と絵画の軌跡」沖縄県立美術館で3/11まで

 沖縄の彫刻家・玉那覇正吉の作品を通して彼の創作の軌跡を辿るという展覧会。

 彫刻作品についてはかなりゴツゴツした表面が印象的で、いわゆる近代彫刻のパターン。ただし近代彫刻の多くが不気味なデフォルメを多用した半抽象的なものが多いのに対し、彼の作品はあくまで具象の域にとどまっている。

 同様のことは絵画にも言え、彼の作品は最初は完全な具象画から始まり、そこに感情表現が加わっていわゆる抽象絵画的な要素が出てくるが、やはりいずれの作品も基本は具象にあることは見て分かる。

 個人的には一番印象に残ったのは、彼の最近の絵画作品の色遣い。この色遣いこそはまさに沖縄の空気を反映したものであり、この意味は実際に現地を訪れないと理解できないと感じた。そう言う意味ではやはり終始沖縄の芸術家なのだろう。


 県立美術館は県立博物館と一体になった大きな施設。美術館を一回りした後は喫茶室でパスタを頂いて一服する。

 かなり巨大な施設

 県立博物館は自然博物館と歴史博物館と民俗資料館が一体になったような巨大施設。メインは歴史博物館であるが、石器時代から沖縄が北山・中山・南山の三勢力に分裂していたいわゆる「琉球三国志時代」(正規には「三山時代」と呼ぶ)、さらには統一琉球王朝が成立、そして島津氏による侵略、さらには廃藩置県に絡む琉球仕置きでの琉球王朝滅亡と日本への併合、そして第二次大戦での沖縄決戦での甚大なる犠牲といった沖縄の歴史に沿った展示がなされている。

 表には代表的な琉球民家のレプリカも

 しかしこうして沖縄の歴史を見ていると、明らかに日本によって侵略併合された独立国である。その挙げ句に第二次大戦では本土防衛のための捨て石にされ、今でも米軍基地の大半を背負わされるという状況なんだから、これは沖縄県民から「いっそのこと日本から独立しろ」という声まで出るのは分からないでもない。

 

 美術館の見学を終えると再びホテルに戻ってチェックイン手続きをしてから部屋に入る。正直なところ既に結構疲れたので一休みすると共に、インターネットで次の目的地に関しての事前チェックである。実は今回の遠征は遠征直前に寝込んでしまったことから、全体的に事前調査が不足しており、それが最大の不安点。次の目的地は首里城なのだが、そのアクセス手段や見学時間なども全く調べられていなかったというのが実状なのである。また先ほどの博物館見学で、私が認識していたよりも多数の城が存在するということが判明したので、明日以降の予定も組み替える必要がある。そのための戦略策定時間が必要ということである。

 

 一休みすると共におおよその調査がついたところでホテルから外出する。おもろまち駅からゆいレールに乗車すると終点の首里まで。これで日本最南端の鉄道の視察も完了である。首里城はここから歩いて20分ほどとのことだが、バスも出ているとのことから、今後のことも考えて無理はせずに体力を温存することにする。

   ゆいレールで首里駅へ

 バスで首里城入口で下車すると、すぐにビジターセンターがあるのでここでマップを入手する。首里城はいわずと知れた琉球王朝の王府である。また沖縄では今帰仁城、勝連城と並んで100名城に選定されている。今回の沖縄遠征の大きな目的の一つはこれらの訪問である。

 

 ビジターセンターからさらに進むとすぐに見えてくるのが守礼門。「首里城」のいわば大手門なのであるが、門と言うよりも鳥居のようなイメージである。また実際に目にするとイメージよりも小さいと感じる。そう言えば、この守礼門も日本三大がっかり名所の三番目に挙げられることがある。ちなみにあれは札幌時計台とはりまや橋が不動の1、2位で、守礼門はオランダ坂などと3位を争っている。もっとも私自身は、このがっかり名所についてははりまや橋は納得だが、札幌時計台についてはあまりに失礼だろうと思っているが。

 がっかりしない守礼門

 守礼門をくぐるとすぐ脇にあるのが園比屋武御嶽。これは琉球王が首里城から外出する際には安全を祈願した拝所ということで、琉球王国のグスク及び関連遺産群の一環で世界遺産登録されている。

  

世界遺産の園比屋武御嶽

 ここを過ぎれば歓会門。城内にはいるための正門であり、かなり堅固である。ただこの辺りの石垣や建物を見ていると明らかに日本のものではなく中国の影響が濃厚であり、日本の城よりは万里の長城や紫禁城などの方がイメージが近い。琉球王国が中国の文化の影響を強く受けた地域であることがよく分かる。

 歓会門を過ぎるとやや広大なスペースがあり、そこから瑞泉門、漏刻門を抜けるといよいよ正殿はすぐそこ。ここには日影台と呼ばれる日時計がある。

左 歓会門  中央 シーサーがいる  右 歓会門をくぐって右手上が瑞泉門

左 歓会門をくぐって正面奥は久慶門  中央 瑞泉門の手前に井戸がある  右 瑞泉門

左 瑞泉門をくぐってすぐの漏刻門  中央 日影台(日時計)  右 久慶門と歓会門を見下ろす

 正面の真っ赤っかの門・広福門を抜けると広場に出る。正面には首里森御嶽と呼ばれる壁に囲まれた森があるが、これはいわゆる拝所。この広場に券売所があり、ここから先に進むには入場料を払う必要がある。

左 真っ赤っかの広福門  中央 首里森御嶽  右 左手に見えるのが奉神門

 入場券を購入して最後の奉神門を抜けると正面に正殿が見える。この正殿は第二次大戦で焼失したのだが、1992年になって再建されている。今でこそ修復工事の甲斐あって首里城は威容を誇っているが、かつては城跡は破壊され、琉球大学が設置されていた時期もあるという。そういう中で守礼門だけが先行して再建されたため、何もないところに守礼門だけがポツンと建っているという時期があったため、守礼門が日本三大がっかり名所に挙げられるということになったようである。そう言う意味では正殿の復元なった今では守礼門は三大がっかり名所の汚名は完全に返上だろう。

左 奉神門をくぐる  中央 正面に正殿が見える  右 正殿右手が南殿

 正殿脇の南殿から中に入って内部を見学することが出来る。南殿内はいわゆるお屋敷。庭園が岩がむき出しのいかにも沖縄的なものであるのが印象的。

南殿内部

 正殿の方はいかにも琉球王の執務室と言った趣。外観だけでなくやはり内部も中国的である。現在流行の韓国歴史ドラマなんかも連想するような風景。

正殿内部

 正殿の見学を終えると工事中の北殿に入るが、ここは完全に観光地お土産館。ある意味で観光が主力産業の沖縄らしくはある。ただまだ旅の序盤であるのでここではお土産はパス。喉が渇いたのでシークワーサーのジュースだけを買い求める。やはり沖縄の柑橘類と言えばシークワーサーなのだが、これがなかなかにうまい。なおここからは沖縄市街を見下ろせる。

 沖縄の飲み物と言えばこれ

 北殿を出ると淑順門の見学。しかし門の先は工事中で行き止まり。右掖門を抜けて石垣の脇を下っていくと正面に歓会門が見えてくるが、復路はその手前の久慶門から出るのが順路となっている。ここ抜けて先に進むと守礼門にたどり着く。

左 左手が右掖門  中央 淑順門の先は行き止まり  右 右掖門をくぐって石垣に沿って進む

左 印より下の石垣は過去の遺構、上が復元分  中央 正面奥が歓会門、右手が久慶門  右 久慶門

左 外の石垣はかなり高い  中央 首里城碑はビジターセンターの上に  右 木曳門は普段は石垣で封鎖されている門

 さすがに琉球王の宮殿らしく堂々たる城郭であった。また日本の城郭とは明らかに違った中国調の城郭もかなり興味深かった。ただやはり城郭というよりは宮殿の性格の強い建物だなという印象は受けた。純軍事的に考えた場合の守備力はどの程度だろうか。

 

 首里城の見学を終えると、近くにある玉陵に立ち寄る。ここはいわゆる琉球王家の墓。規模は大きいがいかにも沖縄的な墓所である。こういう墓所を見ると沖縄は本来は日本とは異なる国だということを感じる。なお下に敷いてあった砂利が珊瑚混じりだったのがいかにも沖縄的で印象に残る。

左 玉陵の碑  中央 右手の門をくぐった奥にある  右 砂利に珊瑚が混ざっている

 玉陵の見学を終えるとバスで首里駅まで戻り、ついでに駅の真ん前にある「沖縄そば処くんち」で軽く食事をすることにする。注文したのは「ソーキそば(650円)」。そばを食べているといきなり店主の三線の演奏が始まって面食らうが、これはこれで沖縄的な趣向。なおソーキそばは豚バラ肉の煮込み(これがソーキ)が入ったそばだが、このバラ肉が軟骨までトロトロで美味。そば自体はシンプルな塩味のものだが、ソーキが濃厚であるのでこれでバランスがとれる。また太めで歯ごたえのある麺は私好み。

 当初には全く予想していなかったが、私は風土の面でも食の面でも意外と沖縄と相性が良さそうだ。私はウエットな北方系の人間だと思っていたが、実は意外と南方系の人間だったのか? そう言えば東北よりも九州の方が相性が良いな。それに北海道も沖縄と同様に「元々日本ではないな」と感じたが、北海道の場合はそれが強烈な違和感になっていたのに対し、沖縄の場合は意外と抵抗がない。

 ゆいレールで戻る

 ゆいレールでおもろまちに移動すると、しばし周囲を散策。駅前にはDFSギャラリアなる免税施設があるが、中はシャネルやグッチなどのブランドショップのオンパレード。女性なら目を輝かせるのだろうが、私にはシュセンドリーでバブリーな臭いが鼻をついて我慢できない。早々に退散する。

 

 ホテルの北西にはサンエーなる沖縄ローカルのショッピングセンターがある。ここはイオンモールのようで私には非常に馴染みやすい施設。やはり私のような根っからのプロレタリアートはこういう施設でないと落ち着かない。

 

 夜食などを買い求めて一端ホテルに戻ると、とりあえずは大浴場で疲れをいやす。ホテル最上階で外を見渡せる造りだが、お役所の指導ということで窓の下半分には目隠しシートが貼ってある。町のど真ん中でこのホテルよりも高層の建物もあるだけに、「丸見えの湯」になってはまずいということなんだろう。浴場内には「一部の紹介では展望大浴場となっているようですがお詫びします」との貼り紙があった。まあ「海が見える展望大浴場」と書いてあるホテルで目隠しがあれば問題かもしれないが、ここは元より展望といっても単なる町の風景(目の前はケーズデンキ)なのでさしたる問題ではない。

 

 入浴を終えて一息ついたところで夕食に町に繰り出すことにする。さすがにショッピングセンター内の飲食店で夕食を済ませる気にはならなかったので適当に店を探したところ、「トランジットカフェ・パークサイド」という店を見つけたので入店する。注文したのは「ペスカトーレ」

  

 オーソドックスで別段の難点のない店。ついでにデザートに「クレームブリュレ」も追加注文する。

 どちらか言えば昼はランチ、夜は酒でも飲みながらという店のようだ。私にはランチの方が良いだろう。味はまずまずなので、そちらの方がCPも良くなりそうだ。

 

 夕食を終えるとホテルに戻ってテレビを見ながらまったり。しかしまだ体力が本格的には回復していないところに無理をし過ぎたのか、9時を過ぎた頃には強烈な疲労が襲ってくる。結局は報道ステーションが始まる頃には就寝してしまう。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 さすがに昨晩の就寝が早すぎたか、5時過ぎごろに目が覚める。そのままシャワーを浴びて完全に目を覚ますと、しばしテレビを見たりこの原稿を打ったりしながら時間をつぶし、7時にホテルのレストランへ朝食を摂りに行く。食堂が一杯でしばし待たされるが、朝食自体はまずまず。朝から腹にたっぷりと叩き込む。

 

 さて今日の予定だが、今日からはレンタカーで本島内を移動する予定である。沖縄というところは那覇市内をウロウロするだけなら良いが、那覇から一歩出ると途端に「公共交通機関が皆無」という現実に出くわすことになる。勢いレンタカーに頼らざるを得ないのである。

 

 レンタカーは既に航空券との合わせ技で押さえてある。借りるのはトヨタのビッツ。このクラスの車でマーチは嫌いとなると、必然的にこの辺りが妥当な選択。レンタカーを借りるために昨日早々に退散したDFSギャラリアを再訪、9時からオープンとのことでしばし待たされてからようやくトヨタレンタカーにたどり着く。この施設は免税店と言うだけでなく、レンタカーの拠点にもなっているようで、施設内にはレンタカー専用の返却口まである。

 

 ビッツの運転感覚は今の愛車のノートとはかなり異なるが、以前の愛車のカローラ2に近いのですぐに馴染む。まずは最初の目的地は座喜味城。沖縄各地にある城(グスク)の一つである。これからはビッツを駆使してこれらのグスクを攻略していく予定。

 

 沖縄の町を走っていて感じるのは、いわゆる木造住宅がほとんど見当たらないこと。個人の住宅でもコンクリート製のものが多い。それが先日にモノレールから「町がビルばかり」という印象を受けた大きな理由のようである。

 

 また沖縄を走っているのだから米軍車両などに出くわすかとも思ったが、とにかく目に入る範囲には米軍はいなかった。これはかなり私のイメージとは違う。どうも基地の町・沖縄と言えば、町の中を米軍人が我が物顔でジープを乗り回して見つけた女性などをさらっていくというリアル北斗の拳のイメージを持っていたのだが、これはあまりに極端すぎたイメージか。

 

 なお那覇郊外はやたらに一般道のオービスが多い。いかにも速度超過しそうな道路が多いからだろうか。公立暴力団のしのぎを得るための悪質なやり口はよく知っているだけに、つまらない言いがかりを付けられないよう気を付けて運転する。なおオービスは実はかなりいい加減な装置なので別名「全自動冤罪製造機」などとも呼ばれているが、それに反して裁判などでは「絶対に故障しない機械」ということになっているらしい。世の中広しといえども、絶対に故障しない機械は今まで原発とオービスぐらいだったのだが、原発の方はつい最近派手な故障を起こしたので、もはや日本では絶対に故障しない機械はオービスだけになっている。

 

 広大な米軍基地の合間を縫いつつ海沿いを北上することしばし、ようやく「座喜味城」の案内が見えてくる。座喜味城は集落のはずれの小高い山を登った先にあり、手前には駐車場と歴史民俗資料館、美術館の施設があるので最初にそこを見学する。民俗資料館はまさに民具のごった盛の倉庫状態というお約束パターン。美術館の方は地元の陶芸展。展示品のかなりの部分がシーサーだったのがいかにも沖縄。

 読谷村立美術館・歴史民俗資料館

 施設の見学を終えるといよいよ座喜味城に向かって歩を進める。すぐに目の前に立派な石垣が見えてくるが、それが座喜味城。首里城と同様で明らかに日本の城とは異なる形態であることがすぐに分かる。石垣の立派さが目に付くが、これは日本の城の土台を作るための石垣と違い、正確に言うと石壁である。石で城壁を作ってそれで四囲を固めることで防御の形態をなしている。なお沖縄のグスクは単純に城と翻訳されるが、実際にはそんなに単純なものではない。そのまま軍事的要塞としての城の役割を持っているものもあるが、信仰の場としての色彩の方が強いものや、地域住民の集会場みたいなものまで種々様々である。そう言う分類で見れば、座喜味城は明らかに軍事的要塞だろう。山頂に向けて二重の城壁が連なって防御の陣を構え、奥の城壁内はそれなりの広さもある。また城壁自体に高さがあるので、いわゆる櫓としての機能も持っている。

左 二の郭の入口  中央 入口をくぐると  右 一の郭の入口が正面に見える

二の郭内部

左 一の郭の入口から見た二の郭入口はこの高さの差  中央 一の郭内部  右 一の郭城壁上から一の郭内部

城壁上より見た一の郭内部

左・中央 一の郭城壁と二の郭城壁の接点付近  右 振り返って二の郭

 実は座喜味城は100名城にも入っておらず、事前には全くノーマークの城郭で、昨日になって首里城関連の調査を行った時に引っかかってきたことから、急遽今日の予定に組み込んだのだが、いきなり続100名城クラスの城郭に出くわしてしまった。これは沖縄のグスク巡りは当初の予想以上に深いものになりそうである。

 

 座喜味城の見学を終えると次は今帰仁城を目指すことにする。高速に乗って名護まで突っ走ると、名護市街を通過して山の中を突っ走る。ところで沖縄本島と言えばそう大きな島ではないのだが、予想外だったのは山の多さ。狭い土地にも関わらず起伏が結構あり、登りになるとビッツのエンジンがフル回転になり、下りになるとギアをローに入れないといけないぐらい。意外と車に過酷な環境である。これも現地に来るまでは予想していなかった。

 

 「今帰仁城」は沖縄が北山、中山、南山の三勢力に分かれていたいわゆる「沖縄三国志時代」に北山王が拠点にしていた城郭だという。なお島津によるいわゆる琉球侵略の際には、最初にここが焼き討ちされている。

 今帰仁城はかなり山深いところにあり、いかにも山城。手前の駐車場で車を止めると、土産物屋街を通り抜けて入場券を購入してから城内に進む。かなり周囲が観光地化しているようだ。なお沖縄では100名城に選ばれているグスクは入場が有料だが、そうでないグスクは無料である。100名城選定には観光振興という意図もあるのだが、それにしてもあまりに露骨なような。ちなみに本土の場合、天守閣のある城は有料で、そうでない城は無料というのが一般的であり、入場料も天守閣へ入るための料金という場合が多い。

 いきなり入口からその立派さに圧倒される。今は石畳の通路が一直線に通じているが、どうやら往時にはもっと防御を固めた通路だったらしい。確かに城郭の通路としてはこの道路は不自然である。

左 平部門はかなり堅固  中央 狭間がある  右 かつては上に櫓でもあったのだろうか

左 今は石畳の道がまっすぐ通っている  中央 この奥がカーザフ  右 本来はこの旧道を通ったらしい

 ここを抜けると広場に出るが、これが大庭と呼ばれていた部分。宗教的行事などが行われていたらしい。ここの隣が主郭でここには建物の跡が残っている。

左 大庭に出る  中央・右 旧道の入口、かなり堅固に守られている

大庭の奥の主郭には建物の跡と拝殿がある

 この主郭の隣に一段低い位置にあるのが志慶真門郭。城主の側近の館があった場所らしい。ここには多くの建物跡が残っているが、ここから見上げる主郭の石垣が壮観である。

主郭から見下ろした志慶真門郭

左 門跡らしきところは行き止まり  中央 遠くに海が見える  右 建物跡がある

志慶真門郭から見上げた主郭

 再び主郭に戻ると隣の御内原へ。ここからは海を見渡せる眺望がある。ここの下に城壁に囲まれた広大な郭を見下ろせるのだが、ここは大隅で、兵馬を養っていた場所とか。崖をそのまま城壁で囲い込んだようなかなり堅固な郭である。

御内原
 

御内原から見下ろした大隅

表から見上げた大隅の石垣

 さすが100名城というか、かなり広大で堅固な要塞であった。先日に訪れた首里城に比べるとまさに戦闘のための要塞という印象の強い施設である。思わず圧倒されてしまった。この城郭があるのは本島北部のかなり那覇からは遠いところだが、ここまで訪れる価値があると思わせる城郭である。

  昼食はラフティ丼

 昼時なので土産物街の今帰仁城址沖縄そば屋でラフティ丼を昼食に頂くと、近くの今帰仁村歴史文化センターを見学。展示物はお約束の地元歴史や民俗関係。あまりにマニアックな展示も多く、ザッと見て回る。

  今帰仁村歴史文化センター

 今帰仁城を後にすると、ここから海沿いを西に走行する。ここまで来たのだから、ついでに沖縄美ら海水族館に立ち寄っておこうという考え。美ら海水族館は最近になって沖縄の観光スポットとして有名な施設である。

 

 隣接している立体駐車場は車が一杯。かなり人気のある施設のようだ(今は沖縄観光のシーズンオフのはずなのに)。グルグル回ってようやく空きを見つけると車を止めて入館する。水族館としてはかなり大きな施設。施設の印象としては大阪の海遊館とかなりかぶる。

 

 内部は定番の熱帯の魚などから巨大水槽内を泳ぐマンタやジンベイザメなど。やはり大阪の海遊館とかなり印象がかぶる。いわゆる「見せる」水族館としては良くできており、観光客が集まるのも納得。

 水族館の見学を一通り終えたところで、まもなくイルカショーが始まるとの案内が流れる。さして興味もないがついでだからと立ち寄ることにする。

 最初は全く興味がなかったのだが、気がつけばイルカが飛び跳ねるたびに回りといっしょに「オォー」と歓声を上げている自分。やはり私は意外と単純な人間のようである。当初の想像に反してイルカショーを堪能してしまったのである。

 

 イルカショーの見学を終えると、ウミガメ館とマナティー館をのぞいてから水族館を後にする。後は今日の宿泊予定地の名護に向かうだけである。ただホテルに入る前に名護城に立ち寄ることにする。

 

 カーナビに従って「名護城」を目指す。しかし名護城の手前で通行止めの看板が。山道が土砂崩れのために通行不可なのだという。南口からは回り込めないので北口を経由してくれとのこと。そこで地図を調べてようやく北口を見つけるとそこから山の中に入っていく。かなり深い山で道も細い。道路工事をしている脇をすり抜けて山道を走ることしばし、ようやく名護城の看板に出くわす。

 

 そこに車を止めると石段を登る。名護城はその登った先の小さな広場。何の案内もなければただの山上休憩地というところ(展望台と言うには木のせいで眺望がない)。一概にグスクといってもいろいろなニュアンスのものがあるのだが、どうやらこの名護城は軍事的意味ではなく信仰的意味のグスクであるようだ。実際に軍事的防御に当たる施設は見あたらない。なお現地看板によると奥に一応堀切跡なども発見されているようだが、グスクの奥は鬱蒼としていてとてもそこまでたどり着けそうにないので引き返す。

   

山上には小さな広場があるだけで、奥は鬱蒼としていてとても進めない

 名護城を後にするとホテルを目指すことにする。宿泊ホテルはルートイン名護。ホテルは名護城からさほど遠くないところにありすぐに到着する。

 

 ホテルにチェックインするとまずは入浴。最上階に大浴場があるのだが、驚いたのはここの大浴場は天井がない。と言うか、上に簡単なシートをかぶせただけの露天風呂。夏の沖縄だとこれはかなり気持ちよさそうだが、生憎と今日は朝から風も強くてやや肌寒い気候。さすがにこれだと寒い。身体をザッと流すと慌てて浴槽に飛びこむ。

 

 ここの大浴場からは名護の海を一望できるようになっている。浴槽に浸かって身体が温まってくるとなかなかに快適。それにしてもこの構造は・・・。天候によっては大浴場が使用できないと書いてあった意味が今になってようやく分かった。

 

 入浴してサッパリすると軽く夕食のために付近をプラプラ。ただ昼食がやや遅めだったためにまだ本格的に空腹にはなっていない。そこで沖縄ローカルハンバーガーチェーンのA&Wが目に入ったのでそこに入店する。

   

 モッツァバーガーとポテトとオレンジジュースのセット(800円)を注文する。なおドリンクは沖縄固有のものとしてルートビアなるドリンクが有名なのだが、このドリンクはかなりクセが強いということは以前から聞いており、この時点では注文する勇気がなかった。バーガーはいたって普通のバーガーで特に特徴はなし。ただポテトは味付けが独特で私には初めての味。オレンジジュースは懐かしいというか、やけに昭和を連想させる味。昔、ジュースと言えばカルピスなどの水で薄めるタイプが普通だった時代に、トリスコンクなるオレンジジュースがあったのだが、なぜかそれを思い出した。

 

 軽く食事を済ませるとホテルに帰還。しかしこの頃から猛烈な疲労が襲ってくる。連日かなり歩いていたせいだろうか(今日で1万歩越え、昨日は2万歩近くいっている)。最初はテレビやネットなどを見ていたが、その内に椅子に座っているのもキツくなってきたので少し横になろうかとベッドに横たわったのが8時過ぎ。しかしまもなくそのまま気を失ってしまったようである。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝、6時半の目覚ましで気がついた。昨晩は9時前から寝ていたにもかかわらず、体はグッタリと重い。かなり疲労が溜まっていることを感じるが、それで立ち止まっている場合ではない。

 

 ホテルのレストランで朝食を摂ると、テレビを見つつ出発準備。そのうちにカーネーションが始まる。何やら安田美沙子が三女の役をしているのだが、これが典型的な「アホの子」。元々演技力が期待できるタレントではないはずなのに、恐ろしいほどに役にはまっている。これは配役の妙だろうか。そう言えばこのドラマは他にも長女の新山千春という演技力を期待できないタレントを起用しつつうまく役にはめている。演技力のあるはずの役者を起用しながらそれをことごとくつぶしていた「江」とは対照的である。もっともあのドラマの場合は、主人公を始めとする中心部分に大根揃いだったので、周辺が気張ってもどうしようもなくなっていたが。

 

 出発準備を終えると8時過ぎにはチェックアウトする。今日は複数のグスクを回る予定。車の機動力を最大限に利用しての各個撃破戦略である。

 

 最初の目的地は「伊波城跡」。今帰仁城から落ち延びてきた人々が立てたグスクと言われている。住宅地の奥のひっそりとした山上にあるのだが、ここがとんでもない路地。何度も迷って周辺をウロウロした挙げ句にようやく到着する。入口脇に路駐して石段を登ると開けたスペースに出る。ここにはいわゆる祭壇があり、周辺も石垣で囲っていた跡がある。

   

左 入口部分  中央 入口を抜けると広場、奥に拝所が  右 この看板がいかにも恐い

伊波城から見下ろす市街

 ここも軍事要塞として考えると規模が小さすぎる。このスペースだとせいぜい数十人が立て籠もるのが限界。また東側は天然の崖で要害となっているが、全体としてはそう極端に堅固という地形でもない。やはりこのグスクは軍事要塞よりも信仰の中心地、もしくは政庁の要素の方が強かったのではないかと考えられる。なお整備状況が万全とは言い難く、所々薮化していたのでさすがにハブが恐くて踏み込めなかったところもある(実際に「ハブに注意」の看板も出ている)。

 

 伊波城の次は車でさらに南下、「安慶名城」を目指す。安慶名城周辺は完全に公園化されており、これは楽勝かと思っていたら、安慶名城自体はその背後のそびえる岩山(というか、巨大な石の先っぽが地面に突き出した印象)の上にあった。

左 奥にある山上に安慶名城がある  中央 入口  右 かなり険しい石段を登る

左 奥に入口が見えている  中央 ここが入口  右 入口を抜けると小さな広場、奥に石垣も見える

左 拝所らしきものもある  中央 鬱蒼とした石垣の奥に更に進むと  右 奥にも開けた郭がある

奥の郭

 鬱蒼とした森の中のかなり急な石段を登る。距離は長くないが足元が険しいので要注意だ。これを抜けると岩のトンネルがあり、ここが城門となっている。かなりの要塞である。内部は開けた空間があり、二段のスペースになっているが、その面積自体はそう大きくはない。

  

主郭の一段下に人工的な石垣がある

 天然石を生かした要害であるが、この本丸の下には人工的に石垣を積み上げた空間もあり、明らかに人の手によるものであることは分かる。規模としてはそう大きくはないが、先ほどの伊波城に比べるとより軍事的要塞としての色彩は強いように思われる。

 

 安慶名城の次は「勝連城」を目指す。勝連城はかつてこの地を治めた阿麻和利の本拠とされる。阿麻和利は首里城攻略の野望を持った挙句に、逆に琉球王府から攻められて滅亡したとされる。築年代は古いがかなり大規模なグスクだと聞いている。

  勝連城を遠望

 しばし車を走らせると、やがて前方の山の頂上に巨大な石造建築物が見えてくる。「あれか?」思わず声が出る。予想もしていなかった規模である。近くに駐車場及び休憩所が整備されているのでそこに車を停める。

  

勝連城は一部石垣工事中

 現地は未だに整備中で現在も石垣を積み上げる工事が行われている。それにしても驚くような規模の城郭だ。何よりも高さがすごい。平面的な規模なら今帰仁城の方が大きそうだが、高さは明らかにこちらに方が高い。よくまあこれだけの規模のものをと呆れる。これは間違いなく軍事的要塞である。

左 カーと呼ばれる井戸、これは門口のカー  中央 そびえ立つ城壁  右 これは夫婦カー

左 三の郭を目指して通路を登る  中央 三の郭  右 振り返った向こうの山上が東の郭
 

三の郭 奥の階段を登ったところが二の郭

二の郭には建物跡と拝所がある

左 一の郭から下の郭を見下ろす  中央・右 一の郭にある玉ノミウヂ御嶽

 最上段の一の曲輪まで登るとまさに周囲を一望である。ここはいわゆる見張り台だったのだろうか。主要な宮殿は二の曲輪にあったとされており、確かにこの曲輪には祭壇の跡も残っている。後ろが断崖で堅固、手前には三段に渡って曲輪を連ねた造り、全く鉄壁の防御である。曲輪の規模も大きくかなり兵力を籠もらせることも出来たと思われる。確かにこれだけの城郭を構えた人物は並の支配者ではなかったろう。

一の郭の周辺風景

 

一の郭からの遠望

左 一の郭の裏側は崖  中央 かなり険しく高い  右 遠くには海中道路も見える

 この勝連城は今帰仁城にも匹敵すると思われるのだが、なぜかこちらは100名城には選定されていない。しかしながら私の続100名城には余裕で当選である。やはりまだまだ侮れない城郭はいくらでもある。

 

 勝連城の見学を終えると沖縄3つ目の100名城・中城城を目指して車を飛ばす。この中城城もご多分に漏れず山の中。その途中、国の重要文化財である中村家住宅の案内が目に入ったのでまずそっちに立ち寄ることにする。

 中村家住宅は往時の典型的な農家の建築だという。開放的な建物は南国的だが、表はしっかりと堅固な壁で囲われているのは、防衛的な意味よりも多分に台風対策であるように思われる。本土の農家のように完全に開放的な造りだと、恐らく台風でひとたまりもないであろう。台風用に外壁を巡らせた上で、内部は風通しのために開放的な造りになっているのだろう。そう言えばここが沖縄に来てから初めて見た本格的な木造民家のような気がする。かつての沖縄はこのような住宅が多数あったのだろう。

左 入口からかなり厳重  中央 内部は結構開放的  右 お約束のシーサー

左 これが高倉  中央 ここで豚を飼っていたらしい  右 内部は普通の家です
 

 中村住宅の見学を終えると「中城城」に向かう。中城城は観光地になっているらしく駐車場も用意されている。そして100名城に選定されているからか、ここも有料。入場料を払うと売店で購入したサーターアンダギーをかじりながら城を目指す。

  沖縄菓子と言えばこれかチンスコウ

 中城城は14世紀後半頃に先中城按司が建造した城郭を護佐丸が拡張完成させたものだという。この築城自体は勝連城で勢力を伸ばしていた阿麻和利への掣肘のためだったようだが、護佐丸は後に阿麻和利の謀略で謀反の容疑を着せられて自害したという。なおその後に今度は阿麻和利が王府に反逆して滅ぼされていることから、実はすべてが王府による地方有力者排除のための謀略だったという説もあるとか。確かに一連の乱の結果に誰が最も得をしたかを考えるとあり得る話である。

 

 登っていくと正面にお約束の琉球石灰岩を積み重ねた石垣が見えてくる。こちらの方向は裏門に当たるらしい。お約束のアーチ型の入口をくぐって内部に入るとそこは北の郭。下には井戸の跡も残っている。

左 近寄ってみる  中央 この城門は裏門と言うことになるらしい  右 門をくぐると北の郭

左 左手が三の郭、右手に行くと・・  中央 右手には降りる道があり  右 その先には井戸がある
 

 北の郭の横にあるのが三の郭。それなりの広さを持った曲輪で奥には二の郭の高い石垣が見える。

左 三の郭  中央 三の郭の城壁  右 二の郭の城壁は見上げる高さ

 再び北の郭に戻って先に進むと西の郭。ここは奥深い曲輪らしいが、順路はここから二の郭に登るようになっている(西の郭の奥の方向には進まないようにロープを張ってある)。

   

西の郭の奥には進めないので左手に登っていく

 二の郭はかなり高い位置にある大きな曲輪である。ここの石垣の上に登ると辺りを一望できる。なお一の郭はこの奥にあるが、二の郭と高さは変わらない。

左 結構急な階段を登る  中央 登り切ると右手に一の郭の門が  右 二の郭風景

左 二の郭城壁上から遠望  中央 同じく三の郭を見下ろす  右 振り返って一の郭の城壁

二の郭城壁上から見下ろした北の郭

 一の郭内部は工事中であって、分類のためのラベルを貼られた石が一面に並んでいた。どうやら大規模な発掘調査が行われたようである。ここはかなり広大なスペースで、拝所などもあって城のまさに中枢部であったことが分かる。恐らくここには巨大な建造物があっただろうと推測される。

左 一の郭内部は作業中  中央 広大なスペースに分類した石を並べてある  右 拝所がある
 

 一の郭を抜けると拝所などのあるあまり広くはない南の郭を通ってすぐに正門がある。ここはいわゆる虎口が形成されており、防御に配慮した構造になっている。

左 一の郭から先に進む  中央 右手に虎口が形成されている  右 まっすぐ進むと拝所群

左 虎口から降りていく  中央 虎口から通路は曲がりくねり  右 ここが表門ということらしい
 

 ここの先には広場があり、鍛冶屋跡といわれている場所がある。武具の製造がされていたという説があるとか。

   

鍛冶屋跡

 なおこの先に古代ならぬ昭和の廃墟が見えているのだが、何だろうかと思っていたらかつてのホテルの廃墟だという。後で調べてみたらこれは中城高原ホテルだとか。当初は中城城の一の郭に建てようとして一悶着あった挙げ句、現在の場所に建設されることになったが、建設途中で建設していた企業が倒産してそのまま放置されてしまったのだとか。今ではご多分に漏れず心霊スポット扱いされており、廃墟マニアやオカルトマニアの名所になってしまっているらしい。なお表には「老朽化していて危険なので近づくな」との看板が出ていた。30年以上放置されているらしいので躯体がかなり老朽化していて崩壊の恐れがあるのだろう。こういうのを見ていると、以前に森美術館で展示されていたメタボリズムなんて到底実現不可能だと感じる。

    

城の遺跡の横にあったのは昭和の遺跡だった・・・

 中城城を回ったところでまだ昼過ぎ頃。かなりのハイペースである。さらに車を飛ばすと次は浦添城を目指すことにする。ただこの行程は結構難儀した。まず道が悪い。特に浦添や那覇周辺などの地域は路地が多く、カーナビを使っていても「まさかこの道?」と言いたくなるような路地に誘導されることが多い。その上に先にも述べたがとにかく起伏が激しい。結果として、車が滑り落ちるのではと思われるぐらいの急斜面の路地にUターンに近い回転をしながら入り込むなどという運転が多くなる。ビッツは車体が小さいので運転に不安を感じるほどではないが、やはりストレスの多い運転になる。しかも現地に到着してからの場所が不明。結局は周囲をグルグル回ったり、その間に道路工事に起因する大渋滞に出くわしたり(2月のせいかとにかく道路工事が多い)、結局は惨々時間を浪費してからようやく浦添グスク・ようどれ館に到着する。

  浦添グスク・ようどれ館

 浦添グスクはここからさらに車で進んだところにあるようである。入口前に車を止められるスペースがあるのでそこに駐車して入場する。内部はかなり公園化しているようで、本当にグスクがあったのか?という印象。どうやら第二次大戦の米軍の攻撃でかなり破壊されてしまったようである(地下に日本軍が陣地を作ったらしい)。途中でようどれに降りていく道があったのでようどれの見学に向かう。

 

 「浦添城」は中山王の居城であったと言われている。ようどれはその中山王を祀った墓所である。ここもやはり米軍の攻撃で惨々に破壊されたのだが、最近の修築工事によってようやく甦ったのだという。

 

 ようどれはいかにも沖縄的墓所。玉陵と共通する形態がある。また墓所というだけあって、城とは異なる意味での荘厳さがある。しかしこの墓所を見ていると、つくづく沖縄は本土と違って石の文化だなと感じさせられる。

浦添ようどれ
 

 ようどれの見学を終えると浦添城を見学。しかしやはり印象としては単なる山上公園。一応拝所らしきものは残っているが、どうも城郭としての面影を見いだすのは難しい。一部石垣が修復されているようだが、全体としての防御の構えがない。恐らく地形自体まで先の戦争で変貌してしまったのだろうと推測される。

左 浦添城入口は石垣を復元してある  中央・右 内部はほとんど公園化

左 一番奥まで進んだが先は鬱蒼としているだけ  中央・右 ディーグガマ
 

 浦添城の見学を終えると、次は浦添美術館を訪問することにする。しかしこの道程がまたも路地を縫うようなコース。おかげで途中で惨々迷うことに。どうも沖縄は道路整備がまだ不十分というか、かなりメジャーな施設を訪問するのでも途中であり得ないような路地を通らないといけないシチュエーションが多くて戸惑う。さらには島全体が米軍や自衛隊の基地や演習場で分断されているため、そこにあるはずの場所に大回りしないと行けなかったり、交通の状況はかなり劣悪であることを感じさせられる。

 ようやく到着した美術館はかなり個性のある建物であった。私の訪問時の展示はどこかの大学の芸術系学部の卒業制作の展示と、地元ゆかりの工芸品などの常設展の二本立てであった。工芸品の方はかなりの技術で堪能させてくれる品があったが、卒業制作の方はいかにもという印象で面白くない。

 

 歌舞伎関係者の言葉に「基本となる型を完璧にこなせるようになった上で、あえてその型を崩すことを型破りと言う。それに対して、型を完璧にこなせないものが型を崩すのは形無しと言う。」というものがある。非常に含蓄のある言葉で、実際に現在の自称アーティストの大半は単なる「形無し」であって、それを「俺って斬新」という勘違いでくるんでしまっているのである。デュシャンは芸術家に楽をさせるために便器をひっくり返したのではないのだが、結果としては彼のおかげで多くの怠惰な自称アーティストが氾濫することになってしまったのは歴史の皮肉である。

 

 これでとりあえず今日の予定は終了である。美術館の喫茶で軽く食事を摂ると那覇方向に向かって車で移動する。今日の宿泊予定ホテルはルートイン那覇前島。那覇の中心部近くにあるホテルである。距離は大してないのだが、那覇名物の渋滞で四苦八苦。結構到着までに時間がかかる。

 

 ホテルで一服するととりあえず夕食に繰り出す。今日もやはりかなり疲労が濃いので近くの「ハイウェイ食堂」を訪問する。ここはカツ丼などからステーキなどあらゆるメニューがある24時間営業の大衆食堂という印象。とりあえずガッツリ食いたい気持ちになっていたので「ステーキと伊勢エビのセット(2480円)」を注文する。

 

 出てきた内容はかなりボリュームがある。ただいささか味が大味。特に伊勢エビなどはもう少しやりようがあるだろうという印象である。そう言う点ではアメリカンで、これもいかにも沖縄か。CP的にはまずまず。他の客はステーキを注文している者が多かったようなので、これが定番なんだろう。

 

 腹が膨れるとホテルに戻って入浴。ここのホテルも最上階の露天風呂仕様。これがルートイン沖縄標準装備なんだろうか。やはり生憎と今日もやや寒い。

 

 食事も済ませて入浴も済ませて後は部屋でまったり。最初はこの原稿を書こうと思ったが、やはり疲労が濃くて筆が全く進まない(考えがまとまらない)。諦めてしばしテレビをボーっと見ることに。しかしそのうちに何やら満たされない感がこみ上げてくる。どうも先ほどの食事で物理的には満腹したのだが、どうも精神的に満腹していないようである。身体よりも心の方がもっと沖縄らしい食事を求めているのを感じる。やがていても立ってもいられなくなって夕食第二弾に繰り出すことになる。

 

 訪問したのはこれもホテル近くの「島ごはん」。ここは仙台牛タンと書いてある店だが、私は当然ながらわざわざ沖縄で牛タンを食べる気などない。ここは沖縄食もメニューにあるというのでそれが目的。とりあえずドリンクにコーラを頼んでから、最初に注文したのは「ゴーヤー天ぷら」「ラフテー」

 厚切りのゴーヤーの天ぷらには圧倒される。食べてみると苦い。いかにも私の苦手なタイプの味だが不思議と食べられる。食材が良いのだろうか。ラフテーはいかにも旨そうな豚バラ肉。そのままだと脂っぽくて食べられないのではと思うような肉が、こういう風に料理するとサッパリと食べられるというまさに知恵である。ようやく心が満たされてきた気がしてきたところでさらに「紅芋天ぷら」「軟骨ソーキ」を追加。

 

 紅芋天ぷらは普通の「色の付いたサツマイモの天ぷら」。ただ芋がかなり甘くてうまい。やはり沖縄では歴史的に意地でも「薩摩」芋ではなくて紅芋なんだろうか。軟骨ソーキの方は、こちらもラフテー同様に豚肉なんだが、軟骨がプリプリとしてコラーゲンタップリという印象。この軟骨がまた旨い。これも人間の知恵である。

 

 以上で支払いは2732円。まず納得の内容。腹の方は物理的に満腹を越えてしまって少々大変だが、おかげで心の方がようやく満たされた。よく女性は脳と子宮で考えると言われるが、やはり私の場合は脳と胃袋で考えているのだろうか。そう言えば私が良い町という町は、ほぼ間違いなくうまいものが食べられる町のことである(だから東京と名古屋が嫌いなんだ)。

 

 部屋に帰るとまたベッドでグッタリ。この日も結局は10時頃にはそのまま寝てしまったのである。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝も5時過ぎに目が覚める。やはりまだまだダルイ。正直なところ疲れが抜けていない。それに昨晩の暴飲暴食も祟っていそうだ。しかしだらけてもいられない。さて今日の予定であるが、沖縄南部のグスクの掃討戦である。

 

 グスク掃討に向かう前にまずは琉球王別邸の庭園であった識名園を訪問する。しかしここもアクセス道路がかなり複雑な上に道幅も狭いので、周辺の墓地地帯を何度もグルグル回る羽目になる。そのうちにバスを見つけたので、恐らくこのバスについていけば識名園の近くを通るのではないかとヤマを張ってついていけば、案の定識名園の近くを通過、ようやく目的地に到着することが出来る。それにしても沖縄の道はカーナビがあっても迷うとはまさしく沖縄ダンジョンである。岡山ダンジョンが道路の構造の悪さとモンスターのレベルの高さ(現地ドライバーの運転マナーが劣悪)によってダンジョン化しているとしたら、沖縄の場合はもろに道路自体がダンジョンそのものである。

 識名園は池を中心とした庭園。池にかかるアーチ型の石橋が印象的。南部の森林部分にはかつてはバナナの木なども生えていたらしい。この辺りは若干鬱蒼としているのだが、ここにも「ハブに注意」の看板が。

 

 次は琉球王国の聖地である斎場御嶽を訪問する。ここは本当の西岸から東岸までしばし車を走らせることになる。それにしても沖縄のドライバーはのんびりしているというかマイペース運転が多い。50キロの道を40キロで走る軽トラが後ろに大名行列を従えているという光景によく出くわした。これが沖縄の県民性だろうか。たまに猛スピードで突っ走っている車がいたと思ったら「わ」ナンバーだったりする。

 

 南城市はいかにもリゾート地という雰囲気。その海岸沿いの高地道路を走ることしばし、ようやく斎場御嶽の案内が見える。しかし現地に到着すると駐車場が一杯。グルグル回ってようやく空きを見つけて駐車する。

 

 現地は鬱蒼とした森林地帯で、いかにも聖地めいた雰囲気がある。拝所はその奥にある模様。一番奥にあるのが寄満と呼ばれる場所で、これは台所の意味らしいが、多分お供え所のようなものだろう。その手前の分岐路を行くと三庫埋と呼ばれる場所があり、ここが斎場御嶽のメインステージ。巨大な岩が作った三角形の隙間があり、その奥に海が望める拝所がある。琉球の信仰は海洋信仰で、だからグスクが悉く海が見える山の頂にあるのだろうか。琉球王国は海洋国家であったので、当然と言えば当然のように思われるが。

左 鬱蒼とした中を入っていく  中央・右 その一番奥に寄満(ユインチ)がある

左 ここが三庫埋(サングーイ)  中央 割れ目の奥に拝所が  右 ここからは琉球創生伝説に絡む久高島が見える

 斎場御嶽は観光地としてもメジャーなようで、ツアー客など多くの観光客が訪れていた。ちなみにここも首里城などと共に琉球王国のグスク及び関連遺産群の一環で世界遺産に登録されてある。なおこの世界遺産に登録されている遺跡は今帰仁城、座喜味城跡、勝連城跡、中城城跡、首里城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽の9カ所なのでこれで完全訪問になる。

 

 斎場御嶽の次はこの近くにあるはずの「知念城」を目指す。知念城はここから国道を更に南下し、途中で山を直登する急な坂道を登っていった先にある。道路沿いに駐車場があり、そこからしばし道を外れてしばし徒歩で下っていくと目の前に石壁が見える。

 

 アーチ型の門をくぐると内部はそう広くはない空間。また私の訪問時には何やら工事中であった。石垣は立派でかなり堅固であるが、軍事要塞としてはやや小規模に過ぎる印象。やはり信仰の場という性格の方が強いのだろうか。ここもちょうど海が望めるようになっている。

左 グスク手前のノロ屋敷跡  中 内部は工事中  右 海が見える

左 ここにも拝所がある  中央 裏口から出る  右 この先に御嶽があるとか

 次は糸数城を目指す。しかし糸数城を目指して車を走らせていると、突然にカーナビに「垣花城」なる表示が現れたので予定を変更してそこに立ち寄ることにする。

 

 道路に車を止めて入り込んだ垣花城跡はかなり鬱蒼とした山林。現地看板でも城の由来などは全く不明なのだそうな。正直入っていくのに若干の勇気のいる状態で、今までのグスクの中で最もハブの危険を切実に感じる。とりあえずはわざわざ持参した一脚を持ち出し、これで辺りの地面を叩きながら用心しつつ進む。ただグスクに用いられる琉球石灰岩は多孔質なのでいかにもハブが好みそうな穴が多数ある。

左 石碑が建っている  中央 登り口と案内看板  右 かなり鬱蒼としていて正直恐い

左 ようやく石垣が見えてくる  中央 石垣を登って先に進むと  右 平地の奥に拝所らしき場所が

 内部には明らかに人工の石垣、さらには拝所らしき削平地などもあり、確かにここがグスクであることは理解できるが、とにかく整備がされていないことと鬱蒼としているために全貌を把握するのは困難。しかし雰囲気としてはやはり軍事要塞よりも聖地の趣。とりあえずそう巨大な規模のものではないことを確認して戻ってくる。

 

 次は「糸数城」を目指す。しかしここも入口が分からずに周囲をウロウロすることになる。それにしても私の借りたビッツに搭載してあったトヨタのカーナビは、走っている最中に聞いたこともないグスクを表示したりする割には、検索をかけようとグスクの名前を五十音検索すると全く出てこないし、そもそも観光地などでジャンル検索をしてもグスクは一切ひっかかってこない。どうもわけの分からない仕様になっている。城郭マニア御用達のカーナビはないのか(入口へのアクセスルート及び、駐車可能スペースの表示は不可欠である)。

 

 苦労してようやく見つけた入口は小型車が一台通行可の狭くて急な道。途中で奥から出てきた軽トラと出くわして焦る一コマも(この時は私がギリギリまで端に寄ってようやくかわした)。さらに進むと目の前に立派な石垣が見えてくる。その石垣をくぐったところに広大なスペースがあるのでとりあえずそこに駐車して先に進む。

 

 糸数城はその築城年代は不明らしいが、恐らく例の「琉球三国志」時代の14世紀前半の築城だろうと推測されるとのこと。

左 東側にはかなり立派な城壁  中央 ここが正門跡  右 正門跡から出てみる
 

外側から見た城壁

 ここから東に進んでいくと目の前にかなり高い石垣が見えてくる。この門をくぐって反対側に回り込むと石垣は長さも高さもかなりのものである。どうやらこのグスクは東側の防御をこの石垣に、西側の防御は天然の断崖に頼ったものであると考えられる。防御機構としては単純であるが、内部の広さがかなりあることから、やはり軍事的要塞だったのではないかと思われる。

左 南のこれは櫓台だろうか  中央 かなり北まで城壁が延びている  右 北側の城壁に登ってみた

 糸数城を後にすると向かったのはおきなわワールドなる観光施設。別に観光施設には興味ないのだが、ここには玉泉洞なる鍾乳洞があるというので立ち寄る気になった次第。すぐにたどり着いたおきなわワールドは巨大な駐車場を完備した典型的な観光客ターゲットの施設。観光バスなども来ている。ゲートで入場券を購入するととりあえず玉泉洞に入洞することにする。

  おきなわワールド入口

 入洞してから驚いたのはその規模。かなりの巨大な洞窟である。天井からは無数の鍾乳石が下がっており、その量が半端ではない。ここに来てから初めて一脚とストロボを車内に忘れてきたことに気づいて後悔することしばし。持参のコンパクトカメラも併用したりしたが、こちらは数枚ストロボ撮影するとすぐにバッテリー警告が出る始末。しかも洞窟内は温度も湿度も高いのですぐにカメラのレンズが曇る。とにかく撮影機材が不十分の上にコンディションが最悪なのでかなり困難な撮影となる。

左 玉泉洞入口  中央 かなり深い上にいきなり湿気がすごい  右 内部は相当に広い

一眼レフ長時間露光による苦心の撮影 写真がブレているのは勘弁して下さい

 

 とにかく長い洞窟である。ただ鍾乳石はすごいが意外と変化がないので終盤になってくると疲労も相まってやや退屈してきたのが本音。ちなみにこの洞窟はかつて水没していた模様で、今でも洞窟内部には川が流れている。水が多い洞窟という印象で、これが湿度の高さにもつながっているのか。

コンデジによるストロボ撮影 どうしても画面が白飛びしてしまう

 

 長い洞窟を抜けて長いエスカレータで地上に出ると、そこは王国村の一番はずれ。ここからゲートの方向に王国村を通って戻っていくことになる。この王国村というのは琉球時代の村を復元したものだという。ただ各建物は観光客相手の土産物屋で、しかもゲートに向かう順路がいちいちこの土産物屋の中を通過していくように設定されており、かなり商魂のたくましさを感じさせられて、やや高めの入場料と言いいささか興醒め。

 もう昼時を過ぎているので途中のバイキングレストランで昼食にするが、内部は団体客などが入り交じっての戦場状態で食べるべきものがあまりない惨状。これは正直失敗だったと感じたので早々に退散すると隣接しているハブ博物館を見学。ハブはやはり私が思っている以上の難敵であることを再確認。そのうち、まもなくハブのショーが始まるというので会場の方に向かう。

 

 ハブのショーはかつてはハブとマングースの対決ショーだったらしいが、例の動物愛護団体などから「動物虐待」というクレームが付いて、今はウミヘビとマングースの水泳対決になっている。まあそれではあまりにしまりがないので、施設の方もハブやコブラの生態を説明したりなどショーを盛り上げる工夫は必死でしていたようであるが。とりあえずこれで分かったことはハブの攻撃範囲はかなり広い(周囲360度)ということ。ただジャンプをしないために射程距離は全長の範囲に限られるようなので、とにかく近寄らないということが一番大事なようだ。説明によるとコブラの方が攻撃範囲が前方に限られるため(後ろから攻撃されると全く無防備)扱いやすいとのこと。

左 水泳対決・・・なんだがウミヘビは泳ぐ気0  中央 ハブ登場  右 次はコブラ登場

 なおこのハブショーにはかなり多数の観光客(外国人も多数)が来ていたが、その中に識名園で見かけた記憶のあるカップルの姿があった。彼らの姿は斎場御嶽でも見かけていることから、私と同じようなルートを辿ってきたのだろう。やはり沖縄の観光ルートとなると結構限られるのだろうか。

 

 おきなわワールドを後にすると最後は「佐敷城」を訪問。ここも住宅地奥の路地の先という分かりにくい場所。三山を統一した尚巴志とその父の尚思紹の居城跡と言われているらしいが、現地は拝殿や祠などがあるだけの小規模なもの。また他のグスクのような石垣も発見されていないとのこと。やはり軍事要塞には小規模すぎるので、信仰関係か本当に住居だったのかのようである。

左 階段の上  中央 祠が建っている  右 祠の裏に拝所のようなものが

 これで今日の予定は終了。宿泊予定のホテルグランビューガーデン沖縄を目指す。目的のホテルは本当西岸の埋め立て地のようなところにあるホテル。ホテルの雰囲気はリゾートホテルだが、周囲の雰囲気はリゾートとはほど遠いような。

  アウトレットモールあしびなー

 ホテルの近くには大型の商業施設があり、私の宿泊プランはそこの500円券が付くもの。そこでチェックインしてからその施設を訪ねる。衣料品店を中心に多くの店舗が入店したいわゆるショッピングモール。とりあえず土産物購入すると喫茶で一服。さらに夕食としてて寿司を食べる。

左 黒糖パフェ  中央 シークワーサージュース  右 大東島名物の漬け寿司(ネタは鰆と鮪)

 さらに先日から調子の悪かったマウスがとうとう完全に死んでしまったことから、近くのヤマダ電機で新たにコードレスマウスを購入。隣のショッピングセンターをのぞくとA&Wがあったので、名護では勇気がなくてパスしたルートビアに話のネタとして挑戦してみることにする。

  沖縄の地場ドリンク・ルートビア

 ルートビアは一見するとコーラのような飲み物だが、一口含んだ途端に感じるのは強烈な甘ったるさ。これは砂糖の甘みではなくてバニラの味のせいのようだ。そしてその次に来る後味が・・・サロンパス。実はルートビアの味については私は以前に「飲むサロンパス」と聞いていた。沖縄には貼る・塗るについで第三のサロンパスとして飲むサロンパスがあるのだと。その時は「?」だったのだが、確かに実際に飲んでみるとサロンパスとしか表現のしようのない味である。ゲップが出ても見事にサロンパスの味がする。口当たりは甘ったるいバニラフレーバーで、後味はサロンパス。確かに強烈に個性のある飲み物である。コーラを初めて飲んだときも癖のある飲み物だとは感じたが、決して抵抗は感じなかった。それに比べるとこれはもろに抵抗を感じる。これでも何度か飲むと慣れるのだろうか。しかし私としては「慣れるほど飲む気もしない」というのが本音であった。なお翌日になって「飲むサロンパス」という表現はあながち誇張ではないのではと思った。というのはなぜか肩こりがとれたのであった(笑)。

 

 さてホテルに戻ろうかと思ったが、やはり夕食が寿司だけだといかにも腹具合が中途半端であることに気づいた。しかもファーストフードに立ち寄ったせいか急にフライドチキンが食べたくなってきた。沖縄にいると食生活がアメリカンになってきたのだろうか。そこでカーナビで検索すると一番近くのケンタは2キロ先とのこと。そこで2キロ走ってケンタまで行ってくる。

 

 ホテルに戻るとフライドチキンを平らげてから大浴場に向かう。ここの大浴場は内風呂と露天風呂の構成。今日は昨日よりも暑いので露天風呂が快適。連日の一万歩越えの疲れをじっくりと癒す。

 

 入浴を終えて部屋に戻ってくるとまた例によって強烈な疲労感が襲ってくる。結局はこの日も10時前に就寝したのである。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝の起床は6時頃。ホテルの朝食バイキングで腹を満たすと早めにチェックアウトする。今日は本島南部及び、先日に立ち寄りもらしたグスクの掃討戦である。

 

 まずは南に向かってしばし走行、立ち寄ったのは「南山城」である。ここは小高い丘の上にあるグスクで、かつての敷地は今は一部が小学校や中学校の敷地となっている模様。どうも往時の規模をはかりかねる。ただかつて三山が統一された時に、ここが最後まで残ったグスクであるとのことであるので、軍事拠点の要素はあったのであろう。しかし今では拝殿らしきものは残っているが、単に小学校のグラウンドの隣の少し荒れた広場という趣に過ぎない。

 

内部はかなり鬱蒼としている

左 回りの石垣は立派  右 かなり鬱蒼としていて広さもそこそこ

左 隣は学校のグラウンド  中央・右 拝所らしきものは随所にある

 南山城の次はひめゆりの塔を訪ねることにする。ひめゆり部隊の悲劇は沖縄戦の悲劇の中でも有名なものである。戦場に看護婦として動員された女学生たちは地獄の戦場の中で戦いに巻き込まれてその多くが犠牲となる。彼女たちの動員された野戦病院はもはや医療機関と呼べるような状況ではなかったという。未だに沖縄戦での集団自決は嘘だなどと主張している戦争美化したいらしい頭のおかしな連中が一部にいるが、彼らでさえひめゆり部隊の悲劇は否定できないようで、国のために殉じた崇高な少女たちとしてその死を美化することで戦争の美化につなげようとしているようであるが。

左 慰霊碑(ひめゆりの塔)  中央 その脇にひめゆりの塔(終戦翌年に付近の村民が建てたもの)  右 これが当時の外科濠

 慰霊碑に献花すると隣にあるひめゆり記念館を訪問。戦争の悲惨さという単純な事実に打ちのめされそうになる。いくら言葉を尽くして戦争を美化しようとしても、戦争とは基本的に単なる人殺しであるという本質は否定しようがない。それにも関わらず、なぜ躍起になって戦争を肯定しようとする輩がいつもいるのか。やはり戦争はごく一部の者たちにとっては儲かるビジネスというのも真実らしい。世界から戦争をなくそうとすれば、その体制を根本的に打破する必要があるのだろう。ただそれはなかなか困難である。何しろ今回の震災でやはり原発は危険なものであるということが明らかになったにも関わらず、未だに利権のために原発を作り続けたいと考えている半現実逃避のような輩がまだいるぐらいなのだから。21世紀になっても人類はまだその愚かさを払拭できていないのである。

   平和祈念資料館

 やや重い気持ちでひめゆりの塔を後にすると、平和祈念公園に立ち寄る。しかしこの施設は慰霊塔などの集合体のようで、私のような観光客が遊び半分で行く場所ではないという印象。売店で紅芋ソフトを購入しただけで撤退することにする。

  紅芋ソフト

 カーナビでの次の目的地は玉城城になっている。しかしナビに表示された具志川という地名を見た途端に、今日立ち寄る予定だった具志川城のことを完全に忘れていたことを思い出した。そこで引き返そうとしたところ、前方に「多々名城」という名称が表示される。これは全くノーチェックのグスク。そこでまずそこに立ち寄ることにする。

   

多々名城はこの山の奥らしいのだが・・・

 多々名城は海近くの鬱蒼とした山の上にあるらしい。しかし案内板を見てもアクセスするルートがあるように思えない。近くをウロウロしていると自然遊歩道なる表示があり、案内看板によるとそのルートの近くに多々名城の表示があったのでとりあえずそこに入ってみることにする。

  自然遊歩道入口から突入する

この看板の記述をあてに進んだんだが・・・

 しかし入ってみるとそれはとんでもない道だった。遊歩道とは言うものの、実際は鬱蒼としたジャングルの中を進む道。どこからハブが飛び出してくるか分からないような危険を感じるルートである。道の脇にはところどころ拝所ではと思われる箇所もあるのだが、あちこちに塩盛りがされているのがかえって不気味。

左 入口からやや不気味  中央 中にはそれっぽいところもある  右 しかしこれって・・・

左 本当に遊歩道?  中央 いきなり前方を塞がれる  右 何やらあるっぽい雰囲気もあるが

左 確かに拝所らしきものもある  中央 しかしこれはただのジャングル  右 この先に多々名城が・・・ってこんなところ進めるか!!

 薮や蜘蛛の巣を払いつつ、ようやく「ここの左手が多々名城」という表示のある場所までたどり着いたのだが、その方向はとても入っていくことは不可能なジャングル。もしハブの危険がなかったとしても、ナタがないととても進めそうにない。この時点で撤退を決意して引き返すことにする。

 

 どうもとんでもないところに入り込んでしまったという印象である。とにかく沖縄では放置された山林は単なる薮ではなくて一気にジャングルになってしまう。やはり未整備のグスクは観光客ではなくて川口浩探検隊の世界である。とりあえずグスクの本体は発見できず、何かがあったらしき痕跡を感じたというだけであった。

 

 ここで今までの道を折り返すと「具志川城」に向かう。具志川城はひめゆりの塔を過ぎてさらに南方の海岸沿いに出たところ。手前に駐車可能スペースがあるがやけに多くの車が止まっている。内部で工事が行われているようで、その工事関係者の車両とここでダイビングをするダイバーの車のようである。

 

 具志川城は海に突きだした海のグスク。背後は海で手前を石垣で囲ってある。見る限りではそう大きなものではないが、防御の堅さという点では軍事的意味も持っていたように思われる。なお今までのグスクがことごとく山城であったことから、その点でこのグスクは異彩を放っている。

左 ここが門跡か?  中央 本体は何やら工事中  右 海だ!!
 

左・中央 それにしてもすごい岩場  右 後ろを振り返る

 具志川城の見学を終えると改めて「玉城城」を目指す。玉城城は先日訪問した糸数城の近くなのだが、先日に立ち寄りもらしていたグスクである。同様にこの地域の大里城が次の目的地。この辺りはグスクが立て込んでいるので、グスクロードなどとも呼ばれているようである。

 

 玉城城はかなりの高地にある。現地に到着すると大型クレーンが出ての工事中。見学が不可能かと思ったが、どうにか見学はできる模様。

左 登る途中に拝所らしきもの  中央 クレーンによる工事中  右 ここが門

左 中でも工事中  中央 拝所らしきものがある  右 門の中はかなり狭い

 玉城城は高地上の城壁に囲まれたグスク。城壁はかなり立派であるのだが、その内部はかなり狭い。ここも信仰がメインのグスクか。それでなかったとしたら、周辺に防御施設があるのかもしれないが、私の訪問時にはそれは確認できなかった。

 

 次は「大里城」を目指すが、ここも現地近くにきてから入口が分からずにウロウロ。今までの経験から、もしやと思って一本の路地に入り込んだらそれがビンゴ。ようやくたどり着くことができる。

左 グスク手前のチチンガーなる井戸  中央 かなり広い  右 これは何かの冗談か?

左・中央 奥に小高いところがある  右 南国の花咲乱れるグスク

左 拝所らしきものもある  中央 小高いところを登ると  右 市街を一望
 

 大里城は広大な広場になっている。石垣があったような痕跡もあるのだが、石材はどこかに持ち去られたのだろうか。奥は断崖であるので防御も堅い。これもおそらくかつては軍事拠点だったと推測される。

 

 最後は豊見城に寄って終わりにするべく車を走らせる。しかしその道程の途中で今度はカーナビに「長嶺城」なる表示が現れる。レンタカーの返却時間にはまだ余裕があるので急遽そちらに予定変更する。しかしここも例によって近くに来てからUターンもできないような路地の連続でウロウロする羽目になる。散々迷ったあげくに幼稚園の裏手にあるのを見つける。

 

 ここはかなり小さな丘の上にあるグスク。2カ所ほどの小さな平地があって、そこには祭壇らしきものが作られている。これも例によっての信仰中心のグスクのようである。

左 鬱蒼とした中を登る  中央・右 平地の奥に拝所らしきものが

左 さらに上に登る  中央 この平地奥にも拝所らしきものが  右 ここにも拝所
 

 長嶺城を後にすると「豊見城」を目指す。豊見城は町の中の小高い山の中にある模様。しかし入口らしきところには「閉園」の看板が立っており、内部の見学はお断りと書いてある。山の周りを一周してみたが、裏手には火葬場があるだけで入口はここしかなさそう。後で調べたところによると、どうやらここはスポーツ施設になっていたようだが、経営していた会社がつぶれてしまったようである。なお内部にはグスクはあるのだが、先の戦争でかなり改変されて破壊されている模様。何にしろ私有地になっているぐらいだから保存状態は期待できないだろう。

  この山の上が豊見城らしいのだが・・・

 最後になっていささか尻切れトンボの感になってしまったが、これで一応は全予定の終了である。今日は午後6時の便で帰ることになっているので、それまでに車を返却して空港に移動する必要がある。

 

 とりあえず車の返却のためにDFSギャラリア目指して車で移動する。おもろまちに到着したのは3時頃。まだ出発までにかなり余裕があるので、サンエーに入って適当に昼食を摂ることにする。とりあえず目に付いた「和風亭」に入店して「豚しゃぶセット」を注文。

 

 ショッピングセンターの飲食店ということで全く何の期待もしていなかったのだが、予想に反して結構のボリュームのある鍋セットが登場した。味もまず合格点。これは予想外であった。沖縄の飲食店はなかなか侮りがたい。

 

 昼食を終えたところで車を返却するとモノレールで空港に移動、飛行機で帰途についたのであった。なお長時間の疲れるフライト(しかも乱気流で揺れた)の末にたどり着いた神戸空港は身に染みるような寒さで、沖縄では完全に忘れていた四十肩が早速復活してしまったのであった。

 

 なお現地では元気なつもりでいたのだが、やはり二日前まで高熱で寝ていた挙げ句に無理を重ねたという事実は体に覿面に跳ね返ってきており、これより一週間ぐらいはかなり消耗した状態が続いてしまった。やはりかつてほど無理が利かなくなっていることを認めざるを得ない。「認めたくないものだな、年齢故の衰えとは・・・」。

 

 とにかく本遠征でようやく全県制覇達成である。また100名城もいよいよ静岡の山中城を残すのみとなった。何やらとりあえずのゴールのようなものが見えてきた今日この頃である。その一方で私の人生自体は相変わらず先には何の希望的見通しもない・・・。

 

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